とりぶみ
実験小説の書評&実践
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【小説】砂漠ではキリンが雨を呼ぶ   (2014/07/30)
長いです。原稿用紙300枚以上あります。

前回の書評と併せて読むのが吉。
マジック・リアリズムが好きな方におすすめです。








マークⅠ
 彼らの旅は初めは順調だった。イギリス国内で有志を募って企画されたアフリカ冒険旅行の初日、ケープタウンで撮影した一葉の集合写真にもそれは表れている。これから始まる冒険に対する期待でみな笑顔だ。旗に掲げる団体名は「マークⅠ(ワン)」。リーダーのかつての愛機から命名された。
 写真中央に陣取るのは旅のリーダーを努めるデヴィッド・ワッツ。元空軍の四十がらみの筋骨逞しい男でアフリカ旅行の経験も豊富。
 デヴィッドの左隣はお茶好きのドナ。ケープタウンでガイドとして雇われた黒人の女の子。
 ドナの左隣はニコチン中毒のハリー・ラグ。キャンプの設営やバスの運転など非常に頼りになる男だが暇さえあれば所構わず煙草を吹かすのが非喫煙者からは不評。
 ハリーの左隣はしっかり者の姉サベラ・クラウンと奔放な妹プリシラ・クラウン。特定のパートナーに落ち着くことのない恋多き妹を既婚の姉は少しうらやましく思っている。
 デヴィッドの右隣は年若い夫婦であるジョニー・ヴェイカントとスージー・ヴェイカント。スージーの口うるさい母から逃れるために休暇を利用してこの旅に参加した。
 スージーの右隣は共に五十台のテリー・ウォータールーとジュリー・ウォータールー。孤独な夫婦で、友人を見つける目的で初めてのアフリカ旅行に挑戦した。
 そして写真には姿の見当たらない、なぜなら写真を撮影していたトム・ラグ。ハリーの弟で、やはりニコチン中毒だ。兄と交代で運転や力仕事を担当する。
 彼らマークⅠの旅は順調だった。最初の一週間は。南アフリカのケープタウンを出発し北上した。大型トラックを改造したバスでの貧乏旅行、ハリーとトムが交代で運転をする。スケジュールはデヴィッドが管理し、その他のメンバーが当番で食事の支度をする。女は食材や生活用品を買い出したり、男はキャンプを設営する。こういった生活に馴染みのない人たちも徐々に慣れていった。見知らぬ土地の異国情緒を頭の天辺から足の先まで全身で堪能した。すぐにほぼ全員の体臭が暗黒大陸になった。埃臭さや腐敗臭や他人の汗の臭いが鼻に衝かなくなった。悪いことではなかった。
 途中、野生動物が我が物顔で歩くゴルフ場でホールを回った際、池の水際でテリーがワニに襲われそうになったりもしたが概ね平和だった。暑さも飯のまずさも気にならなかった。気候は彼らの予期していたよりは穏やかだったし食事に関して言えばイギリスのそれより幾分かはマシだった。
 アフリカを訪れたことのない人間の大半はこの大陸に関してステレオタイプな知識しか持ち合わせない。
 すなわち、「赤道付近には熱帯雨林を配し、北部と南部には風紋以外に何の変化もない不毛の砂漠が広がり、境界には野生動物の暮らすサバンナがある」
「どこもいつでも暑い。緯度も昼夜も問わず灼熱の気温」
「原始時代からそこに留まる黒人が数万年の貧困に喘いでいる。アフリカ全土を見回してみても文明は見当たらない。中東に近い砂漠にピラミッドがあるがそれは遠い昔に滅びた文明の遺跡だ」
 こういった認識は、アフリカの地図を上からざっと眺めただけの不正確な認識でしかない。挙げ句の果てにはアフリカ全土にはイギリスと同程度の人口しか暮らしていないように脳が錯覚する。直にその大地に立って直に光を見て直に空気に触れなければ真のアフリカを知ることは永久に出来ない。
 マークⅠはアフリカを知り始め、アフリカに同化し始めた。少しずつ、肌が日に焼けていくのに伴って。
 定番の観光地以外では偉い軍人の墓が印象に残っている。墓標はなく、半ば朽ちかけた説明書きの看板が立っていた。侵略戦争時、不死身と恐れられた、ウィルソンと言う名の少佐。その最期の地がここだ。少佐はロードローラーで轢き殺され、真っ平らにされた。その上にアスファルトが舗装された。まだ生きているかも知れないので、永遠に閉じこめるためにそうしたのだそうだ。そしてそこは車道の一部となった。少佐の上をたくさんの車輌が通過した。長い年月に渡って様々な排気量の自動車が蹂躙した。そしてその後車の往来が絶えてからも──つまり、道路が封鎖されて年月の経った今でも、アスファルトは敷かれたままだ。再開発が進み、かつて道路だった場所が住宅や公共施設や公園などに生まれ変わっても、当該の一区画だけは当時のままのアスファルトが残されている。周囲は緑地帯なのに少佐の寝床だけが黄色い中央線のかすれた黒い路面なのは奇観である。もしかしたら生き返ってしまうかも知れないという懸念から、彼の遺体を地表に出さないよう、石棺をされているのだ。トムの友人のマッケンジーが、亡くなった父親の収められた棺桶を厳重な取り扱いで運んだのと似ているかも知れない。かつてマッケンジーはこう語った。
「俺の親父は最低の父親だった。昼間から酒を飲み、ちっとも働かず、お袋に暴力ばかり振るっていた。ポックリ死んでくれた時はお袋と姉ちゃんと一緒に声をひそめて喜んだ。心底喜んだ。奇跡的に生き返らないうちに早く火葬してしまいたかった。──経を上げに来た神父の声が大きいもんだからヒヤヒヤしたもんだ、親父が目を覚ましちまうんじゃないかと思って。で、いざ出棺って時も、どこかにぶつけた拍子に生き返ると行けないから、そおっと運んだ。完全に死んでるんだけど、もしも、もしもの場合に備えてさ」
 彼らの旅は順調だった。旅の五日目、ナミビアに入国してもしばらくは順調だった。ナミビアは南アフリカから一九九〇年に独立したが、南アフリカの一部となるさらに昔にはドレルシュカフやポニュケレといった小国が乱立し、それぞれ黒人の王が統治していた。面積は八十二万平方キロメートルで、これはイギリスの国土の三.四倍である。が、人口密度の低さはモンゴルに次ぐ世界第二位で、一平方キロメートルあたり二人しか人が住んでいない計算になる。年間降水量は百ミリメートル前後で大地は乾き切っており、世界最古のナミブ砂漠などの荒涼とした無人の乾燥地帯が続く。南アフリカでは多く見られた花や緑がナミビアに入った途端に激減した。イギリス人が国境線を跨いだせいで植物が枯れ果てた。道路までが枯れたようだった。
 お世辞にも立派とは言えない舗装道路を延々と進む。路面状態でバスがガタピシ揺れてとても本などは読めない。それで窓外の景色を眺めてみるのだが、まるで面白くない。トムは自分が昔のモノクロ映画の中にいるような気分になった。白黒でこそないが基調となる色は茶と緑の二色しかない。その二色を基調とした単調な光の世界。例外的に空だけがカラフルだった。見上げれば青と白がある。夕方になれば西は橙から血の色に変化する。陽が傾き始めるとあっと言う間に夜を迎える。宵闇は紫で夜色は群青だった。夜明けは白く、朝焼けは黄から赤に変じてやがて再び青くなる。
 マークⅠの旅は順調だった。少なくとも、ついさっきまでは。彼らを乗せたバスはフィッシュリバーキャニオンと呼ばれる峡谷を左手に見ながら北上を続けていた。五百メートルの深さの谷が百六十キロメートルも続く壮観なのだが、誰しもがすぐに飽きた。南アフリカもナミビアも車道はイギリスと同じ左側通行なのでフランスを走行する時のような新鮮味もない。
 思えばこの辺りからすでに星の巡りが狂って来ていたのだ。オレンジ川を越してからというもの風景ばかりか心模様も色褪せ乾燥したかのようだった。早くトワイフェルフォンテインに着くことを願う。
 トワイフェルフォンテインはナミビア唯一の世界文化遺産だ。赤茶けた岩場地帯で、狩猟民が岩の平たい部分に野生動物を削り込んだ二千年以上前の壁画がたくさんある。正確な描写の絵が多く残されているということは昔は泉か何かが近くにあって多くの動物が訪れたのだろう。宗教行事を行なう場所だったという説もある。写実的なキリンの絵もある。キリンは雨を呼ぶ象徴として崇拝されており、描くことによって雨乞いをしたと考えられているそうだ。また、動物の足跡とその象形を併記することで、狩りの仕方を子孫に伝える学校としての役目も果たしていたと言われる。
 と、こういうことを解説しても今はただ虚しいだけだ。彼ら一団がトワイフェルフォンテインに辿り着くことはなかったのだから。
 現在から過去を振り返って審判する時、正常な星図の配置を乱したのはプリシラだったと断罪できる。ハリーとトムに急速に接近し、他の人が無言の嫌悪感を丸出しにしてもその馬鹿笑いを決してやめなかったプリシラ。車内に充満する迷惑の空気に気づかなかったのか気づいていて受け流したのか、妻帯しているジョニーをも誘惑したプリシラ。ジュリーがはっきり言葉で諫めても真に受けずラグ兄弟を抱き込んで夫人に対しての聞こえよがしの陰口を叩いたプリシラ。ああプリシラ。彼女が海を見たいなどと我が儘を言わなければ、マークⅠ一行はエジプトのピラミッドを見上げながら旅の終わりを名残惜しむフィナーレを迎えていたかも知れない。
 プリシラによる海行きの提案にデヴィッドは強固に反対した。スケジュールが狂うし、予定に無い行程ゆえ道もよく分からなかったからだ。その頃にはプリシラの色香にすっかり毒され実兄弟でありながら穴兄弟にもなっていたハリーとトムも気乗りではなかった。ガソリンを浪費するというのがその理由で、砂漠の真ん中でガス欠になるのを恐れたからだ。腰の重いテリーも勿論反対した。だが、女性陣がプリシラの思い付きに荷担した。決定的に仲違いをしたウォータールー夫人以外の女、つまりサベラとスージーとドナが、海に行くのは名案だと誉めそやした。デヴィッドは態度を硬化させて反対派の旗手として頑張ったが、その時運転台に座っていたハリーは済し崩し的にハンドルを西へ切った。車内の空気も何となく少しくらいの寄り道も良いではないか的な流れに傾いていた。これは旅の出鼻から変化の乏しい国に連行してうんざりさせてくれたデヴィッドに対する腹いせであったかも知れない。
 海に出るには世界最古の砂漠と言われるナミブ砂漠を越えねばならない。砂質はどこも均一なわけではなく、地域によって大きく異なる。だいたい黒白赤の三色に大別できる。黒い砂に覆われた場所はムーンランドスケープと呼ばれ、まるで月面世界のような景色が広がっているのだが、これはナミブ鉄道とエトーシャ国立公園の間──つまりナミビア北部に横たわっており、マークⅠがそこまで辿り着くことはなかった。
 マークⅠが目にしたナミブ砂漠はほとんどが白い砂だった。どこまでも続く砂砂砂。サベラが「蟻に変身させられて、砂浜に放り出されたような感じ」と評した通り、巨大なビーチの様相である。今まで以上に飽きの来る風景に車中は砂のような沈黙に埋(うず)まる。舗装道路はもちろん無い。運転台ではラグ兄弟が荒波に漂う船舶を操るような懸命さでバスを進めていた。煙草の本数が減る。かすかに残る轍をなぞるように、少しでも硬そうな地面を選んで座礁しないようハリーが慎重に舵を切る。
 途中、ソフスレイと呼ばれる赤い砂の砂丘が見えてきたのでバスを停めてみんなで上ってみた。最も高い場所で三百メートルもある巨大な砂丘だ。足下の砂を崩すと、その崩落が上へ上へと上っていく。砂が実に細かい証左だ。生物はいない。生物がいないということは黴菌や微生物の類もいないということで、無菌状態の清潔な砂がどこまでも堆積している。ドナに言わせればここにもトカゲやサソリなどの虫が濃霧からの水分だけで生き延びているそうだが、それは所詮は百科事典の中に書かれた世界であって、現実を正確に写し取った物ではない。ここには生は存在しない。
 かすかな風の音しかせず、のんびりするのには打ってつけの場所だったが、あまりゆっくりしては海に着く前に日が暮れてしまうので長居はせずに再出発する。
 トムは帰りの燃料が少し心配になった。本来の燃料タンクと同じサイズの巨大な予備タンク、そのまた予備である大型タンクを含め全て満タンであり、ふんだんに用意されているものの、砂漠はあまりにも広大だった。面積は五万平方キロメートルで、これはオランダよりも広い。トムは帰りの燃料が少しだけ心配になった。そしてその不安はのちのち見事に的中した。だがこの時点では誰もまさか燃料が不足するとは思わなかったし思いたくもなかった。砂ばかり際限なく続く不毛の大地に取り残される恐怖は、ちらりと想像するだけでも耐え難い恐怖だった。
 ラグ兄弟の必死の努力の甲斐もなく、時折柔らかい砂にタイヤがめりこんで立ち往生をした。その度に乗組員総出でタイヤを掘り起こし、シートを敷いて脱出する。その作業を三度経験し、数十キロ走った所で砂質が白い砂に変わる。
 見渡す限り白い砂しかなかったが、テリーが妙な物を見つけた。無数の小石で円形に囲まれた枯れ草。明らかに人の手によって飾られていた。
「何かの目印か」「ちょっと降りてみようよ」
 まるで植物の死骸を悼むお墓のようだった。しかしそれは、ガイドのドナによれば奇想天外(ウェルウィッチア)という名の立派な植物だった。萎れた葉っぱが事切れて地面に落ちているだけのように見えるが、立派に生きているそうだ。十メートル近い根が地下水を汲み上げ、表面積の広い葉が空気中の水分──大西洋から吹き寄せる霧を吸収する。このような苛酷な環境にありながら、寿命は信じがたいことに五百年から二千年。水分と日陰を求めるカメムシなどが葉の中に棲み、虫たちは雄株と雌株の受粉を助ける。動物が食べても消化できない皮に護られており、食料に乏しい砂漠にあっても動物から食べられることがない。多くの若々しい葉が見えるが生涯伸び続けるのは二枚だけで、その永久葉は溶岩のようでちょっと葉っぱには見えない。
「小石で囲まれていたのは、次に訪れた観光者が気が付くように配慮してのこと?」
「そうかも知れない」
「貴重な植物だから車に轢かれないようにしたのかも」
「なるほど」
 珍しい植物を見てマークⅠの雰囲気は多少和んだ。しかしそれも一時のことだった。車に戻るとマークⅠの吐呑する空気は再び澱む。
 車内の沈黙が砂から細石(さざれいし)へと固まっていく過渡期、ようやく地平線の向こうに光の反射が見えてきた。車内の空気もにわかに色めき立つ。海だ。海だ。
 一番はしゃいだのは意外にもテリーで、素っ頓狂な声を挙げてジョニーと背中を叩き合う。女性陣は鳥のように窓にかじり付く。デヴィッドですら満更でもない。
 水分を適度に含んだ砂は硬く、バスは浜辺まで足を取られることなく突き進む。ちなみにこの海岸は濃霧のためしょっちゅう船が座礁したり鯨が打ち上げられる浜で、世界に名を馳せていたイタリア人女優アディノルファらがかつて難破したのもこの辺りだった。マークⅠも船旅を選択していたなら遭難劇の皮切りとしてはこれ以上望むべくもないドラマチックな幕開けとなっていただろうが実際には後述する通りのガス欠である。
 大西洋を望む海岸は岩だらけで、凶暴な波が白い刃先を間断なく砕けさせている。一行はバスを降りた。海風が頬を叩き、磯の香が鼻腔を撫でる。濃い霧が周囲を席巻する。砂の海は数分でげっそりするのに、潮の海は何十分眺めても食傷しないのは不思議だ。
 彼らは窮屈なバスの車中で凝り固まってしまった身体と心をほぐそうと、思い思いに羽根を伸ばしたが、しばらくしてサベラが不審そうな声でみんなを集めた。彼女の指差す方、岩がもぞもぞ動いている。さすがアフリカまで来ると岩さえも生命を持つか。一同は驚嘆の念に打たれながら岩場に近付く。
 動く岩の正体を最初に喝破したのはデヴィッドだった。岩場は岩場だが、動いているのは岩ではなく、この辺りの海岸に暮らすミナミアフリカオットセイだった。
 大変な数だ。岩の上を埋め尽くしていて、見える範囲ではその切れ目が確認できない。一つのコロニーに十万頭が寄り集まるというから海岸線の向こうもオットセイで埋め尽くされているのだろう。感動を通り越して気味が悪くなった。十人は一万倍の数の巨獣の群れに圧倒されて立ち尽くす。海は白く煮えくり返り地上は黒く沸き立っていた。群れの中に点在している一際大きな個体がオスだろう。たった一頭でメス百頭を従えてハーレムを形成するというが相当な精力絶倫なのだろう。ジョニーが羨ましそうに目を細める。そんな夫の様子を察してスージーが苦々しげに歯噛みする。
 とその時だった。セグロジャッカルが徒党を組んで丘陵の向こうから現れた。柄の悪い足取りで遠慮なくオットセイに近付き、盗賊のような視線で獲物を物色し、そして、狙いを定めたのだろう、一頭の赤ん坊にちょっかいを出し始めた。中型犬ほどの大きさの赤ん坊は怯え逃げ惑い、大人たちの巨体と巨体の狭間に身を隠そうとする。怒り心頭の母親が鬼の形相で強盗どもを追っ払う。しかし、狩りの陣形を敷いたジャッカルは見事な連係プレーで母と子を翻弄する。
 勝負は一瞬で決まった。一匹のジャッカルが母親の注意を惹いたその隙に、別のジャッカルが赤ん坊を鷹の如くかっさらった。ハンターとデブの足の速さは歴然としている。晩飯の首根っこをくわえた最優秀選手を先頭に、ジャッカルたちは一目散に退散した。
 ジャッカルが海岸に現れてからこの間、たったの五分。惨劇を目の当たりにしたスージーは泣いてしまった。夫ジョニーが慰め、サベラとテリーも加わる。その様子を見ていたトムは小馬鹿にしたような表情で煙を鼻からたなびかせる。兄の方は煙だけでは物足りなかったと見え、直接言葉にしてスージーの純真さを侮蔑する。
「ジャッカルだって必死なんだ、オットセイの子供を狩らなければ食っていけない。他に何か腹を満たす物がこの砂漠にあるか? 巨大な敵にあえて挑む危険を冒さなければジャッカルは生きていけない。ジャッカルの略奪行為は誉められこそすれおまえに非難される筋合いは無いよ。責められるべきは子供を守れなかった親の愚鈍だ。おまえみたく、大自然の営みにてめえの杓子定規を押し付けて偽善の涙を流すのは糞にも悖る人間のエゴだ。吐き気がするぜ」
 あまりの言葉にスージーは呆れてしまい、その涙を音を出して引っ込めた。
 ジョニーとハリーの間には一触即発の空気が帯電して見えない青い火花を散らす。今にも殴り合いの喧嘩となりそうだった。
 年かさのテリーが機転を効かしてジョニーの手よりも先に自ら口を出し、ハリーの非情を罵ることで場を収めた。
 この諍いにトムは参加しなかったがもちろんハリーの意見に賛成だった。オットセイの赤ん坊が一頭死んだくらいで泣くのは感傷的すぎる。然り。この先オットセイの赤ん坊どころか人間の赤ん坊がゴロゴロ死ぬわけだし、獣ごときの日常的夭折を悼んでいる場合ではない。
 険悪なムードの中、誰が言い出すともなく一行はバスに戻り始めた。デヴィッドは険しい溝を眉間にこしらえ、スージーはジョニーに肩を抱かれ、ラグ兄弟は下世話なジョークでげらげら笑いながら。
 そしてバスまで戻ってきて海岸の方を振り返ると岩が動いているのが見えた。オットセイではなかった。正真正銘の岩だった。蠢くような粘り気のある上下動だった。もはや戻る気力は無かったし、どうせ近付けばオットセイに襲われる可能性があるので確かめられなかったが、トムは「辺境の地では不思議な現象もあるものだ」とぼんやり考えた。
 仲間割れは免れたが破滅に向けて足下の砂は着々と崩れていた。車内では女性陣によるハリーへの悪口が低い羽音のように続いた。それがあまりにしつこく繰り返されるので閉口した男性陣がその気はなかったのにラグ兄弟の肩を持ち始めたりもした。延々と繰り返される罵詈雑言にデヴィッドも嫌気が差し、運転能力を例にとってハリーの弁護をした。また、プリシラが新しい火種を撒いた。ジョニーを意気地なしと糾弾したのだ。普段は控え目なドナでさえもが油を注ぎ人間関係はすっかり炎上した。
 バスの背後で太陽が沈み始めた。陽炎にその身を暈かしながら砂丘の向こうで溶けていった。砂漠の夕陽は紫色だった。太陽から溶け出した紫が、重力を逆転したように上に向かって流れ出し、空を群青色に染め上げた。大気中の水分が濃紺を含んだ。世界は闇に沈んだ。
 遭難の危険を避けて砂丘の陰で野営することがデヴィッドによって決定された。男たちが柔らかい砂に苦戦しながらテントを張った。女たちが良からぬ噂話を小声で交わしながら料理を作った。
 砂漠の夜は寒暖の差が激しいと言われるがそれほどでもない、過ごしやすい、穏やかな、静かな夜が更けて行った。砂による着色で可視化されていた風さえも眠りに就き、動く物は彼ら人間の呼吸器と太古の星の瞬きのみという砂地の上で、文明的な最後の晩が微睡んでいった。
 眠りのせいで人間たちが人間たちの意識を喪失した時、ジュピター、サターン、オベロン、ミランダ、ティターニア、ネプチューン、タイタン、そして星座が音もなく暴れ出した。



我が人生に君を得ねば
 まぶたを透過してくる光によって釣り上げられ、トムは眠りの底から浮かび上がった。普段と変わらぬ起床だった。そしてそれに続くいつも通りの朝の営み。女たちが簡単な朝食の支度をし、男たちはテントを畳み装備を調える。常とは異なる点があるとすれば、雰囲気が重く会話が少ないことだ。人間関係は前日の不穏を引きずったままだった。
 出発までの自由時間、ハリーが険しい顔でバスの燃料タンクを点検している。彼はデヴィッドとトムに何事か相談する。デヴィッドも地図の表面を指でなぞりながら渋い表情を作る。他のみんなは彼らの様子を見て不安を覚えたが、心の中で即座にそれを否定した。芽生えた疑惑を理性で強引にねじ伏せたのだ。
 朝の些事を済ませて一行は出発した。バスは悪路を行く。霧が濃かった。どんなに細心の注意を払って運転しても砂にタイヤが取られて車輪が空を切るようになる。もはや慣例となった男女総出の復旧作業にもみんな慣れ切ってしまった。
 いつもと同じように、バスが段々と減速し、苦しそうな牛歩に変じ、やがて止まった。誰もが「どうせまたいつものアレだろう」と思った。みんな促されるまでもなく自主的に席を立とうとした。
 その時、エンジン音が眠るように途切れた。人間によって停止させられていたこれまでの振動とは異なるリズムでエンジンが停止した。車内の雰囲気が一変した。紫色の異臭を放つ汚物をビンから取り出したような嫌なムードになった。ハリーが、当人も認めたくない事実であろうが、仕方なく宣言する。
「ガス欠だ」
「ジャンピン・ジーザス!」
 車内にどよめきが起きる。続いて隣席の人間を相手に興奮気味の議論。その騒音は次第に高まっていく。不満声による遠雷の響きは現実逃避の色彩を帯びる。しかし燃料切れは厳しい現実だった。
 ごみごみとしていた低声はやがて一点に収斂し、運転手のハリーへの非難となって稲光を発した。各人好き勝手にハリーを詰り、罪を負わせた。充分なガソリンを確保していなかったことを責めた。運転技術にも難癖をつけた。徒に燃料を浪費する乱暴なアクセルワークだと言うのだ。
 ハリーはむっつりと黙ったまま反論をしない。ハリーの弟であるトムは、兄を弁護するため、プリシラに批判の矛先を向けようと努力する。彼女が行き先変更を提案したのがそもそもの間違いだったのだ、と。
 これには女たちとその夫が猛然と反対し、プリシラに加勢する。兄から逸らしてプリシラの方に曲げようとした無数の舌鋒はそのままトムに集中砲火を浴びせた。その後は兄弟それぞれに対して波状攻撃の形を取って不満や叱責の声が降り注いだ。雨あられと飛んで来る弾丸を時折トムはプリシラの方に跳ね返した。ハリーは沈黙を護ったままだ。
 デヴィッドは迂闊なコメントをせず、喋り続ける女たちを勝手に喋らせておいて、辺りを見る。はや車を降りた彼は「ひとまず車はここに置いて、あの砂丘に上ってみよう」と提案した。巨大な砂丘。丘と呼ぶより小山と称する方が適当な高さだった。デヴィッドは誰の同意も求めず歩き始めた。彼のあとに続いて全員が、必要な荷物を携えて仕方なく下車する。決然と高みを目指すデヴィッド。その足跡を、助かる方法を自発的に考えてみたりはしない怠け者たちが辿る。
 険しい砂山をよじ登りながらも罵詈雑言の銃撃戦は続いた。喋りながらの登山は体力を予想外に消耗する。より多く不平を鳴らしていた者から喘ぎ始め、特に女性陣は半ば泣きそうになりながら斜面を両手で掻きむしる。
 やっと頂上に着くとデヴィッドは双眼鏡を顔に押し当て、その視線の先端を東に彷徨わせた。ナミブ砂漠は南北に長い。砂以外の何かがあるとしたら東だ。ただ、砂と空以外は何も見えていないようで、彼はひたすら無言だった。
 他方、悪口大会は徐々に下火となり、ついには誰もが黙りこくった。皆打ちひしがれたようにその場にへたり込み、デヴィッドが何か発見するのを見守った。釣り竿一本しかない無人島で魚が掛かるのを祈りながら待つような無為の時間が過ぎた。トムは反対方向を眺める。遙か彼方に少しだけ光って見えるのは海だろう。「海岸に戻るべきか……?」トムはほんの一瞬だけ考えて、「あの、オットセイだらけの海へ?」その思い付きを即座に否定する。
 「確信はないが──」何の前触れもなくデヴィッドが独り言のように呟いた。「何か影が見える気がする」
 デヴィッドから双眼鏡を受け取り、各人が代わる代わるその方向にレンズの先を突き出す。何も見えないと主張する者もいたが、デヴィッドに与する者の方が多かった。取り分け、ガイドのドナがデヴィッドに同調したのは大きかった。ここにこうしていても渇きで死ぬばかりだ。少しでも経験の長じた者に従うべきだろう。西側の眼下で小さくなったバスはへばったラクダを見捨てるように乗り捨てた。遙か先、何キロメートル先にあるか見当も付かないその影を目指して一行は動き始めた。
 砂また砂。そして霧。砂漠の表面をドライアイスのような風が這い回っている。目に砂が少しでも入らないよう顔を風上から背けて歩く。デヴィッドは右手に方位磁針を載せ、その方角に少しも逸れる事のないよう先頭を進む。風が吹く。水筒には充分な量の水が残っていたが、目指す場所に辿り着くまでに中身は空になってしまうかも知れない。目的地に到着しても何も無い可能性だってある。砂の波が足下を流れる。太陽は十人の頭上に上る。誰もが死を想った。
 歩き始めて早一時間が経った。口をひらけば口腔が渇くから話などする者はいない。ラグ兄弟も煙草に火を点けない。黙々と砂漠を進む。やがて時間の感覚も無くなってくる。じっとりと肌を包んでいた霧もいつの間にか晴れてしまい、頭上には太陽と、うらめしいほどの青い空ばかり。ちぎれ雲もほんの少数漂っているが、まるで湯気のような雲ですぐ空に溶けてしまい、これでは雨も降りそうにない。大切にちびちび回し飲みをしているが、この暑さである、水筒の中身は着実に減る。このまま水を見つけられなければやがて飲み物は底を突く。空気はひどく乾燥し、一息ごとに喉が焼け付くような息苦しさだ。誰もが死を想っている。
 捨て場の無い不満が心の底に堆積すると、その腐敗した不満は無関係の他人に向かう。ハリーが前方を歩くサベラにちょっかいを出した。
「サベラ。その、色鉛筆のセットとスケッチブック、いいかげん捨てたらどうだ?」
「……」
「あきらかに不要品だ。それを持ってれば助かるのか。ちがうだろ。そんな物とっとと捨てちまうがいい。大儀そうに持ち歩きやがって、おまえの分まで水や装備を担いでるこっちの身にもなってみやがれってんだ」
「……」
 サベラは、ハリーには応えず黙々と足を動かし続ける。代わりに妹のプリシラが擁護する。
「ハリー。サベラにとっては、とても大事な道具なんだからさ。このスケッチブックには旅の思い出がいっぱい刻まれてるの、あなたも見たでしょ。意地悪言わないであげて」
 ハリーは苦笑しながら「おうおうわかったよ」と吐き捨てるように言って簡単に引き下がった。水や装備を女性に肩代わりさせようとは別に思っていなかった。サベラをただ困らせたかっただけなのだ。
 さらに二時間が経った。ジョニーが牛の鳴き声を思わせる長々しい屁をひる。誰も笑わないし何も言わない。ジョニーも恥じる様子を見せない。時折小休止を挟みながら死の行進は続く。双眼鏡から見えた距離にはすでに至っているはずだったが、デヴィッドの言った何かの影は未だ姿を現さない。せめて野良のラクダでも見えれば救われたのだが。
 さらに二時間が経った。太陽は背後の中天に下り始めた。最悪のムードだ。無言の陰口に晒されているのはもはやラグ兄弟ではない。今や主役はデヴィッドだ。このリーダーの後に従って良かったのか。この男の判断は本当に正しかったのか。彼の判断が最善策とは知りながらも不満のやり場は他に無い。デヴィッドの背中には十八本の非難の眼差しが代わりばんこに突き刺さる。それを承知で彼は歩調を乱さず進む。誰にも見られない唇を、強く強く噛みしめながら。
 その時、前方に低木たちが立ち上がった。足下に草が生え始めた。自分たち以外の生命が世界に棲み始めた。みな少し元気を取り戻した。見て、この方向に進めば進むほど木々が増えていくよ。この分なら人の居る場所も見つかりそうだ。助けが呼べる。久々の音声。
 その時突如として、太鼓を叩く音が聞こえた。気がした。デヴィッドとドナは歩きながら顔を見合わせた。二人は見つめ合って眉を吊り上げた。もし本当に太鼓だとしたら音の出所はそう遠くない。そして気のせいではなかった。また聞こえた。全員が知覚した。やはり紛れもない太鼓の音だ。叩く箇所を少しずつずらしているような、高音と低音が不規則な波長で入れ替わる音色。
 人間がいる! 人間がいるということは、この近くに暮らしているのだ。暮らしているということは村があるのだ。村には水がある、生活がある、死なずに済む諸要素がある。
 俄然、早足となる。太鼓の聞こえた方向へ、疲れた足の疲れも忘れ、一行は顔面から雲を吹き払って、急いで進む。いつの間にか草は膝の高さまで育ち、歩くたび擦れてかさかさ音を立てる。砂漠は終わった。サバンナが始まった。
 まるで歌うように奇妙な曲を奏でる打楽器。その打楽器からおそらく百メートルほどの地点まで距離を詰めた時、音がピタリと止まった。次の瞬間、全く別の方向から同じ楽想の打撃音が鳴り出した。不思議なことに音は遠くなっている。何かの錯覚かと思い、先頭のデヴィッドはそちらへ足を向ける。もしかして、相手は遠退いているのか。まるでマークⅠから逃げるように? 見失わないよう──聞き失わないようというべきか、藁にもすがる思いで、小走りになる。相手との距離を詰めると太鼓の音は再び大きく聞こえる。
「もう少しで追いつく。みんな頑張れ!」
 デヴィッドが渇を入れる。みんな表情はぐったり疲れ切っているが、ここであきらめたら死神に追いつかれることを知っているので、無理に走り続ける。しかし太鼓は寸前の所で沈黙し、また別の方向から響き始めた。その音量はさらに微かになってしまった。絶望感が一行を覆う。ここまで五時間以上ずっと歩き詰めで、しかも最後の十分間は小走りをしたため、全員下着まで汗でびしょ濡れだ。年長者から、次いで女性陣が脚の回転数を落とす。やがて走行は歩行となる。ついには立ち止まった。息が上がっていた。何名かはその場に座り込み、何名かは倒れるように砂地へと寝転がった。
 あたかも、音による蜃気楼のようだった。光の屈折ではなく、音の反射。砂漠に揺らめく幻の楼閣ではなく、砂漠に響き渡る空虚な木霊。
 残酷な悪戯を好む精霊の呼び声が、迷い苦しむ者どもをさらに惑わせ、最後の気力体力まで容赦なく搾り取った。誰もが終わりを確信した。この場での死が確定した。誰の責任だ。デヴィッド死ね。プリシラも死ね。みんな死ね。今にも殺し合いの始まりそうな雰囲気だった。しかし、殺し合いを始める元気はどこにも残っていなかった。
 また太鼓の音が聞こえた。もう誰も期待感を抱かない。追う気は決して起きない。太鼓の奏でるリズムはもはや救出に向けての行進曲などではなく、空耳と同様の単なる自然現象だ。追ったところでその甲斐はない。追いつきそうになればどうせ別の場所に瞬間移動で逃げてしまうのだし。みんな憔悴しきっている。
 初めは六時の方向でささやき声のような打撃音がしていた。するとその音と同時に別の場所十時の方向で唸り声のような打撃音がした。また別の場所二時の方向でも同じ単語を怒鳴り始めた。動けなくなった一行を囲繞するように全方角から太鼓が鳴り出した。マークⅠを中心点としたその輪は徐々に円周を縮める。一行の気持ちは千々に乱れる。不安を催したり、救助へのほのかな予感が蘇ったり。
 太鼓の音はさらに接近する。まだ何も見えない。全員が息を潜めてじっとする。座っていた男たちの何人かがゆっくりと立ち上がった。頭部をあまり無防備にさらけ出さない程度の中腰で。
 腰の高さまで伸びた草の向こうにやがて鳥の羽が上下し始めた。ついで現地人の黄色い顔が無数に見え始めた。頭に羽根飾りをし、粗末な腰巻きを穿き、首輪や腕輪をしている他はほとんど裸だ。身長は少年のように低く、一番背の高い者でも百六十センチメートルほどだ。緯度の関係なのか肌の色はそれほど濃くない。ほぼ三人が一組となり、そのうちの一人が左腕に太鼓を挟み込み、奇妙に湾曲したバチを右手に握っている。太鼓の胴部分を腕の締め付けで潰すことによって音程を変えられるトーキング・ドラム。そして他の二人は槍や弓矢で武装している。じりじりと距離を詰めてくる。
 さっきまで熱烈に追い求めていた太鼓の音の発生源がご丁寧に向こうからやって来てくれたのだから本当を言えば願ったり叶ったりのはずだ。そして、もちろん、「助けてもらえるかも知れない」という期待は恐怖よりも比重が大きい。しかし、狩られる側の動物の気持ちをトムは理解した。ハンターから狙われた絶体絶命の草食動物、その悲嘆が、痛いほどに解った。
 いずれにせよ逃げられはしない。旅行者たちは、疲労の極みにあるし、殺されるか助かるかの諦念にしがみつかれてその場を離れられない。三四十人にも及ぶ現地人にすっかり取り囲まれた。
 今にも槍で刺されるもしくは矢で射られてもおかしくない雰囲気だった。マークⅠに緊張が走る。トムは粘り気のある生唾を飲む。女たちは今にも泣きそうだ。普段冷静なサベラもぐちゃぐちゃな表情で目に涙をいっぱい溜めている。
 現地人たちはひそひそ囁いたり唇を鳴らしたりしてお互いに相談を交わし、この可哀想な白人たちを慎重に物色する。マークⅠの面々はただ黙ったままだ。「どんなヤツでもいい、人間に会ったら先ず真っ先に水をくれと懇願する」と思っていたハリーもすっかり肝を冷やして直立不動だ。テリーは今現在起こっている事態は本当に自分の人生に起こっていることなのか自問自答をしている。ジュリーは砂漠を歩いている際確かに再三神に助けを求めていたが、まさかこういう仰々しい出迎えを望んだわけではなかった。
 気まずい第一印象の交換期間が済み、リーダーらしき戦士が足を一歩前に出した。彼は吊り上がった目を金星のように光らせてイギリス人たちを睨む。その猫目はシャム猫よりもライオンのそれに近い。老けて見えるが実年齢はよくわからない。
 彼は堕天使の長のような高慢さでマークⅠに何事か話し掛けた。ただしそれはガイドのドナにも理解不能の言語であって、訳の分からぬ要求を寄越してきているようだった。彼らはもちろん通常の発話もするが、時に舌を鳴らしたり、合わせた唇の隙間から破裂音を発したり、唇をパクパク言わせて太鼓に似た音を響かせたり、歯をカチカチ噛み合わせたり、声帯を使わない言葉も多用した。いわゆる吸着音言語だ。
 コミュニケーション不全にしびれを切らした若い男が、白人たちに立ち上がるよう槍で以て指図する。リーダーらしき男が若者を諫めるが、若者はますます興奮し、白人たちに歩くようせっつく。長い凶器で脅された丸腰の白人たちは、不承不承、だらしない足取りで歩き始めた。
 マークⅠは屈強な現地人に取り囲まれ、彼らの村へと鈍い歩調で連行された。



スミスおばあちゃん
「俺たち、どうなっちゃうんだろう」
「知るかよ」
「神よ、どうかわたしたちをお救い下さい……」
「神? 神ってどの神だ?」
「これは試練なのよ、神の与えたもうた……。神の思し召しがあるようみんなで祈りましょうよ」
「罪もない人間を砂漠のど真ん中に放り出すような神はこっちから願い下げだね」
「まあ、なんてことを言うの!」
「うるせえババア。どうせてめえだけ助かろうって腹積もりだろう」
「あなたまで。兄弟そろってどうしようもないクズね!」
「怒鳴るんじゃねえ。土人どもを刺激するだろうが」
 ラグ兄弟とジュリーが罵り合うのを皮切りに、みな不愉快極まりない消極的な意見をぶつけ合う。そうしているうち、やがて一つの集落に到着した。なお、これ以降ラグ兄弟とジュリーは一度たりとて口を利かなかった。
 草や低木が生えている土地に、草葺きの家がいくつも建っている。泥土で作られた家の壁は乾燥して一面にヒビが走っている。ガイドのドナがこの壁について解説をしてくれた。
「アフリカ原住民の暮らしではよく見られるタイプの住居です。この壁は、木の枝と牛の糞を混ぜ合わせた土で出来ています。牛の糞を使ってると言っても、臭いはあまりしません。しかも、虫除けの効果があって、蚊が寄りつかないんです。太古からの知恵ですね」
 かなりの規模の村だ。村と外部を仕切る塀などはなく、木々の間から見える遙か彼方にも同じような形式の家々がちらほらと見えることから、数キロメートル四方、あるいは数十キロメートル四方が彼らの土地かと思われた。しかし、電気や水道はもちろん無い。
 村の景色は色彩に乏しかったが、音は豊富だった。ひっきりなしにどこかから聞こえる赤ん坊たちの泣き声・子どもたちの嬌声・家畜の声・何かをすりつぶしている音・土器のぶつかり合う高い音・木を削る音・ビーズのじゃらじゃら鳴る音・木製の臼を杵で突く音。
 人口も多そうだった。マークⅠを連行した男たちだけでも三四十人いた事からも推して知るべきだったが、小さな集落とは思えないほどの人数がぞろぞろと集まって来た。ざっと三百人は居るだろう、住民たちが物珍しそうに取り囲む。ここに至ってトムの不安は却って解消され始めた。武具を携えた戦士たちは去らぬものの、子どもや女や老人が現れたために、物々しい雰囲気がいくらか減じたからである。子どもたちなどは無邪気な笑顔で何事か囃し立てている。女たちは色鮮やかな布を羽織っている。ある者は坊主頭。ある者は突起物がいっぱい生えているような髪型。ある者は羽根飾りをした鉢巻を巻いている。ある者はビーズを列ねた円盤状の首輪をしていて、ある者はシカ皮のマントを羽織っている。カラフルな原色が目映い。
 会ったことのない人々・行ったことのない地域、それは、存在しないも同然だ。見知らぬ土地の見知らぬ人間は「人口」という便利な言葉と数字によって一括りにされるし、身近でない人間は全て、何らかの功なり罪なりを遂げなければ沈澱した存在に過ぎない。まだ見ぬ天才は各地に点在しているだろうがその人が何かしらのアクションを起こさなければその人のキャラクターは永久に浮かんでこない。同様、ポニュケレの人々も在って無きが如くだった。マークⅠにとって有色人種の彼らは全員が同じ顔に見えたし、こうして実際に出会うまでは“世界に存在しなかった”と言っても過言ではない。今マークⅠの眼前に現れたことによって彼らは初めて呼吸をし活動を開始したかのようであった。同じに見えていた顔が徐々にそれぞれの形を取り始めた。
 そんな中、桁違いに歳を取った老婆が少女に手を引かれて近付いてきた。妖しいマントを羽織り、左手に木製の杖を握っている。顔全体に深い年輪が刻まれ、人間の肌とは思えない風合いを帯びている。焼きリンゴのような皺くちゃの皮膚。歯並びは爆撃を受けた後の市街地の風采で、倒れかかって勝手な方を向く瓦礫と似ていて、そして所々抜けている。歯磨きを全くしないのだろう、黄土で煮染め色をしていてまるで膿汁の重ね塗りだ。目は落ち窪んでいる。しかし眼球はギラギラと妖しく輝き、その光だけが今もなお漲る生命力を外部へと強烈に照射している。
「この村の族長か何かかな」
「うん。そうかも知れない。周りの男たちの緊張した様子を見てみろ。実に殊勝な態度で控えてる」
「確かにこのババアには威厳がある」
「シッ。何か言うよ」
 老婆は不敵な笑みを浮かべ、不気味な眼光でマークⅠを見据える。涎の音をくちゃくちゃ鳴らしながらリーダー格の猫目の戦士に事情を尋ねている。戦士の説明をしばらく黙って聞いてから、今度は少女に怒りの口調で指図をする。白い唾の破片が乱れ飛ぶ。説教をしているような剣幕だ。
 少女は静かにうなずき、マークⅠの方に向き直る。驚くべき事に彼女は英語が話せた。
「あなたたちが来ることは我が母の予言によって解っていました。『霧の中から十人の騎士がやって来る』と。あなたがたは、何が目的でこの土地に足を踏み入れたのですか」
 冷静な態度で応えようとしたデヴィッドを押しのけてプリシラがまくし立てた。地獄に仏とはまさにこの少女のことだと言わんばかりの表情で、いささか狂気にも似た勢いで身の上を語った。マークⅠの出自・旅の目的・遭難の顛末……。少女は気圧されながら耳を傾けていたが、プリシラが呼吸を行なうタイミングで慌てて口を挟んだ。
「もうちょっとゆっくり話して下さい」
 虚を突かれながらも再び始動しようとするプリシラを制し、今度はデヴィッドが的確な言葉を選んでゆっくりと語り出した。
「私たちはイギリス人です。南アフリカから出発して、アフリカ大陸を北上する旅の途中でした。途中で自動車の燃料が無くなり、困っていました。砂漠を歩いていたところをこの人たちに発見され、ここへ連れてこられたのです」
 少女は小さくうなずき、老婆に通訳をする。老婆は巣を張る蜘蛛の笑顔でにたりと嗤った。身振りを交えて少女に何か言うが、少女はそれを翻訳しない。
 次にどう出るべきか図りかねたデヴィッドは、末尾に質問を添えた自己紹介を行なう。
「はじめまして。私の名前はデヴィッド・ワッツです。私たちに敵意はありません。出来れば町に戻りたい。こちらの方はこの村の代表者ですか。近くに町はありませんか」
 少女はデヴィッドの名前を聞いた途端、死神でも見たような怯えた表情をし、早口で老婆に何か伝えた。老婆も恐ろしそうに眉根を寄せ、クシャクシャの唇が吸い込まれて見えなくなるほどに唇を噛んだ。突然雲行きが怪しくなったので当事者のデヴィッドが困惑したのはもちろん、マークⅠ全体に緊張の低気圧が膨らむ。
 少女と老婆はくぐもった声と舌打ち音で相談を始めた。少女は今にも泣きそうな顔だ。老婆は厳しい表情を崩さないながらも少女を慰めているような様子だった。
 やがて相談は終わり、少女は必死に感情を押し殺しているような思い詰めた顔で、言った。
「この方は王ではありません。王の母、私の祖母です。この国は完全に独立していて、近辺には私たち以外の人間は住んでいません」
「国だって!」ハリーが叫んだ。みな同じ気持ちだった。「ここはナミビアじゃないのか」驚きの波がマークⅠを飲み込む。
「そして……」王女に他ならない少女は続ける。子細らしい顔で明らかに緊張している。「これ以降は、決してご自分の名前を話さないで下さい。声に出して言わないで下さい。この国では、その行為は死を意味します」
 マークⅠは、今度は呆気に取られた。ナミビアどころか地球ではない異世界に迷い込んだ感覚を味わった。
 なお、自分の名前を話してはいけない理由を、数日後にトムがこの少女に改めて問い直した所、答えは以下の通りであった。
 この地では人々が互いに名前を呼び合う習慣が無い。そして、人々は自らの名を決して口にはしない。親からの命名ではなく自分自身で定めたホーリーネームがあり、その名を他人に知られると死んでしまうと信じられているからだ。「名前は魂そのものであって、それを他人が口にするということは、その人の魂を殺すことになる」というのが彼らの言い分だ。「名前をつけることで物や動物や土地を支配する」というヨーロッパ的な考え方と似ている。だから、この地ではおのおのが自分の名前を自分の中に秘めている。本当の名は、たとえ本人の親であっても知らない。本名を他人に知られるのは死者のみである。この国の人は死ぬとすぐ、口寄せによってシャーマン(呪術師)と対話をするのだが、もはや生者によって魂を殺される心配がないので、安心して秘密の名前を明かすのである。
 デヴィッドはその風習を知らず、自己紹介で自分の名前を堂々と明かしてしまった。少女はこの異邦人の自殺的暴挙に初めは困惑したが、老婆の思慮深い判断によって、ここでは自分の名前を口にせぬようデヴィッドに忠告したのだ。
 こんな有り様ではお互いに名前も呼べず、コミュニケーションはさぞ不便だろうと思われたが、家の附近に因んで「岩」や「木」と呼んだり、親が死んでいれば死者の名前を利用して「誰それの息子」などと呼んで済ませていた。
 トムは心の中でこの国の人たちに識別のためのあだ名をつけた。少女は「マチルダ」、老婆は「スミスおばあちゃん」という風に。この密かなアイデアはマークⅠ全体に流通した。もちろん老婆本人に「スミスおばあちゃん」と呼び掛けたりはしなかったが、老婆の噂話をする際にはスミスおばあちゃんという呼称が盛んに用いられた。その後トムは、このアイデアの生みの親として、名付け役を任命された。この国の誰それに、マークⅠ内だけで通用する秘密のあだ名をつける命名権は、全てトムが保有した。
「デヴィッド・ワッツという名前それ自体に反応したわけじゃなく、名乗ったことに敏感な反応をしたんだな」
「俺はてっきりデヴィッド・ワッツって名前の悪党か何かが、過去に、この村に災いでももたらしたのかと思ったぜ」
「わたしもそう思った」
「それより、ここが独立した国というのはどういうことだ」
「そう。それそれ」
「ねえ、ここはナミビアじゃないの」
「村って単語と国って単語、間違えてるんじゃないの」
 マチルダは答える。「いいえ。ここはポニュケレ・ドレルシュカフという名のれっきとした王国なのです。私たちは太古の昔からこの土地に暮らしていました。ナミビアという名前はよそ者が勝手に決めた俗称に過ぎません」
 マークⅠは誰もが面食らってしばらくは何も言えなかった。その間、スミスおばあちゃんが早口であれこれと指図をした。戦士のうちの何人かが伝令に走り、翻訳係のマチルダは黙って頷き続けた。
 プリシラが、ハリーに顔を寄せて囁く。「どういうことなの。私たち、タイムスリップか何かしちゃったってわけ? ここってあの世? わたしたち、まだ生きてるよね?」
「馬鹿言うな。ここはナミビアだよ、結局。彼らはナミビア政府の統治が及ばない場所で生きる部族なんだろう。アフリカ大陸には実に多くの部族が暮らしてる。その数は情報化社会の現在においても把握できないほどだからな。存在をあまり知られていない部族が勝手に原始的な王国を形成してるんだろうな。こんな国、国際的にはとても認められたもんじゃない」
「ふうん」プリシラはあまり頭が良くない。
 ちなみに、各部族の風習や言語は複雑多岐に渡る。だから、「アフリカ原住民は全て同じようなヤツらで、半裸で、肌が黒くて、原始的生活をしている」と十把一絡げに捉えるのは誤解の元だ。それこそ一万年以上同じ生活を守る部族もあれば、近代化に向けて伝統を捨てる部族もある。狩猟民族、農耕民族、先進国に勧められて漁業を始める部族、それらを軽蔑して家畜を屠るだけで生活する部族、実に様々だ。この部族がどのような文化を有しているのかは、今の時点ではまだわからなかった。
 やっとスミスおばあちゃんが口を閉じた。マチルダがその意向を英語に置き換える。
「あなたがたをどのように迎えるかは、私たちの王がお決めになります。客人としてか、人質としてか、奴隷としてか……全ては王が決定を下します」
「人質? 人質っていうのはどういうこと」
「あなたたちの家族か仲間が、私たちに身代金を支払うまで、あなたたちの身柄をこの国に拘留するということです」
「うそ。やだ」
「手紙か何か書いてイギリス本国に助けを求めるってことか」
「よくわかりませんが……そういうことでしょう」
「手紙は届けてもらえるのかい。どんな手段で?」
「私にはわかりません」
「みんな、質問攻めはよそう。この子は何と言ったって子どもだ」
「そうだね」
「人質か、なるほどなぁ。文明社会に帰れるなら、それでもいいや」
 スミスおばあちゃんが顎をしゃくると男たちが再びマークⅠを取り囲んだ。土むき出しで所々に草が生えている道を挟むようにして、両側の沿道を「国民」たちが列を成している。異国人の訪問を一目見ようと興味津々な様子。マークⅠは国賓級の歓迎パレードさながらに「国道」を通過し、王の前に引っ立てられていく。
 ──これから先、マークⅠは、悪夢の国に足を踏み入れたような恐ろしい体験をたくさん味わうことになった。この旅行記も、ここから先、急に小説っぽくなってしまう。しかし嘘っぽくなるのはやむを得ない。思わず「そんな馬鹿な」と唸ってしまう出来事が頻発したのだから。あらゆる事件がまるで馬鹿げた嘘のようだった。目と鼻の先で現実に起きている現象であっても、マークⅠの面々には、その現象がすぐには信じられなかった。だが無理も無い、自分の目を疑うのも。アフリカのこの驚異的な現実。中世の魔法は現代で手品になったが、アフリカでは魔法のまま存在している。文字にすれば途端に虚構っぽくなってしまうが、ここアフリカでは、嘘臭いほど突拍子もない現象が目の前で本当に起きる。
 今ではゾウやキリンが実在することを誰もが知っている。しかし古代においては、その姿をありのまま文章に活写しても、紙の上のその姿は一種の怪獣の剥製と化してしまった。現代においてもたとえば深海魚がそうだ。SF作家の想像力を凌駕する奇妙奇天烈な姿をした魚が深海では無数に泳いでいる。人知の及ばぬグロテスクな姿をした深海魚。初めてその写真を見せられて「これは地球上の生物だよ」と言われて、誰がすぐに信じられるだろうか。まともな理性を有した人なら、その存在を全面的に受け入れるのは時間が掛かる。秘境も同じだ。西洋的な常識がことごとく否定される。
 商業的に成功を収める映画作品、その実に九割は、作中で人が死ぬ。しかし、「毎日のように知人が死ぬ」ということが、はたして現実世界で起こり得るだろうか。少なくとも文明社会では考えられない。
 ポニュケレ・ドレルシュカフ国は、死が当たり前に発生する、映画の世界だった。



徴税人
 文明人の感覚からすれば道とは呼べないような「国道」を歩かされる。周囲は黒人たちによって形成された壁が長々と続きしかも歩調を合わせて一緒についてくる。どこをどう歩かされているのか、うねうねと動く黒人たちの肢体が目隠しになって景色はよく見えない。暑苦しい国民たちの大歓迎に囲まれ、ジョニーが「こいつらの身体から発する熱気と体臭によって蒸し殺されそうだ」と愚痴をこぼす。
 数分ののち、人垣の切れた前方に王宮が見えてきた。とは言っても、特権階級的な贅沢極まりないイメージの建物ではなく、実際には十数棟の藁葺き掘っ建て小屋だ。それでも、マークⅠがこの村で生活を始めてみてようやくわかることだが、王宮は他の家々よりは格段にグレードが高い。小屋はそれぞれ、執務室・寝室・客間・台所などの用途によって使い分けられている。一つの小屋で全てをまかなう臣民の家とはやはり格が違う。王宮の周辺は石垣と木の枝の塀や葉の壁で仕切られていて、王族の土地と外部との境界線を示している。
 王のいる小屋の前に到着した。まずスミスおばあちゃんが小屋の中に入る。デヴィッドがマークⅠの代表者として続き、その後をマチルダが追う。槍を携えた兵士二人が入口に立ちふさがり、他には誰も入れない。
 デヴィッドが招かれた小屋はポニュケレ国の会議室である。小屋の中央に頑丈な柱を立たせ、その柱に梁を渡し、梁の上を乾し草で覆っている。小屋の中はやや暗い。低いベンチが三脚あり、正面に王、右と左に重臣が座っている。
 王は青を基調とした虹の七色のターバンを被り、精悍な顔つきをしている。この村のイメージと全くそぐわない現代的な背広姿。生地が大分くたびれているのでおそらく一張羅。ネクタイは着用していない。年齢はデヴィッドと同じくらいだろう。
 その他の重臣は、全部で四人。半裸の巨漢。赤いマントを肩に掛けた男。カジュアルな洋服姿の美しい女。そしてスミスおばあちゃん。姿は様々だが、皆一様に威圧感を放っていた。「支配階級だから」なのか「だから支配階級」なのか、彼らには高貴なる威厳が備わっていた。
 そしてこの王も、マチルダと同じく、英語が話せた。デヴィッドと王は英語で会話をした。その会話をマチルダが、スミスおばあちゃんを筆頭にした英語を解さぬ重臣のために同時通訳した。
「ようこそ。おれはこのポニュケレ・ドレルシュカフ国の王だ。配下の者から聞いた情報を基に判断するに、貴殿らは盗賊などではなさそうだな。この国には過去、ダイヤモンドを求めて国土を荒らす者、我々の財産に手をつけようとした者、あるいは子どもをさらっていく者がいたからな。もし貴殿らがそうだとしたら……敵だということが判明したらすぐに殺すがな。ひとまずは客人として迎えよう」
 威厳のある声で言い渡す王に対し、デヴィッドは「ありがとうございます」と簡単にお礼を述べる。彼は沸き上がる不快感を必死に胸の奥に押さえつけていた。その不快感には嫌悪よりも畏れが多く含まれていた。努めて冷静な態度を崩さぬようにし、自分から出しゃばらないよう静かに控えた。
「貴殿らは何らかの目的を持って我が国に入国したのではなく、遭難した結果流れ着いたのだな。それで間違いないか」
 デヴィッドは恭しく簡潔に返事をする。「はい、その通りです、陛下」
 王は陛下と呼ばれても少しも嬉しそうな顔をせず、それどころかますます貫禄を増しながら話を続ける。
「よろしい。それならばまず、敵でないことを証明して貰いたい。武器の類はもちろん、所持品の全てを恭順の証として提出せよ。全てだ」
 デヴィッドは地面に視線を落としたまま黙った。王の靴がタイヤのゴムで作られていることを発見しながら、懸命に思案した。出来るだけ早く返事をしなければならなかったが、おいそれと受け入れられる要求ではなかった。自分一人の問題ではなく、マークⅠ成員のみんなに関わる問題だったから。
 しかしデヴィッドはほんの少しの間を置いただけですぐに返事をした。王を不審がらせないため即答に近いほどの短時間で答えたのだが、それは脳をフル回転させて考え抜いた末の答えだった。
「誓って申し上げますが、私たちは敵などではございません。哀れな旅行者です。しかし、持ち物を献上するのは、仲間たちとの相談が必要です。とても思い入れのある品を持つ者もおりますので……。ただし、陛下に対して服従の意を表すため、私の持ち物は、今着ている服をも含め、すぐに全てをお渡し致しましょう」
 王は片方の眉を少し吊り上げた。デヴィッドは真っ直ぐに王の目を見つめたが、野生動物と目を合わせてはいけないという自然界のルールがなぜか思い出され、すぐに目を伏せた。王は眉を吊り上げたまましゃべらない。会議室は静かになった。二人のやりとりを翻訳中のマチルダが舌や唇をくちゃくちゃ言わせる音だけが響く。やがてマチルダの口も動かなくなると、今度は王が話し始めた。
「もちろん、何もかも奪おうってわけではない。おれの気に入った物だけ譲ってくれ。あとは返してやる。仲間たちと相談をしてこい。いや、相談ではない。説得をしてこい。素直に寄越さなければ、殺して奪うまでだ」
 デヴィッドは自分一人が犠牲になれば仲間たちの財産に危害が及ばないかも知れないと考えて取り引きを仕掛けたのだったが、効果はなかった。
「貴殿ら全員がこちらの要求に従えば、命の保証はしてやるし、この国に滞在させ、寝食を提供してやることも出来る。それから、貴殿らを祖国に帰す方法も考えてやろう。それもこれも、貴殿らがおれの要求どおりに行動してからの話だ。貴殿らが死んで困る人間はこの国にはいない。それを忘れないことだ。さあ行け」
 デヴィッドは握手を求めて手を差し出した。王は何の反応も示さない。通用するか解らない御辞儀をし、デヴィッドは一人会議室を退き、王宮の前庭で座って待っていたマークⅠメンバーに事情を説明した。
 人質や奴隷になる可能性だってあったのだし、それ以前に、砂漠で野垂れ死んでいた可能性だってあったわけだから、物品を引き渡すことで命を許して貰えるのならお安い御用に思える。でもそれは安全圏からの論理であって、実際に自分の持ち物を相手に無償で譲り渡すのは名残惜しいし釈然としない。デヴィッドは必死に説得をした。男性陣も抵抗を示したが、特に女性からの反発が強かった。女性の中でも取り分けサベラが頑なに拒絶した。「このスケッチブックは何にも替えがたく、絶対に無くしたくない。嫌だ」と。
 会議室からマチルダが出てきた。決然とした表情だ。男たちに何か告げ、足早に去った。野次馬たちから歓声が沸き起こった。
「あの子、俺たちに申し訳なく思ってんだろうな」
「クソ。だめだよサベラ、従わなかったら殺される」
「あきらめろ」
「……」
 サベラは何も言わず涙だけ流した。彼女がこんなにもスケッチブックに固執するのは、そこに思い出が詰まっているからだ。この旅だけではなく、どこかに旅行する際には必ず携えていた大きなスケッチブック。そこには彼女自身の描いた絵だけではなく日記も含まれていたし、その数ページには様々な言語で書かれた寄せ書きが黒々と踊っていた。旅の途中、出会った人々に書いてもらったメッセージだった。それを紛失するというのは、その人たちの思い出が紛失されるということだ。
 ハリーが何気なく言う。「くよくよ気にするな、たかが紙っぺらだ」
 泣いていたサベラは親を殺されたような怒りを露わにしてハリーに食ってかかる。「馬鹿。これは単なるスケッチブックじゃないの。ここに書かれたメッセージを失うことは、記憶の喪失を意味するの。もう二度とあの人たちとは会えないんだから……!」
 大人しいサベラが普段見せない怒り方をするのでハリーは慌てて弁解する。「その人たちが死ぬわけじゃないんだから、いいじゃないか」
「あの人達はもはや現実世界の人間じゃなく、私にとっては私の記憶の中にだけ生きている人たち。このスケッチブックを無くして記憶を欠くということは即ち記憶の中のあの人が滅ぶことに他ならないの」
 烈火の如くサベラは喚く。ハリーは完全に気圧(けお)される。野次馬たちは無関係に笑顔で騒ぎ続けている。男たちがマークⅠの装備品に手をつけ始めた。ほとんど全員が、不服ながらもじっとしていたが、サベラは思い出の品を抱き締めたまま折れる気配がない。一人の屈強な男がスケッチブックをもぎ取ろうとした時、断末魔を叫ぶ草食動物のように抵抗した。容赦なく殴られて地面に倒れた。デヴィッドが駆け寄り、彼女を守るように覆いかぶさる。殴りつけた男を睨んだが、それ以上の行動に移る事は出来ない。デヴィッドの身体の下から、地獄の亡者も斯くやと思われる嗚咽の声が鳴り始めた。
 着ている衣服も脱ぐように促された。槍で脅しながらだったから、強制と言っても良い。男たちはそれほどの躊躇もなく靴と下着以外は脱いだが、女たちはそうはいかない。なかなか脱ぐ気になれない。露出狂の気があるプリシラでさえ、衆人環視の脱衣をためらった。命の次に大事なスケッチブックを強奪されて諦観の境地に達したサベラだけが、投げやりに衣服を脱ぎ捨ててほとんど裸になった。ハリーが茶化した口笛を吹き、野次馬がにやにや笑っているが、サベラは全く動じない。これに驚かされた女たちは、おずおずと、一枚一枚ゆっくりと服を外し、ようやく下着姿になった。
 マークⅠの装備品は遺漏無く地面に並べられた。王を先頭にした支配階級が会議室から出てきた。スミスおばあちゃんが、蔓の先に青い石をぶらさげた振り子を使い、口の中で呪文を唱える。住民に物品をくすねられていないかどうか調べ始めたのだった。
 マークⅠの装備品で、現地人に特に喜ばれた品は以下の通りである。
 所持金の全額。財布ごと没収された。お金で色々と便利な道具や食料が購えることを彼らは知っていた。
 懐中電灯数個。その明るさも然ることながら、光源の温度に興味津々だった。彼らにとっての光は太陽と火であって、それらはとても熱いから、電気の光の冷たさが不思議で仕方ないようだった。
 水筒や鍋やバックパックなどの入れ物。何かを入れる器と言えば土をこねて作った土器だけという彼らにとって、これら丈夫で持ち運びのしやすい入れ物は重宝な物だった。
 ドナのティーセット。ポットやカップもそうだが、お茶を飲むという文化がこの国にもあるのだろう、お茶の葉が特に喜ばれていた。お茶が何かを知らない子どもの何人かは、乾燥した葉をじかに食べていたが。
 鏡。自分の姿が左右反対に写る現象に対して純粋に驚き、あらゆる角度に傾けて中を覗き込んでいた。口をつけて啜ろうとした子どももいた。板に水が固着した水盤かと思ったのかも知れない。全ての鏡が王の財産となったが、そのうち一枚だけが公共用に下賜され、国民誰もが自由に使える鏡として広場に放置された。その鏡は現在でも大評判で、大人も子どもも一緒になって新しい遊び方を探求している。鏡を盗む者は無く、皆が平等に使用している。
 ラグ兄弟のライターと煙草、そしてカセットコンロ。火を灯す道具は予想通り歓迎された。そして大量の煙草はその場でほとんどの住民の手に行き渡り、豪快に消費されていった。子どもまでもが口にしていた。ニコチン中毒のラグ兄弟にとってはつらい光景だった。
 トランプのカード。それを用いてテリーの披露した手品は最初は大好評を博した。王が憎悪にまみれた嫉妬を露骨に顕わしたくらいだったが、やがて何度か披露すると、非常に目の良い彼らにトリックを見破られてしまった。小手先の幼稚な芸に騙されたと知った彼らの憤慨は一通りではなく、テリーを殺しかねない猛烈な勢いの怒りだった。王だけが怒りの裏に安心を寝かせていた。
 デヴィッドの羅針盤と拳銃。羅針盤は初め、常に一定方向を指す針の単純な不思議さが興味を引いたが、デヴィッドがその用途を説明すると非常に大事に取り扱われた。そして、拳銃が取り出された時はマークⅠの誰もが驚いた。デヴィッドは誰にも内緒で隠し持っていたのだ。王は拳銃の用途を知っている風で、スーツのポケットにこの凶器をしまい込んだ。
 トムの持っていた携帯用ゲーム機。頭の良さそうな青年が最初に興味を示した。一番理解しやすそうなテトリスをやらせてみた。彼は上から落ちてくるブロックをただ積み上げるだけで喜んだ。まるで家を建てているようだった。ドナがゲームのルールを教えた。すると、一列ずつ消し始め、猿のように繰り返した。王が身振りで貸せと命令した。彼はここでも意外な才能を示し、四列を消すテクニックを披露してマークⅠの連中を驚かせた。他の現地人たちはその凄さがよく分かっていなかったようだが。この国の住人はアルファベットはもちろんアラビア数字も読めない。王が一から九まで順番に翻訳して説明したが、点数の数が多すぎてその得点にどれだけの価値があるのかはついに理解できなかった。鼻くそと泥まみれの指でボタンはみるみる汚れた。トムはゲーム機を取り返すことをあきらめて未練無く住民たちに渡した。交代でプレイをしてしばらく勝手に盛り上がっていたが、翌日の昼頃急に静かになった。飽きたのだろうか、何事か確かめたら、どうやら電池が切れたらしい。コンセントなど在るはずのない僻地なので充電は不可能だ。トムは気の毒そうに口の端を吊り上げて見せて、手をひらひらと振った。住民は電池切れが理解できず、殺してしまったと残念がり、プレイ中の一人が責められた。険悪なムードになった。事態収拾のためにトムがゲーム機を叩き壊した。住民たちは目を剥いてゲーム機の処刑を見守った。場は即座に白けた。
 そして全員が身に付けていた腕時計の全て。デジタル時計は数字が読めない住人たちには不評だったが、機械式時計は非常に貴ばれた。いずれにせよ全て没収された。
 一方で、あまり住民の興味を惹かなかった品は以下の通り。
 まず、意外だったのは双眼鏡。確かによく見えるが、別に必要ないというのが彼らの主張だった。驚異的な視力の持ち主である彼らにとっては視野を狭める邪魔なだけの器具だったのかも知れない。双眼鏡に興味を示したのは王だけだった。文明社会で視力を弱めた彼だけが双眼鏡を覗いた。──それでも王は視力三.〇だったが。
 携帯電話はあえて使い方を教えたりはしなかったし事前に電源を落としていたのでさっぱり人気が出なかった。電波が届かない地域なのでどうせ通話は不可能だが、カメラ機能などを教えた日には、あっと言う間におもちゃにされて壊されてしまっただろう。ダサいアクセサリーくらいに思われたようだった。同様に、デジタルカメラも電源を切ることで没収の難を逃れた。
 衣類は返してもらえた。服や帽子や靴それ自体が欲しかったわけではなく、何か隠し持っていないか確かめるためだったようだ。その他、実地の役に立たないアクセサリーなどはほとんどが返してもらえたものの、サベラの筆記具とスケッチブックは戻ってこなかった。スケッチブックは、既に何か書かれているページがリングからちぎられていった。残酷なことにサベラの目の前で、サベラの思い出が、引き抜かれていった。彼女は小さな悲鳴を叫んだあと、怒りに我を忘れて飛びかかろうとした。デヴィッドとプリシラとテリーが三人掛かりで後ろから抱き留めた。風景画は回し読みがされ、理解できない寄せ書きは子どもたちによって紙吹雪と化した。スケッチブックには白紙だけが残された。そしてその白紙もサベラの元には戻ってこなかった。
 国民に振る舞われた煙草や主婦たちのための什器などを除いて、接収された品々のことごとくは王宮の倉庫に運ばれた。そこには近代的な道具の数々がすでに収められていた。この地に迷い込んだのは何もマークⅠが初めてではなかった。アフリカが人類のルーツとして注目を集めた二十世紀には、各国の人類学者たちが大挙した。彼らのもたらした手土産は今でもポニュケレ・ドレルシュカフの国宝として保存されている。それはたとえば以下のような品々だ。
 ロシア製のマトリョーシカ。軽い驚きを伴って大人子供問わず微笑ませた。
 アメリカ人の持ち込んだ割れた瓶の破片。宝石と勘違いされた。
 同じくアメリカ人の持ち込んだタカラ貝。紐を通してアクセサリーに転用された。
 フランス人の持ち込んだロキスと呼ばれる円筒状の彩色ガラス細工。これもやはり宝石として扱われ、ポニュケレ人たちは不利な取り引きと知らずに貴重な品々を手放した。
 日本人が持ち込んだ備長炭と漆塗りの器。備長炭は空気を綺麗にし水を浄化し臭いを取り除き乾燥させれば繰り返し使える点がエコロジーだということで王のお気に召した。漆器は汁物をよそってもいつまでも腐らない木として驚かれた。
 これら文明の利器を王は魔導器として重用していた。国民を尊敬させ、己の絶対的な権力を保証する魔法の道具として。
 王は運ばれた品々の陳列を見て満足し、屈強な見張りを二名置いて倉庫を後にした。前庭に残したマークⅠの元へ戻ってきて、こう話した。
「約束通り、貴殿らの持ち物は我が所有となった。その代わり貴殿らを客人として扱おう。まずは住まいを与える。困ったことがあれば我が娘を通じて臣下の者に遠慮なく申すが良い。それから、祖国に帰れるよう便宜を図ろう」
 マークⅠは自由の身となった。しかしそれは動物園の檻からサファリパークへ移動したような自由だった。ポニュケレ・ドレルシュカフ国は陸の孤島。自力で帰る方法は無い。王によれば、使いを近くの町まで出してくれるとのことだった。その町から自動車でマークⅠを迎えに来させる算段だという。デヴィッドは「使いの方と一緒にただちに町まで移動したい」と訴えたが、その主張は退けられた。白人に徒歩で同行すると、使いの者たちにまで盗賊の危険が及ぶという理由からだった。仕方がなかった。マークⅠは車が迎えに来るのをただ待つしかなかった。
 こうしてポニュケレ・ドレルシュカフ国での数週間に及ぶ生活が始まった。
 王宮を出たマークⅠは世話役の住人たちに水を与えられた。水を入れる容器はさっき奪い取られたばかりの水筒だった。それから、何の動物かわからない生の肉片を一人につき数切れずつ与えられた。多少の抵抗はあったものの、南アフリカですでに野性的な生活に慣れ始めていた面々は、男も女もそれほど苦労せずにこの肉を食べた。鳥のような味がした。
 世話役の中年女から「夜は危険だから早く寝ろ」と身振り手振りで示され、マークⅠは宛われた小屋へと移動した。柱をドーム状に組み、壁を土や牛の糞で固め、屋根を草で覆って建てられていた。二人一組となり、ラグ兄弟・クラウン姉妹・ウォータールー夫妻と、デヴィッド&ジョニー、スージー&ドナの組に分かれ、五つの小屋に収まった。家主たちが各親戚の家に移動してくれたおかげで確保できた小屋だった。生活用品はそっくりそのまま残されていた。皿や壺や瓢箪が並び、茶色い衣裳などが壁に掛かっていた。羽毛を敷き詰めた床で、藁布団をかけて寝た。
 その晩、サベラは夢を見た。濃霧の中で羽毛に横たわっていると、羽毛が一角獣に変わった。一角獣はライオンに変わった。ライオンはタンポポに変わった。そしてタンポポは散り、何も見えなくなった。朝起きると、サベラの頬は涙で濡れていた。




 あれほど険悪な雰囲気だったマークⅠは、誰から提案するわけでもなく、いつの間にか和解していた。言葉も風習も違う異国人の社会に取り込まれ、コミュニケーションの容易な同国人のありがたみに今さらながら気が付いたのだ。急激な環境の変化に対する防衛線を張るため、自衛本能が働いて団結したのだ。ただ、テリーとジュリーだけは夫婦だけで過ごすことが多く、いつまでも集団生活に馴染めずにいた。
 ポニュケレ・ドレルシュカフの国民は、伝統的な狩猟採集を主にしながらも、野生動物や植物の保護を唱える王の改革で、農耕や牧畜を導入し始めている。そして、土着の宗教が狂信的と言えるほど強く信奉されており、シャーマンが強い権勢を有している。王と共に会議室に列席していた権力者たちも、みな何かしらの魔術を体得したシャーマンだった。
 王・王妃・呪医・呪殺師。トムは彼らにそれぞれ「ラクストン」「ホーキンス」「ロバート」「ボビー」というあだ名を付けた。ボビーは何となくボビーという感じの顔だったからだ。具体的にどんな顔か。ボビーっぽい顔としか説明しようがない。でも誰だって実際にボビーを見れば「ああ、ボビーって顔してるわ」と思うはずだ。トムの名付けのセンスは抜群だった。「ホーキンス」だけはその後「デイジー」に改名されたが。
 王であるラクストンは文明社会で教育を受けた変わり種だった。先代の王が武者修行として息子を成人するまでナミビアの学校へ「留学」させたのである。英語が話せるのはそのためだったし、近代的道具を一番うまく使いこなせるのもそのためだった。
 この国にあっては急進的な思想の持ち主で、伝統的な宗教は当然信じながらも近代的文化をポニュケレにもたらそうとしていた。知的好奇心は非常に旺盛で、マークⅠに色々なことを質問した。
 その範囲は、ヨーロッパの歴史と世界大戦、宇宙科学、最先端医療、貨幣経済や自動車の仕組み、英国の食生活や女王陛下について、芸術の存在意義、上級英会話、黒人と白人の髪の毛の質の違いなど、ありとあらゆる分野に及んだ。数学にさえ興味を示した。修得をすぐあきらめて地理学に気を移したが。
 ただし、彼には都会的な語彙が決定的に不足していた。たとえば「戦犯」「軍事接触」「通信兵暗合」などの語や「選挙」「原子力」「十二指腸潰瘍」を知らないのはもちろん、「猫」「飴」「クリスマス」などの幼児語も知らなかった。
 だからと言ってただちにラクストンの知性が劣っていると判断する材料にはならない。経験したことのない制度・見たことのない物体、それらを表す言葉は彼が普段使用することはなく、知らないのは当然だ。一方で彼は「失語症」「ポリリズム」「天の配剤」などの難解な語句を知っていた。
 彼が取り分け熱心に耳を傾けたのが北極の様子と地球温暖化についてだった。彼はエコロジーに高い関心を持っており、環境破壊は許せないと言って憤慨した。北極の氷が溶けて海面が上昇し、ホッキョクグマの住める場所が年々減少している事をプリシラが説明した時の激怒はひと方ではなく、プリシラは話題の選択を後悔したくらいだった。しかし、彼はそもそも氷を見たことがあるのか。海を見たことがあるのか。氷が溶けて水位が上がるということを果たしてちゃんと理解できていたのかどうか。それは甚だ怪しいと言わざるを得ない。
 近代化に向けて動くラクストンの熱意は大変な物だったが、何万年と培われた国民の意識を変えていくのはなかなか難しかった。ラクストンはある時、望まれない妊娠と性病を防ぐために町からコンドームを持ち帰った。国民を広場に集め、使用法を講義しようとした。近くの木にちょうど手頃な太さと角度の枝があったので、その枝にコンドームを被せて説明した。ああ悲しいかな彼らの言語の語彙不足、説明は十全に行き渡らず、男たちはそれを一種のまじないの道具と考えた。自分のペニスに装着することなど思いもよらず、昼間習った通り自宅すぐそばの木の枝をコンドームで覆った。各人強くうなずき、この霊験あらたかなゴム製の神具に願を掛けてからねぐらに戻り、いつも通りの自然体で妻と励んだ。
 ラクストンには八人の妻が居た。性欲と独占欲を満たす目的もあっただろうが、ガイドのドナによれば王家の血を後世に遺すためらしい。事実、ラクストンの妻たちはそれぞれ五人ほどの赤ん坊を産み落としていたが、現在元気に成長している王子や王女は総勢三十名に満たない。衛生状態も食物の栄養分も劣悪なこの国では、幼児の五分の一が五歳まで生きられない。王の遺伝子を存続させるためには、ちょっとやそっと死んでも大丈夫なくらいたくさんの子どもを産み、子孫の生存率を高める必要があるのだ。
 王権は世襲であり、通常父から長男へと受け継がれる。長男が死亡した場合は次男が、次男が死亡した場合は三男が継承する。歴代の王はミイラとして埋葬され、ある土地の支配者として永遠に君臨する。王が死ねば死ぬほどミイラが増え、ミイラの支配する土地が増え、生者が自由に出来る土地が減っていく。不可思議かつ不便な風習だが、ここポニュケレ国だけではなく、アフリカ各地や遠く離れた南米アンデス地方にも似た風習が見られるのは非常に興味深いことだ。人間の持つ、死への原初的な恐れなのだろうか。
 権力の移譲は代々受け継がれる一本の線かも知れないが、初代の王から現在の王に至る「血筋」は一本の線ではない。男の王ただ一人の力で息子を現世に降誕させるわけではない。神がアダムを捏ね上げたようにはいかない。息子には必ず母がいる。つまりラクストンは男Aと女B(スミスおばあちゃんのことだ)の息子であり、同様に、男Aは男Cと女Dの息子であり女Bは男Eと女Fの娘である。ラクストンに王者の血を授けた者は父なる男A(先代の王)と祖父なる男C(二代前の王)だけではなく、女B・女D・男E・女Fの血を少しずつ受け継いでいるのだ。
 トーナメント表をひっくり返してみると理解しやすいかも知れない。ラクストンが「優勝」の場所に座を占めるとすると、ラクストンの父母は決勝戦に当たる。ラクストンの祖父母二組は準決勝だし、四組の曾祖父母は順々決勝だ。このように、先祖は「父の父の父、そのまた父……」という一本道に遡る存在ではない。無数の枝葉末節からの血が収斂する終着点がラクストンだ。十五代前の先祖に至る道のりには十五人しかいないわけではない。二の十五乗、すなわち三万二千七百六十八人の血族が背後に控えている。恐るべきスケールで眼前に広がる家系図。想像してみるとちょっと恐ろしくなるくらいの規模だ。そして、思考の中でひっくり返したトーナメント表を通常見慣れたピラミッド型に戻してみる。その奇跡に感嘆せざるを得ない。三万人以上が参加した大会の、その頂点を極めたのがこのラクストンなのだ……。
 遺伝情報を「血」と表現することがよくある。血統だとか純血だとか、血縁やら混血やらいう言葉はどこから来たのか。ラテン語圏内では軒並み使われる表現であり、ここアフリカでもそれは同様だ。親から「血を受け継ぐ」というのもトムにとっては不可解で、輸血をするわけではないし、精液は血液ではない。
 血なんて見た目は万人一緒の赤色だ。肌の色が白でも赤でも黄でも黒でも、人類の体内を流れる血の色は赤い。では、何が各人の血に差異を与えるのか。そして、血が人間の個性を決定することを、古人はどうやって発見したのか。血液型や遺伝子の概念が無かった古代から脈々と伝えられてきた言葉であるから、目を凝らして血球を観察したわけではあるまい。色でなければ臭いか。血管の中を流れる方向か。脈拍か。試しにラクストンに聞いてみたら、彼は、こいつはアホかという表情を一瞬浮かべたあと、小学生に諭すような涼しい顔で「味だ」と即答した。
 ラクストンやマチルダと会話をする以外には特に何事も起きない、乏しい餌を定期的に与えられるだけの数日が経つと、トムはシャワーが恋しくなった。身体が埃と汗との堆積によって嫌になるくらい汚れていた。自分で自分の体臭が気になるというのはよっぽどだ。せめて雨が降れば良いと思った。パンツが臭ってきたので迷わず捨てた。家畜の山羊がしばらく鼻をひくつかせていたが、おいしそうにむしゃむしゃやり始めた。許容範囲の悪臭だったのか、むしろ食欲をそそられたのか、それは判断できない。
 降雨が極端に少ない地域だけど飲み水はどこで得るか。近くに川や泉など無い。ガイドのドナによれば「この砂漠に住む部族は、川や湖の水には頼らず、他の部族には決して捜し当てることのできないスイカを掘り起こしたり、ダチョウの卵の殻に雨水を貯めて土中に保存したりして、外敵の少ない砂漠で独占的に生活する知恵を有していたという話を聞いたことがあります」とのことだった。しかし、ドナには悪いがその情報は間違っているか古い時代の情報だった。この国には近代的な井戸が三つあった。紐を括り付けたバケツを投げ入れるだけの簡素な竪穴だが、人力のみで掘ったとは思えない見事な深さの井戸だった。この井戸のお陰で──もしくはこの井戸がここにあるがために、住人たちは放浪することなくこの地に留まっているのだろう。おそらくどこか外国からの援助なのだろうが、ラクストンに聞いてみても「知らない」「昔からここにあった」との返答で、これでは他国は支援しても甲斐が無い。「まあ、役に立ってるんだったらいいけど」プリシラは苦笑した。
 それでも、長い間雨が降らなければ井戸は涸れる。水道水を文字通り湯水のように使える文明国とは訳が違う。水は有限であり、決して無駄遣いは出来ない。
 しかしそれにしても雨が降らない。この乾燥地帯によくぞ植物が自生している物だと思うし、井戸の恩恵に預かれない野生動物が生き延びているのは奇跡のようだ。環境に適応しながら進化していったのだろう。生物というのは偉いもんだ、という会話を皮切りにして、ジョニーがトムに雨乞いに関する豆知識を披露する。
「古代の雨乞いの成功率は百パーセントだって、知ってる?」
「知らない。どういうこと」
「雨乞いをすれば、絶対に雨が降ったんだよ」
「嘘だろ。非科学的な祈りだけで雨が確実に降るってのはちょっと信じられないが」
「それはこういうわけだ。昔々、昔のこと。日照りが続き、雨が降らないと、水は不足し、農作物は育たず、古代の人たちは困った。そこで雨乞いをするわけだ。天に祈ったり、神に願ったり、舞を踊ったり。雨乞いの効果がすぐに表れる時もあっただろう。たまたま雨雲が接近していて、偶然にも雨乞いのタイミングと重なったりしたら。そういう場合はラッキー。そして、そういう場合、雨乞いをしなくても雨は降ったはずだけど、しかし古代の人たちにとっては、『雨乞いのおかげで雨が降った』ってことになる」
「ふむ」
「ここまでは、雨乞いの成功率は百パーセント、だ。しかし毎回そううまくいくはずはない。本当に旱魃続きで、いくら雨乞いをしても雨が降らない場合もある。そういう時、雨乞いは失敗じゃないのか。成功率百パーセントにはならないんじゃないか。そう思うだろう。いいや、雨乞いは必ず成功するんだ。絶対に雨は降るんだ。古代の人たちはどうやって雨を降らせたと思う?」
「わからないよ」
「雨が降るまで雨乞いをしたんだよ。一旦雨乞いの儀式を始めたら、それは実際に雨が降るまで延々と続けられた。途中であきらめて中断すると言うことはなかった。いくら祈っても降らない場合は『自分たちの祈りが弱いんだ。もっと強く祈らねば』と考えたし、どんなに願っても聞き入れられない時は『神はまだ満足されていない。私たちの信仰を試している』と解釈した。数週間舞を踊っても効果がない時は生け贄を捧げた。生け贄を捧げても雨が降らない時は、生け贄の数を増やしたり、生け贄の質をグレードアップさせたりした。羊じゃ効果がなければ、人間の子どもを犠牲にしたり、ね。雨が降るまで、雨乞いは続けられる。中途半端に放り投げるということはなかった。古代の人たちは、雨乞いの効果を信じ抜いて、最後まで、やり遂げたんだ。これが、雨乞い成功率百パーセントの理由だよ」
「なるほど、すごく面白いな。古代の人たち、ちょっと馬鹿らしくもあるけど、その純真さにはなんだか感動すら覚えるよ」
「でもこの村の連中も似たようなものじゃないか?」
「確かにな。雨乞いは何千年も前にあきらめてしまった感じだが」
「俺たちが代わりに祈っておこうぜ」
「ああ。神様! 天然のシャワーが浴びたいです! 頼んます!」
「ははは」
 その晩、強い風が吹いた。デヴィッドとジョニーの寝ていた小屋は屋根の一部が飛ばされた。翌朝になると空には雲が掛かっていた。気象学的には「曇」まではいかないが、空の七割から八割ほどは雲に覆われていた。住民たちも空を子細に観察しながらじっとしていた。子どもたちは動物をいじめる時のようにぎゃあぎゃあ騒ぎ出した。家畜たちも雲の動きを窺っていた。木々までもが空を見上げていた。
 古代中国人は雲を巨大な動物と想像した。古代西洋人は雲の上に天国が存在すると空想した。ポニュケレの人はどう思い描いているのだろう。トムはラクストンに尋ねてみた。「雲。あれは湯気のかたまりだとおれは思う」王の答えは予想外にまともな物だった。しかしすぐ、こちらの気持ちを見透かすように微笑して「だけどそういう答えを望んでるわけではないのだろう。ポニュケレ・ドレルシュカフに伝承されている解釈を知りたいんだろう」と確かめた。トムはバツが悪そうにうなずく。ラクストンは首をすくめてから話し始めた。
「先祖の遺した壁画によれば、あれは死んだ人間の魂の集合体だ。人は死ぬと魂だけが抜け出し、空に昇って行く。それら無数の魂は太陽の周りに集まり、ある程度の数が集まるとああやって白く可視化する。そして、魂の集合体は地上の様子を見て、魂の血を降らせる。肉体の血は赤だが、魂の血は透明だ。それがすなわち雨なのだ」
 この説明にトムはすっかり感心し、ついでに雨乞いについても聞いてみた。
「先代の王パウアールの頃は太鼓を叩いて雲を呼んだ。おれたち生きた人間はここにいるぞ、ここに来て雨を降らせてくれ、そうアピールしたんだ。キリンが雨を呼ぶと古来から言われている理由は、あの動物が空から見えやすいからだ。群を抜く背の高さが死者の目につきやすいのだ。キリンよりも小さいおれたちは雲からは見えにくい。だから音でアピールをした。太鼓を叩く際は雨が来るまで叩き続けた。交代で叩き続け、決してやめなかった。途中でやめてしまったら、せっかく呼んだ魂が迷ってしまうからなみんな一緒に唄を歌った。詳しくは洞窟に描かれた古代壁画を見るが良い。機会が在れば呪殺師に案内させよう」
 トムが勝手に「ボビー」と名付けた男が呪殺師だ。彼には英語が通じないはずだ。大丈夫だろうか。少し不安なのでトムは丁重に断ってみたが、ラクストンは「遠慮するな」と言って洞窟ツアーを強引に約束してくれた。
 風はますます強くなった。空がほんの少し暗くなった。雲が身体をよじった。なんだか寂しそうだった。
 ラクストンとトムが雲の行方を眺めているとそこにハリーも合流した。佇んでいた二人は少しハリーを見遣っただけですぐ上に視線を戻した。ハリーも黙って空を見上げた。一雨来そうだ。待望の、魂の血液が。
 ラクストンは好ましそうに口元を緩めながら視線を地面に落とした。目の色が変わった。トムもハリーも気が付かなかった。近付く嵐を。
 王宮の前庭に一つのゴミが落ちていた。
 この国では有り得ない、都会のゴミ。
 ペットボトルだった。
 キャップは無く、ラベルは全て剥がれ、どんな飲み物が入っていたのかは不明。細かな無数の傷によって透明度は低く、あちこち潰れている。容器としての用は成さない。
 このゴミを発見したラクストンは、外見は穏やかだが中は煮えくり返っている原子炉さながらだった。唇を噛んで震えていた。そして静かに呟いた。呪詛「このゴミを捨てた者に災いあれ」を。
 赤いマントを羽織った呪殺師に、努めて穏やかに、命じる。呪詛を。
 怒りを抑えきれず、たまりかねて絶叫する。呪詛を。
 ラクストンの声に驚いて雲は逃げていった。風も雲のあとを追って遁走した。空は再び青く晴れ渡った。
 呪殺師のボビーが、ペットボトルを握り締めて「まじないの社」に向かう。王と王妃と王の母もそれに続く。この小屋は王宮の建物の内で最も魔術の高まる小屋で、中央には火を熾す炉、壁には無数の骸骨が飾ってある。牛や羊のそれに混じって人の物も掛けられている。
 とてもじゃないが「見学させてくれ」と言える雰囲気ではなかったけれど、好奇心に駆られたラグ兄弟は戸口からその様子を覗き見た。ラクストンは二人の存在を気にしていなかった。問題は無さそうだったので兄弟は遠慮なくその場に留まり、のみならず小声で囁き交わした。
「あのゴミはマークⅠの誰かが捨てたとしか考えられない」
「聞いておくけど、兄貴じゃないよな」
「もちろん違うわい。おまえでもないな」
「ああ俺でもない。誰だろう」
「あんなペットボトルを持って来てたヤツ、いたか? みんな魔法瓶の水筒を持って来てただろ」
「誰かこっそり持ち込んでたんかな」
「子どもの頃に観た『神々はきっと狂ってる』って映画、覚えてる?」(※邦題は『ミラクル・ワールド ブッシュマン』)
「ああ。内容はよく覚えてないけど」
「コーラの空き瓶が飛行機からアフリカ原住民の村に落ちて来て……ってやつ。あれと似てるなと思って」
「そうだな。それにしても、どうすんだろ」
「犯人を特定する術でもあるのか」
「面倒くせえなあ。俺たちまで容疑者にされたらたまったもんじゃないな」
「捨てたヤツは告発される前に自ら名乗り出てほしいね。俺たちに迷惑が及ぶ前に」
「いやあ。あんな誰の所有物かわからないゴミ、正直に白状する奇特なヤツはいねえだろ」
「それにしてもすごい怒りっぷりだったな」
「普段はあんなに貫禄ある人なのにな。すげえ興奮してた」
「男のヒステリックは見苦しいぜ」
「やめろ。聞こえたらどうする」
「しっかし、何が始まるんだ? これから」
「普通に考えたら犯人捜しだろ。あのペットボトルを使ってDNA鑑定でもするのか」
「おっかねえな」
「犯人なんてわかるわけない。でも、俺たちの誰かのせいにされるんだろうな。で、誰でもいいから見せしめに処刑するつもりかも知れない……」
「うそだろ」
「でもあの怒りぶりを見ろよ」
「じゃあ何か。俺たちのうちの誰か、犯人だって断定されたヤツが、殺されてしまうっての」
「もしかしたら俺かおまえが捨てたって因縁つけられて、ぶっ殺されるかもよ」
「冗談じゃねえ」
「ずさんな捜査による誤認逮捕! 法は守ってくれないぜ」
「まったく冗談じゃねえ」
 二人は悪戯っぽく会話を交わしていたが、小屋の中はあまり愉快ではない雰囲気になった。それで、ラグ兄弟は背筋に寒いものを感じて軽口を叩くのをやめた。
 呪殺師のボビーは筒状に丸めた羊皮紙を用意した。──羊の皮かどうかわからないが、なめした動物の皮だ。ボビーは畳まれたそれを丁寧に延ばして床に拡げる。約五十センチ四方の茶色い紙には魔法陣が記されていた。正確な大円の中に、それよりはやや小振りな同心円をいくつか描き、幾何学的な直線が縦横に走る。驚くべきことに六芒星と五芒星の混合だ。星図を思わせる魔法陣だった。
 ハリーはほんのわずかな期間、グラストンベリー出身の女と付き合っていたことがある。イギリス南西部にあるその町は魔術の聖地とされ、魔法関係の店が多く、町の至る所に五芒星が掲げられている。職業魔女としてカウンセリングをしているおばあさんに習ったとかで、その女はハリーの前で降霊術を披露した。その折りに、今ボビーが使っているような魔法陣を見掛けた。この図案はアフリカが起源なのか。それともヨーロッパの黒魔術を輸入したのか。どちらが先かちょっと判断できなかった。
 ボビーは魔法陣の上にペットボトルを置いた。そして呪文のような文言を口の中でもぐもぐ言わせながら深い酩酊状態に入っていく。王妃が火を熾し、スミスおばあちゃんが壁の骸骨を順番に触る。この妖しげな儀式の様子にラグ兄弟は固唾を飲んだ。
 王以外の三人による呪文の詠唱が数分間続き、やがて呪殺の儀式は完了した。招かれざる客の存在に最初から気付いていたラクストンは戸口に来て、ラグ兄弟を叱るでは無しに、今の儀式の意味を説明した。
「彼は人を呪い殺す術を知った呪殺師だ。殺害対象となる相手の顔を象った仮面か持ち物、もしくは獲物をかすめた刃物など、いずれかを魔法陣に載せて祈祷を行なえば、相手は死の呪いによって殺される。このゴミを捨てた者を呪うよう指示した。この呪いは一度発動したら取り消すことはできない。このゴミを捨てた者は、早晩、必ず、死ぬ」
 ラグ兄弟の表情は凍り付いた。
「まさかおまえたちのどちらかが犯人か」ラクストンの問いかけにラグ兄弟は思いっ切り首を左右に振り回す。「ふん。どうだかな。それは時間が経てばわかることだ。効果はすぐには出ない。しばらく時間が掛かる。何日か、もしくは何週間か。あるいは何年か」
 それを聞いてハリーは思わずにやりと笑ってしまった。その態度が癪に障ったらしく、ラクストンは鼻腔を拡げて声を荒げた。
「貴殿は信じてないのだな。呪殺師の力を。我々の魔力を。いいだろう、すぐに効果を見せられる秘術をご覧に入れよう」
 ハリーは慌てて真面目な顔を作って手を左右に振ったがもう遅い。ラクストンは呪医のデブに何か命じた。



呪医ロバート
 この国の栄養事情でよくぞここまで肥えたものだと思う。呪医は大変太っていた。ポニュケレ・ドレルシュカフ国全住民のうちで一番の巨漢であることはもちろん、マークⅠの誰も彼の体格には敵わなかった。身長はジュリーよりも低かったが。
「この体型は高校時代の級友のロバートに似ているな」と思い、トムは呪医をロバートと命名した。
 呪殺の儀式を終えたばかりのボビーはトランス状態が続いてぐったりしていた。床に伏せた彼をロバートは抱き上げ、住居へ運んでやった。そして今度は別の小屋から女を担ぎ上げてまじないの社に戻ってきた。何が起こるのだろうとラグ兄弟は目を見張っていたが、その目は女の姿が近付くにつれてさらに大きく開かれた。
 女はぐったりとしている。この角度からは顔は見えないが意識は無さそうだ。土気色だった。黒人特有の色に銀色を加えた肌だった。変色していた。ゆるやかに腐敗の始まった死体だった。
 それほど死体を見慣れていない、しかもここまで腐敗の進んだ死体を見るのは初めてであるラグ兄弟は度肝を抜かれた。
 白人の臆病さを明らかに小馬鹿にした笑いを浮かべながらラクストンはこう言った。
「まじないの社は今ちょうど魔力が高まっているから、ついでに呪医にも仕事をしてもらう。その様子を特別に見せてやろう。ただし、決して音を立ててはならない。静かな環境でなければ集中できないからな」
 ロバートは女の身体を筵に横たえ、衣服を脱がせた。二十代前半だろうがとても美人とは言えない。銀色の乳房の上の乳首は一際黒ずみ、股の間の剛毛は有刺植物の藪よりも深くごわごわと繁っていた。まったく性欲をそそらず食欲を削ぐ裸体だった。ハリーは自分の軽率な笑いに対してうんざりするほど後悔した。トムは吐き気が込み上げるのをこらえながらせっかくの機会とばかりに儀式を熱心に見守った。
 ロバートは女の顎を無遠慮につまんで上を向かせ、口の中に息を吹き込み、汚れたスプーンで咽喉に薬を詰めた。そして、麻袋に手を突っ込み、そこから取り出した得体の知れない粉を、女の全身になすりつけた。万遍なく、首から肩、腕、脇、胸から腹、股から脚。ひっくり返して背中、腕、尻から脚。女は粉に覆われて白っぽくなった。
 ロバートは女の周囲を廻りながら同じ言葉を繰り返し始めた。その語には、西洋人には発音の難しい吸着音が含まれていたが、ラグ兄弟の耳には「キャンディ」と聞こえた。もちろん飴玉ではない。普通に考えれば呪文の一部だろうが女の名前かも知れない。呼び掛けるような、命令するような口調だった。そしてそこへ時折「アブラカダブラ」と言っているように聞こえる呪文を差し挟んだ。
 アブラカダブラ。聞いたことのある呪文にハリーはまたしても違和感を覚える。ボビーが用いたさっきの魔法陣といい、この呪文と言い、魔術や妖術や超能力といった類の胡散臭い行為は全てこの地がルーツなのではないかと、ハリーは本気で思う。まやかし・迷信・妄想の総本山。それがポニュケレ・ドレルシュカフ、ひいてはアフリカ大陸なのだ、と。
 ロバートの声は次第に大きくなり、焼け糞気味になる。うまくいかなくて苛立っているような、異邦人を前にして絶対に恥は掻きたくないから無理にでも奇跡を起こしてやろうという風な、おのれのプライドを死守するための必死な努力に見えた。
 女の睫毛が少し動いた。気がした。風が迷い込んだか羽虫でも止まったかとハリーは思った。それ以上睫毛は動かない。ロバートは呪文を絶叫し続ける。「こいつの息吹が触れただけかもな」と思う。そしてその次の瞬間「もしかしたらこの目がひらくんじゃないか」と予感した。果たせるかな、睫毛が震え、まぶたが動き始めた。ハリーに驚きの感情はない。自分の予感がまんまと的中したので、「ほれ見ろ」手品のタネを見破った時のような優越感を感じただけだ。ハリーはトムを横目で盗み見た。トムは極めて真面目な表情で女の顔面を見守っている。兄は少し軽蔑したような溜息を吐く。鼻から空気を抜くと、すぐに唇を結んだ。ラクストンにまた見咎められたら面倒だと思い出したのだ。
 死んでいると思われた女は、生きている状態へ刻々と推移した。肉と肉の隙間から眼球が徐々に萌芽した。赤みを帯びた白目の中央に膨らむその瞳は濁っておらず、表面はしっかり濡れていた。女は生きている。トムはまだしもハリーに格段の驚きはない。簡単に驚いたりしてラクストンを喜ばせてしまわないよう無意識に自らを律しているのかも知れない。
「見事な死に顔メイクだ」と、ハリーは思う。「虫や草の実を潰して作った顔料で、全身を腐乱したような色合いに塗りたくったのだろう」そう考えた。そして急に馬鹿馬鹿しくなった。「未開人が一丁前に手品の真似事などするからこういう退屈な芝居を観させられるはめになる」ただし、この奇跡の実演を全面的に否定するわけではなく、認めるべき所は認める。「でも、メイクだけは見事だ、と素直に思う。黒人の死体を見慣れているわけではないが、この腐っているような肌の色合い、すっかり信じ込んだもの」
 一方、弟のトムはこの秘術にばっちり圧倒されていた。ゾンビ映画のワンシーンを間近に見せつけられているような、心地よい恐怖と、倫理に反する物を黙認しているような、禁断の快感を味わっていた。ほんの小さな子どもの頃、親に内緒でポルノ映画を観た感覚と酷似している。生々しい性へのささやかな嫌悪感と、見てはならない映像を観ている甘美な背徳感と、混ざり合ったあの感覚に。
 女はそれ以上大きく目を開くことはなかった。いかにも眠そうな、普通の寝起きの様子だった。喉が大きく迫り上がり、咽喉に詰まった薬が嚥下されるのが見て取れた。女は呼吸を始め、胸がゆっくりと上下した。風はないのに空気が動いた。ロバートはまだ叫び続けている。「キャンディ、キャンディ」と連呼している。それは結局呪文ではなく、女の名前だった。成り行きを静観していたラクストンが、術がほぼ成功したのを確かめてからそう教えてくれた。「名前は魂そのものであって、それを他人が口にするということは、その人の魂を殺すことになる」というこの国の考え方からすれば、ロバートは女の魂を殺したことになる。もしくは、この女が本当に死んでいたのだとするなら、女の霊魂は自主的に呪医へ本名を明かしてしまったのだろう。
 皮膚の色は変化せず相変わらず腐った銀色だ。目の焦点は定まらず表情はぼんやりとし、白痴のようだ。乳房にはまだ張りがあるが、腹部の辺りの皮はやや垂れている。ロバートは、女が死者であることの証拠として、女の腕を恐ろしく長い針で刺した。血は出ない。呪医はラグ兄弟の方を向き、得意げにいやらしく唇の端を吊り上げて笑った。
「おいおい。死人のくせに痛がってるじゃないか」
「かわいそうになあ」
「もうちょっとプロ根性を見せてほしかったところだな」
「そりゃ無理な話だろ。あれ絶対痛いもん」
「マシュー・ホプキンスみたい」
「誰それ」
「中世暗黒時代の有名な魔女ハンターだよ。無実の一般女性をトリックで魔女に仕立てて処刑しまくった最悪の男だ。『刃物で刺し貫いても血が出なければ魔女』と定義してから、刃先が引っ込むインチキナイフを押し当てたんだから酷いもんだよ。こいつも似たようなまやかしを使ってんじゃないか」
「でも、血は出てないけど本当に痛そうだぜ」
「マジで刺さってるっぽいね」
 苦痛に顔を歪めた女はベッドの上に起き直ると、しばらくそのまま茫然と前を見つめていたが、やがて覚束ない動きで立ち上がろうとした。危なっかしい足取りでいかにも頼りない。麻痺した脚を引きずるようにして、なんとか立ち上がった。そのまま腕をだらりと下げたまま心持ち頭を左に傾げて立ち尽くした。
 ロバートは女の名前を呼びながら色々な命令を下した。現地の言葉でおそらく「歩け」「右手を挙げろ」「左手を挙げろ」「首をねじれ」「舌を出せ」「乳房を掴め」「ケツを振れ」の順に。ロバートは再度汚い笑顔をラグ兄弟に見せ、その眼光で「どうだいい女だろう。だが俺のだ。おまえらは触れるな」と語った。まっぴらごめんだと兄弟は思った。
 ある程度見世物が済むと、ロバートが女に何か言った。女は焦ったように急に喋り始めた。
 ハリーがラクストンに聞く。
「女に何を言ったんです? 女は何て言ってんです?」
「彼は、女に対し、『その肉体が朽ちるまで砦の守備に当たれ』と告げたんだ」ラクストンは呪医の言葉だけ翻訳し、取り乱すゾンビ女の言葉は翻訳しない。「女は何て?」もう一回聞こうとしたらラクストンは不機嫌そうな顔になったので、トムはそれ以上追求をしなかった。女が何を言っているのか言葉は全く理解できなかったが、その身振りや必死の形相から「自分は死んではいない、生きている生身の人間です」と主張しているようにも思えた。
「砦って何です?」トムが聞いた。
 ラクストンは顔色一つ変えず答える。「外敵の侵入を防ぐための砦が小高い丘の上にあるのだ。あのキャンディーと言う女は、肉体が崩れ落ちるまで、その砦で警備の任に就くのだ。食事や睡眠などもちろん与えられず、休みなく、壊れるまでな」
 どうやら本気で言っているようなのでトムはぞっとした。奴隷以下の扱いではないか。罪人だってそんな苛酷な労働はさせられないだろう。法治国家ではとても考えられない、人権を著しく無視した悪逆非道の行為だった。
 女が不憫すぎてトムは続ける。「あの女は……元々どういう人間だったんですか。何か罪でも犯したのですか」
「貴殿らが入国した翌日に彼女は死んだ。原因はわからないが、高熱にうなされ、口と尻から血と便を死ぬまで噴出して死んでいった。この女は子どもを一人も産まなかった。子孫を一人も残さず死んでいった。これは重大な罪だ。だから、魂を剥奪することにし、終わり無き労働の罰を与えたのだ」
 トムはあえて何も反論しなかったが、文明人の常識からすればラクストンの思考は常軌を逸しているとしか言えなかった。ハリーも戦慄し、口は災いの元とばかり何も意見を発しなかった。
 二人が黙ったのは蘇生術に心底感心したからだ──ラクストンはそう判断した。自分たちの自慢の魔術が本物であることを証明し、文明人どもを驚愕させられたことに心から満足した。ゆえに上機嫌となり「友よ。そんなに恐がることはないぞ。この女は完全に制御できている」と、ラグ兄弟を慰めさえした。兄弟は苦笑いしか出来なかった。
「死者を蘇生させることには問題点が二つある」ラクストンは饒舌となる。「一つ。死者は身体だけの存在で、中身は空っぽだ。つまり、魂は抜けている。だから身体を蘇らせても意思を持たない無表情な人間となる」ゾンビの問題点をぺらぺらと喋る。「二つ。貴重な薬が必要で、糞石と呼ばれる神秘的な石を砕いた粉末を手に入れなければならない。糞石は野生の山羊の胃の中で作られる結石だ。貝から穫れるという真珠や、腐った鯨から採れるという竜涎香と似た出自と言えるだろう。まあ、真珠や竜涎香の現物をおれは見たことはないが。いずれにせよ糞石は自然天然には稀にしか現れない。呪医の袋の中身はとても貴重な物なのだ」英語のわからないロバートは、まさか王様が大事な秘密をたやすく打ち明けてしまっているとは夢にも思わない。
 死者は砦へと移動するよう命令された。ロバートの指示で五人の男たちが死者の周りを囲む。操られているはずの死者はあきらかに嫌がっているようだった。両側から肩を抱かれ、立たぬ足腰を無理に引きずるよう連行されていく。素っ裸の死者は涙を流しているようだった。「意志を持たない無表情な人間」とやらとは大きく異なっているように見えた。しかしラグ兄弟は何も指摘しなかった。ただただ恐縮したまま、砦へ向かう列に加わる。ロバートを先頭に、死者と、死者を取り囲む男たち、そして最後尾をラグ兄弟とラクストンが続く。住民たちは、この村ではする事がないのだから当然だが、狩猟や採集に出掛けている者を除くほとんど全員がこの行列を見物した。老人は好ましそうに目を細め、年頃の男たちはアイドルのコンサートのような歓声を上げ、子どもたちも実に楽しそうだった。
 泣き顔で顔をグチャグチャにした死者は、喚いたり、地面を蹴って土埃を立てたり、唾を吐いたり、おおいに取り乱しながら引きずられていく。そのうち脱糞するのではないかと思い、すぐ後方を歩くトムは死者の尻の穴に注目しながら歩調を合わせる。
 死者の歩みが遅いのに業を煮やし、男五人掛かりで死体を担ぎ上げた。見えない棺を運ぶ葬儀屋。死者は何とか逃れようと藻掻いている。運びにくそうだ。ロバートが死体の土手っ腹に拳を一発めり込ませた。さっきより大人しくなった。
 たっぷり三十分歩いてやっと丘に差し掛かった。足場の悪い斜面を登ると、泥で作られた煉瓦を積み上げた建物が頂上に見えてきた。顔色の悪い全裸の貧農たちが壁際を這い回っている。正体不明の根菜や芋を栽培した畑の手入れをしているようだ。ロバートがこの哀れな操り人形たちを大声で呼ぶ。呪医が彼らに発した単語は呪医が彼らからもぎ取った名前かも知れないし、単なる識別のための番号かも知れない。人権を剥奪された傀儡たちは悲しいほどに卑屈だ。げっそりと痩せた彼らはラクストンとロバートを必要以上に恐れ、支配者たちの登場に戦き錯乱しているようでもあった。
 連れて来られた新しい死体は地面に投げ出された。彼女、キャンディは、一生この砦で雑用をして過ごすのだろう。本物のゾンビかどうかは関係ない。自由意思を失ったロボットとして、彼女はこの流刑地で消耗品の役目を果たす。さっそくキャンディは砦の見張り台に立った。百年先を見つめているようなうつろな表情で。
 ラグ兄弟はすっかり嫌気が差し、意気消沈した。その様子を見てご満悦のラクストンは「どうだ、恐れ入ったか。これでも我々の力を信じないか」と、挑戦的な口振りで兄弟を威圧した。兄弟は呪医の手腕を恭しく評価し、その支配者である王を誉め讃えた。ハリーは特に慎重な態度で王を賞賛した。
「蘇生は比較的すぐに効果が表れるが、呪殺は時間が掛かる。それはご納得いただけるかな」
 兄弟はもはや王と目を合わさず、頭を上下させながら慇懃な肯定のあいさつをするばかりだ。
 王は顎を撫でながら力強く告げる。
「だから、あのゴミを捨てた者は、必ず死ぬぞ。間違いない。もはや助かる方法はない。地球を汚す者は、なんぴとたりとて許しはしない」
 ラグ兄弟は深々と頭を下げ、まじないの社をあとにした。すぐにマークⅠの元へと帰り、ラクストンたちの異常性を警告した。いわく、思考回路が完全に狂っている、決して歯向かわない方が良い、適当に相槌を打って深く関わらないようにしろ、など。魔術に対して半信半疑になったトムはまだしも、ハリーは絶対に魔術の類を信じる気にはなれなかった。いかに未知のアフリカだとしても結局はここだって地上なわけだし、いかなる不可思議も科学的根拠が無い限り信じようとしなかった。兄弟のこの違いは、ハリーが魔術かぶれの女と残念な恋愛をした苦い記憶に起因するのだろう。
 しかし、やっぱりさっきの女は本物の死体だったと考えても良いかも知れない。なぜならこれ以降、ポニュケレ・ドレルシュカフ国では紛う方のない死が次々と咲くことになる(特に乳幼児はマークⅠが到着する以前も以後も毎日のように死んでいる)のだから。



あなたは私を得ない
 町まで車を呼びに行った使いの者はなかなか戻って来なかった。ペットボトルの犯人は判明しない。雨は降らない。毎日が単調に過ぎていった。
 マークⅠの大半がポニュケレでの生活にうんざりし始めていた。
 食事は大変まずかった。出される食べ物に塩気はなく、時に吐き気を催すほどの味だった。無理矢理胃の腑に収めても翌朝下痢をしたり、酷い腹痛に襲われもした。野菜不足で深刻な便秘にもなった。水は貴重なので煮炊きをする料理が存在せず、筋っぽい生焼けの肉がしばしば出された。酸っぱいヨーグルトには必ず蠅が浮いていた。ある昼食では羽根や足をもいだ虫が十匹ほど出されがその時はデヴィッドとドナ以外のことごとくが絶食をした。
 地べたに申し訳程度の羽毛入り麻袋を敷いた寝床で熟睡できたのはドナくらいだった。他は一様に毎朝背中や肩や腰の痛みを訴えた。それに、安眠を妨害する騒音が一晩中聞こえた。赤ん坊の泣き声や、肺病病みの咳や、ジャッカルの不気味な遠吠えがそこかしこで鳴り響いていた。マークⅠを不安にさせる音が充満した不穏な空気。ただ星々の煌めきだけが美しい。
 頭にシラミが涌き始めた。髪の毛は水分を失ってボサボサになった。男たちは髭が伸びていった。女は日焼けで肌が赤く荒れていった。表皮に垢が堆積して浮浪者のようになっていった。
 水が貴重な地域なので入浴の習慣が無く、洗濯もできない。常に服はほこりで汚れ、靴の中には砂が入っていた。男ばかりでなく女たちもとうに下着を捨てた。靴下は強烈な酸い臭いを放ち、その刺激臭には家畜でさえ遠ざかる。ハリーが靴下を手にぶら下げて山羊たちを追いかけ回したのには皆笑った。
 トイレはその辺の草むらで行なうが、手近の葉っぱで尻を拭くので満足行く後処理は出来なかった。直履きのズボンは股ぐらに汚れが浮かび始めた。テリーのズボンは臀部がどす黒く染まっているのが離れていても見て取れた。
 食べ物に乏しい土地でも蠅は我が物顔で飛び回る。不潔な場所ならば世界中どこにだって現れる。食肉や果物の上を這い、虫の死骸や糞の上にたかったあと、お行儀良く手足を擦って浄めてから人の顔にへばりつき、耳元で羽音を五月蠅く響かせ、口の中に侵入してこようとする。ある朝、ジュリーは自分がしたばかりのうんこに蠅がたかっているのを股下に発見したとき、一抹の不安を覚えた。不安は的中した。糞を舐めていた蠅が、突然何か思い付いたように茶色の堆積から飛び立ち、迷うことなくジュリーの唇に留まった。感謝のキスをしたつもりだったのだろう。自分の排泄物と間接キスをした感覚に、ジュリーの顔から一遍に血の気が引いた。パニックに陥った彼女は蠅を追い払おうと腕を振り回し、そのためにバランスを崩し、そのまま尻餅を付いた。
 マークⅠは疲弊していった。
 それでも、文明世界に戻れる日がすぐ来ることを信じ、その日が訪れるまで少しでも愉快に過ごそうと日々を送った。
 スージーは子どもたちと仲良くなった。子どもたちが一番なついてるのは同じ黒人のドナと、子のいない割には子どもの扱いに長けたジュリーだったが、その次に人気を博しているのはスージーだと断言できた。彼女は子どもと遊んでいる時間がダントツに長かったから。
 この国には電気が通ってないので携帯電話はとっくの昔に充電切れ、いじって時間を潰す事は出来ない。みんなのように本を持って来たりもしていない。ジョニーから小説を一冊借りてみたこともあるがちっとも面白くなかった。子どもたちと遊ぶ以外本当に何もやる事がなかった。しかしそれは無聊に苦しんで仕方無く行なう退屈しのぎなどではなく、心から楽しいと思える心の交流だった。スージーは無邪気な子どもたちが本当に大好きだった。
 マチルダもスージーになついた。スージーから英語を教えてもらったり、イギリスはどんな国か教えてとせがむ時のマチルダは本当に嬉しそうだった。マチルダにとってもスージーは良い話し相手だった。この国に来てからは夫のジョニーとよりも多く会話をしているかも知れなかった。
 ポニュケレ滞在中スージーは一度もジョニーと同衾していない。ドナと寝起きしている。マークⅠ成員のほとんどは夫婦や兄弟で、独り身はデヴィッドとドナだけだった。ラクストンから提供された小屋は全部で五つだったが、ドナを一人ぼっちにさせないよう、スージーが自ら進んでドナと一緒の寝床に収まることになった。弾き出されたジョニーは渋々デヴィッドと同じ小屋を共有した。
 子どもたちはスージーと遊ぶのが楽しくて楽しくてしょうがない様子だったが、スージーも子どもたちと遊ぶことで随分と救われていた。食事のまずい、何も娯楽の無い貧しい村にあって、子どもたちとの交歓は唯一の慰めだった。ただし、胸が張り裂けるほど悲しいことが日常的に起こった。
 ここでは子供がよく産まれる。と同時によく死ぬ。毎日のように子どもの死を見なければならなかった。
 母親は我が子の死を悼むが、村人の他の誰も、そして父親でさえも、悲しんでいる様子は見せなかった。それと言うのも、すぐに代わりが産まれるからという意識から来る、まるで割れた食器の後始末のような趣だった。昆虫の世界を思わせた。幼虫の生存率が低いからこそたくさんの卵を産む昆虫の生態を。
 人が死ぬと、王以外のシャーマンのいずれか(スミスおばあちゃん・王妃・呪医・呪殺師)が死者の霊と交信をする。そして本名を聞き出す。しかるのち、遺体は国の共同墓地に土葬される。死者が罪人だった場合、キャンディがそうだったように、永遠とも思える罰が下される。
 死んだ赤ん坊からは名前を聞き出さない。たくさん死ぬからというのもあるが、言葉を覚える前に死ぬので、どうせ名前を聞き出す事は出来ないのだ。
 子どもの生き死にに関しては、スージーは不思議な場面をよく目にした。たとえば、死んだと思った子供が、次の日元気に飛び跳ねていた。生き返ったのか。死んでなかったのか。双子なのか、それともクローン人間か。そもそも同じ顔に見えるだけか。スージーには判断がつかないが、昨日死んだはずの子供が今日も生きていた。この謎に対してスージーは「自分の脳が栄養不足で錯覚を起こしているだけ」という論理で納得している。
 ハリーもこう言っていた。
「死んでる女を呪医が生き返らせた一件だが、あれはトリックであって、絶対に死人が生き返るはずがない。死者が蘇って動き回る──いわゆるゾンビのことだが、ゾンビの目撃談、その真相は三パターンしかないと俺は思っている。ゾンビを見たと主張する人間の頭がおかしい場合。死んだ人とよく似た人を見かけて、人違いをする場合。そして、死んだと思われていたが実は死んでいなかった場合。以上の三つだ。三つだけだ。死者が魔術によって蘇った場合、という四つ目は有り得ない。トムはあの魔術の効果を少し認めてしまったようだが、俺は絶対に認めない。元々あの女は生きていたんだ」
 ハリーの言う通りだと思う。私の頭は栄養が行き届いてなくて普段より疲れてるんだ。スージーはそう自己分析をしている。
 子どもたちとは手遊びをよくした。丸太の輪切りを転がして遊んだ。歌も唄った。イギリスの童謡を教えて合唱したが言葉が通じないので歌詞は「ラララ」のみだった。
 そしてお絵かきの時間が子どもたちには特に好評だった。ある日マチルダが、「王が子どもたちに絵の描き方を教えてやってくれと仰っています」と言い、哀れなサベラから奪い取ったスケッチブックと色鉛筆を持って来た。スージーは地面に座り、得意ではない絵を描き始めた。子どもたちはその様子を興味津々で見つめている。何を描いて良いかよく分からなかったので下手くそな漫画のキャラクターを即席で描いた。子どもたちはみるみる笑顔になった。白い紙の上に人の顔が現れたのにすっかり興奮していた。スージーも照れ臭そうに笑って、スケッチブックと色鉛筆を子どもたちに渡した。子どもたちはスケッチブックから思い思いに紙をちぎり取り、地面に寝転がってお絵かきを始めた。筆圧が強すぎるので紙は破けてしまったが、子どもたちはそんな些細なことには頓着しない。歪んだ丸を列ねたり出鱈目な線をたくさん引っ張っる。しまいにはお絵かきとは呼べない作業に発展し、白い部分を全て塗りつぶそうと力任せに鉛筆を殴りつける。筆記具の扱いに慣れていない子どもたちは、あたかも武器のように鉛筆を握り締め、憎しみがこもっているとしか思えない乱暴さで紙に挑んでいく。子どもたち全員が同じように、競争するように、銘々の色で自分の受け持ちの紙を染めていく。狂った作品が出来上がっていく様を見てスージーは一抹の恐怖を覚えたがそれでも子どもたちは楽しそうだった。
 狂気を孕んだ芸術の時間はしばらく続いたが、ある男の子の振り下ろしていた鉛筆の先がその暴力に耐えられなくなり、必然的な結果として折れてしまった。男の子はしばらく鉛筆の折れた意味を悟らず、ますます強い力で鉛筆を紙に何度も突き刺した。紙は破けるだけで色付かなかった。スージーが声を掛ける前に男の子は自分で異常に気が付いた。鉛筆の芯が無くなり、これ以上色を出せなくなったことをついに理解し、男の子は泣きそうな表情で呻いた。他の子は自分の領分に夢中になっていて仲間の悲嘆に気が付かない。スージーは苦笑いをし、マチルダにナイフを貸してくれるよう頼んだ。男の子は死にかけた親友を医者に診てもらっている面持ちで手術の成り行きを見守る。スージーはがさつなナイフさばきで鉛筆の先を削り、再び使えるようにしてあげた。男の子の顔は奇跡を間近に見た人のように驚き、これ以後スージーを国の有力者たちと同じくらいに崇めた。
 他の男の子たちも盛大に鉛筆を折った。その度にスージーはナイフを使って筆先を復活させた。ひどい場合には、鉛筆は途中から真っ二つに折れていた。二つに分裂した鉛筆をスージーは面倒がらずに両方とも削ってやった。鉛筆を二つ得た子の驚喜は一頻りではなかった。よせばいいのに他の子に自慢してしまった。当然他の子も真似をして鉛筆を折った。折ってスージーの所に持って来た。折れば増えると思って次々とへし折る。スージーはゲッソリしてマチルダに泣きついた。マチルダは子どもたちに何か言い、ナイフを持って去ってしまった。マチルダの背中に怒声が飛んだ。遠慮も敬意もない怒声が。スージーはマチルダを心配した。そしてこの時初めて思い至った。彼女は王族であるはずなのにこの村ではなぜか大事にされていない、と。
 結局スージーに尊崇の念を持ったのは最初の男の子だけで、他の子は鉛筆の先を歯で噛んで研いだ。彼らはサベラの哀れなスケッチブックをいたずらに汚すことに終始した。
 手遊び・お歌・お絵かきの他には、散歩をよくした。集落からあまり離れると危険なので子どもたちがスージーの手を取って導くその範囲内を散策した。鳥を捕らえるための罠が設置された木々を見て回ったり、木の実や果実を拾ったりした。食用になる甲虫や幼虫も捕まえた。ここでは子どもたちも食料調達の重要な担い手だ。
 スージーは子どもたちと一緒に半日ばかり果実を拾って過ごしたこともある。途中、アヌビスヒヒに威嚇されたりもしたが、持参した麻袋が膨れ上がるほど、青梅のような実を拾いまくった。後からドナに聞いた所ではこの実は「マルーラ」といい、地面に落ちてから醗酵し、暑い日にはアルコールの臭いを発する不思議な果物だ。この実を食べ過ぎたゾウが酔っ払いのような足取りになることもあるそうだ。ポニュケレではこの実を潰して果汁を搾り、甕の中で酒を醸造する。
 ドナが同行している時は鳥について色々と教えてもらった。たとえば「あの鳥の名前はゴールドバードといって、それはあの鳥がいつも金鉱の近くにいるから。人々は金脈を求めるとき、血まなこになってあの鳥を捜します」とか、「あれはヘビクイワシ。名前の通り蛇を捕食します」とか、「あれはキハシコサイチョウ。アフリカ南部では『生きた化石』として信じられています。シーラカンスなどの比喩ではなく、実際に古代から生き続けていると」とか、「あれはウシツツキ。牛の背中に寄生したダニを取るんです」などなど、ガイドらしい様々な知識を授けてくれた。
 子どもたちが争うようにスージーとドナの手を引いて、とっておきの場所に連れて行ってくれた時のことは、生涯忘れられないだろう。
 初めは、ただの大木だと思った。大きな木はこの辺りでは珍しいし、「ぼくの国ではこんな大きな木があるんだよ」と自慢したかったのかも知れない。スージーは少し苦笑いをした。
 しかしその木は近付くにつれ、異様な風采を主張し始めた。遠方から見た時、その木はスージーの視界の中で自然な姿で生い茂っていた。やや近付くと、枝から天へ差し向けられていたはずの葉は、茶色く変色して吊り下がっている風に見えた。さらに近付くと、その塊はスージーの網膜の中で巨大な蜂の巣になった。そして最後に、木のすぐそばまで近寄ると、蜂の巣は編み上げられた枯れ草の塊へと変じた。
「シャカイハタオリの巣です」ドナが解説をする。「集団で生活をする鳥で、だいたい百羽から三百羽が共同で巨大な巣に暮らします。あの巨大な巣の中には各々の巣がそれぞれにあって、つまり、この巨大な巣は小さな巣の集合体です」
「なんだかケープタウンのマンモス団地みたいね」
 スージーがそう言うとドナは寂しそうに愛想笑いをした。そして解説を続けた。
「この巣も大きいですが……どこかに、作られてから百年以上が経過している、推定で重さ一トンにも及ぶ巨大な巣もあるらしいです」
「信じられない光景ね。それにしても、ここの人たちは、この……ハタオリドリ? 捕まえないのかしら」
「どうでしょう。子どもたちも大人しく見上げているだけですね」
 傘のような屋根になった巣。その下部から鳥が出入りする。やかましい鳴き声。おなかがすくまで見上げ続けた。
 動物に対するドナの知識は実に豊富だった。いずこからか聞こえてくる歌声によって、その声の持ち主がどんな鳥なのか、色や大きさを教えてくれた。高い木はあまりなく、木の本数自体少ないので、鳥を発見するのは容易だった。ドナが言った通りの姿形をした鳥が樹上に囀っていた。青い花をつけた青い木々に青い風が渡って、鳥の羽根が鳥そのもののように浮游した。
 鳥の鳴き声がするのに鳥の姿が見えないことがある。その場合、考えられる理由は三つ。一つめの理由は、目に見えないほど高く飛ぶウタフラシオオトンビが頭上を旋回している場合。この大型の鳥は声量が極めて大きい。その声が効率的に共鳴するように骨が空洞になっていて、少量しか取れない肉はカバと同じくらい不味いらしい。二つめの理由は、鳥の鳴き声そっくりの音を出すハトコエマネビムシが近くの草むらに潜んでいる場合。油っぽい羽根を擦り合わせることで、鳥の鳴き声に非常によく似た音を奏でる。名前にハトが付くが、その音は鳩よりも雀に近い。そして理由の三つめは、死んだ鳥の亡霊が呻いている場合だ。こういう場合は冥福を祈っておく。実際、死んだ鳥の亡霊を悼んで子どもたちがダンスを踊り始めたことがあった。そういった宗教的な意味合いがあるとその時は分からず、スージーはただ見様見真似で踊りに加わった。子どもたちは嬉しそうだった。スージーも笑った。一人の男の子が腰にむしゃぶりついてきた。
 その時スージーは「この子には見覚えがある」と思った。鼻の下に鼻汁の白い痕跡を乾燥させているこの男の子には、確かに以前会っている。以前会っているし、この子が死んだ時にかなり激しく泣いた記憶も鮮明に残っている。「この子の死骸には見覚えがある」とスージーは思った。男の子はつぶらな大きな瞳でスージーを見上げたり、彼女の手を引っ張ったり、大人に構うのに飽きて他の子と辺りを走り回ったり、元気いっぱい生命活動を行なっている。
 スージーの顔から笑みが消える。だからと言って、代わりに恐怖が顔面を覆ったわけではない。解けぬ謎を解こうとして真顔になったわけでもない。ただただ無表情になった。
 子どもたちの陽気な声が騒ぎ始めた。木に仕掛けた罠に鳥が捕まっていたのだ。くすんだ色をしたその鳥は、羽根をばたつかせて必死に逃げようとしている。
 その時スージーは「この鳥には見覚えがある」と思った。二日前に食べた鳥と同じ種類の鳥だった。大きさも同じだった。羽根の模様も頭の形も瞳の光も。何もかも同じだった。つまり、二日前の鳥だった。二日前に串焼きにした鳥それ自体だった。
「なんて国なのかしら」早くイギリスに帰りたいと思った。
 翌日、スージーは軽いホームシックになった。子どもたちはいつも通り活き活きとしていた。──生きているのか、あるいは生きているとしたら何度目なのか、そんな子どもたちといつも通り一緒に散歩をすると、低木に鳥が見えた。人間の手作りらしい止まり木に灰色のオウムが留まっていた。子どもたちは、この鳥だけは、捕まえようとしなかった。そればかりか、話し掛けたり、頭や胸を撫でてやっていた。おそらく誰かのペットなのだろう。こういった辺境においても、家畜以外の愛玩動物が飼われているというのは、スージーにとって一つの発見であり驚きだった。鳥かごを作る技術は無かったのだろうが、よく逃げないものだ。
 子どもたちは先を争ってオウムに話し掛けた。オウムは子どもたちの呼び掛けに対しては何も答えなかった。スージーも試しに英語で「こんにちは」と呼び掛けてみた。
 するとオウムはその言葉を繰り返した。「こんにちは」と。
 子どもたちがうらやましそうにスージーを見上げた。スージーは心の底の方からあったかくなるように感じて微笑んだ。英語を使う所から察すると、おそらくラクストンかマチルダのペットなのだろう。
 スージーは感心して「きみは偉いねえ」と誉めた。するとオウムは「滅相も御座いませんよ、ミセス」と大人びた口調で返した。スージーはびっくりした。こちらの内容を聞き取っているようだった。意味も解っている様子だった。信じられるはずはなく、冗談半分で「私の言っていることが解るの?」と問うと、「ええ、よく解りますよ」と返す。その語学力はラクストンほど流暢ではなかったが、マチルダと同レベルかそれ以上だった。子どもたちは英語でのやり取りが理解できずただ見守るだけだった。
「きみの名前は?」
「それが他人に言えないことを、あなたはもうご存知なのでは?」
「そうね。ごめんなさい。それにしてもきみの英語はとっても上手ね」
「お誉めに与り光栄です」
「どう、通訳になってくれないかしら」
「私は残念ながら舌を鳴らす音がうまく出せないのですよ。ですから、申し訳ありませんが、通訳としては不適格です」
「そう……それは残念ね。でも、あの人たちの言葉、この子たちの言葉、たとえ喋れなくても、聞き取ることは出来るんじゃない?」
「確かにみなさんの話している言葉の意味は解ります。話せませんが」
「じゃあ、通訳になれるじゃないの。あの人たちが何て言ってるか、教えて教えて」
「彼らの話している内容を一方的にあなたに流す、それがはたして通訳と呼べるでしょうか」
 オウムが睨んだ気がしてスージーはたじろいだ。
「子どもたちの言葉が分からなくて私さみしいの」
「言葉を覚える努力をしてみては。簡単でしょう。それに、私と違って話すことだって出来るはずだ」
「覚えられないのよ。覚えられるんだったらとっくにそうしてる。全っ然わからないんだもん。それに、私たちもうすぐ帰るのよ」
「帰る? どこにですか」
「私たちは連合王国からの旅行者なの」
「連合王国? それはどこですか」
「そうね。うーん。ええと。うーんと遠い所にあるの。私たちのような人がたくさん住んでるのよ」
「そんなに遠いのですか」
「うん。海の向こうだもん」
「あなたは決して帰れません」
「え。どうして」
「あなたは連合王国には帰れません」
「だから、どうして」
 オウムは何も答えなかった。スージーは嫌な気持ちになった。一丁前に未来の予言などして、オウムまで魔法使い気取りだ。最初は可愛いと思ったけど段々と憎たらしくなってきた。
「ねえ。どうしても通訳をしてくれない?」
「私は通訳には不適格です」
「何が望み? 何か食べたい物があれば探してきてあげるし、何かして欲しければ出来ることならしてあげる。連合王国に連れて行ってあげてもいいよ」
「あなたは連合王国には帰れません」
 スージーは怒りそうになったが、相手が鳥であることを思い出し、ぐっとこらえた。
「絶対帰れる。いい所よ。ここより住みやすいし。連れて行ってあげてもいいよ。通訳になってくれたらきみを飼ってあげる」
「あなたは私の主人ではなく、あなたの家畜になる義務は私にはありません」
「家畜だなんて。そんなんじゃない。ペットよ、ペットとしてよ」
「ペット?」
「ペットっていうのは……。ペットっていうのは友達のことよ」
「友達……」
 その達者な話術、世界的なニュースになってもおかしくないほど知能の高い鳥だったが、所詮は鳥だ。友達という言葉に考え込んだ。簡単に釣り込めそうだった。スージーは心の中でほくそ笑んだ。
 しかし。
「友達ならここにたくさんいます。友達を裏切ってあなたの手下になるつもりはありません」
 早くイギリスに帰りたいと思った。



大衆作家
 マチルダが不思議な体験をした。初めは鳥が飛んでいたのだが、そのうちに足の裏から地面の感触が消え、太陽が出ているのに夜になってしまった。意味不明だった。不思議な体験だから他者にはその興奮が伝わりにくい。マチルダは繰り返す。初めは鳥が飛んでいたのに、いつの間にか彼女自身が空を飛んでいた。そして太陽が出ているのに空が真っ暗になってしまった、と。温かな太陽に近付けば空も明るくなると思った彼女は、どんどん高く浮游した。飛翔する感じではなく、煙となって浮かび上がる印象だった。太陽に近付くと、その周囲を冷たく光り輝く六つの球体が巡っていた。球体は太陽の周りを取り囲んでぐるぐる回っているから、彼女は太陽に近づけなかった。もしかして、自分はいつの間にか死んでいて、このまま雲になっちゃうのかな。彼女はそう思った。するとそこへ、一人の見知らぬ男が突如として現れた。彼は身体が金属で出来ていて、太陽から数字で呼ばれていた。それも、途方もなく大きな量を表す数字で。彼は小さなプラスチックの花が植えられた植木鉢を左手に持っていて、右手でマチルダの手を取った。いつの間にか花畑を歩いていて、良い香りのするその先には大量の水がぴかぴか光っていた。彼女は水を手ですくい、口に運び、身体に塗った。いくら飲んでも無くならなかった。これが海という物に違いない、持って帰ってお父さんやお母さんにも見せてあげよう、彼女はそう思った。数字で呼ばれる男とまた手をつないでいた。マチルダは自分の家へ戻って来た。
 話を聞いていたサベラは優しく微笑み、「大冒険だったね」と誉めてあげた。マチルダは嬉しそうにそして得意そうにうなずいた。ここポニュケレ・ドレルシュカフでは「見た夢=現実での体験」であるため、それで少女はおかしなことを口走ったのだろう。
 マチルダが見た夢は脳の作り出した幻影だったが、ジョニーには将来の目標としての夢があった。小説家だ。近い将来今の仕事を辞め、大衆小説を書いて口を糊したいと思っていた。スージーの母に「そのような不安定な職業は許しません」と猛反対されていたが、なかなか諦めきれるものでもなかった。
 ポニュケレでの暮らしに対しては、マークⅠ各人にそれぞれの想いがあったが、ジョニーほど楽天的だった者は他にいない。彼は遭難を楽しんでいた。楽しんでいるという表現に語弊があるなら堪能していた。無事に帰国した暁にはこの体験を小説に仕立て上げようと目論んでいた。遭難してこの村に閉じこめられたのは得難いチャンスだと思っていた。ここでの経験をあまねく記憶しようと必死だった。話のタネになりそうな事があれば誰よりも速く現場に急行した。妻から「オウムと会話をした」という情報を聞き付ければさっそく出掛けた。オウムは確かにそこにいた。しかし妻の言うように人の言葉を話したりはしなかった。担がれたと思い、憤怒の足取りで取って返し、妻を思い切り詰った。妻は逆上して自分の正当性を主張した。オウムに喋ってもらえなかったジョニーも一歩も引かなかった。お互いに気を悪くした。この夫婦喧嘩も小説の題材になるとほくそ笑んだジョニーは変人の領域に自分が足を踏み入れたことをまだ認知していない。
 マークⅠの他のメンバー同様ジョニーも食事には飽き飽きして来ていた。生前はどんな動物だったのかさっぱり解らない、毎日同じような肉片ばかりを食べさせられる。せめてどんな動物の肉なのか知りたくなった。動いている真の姿を見たら、以降は食慾が失せるかも知れないが、胃に収まる肉片が何なのか知りたい好奇心には抗えなかった。
 元来どちらかと言えば消極的な性格の彼だったが、「これも小説の取材のためだ」と一念発起、狩りに同行させてもらえるようラクストンに大胆な請願をした。鷹揚な国王はこの申し出をあっさりと承諾し、優秀な狩人に彼を紹介した。それはマークⅠをポニュケレに連行した張本人の猫目の男だった。猫目の男は迷惑そうな気色を隠そうとはしなかった。明らかに気乗りしないようだった。彼にとって文明人は邪魔者以外の何者でもなく、邪魔者に狩りの様子を見学させると足手まといになるからだろう。だが、王の指図であるからか、終いには渋々了承した。
 この国で行なわれる狩りのスタイルは最も原始的な狩猟の仕方だと考えられる。罠を仕掛けたり大人数で囲い込んだり、そういった小細工は使わない。ただひたすら追う、これだけだ。ただひたすら獲物を追い続ける。追って追っておいまくる。一度狙いを定めたら、標的が力尽きるまで、驚異的なしつこさで追跡する。少人数で、時には何週間も掛けて、単一の標的だけを脇目も振らず追い掛ける。狩猟旅行のことを「サファリ」と称するが、これはスワヒリ語で「旅」を意味する。ここの狩人たちの狩りは実際にちょっとした旅だ。
 猫目の男・その息子・ジョニー。この三人で集落を後にした。通訳はいない。英語の話せるマチルダは年端もいかない女の子だし、ラクストンは国王である。連れ出すわけにはいかない。
 ジョニーは王の厚意で双眼鏡と水筒を借りてきた。猫目の息子は新しい文明の利器である羅針盤をさっそく携えている。猫目のみが近代的な道具には頼らず昔ながらの格好で狩りに臨む。頭に鉢巻、下腹部に腰布、足に皮サンダル。武器を入れた袋を左肩に背負い、脇に巾着と牛の角を提げている。武器は細い槍と弓、それに矢が一本。角の中には、蠍の尾をすりつぶしてサボテンの汁と混ぜ合わせた、鏃に塗るための毒が入っている。
 当て所もなく歩き始めて数十分。猫目が何かを見つけ地面を指でいじり始めた。息子も顔を寄せて地面を見つめ、二人は極めて細い低声で相談を始める。ジョニーは背中越しにその様子を見守った。ぶつぶつ呟きながら地面を指でいじっている。声帯を使わず舌を打ったり唾の音を鳴らして会話をしている。何をしているのかさっぱりわからない。
 あとでドナに教えてもらった。アフリカ原住民の中には、地面を読む部族がいると。文字に埋め尽くされた書物を読むように、記号の散りばめられた地面を読むのだと。記号、それはたとえば動物の足跡だったり糞だったり、草や木の倒れ方のことだ。足跡の形・深さ・歩幅で、動物の種類はもちろん、オスメスの区別まで付く。糞の内容物を検べることで、年齢や健康状態や精神状態が判る。草や木の倒れ方で動物がどの方向に進んだかを知り、倒れた草の葉や木の枝がどの程度元の位置に戻っているか確かめることでその動物がどれくらい前にここを通過したかが正確に把握できた。「そんなことが可能なの。何をしてるか自分には全然わからなかったよ」とドナに言うと「それはそうです。あの人たちが紙上のアルファベットを読めないのと同様、私たちには地上のサインを読むことが出来ません」とのことだった。
 猫目たちはまた歩き始めた。当然ジョニーも後に従うが気持ちの面では一人だけ取り残されているような心境だった。
 十五分ほど歩くとまた地面を指でいじり始めた。ジョニーは静かに見守った。
 十分ほど歩くとまた地面を指でいじり始めた。ジョニーは我慢強く待った。
 七分ほどでまた地面を指でいじり始めた。ジョニーは少し退屈した。
 地面を読む行為は、このあと三度、繰り返された。その三度目に、猫目が虚空を睨み始めた。見渡す限りのサバンナ、半砂漠。草地に岩がごろごろしていて所々に木々があるだけ。他に何も見えないが猫目は何か見つけたように人差し指を突き出す。そして同じ文章を繰り返した。取り分け一つの単語を強調して。その単語をあえて文字にするならばpoxptとでもなるだろうか。シマウマを表す語だった。「群れからはぐれたシマウマの親子が見える」と言ったのである。その息子もややあってから「見えた」と言った。親子の言葉はジョニーにはもちろん通じない。しかし余程の馬鹿でなければ何となく事情は察することが出来る。ジョニーは双眼鏡で猫目の指差す方向を探索してみた。何もいない。ジョニーは双眼鏡から目を離し、胡散臭そうに猫目を見つめた。猫目は面倒臭そうに舌打ちをしてから、地面に棒で馬を描き、そこに縞の模様を描き込んだ。ジョニーはもう一度双眼鏡を両目に押し当てる。動物の姿は何も見えない。猫目は歩き始めた。信じ難いが、ついていくしかない。
 さらに数分歩いて後ろを振り返ると、村は地平線の向こうに消えかかっていた。
 ようやく見えた。確かにシマウマの親子だった。猫目の息子に対して「すごい」と意思表示をすると息子は照れ臭そうに笑った。縞は、よくわからなかったが、猫目の描いた物とは違う気がした。
 シマウマはこちらに気付いていないようだった。のどかに細長い草を噛み切っている。気付いていないふりをしている可能性もある。人間ごときのろまからはいつでも逃げられると高を括っているのかも知れない。
 猫目はシマウマをすぐには襲わず、一旦その場で待機した。猫目が行動を起こすまでジョニーはこう考えた。「草食動物には余裕が感じられる。己の俊足に絶大な自信を持っているがゆえの余裕が。のんびり落ち着き払っている。でも、本当に落ち着いているのか。あの悠々とした態度は王者の余裕なのか。いいや。きっと違う。きっとあいつらは鈍いだけだ。平和ぼけしているのだ」と思った。ジョニーは自分なりの結論を出した。シマウマはこちらに気付いていない、と。
 まだ大分距離がある。シマウマは時折辺りを気遣わしげに見回すがそれでもまだこちらに気づいては居ないようだった。猫目が人差し指を口の前に立てる。静かにしろという意味だろう。低い姿勢で枯れた草原を泳ぎながら黙ったままシマウマに近付く。すると、こちらの姿は見えていないはずなのにシマウマは耳をピンと立てて逃走した。足音か、もしくは身体に当たって鳴る草の音を察知したのだろう。
 しかし、一言も口を聞いていないジョニーが猫目に怒られた。猫目の息子も、気の毒そうな迷惑そうな顔でジョニーを見る。身振り手振りでの非難から推測するところによるとどうやら呼吸をしたのがいけなかったらしい。おまえは大人しく村に戻れと手扇でジョニーを追っ払い、狩人たちは仕方なく走り始めた。それは切羽詰まった疾走ではなく、まるでジョギングをするような気易い歩調だった。
「俺の呼吸のせいでシマウマが気付いた? そんなことがあるものか。じゃあ何か。シマウマが蚊みたく二酸化炭素に反応したってのか? そんな馬鹿な。呼吸をしちゃいけないんだったらあいつらだって同罪だろ。それともあれか、あの鄙びた村から数キロ離れたここまで、あいつらは一回も空気を吸ってないってのか? 死んでしまうわ!」
 もちろん納得のいかないジョニーは引き返したりはしない。二人に合わせて走り始める。猫目が「やれやれ」と背中で呟きながらゆっくり立ち止まり、くるりと急に踵を返してジョニーの方を向き、「だから嫌だったんだよ」と肩の肉で語った。ジョニーも立ち止まった。猫目は背中の槍に手を掛けた。ジョニーの視界はフラッシュを浴びたように一瞬血の色で染まり、瞬時に緊張度は最高潮に達した。ジョニーの心臓の音に驚いて百メートル先の藪から鳥が飛び立った。
 ジョニーはへらへらと媚びるように笑った。猫目は笑わない。その瞳は雄弁に「ここでおまえを殺しても、おまえの仲間は誰も気付かない」と叫んでいた。ジョニーはその場で硬直した。息子が悲しそうな八の字眉毛に「悪いことは言わないから帰りなよ」というメッセージを発してジョニーに帰るきっかけを作ってくれた。ジョニーは針の筵を歩くような慎重さで静かに後ろを向いた。大人しく逆方向につまり村へと歩を進めた。何歩か歩いてからそっと振り返ると親子の姿は草むらの向こうに見えなくなっていた。
 翌日マークⅠに振る舞われた肉は筋だらけで、固くて安い牛肉のようだった。
 ジョニーはすっかり猫目が嫌いになった。向こうから歩いてくる姿が目に入ってもすぐに視線をそらし、気付かないふりをしてあいさつもしなかった。向こうも向こうでジョニーのことをよそ者として嫌っている様子がありありと見て取れた。
 取材を諦めたわけではなかった。女房たちが牛を連れて出掛けるのに許可無く付き添い、干上がった河床で彼らの作業を見学した。カチカチに固まった土を板状に切り出し、牛の背中に満載した。アルカリ分を含むその土は村で家畜に与えられた。
 別の日には木の実拾いに、やはり許可無く付き添った。どの女房も赤ん坊を負ぶっている。藪の中に分け入り、木の根本から芋を掘り出してその日の昼食にした。
 また別の日には若者の集団に許可無く付きまとった。薪を採集するのが目的だったが途中で一匹のヤマアラシを見掛けた。捕まえようとすると、ヤマアラシは巣に逃げ込んでしまった。地面深く掘られた巣を前にして、若者たちは当然あきらめるかと思われたが、根気よく根気よく掘り続けた。五時間後ようやくヤマアラシは捕獲された。ただちに叩き殺された。注がれた労力の割にはあまりに小さな報酬。たった一匹の小型動物の肉を得るために、三人の青年が五時間も掛けて、穴掘りに汗を流した。この世界では、たとえ目標がほんの小さな獲物であっても、巡ってくる数少ないチャンスを無駄には出来ないのだ。
 しばしば、相手の迷惑も顧みずドナを連れ出し、野生動物の観察に出掛けた。時々ハリーやトムが同行することもあったが、ほとんど二人切りだった。もちろん村からは遠く離れはしなかった。迷子になる可能性と、野生動物に襲われる可能性を少しでも少なくするためである。
 以下、ジョニーとドナが数日の間に交わした会話の中から興味深い物だけを列挙する。
「あれは何だ?」「インパラです」「一頭だけ角があるな。何頭もいるのに、たった一頭だけ」「角があるのはオスだけで、ハーレムを作るんですよ」「心底うらやましいね」「そうですか」
「あれは何?」「イランドです」「鳥がたかってるね。逃げないのかな」「寄生虫を捕ってあげてるんです。持ちつ持たれつの関係、いわゆる共生ですね。イランドのあの落ち着き振りを見て、イランドを聖なる動物として崇める部族も多いです」
「あれは何?」「トムソンガゼルです」「耳と同じくらいの長さの短い角がまっすぐ生えている。どんな動物? やっぱりトムソンって人が名付け親なのかな」「それは知りませんが……」
「あれは何だっけ。イランドだっけ」「あれはオリックスです」「ああそう」
「あれを見て。サイです」「ああ本当だ。サイだ。怖いな。見た目が恐竜みたいだ」「反芻ってご存知ですか」「あれだろ。消化を良くするために、一回ゲロして、もう一回飲み込むってやつ。牛とかの」「そうです。一度飲み込んだ食べ物を、口に戻してもう一回よく噛む行為のことです。牛は胃袋が四つあって、四回反芻を繰り返します」「ローマ人もびっくりだよ」「?ええ。そうですね。で、サイはその反芻をしないので消化に時間が掛かるんです。消化に時間が掛かるので、長い腸が必要で、長い腸を収めるためにああいった巨体に進化したんです」「なるほど。ちゃんと理由があるんだね。ローマ人もびっくりだよ」「ええ」
「あ。ゾウだ。でかい。本当にでかいな。『ゾウは大抵本物より小さく描かれるのに、ノミは常に本物より大きく描かれる』って昔の人が言ってるけど、本当だな。写真やテレビじゃわからない威圧感がある」「鼻で目をこすってますね」「眠いのかな。どれくらいまで近づけるかな」「ちょっと分かりませんがこれ以上は近付かない方がいいんじゃないでしょうか」「でも眠そうだぜ。もしあいつがあそこから全力疾走でこっち目がけて走ってきたら……逃げ切れるかな」「この距離なら、おそらく」「大丈夫だよな。あいつら足遅そうだし」「人間よりは全然速いですよ。それに、アフリカゾウは本当に気性が荒いんです。サーカスや象使いで調教されるゾウはほとんとアジアゾウですから。アフリカゾウは人になつかないそうです。敵と見なせばライオンだって簡単に殺しますよ」「もう逃げておこう」「そうですね」
 ジョニーはたとえ一人でも外に出掛けた。村をぶらついていても、言葉は通じないし、何も面白いことがなくて退屈だったから。鳥を観察したり、ヌーの大群を遠くから観察した。本人に自覚はなかったがこれは大変危険な行為で、複数名での行動ならまだしも、もし野生動物に襲われたらたった一人では成す術がない。道に迷ったら餓死するしかない。
 ジョニーは動物によく遭遇したが、その優美な屍を見掛けたことはなかった。この地では動物は死なない。わけではなく、生き残りを掛けた命のやり取りが四六時中行なわれている。それではどうして死骸が残らないのか。時を経過せずに痕跡を消されてしまうからだ。ここの動物は自然に死ぬか殺されるかすると、肉食動物によって肉や内臓はあっと言う間に食いちぎられ、小動物や虫によって脂肪は骨から削ぎ落とされ、微生物によって骨の髄・血の一滴に至るまで体液は吸い尽くされる。残った骨は灼熱の空気によってカラカラに乾燥させられ、脆くなった骸は風に砕かれ虚無へと運ばれてしまう。魂の容器は中身が抜けると一瞬で崩壊する。
 ジョニーは屍を見掛けなかった。しかし彼は死骸の無い不思議には思い当たらない。生きている動物しか眼中になかったのだ。
 そんなある日、ジョニーはキリンに出会った。三頭から成るグループだった。もちろん初めは遠くから見守っていた。高い木の枝から葉っぱを長い舌で巻き取るように食べている。他の動物の届かない食物を独占的に摂取している。絵本の中に出てくる可愛いイメージ。極めて穏やかな動物に思えた。
 そのうちの一頭と目が合った。優しい目だった。気持ちが通じた気がしてジョニーはキリンに微笑み掛けた。それに呼応してキリンは首を少しだけ下げた。ジョニーは嬉しくなった。もっと近付こうかと思った。無意識ではあるが、あわよくば頭を撫でてあげようとも思ったかも知れない。野生のキリンと打ち解け、真の友誼を結んだ男。イギリス本国への最高の土産話になるだろう。
 と、急にジョニーの身体に衝撃が走り、次の瞬間には彼は地べたに倒れ伏していた。何が起こったのかすぐには判らなかった。影が差したので見上げると、深紅の上着と緑の頭巾を着用した男が息を切らしながらジョニーを見下ろしていた。逆光と、相手が普段とは違う服装だったために、最初は誰だか分からなかったが、それは狩人の猫目だった。ジョニーは猫目に突き飛ばされたのだった。
 ジョニーはなぜ突き飛ばされたのかその理由を推測さえできず、ぼんやりと相手を見ていた。猫目は目尻をさらに吊り上げて怒りに震えていたが、それ以上は何もせず、踵を返し肩を怒らせて去って行った。ジョニーは、どこにもケガはしていなかったものの、あまりに突然のことに茫然としてしばらく立ち上がれなかった。キリンも猫目とは別方向に歩き始めていた。
 納得がいかなかったジョニーは、本人と直接顔を合わせたくはなかったので、あとで息子を通じて(もちろんマチルダを通訳にして)理由を尋ねた。猫目の主張は大体以下の通りだった。「野生動物と目を合わせるのは敵対心の表明だ! たとえ相手が草食動物であっても。あのまま見つめ合っていたら、おまえ、殺されていたぞ!」これは確かに正しい。たとえ草食動物だって、牧場にいるような家畜とは訳が違う。大人しそうに見えても、ある一定の距離に近付くと、つまり、彼らの領内に踏み込むと、途端に攻撃をしかけて来る。野生動物の習性にジョニーはあまりにも無知だった。猫目はジョニーの命を救ったのだ。
 仲が悪いと思っていた人が実は、こちらの身の安全をそっと見守っていてくれた。
 という感動的な展開になりそうなものだが、現実は違った。
「あの野郎、そんな出まかせでっち上げやがって。ただ単にキリンと仲良くしてるのが気に食わなかったんだろ。俺のような都会者が、野蛮人どもを出し抜いて、動物たちと心を通わせたのが。それが納得いかなかったんだ。絶対そうだ」
 ジョニーは猫目がますます嫌いになった。



ただ眠ってるだけ
 ラクストンがラグ兄弟に「雨の降る仕組みを知りたければ洞窟に描かれた古代壁画を見るが良い。呪殺師に案内させよう」と言ったが、その約束の日が来た。ボビーの他に護衛が二人付いた。二対三では心細かったのでラグ兄弟は他のメンバーも誘った。デヴィッド・プリシラ・ジョニーが加わった。
 呪術師のボビーは真っ赤なマントを風に靡かせながら、草一本生えていない岩山へと白人たちを連れて行く。到着までには三時間掛かった。
「ここでもしボビーたちとはぐれたら村には戻れないだろうな」
「こいつらは何を目印にして広いサバンナを歩いてるんだ? すげぇよな。道路標識も高い建造物も無いのに」
「地面を読んでいるんじゃないかな」
「それ、本当なのかよ。信じられないんだよね。地面なんてどこもかしこも同じで、何かが書いてある訳でもないし、絶対そんなの無理だと思うんだけど」
「でも、それ以外に説明がつかないよ」
「うーん」
 初めから気乗りしていなかったラグ兄弟が長いこと歩かされるのにうんざりし始めた頃、ようやく目的地である洞窟の小さな入口が見えてきた。中は意外にも広い鍾乳洞になっていて、最奥は外部からの光も届かないほど深い闇に沈んでいた。ボビーは松明を灯して先頭を行く。護衛は外に残った。
 奥に進むに連れて闇が濃くなっていく。頭上からはコウモリの羽音が聞こえる。プリシラがいつになく静かになった。「ひょっとして怖いのかな」トムはちょっと心配した。しかしその心配は全くの見当違いで、プリシラは鍾乳石とテレパシーで会話をしていたのだった。洞窟の奥まった場所、外界からの光が僅かに届くか届かないかの上り坂で、彼女は石との対談内容を頼んでもいないのに発表してくれた。
「あのね、私に話し掛けてきた鍾乳石、千年ぶりに目覚めたんだって。あ、千年って言っても彼ら鉱物からしてみれば人間の半日に等しいから、『長い眠りだなぁ』なんて、そこの所は間違えないで。でね、この鍾乳洞は、地球が誕生した時からこの姿であったわけじゃなく、水滴の気の遠くなるような作用によって、何百万年もかけて成長した存在なんだって。何百万年よ、すごくない?」
 誰も返事をしない。プリシラはにっこり笑ってハリーの顔を覗き込む。俺かよと思いつつハリーは「そうだねすごいね」と適当に相槌を打つ。
「でも、何百万年って言ったって、そりゃ私たちにとっちゃ途方もない時間だけど、でも、彼らにとってはそんなに長い時間ではないの。石と人間とでは流れる時間が違うんだってさ。悠久の時間を過ごしてきた石にとって、人間は実に刹那的で惨めな存在だよ。知ってた?」
 今度はデヴィッドの顔を覗き込む。俺の番かと思いながらもデヴィッドは何も答えなかった。何も答えようがない。
「彼らは人間がなぜそんなにちょこまかと動くのか、なぜ死に急ぐように百年以内に死んでしまうのか、めまぐるしいほどの動きに不快感さえ抱いてる。鍾乳洞にとって人間は、人間にとっての小蠅と同じく、小うるさくうざったい存在!」
 この女は何を言っているのだろう。「おまえ、最近ちょっとおかしいぞ」ハリーが遠慮のない所をプリシラに言い渡す。これに対しプリシラは反論するでも怒るでも恐縮するでもなく平然としていた。英語が分からないはずのボビーが、歩きながら後ろを振り返り、にやにや笑った。松明の火に照らされた黒い顔が赤くぎらりと光った。
 行く手が明るくなってきた。進めば進むほどどんどん明るくなっていく。この明るさは太陽光の明るさだった。この洞窟は、実はトンネル状だったのか。この先このまま進めば外に出られてしまうのか。歩きながら予想し合った。
 いよいよ外界への出口と思えるほど明るい曲がり角に差し掛かったとき、カーブのその先は、果たして行き止まりであった。そしてその行き止まりの壁には、夥しいほどの数の絵や記号や模様が踊っていた。壁は明るく照らされている。上から自然光が絶妙の角度で差している。天井の、雨風は吹き込まなさそうな位置に、大きな穴がぽっかりとひらいていた。
 この神々しい光景には皆が見取れた。この場所を人が神聖視するのは無理からぬことだった。平らなすべすべした壁面にたくさんの絵や模様が描かれている。一見すると落書きのようだが、絵の具を作るのも一苦労だった時代、そこらの子どもに貴重な絵の具を使わせるわけはないので、きっと当時の優秀なクリエイターたちが腕を振るって描いた物に違いない。あとでドナに訊いたところ、こういった壁画には宗教的な意味合いがあり、祭祀や儀式を記録した物だと言われているそうだ。
 洞窟の壁に描かれていた図像で最も興味を惹く物は五芒星だった。古代から、洋の東西を問わず、あらゆる文明において魔術的なシンボルとして使われてきたマークだ。エジプト文明での使用も確認されているし、ここアフリカが起源だったのだろうか。
 そして、☆型の各頂点に、簡素な絵が附されている。英語の出来ないボビーは、腕を振り回したり指を折ったり、身振り手振りで複雑な動きを形作っている。この絵について説明してくれているのだろう。言語を介さずに正確な理解が出来るはずはなさそうだが、不思議と深く理解できた気がした。マークⅠの誰かが「ちょっと解りにくいな」と思った所は、浮かない表情を見て察したのか、念入りにパントマイムで力説してくれた。
 頭には円。太陽、つまりは「光」を表しているという。
 左肩にはアメーバ状のぐにょぐにょ。「水」を表しているという。
 左足には刃のような葉っぱのような突起。「火」を表しているという。
 右足には水平に引いた三本線。「風」を表しているという。
 右肩にはゆるやかな丘。「土」を表しているという。
 ボビーの説明をトムは夢中で見続けた。目を見開いて驚いた。これはまさしく四大元素(火・水・風・土)だ。古代ギリシア哲学の根幹となった概念が、まさかこんな未開の地にすでに存在していたとは。考古学上の大発見ではないかと思われた。この大発見を文明国に持ち帰れば自分は一躍時の人になれるだろうという邪念も働いた。
 ボビーはさらに説明を続ける。それぞれの元素が他の元素とどういう関わりを持っているかについての詳細を。彼の説明を英語にまとめると、以下の通りになるだろう。
「ある元素は、時計回りで、次の元素に対して優位である。すなわち──光(太陽)は水を蒸発させる。水は火を消す。火は風(空気)を吸う。風は土(地)を削る。そして、土は光を遮る」
 この解釈は大きく外れてはいまい。なぜなら、白人たちの思い浮かべた解釈が誤っていればボビーは顔をしかめ、白人たちがそれを正しい解釈に改めると笑顔で大きくうなずいたからだ。初め、トムは「光(太陽)は水を透過する」と自己流に解釈していた。ボビーは苛立ちながらその箇所を何度も説明した。具体的には、上に向けた五指をひらひら動かしながら腕を下から上へ持ち上げて湯気を表した。そこでトムは『光(太陽)は水を蒸発させる』と心の中で解釈を改めた。するとボビーは嬉しそうに笑ったのだ。
 ボビーは読心術を身に付けているのではないか。その後マークⅠの中で大真面目に取り上げられた議論だ。何かを呪い殺す妖術はあまりにも長い時間を費やす。あんな効率の悪い能力だけで王の側近として取り立てられるだろうか。読心術の持ち主ならば間諜として大いに役立つ。支配階級に何か良からぬことを考えている民があれば、たちまちにその邪心を暴いて王に密告できるからだ。
 ハリーはもちろん、トムもデヴィッドもジョニーも、ボビーの読心術を本気で信じてはいなかった。ただ、この妖しい男がこちらの意識を見透かしているような不快な感覚は、ハリー以外の誰もが感じていた。超常現象の類を全く信じないハリーだけはそういう名状しがたい不快感とも無縁だったが。
 次にボビーは、五芒星から少し離れた場所にある壁画にマークⅠを案内した。これこそがポニュケレ・ドレルシュカフ人の死生観を表している絵画だった。動物や人間の魂の昇天と、雨の降る仕組み、それから雨がもたらす恵みについての。
 人類発祥の地、アフリカ。この絵は我々の全てがどこから来たかを表している。壁の中央には自転する太陽。その周囲を六人の人間たちが取り囲み、軌道上を旋回している。これもやはりボビーが身体言語だけで図像の意味を説明してくれた。この絵は太陽と、太陽が産んだ人間を表している。天文学の発達していない時代の絵であるから、まさかとは思うが、人間の数が太陽系の惑星(水星・金星・地球・火星・木星・土星)の数と一緒なのは単なる偶然だろうか。
 全ての動植物の魂は太陽から発生し、地上に降りて来る。地上で生物が死ぬと魂が抜けて、その魂が集まり固まって雲となる。雲は空を漂うが、ある程度まとまった分量が集まると雨となって地に降り注ぐ。地に降り注いだ雨は再び生物の形を取る。生物は太陽の熱を体内で生成する。全ての運動は六段階で完了され、七番目で元へと戻る。変化は成功を産む。
 ボビーが唄を歌ってくれた。おそらく雨乞いの唄なのだろう。歌詞の内容はもちろん分からないし、元来は大人数で合唱する種類の唄だろうから、心に響く物は全くなかった。しかし、もしもこの洞窟でたくさんの男女が一緒に歌ったら、他者と一体になる高揚感や陶酔感を得られるだろうことは想像に難くない。
 その次の絵は動物の群れを表したものだ。様々な動物が写実的に描かれている。中には抽象的な形で描かれた二足歩行の動物もいる。顔と蹄はカモシカだが人間と同じく真っ直ぐ立ち上がっているのは、トランス状態に入ったシャーマンが動物に変身した様子を描いた物だそうだ。人間の顔をしたカモシカはシャーマンの幽体が動物に乗り移ったことを示す。この壁画は太古の狩猟生活を記録した単なる絵画ではなく、宗教祭具としての魔力を蔵している。
 小悪魔のような姿の絵もあった。人間の身体に侵入して悪事を働く悪霊。これは病気そのものであり、病気が形象を伴ったものだ。
 そして、鳥と共に空を渡る人間は、死者の霊魂を表す。
 彼らは幽霊の存在を信じていた。いや、「信じていた」という表現は生ぬるいかも知れない。死者の魂が地上を彷徨して幽霊となるのは彼らの間では一般常識であった。
 ハリーは幽霊の存在を信じていなかった。彼らの無知蒙昧を軽蔑した。あからさまな態度にこそ顕わさなかったが腹の中で口汚くけなした。
「神や死後の世界をどうこう言う資格は人には無い。善人も悪人も、宗教に従事する者も、全てだ。おえらい僧侶様の単なる思い付きで、どれほどの人が辛酸を舐めてきたことだろう。魔女狩り裁判の鑑定法、出産に於ける加持祈祷……。俺はいかなる信仰も否定する。いつ、狂信的な馬鹿が“おえらいさん”になるか分からないのだから」
 一方、ボビーもボビーで、ハリーの盲目を馬鹿にした。そればかりでなく、ハリーの腹の内でたぽたぽ音を立てて渦巻く泥のような軽蔑を敵視した。理解ある聡明な王は「わからない奴にはわからない。勝手に言わせて置け」と諭す。だが、魂への暴力に──自分より劣った者からのこれ以上ない最上の屈辱に、一体どんな聖人君子様が我慢できるというのだろう。そりゃ一時堪えることは自分にだって出来る。だけどそれが長期に渡るとなると我慢できるわけはない。我慢できるとすれば単なる不感症だ。耳の中に蚊が入ってうるさく唸り続けるとして、その騒音を由無き雑音として聞き流せるか。聾以外に堪えられるわけがない。
 どうせ白人には判らない。幽霊が見えない。だが、見えないからと言ってそれを否定する権利がどこにある? ふざけるな。あいつの侮辱には耐えられない。コーランを燃やす馬鹿共に対してムスリムが激怒するのは尤もな反応だ。魂に加える侮辱は最も許し難い行為だ。殺人以上の罪悪だ。しかも幽霊を視ることが出来ない自分の無能を棚に上げての批判ならなおさらだ。──ボビーはこんな風に考えていたに違いない(コーラン云々はこちらで勝手に捏造したが)。そういうわけで、ハリーはボビーに憎まれ、シャーマンたちから嫌われていた。彼が後日、王に対する不敬が原因で牢屋にぶち込まれたのも、一発アウトだったのではなく、日々の無礼がシャーマンたちの中で累積し、一定の水準に達したからだと思う。
 男たちが壁画を夢中で鑑賞しているといつの間にかボビーがいなくなっていた。明るい場所なので松明の持ち手が不在となっても誰も注意を向けなかった。
 少し離れた岩陰の向こう、松明の炎の震える色がでこぼこした壁にゆらめいている。黒く伸びた人影がうねうねと壁面を上って火影に踊っている。英語はどうせ通じないという意識から、ラグ兄弟は声を掛けず岩陰に近付いた。ひょいと陰を覗くとプリシラがボビーの腕に絡み付いて甘えていた。ラグ兄弟に見られていることに気が付かず、口紅を塗っていない唇を分厚い唇に重ねた。兄弟は見て見ぬふりをして絵画の鑑賞に戻った。デヴィッドとジョニーには「向こうの陰で小便をしている」と説明した。
「何てこった。ボビーも俺たちと穴兄弟か」
「あの女、たいしたビッチだぜ」
 最近やけにスピリチュアルな発言が目立ってきたなと思ったら、シャーマンと懇ろになっていたのだ。
 壁画群から外界への帰途、プリシラはジャニス・ジョプリンの歌をハミングした。洞窟内は反響するプリシラの歌声とコウモリの羽音しかしない。そしてプリシラは、ジャニスの歌をいい加減に歌い終えると、哲学的なことを解き始めた。
「メルセデス・ベンツを買うというその一件単純な行動──車と代価との交換の裏には、様々な要素が潜在してる。ベンツはただそこにあるんじゃない。幾百幾千のパーツから成り、あらゆる部品が多くの人の手によって作られてる。車体はドイツ製でも中にある精密機械は日本製であって、その匠の技から生み出された一種の芸術品は、原料をたどればオーストラリアの鉄鉱石。一台のベンツの向こうには何千何万という人々の存在がある。ただベンツがほしいとだけ思う人に、そういう裏面を透かし見ることはできないよね。ベンツは元々ベンツとしてそこに存在してると思ってる。デザイナーは架空の存在で、工場も単なる途中経過の彩りに過ぎない、と。
 じゃあ道ばたに落ちてるこの石はどう? これもただ、元々石としてそこに存在してたのかしら。ベンツを欲しがる人間はベンツしか見えず、ベンツを造った生身の人間がいるとは夢にも思わない。それと同じように、石を創った存在に対しては目がひらかないだけじゃないの。そして、そういう態度だからこそ、石の声が聞こえないんじゃ。現に石は今も囁いているよ。聞こえないの。彼らは生きている」
 プリシラの戯れ言には誰も取り合わなかった。彼女も彼女で、無視されても別に傷ついた素振りは見せなかった。ボビーが密かに首を上下させているように見えた。
 洞窟の入口まで戻ると護衛二人が待ちくたびれてしゃがみ込んでいた。一人は真新しいジャッカルの毛皮を肩に掛けていた。
「こんなの行きに担いでたか?」
「あ、ホントだ。毛皮なんて持ってなかったよな」
「どっから出したんだろ」
「まさかこの短時間に仕留めて、しかも皮を剥(は)いだんじゃないだろうな」
「まさか」
「それなら皮を剥(む)かれた死体が残ってるはずだ」
「だよな」
「最初からどっかに持ってたんだろ」
「どこに? ほとんど裸だったじゃん」
「だよな」
 帰り道、大小四頭のハイエナが立ち止まってこちらを見ていた。ボビーが気付いて指を指した時点で五十メートルほどの距離しかない。襲って来るのではないか。白人たちに緊張が走った。
 一方のボビーたちは何の頓着もしていなかった。護衛二名は手に持った槍を構えようともしない。ハイエナは安全な動物なのか。そんなはずはないだろう。数の上で勝っているから、それで余裕をかましていられるのか。それにしたって危険には変わりない。なのになぜ、こんなにも落ち着いているのだ。もっともっと危険な修羅場を潜り抜けてきたからか。黒人三人の配置を三角形に見立てて、その中心に白人五人は逃げ込んだ
 ボビーは深紅のマントを翻して不敵に笑った。このマントがあれば動物は近寄れない──その目はそう語っていた。事実、ハイエナは距離を詰めるどころか「あいつらはライオンよりも怖い」と言わんばかりに自ら遠ざかって行った。プリシラがうっとりとした目つきでボビーを見つめた。



デイジー・ホーキンス
 ある晩、マークⅠのメンバーは王宮での食事会に招かれた。食堂のスペースの都合上全員というわけにはいかず、デヴィッド・ハリー・トム・サベラ・プリシラの五人が代表して出席した。
 トムはアフリカ系黒人女性を恋愛対象として見ることが出来なかった。肌の色は問題ではなく、鼻梁のひらいた鼻が好きになれないのだ。しかしトムが「ホーキンス」と名付けた王妃は、鼻筋は欧米人並みに細く、実に美しい女性であった。取り分け肌の色が人目を引いた。赤いのだ。とは言ってもロシア人のような赤さではなく、赤銅色と表現できる赤さだった。艶めかしい皮膚をしていた。髪型も特別で、肌と同じように赤く、漫画のキャラクターのように毛が太かった。彼女が髪を梳かすと燃え上がる虹のようだった。彼女は虹だった。
 この女は生まれつき赤い皮膚をしているわけではない。赤い色の秘密は、赤い泥土と牛の脂肪を混ぜ合わせた顔料である。日焼け止め・虫除けの効果の他に、肌を乾燥から護ったり寒さを防いだり皮膚を清潔に保つ効果もある。
 王妃は、その肌や面貌から察するに、ポニュケレ・ドレルシュカフ国の出身とは思えなかった。そして実際にそうだった。マークⅠの誰も(ドナでさえも)知る由はなかったがヒンバ族の女だった。ラクストンは他部族の女を第一夫人に迎えたのだ。ここから遠く離れたナミビア北部からどうやって連れてきたのか。部族間で交流があったのか勝手に誘拐してきたのかは定かではない。ラクストンは語らなかった。
 ヒンバ族の女性は通常胸を丸出しにしているが、王妃は青い洋服を着ていた。この集落には似合わない場違いな感じがしたがアクセサリーはアフリカらしい品々。ハゲワシの爪を用いた金の指輪。金のイヤリング。ビーズと貝殻を散りばめた金の腕輪。全身を黄金で包まれていた。沈み込む落陽のような光を辺り一帯に照射していた。唯一首飾りだけがビニールコードみたいで酷く安っぽかったが、これはゾウの毛を使ったネックレスだそうだ。
 ヒンバ族は先祖を祀り、火を崇め、家畜の内臓から将来の出来事を占う。王妃は円盤を使って未来の予言を行なった。美貌だけではなくその能力を買われて他の妃よりも格上の扱いをされているのだろう。英語は喋らず、ポニュケレ語にも不自由しているらしく、無口だった。そして、姑であるスミスおばあちゃんに非常に遠慮しているように見えた。
 王妃はラクストン自慢の妻だった。そしてマチルダの母だった。閨房に定められた小屋で母娘は寝起きをしていたが、王妃は滅多に人前に姿を現すことがなく、それがより一層神秘的な雰囲気を醸成していた。トムは見取れた。強く惹かれるのを感じた。その美しさに敬意を表するため、あだ名を「デイジー」に変更しようと思った。
 食事会が始まり、給仕役の女たちが次々に料理を運んで来た。「今まで食わされていたクズ肉や野菜クズは何だったんだ」と憤慨したくなるほどの見事な料理だった。熱が充分に通されており、塩や油で味付けもされていた。マルーラの実を醗酵させて作った酒も出た。
「動物も酩酊する、禁断の果実から作られた神の飲み物、いや、悪魔の飲み物だ。貴殿らの住む世界では飲めまい。身体が芯から熱くなり、幸福な気持ちになる。ただし、あまり飲み過ぎるなよ。飲みすぎると毒だ。世界が回り始めたり、うんこが逆から出たり、頭の中で悪魔が暴れ回るからな。そういう飲み物だ。最初で最後の体験だろうから、大切に大切に味わってくれ」
 ラクストンがあまりにも自信満々なので、世界各地に酒は存在するということを、気の毒で誰も言えなかった。
 色々な話をする中で、プリシラがデイジーの美しさを誉め讃えた。英語を解さぬデイジーは何の反応も示さなかったしラクストンもプリシラの言葉を翻訳しなかった。しかしラクストンは嬉しそうな笑顔を満面に湛えた。気をよくした彼は男客に対してこんな許可を出した。
「貴殿らも妻を欲しいとは思わぬか。思うであろう。よろしい。お一人に女一人ずつ与えよう。若くて健康な女がたくさん居るぞ。気立ての良いの、気性の激しいの、男に従順なの、いろいろ揃っている。国の中から気に入った女を誰でも選ぶが良い」
 ラクストンは上機嫌でコップの底に残っていた酒を飲み干した。剽軽者のハリーが王の冗談に合わせて軽口を叩いた。
「誰でも、ですか。こちらの美しい王妃でも? ほんの小さな子どもでも?」
 ラクストンはハリーの軽口を気に入って吹き出した。けたたましく笑った。酔った目つきに涙を浮かべ、王が道化師の悪ふざけを好意的に叱るように注意を与えた。
「貴殿は面白いことを言うな。この女は誰にも渡さぬ。この女は俺の物だ。それにな、この女に限らず、既婚の女はだめだ。未婚の女にしろ。未婚なら婆さんでも赤ん坊でも構わん。まあ、子どもを作れない女を嫁にする馬鹿はいないがな!」
 そして爆笑した。どうも本当に妻を宛ってくれる様子だった。ハリーは調子に乗って訊いてみた。
「既婚か未婚かはどう判断すればいいのです。この国では、旦那の多くは放牧で遠方に出掛けていて、結婚しているかしていないかパッと見では判りません。女たちとは話せませんし。言葉が通じませんので」
「それは首輪で判断しろ。黒い玉石の混じった首輪をしていれば夫が居る。ちなみに玉石の数が出産した子どもの数だ」
「すごいですね。この国は一夫多妻制だそうですが、やっぱり選ぶのは一人じゃなきゃだめですか」
「それはさすがにダメだ。何人も娶られた日には国が白人だらけになってしまう」ラクストンはまた笑って、「貴殿の国では妻は一人までだったな。可哀想に」と付け加えた。
「あたしたちの国じゃ一妻多夫制よ」プリシラが出鱈目を言う。ラクストンの顔が真面目になる。プリシラはボビーの方を見て片目を閉じた。ラクストンが眉を顰めてボビーを見たが、ボビーはプリシラに気付いていないふりをして目前の肉塊を平らげることに集中した。プリシラはトムにもウインクをした。ラクストンが怪訝そうにトムを見るとトムはにやにや笑った。プリシラは今度はハリーに投げキッスを送った。ラクストンはもはや愉快そうな表情となってハリーのリアクションを待ち受けた。ハリーは舌を伸ばして先端をぴろぴろ下品に動かした。最後にプリシラは隣に座っているデヴィッドの頬に口づけした。ラクストンは声を立てて笑ったがこれにはラグ兄弟とボビーは驚いて目を丸くした。
 プリシラは元気がない。スケッチブックの恨みをまだ忘れられないのだ。彼女だって本当は笑いたいと思っているし、貴人と同席しているこういう場ではなおさら笑顔を作らなければならないことも頭では理解している。しかし、精神的な痛手は深く、心の底から笑うことはできない。笑顔でいたいのに、無意識がそれを許さない。自由奔放に異国での生活を楽しんでいる妹が妬ましいと同時に羨ましくもあった。
 宴も酣となった頃、「使いの者は今どこに居るのか。そろそろ町に着いたのかどうか」に関する質問が上がった。回答に窮したラクストンは、母親であるスミスおばあちゃんに助けを請うた。
 以前、スージーが、仲良くなったマチルダに、スミスおばあちゃんの年齢を尋ねたことがある。スミスおばあちゃんは相貌からして相当な年寄りだが、マチルダの回答は予想を遙かに上回る「二百歳」である。到底信じられず、ラクストンにも同様の質問をしてみたが、彼の回答も同じく「おれの母は二百歳だ。間違いない」だった。ラクストンの年齢はデヴィッドと同じくらいに見えるから、もしスミスおばあちゃんが現在二百歳だとすると、百六十歳の頃にラクストンをおなかに授かった計算になる。首を捻らざるを得ない。その後この謎はちゃんと解き明かされるのだが、現段階ではとりあえず「何かの冗談に違いない」と解釈して済ませるしかなかった。
 壁画しか記録を残さないこの部族にあって、老婆は国の歴史を全て記憶していた。自分の生まれる前のことを知っていた。そればかりでなく、人物や物品の来歴を呪術によって辿り直す能力があるとのことだった。超能力用語で言えばサイコメトリーに当たる能力だった。
 自慢げに母の偉大な力を力説するラクストンの説明を受けて、ハリーがくしゃくしゃに丸まった世界地図をズボンのポケットから取り出した。紙のシワを伸ばしながら「じゃあどこから俺たちが来たか、わかります?」と言った。意地悪な出題をしてスミスおばあちゃんを試そうとしたのだ。ラクストンは少しむっとして、「ここだろ」とイギリスを指し示した。王の気を悪くしたことをハリーは後悔した。他のメンバーも心の中でハリーを詰った。
 楽しい会食が終わり、一行はまじないの社に移動した。小屋の中では王妃によって香木が焚かれ、デブとボビーが例の呪文「アブラカダブラ」を歌いながら円舞を踊り始めた。スミスおばあちゃんは、鳥の骨で作ったパイプに草食動物の糞を詰め、火を点けて煙を吸った。何度か煙を吸っては吐き、草の混じった糞を灰にしたのち、マントの裾から、紐を結びつけた青い石を取り出した。マークⅠから所持品没収した際に使用した振り子と同じ振り子だ。スミスおばあちゃんは口の中で呪文を唱え、使いの者の私物だという腕輪の上に振り子をゆらゆらと回転させた。老婆の目つきが正気を失っていく。麻薬の禁断症状に痙攣するジャンキーそっくりなトランス状態に入っていく。異様な雰囲気だった。呪殺師や呪医の実演を見た経験のあるラグ兄弟でさえやはり嫌な気持ちになったのだから、デヴィッド・プリシラ・サベラの味わった恐怖は想像するに余りある。
 結果が出たのか、振り子の回転運動が停止した。スミスおばあちゃんは息子に占いの結果を伝える。それによると、使いの者は既に町に到着し、食料や道具の買い出しをしている段階とのこと。プリシラ以外その言葉を信じなかったが、気休めにはなった。
 翌日の朝、出席できなかった残りのメンバーに晩餐会の様子を報告した。食事のうまさ、うまくはないがアルコールを摂取できたこと、ラクストンの留学時代の思い出話、王妃の美しさ、一夫多妻制、町に向かった使いがどうなっているか、などなど。不運にも招かれなかったメンバーは歯噛みするほどにうらやましがった。次回のチャンスを期待した。
 およそ一週間後、再びラクストンが王宮の晩餐にマークⅠのメンバーを招待した。今回出席者に選ばれたのはジョニー・スージー・テリー・ジュリー・ドナだった。しかしスージーとテリーはおなかの具合が悪かったので欠席した。代わりにトムが志願して出席することになった。その志願はとても強い意志によるものだった。彼は美しい王妃にまた会いたかったのだ。後先のことを考えると恐ろしくて手を出すつもりは全く起きなかったが、もう一度間近で見たかった。デイジー。トムの初恋の娘の名前。
 宴が始まった。客のために屠られた家畜が、たっぷり油を塗って丸焼きにされ、食卓に供された。噂の酒が出された。お茶も出された。お茶にはドナがさぞ喜ぶだろうと誰もが期待したが味が気に入らなかったようで表情は今ひとつだ。その他、ビニールのような皮で包まれた甘味のある果実や水気の多いスイカがどっさり運ばれた。待望の、人間らしい食事。
 ジョニーが王妃を見て生唾を飲み、トムが隣でにたりと笑う。小声で囁き交わす。
「な。言った通りだろ」
「ああ。すげえな。すっげえ色気だ」
 大方の食事が済んだ所で余興が行なわれた。ラクストンが柏手を打つと、ジョニーの大嫌いな猫目が食堂に入場してきた。彼は捕まえたばかりの野ウサギの耳を掴んでぶら下げていた。トムとジョニーは、酒の注がれたコップにちびちび唇をつけながら、ヒソヒソ囁き合った。
「何が行なわれるんだろう」
「手品かな。シルクハットの中に入れて、消して、また取り出すってやつ」
「まさか」
 まさかそんな事はなかった。そのような洒落たショーではなく、彼は生きたままウサギの皮を剥ぐ残酷な見世物を目の前で披露した。ジュリーとドナはすぐ目を逸らした。トムとジョニーはしばらく頑張っていたが、食欲をおおいに削がれ、胸が悪くなってきたのでやはり顔を伏せた。
「あまりお気に召さなかったかな」
 ラクストンは白人たちの臆病さを嘲笑い、手を打ち鳴らした。
「今度のは気に入るだろう。人間かかしだ」
 舞台裏で準備をしていたボビーとデブが一体の人形を運んできた。当初マネキンのように見えたそれは、硬直しているが、生きている人間だった。黒緑二色の服を着用し、帽子をかぶっている。
「彼は何をされても動かない。試してみよう」
 ボビーがかかしの頬を力一杯張った。かかしは動かない。ロバートが脇の下をくすぐった。かかしは動かない。ボビーが口をこじ開けようとした。口は開かない。ロバートが顔の前で拍手した。瞬き一つしない。股間を蹴り上げた。動かない。眼の中に指を入れた。動かない。本当に生きているのか。本当に人間なのか。驚嘆すべき芸だった。トムは友人のマッケンジーとその父親を思い出した。マッケンジーは、死んだ父親が生き返らないように、棺桶を極めて静かに運んだ。この人間かかしも死んでいるのではないか。乱暴を働いて生き返らせてはいけない、永遠に眠らせて置かねばならない類の存在なのではないか。トムはかかしの眼を凝視した。その眼に生気はなく、湿り気も無かった。
「どうだ。今度のは良かっただろう」
 ラクストンが自信たっぷりなドヤ顔で確認したが、客たちはただ驚くばかりで、やはりグロテスクな出し物であったから、何とも感想を言わなかった。ラクストンは少し残念そうだった。
 悪趣味な宴会芸が一通りお披露目されて場が白け切った頃、「マークⅠは無事にイギリスへ帰ることが出来るのかどうか」に関する質問が上がった。近い未来を王妃に予言してもらうことになった。一同はまじないの社に移動した。小屋の中では香木が焚かれ、デブとボビーが例の歌と踊りを始め、そこへスミスおばあちゃんも呪文を誦する役で加わった。アブラカダブラ、アブラカダブラ。
 デイジーは円形の両面鏡と木製の正確な三角錐を用意した。ラクストンは三角錐を「永遠の三角形」と説明した。英語で永遠の三角形と言えばもちろん男女の三角関係のことだが、この国では額面通り永遠の三角形を意味した。どの面を見ても同じ形、どう回転させても必ず三角形が現れるというのがその由来である。
 老婆の千里眼、呪殺師の死の呪い、呪医の蘇生術、王妃の予知能力。この野蛮な民間信仰を、国民は、そして術者本人たちも、狂信的に信奉していた。先祖伝来の儀式に対して露ほどの疑いも持たなかった。シャーマンの行なった秘儀の効果は絶対視されていた。それぞれの妖術は成功率百パーセント。文明国の天気予報の精度の非ではない。必ず当たり、絶対に成就する。疑うべくもない事実だった、古代の雨乞いの成功率が百パーセントであったのと同じように。もしも呪殺師の呪いの効き目がいつまでも現れない時は、ヒットマンが対象を暗殺し、「呪いが効いた」とされた。死者を蘇生できなかった時は「糞石が不足していた」と道具の不備のせいにされた。シャーマンの呪術に落ち度はない。
 デイジーは鏡の片面に、三角錐の四つの面を、それぞれ順番に映し出した。それが済むともう片面にも同じような所作を繰り返した。彼女の目には何が見えているのだろう。ドナは、灯明の火でピンク色に燃え立つデイジーの髪を見ながら、食い入るように儀式の成り行きを見守った。空気が熱を帯びて行く。ヤケドしそうな危険な雰囲気が立ち籠める。
 次にデイジーは、三角錐の四つの頂点をそれぞれ鏡面に優しく突き立てた。この所作も鏡の両方の面に繰り返された。小屋の中に充満した歌は徐々に大きくなっていく。興奮したデブとボビーは声を荒げ、汗だくで踊り続ける。デイジーの呼吸が荒くなり、彼女の魂が沸騰を始める。空気はますます熱狂的な色彩で飽和する。
 円の四面と、三角形の四面。どういった意味があるかは判らない。儀式そのものよりも、トムは彼女の優雅な手付きに、ジョニーは炎の輝きが陰影を造り出したその顔に、それぞれ見入っていた。ああ、エロい女だなあ。
 その時だった。デイジーが驚きの声を上げ、何かを口走り、動揺のあまりの大きさに永遠の三角形を手から滑り落とした。何を言ったのか、ラクストンやスミスおばあちゃんが問い詰めている。彼らには、デイジーの言葉が理解できなかったようだ。
「今、あの女、ラテン語系の言語を話さなかったか」とトム。
「よく聞き取れなかったけど……」とジョニー。「英語ではなかった」
「ドイツ語?」
「ドイツ語っぽかったけど、訛りが強くて何て言っているか判らなかったな」
 その時、ドナが静かに言った。
「あれはアフリカーンス語です」
 みんなが一斉にドナを見た。
「聞き取れたのか」
「はい」
「なんて言ったんだ」
「彼女はこう言いました。『この中の二人が、次の満月までに死ぬ』と」
 トム・ジョニー・ジュリーは、青天の霹靂に茫然自失となった。
「何だって? この中の二人って、つまり俺たちも含めた──えーと、九人のうちの二人が、近々死ぬって?」
「そう王妃は仰いました。上手なアフリカーンス語で」
 デイジーは拙いポニュケレ語で他のシャーマンたちに予言の内容を説明している。ラクストンたちはその言葉が真実なのかどうか何度も確認した。スミスおばあちゃんは脅すような口調だ。デイジーは怯えながら頻りにうなずく。ラクストンたちは王妃に予言を撤回させようと躍起になり、説得するような口調で何度も真偽のほどを確かめた。デイジーは唇に一度のぼらせた言葉を二度と飲みはしなかった。
 マークⅠは無事にイギリスへ帰ることが出来るのかどうか、この問いに対する答えを占おうとしてデイジーは予想外の未来を予知してしまった。それも考え得る限り最悪の、出来れば御破算にしたい未来を。しかし予言は必ず実現する。同席していた九人のうち二人が必ず死ぬ。この国ではシャーマンの妖術に失敗は起こり得ない。
 やがてラクストンは私たちの方を向いて、こう言った。
「何でもない。君たちは知らない方がいい」



なぜ死んだ?
 翌日ジョニーはいつものようにドナを伴ってサバンナ探索に出掛けた。一時間ほど歩き回ると、バッファローのような動物の大群が草を食んでいる場面に出会した。ヌーだ。幅の広い草を舌で引っ張り取っている。その数はあまりに多い。空を舞う渡り鳥の大集団は地上からは小さな羽虫の塊のように見える。それと同様、ヌーたちは糞に群がる甲虫としてジョニーの目に映じた。
「彼らは最も成功した草食動物と言われています。群れの数が多すぎるので、一箇所に留まると途端にその土地の草を食べ尽くしてしまいます。ですから新鮮な草を求めて一年で二三千キロメートルを旅します。その移動をワニが狙ったりもして大きな被害が出るのですが、数が多いので大打撃にはなりません。彼らは危険を冒してでも移動を続けなければ種を保存できない動物なのです。種の安全のために、個の危険を取るのです」
 一頭のヌーが白い物をケツからぶら下げたまま歩いていた。まるでタマゴのようだと思っていたら、ヌーは急に横臥し、でろりと青い物を出し始めた。出産だ。ジョニーは息を呑んでその様子を凝視した。
「ここより北の赤道直下のサバンナには二つの季節があります。雨季と乾季です。草食動物は雨季の直前に子育てを始めます。一説ではヌーは五十キロメートル先の雨の匂いを嗅ぎ分けるとも言われていますから、もうすぐ雨が降るのでしょう。きっとこれから北へ移動するはずです」
 出産はどの動物にとっても容易ではない。表情は変えないものの、母親ヌーはいかにも苦しそうだ。グロテスクな青い物が、出血を伴って後ろ脚の間からゆっくりと溶け出る。白い羊膜の中に青い頭の生き物が見える。仔が産まれる。誕生だ。羊膜を破ると青い頭は黒い頭に変わった。サイズが小さいだけで、見た目はほとんど親と変わらない子だった。ジョニーは素直に感動した。そしてスージーとの間にやがて授かることになるであろう我が子のことを考えた。
「そう言えばこの村に来てから一度もあいつと寝てないな」
 見る物触れる物全てが新鮮な毎日の中に夫婦関係は埋もれてしまっていた。そのことに、ジョニーはこの時ようやく気が付いた。
 子の身体にまとわりついた血や羊膜を親が舐め取る。ヌーの赤ん坊は驚くことにすぐに立ち上がった。牛や鹿の子はリハビリの訓練さながらによろよろと立ち上がるものだが、ヌーは違った。少しだけ震えていたけれど助けも借りず四つ足で踏ん張った。そして次の瞬間には元気に走り始めた。
「トムソンガゼルの赤ん坊は一日中草にうずくまりますが、ヌーの赤ん坊は生まれてすぐに走り始めます。なぜなら、大群であるからこそ肉食動物の目に付きやすい彼らは、誕生時が最も臨終に近いからです。一斉に出産するのは肉食獣からの攻撃を分散させるためです。生まれてすぐ走り始めるのは、弱いゆえの特性です。家族に温かく保護されて数十ヶ月を過ごす人間の赤ちゃんとは大違いですね」
 ジョニーは感心し、大自然の厳しさを思った。
 そこへ、ジョニーの視界の右の方から、レモン色の物体が飛んできた。ヌーの赤ん坊に簡単に衝突した。チーターだった。地上最速のハンター。ジョニーもドナもその存在に全く気が付かなかった。度肝を抜かれ、慌ててその場から逃げ出した。
「もしヌーがいなかったら。ヌーが出産しなかったら」
 考えるのも怖かった。息せき切って走り、低い草の生える見晴らしの良い野原まで逃げる。たった一本だけ木が立っていた。その木陰に二人はへたり込んだ。大の字になった。呼吸を整えるのに数分間の沈黙が必要だった。
「危なかった」ジョニーが言う。「俺たちが殺られていたかも知れない」
「そう、ですね」ドナはまだ呼吸が荒い。「本当に、そう」
 ジョニーはドナが落ち着くまで待つことにした。ドナから話し始めるまで黙っていることに決めた。とは言え、ジョニーの鼓動も早鐘のように連打されたままだ。いくら気持ちを鎮めても、深呼吸を繰り返しても、「死んでいたかも知れない」本能的な恐怖によって心臓は勝手に高鳴る。
 やがて、ドナが喋り始めた。
「あれはチーターです。ご存知の通り地上で最も足の速い動物です。でも、実は全力疾走は二十秒しかできないんです。それ以上走ると体温が上がりすぎてしまって生命に関わるからです。ライオンも含めてネコ科の動物は長距離走が苦手です。だから、狩りをする時は結構慎重で、俊足だからって無闇に獲物を追ったりはしないんです。こっそりと忍び寄って、獲物が射程範囲内に入ったら、その時初めて全力疾走をするんです」
「俺たちは射程範囲内だったのかな」
「どうでしょう……。ただ、私たち人間は四足歩行の動物よりも格段に足が遅いですから。チーターの射程範囲の外に居ても、追いつかれたかも知れません」
「危機一髪だったな。それにしても、ドナの言ってた『誕生時が最も臨終に近い』ってのはまさしくそうだったな。あの仔……死んだだろうな」
 ドナは元気なく小さく頷く。ジョニーは腕を頭の後ろに回し、木の枝を見つめながら、不思議そうに呟く。
「でも、チーターは母親の方のヌーだって仕留められたはずだけど、どうして小振りの赤ん坊を選んだんだろ」
「ヌーは巨体だし、それに大群なので、チーターも極めて慎重に追うんです。やっぱり大きな獲物は殺すのが大変ですし、もし捕まえ損ねたら労力的に相当な損をしますし、何よりあの体重ともつれ合って足を骨折でもしたら今度はチーターが他の肉食動物から狩られる側になってしまいます。ですから、単独で狩りをする際には、子どもなどやや小型な個体を狙うんです。小型と言ってもウサギなんかよりはよっぽど大きな獲物ですからね。あと、チーターは歯が小さいので自分よりかなり小型の動物でなければ獲物を噛み殺せません。喉元をくわえこんで窒息させるんです。俊足以外のそういった事情を考慮すると、子どもの動物を狙うのは理に適ってるんです」
「なるほどなぁ。ドナは物知りだな。もっと話してくれ。会うことのない──いや、出来れば会いたくない他の肉食動物についての情報なんかも。どうせしばらくは動けないから。そう、ライオンは? ライオン」
 ドナはにこりと笑って、次の件(くだり)を語り始めた。
「ライオンは百獣の王と言われていますが、実は狩りが超下手なんです。まず、足が遅い。あ、遅いって言ってもサバンナの他の動物と比べてってことで、人間とは比べ物にならないですよ。それに身体が大きいから目立っちゃうので、なかなか射程範囲に入れない。他の動物もそれを知っているから、ライオンが視界に入っても距離さえあれば逃げないんです」
「狩りが下手っていうのは意外だね」
「四回に一回は失敗するんですよ。しかも、成功した場合でも、八十パーセントは横取り。ヒョウやチーターなんかが仕留めた獲物を奪い取るんです。昔の定説では『ライオンは生きていくために必要なだけ殺す』と言われていましたが、最新の研究では『殺せるだけ殺す。食欲とは無関係』であることが解っています。王者っぽいプライドはなくて、単なるならず者なんです。だから、ヒョウなんかも、無益な争いが起こるのを嫌がって、横取りさせるがまま泣き寝入りをするんです」
「ライオンと言えば堂々とした狩りを想像していたけど、実際はかなり違うんだね」
「ネコ科で夜行性ですから、草食動物の活動が緩慢になる夜間に、不意打ちを仕掛けるのが得意です。ただし、夜目は利くけど視力は人間並みです」
「なんか卑怯者みたいでかっこ悪いな」
「しかも、オスは群れのパトロールのみで、獲物はメスが狩ります。オスは普段は寝てばかりで、他のオスがハーレムに侵入してきた時だけ重い腰を持ち上げます」
「完全なるぐうたら亭主だね」
「そうですね」
 ドナは笑った。その笑いに人類一般の夫に対する嘲りが含まれている気がしてジョニーは少し気まずくなった。
「仔ライオンの八割は餓死すると言います」
「八割! それはまた……」
「狩りの苦手ぶりはその事実からも推測できますね」
 ドナは一呼吸置いてから、いたずらっぽく笑った。意地悪そうな微笑みをジョニーに投げ掛けた。そして。
「でも、ライオンのオスだって凄い所はあるんですよ。それは、交尾です」ドナはますます嬉しそうに笑う。「その数、なんと、一日数十回。一二週間全くの飲まず食わずでエッチしまくるんです。映像を観たことがありますが、すさまじい精力絶倫ぶりですよ。しかもとんでもない早漏です。交尾から十秒くらいでオスは唸り声を上げて果てます。オスが離れるとメスはごろんと腹を上向きにして寝っ転がります」ドナはにやにやしながら「おなかに溜めてるんでしょうね」と言ってくすくす笑う。「それを立て続けに、飽きずに、何度も繰り返すのです。そしてライオンのオスの偉い所は」笑うのをやめ、「そんなに精力絶倫なのに、ハーレムを形成していて周りはメスだらけなのに、ただ一頭のメスだけを愛し続けることです。他のメスには目もくれないんです。発情したメスを群れから連れ出し、邪魔の入らない場所でお相手を努めるんです。二頭以上は相手にしません。ラクストン王はたくさんの妃を娶っているようですが、ライオンは、違います。他のメスが近寄ってきても鋭い爪で威嚇して追い払います」
 ドナは言葉を切った。いつの間にか鳥が木に留まっているのに気が付いた。ジョニーからは何も感想がなかった。
 ドナはジョニーの方を見た。ジョニーはむくりと起き上がった。
「謎を掛けたのはそっちだぞ」
 ジョニーは変身していた。毒虫に変わったグレゴール・ザムザのように、人間ではなくなっていた。これ以降、ドナが何を言っても彼には伝わらなかった。たとえば「ライオンはたった一頭のメスを愛します」と諭したりしても、人間の言葉は通じなかった。彼は野獣の咆吼を叫んで猛り狂っていた。脱皮が始まった。彼は人間の皮を脱ぎ捨てて獣へと豹変した。
 木に留まっていた鳥が、飛び立った。
 この日の出来事をドナがスージーに黙っていたのは、ジョニーにとって幸運だったと言えるし、計算通りだったとも言える。「スージーと仲の良いドナは気を遣って何も喋らないだろう」と狡猾にも考えたのだ。
 辱めを受けて意気沮喪したドナを伴って、ジョニーは意気揚々と村に帰ってきた。不審がられるといけないのでいくつかの小屋が見えてきた段階で逃げるようにドナと別れた。
 王宮の近くまで来ると人だかりが出来ている。何か面白いことでもあるかと思ってジョニーは気軽な足取りで野次馬に加わった。マークⅠのほとんども集まって来ていて、遅参したジョニーに事情を説明してくれた。
 それによれば、王妃が亡くなったという。
 デイジーが、亡くなった。
 死因は。いつ。どこで。そもそも本当なのか。詳しいことはわからない。現場は混乱していた。群衆を見回してみると誰もが困惑している。しかし悲しんでいるような顔は一つもない。
 呪殺師の家から、普段とは異なった衣裳、赤と黒のマントを着たラクストンが出てきた。彼の顔だけが唯一深い悲嘆の色に染められていた。王妃の死を嘆き、大声で繰り返し呪殺師を呼ぶ。ボビーを探し回る。呪殺師の居場所を知らないかマークⅠの一人一人にも尋ねる。
 事の顛末はこうだった。
 王宮の前庭に落ちていたペットボトルに対し、エコロジストのラクストンは激しい怒りを露わにした。そこで、呪殺師のボビーに命じて、ゴミを捨てた者を呪い殺すよう命令した。呪殺師の呪いは即効性の毒ではなく、じわりじわりと効いてきて確実に対象を死に至らしめる種類の呪いだ。いつ発動するのか、もしくは既に成就したのか。しびれを切らしたラクストンはスミスおばあちゃんにゴミの来歴を調べてもらうことにした。ゴミを捨てたのは誰なのか、と。まじないの社にシャーマンたちが勢揃いした。デブとボビーがアブラカダブラを歌い、舞い、ペットボトルの上でスミスおばあちゃんの振り子が揺れ始めた。
 王宮の前庭に落ちていたペットボトルは風に吹かれて運ばれてきた物だった。村の外れにゴミを捨てた犯人は、村に漂流して来た白人たちではなく、この国に住むジェラルドという名の中年であることが判った。彼はスプリングボックと取っ組み合いをした際の怪我が元で命を落としていた。呪いは既に成就していた。しかもジェラルドは宿無しの与太者だった。ラクストンは大いに溜飲を下げた。
 だが。そこで終わりではなかった。真の終わりが始まったのだ。振り子は止まらなかった。村の外にゴミを捨てたのはジェラルドであったが、ジェラルドは捨てたのと同じ場所でペットボトルを拾っていた。拾ってみて、何の役にも立ちそうになかったからすぐ手放したのだ。では、ジェラルドより以前にペットボトルを捨てたのは誰だったのか。振り子が高速回転で大きな円を描き、スミスおばあちゃんがかっと目を見開く。ペットボトルを捨てた者、それは、王妃だった。
 まじないの社は凍り付いた。デブとボビーの動きが一瞬止まった。ラクストンが驚きと哀しみと怒りと嘆願を渋滞させた表情になった。デイジーが呼吸を止めた。動いているのは振り子と五つの心臓だけになった。五つのうちの一つが回転数を急激に高め、その振動で小屋の屋根が震えた。唄と踊りを止めるなと、スミスおばあちゃんが絶叫する。デブとボビーは慌てて踊りを再開する。アブラカダブラ。振り子が揺れる。そしてデイジーは呼吸困難に陥った。その場に倒れてがくがくと痙攣し始めた。美しい唇の端に白い泡を吹き、真っ赤に充血した白目を剥く。左の鼻の穴から風船がぷくりぷくりと膨らむ。ラクストンが駆け寄った時には王妃は動かなくなった。ちょうどこの瞬間、呪殺師の遅効性の呪いが発動したのだ。
 ラクストンは絶叫した。ロバートは踊る。振り子も揺れる。ラクストンは絶叫し続けた。ロバートは踊りを続ける。振り子も揺れ続ける。ラクストンは怒りを爆発させ、儀式を中断させた。そして王妃が死んだ原因、直接の加害者である呪殺師にその怒りをぶつけようとした。おまえは死刑だ、殺してやる、と。悪いのは王妃であって呪殺師ではない、そうやってスミスおばあちゃんが宥めたが我を忘れたラクストンの興奮は収まらない。偉大なる王は呪殺師に死刑判決を下した。
 しかしボビーの姿はもうそこにはなかった。彼の肉体はまじないの社から消え失せていた。死刑宣告を読心術で察知したのか、いち早く逃げ出していた。
 呪殺師は読心術を持っている──それは元々、呪医が言い始めたことだった。人の気持ちを見透かすような言動が目立ったりしたからだ。その噂を呪殺師は笑って否定したが、他の人々も呪医と同じ印象を抱いていた。決定的だったのは、まだ生きている女を本名で呼んで殺した事件だ。その女をボビーは妻にしようとして断られていた。拒絶された腹いせか、心の中を覗いて女の名を知り、言葉にしてはならないその名前を吐き出した。親にも知られていないホーリーネームをずばりと言い当てられてしまった女は、魂を奪われたも同然、抜け殻になって一ヶ月後に痩せ衰えて死んだ。
 読心術は大変危険な能力であると見なされ、王は神経質なまでに呪殺師のことを警戒していた。なぜなら自分の心まで見透かされる恐れがあったからだ。何より、ホーリーネームを知られたら魂を奪われてしまう。ボビーの異能はまさしく諸刃の剣であった。だからボビーは普段は読心術を持っていないように振る舞っていた。本当はどうだったのか。その秘密と真相は彼しかわからない。そして今では真実は闇の中に葬られた。
 結局呪殺師は発見されなかった。怒りと哀しみで眼を赤黒くしたラクストンは興奮冷めやらぬ息遣いで「絶対に殺してやる。あいつを見掛けたらすぐ通報するように」とマークⅠに通達した。そして「俺の世界にぴったりの女だった。望む物は何でも与えた。俺は、あの女無しでは……」慟哭してその場に泣き崩れた。王らしくない態度を衆目に晒し、スミスおばあちゃんが不快そうに目を細めた。
 騒ぎはしばらく続いたが、猫目の戦士が人払いをしたので、徐々に沈静化した。貴人の薨去だから多少は盛り上がったが基本的には死が日常の世界である。人々はすぐに興味を失った。人前で泣いているのは白人の女だけだった。スージーはマチルダのことを心配した。きっと深い悲しみに包まれているはずだった。
 辺りがすっかりいつも通りになった夕刻、死神がジョニーの隣に座った。
 初め、見知らぬ男がいきなり隣に腰掛けたのでジョニーはあっけにとられた。何をするのか、何か言うのか、ジョニーは次の行動を見守った。左手に植木鉢を持った男は特に何もしない。ジョニーがじっと見つめてもあいさつしても男は全く反応しなかった。何の意図があってここに座ったのか。広大な土地が有り余っているのになぜわざわざ自分の隣を選んだのか。不気味だった。
 近くに妻スージーが来たので目顔で示すと、「何が?」と言う。ジョニーはやはりあっけに取られた。妻の受け答えはあまりにも演技っぽく思えたので「見えてるのに見えてないふりすんな。この人は誰だ」と真面目な声を出した。スージーは何も見えない誰もいないと答えるとさっさと去ってしまった。ドナが来たので妻に対して発したそれと同じ質問をしてみたが、やはり何も見えないと言う。
「もしやこれは俺にだけ見える死神ではないのか、本物の」
 ジョニーはそう思い始めた。本気でそう思ったわけではないが、半分は本気だったかも知れない。嫌な気分になった。死神は動かない。仕方がないのでジョニーが遠ざかることにした。死神は動かない。ずっと付きまとって来る気配はないのでほっとした。
 辺りが暗闇で飽和した晩、ジョニーは集落を散歩した。夜の外出は安全上あまり奨励されていないが、独りになってこの日の出来事を反芻したかったのだ。昨日初めて知り合った美しい人の、突然の死。そして今日初めて深く知り合った女の、女としての味。空には星座が正しく並び、弱々しい光を放っていた。王宮の扉は閉ざされている。王の家来たちも眠っている。いびきの音が屋根の隙間から漏れ聞こえてくる。遠くから動物の殺し合う声。流れ星が落ちた。夜という海を泳いでランタンの灯の光が近付いてきた。夜警かと思い、ジョニーは緊張した。植木鉢をランタンに持ち替えた夕方の男だった。ジョニーは蛇の前の蛙のように立ち尽くした。男は何も言わずジョニーのそばを通り過ぎ、井戸の方へ歩いて行った。恐怖から解放されたジョニーは、冷や汗がどっと噴き出して全身を覆うのを感じた。



黄色い海底動物
 その後一週間が経った。ボビーはついに発見されなかった。死んだことになった。遺体は回収されないまま、シャーマンたちによってその死は強制的に認定された。
 本当に死んだのか判らないのに死んだことにされた呪術師の、その真の名前が判明した。ロバートが口寄せによってボビーと対話した。霊が明かしたその名は「ボビー」だった。偶然にもトムが密かにつけたあだ名と一緒だった。
 トムは自分のあだ名のセンスに驚き、そして自信を深めもした。
 自分のセンスをもっと確かめたくなり、試しに、呪医のロバートを「ロバート」と声に出してみて呼んでみた。ひょっとしたら合っているかも知れなかったから。ロバートを驚愕させられるかも知れなかったから。
 しかしロバートと呼び掛けてみてもロバートは全く意味がわかっていなかった。ボビーはたまたま「ボビー」って顔をしていたから、トムもそう名付けたし、ロバートもそう名付けたのだろう。
 王妃に続くボビーの死によって、王妃の予言「この中の二人が、次の満月までに死ぬ」は成就した。次の満月までには大分時間があったが、予言は見事に的中したのだ。テリーの不安は解消された。「これ以上犠牲者が出ることはあるまい。少なくとも次の満月までは」マークⅠの出席者──トム・ジョニー・ジュリー・ドナのうちの誰かが死ぬと彼は思っていた。その中には彼の妻ジュリーが含まれていた。ただでさえ孤独な彼は、唯一の友と言える伴侶を失ってしまえば、これから先の人生、とても続けて行くことは出来ないだろう。
 珍しく雲が空を覆ったその朝、テリーは朝のお通じをひり出すため草むらに出掛けた。ここ数日続いた水のような軟便が粘り気のある便になっていた。腹具合は恢復しつつある。
 ほっと安堵の溜息を吐き、葉っぱでおしりを拭くと、葉っぱに虫の羽が附着していた。不審に思って便器代わりに掘った穴の中を確認すると排泄物の上に蠅が数匹くっついていた。
「やれやれ。汚い土地だ」
 テリーはもう一度おしりを浄めてから、腿の辺りまでどす黒く染まりつつあるズボンをずり上げた。そしてすぐ、妻の転がっている小屋に戻った。彼の生活は、寝床と、便所に定めた草むらとの往復に限られていた。その他の場所には出掛けず一日の大半を横になって過ごした。
 小屋に戻る途中、マチルダがオウムと語らっているのが見えた。彼女は絶望の溜息を吐いたりうめいたりしている。母の突然の死を嘆き悲しんでいるのだろう。その姿は見る者に哀れを催させた。なのに、住人の誰も彼女を慰めたりはしない。そっとしている、という雰囲気とは違った。無視しているのだ。心底彼女が哀れになった。しかし、人見知りのテリーは声を掛けなかった。掛けようとしたのだが、掛けられなかった。テリーは自分を恥ずかしく思いながら足早に小屋へと立ち去った。
 不思議なことに王妃の魂の名前は発表されなかった。死んだはずの人物の名前が決まらず、生死不明の人物の名前が決まる。この国では人の死さえも権力者の主観によって決定される。
 小屋に戻り、妻の隣に仰向けになって、テリーはこう考えた。王妃のことではなく、マチルダのことでもなく、妻のことでもなく、自分のことだった。
「もし旅行者が僻地で客死したら。現地で埋葬されるのだろう。死亡証明などはどうなるのだろう。こいつら未開人に連絡を取る術もなく、本国では私の死は知られず、行方不明扱いになってしまうのだろう。身体が動く前に冒険旅行をし、あわよくば老後のための友人を作りたかったのだが。クルーは最悪の雰囲気で、しかもほとんどが若僧。話が合わない。来るんじゃなかった。生きてイギリスに帰りたい」
 雲がますます厚くなった翌日、テリーは日課通り排便をしに出掛けた。気持ちの良い便通だったがその成果を確認して彼は青ざめた。またも蠅が見て取れた。しかもそれは、生きている蠅が糞便の上にたかっているのではなく、うんこの中に蠅が混じっていたのだ。もしや、自分の腹の中から生まれているのではないか。腹中に蠅の卵が産み付けられているのでは。または、与えられる食事の中にのっけから寄生虫が棲み着いていて。
 不安になった。小屋と便所の生活サイクルから外れ、医者を訪なうことにした。独りでは心細いので妻を連れ、さらに、この日もオウムと話していたマチルダに無理言って通訳を務めてもらうお願いをした。
 恐ろしく太った医者に症状を説明すると、医者は不気味な笑顔を浮かべ、二三種類の薬草を擂り鉢に放り込んでゴリゴリ擂り潰し始めた。水を加えてこね上げるべき所、水は貴重なので代用に唾を吐き入れていた。この時点でテリーはとても沈鬱な気持ちに傾いた。あれは塗り薬だといいな。もしくは浣腸とか。飲み薬だったら嫌だな。でもお腹の薬だからきっと飲み薬なんだろうな。
 程なくして特製の薬が出来上がった。緑色のドロドロ。医者は鉢を突き出してさあ飲めと合図をする。飲み薬。嫌な予感は的中だ。テリーは精一杯の愛想笑いで拒んだが、医者は笑顔を消してガラス球のような目でじっと見つめている。いつまでも。遠慮する旨翻訳してくれるようマチルダに頼んだが、少女は従わず特に何も言わない。妻も助け舟を出してはくれない。見えない檻が完成して飲まないわけにはいかず、テリーは鉢を両手で捧げ持つ。吐き気を誘う強烈な異臭がぷうんと鼻を衝く。テリーは息を止め、両目を堅くつぶり、緑色のドロドロを口の中に入れた。不味いなんて物じゃない。歯槽膿漏の老人から直接口移しで嘔吐物をご馳走になる時はこんな気分だろうか。無理に飲み下した。ごくりと喉が鳴った。やり遂げた。ここまでして効果が無かったら詐欺だ。イギリスに戻ったら絶対に訴えてやる。
 すると、効果覿面、薬草の効能はすぐに表れた。
 テリーは猛烈に嘔吐をした。
 ロバートは「それで良し」という表情でテリーを見つめる。空になったばかりの鉢が見る見るうちに満たされていく。あっと言う間に鉢にはたっぷりと緑色の液体が湛えられ、それでも足りないのでもう一回り大きな鉢が用意され、テリーはその中にも戻し続けた。吐瀉物がびしゃびしゃと音を立てて注がれて行く。その臭いに引き寄せられて鉢の周縁に蠅がたかる。耐えられない悪臭に妻とマチルダが逃げ出した。
 胃の中から逆流する物は固形物が次第に減り、液体ばかりとなり、液体も次第に透明になって行った。吐く物はもはや胃の中には無く、それでも身体は薬への拒絶反応を示し続ける。腸内から未消化の内容物が引き揚げられた。翌日分の糞便が小腸、胃、食道を遡って飛び出した。新たに用意された大型の壺の中に見る見るうちに黄色い物が盛り上げられていった。その中には蠅も混じっていた。
 十分後、ついに出る物が無くなった。テリーは医者に簡単な例を述べるとおぼつかない足取りで小屋を出た。妻とマチルダが心配そうに待っていた。今度は猛烈な脱糞をした。小屋の裏で屈み込んだ。ズボンを下げるのが少し間に合わなかった。肛門からは草笛の音色と水ばかりが噴出した。小便が間違えて大の方の出口に来てしまったかのようだった。蠅はいなくならなかった。テリーは脱水症状に陥った。死ぬ、と自分で思った。ロバートが患者の様子を見に小屋から出て来た。気の毒そうな表情で「失敗した。ごめん」とばかりに力無く首を振った。治癒させようと思って与えた薬がとどめを刺すことになるとはさすがに思わなかっただろう。
 半死半生のテリーは汚れたズボンを妻に履かせてもらい、助け起こしてもらってよろよろと立ち上がり、女たちに両脇を預けて自分の小屋へ戻った。
 太陽が沈んだ。彼の苦しみは、あたかも焼けた鉄棒を直腸に突っ込まれ、ハバネロエキスに一ヶ月漬けた画鋲を腹中に流し込まれたような激痛と刺激を伴った。暴走した胃液が無残にも胃壁を食い荒らした。上からも下からも体液が失われた。涎が口の端から垂れ、瞳孔が開きっぱなしになった。ジュリーが必死に看病した。いつ終わるとも知れない夜の中をテリーは苦しみ抜いた。闇の奥からは叫びがよく聞こえた。赤ん坊の泣き声・鳥の雄叫び・ジャッカルの吠え声。風鈴のような心地よい虫の音は聞こえなかった。すべて殺伐としていた。ここでは生きていくことは大変なことだった。生存は幸運だった。
 自然界だった。生きるか死ぬか、殺すか殺されるの自然界にテリーはいた。人間に都合良く仕立て上げられた世界に、どれだけ慣れきってしまっていたことだろう。人工世界の外においては、死は日常だ。
 大便に蠅が混じっていたからと言って何を気にする必要があったのか。妖しげな医療に頼った自分が馬鹿だった。苦痛から逃れられず、死にたいのに死ねない、永遠とも思える地獄の時間が流れていった。空はいつまでも暗く、朝は二度と来ないようだった。日没後から数えて通算十五度の嘔吐、二度の吐血、四度の下痢便と一度の血便を耐え抜き、ようやくほのかな光明が集落に降り始める時間となったが、分厚い雲が日の目を覆い隠していた。夜を引き延ばすために悪魔が黒雲を召喚したかの如くだった。
 だが。たとえ太陽が昇らなくても、しかしそれでも、夜は明ける。
 明け方、激しい雨が降った。
 デイジーとボビーの死によって、強い力を蔵した彼らの魂が天に昇り、巨大な雲となり、既に空中に待機していた他の者達の魂を巻き込んで、雨を降らせたのだ。
 ロンドンに行くと陰鬱な気持ちになる。いつでも雨が降っているし、降ってなければ霧で覆われているから。暗い空模様は人の気持ちを沈み込ませる。しかし、天気が悪くなることで気持ちが明るくなる場合もある。テリー以外の誰もが飛び起きて外に出た。男も女も裸になって天然のシャワーを浴びた。喜びを爆発させながら身体を手で拭い、親鳥から餌をせびる雛のように空に向かって口を開けた。家畜たちも天に向かって首を反らせ、感謝の言葉を言祝いだ。ジュリーも、彼女の身体に附着した汚穢、夫の瀕死の肉体から滲み出した穢れを、清々した気持ちで流し落とした。テリーだけが、「人間豚」こと戚(せき)夫人さながら糞尿とゲロの堆積した沼の中で、涌いた虫たちと一緒に沈み込んでいた。
 白人女性たちも全裸になった。数週間分の臭いとかゆみが羞恥心に勝(まさ)ったのだ。彼らの肌は疲れと栄養不足で弾力や潤いを失い、醜くたるんでいた。だから白人男性たちは女たちのヌードにあまり魅力を感じなかった。ただ、村の男たちは、雨を浴びるのに専心している振りをしながらも白人女性たちの裸体をちゃっかり盗み見ていた。マークⅠが入国した初日と同様、肌の眩しさに目を細め、いやらしい笑みを鼻の穴に作っていた。トムは少し嫉妬心が涌いて、「あいつらに取られるくらいなら、俺が」という心持ちになった。そして、痛痒に疼く頭皮の脂をガシガシとこそぎ落としながら「あの赤い女王は、もし生きていたなら服を脱いだだろうか」とぼんやり考えた。
 井戸に水が満ちた。三つの井戸に人間を含めた全ての動物たちが集まって喉を鳴らした。井戸の中にバケツが放り込まれては引き上げられた。水は黄色くなっていたが、構わず頭から浴びるように飲んだ。味が良くなった錯覚がした。女性陣はここぞとばかりに洗濯をした。
 テリーにもバケツの水が数回に分けて運ばれた。ヘラクレスがアウゲイアスの家畜小屋を掃除した要領で水が投げ入れられた。汚物まみれのテリーに水がぶっかけられ、溺死させる勢いで口目がけて水が投げ込まれた。幽界を彷徨い始めていたテリーの意識は現実世界の肉体に戻ってきた。飲みすぎた水を吐き出した。雨を降らせた神の慈悲が、この中年男にも下賜されるよう、皆で祈った。
 王宮に一番近い井戸で、バケツが動かなくなった。がっちり固定されてびくともしなくなった。井戸の底を覗く。陽はまだ低く、光も弱く、水面の反射は見えない。一人が試みに力任せに引っ張ってみるとわずかに手応えがある。何か重い物が引っ掛かっているようだ。その辺の男が総出で引っ張ってみると思った通り徐々に持ち上がる。
 井戸の底から水の音が聞こえてくる。男たちは息を合わせてぐいぐい綱を牽く。引っ張り上げる。反対側の縁から井戸の中を見下ろしていた男の子が持ち上がってくる物体を不思議そうに見つめる。なんだ、何が引っ掛かっている。父親の呼び掛けに男の子は答えない。無視されたと思った父親は舌打ちをしつつも綱を握る手は緩めない。男の子は白痴のように井戸の中を凝視し続けている。だらしなく開いたままの口からよだれが滴り落ちる。
 ようやく上がってきたそれは、底に沈んでいたボビーだった。
 死に慣れ切っていた人々も、これにはさすがに仰天した。井戸の周囲は蛇の穴をほじくったような大騒ぎとなった。
 ボビーの肌は銀色に変色していて、所々黄色く化膿している。網膜は濁っていて黒目が青白い光を放っている。口腔の腐敗は特に著しく、唇が収縮して歯を剥き出しにして笑っているようだ。尻の穴から蛆虫が這い出している。ひどい臭いだ。テリーが浸かっている地獄の泥濘よりも強烈な悪臭を放っていた。
 男たちは深刻な表情で、どう処理すれば良い物か考えあぐねている。女たちは取り敢えず集めてきた木の皮を男たちに手渡す。男たちはその粗雑な板切れで急場のしのぎに遺体を隠蔽した。雨が木の皮を白く叩いた。子どもたちは恐ろしそうに母親の足にしがみついている。トムの脳裏では、洞窟で雨乞いの歌を唄ってくれた生前のボビーが鮮やかな映像で再生された。ボビーと刹那の愛を育んだプリシラは人目も憚らず狂乱し、ガラスのような水たまりに倒れ込んで転がり、深い吐息と共に絶望的な呻き声を上げた。鳥が高く飛翔した。
 マークⅠのメンバーは三々五々吐き気に襲われ、今飲んだばかりの水を吐こうとした。ゲーゲーと声は出るが水は出ない。ボビーの出汁(だし)がよく滲み出した水を体内から追い出せない。消化器が脳の命令を無視し、水分を貪るように吸収している。
 報告を受けたシャーマンたちが王宮から駆けつけて来た。シャーマンたちと言っても、かつての五人組ではなく今では三人だ。一人は仲間から受けた呪いで死に、もう一人は今こうして水死体となって上がった。
 ラクストンは野次馬の中から六人の男を選び、細い丸太を組んで担架を作るよう命じた。そして、共同墓地とは別の場所に遺体を埋めるよう指示した。冷静な対応・テキパキとした命令は、さすが指導者だった。
 ハリーはへらへらと笑っていた。恐ろしさのあまり心が少し参っていて、自我を防衛するためには笑うしかなかったのだ。そしてラクストンに近付き、普通の精神状態なら言葉に出せるはずの無い嫌味を言ってのけた。
「普通に土葬するのか。彼は罪人だろ。ゾンビにはしないのか」
 ラクストンは咄嗟にハリーを殴りつけた。ハリーは地面に倒れた。地面では無数の雨粒が丸い波紋を広げている。
「馬鹿。そんなことを言ってる場合か」
 いつもは冷静なラクストンの声が怒りで震えていた。
「おい。この馬鹿を連れて行け」
 ハリーは二人の男に引っ立てられ、牢屋に連行された。大人しく引きずられていく彼の表情は、これから屠殺されることを理解している家畜のそれだった。マークⅠの面々はただ見送るしか出来なかった。ハリーも声の出し方を忘れたように、命乞いをしなかった。
 正午となり、人々はそれぞれ昼食の準備を始め、事態は沈静化した。有力者が立て続けに死ぬという大事件が発生しながらも、人々は早くもその事実を忘れ、それぞれの生活に戻っていった。ここでは、記憶は野晒しの屍と同じくらい早く風化する。文字文化を持たぬ彼らに歴史は存在しない。あるのは現在だけだ。時間は間断なく過ぎ去り、現在は一瞬で過去となる。ポニュケレの人々は時間と一緒に思い出までも未練なく受け流す。彼らは王妃とボビーを忘却の彼方に葬り、雨の到来をお祭りのように祝った。降りしきる雨の中で、新年を祝賀する喜びの踊りを舞った。
 スミスおばあちゃんの年齢は二百歳とされている。とても信じられるわけはなかったが、その謎が解き明かされた。この国では年齢の数え方が特殊なのだ。この地では一年に一度だけ雨季が来る。気温の変化に乏しく、季節ごとの太陽の高さにも無頓着なこの地では、雨が降ったら「一年」とする。暦も無いので国民各自の誕生日というものはなく、雨が降ったその日に皆が一斉に一歳年を取る。だから、立て続けに雨が降れば赤ん坊のくせに五歳だったり、旱魃が何年も長続きすればもう中学生くらいなのに八歳という場合もある。スミスおばあちゃんの二百歳というのも雨が降った回数でカウントしているのだろう。
 ラクストンは雨が降った理由についてこう説明した。
「雨が降ったのはボビーの魂が天に凝固したからだ。彼の魂はとても大きかった、単独でも雨を降らせられるほどに。この雨に王妃は関与していない。なぜなら、ボビーは死んだが、王妃は死んでいないからだ。王妃は死んでいない。彼女の名前をおれたちが知らないということは、彼女の魂がまだ死んでいないことを如実に示している。彼女は死んでいない。ただ眠っているだけだ」



ラクストンの優美
 雨は丸一日降り続いてから止んだ。
 村は雨の恵みによって潤った。草の黄色が瞬く間に緑色に変化した。家畜は活き活きとし、畑に作物が育った。
 この国では農耕は困難な事業だ。土地が極度に痩せていて砂ばかりであり、たとえ土のある場所であっても土壌に含まれる養分は乏しかった。
 ラクストンは食糧の安定確保を図るため二年前から農業に着手していた。乾燥に強い根菜の種を町で購入させてきた。種を蒔くのに選ばれたのは、人の死体を埋める場所だった。共同墓地がそのまま畑に転用された。
 最初の一年、根菜はいつまで経っても芽を出さなかった。水を与えなかったわけではない。「万物の根源は水」とするタレスの哲学よろしく、水を生命の源・魂の血と考える彼らは、なけなしの井戸水を畑に与えていた。ただし、貴重な水を出し惜しみして、少しずつ、わずかばかりの量しか撒かなかった。あまりに節水するので育つ物も育っていなかったのだ。
 しかし雨が降り、充分な水が供給され、植物が芽吹いた。ラクストンは見たことのない草が墓地から生えるのを見て感慨深げに「これは一ヶ月前に死んだジェニファーだ。こっちはキャシー」と語った。魂の構成要素を振り掛けられ、人間が草になって生き返ったのである。
 村全体が浮かれたムードだった。有力者たちの死を悲しむよりも、雨を喜ぶ気持ちの方が圧倒的に強かった。だからこそジョニーも悪事を働きやすかったのだろう。彼はドナの肉に食らいついた日を境に、肉食獣と化していた。正体を隠すために人間の皮をかぶってはいるが、具は人でなしの腐ったのだった。単独サファリの時間を減らし、余暇を利用して集落内をぶらつくようになった。閑静な住宅街を空き巣が物色するような足取りでほっつき歩き、露骨に女たちを見た。特に女たちの首輪に注目した。女たちも女たちで、視線を感じるとまずは恥ずかしそうに俯き、そして上目遣いになって笑みをこぼした。井戸のそばで三人の娘たちが談笑をしていた際はジョニーは女たちを順番に凝視し、女たちの方は女たちの方で嬌声を上げてお互いを小突き合った。
 ジョニーは村の女たちと次々に寝た。年端のいかない女も混じっていたが彼には関係なかった。女たちも、先進的な遺伝子を授かれると思ったのか、はたまた外部の種を本能的に求めたのか、彼を易々と受け入れた。昼間品定めをした女の家に暮れ方忍び寄るジョニー、オーケーならば女は羞じらいながら彼のあとに従い、村外れの岩の裏で情事に及んだ。
 この国の女は、いざ一戦交える晩には事前に香木を焚いて体臭──特に陰部の臭いを消そうと努力していた。努力していたが悪臭はしつこい。噎せ返るほどの強烈な臭いだった。しかしチーズは腐りかけがうまいのであって、ジョニーもやはり食欲をそそられた。ジョセフィーヌに「(戦地から)俺が帰るまで風呂に入るな」と命じたナポレオンの気持ちが少しだけ解った。少しだけ──性に淡泊なイギリス人は、フランスの変態気質を十全には理解できない。
 ある日ジョニーはトムに好色な自慢話を打ち明けた。トムは蛮勇とも評せる武勇伝を聞いて驚きを隠さなかった。
「おいおい、そんなことして大丈夫か」
「大丈夫さ。ラクストンのお墨付きだ。一夫多妻制」
「違うぞ。一夫多妻制はこの国の制度で、外国人の俺たちに許されたのは一人までだぞ」
「ウソ!?」
「ウソじゃねえよ。俺たちの話、ちゃんと聴いてなかったのか」
「だって。だって妻をプレゼントするって。それで一夫多妻制って」
「言わなかったっけ? 言わなかったかもな」
「うわーマジかよ。おまえちょっと」
「ラクストンにバレたらどうなるかな」
「どうなるかなじゃねえよ。おまえは他人事だから気楽でいいけど。もしバレて罰を受けなきゃいけないってなったらおまえの情報が間違ってたって言うからな絶対」
「ああ。ちゃんとかばってやるよ」
「どうしよう……。だいぶ派手に暴れ回っちゃったよ」
「人妻には手を出してないんだろ?」
「うん」
「安心しな。俺も暴れ回ってやるから。遅ればせながら参戦を表明するぜ」
「マジかよ。ありがとう」
「気が向いたらな」
「気を向けてよ!」
「でも一発ヤッちゃったら妻に迎えなきゃならないんだろ。かなり重荷じゃないか」
「重いよな。遊びで済まないってことだから。だけどまあ、目の前にぶら下げられた餌をみすみす逃すのは野暮だ。この国では、たとえ小さな獲物であっても、巡ってくる数少ないチャンスを無駄にするのは悪徳に近い。それに、我慢は体に毒だ。一夜の快楽のためなら心を鬼にして永遠を約束したりもするさ」
「おまえもう結婚してるじゃん」
「なあに。町から迎えの車が来れば、それでおさらばだよ」
「最悪だなあ。もし子どもが出来たらどうする」
「それこそあの女どもの本望だろ。いいか。この国では、子どもを産まないのは重大な罪なんだ。子どもを産まなければロボット人間にされて強制労働に駆り出されるんだ。おまえら兄弟がその目で見たはずだろ」
「うーん。確かになあ」
「ちなみに俺、ドナとも寝たぜ」
「ウソ!?」
「ホントホント。俺はどっちでも良かったんだけど、あっちから誘ってきたからさ、仕方なく」
「マジかよ。おまえすげえな」
「アフリカに来て野生の血に目覚めたね」
 ジョニーの密かなる女狩りを除けばその他はおおむね平和だった。使いの者が村に戻ってくるまで、マークⅠは思い思いにアフリカ最後の日々を過ごした。
 スージーは子どもたちと暇を潰した。
 デヴィッドは読書に耽った。
 トムはジョニーに刺激され、プリシラ以外の女を開拓しようと動き始めた。
 プリシラは、太った男は好みではなかったが、ボビーの代役としてロバートに接近を始めた。
 ドナは今回の経験を今後の仕事に活かせるよう、マチルダから根掘り葉掘り文化や風習について尋ねた。
 テリーは雨が上がったあと快方に向かいつつある。腐乱死体の漬かった水をたらふく飲んでこのかた「うまいうまい」と満足そうにその井戸水を啜っている。汚れた水であることはあえて誰も教えていない。地元民も敬遠しているので今では彼しか飲む者はいない。幸せな独占状態だ。
 それから。スケッチブックを失って以来すっかり元気を萎れさせていたサベラが、降雨を契機に頻繁に外出するようになった。ある日、スージーが話したというオウムと自分も話せるかどうか試してみたくなり、それで出掛けた。
 噂の鳥はスージーの証言通りの場所で子どもたちに囲まれていた。サベラは遠巻きから子どもの集団を眺めた。時間は腐るほど余っている。木陰に腰を下ろして子どもたちの数が少なくなる機会を窺った。十分後、ようやく子どもたちが去り、チャンスが訪れた。サベラはオウムに近付き、顔を寄せ、じっと見た。オウムもサベラをじっと見つめ返した。
 言葉を掛ける、というのがなんだか馬鹿馬鹿しい行為に思えて来て、サベラは何も話し掛けなかった。オウムも喋るどころか鳴きもしなかった。しばらく見つめ合うだけでサベラは家に帰った。
 翌日もサベラは出掛けて行ってオウムの前に佇んだ。今度は順番を守らず、子どもたちの輪に混じった。馬鹿げている、とは思いながらも、英語で話し掛ける衝動を今度は抑え切れなかった。
「こんにちは」
「……」
 オウムは何も応えなかった。サベラは苦笑いをする。ある意味予想通りだったから安心した。スージーが会話を交わしたというのは、悪意の無い嘘か、彼女の孤独が捏造した希望的幻覚だろう。サベラは前日同様オウムと見つめ合って食事までの時間を潰した。
 その翌日も彼女はオウムと会い、すぐにあいさつをした。オウムは前日同様の無言だったがサベラは構わず身の上話を始めた。自分のこと、夫のこと、旅のこと、ここでの生活のこと、スケッチブックのこと。相手に返事を求めない、独り言のような会話だった。要するに愚痴だった。誰でもいい、誰かの耳に吐き出すことによって不満の捌け口としたのだ。内部自我との対話。スケッチブックの消滅によって薄れつつある記憶の補強。オウムに語りかけるのは単なる名目で、実際には自分自身に話し掛けていた。オウムは鳴き声一つ上げない。サベラの話を理解しているようでもあり、理解してないようでもある。いずれにせよ返事はしない。だがサベラは、たとえ会話が成立しなくても、話を聞いてもらう相手がいるだけで満足だった。妹にも打ち明けることの出来ない、精神の深奥にわだかまった瘴気、吐き出せるだけでも充分救われた。サベラは毎日オウムと話しに出掛けた。
 ハリーだけは捕らえられたまま消息不明だった。考えたくはないが、すでに処刑されている可能性もあった。最悪の場合ゾンビにされて今ごろは砦で永遠の労働に就いているかも知れない。まともな司法制度の無いポニュケレ国では外国人に対してもそのくらいのことはやり兼ねない。考えれば最悪の想定ばかりが浮かぶ。だからマークⅠはあえてハリーのことを考えないようにした。
 ハリーへの心配とジョニーの女遊びを除けばおおむね平和だった。他のみんなは、安らかな気持ちで使いの帰還を心待ちにしている。
 使いの者は、王の命令で村を出発してから、町までの長い長い道のりを、徒歩だけで踏破していた。町への遠出はまさしく命がけだった。ただでさえ死亡率の高い地にあって更に死の確率を高める自殺行為だった。ここではただ生活しているだけでも死はそこら中に口を開けているが、旅の途上には更に多くの死が跋扈している。
 白人たちに迎えの車を用意してやるというのは建前で、第一の目的は白人たちから巻き上げた金を使って、生活必需品を購入することだった。国のための英雄的行動、彼らは町を目指した。太陽が優雅な身のこなしで大空に半円の軌跡を描く。彼らは距離を時間で表す。故郷が一日分、遠ざかった。太陽が沈み、凍るような赤い砂漠が暗くなる。故郷が六日分遠ざかった。緑色の砂漠の砂に潜って寝る。故郷が十日分遠ざかった。夜間、野生動物に襲撃され、命からがら木に登り、幹に抱きついて朝を待ち、まりじんともしない。故郷が六十日分遠ざかった。水を探し求めて草原を数日間彷徨う。故郷が百日分遠ざかった。故郷から遠く離れた。寂しさに打ちひしがれた。二度と戻れない気がした。しかし彼らは死に勝利した。彼らは今、役割を立派に果たし、残金で雇った三台の自動車に分乗している。たくさんの土産物と一緒に故郷を目指している。
「喜びたまえ。貴殿らを町まで送り届ける車が、今こちらに向かっている。数日中には到着するであろう」
 スミスおばあちゃんの振り子を根拠に、ラクストンがマークⅠにそう告げた。それが事実であるならばこの上もなく嬉しいことだった。マークⅠは、ラクストンの手前、言葉には出さず目配せをして喜びを分かち合った。ようやくこの不浄の国を離れられる日が近付いたのだ。
 悪夢の終わりが近いことを告げられたこの日も、サベラはオウムに会いに出掛けた。錯覚に違いないがこちらの話を理解してくれているような気がして、話さずにはいられなかった。「こんにちは」もはや抵抗無くあいさつが出来るようになっていた。
 その時。
 サベラにとっては信じがたいことが起こった。
「こんにちは」
 ついにオウムがサベラに応えたのだ。あまりのことに、サベラは驚いて二の句を継げなかった。オウムが喋った。スージーの話は空想の産物ではなく、実体験だったのだ。オウムはこちらの話を理解していないと思っていたので、もう一人の自分と対話しているつもりだった。鳥なんぞに話すのはためらわれるような個人的な話題も打ち明けてしまった。それは自分への励ましであり、同時に、自分からの励ましでもあった。
「あなたより前に来た人はとても身勝手でした。軽々しく返事をしてしまったのを後悔したものです。あなたもあの人と同じかと思い、最初は話せない演技をしました。しかしあなたは違った。あなたはあなた自身のことを私にたくさん話してくれましたね。熱心に。ですから、私も私自身のことをあなたにお話ししましょう」
 オウムは語り始める。自らの出自について。
「もう随分昔の話になりますが、私は最初、藪の中で暮らしていました。そこへ、ヒョウのような目をした凄腕の狩人がやって来て、私を生け捕りにしました」
 ジョニーの天敵・猫目のことだった。
「私は槍の柄に括り付けられ、この国まで連れて来られました。私は王への手土産として、新鮮なまま持ち帰られたのです。そう、私は殺されて王に食べられる運命だった。それを救ったのが、他ならぬあの第一王子です」
 第一王子とは誰のことなのか、サベラには見当が付かなかった。
「彼は私の容姿を気に入り、友として迎えたいと王に嘆願しました。それがあまりに熱心なので王も許され、私はその日の夕食となることを免れました。狩人は少し困っていましたが、私はこの国に入った瞬間から彼の獲物ではなく王の財産となっていましたから、さしたる不満も無さそうでした。彼は私の羽根を抜いて飛べなくし、あとは王子の好きにさせました」とオウムは言って、少し羽ばたいて空中に浮き、「今では羽が生えたので飛べますけどね」と自慢げに付け足し、話の続きに戻った。
「王子は懸命に私の世話をしました。餌をくれるのはもちろん、羽根を清潔に保つため撫でつけたり、行水をさせたり、そしてたくさん話し掛けました。最初は恐がっていた私も、徐々に心をひらきました。私と彼は心を通わせました。私は彼が寝る時以外はいつも彼の肩に留まっていました」
 ここでオウムは、痒かったのか、脚で耳の辺りを掻き始めた。
 オウムの言葉を一言も聞き漏らすまいと黙って聞いていたサベラが、この間を利用して、質問を差し挟んだ。「あなたは英語がとても上手だけど、誰に習ったの?」
 オウムは右の羽根を持ち上げながら「英語というのはこの言葉のことですか。これは王子から習ったのです」と簡単に答え、脇の下を嘴でつつき始めた。サベラの網膜にはプリシラの顔が茫漠と浮かび上がった。王子ってプリシラのこと? プリシラは、男の子だった?
 羽根のお手入れはまだ終わらない。そこでサベラは静かな興奮を覚えながら質問を重ねた。
「狩人は誰だかわかったけど、王子ってどんな人? あの女の子?」
 オウムはすぐには答えず嘴を使い続けた。知りたい情報が開示されず、サベラもかゆい思いをした。
 数秒後、ようやくかゆさを撃退して、オウムがおしゃべりを再開した。
「王子には会ったことはないかも知れませんね。彼は今、町へ旅立っています」
 突如としてサベラの心を支配した「プリシラ男の子説」はすぐに打ち消された。不可思議に満ちたポニュケレにあってもそんな嘘みたいな話は無かった。オウムは続ける。
「初め彼は、この国のまっとうな人間の言葉を使っていました。根気よく、赤ん坊に一から言葉を教えるように。私は少しずつ理解しました。人間のあらゆる言葉を彼は私に伝授しました。私たちはお互いに理解し合いました。私は彼の言っている言葉を全て理解し、彼も私が理解していることを肌で感じ取っていました。
 だが、私は喋れなかった。人間の言葉は発音できなかったのです。彼はその事実をとても悲しがり、そして私の寂しさを共有してくれました。
 そこで彼は一計を案じたのです。あなたが喋っている言語、今度はそれを使って私に話し掛け始めたのです。もう一つの言葉は、修得が容易でした。最初に習った人間の言葉を新しく置き換えれば良かったのですから。最初の半分の時間で私は全てをマスターしました。そして私は、こうして喋れるようになったのです」
「どうして王子は英語が話せたのかしら」
「彼は父親である王から教育を受けたのです。王は子どものころ外国に留学をし、もう一つの言葉を学びました。そして王は、第一王子と第二王子、それから外国人の女に産ませた娘に、英語を伝授しました」
 きっとマチルダのことだった。やはり、母デイジーは他部族の女だったのだ。でも、第二王子って?
「第二王子ってどんな人?」
「名前はジェルッカといいます。行く末は未来の王を補佐する役として将来が期待されていました。彼の名は『無敵の勇壮』を意味する語でしたが、しかし成人する前に命を落としてしまいました。第一王子に劣らずいい人でしたよ」
「きっと、お父様がいい人だからね」
 サベラはおべっかを使った。オウムは少し黙ってから、深刻な口調でこう囁いた。
「これから話すことは、絶対に他言無用です。あなただから、内緒でお教えする話です。もしこの話がばれたら、あなたが今まで私に告白した秘密を洗いざらいお仲間にぶちまけますよ」
 鳥から脅迫されるとは。サベラはもちろん嫌な気持ちになった。しかしそれはほんの少しの精神の揺らめきで済み、秘密を共有する仲間として新たに根差した結束感の方が強かった。彼女は息を大きく吸い込んだ。
「この国の支配者たちには会ったでしょう。彼らは普通の人間には使えない妖術を操ります。ご存知でしょう。しかし、王が魔法を使う所を見たことがありますか」
 サベラが実際に肉眼で確認した魔法らしき物と言えば、スミスおばあちゃんの振り子と、目の前のオウムだけだった。
「無いでしょう。無いはずです。なぜなら、彼には魔法の力が備わっていないからです。長男だったので、先代が死ぬと同時に王に就任しましたが、本人も、王の母親も、その無力をひどく気にしていました。呪術を使えなければ国民の上に立つ資格がないからです。どうして彼が魔法の力を身に付けなかったのかは、よくわかりません。幼少時に留学してしまったから、というのが最も有力な説です。
 そこで王は、町から魔法の品々を持ち帰ることで自らの無能を補いました。具体的には、手の中に小さな火を灯したり、水を燃やして見せたり、木で出来た猿を踊らせてみたりすることによってです。人々は驚き、王を篤く崇拝しました。
 しかしシャーマンたちは見破りました。それは道具本体に魔力が宿っているだけであって、王本人に魔力が備わったわけではないことを。
 彼は今でも自分だけの力では呪術が使えない、そう私は確信しています」
 サベラはラクストンの秘密を知って良かったものかどうかの判断は出来なかったが、あまり大きな衝撃は受けなかった。王が妖術を使えないのは大した問題だとは思えなかったからである。問題はむしろ妖術を使えるシャーマンたちの方だと、文明人の彼女には思えた。
「王の母が王を快く思っていないのはそういった事情からなのです。そして彼女は、不肖の息子が迎えた王妃と、王妃が身籠もったその娘とを軽蔑しました。国民が王妃とその娘を軽視しているのは、まあ、王妃がよそ者であるのも深く関係しているのですが、王の母が彼らを軽蔑しているからなのです。
 そしてまた、王の母は、王が町の文化を取り込もうとしているのを、苦々しく思っています。王は町の教育にそそのかされてエコロジーという邪教に心を奪われました。動物保護や環境保全に熱中し、その教義を国中に布教しているのです。彼は地球を汚す者はすべからくその命を奪われるべきだと考えています。
 これは全て第一王子が、私と話し始めたごく初期に、口を滑らせて暴露した事実です。絶対に他人に話してはなりませんよ」
 オウムと差し向かいで話すサベラの姿を、マチルダが離れた場所から見ていた。



好日陽光
 ついに。ついに。ついに使いの者が帰ってきた。三台の車に、栄養価の高い食糧や便利な道具を満載して。
 車の到着を国民総出で待ち受けた。到着は事前に判っていた。まず、砦に常駐する見張りたちが車列の上げる砂煙を発見し、太鼓を打ち鳴らし、その音色は伝達係Aの耳に達し、Aも同じ旋律をトーキングドラムで奏でた。Aの発した音は、より村に近い場所にいた伝達係Bの耳に届き、Bの音はCに届く。こうして伝達係たちが太鼓の音をリレーし、車の接近を国に報せた。
 車が到着すると人々はその周りを取り囲んで歓声を煮えたぎらせた。町で雇われた運転手たちは困惑気味だ。殺されると思ったかも知れない。村人同様嬉しそうな顔をしているマークⅠを見つけると、彼らは助けを求めるように英語で絶叫した。「旦那、旦那! ねえ旦那! こんにちは!」デヴィッドが手を挙げて彼らの興奮を制し、この村の人たちは危害を加えたりはしないから安心するよう説明した。
 英雄たちが車から降りてきた。オウムが飛んで来て、そのうちの一人の肩に留まり、囀る。ラクストンがゆっくりと歩み出て、使いの者たちの労をねぎらう。オウムを肩に乗せたままの男を抱擁する。拍手が巻き起こる。そして、王はマークⅠの方に向き直ってこう言った。
「我が国の慣わしとして、国外に旅立った者が帰還したら、その無事を祝って、祝祭を開催することになっている。今回は貴殿らの送別会も兼ねて特に盛大に行なうから期待していてほしい。きっとその頃には我が妻も眠りから醒めていることだろう」
 マークⅠは声を出して喜んだ。笑うことによって王の粋な計らいに敬意を表した。本音を言えばすぐにでも文明世界に帰りたかったが、ラクストンがさも当然と言った表情で祝祭への参加を促すし、運転手たちも「今から出発しても、肉食動物の多い地帯で夜になってしまう。夜は危険だ、やつらが活発になるからな。出発は明日の朝早くにした方がいい」と勧めるので、翌日まで滞在を延ばすことにした。数ヶ月を暮らしたせいか、いざ離れるとなると名残惜しくもなったし、嫌な記憶を払拭するための最後の想い出づくりとしてはちょうど良いかも知れない。どうせ明日になれば帰れるのだ。
 しかしトムの心は浮かない。送別会を開いてくれるのはありがたいことだったが、最後の言葉が引っ掛かった。「我が妻も眠りから醒めていることだろう」どういう意味だ。デイジーは決して醒めるはずのない永遠の眠りに就いているはずなのに。
 彼女は生き返るのだろうか。それとも王の言葉通り眠っているだけで、本当は死んでいないのか。呪医によって懸命な延命措置を施されているとでも? もしくはゾンビとして蘇るとでも? トムは王妃の非業の死を目撃したわけでも遺体と対面したわけでもなかったから、判断は出来なかった。いずれにせよ、王は王妃の死を受け入れていない。妻は他にもたくさんいるのにデイジーに未練を残している。
 トムは隣にいたデヴィッドに小声で相談した。
「もしも王妃が生きているとするなら、彼女の予言『この中の二人が、次の満月までに死ぬ』はどうなるんでしょうね」
「君はあの占いを信じているのかね」
「信じているというほどでは……。でも、気にはなります。自分も『この中の二人』に含まれているので」
「そうか。気になるのも尤もだな。いい気はしないだろう」
「予言は絶対に外れず、必ず実現する、ってこの国の人たちは信じていますから」
「シャーマンのメンツを保つためには、人殺しも、し兼ねない」
「そう、その通りです。そうなんです。──あなたは一度死んだ人間が生き返る奇跡を信じますか」
「到底信じられないね。イエスは神の子だったから復活したが、人間が復活すると言うことは有り得ない。確かに、止まった心臓が再び動き出したという例は世界中にいくらでもある。だけど、完全に死んだ人間が数日後に生き返ったという記録は人類の歴史上一つもない。デイジーが生き返るとしたら、そもそも初めから死んでいなかったか、あるいは仮死状態だったんだと思うよ。もしくは長らく意識不明だったとか」
「ですよね。俺もそう思います。じゃあやっぱり、現状は、ボビー一人しか死んでいないことになる」トムは不安げな表情になって、論理の逃げ場を探す。「もしもデイジーが一度死んでいたら──彼女は『この中の二人』にしっかりカウントされているんでしょうか。それならばもう、予言は成就した理屈になるんだけど」
「君には気の毒だが、彼女は死んでいなかったと思う。この国の人たちだって、デイジーが死んだという認識はないと思うよ。彼女のホーリーネームは判明してないわけだしね」
「だとすると、やはり。次の満月までに、誰かが死ぬ、場合によっては殺されるかも知れない。身近で一番死に近いのはテリーだけど、彼はあの場にいませんでした」
「もうすぐ月が満ちる。物騒だな。拳銃を、ラクストンに没収されていなければ、月が痩せ始めるまで、君に貸すんだが」
 人々は祝祭の準備をした。広場の中央に薪が積まれた。ドラムセットが運ばれた。ナイフで身体にたくさんの傷を刻み、肌を加工した。小さな長方形を並べたその傷はタイヤのトレッドのようだ。フェイスペインティングのために、石を砕いて赤い粉・白い粉にし、それを少量の水で溶いて顔料とした。祭が始まる直前、眉間に赤い縦線を引いたり、額に水玉模様を散りばめたり、唇から顎にかけて四角形をいくつも重ねたりした。マークⅠのメンバーも塗ってもらった。放牧から戻ってきた男たちも目尻から放射状に青い線を引き、それはまるで大きな蜘蛛が彼らの顔面に脚を拡げたようであった。
 広場の片隅に滑稽な木彫りの彫刻があった。トムが笑いを抑えながら「これは何か」とマチルダに尋ねた。シャーマンたちの胸像であるという。
「これが王で、これが王妃。こっちは王の母。そしてこれが呪医で、これが呪殺師。どう、そっくりでしょう」
 まるで似ていないが、言われてみればそういう風に見える。外見上の描写は少しも正確ではないが、各人の特徴をよく表しているようにも思えてくる。見れば見るほど心惹かれる。アフリカの彫刻はアルカイックな魅力を湛えている。下手だが、生命力に満ち溢れた人物造型。ピカソが魅了されたのもうなずける。
 これら国の有力者たちの胸像は傑作とされている。彫ったのはポニュケレ随一の彫刻家だそうだ。さっそくトムはマチルダに案内させて彼の家に赴いた。試しに自分の姿も彫ってもらおうと、帽子を代(しろ)にして依頼した。
 男は気乗りしない態度で丸太を準備した。男の前に座ってトムは顔を見せつける。男は原始的な鑿を振り下ろして乱雑に丸太を削っていく。どんな珍妙な物が出来るやら、半ば馬鹿にした想いで大した期待もせず座っていると、予期した通りそれほど時間も掛けずに彫り終わった。
「あんたは外国人だし、急いで造ったから荒削りだ」
 おそらく有力者たちに対しては存在した「尊敬」や「畏怖」の念がトムに対しては欠如していたために少しばかり手を抜いたのだろう。良い出来映えではない、そう断った上で作品をぞんざいに披露した。
 するとそれが、実に見事な彫刻だった。失敗というのは謙遜あるいは裏返しの自慢だろうと思えるほど、見事な生き写しの木像だった。これが失敗で、有力者像は傑作というのは何を意味するのか。ポニュケレ国の人々の目にはシャーマンたちがこう映じているのか。はたまた自分の網膜が捉えている映像が誤っているのか。それともこの彫刻家は対象の魂を見て彫っているのか。トムは戦慄した。アルカイックな魅力を湛えた彫刻の印象が一変してしまった。トムは畏怖に近い感心で頻りに唸り、自分の木像を小屋に持ち帰った。
 太陽が地平線を濃いキャラメル色に染めるころ、祝祭が始まった。どこもかしこも華やかな雰囲気に塗りたくられている。夜の帳が下り始め、人々はおしゃれをしてはしゃいだ。
 一人の男がバチを持ってドラムセットの前に立った。音楽が始まった。木の中身を刳り抜き、獣の皮を張ったドラムである。大小さまざま、ものすごい種類。テリー・ボジオの“要塞”とまでは行かないが、メロディーを奏でられるくらい音程の豊かなセットだ。しかもバチのみならず手で叩いたり引っ掻いたり撫でたり擦ったり、五本の各指それぞれの組み合わせと手首拳骨手刀など考え得る全てのアプローチによって一つの太鼓から無数のバリエーションの音色を生み出してみせる。ただしその音階は、耳慣れた平均律ではなく、耳障りの悪いホンキートンクだ。調律が狂っているとしか思えないが、この地ではこの音階こそが生理的に心地よいのだろう。リズムも複雑怪奇で、ヨーロッパの整理された拍子とはまるで異なる。汚いくらいの変拍子だが、不思議と魂が高揚してくる律動だ。
 足首に鈴をつけた男が激しいステップを踏みながらやかましい笛を吹き散らかす。男たちがトーキングドラムを演奏する傍で、女たちが金属製の鉦をポコポコ鳴らす。八分の十二拍子に十六分の三拍子と十六分の四拍子が絡み合う。楽器を持たぬ人々は手で拍子を取ったり、高い音域で声を合わせて歌ったり、音に合わせて踊ったりする。跳びはねるだけの単調な、しかし皆が一体となって高潮するには打ってつけのダンス。トムやプリシラも真似をした。魂が熱していくのを感じた。
 ダンスが中だるみをした頃、この間の雨で十五歳に達したラクストンの息子の一人が、成人儀式を行なった。家畜の牛を十五頭並べ、一番端の牛の上に彼はよじ登り、そのまま牛たちの背を二足歩行で横断した。端まで来ると、方向転換をし、スタート地点に戻った。彼は落下せずやり遂げた。村人は拍手喝采で彼の成人を祝った。
 十五頭のうちの一頭が連れて来られた。牛は大人しい。猫目が弓を引き、牛の首筋に筒状の矢を発射した。矢筈から血が勢い良く噴き出す。それでも牛は大人しい。その血を猫目はコップに次々と受けた。充分な量を集め終わり、矢を抜くと、出血はピタリと止まった。牛は何事もなかったかのように群れに戻る。
 まさかあれをそのまま飲むのかとマークⅠが不安がっていると、女たちがコップの中に牛乳を注いだ。血の色が勝っているものの、トマトジュースのような見た目となった。マークⅠにもコップは回ってきた。断るわけにも行かず、恐る恐る口にした。意外と普通に飲めた。トマトが嫌いなプリシラに至っては「こっちの方がイケる」と舌なめずりをしていた。
 ほとんど満月に近いまるまると太った月が、次第にくっきりと浮かび上がった。夕闇が分厚くなり、祭壇のように組まれた薪に火が着けられた。
 ダンスはますます活況を呈し、男たちは諸肌を脱いだ。女たちも衣服を脱ぎ捨て、火の周りを何百人もの裸の人間が何重もの円になって練り歩く。ダンスに参加しながらトムは想起した。太陽の周りを六人の人間が周回する洞窟の絵を。
 ドラムが原始的なリズムを叩き出す。歌声がますます大きく響き渡る。耳を聾するほどの大音量。音程がコロコロ変わるジェット機のエンジンの中に居るようだった。茶色い裸体を汗が光らせる。濡れた肌の表面に火の色が躍る。プリシラも、郷に入りては郷に従えとばかり、一糸纏わぬ姿になって髪を振り乱している。
 ロバートに先導され、男たちが四人がかりで何かを運んできた。それはあの人間かかしだった。相変わらず全く動かない。まるで関節の無いように硬直した状態で担がれている。ロバートがアブラカダブラを唱える。人々も唱和する。カルト教団のミサの如き異様な雰囲気に熱狂する。驚くことに、人間かかしは火にくべられた。歓声が上がる。彼は微動だにしない。苦しみとも無縁に自然現象として炭化していく。「人間の精巧な剥製なんじゃないか」そう思われた。そう思うことにした。肉の焼ける臭いがした。
 ロバートは続いて「ウェンディ」という名の女を連れて来て、好きにしろと言う。男たちはむさ苦しい雄叫びを上げて群がった。ウェンディは無表情だ。男たちの躍動する肉体に覆われて彼女の姿はすぐに見えなくなった。ロバートはスケベな苦笑いを浮かべ、「ベティーナも連れて来るからな」と言ってその場を立ち去った。
 悪いことは続くもの。しかし、良いことも立て続けに重なることがある。雨が降り、使いの者が到着した吉事に続いて、王妃が復活した。
 誇らしげなラクストンにエスコートされ、王妃が人前に姿を現した。王妃の復活が王の舌と唇から高らかに宣言された。死者の唐突な復活に村中がどよめいた。彼女の肌は生前と同じように赤かった。生々しい色気が失われずに漂っていた。ハリーなら「どうせ最初から死んでなかったんだよ」と皮肉ったろう。ロバートの呪術によって蘇った彼女はしかし生きていない。相変わらずの無口に加えてその眼差しは遠く故郷を望んでいるような虚ろなものだった。以前ラクストンは死者を蘇生させる問題点を二つ挙げたが、そのうちの一つめをトムは思い出した。「死者は身体だけの存在で、中身は空っぽだ。つまり、魂は抜けている。だから身体を蘇らせても意思を持たない無表情な人間となる」という難点を。砦での強制労働に就くキャンディと同じく、王妃は生ける屍に加工されていた。しかしそれでも、彼女は美しかった。拍手が巻き起こった。村全体に波及したその破裂音は夜空の底に吸い込まれていった。
 ラクストンは上機嫌だった。国民たちに大盤振る舞いをした。塩漬けの肉や缶入りの果物が大量に配られた。高級品であり、普段はシャーマンしか飲むことの出来ない酒が振る舞われた。ラクストンは偉大な首長らしく器の大きさを存分に示した。
 マークⅠもその恩恵に浴した。
 まず、恩赦によってハリーが釈放された。最悪の場合、もう二度と会えないかも知れないとまで覚悟していた兄と再会を果たし、トムは思わず涙ぐんだ。ハリーは健康そうだった。聞けば面会謝絶の軟禁状態に置かれてはいたが、何か体罰を受けるわけでもなく、普段と変わらぬ生活を保障されていたそうだ。
 それからなんと、王の独断によって、マークⅠの装備品が戻ってくることになった。ラクストンは王宮の倉庫にマークⅠを導き、見張りを追い払った。
「貴殿らは間もなくイギリスに帰る。我が国に来た初日に、所持品を提出してもらったが、あの中には絶対に手放したくない大事な品もあったと思う。お返ししよう」
 ラクストンは恥ずかしそうに鼻の脇を指でこすり、そのあと茶目っ気たっぷりにウインクをした。何が起きたのか、ちょっとわからなかった。何かの罠かとさえ思ったくらいだ。ここまでしてもらえるとは信じられなかった。
 マークⅠが警戒して何も言わないのを見て、ラクストンは「もしも貴殿らが『返して欲しくない。献上する』と言うなら、ありがたく頂戴するが……」と言って笑った。この冗談に対し、マークⅠにも少しずつ現実感が芽生えてきて、自然と笑みがこぼれた。
「貴殿らのお金は使わせてもらったが、残った分は返還しよう」
 かなりの額が残っていた。相対的に考えれば、実はほとんど使われていないと言っても良かったかも知れない。物価が低いのか、使いはそれほど買い物をしなかったのか。使われたのは車を雇った分だけでは、と思えるほど、潤沢な資金が返された。もちろん帰国するには充分だった。バスさえあれば旅を続けるのも可能だったかも知れない。
 全員がラクストンに感謝を捧げた。そしていくつかの品、たとえば生活に役立つ金属製の器などに関しては、感謝の印として返却を辞退した。ラクストンも嬉しそうに「貴殿らには色々なことを教わった。我々は友人だ。この国をまた訪ねる機会があれば最高の持てなしで歓迎しよう」と約束してくれた。
 そして。
 サベラのスケッチブックも戻ってきた。
 だが彼女は釈然としなかった。それは今ではただの白紙の束だったからだ。思い出の刻まれた記憶の保管庫ではない。
「どうせ私の過去は消去された。今さら返してもらったって……」
 何の嬉しさも感じないまま中身を改めた瞬間、慄然とした。全身の毛穴が開いてそこから寒いものが立ち昇る気がした。しかしそれは怖気ではない。予想外に襲ってきた感動だった。スケッチブックには下手な絵が所狭しと描き込まれていた。さまざまな動物の絵、五芒星、そして、マークⅠ各人の似顔絵。子どもたちが描いた、サベラの似顔絵……。
 次の瞬間にはもう彼女は涙を流していた。そして、声に出して言った。
「私の旅の思い出は、一度は全部消えた。でも、新しくここから始まる。まったく新しく……」



ここ、そこ、どこでも
 ランタンを高く掲げた男がラクストンに耳打ちをし、すぐに立ち去った。ラクストンは落ち着き払った不動の態度でしばらく祭の様子を眺めていたが、気品ある身のこなしで歩き出すと、側近に何かを指示し、会議室に向かった。王妃・スミスおばあちゃん・呪医のお馴染みのメンバーの他、第一王子が招集された。王子の肩にはオウムが留まったままだ。
 祭は夜を徹して続いた。人々の興奮はマグマのように煮えくり返り、今にも大噴火を引き起こしそうな状態でグツグツと沸騰している。人々は疲れを知らずに踊り続けた。ラグ兄弟は少しへばって休憩し、村人たちの無尽蔵の元気に呆れた。
「すげえな。こいつらのエネルギーはどこから来るんだろう」
「食事がいつもより豪勢だったからか。それとも、アルコールが血管の中を走り回っているからか」
「それにしても、この小さな身体で、普段の栄養不足を物ともせず、疲れを知らず騒ぎ回ってるのは一体どういうこった。すげえよ」
「ぶっ飛んでやがるからだろ。クスリと一緒だよ。一発キメてハイになってる状態と変わりゃしねえ」
「ビートルズ『回転式』、ピンク・フロイド『夜明けのすぐそばの笛吹き』、キンクス『特別なもの』、ローリング・ストーンズ『魔王両陛下の要求』」
「何だよ、急に」
「サイケデリック・ロックの名盤」
「今それを言う必要があったか?」
「言っておかないと後でゴチャゴチャ言うヤツもいるからな。そりゃそうと、酒だけでこんなに成れるものなのか」
「酒を飲む習慣がないから、たまに飲むとすげえ効いちゃうんだろ。それとアレだ、宗教的な興奮って言うのかな、精霊か何かが自分の魂の中に入り込んだとでも思ってるんじゃねえか?」
「なるほど一理ある。思い込みの力っつうのはすさまじいパワーを発揮するもんだな」
「どっちにしろ、朝になればどいつもこいつもヘトヘトになって燃え尽きたようになるだろうよ。それこそクスリが切れたジャンキーみたいにな」
「うん。確かにこいつら、明日のことなど全く考えていないような、今日このまま死んでしまってもいいような、決死の覚悟で臨んでいる感じがするね」
「俺たちも負けてられねえ。目指せ完全燃焼だ」
「よっしゃ。じゃ、ぼちぼち戦場に戻りますか」
 ラグ兄弟は踊りの輪に再び紛れ込んだ。焚き火の周りで人々はたっぷり汗を流しながら踊り狂っている。異様な興奮。村人たちは笑いながらラグ兄弟に握手を求めたり抱きついてきたりした。トムは得体の知れない力が身体の奥底で渦巻いているのを感じた。霊的な力かと思われた。今なら自分でもシャーマンになれるのではないかと錯覚した。同じ感触は村人たちも共有しているはずだった。この一体感。村人たちとは、言葉も文化も全く違っている。しかし、同じ太陽から産まれた同胞意識がトムには芽生えていた。俺たちは同じだ。俺たちは同じだ。
 東の空が白んでも祭の熱は冷めなかった。縦にジャンプする動きから、腰を振るダンスへ移行した。太鼓のリズムに血は沸き、沸騰した血液で皮膚が焼け焦げた。歌声はあまりに分厚くなりすぎて可視化した。祭の熱気は収まらない。焚き火の光が太陽光線に殺されるまで祭は続きそうな気配だった。終わりそうになかった。
 乏しい灯りを頼りにして、サベラがスケッチブックに祭の様子を描き取った瞬間、一発の銃声が垂直に飛び立った。その乾いた音は蚊の鳴くみたいにか細く弱々しかったが、祭の騒がしい熱狂に割り込み、巨大な音声の塊に分け入り、全ての人間の耳に届いた。だが、踊りは止まらない。
 まじないの社の窓から、オウムが飛び出して来て、低木の枝に留まった。それに気が付いたサベラは一人その場を離れてオウムの元へ近寄ってみた。オウムは逃げるように奥の方の別の木に移動した。サベラは不審がりながら、ゆっくりと鳥を追った。両者の間が一定の距離まで縮まると、オウムはまたしても遠くの木に移った。明らかに怯えているようだった。今は近付かない方がいいのか、サベラが判断に困ってその場に立ち尽くしていると、オウムが鳥の言葉で何かを叫んだ。サベラは迷ってから、やはり、近付くことにした。今度はオウムは逃げなかった。誰にも会話を聞かれない場所にサベラを誘ったのだった。
 オウムは開口一番「王が、魔法を使った。目に見えない死を手から発射する、まがい物の魔法を」と言った。おそらく拳銃のことだろう。ラクストンが、発砲した? サベラは首を傾げる。拳銃なんて、この村にあっただろうか。
 その後オウムがサベラに長々と語った所によれば、事の一部始終は以下の通りだ。
 呪殺師の唱えた呪詛は、術者本人が死んでも消えず、見えない毒であらゆる場所を汚染しながら、至る所に禍々しい災いを振りまく。ゴミを捨てた真犯人が判明するまで呪いは半永久的に継続する。そこで、ゴミを捨てたのは王妃でなくて誰なのか、スミスおばあちゃんが占筮を続けることになった。シャーマンたちは、第一王子を従えて、まじないの社に移動した。王子が中央の炉に火を熾す。ロバートが壁に掛けられた髑髏をまるで楽器を演奏するように順番に叩く。スミスおばあちゃんはパイプに火を点けて喫煙した。小屋の中に虹色の煙がたゆたう。
 例のペットボトルが布の上に置かれ、その宙を振り子が舞う。振り子が揺れる。青い石を重りにした振り子が揺れる。スミスおばあちゃんは呪文を唱える。ロバートがアブラカダブラを唱える。ラクストンと王子は何も言わずただ見守っている。デイジーは心ここにあらず。いつもは四人掛かりで呪文を唱えたが、この時は術者は二人だけだった。しかし魔法力は決して衰えはしなかった。村に満ちた、触れるほどの塊となった大音声が、その魔力を増幅した。──増幅しすぎてしまい、振り子の先の青い石はサイコメトリーどころか殺傷力まで帯びて大きく揺れる。
 スミスおばあちゃんは焦点の定まらぬ目つきとなり、小刻みに震えながら譫言(うわごと)を呟く。ゴミの来歴が時間を遡る形で語られ始める。
 アブラカダブラ。ペットボトルは今ここにある。
 アブラカダブラ。ボビーの祈祷によって呪いが掛けられた。
 アブラカダブラ。ラクストンによって拾われた。
 アブラカダブラ。強風によって王宮の前庭まで吹き流されて来た。
 アブラカダブラ。風に吹かれる前は村外れに落ちていた。ジェラルドに投げ捨てられたのだ。
 アブラカダブラ。捨てるよりも以前に、ジェラルドは同じ場所でゴミを拾っていた。
 アブラカダブラ。そのゴミを村外れに置き去りにしたのは実は王妃である。
 ──ここまでは前回と一緒だった。しかしここまで過去の追跡が進んでも、今度のデイジーは全くの無反応だった。スミスおばあちゃんから「王妃がゴミを捨てた」とはっきり断言されたのに上の空だった。何も聞こえていないし何も見えていないようだった。振り子は揺れ続ける。王妃はどこからこのゴミを手に入れたのか。
 アブラカダブラ。デイジーに「これは何でしょう」とゴミを渡したのは王妃の従者であることが判明した。王子がその女を捜しに小屋を飛び出した。ラクストンの顔が憤怒に歪む。
 振り子は揺れ続けている。スミスおばあちゃんはガタガタの歯を噛み締めてこめかみに血管を浮き上がらせる。すぐに従者の女が連れて来られた。女は何のために呼ばれたのか全く悟らず、祭の輪から引き離されたのが明らかに不満そうだった。何事か訝りながら裸のまま座った。ラクストンが問答無用に「殺せ」と命じようとした瞬間、アブラカダブラ、ゴミの前所有者は女ではなく、女の恋人である村の若者だという結果が出た。若者は恋人にゴミをプレゼントしたのだ、気に入ってもらえると信じて。
 再び王子が飛び出した。連れて来られた女はよく事情が飲み込めないまま祭に戻って行った。
 アブラカダブラ。村の若者がペットボトルを草原で拾った。
 年月がどんどん遡る。
 アブラカダブラ。ゴミは風に吹かれている。
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 アフラカタフラ。コミは虱に吸われている。
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 若者が王子に連れて来られた。恋人と同じように不服そうな表情でとりあえず座る。
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 アブラカダブラ。子どもがペットボトルを蹴っている。どこの子どもか判らない。きれいな洋服を着ているのでこの国の人間では無さそうだった。
 若者は訳も分からぬまま放免された。スミスおばあちゃんが上半身を痙攣させ、鼻血を流し始めた。
 アブラカダブラ。子どもはペットボトルを蹴り続けている。
 アブラカダブラ。男の押す台車からペットボトルが一個こぼれ落ちる。男はそれに気付いていない。
 アブラカダブラ。男は町で働く清掃員だ。つばつきの帽子をかぶっている。
 アブラカダブラ。清掃員はゴミ箱からペットボトルを回収した。
 アブラカダブラ。男の子がゴミ箱にペットボトルを捨てた。きれいな洋服を着ているが、前の子とは違う子だった。
 アブラカダブラ。男の子はペットボトルの中に入ったジュースを飲み干す。
 アブラカダブラ。男の子はペットボトルに口をつけて中身を飲み始める。
 アブラカダブラ。男の子は町の屋台でペットボトルを買う。つまり、この男の子こそが、真犯人だ。
 ここでスミスおばあちゃんが倒れ伏した。胸元は鼻血で真っ赤だ。ロバートが呪文の朗唱を中止し、慌てて彼女に駆け寄った。深刻な雰囲気だった。その場にいる誰もがスミスおばあちゃんを心配した。彼女はロバートに助け起こされた。意識が朦朧としている。が、命に別状はなさそうだった。
 ラクストンは安心した。これで、ボビーの呪詛は効力を失う、一件落着だ、と。
 スミスおばあちゃんは徐々に正常な意識を取り戻し始めた。ロバートに抱き起こされたまま、段々と瞳に光を取り戻した。そして彼女は、震える手を持ち上げた。そして、自分の息子を、指差した。「おまえだ!」



彼は言った、彼は言った
 まぶたを透過してくる光によって釣り上げられドナは眠りの底から浮かび上がったやや耐え難いほど強めの光に目をきつく閉じたテントの防水布を通して弱められた緑色の光ではなくRGB値いずれも最大級の白い光だった恐る恐る目の筋肉を弛緩させていくと視界に入ってきたのは天幕ではなく満天の青空だったつまり自分の横たわっている場所がテントの中ではなく外であることに気が付いたドナは驚いて身を起こそうとしたしかし身体は動かず首がかすかに持ち上がったばかりだった下目で身体の方を向くとビーチの砂遊びのように身体が砂ですっぽりと埋められている急に口の中がじゃりじゃりした耳の中がこそばゆい誰のいたずらだふざけやがって憤慨したドナは歯を食いしばりしかし誰の助けも呼ばず寝起きで血の巡っていない綿のような筋肉を奮い立たせたまず腕を発掘し肘を使って肩を噴出させ最後にズボンを脱ぐように腰から下を砂から這い出させた膨大なエネルギーを使った髪耳口服や靴の中に至るまで砂まみれだったそして何よりこういう下らない悪ふざけは実に不快だったドナは荒い呼吸を他者に悟られないように整えながら砂の上に坐って辺りを見回した犯人を見定めようと思った消耗した体力が回復次第平手打ちをしてやろうと思ったそれがたとえ誰の仕業であったとしても絶対に仕返ししてやる周囲を見回した一旦まぶたを閉じるもう一度見回したそしてそれからそれでも見回した辺り一面砂ばかりだった七張りあったテントは一張りも残っていなかったバスが消え失せていた夢かと思った冗談にしてはきつすぎると思ったいたずらをしたことに関しては許してやるからそっちも私を許してくれと思った戻ってきてくれと思ったドナの思考はとりあえずしばらく停止した凶暴な風が吹き荒れていたおそらく砂漠の風は早起きなのだろう風は砂を撒き散らしてと表現するよりかは巻物を畳む要領で砂漠の表面を押し出すように吹き荒む見る見る地形が変わっていくドナの体表にも再び砂が積もり始めていた辺り一面砂砂砂ドナは当然ながら絶望感に襲われた砂と青空と太陽以外に何も見えない生き物はおろか雲すらも存在しない高い場所に上って周囲を見回そうと思った蟻地獄の擂り鉢に藻掻く蟻のように砂丘を這い上がった砂が頭上から降り注ぐまるで水を浴びせるように足がのめり込む目を閉じて必死で砂を掴んだ藁にもすがる気持ちで砂の滝を遡上する耳の中に容赦なく侵入する砂と一緒に女の声が聞こえた気がした幻聴とは思いたくなかった一層手足に力を籠めて砂丘を上った今度は間違いない女たちの声が聞こえた目をきつく閉じ歯を食いしばりぶざまな犬掻きで柔らかい坂を上り続ける女たちの声はますます近くなるその音声がはっきりと言語の形を取った時ドナは顔に附着した砂をはたいて薄目を開けたいつの間にか砂丘の上に到達していた旅の同行者たちがそこには居たドナを置き去りにした連中が女たちがドナを囲んで囃し立てる一方のドナは度の過ぎた悪ふざけに憤慨していた女たちに向けて感情任せの罵詈雑言を吐き出そうとした怒りまみれの叫びが胸から迸ろうとしたその瞬間女たちが泣きそうな表情でドナを歓迎しているのに気付き滾(たぎ)る怒りは急激に冷めた思い当たった彼らもドナと全く同じ境遇なのだつまり砂漠のド真ん中で迷子になっているのだ何が起きたのその問いに対して女たちは今朝自分の身に起きた事件を我先にぎゃあぎゃあ述べ立てる親鳥が戻ってきた鳥の巣のような騒ぎになった雛鳥どもは皆すっかり興奮しているスージーなどは感極まって今にも号泣しそうだドナはすっかり気圧され各々を宥めながら訴えに耳を傾ける女たちの多少の潤色が施された体験談の数々を綜合して判断するにどうやら強風によってあっと言う間にテントが吹き飛ばされキャンプ地に怒濤の如く砂が降り積もったらしいすぐには信じ難かった昨夜は凪いでいたのにテントを連れ去るほどの暴風がたった数時間で発生するものかそれで気が付かずに眠り続けるという事が果たして有り得るだろうか疲れていたとはいえテントを剥がれても目を醒まさないのは余程のマヌケだドナは自分がそこまで鈍感だとは思わない生き埋めになる寸前まで呑気にぐうぐう寝るような無神経では断じてない女たちの証言を鵜呑みには出来ずたちの悪いドッキリだという疑いはやはり拭い切れないドナは迂闊なコメントをせず喋り続ける女たちを勝手に喋らせておいて辺りを見る男たちは静かだすでに話をさんざん聞かされたのだろう諦めにも似た冷静さで誰も女たちに取り合おうとはしないジョニーとテリーは囁き声で何かを相談しているドナと同じで現状を信じられない気持ちが先行しているのかも知れないデヴィッドは双眼鏡を顔に押し当てその視線の先端を地平線に這わせているおやとドナは勘付く女は五人全員いる男は三人しかいない二人足りないそう言えばハリーとトムは雰囲気が一変した紫色の異臭を放つ汚物をビンから取り出したような嫌なムードになった誰もが気にしていながら敢えて口には出さずに置いた話題のようだった一斉にラグ兄弟への非難が喧々囂々と巻き起こった曰わくバスが無いのはあいつらが乗って行ってしまったからだわたしたちを置き去りにしたのよまた曰わく兄弟で謀って俺たちの所持品を持ち逃げしたんだとんでもない泥棒兄弟ねそしてまた曰わく逃亡者どもは我々が砂漠で野垂れ皆が諫めるような勢いでテリーの方を向いた彼は口にしてはいけない言葉を途中で切り付け足すように未必の故意だと呟いたドナだけは何も意見を表明せずただ心の中で砂の堆積から脱出して丘を上ってくる姿を発見してもらうまでその時までは自分も犯罪者の一味に数えられていたのだなと感じていたそれは名状しがたいその場の気詰まりドナのことを疑ってばつが悪そうなためらいがちな無言の謝罪から感じ取れた確かにラグ兄弟がバスに乗って去ったという推理は正解に近そうだったあんな巨大なバスが一夜で砂に埋もれるとは考えにくかったし風で飛ばされるのはなおさら考えられないしかしドナにはラグ兄弟が裏切りを働いたとは思えなかった旅行参加者の誰も財産らしい財産を持って来ていなかったし私物を詰めたバックパックはテントの中で各自が管理していた現にデヴィッドテリージョニーの三人はバックパックを担いでいる女性陣との関係が気まずくなって逃げ出したにせよ置き去りすなわち死に直結するような砂漠で見捨てたりはするまい代わりにドナの頭に浮かんだのは私がそうなりかけていたようにバスもラグ兄弟もこの砂丘の下に埋まっているのではないかという不気味な想像だったがそれは誰にも言わず黙っていた次の瞬間にはマークⅠはよく見知った村に辿り着いたがそこで風土病の熱病に倒れたロバートという現地の肥った薬剤師に悪臭を放つ緑色をしたドロドロを飲ませられそうになったがメンバーは一様にこれを拒否した医者は喚いたが誰もそれを口にしないデヴィッドですら尻込みをし首を横に振ったリーダーのその様子を見て他の者も尚のことその粘り気のある液体を遠ざけた病は悪化の一途を辿った転がり落ちるような速度で症状が進んだ呪医を信用しなかった罪で大地に呪われたのかデヴィッドが特に急速に衰弱した発症してからたった三日目で彼はひどい譫言を呟きながら死んでしまった一人死ぬとそれに続くようにパニックで逃げ惑う人々さながら天国に昇っていった得体の知れない薬を死によって熱病の苦しさから逃れるための自殺薬として服用したドナだけが生き残ったしかしドナは処刑された邪悪な文明に毒されているとしこの村にとてつもない不幸を呼ぶ危険な客人と認定されたのだ切れ味の良い刃物が無いので重さを利用して斧で首を叩き落とした断頭台で落とされた首はしばらく意識があるとされるそれを証明するために激しく瞬きをしてみせると宣言した男が首だけになっても数回目を閉じたり開いたりした例もあるドナも同じだった首が落ちた瞬間神が嘆き給うたのか辺りに突風が巻き起こったその風が切断面を突き刺した時ドナの生首は喉笛のような音を出したその後ドナの首は意識を保ったまま野蛮な男たちからいいように扱われた醜男にキスをされた首無しの身体も陵辱された耐え難い悪夢世界が暗くなった。酔っ払ったジョニーが上に覆い被さっていた撥ね退けた奥さんのスージーに見られていないかすぐに周囲を確かめた。相変わらず常軌を逸したダンスパーティーは続いているが全体的にやや疲れが見え始めていて横になっている人もいればドナのように寝込んでいる人もいる。ドナは目覚めたナミビアで文明的な最後の晩を眠ってから起こり得た別の現実平行世界を生きたようだった。怖い夢だった夢だったのだろうか本当に首はちぎれていないか少し寒い両腕で自分の身体を抱き締める生きている頭は胴に繋がっているし自分は祝祭の中にいるさっきのは夢で今は現実だ。ドナは心の底から迫り上がる安堵感に全身を包まれた良かった朝になれば帰れる。良かった。もうすぐ本当に帰れるのだ。
 祭は終わった。もうすぐ夜が明ける。村人たちの歌声は次第に小さくなる。そしてそれは完全に消え去る。マークⅠのポニュケレ・ドレルシュカフ国滞在も、もうすぐ終わる。
 陽が昇った。村人たちはハリーの「予言」の通り老若男女ぐったりとしていた。ある者はその場に座り込み、ある者は仰向けになり、ある者はすでにいびきをかき始めていた。二つの井戸の前には行列が出来ている。ボビーが沈んでいた井戸は、病み上がりのテリーたった一人だけが独占している。
 サベラに悲劇の一部始終を語り終えたオウムは飛び去った。まじないの社の前で猫目と何かを相談している王子の肩に留まった。王宮は蜂の巣のように人の出入りが忙しくなった。
 その様子を見て、ラグ兄弟が話す。
「何かあったのかな」
「俺たちへの贈り物でも用意してるのかも」
「どうせ手作りの何かだろ? お荷物になるからいいのに」
「とにかく帰る準備をしよう」
「テリーもなんとか動けるって」
「あのおっさんすげえくせえからな。連れて行きたくね~」
「うーん……。置いてくのはまずいが、でも、一緒の車には乗りたくないな、たしかに」
「だろ。ずっと同じ狭い空間に押し込められるんだぜ」
「三台の車に十人が分乗か。三・三・四だな。テリーは奥さんと一緒にするとして、あと一人はどうする。公平にジャンケンでもするか」
「ドナでいいんじゃね? あいつは雇われてる身だし」
「そうだな。あとは男四人と女三人に別れるか」
「男四人かあ……。女っ気が無いのは少し厳しいけど、仕方ないか。スージーとサベラはどうせ旦那持ちだし、今さらプリシラとぎゃあぎゃあ騒ぐのもうんざりするわな。あの糞女」
「ジョニーは奥さんと一緒に帰りたいかも知れないから、男三人かもね。その線でデヴィッドに伝えてくるわ。デヴィッドが言えばみんなも承諾するだろ」
「責任は全てリーダーに押し付ける。旅の鉄則だ」
 陽が高くなり、村人たちの大半は自分たちの小屋へ寝に帰った。しかし王宮での騒ぎは続いていた。マークⅠはとうに荷造りを終えた。テリーも奥さんの肩を借りて数日ぶりに外に出てきた。しかし王宮はなおも騒がしい。見送りをしてくれそうにない。
 余力を残してまだ起きていた村人たちが、物欲しそうな目つきで、マークⅠの足下に置かれた十個のバックパックを虎視眈々と見つめていた。元来マークⅠの持ち物であり、ラクストンに返却を許されてはいたものの、なんだか泥棒のような気分で慌てて車に載せた。逃げるように車に乗り込んだ。
 最後にラクストンと別れのあいさつをしようと思い、車中で待機した。だが彼は一向に姿を現さない。スミスおばあちゃんも、ボビーも、そして美しい王妃デイジーも。デヴィッドが代表して王宮に赴き、彼らを呼びに行った。デヴィッドは猫目に拒まれて帰ってきた。村人たちが車の周りを遠巻きに囲い込む。ムードは芳しくない。運転手が「どうする。出していいのか」と聞く。迷っていると第一王子が走ってきた。彼はなめらかな英語で「どうかもう帰って下さい」と言った。
 村をあとにした。後部座席から振り返ると、村人たちが見送っている。そんな中、マチルダが顎を少し突き出し、両手をだらりと下げて立っていたその姿は、ドナの意識に焼き付いてしばらく脳裏を離れなかった。
 男四人が乗った車の中は、徹夜をした者が多かったせいか、極めて静かだった。ラグ兄弟は町に着くまで死んだように眠った。
 ドナは異臭の中でこんなことを考えた。今後村では色の薄い子がたくさん生まれることだろう。村人たちは娘の結婚した相手が誰なのか分からず「悪魔にいたずらされたにちげえねえだ!」くらい言うかも知れない。まあ、「悪魔にいたずらされた」で正解なんだけど。
 サベラはオウムと交わした会話の内容をスージーとプリシラに話した。プリシラは鳥と話した経験がなかったから熱心に聴かなかったが、スージーは食い入るように傾聴した。話はオウムとの出会いから始まり、心を通わせ合うようになるまでの過程、それからラクストンの秘密にまで及んだ。
 そして最後に、拳銃から弾丸が発射された経緯(いきさつ)が明かされた。ゴミを捨てた真犯人が、子ども時代のラクストンであったことも。
 車内は静かになった。
「でも」しばらくして、プリシラがふと気付いて言った。「ラクストンが子どもの頃って、ペットボトルなんかあったのかしら」

 ──さて。マークⅠは無事に文明世界へと戻ってきた。まず風呂に入って身を浄め、新しい服を買い、まともな食事をし、ふかふかのベッドでぐっすり寝た。翌日には国際空港のある都市へと移動し、ドナとはそこで別れた。彼女は帰りの交通費を与えられ、独りケープタウン行きの飛行機に乗った。それから彼女がどうなったのかは、誰も知らない。今に至るまで誰も一度も連絡を取っていない。
 他の九人はイギリスに戻り、そこでマークⅠは解散した。それぞれがそれぞれの家へと至る道を、別々に辿ることになった。多くの言葉は交わさなかった。生死を共にした仲間として堅い握手を交わし、それで充分だった。
 そして現在。皆、つつがなくやっている。顔を直接合わせることはないが、互いの消息を知らせる手紙のやり取りを結構頻繁にしている。
 デヴィッドは帰国してから半年後、懲りずにアフリカ冒険旅行に出発した。ナミブ砂漠に見捨てたバスを引き取りたいと思っている。正確な位置情報は判らず、車輛はもはや砂に埋もれてしまっているかも知れない。砂の海で小粒のダイヤモンドを探すような成功率の低い割に合わない仕事だが、ダメ元で。
 サベラは緑色のオウムを飼い始めた。そして、表紙の汚れたスケッチブックを今でも大切にしている。子どもたちの絵には魔法が宿っていて、見る度に、悪い思い出が一つずつ良い思い出に変わる。
 トムはケープタウンで撮影した集合写真を見ると、今でも、懐かしいような悲しいようなほろ苦いような、しんみりした心持ちになる。そして、玄関に飾ってある自分の顔にそっくりな木像を見る度に、「あの国は砂上の蜃気楼ではなかったのだな」としみじみ思う。禁煙に成功させてくれたあの国のことを思い出す。
 プリシラとハリーは結婚した。プリシラがハリーの子を身籠もったのだ。それが本当にハリーの子かどうかは不明。早くもハリーの浮気が発覚。それでも彼らはうまくいっている。お似合いのカップルだ。
 一方でジョニーとスージーは離婚した。スージーは今お母さんと幸せに暮らしている。ジョニーは小説を執筆しているだろうか。
 テリーたちのことはよく知らない。多分生きているだろう。旅の話を披露して、地元のパブで人気者になっていれば良いと思う。

ロンドン  二〇〇〇年七月十九日



 この小説は、英国の作家ヒース・リアHeath Lear(1967-2012)の二つの著作『回転式妖術にたかる蠅』と『ナミビアで何が起きたか』の翻訳翻案である。前者に関してはゴンパー社の初版第三刷The Fly Who Gathers around the Revolving Magic, Gomper, 2001を、後者に関してはミニットメー書房の改訂版第一刷What Happened at a Village in Namibia, revised ed., Min May Bookstore, 2004を底本にした。
 この遭難事故は実話である。マークⅠという名称の旅行団体がナミビアで遭難し、未開人に保護されたことは実際に起きた事件である。保護をしてくれた自治区で土地の有力者(※作品の便宜上ボビーと命名された)が死んだのも事実だ。作中の信じがたい出来事もほぼ全てが原作者と同行者たちの実体験に基づいている。
 アフリカ探検家が地図の空白を塗りつぶしていた時代、ヨーロッパ人は「アフリカからは常に驚異的な物がもたらされる」と、探検の成果にたびたび驚かされていた。この話も、そういった「驚異的な」土産話である。
 ただし、遭難者の名前に就いては、実在人物への配慮からか、全て偽名に変更されている。その名の引用元は英国のアーティスト、ザ・キンクスのアルバム『サムシングエルス』の登場人物たちであることが判っている。また、マチルダという名を原作者から与えられた少女に関しては、その叙述の大部分をこの小説では割愛させていただいた。
 なお、『回転式妖術にたかる蠅』の巻末において、参考文献に掲げられている書籍は以下の通り。
レーモン・ルーセル著『アフリカの印象』
レーモン・ド・ポワティエ著『ブッシュマンの風習』
レーモン・クノー著『聖グラングラン祭』
レーモン・ラディゲ著『ドルジェル伯の舞踏会』
レーモン・ダジール著『十字軍年代記』
(※たとえば、「ポニュケレ・ドレルシュカフ」という国名は『アフリカの印象』から採用されている)



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