とりぶみ
実験小説の書評&実践
【書評】ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』   (2014/06/08)
ユリシーズ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)ユリシーズ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
(2003/09)
ジェイムズ・ジョイス

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ユリシーズ〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)ユリシーズ〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
(2003/09)
ジェイムズ ジョイス

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ユリシーズ〈3〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)ユリシーズ〈3〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
(2003/12)
ジェイムズ ジョイス

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ユリシーズ〈4〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)ユリシーズ〈4〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
(2003/12)
ジェイムズ・ジョイス

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 実質的な書評第5弾はジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』です。
 第1弾から第4弾まではウリポ・ウリポ・ウリポ・ウリポの流れでした。第5弾は『文体練習』と関連した「どこからでも読める本」もしくは「多彩な文体を持つ作品」を血祭りに上げようと思いました。前者ならばジョー・ブレイナード『ぼくは覚えている』を、後者ならば『ユリシーズ』か清水義範の短編集(『国語入試問題必勝法』『ビビンパ』『主な登場人物』あたり)を批評対象にする心算でしたが、頭の中のプロデューサーが「視聴率を稼げ」とのたまうので、一番有名な作品を選びました。
 その筋の人々にとって『ユリシーズ』は大変有名な作品です。海外のアンケートでは20世紀の小説ベスト1に選出されているくらいです(2位はフィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』。3位は忘れました)。ただ、大変有名な作品ではありますが、完読の難しい本でもあります。プロの小説家でも挫折するくらいです。
 一方で『ユリシーズ』ほど研究されている小説は他に無いのではないでしょうか。隅から隅まで、一つ一つの単語に至るまで、世界中の研究家が熱心に精読を重ねています。ディープです。ディープインパクトです。私には専門家レベルの書評を成し遂げる力量はとてもございません。
 完読が難しい&研究すげぇ!これらを考慮し、今回の書評態度は「これさえ押さえておけば『あたい、それ読んだよ』と吹聴できる、『ユリシーズ』基礎講座」で行きます。なお、使用テクストは3人訳の集英社文庫版『ユリシーズ』(全4冊)です。──この集英社文庫版は訳注が異常に充実しており、たとえば第1巻は本文450ページに対して解説が80ページ、訳注が150ページもあります。

 『ユリシーズ』を把握するための重要なキーワードは6つ。
「舞台はアイルランドの首都ダブリン」
「日時は1904年6月16日の8時から27時」
「主人公は二人。レオポルド・ブルームとスティーヴン・ディーダラス」
「意識の流れ(内的独白)」
「多彩な文体」
「ゴーマン=ギルバート計画表」
 これらのキーワードさえ丸暗記しておけば、「あたい、それ読んだよ」と他人に自慢できます。以上で今回の書評は終了です。おつかれさまでした。


















 あたいにお帰りいただいたところで、各キーワードに関する突っ込んだ話を致します。

◆「舞台はアイルランドの首都ダブリン」
 ダブリンは作者ジョイスの出身地です。ジョイスが『ユリシーズ』を執筆したのは国外(主にスイスのチューリッヒやフランスのパリ)でしたが、故郷に対する彼の執着は並外れたものがあり、驚くべき詳細さでダブリンの地理を書き留めています。彼自身、「ダブリンが滅んでも『ユリシーズ』があれば再構築できる」と豪語しています。そりゃ言い過ぎなのですが、それくらい徹底しています。たとえばジョイスはダブリン在住の友人に向けてパリからこんな風な手紙を送ります。「エクルズ通り7番地の中庭の柵を乗り越えるとき、柵に一旦ぶら下がってから落下すれば、ケガをせずに着地できますか?」できるという返事をもらったジョイスは、第17挿話(第4巻135~137ページ)の言い回しを決めました。なんたるリアリズム。

◆「日時は1904年6月16日木曜日の8時から27時」
 『ユリシーズ』は大長編小説であり、何の先入観も無しに読んでいると、小説内を流れる時間は長い期間に渡っているように錯覚します。しかし、実はたった1日なのです。解説書を先に繙くかよっぽど注意深く読み込まないと気が付きませんが、第1挿話は8時頃から始まり、第2挿話は10時前後、第3挿話は11時ごろまで……ほんの少しずつしか時間は経過しません。何の変哲もない、1日。そりゃまあ葬式があったり競馬で大穴が出たり知人が出産したり泥酔して殴られたり妻が不倫をしたり少女からパンティを見せつけられてオナニーしたりはありますが、そんなもんはダブリンの日常です。小説らしい大事件は起きません(競馬で大穴が出たのは史実です。ジョイスの徹底したリアリズムが感じられます)。ではなぜ、1904年6月16日を選んだのか。それはジョイスが、後に妻となるノーラ・バーナクルと初めてデートをした日だからです。忘れがたい愛の記念日を小説に刻印したのですね。このスケベ。
 現在この6月16日は主人公ブルームの名を採って「Bloomsday(ブルームズ・デイ。ブルームの日)」と呼ばれ、ダブリンでは町を上げての盛大なお祭り騒ぎが繰り広げられます。世界中からジョイスファンが集結してギネスビールを飲みます。

◆「主人公は2人。レオポルド・ブルームとスティーヴン・ディーダラス」
 6月16日は「ブルームズ・デイ」なのですが、主人公は2人います(ブルームの妻モリーを3人目の主人公に数えるのが一般的ですが、彼女は最終第18挿話で寝言を並べるだけの存在なので除外します)。ユダヤ人広告営業のレオポルド・ブルーム(38歳)と、ジョイス自身がモデルとなっている教師崩れのスティーヴン・ディーダラス(22歳)です。後者は『ユリシーズ』の前作『若い芸術家の肖像』の主人公でもあります。第1部(第1~3挿話)はスティーヴンが主人公、第2部はほとんど(第4~8、11、13挿話)ブルームが主人公。2人は第14挿話で初めて出会い、第17挿話まで行動を共にします。(※第3部は第16~18挿話)
 これ以上、特に語ることがないのでビックリしました。いや、2人とも微に入り細を穿った人物描写がされているのですけど、いちいち紹介していたら『ユリシーズ』に匹敵する文量になってしまいそうなので詳しくは本編でお確かめ下さい。ここでは単に「ブルームはスケベ」と申し上げるに留めておきます。

◆「意識の流れ(内的独白)」
 『ユリシーズ』を語る際に最も使われる用語がこの「意識の流れ」と言われる手法です。どっかの学者か何かが「ジョイスは人の頭の中にマイクロフォンを設置した」みたいなことを言っているのですがまさしくそれ、作中人物の意識をそっくりそのまま書き取る遣り口です。具体例として第18挿話からモリーの入眠時の内的独白を一部引用しましょう。
「yes彼があんなに長いこと吸っていたせいですこし固くなったのねおかげでのどがからからになったくらいおっぱいなんてことばを彼がつかったりしてあたし笑っちゃったyesとにかくこっちのほうが乳首ってちょっとしたことで固くなる彼にはいつもああいうふうにさせてあげようそしてあたしはあわだてた卵をマルサーラに入れて飲んで大きくしましょう彼のためにああいう静脈や何かはなんのためにあるのかしらおんなしのが2つあるなんておもしろいわふた子でもいいようにあんなふうに2つもり上っていて美のシンボルだと思われていて美じゅつ館にある彫こくのように中にはかた手であそこをかくすようにしているのもあってそんなにきれいかしらでももちろん男の彫こくにくらべればきれい大きなふくろが2コあってそれからべつのものがぶら下るかそうでなければ帽しかけみたいにつったっていてあれじゃあとてもキャベツの葉っぱでかくさなくちゃあのうんざりするスコットランド高ち連たいの兵たい肉いち場のうしろでそれからほかの赤毛のいやらしいやつは魚の彫こくがおいてあった木かげであたしが通りかかるとおしっこをしてるようなふりをして見せようとした赤んぼの服を横によせてあれで」
 わざと品の無い箇所を書き写しましたが『ユリシーズ』は全体的に下世話です。排便・放屁の実況中継もあります。あと、どの挿話か失念しましたが私の思い出に残る一文として「If you see Kay, see you in tea(ケイに会うなら、お茶で会おう)」があります。これ、「F-U-C-K,C-U-N-T」のイポグラフィックです。
 話を元に戻します。世間一般で「意識の流れ」と言えば「=ジョイス」なのですが、この手法は別に彼の専売特許ではなく、起源は小説黎明期の18世紀、ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』にまで遡ることができます(あちゃー。『トリストラム・シャンディ』の名前出しちゃった。しょうがあるめえ、次回の書評対象、決・定、と。先にプルーストやウルフの名前を出さなかっただけ良しとしよう……)。ジョイスと同時代の作家、ヴァージニア・ウルフの諸作にも「意識の流れ」は使われています。

◆「多彩な文体」
 モリーの内的独白を読んでみて、その凄まじさに怖気を振るった方もいらっしゃるかも知れませんね。ご安心下さい、全編この調子ではございません。全18挿話、18種類の文体で書かれています──まあ、前半はちょっと読みづらい普通の小説といった感じですが。
 第7挿話は場面が新聞社であるためか、新聞記事のような見出し付。
 第10挿話「さまよう岩々」は人から人へと連鎖するように、語りの焦点が次々に移っていきます──と思ってたけど、解説を読む限り、人から人へではなく、空間的には断絶してるみたいですね。テキトー言ってすみません。
 第11挿話「セイレーン」はカノン形式によるフーガ、韻や擬音が多用され歌心たっぷり。
 第12挿話は下品な語り口、『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳者・柳瀬尚紀氏はこの挿話の語り手を「犬」であると論じています。
 第13挿話「ナウシカア」は少女小説っぽい文体。蛇足ですがこの「ナウシカア」はギリシャ神話の登場人物で、『風の谷のナウシカ』の由来です。
 第14挿話はユリシーズ極めつけの章であり、古代から現代に至る作家30名以上の文体が次から次へと模倣されます。この挿話の翻訳は共訳者のうちの一人・丸谷才一氏が担当していますが、彼は本章についてこう説明しています。「古代英語からマロリー『アーサー王の死』、デフォー、マコーリー、ペイターなどを経て現代の話し言葉に至る英語散文文体史のパロディ(そしてパスティーシュ)で書かれている。翻訳では日本語文体史のパロディおよびパスティーシュという形にする。古代英語は祝詞および『古事記』、マロリーは『源氏』ほかの王朝物語、エリザベス朝散文は『平家物語』、デフォーは井原西鶴、マコーリーは夏目漱石、ディケンズは菊池寛、ペイターは谷崎潤一郎で。」日英両言語に造詣の深い丸谷氏にしか成し得なかった訳業と言えます。
 第15挿話はサイケデリックな戯曲。そこにいないはずの人物や、煙の渦や石鹸などの無生物までもが台詞を吐きます。
 第16挿話は老人の語り口。
 第17挿話は公教要理の問答体。短い問いと、問いに対する答えが列挙される他、楽譜や収支報告書が挿入されます。
 第18挿話は句読点無しで途切れ目無く続く女性の告白。『ユリシーズ』の文体で最も有名な、そして悪名高い文体。

◆「ゴーマン=ギルバート計画表」
 18挿話に18種類の文体(技術)を当てはめたように、各挿話には要素「場面」「時刻」「器官」「学芸」「色彩」「象徴」「神話的対応」が設定されています。たとえば第11挿話「セイレン」は、「場面、演奏室」「時刻、午後4時」「器官、耳」「学芸、音楽」「(色彩は指定無し)」「象徴、バーの女給」「技術、カノン形式によるフーガ」「神話的対応、セイレン=女給。島=酒場」と指定されています。これら裏設定の存在は「ゴーマン=ギルバート計画表」によって明らかになりました。「ゴーマン=ギルバート」というのは多分学者の名前でしょう、よく知りません。
 神話的対応については少し説明が必要です。『ユリシーズ』はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を下敷きにしています(そもそも「ユリシーズ」とはギリシャ語「オデュッセウス(『オデュッセイア』の主人公)」の英語読みです)。下敷きと言っても翻案や剽窃というわけではなく、創作のための準拠枠として機能しています。たとえば第1挿話「テレマコス」ではスティーヴンが同居人への不満から転居を考えますが、これは『オデュッセイア』において家から追放されるテレマコス(オデュッセウスの息子)に対応しています。第11挿話の「セイレン」は女の顔をした怪鳥で、航海中のオデュッセウス一行を美しい歌声で誘惑します。
 この創作技術は後世の作家に多大な刺激を加えたと思われます。ウリポの面々も当然感化されているでしょう。ジョルジュ・ペレックが『人生 使用法』に用いた例のラテン方陣なんてモロです。
 斯くなる「縛り」を自ら課すことにどんなメリットがあるのでしょう。それは、小説という自由すぎる形式を秩序ある構造へと締め付ける作用があります。肥大化した自由は束縛されることで丁度良い案配となり、逆に筆が捗ったりするものです。あるいは辻褄を合わせようとすることで、思いも及ばなかった想像力の飛躍を産み出したりもします。
 あらかじめ定められた枠組みを設ける創作方法は、韻文ならダンテの『神曲』やそれ以前にもルーツを辿れそうですが、散文ではラブレーの『第三の書』が嚆矢でしょうか。近年の研究で明らかになったそうですが、第25章を中心として前半と後半がシンメトリー構造になっているのです。ああ、78という数字へのこだわりといい、金玉列挙といい、やっぱりラブレーはステキな変態だ。だけどまあ、『第三の書』はガルガンチュアとパンタグリュエルシリーズで最も詰まらない1冊ですけどね。物語よりも形式の組み立てを優先してしまったからでしょうか。
 「小説は死んだ」という刺激的なフレーズは、よく目にし耳にしします。ツァラトゥストラの「神は死んだ」と同様、本当にお亡くなりあそばしたのか疑問ですが、もし死んでいるとすれば『ユリシーズ』がとどめを刺したように思えます。
 絵画におけるセザンヌ、物理学におけるアインシュタイン、アニメにおけるディズニー、ポップミュージックにおけるSgt.ペッパー、コメディーにおけるモンティ・パイソン、モバイルにおけるiPhoneと同様、『ユリシーズ』は文学における一種の境界線となりました。その残響は時空間を長く遠くへ拡散し、キリストの登場が紀元前紀元後を分けるごとく、同業者に多大な影響を与えました──もしかしたら、歓迎すべき革新の光などではなく、巨塔の投げ掛ける暗い影だったかも知れませんが。
 ジョイスとプルーストの作品をモダニズム文学と呼び、ジョイス以後の実験的な小説をポストモダニズム文学と称します。ジョイスの影響下にあるポストモダニズム勢は“心”ではなく“頭”で小説を書くようになったと私には思えます。ゲーテが『ファウスト』の中で「心から出た物でなければ、人の心を決して動かせない」と述べているように、一般読者の心を引き寄せられなくなったのはひとえに理詰めで作品を拵えるようになったからではないでしょうか。憂えるべき事態です。
 そんなポストモダニズム文学が私は大好きです。ごきげんよう。



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