とりぶみ
実験小説の書評&実践
恋の相対性理論   (2008/04/05)
『資本論』の授業を履修したボクであったが、しかし担当教授の口から思いも寄らぬ言葉が…!
「資本論なんかメンドクセーから、アインシュタインの相対性理論やろうゼ!!」
  こうしてボクは相対性理論の講義を受けるハメに…。そしてそこで、カワイイさやかちゃんと出会う。一体どうなる?

 恋愛小説と講義のドッキング。相対性理論の基礎をざっと理解するには打ってつけです。原稿用紙223枚。



1. 導入
2. アインシュタイン
3. ニュートン
4. アインシュタインの生涯
5. 相対性って何?
母への手紙
6. 神は老獪だが、悪意はない
7. 「絶対空間」って×(チョメ!)
8. 特殊相対論と一般相対論
恋愛は相互理解だ
(9~11. 量子論)
12. 光の速度
13 見える電磁波
14 光量子仮説
15 光電効果
夏休み
16. 光速度不変
恋は美にとっての最上の栄養である
17. 高速だと時間がのろくなる
18. 浦島太郎
19. タイムマシン
20. 四次元
21. E=MC2
(22. 休講)
23. 等価原理①
24. 等価原理②
25. 重力で空間がゆがむ
26. アインシュタイン方程式
(27. 休講)
28. ブラックホール
29. ビッグバン






 ボクは某大学の経済学部に在籍しています。大学名なんてどうでもいい。大事なのは経済学部に在籍しているという事。経済学部です。物理学部じゃありません。
 今年度は木曜三時限目に坂本教授による「資本論」の授業を取ったんだけど、これがもう、サイアク。「資本論」と言えばマルクスじゃないですか。難しそうじゃないですか。経済学と無縁の人たちなんて、名前を聴いただけで目を丸くするじゃないですか。教科書だってアノ『資本論』を全巻セットで買わされたわけでして…。購入代金は高くつくし、そんな文量、このボクに読めるはずがない。資本論なんて、好き好んで学びたくないっ。
 でも、必修科目だし、立派な実業家になって大儲けするためには一応習っておく必要がある。勝ち組街道を突き進むためには最低限必要な予備知識。それゆえに、気が進まないながらも必要に駆られて履修した。言ってみりゃこれは将来に向けての自己投資。資本家になって労働者階級を支配してやるのが夢です。目指せ起業、エクジットストラテジー!
 ここまでは良かった。苦手事から逃避せずよく頑張った。問題はここから。ボクは「資本論」を学ぶためにこの授業を選択したのに、高額の教科書まで買いそろえたのに──授業一発目のオリエンテーションにて、教授のバカがこう抜かしやがったのです。
「資本論なんかメンドクセーから、アインシュタインの相対性理論やろうゼ!」
 「やろうゼ」じゃないだろ、「やろうゼ」じゃ。おまえはどこのヤングかと。しかも、冗談かと思ったら本気でのたまってらっしゃるご様子。教授のビックリ発言に対して初めのうちは苦笑いを浮かべていた学生たちも、教授があまりにもしつこく相対性理論相対性理論と繰り返すので次第に硬直し、一年間の授業日程について「前期は基礎知識──アインシュタインの生涯や相対性の意義に関してだ。そして後期からは特殊相対論と一般相対論を本格的に学習する」と大まじめに話し始めた頃には戦慄を覚え、「以上だ」と言うなり教室を出て行ってしまった段階に至ってようやくヤツが本気だという事を確信したのであった。そりゃもうボクはもちろん、学生全員がのたうち回った。
 この、木曜三時限・於三〇八教室・坂本教授による「資本論」の授業は、カール・マルクス著『資本論』をひらくことなく、本当に相対性理論だけを講義するようだ。物理学部でもないのに、たっぷり九十分間×三十回。ムダだ。あまりにもムダだ。ザ・グレート・ムダ!
 教授が去ると学生たちの間からは怒号と嘆声が巻き起こった。「詐欺だ」「やってらんねぇよな!」「冗談じゃないわ」「証取法違反」「履修しません」「人の心はお金で買える」「今日の夕飯何にする?」「買えない物はマスターカードで」「需要曲線と供給曲線」「帰りにゲーセン寄ってこうぜ」「レバニラ炒め! チャーハンも追加!」「アインシュタインと一発ヤリたい」など、おもに非難の言葉が多かった。
 絶望の表情をぶら下げたままボクも教室を出ようとした。とそこへ、顔見知りの森永が話しかけてきた。
「おいタトシ。タトシこと立石さとし」
「なんだいフルネームで呼ぶなんて照れるじゃないか。ボクときみの仲じゃないか。よそよそしいあいさつ、そんなのよそうぜ」
「なあタトシこと立石さとし、おまえこの授業どうするの?」
「どうするって…。資本論を講義しないなら出席しても意味が無いじゃないか。履修を取り消すよ」
「そっか。俺は受けようと思うぜ。経済学部に居ると自然科学なんて滅多に勉強できないじゃないか。見識を広げるいいチャンスだと思うぞ。タトシこと立石さとしも一緒に受けようよ」
「うーん。とは言ってもなぁ。相対性理論が将来の役に立つとは思えないし…」
「どうせ今から他の授業に鞍替え出来ねぇし、三限空くとヒマになっちゃうんだろ? タトシこと立石さとし」
「あのさ、その前にさ。だからさ、ね、ボクときみの仲じゃないか。フルネームで呼ぶなんてやめてよ。いちいち時間が掛かって効率的じゃないし」
「来週も来いよ。一緒に勉強しようぜタトシこと立石さとし」
「誰が来るかっ!」
 それから一週間後の午後一時。ボクは結局、同じ三〇八教室に来ていた。二限の法人税入門と四限の健康スポーツ④テコンドーに挟まれた時間帯であるため途中で下校したりするわけにもいかず、かと言ってサボるにしてもどこのサークルにも所属していないボクは学内に居場所が無く、仕方なくのこのこ顔を出してしまった。
「あ、来た来た。おーい! タトシこと立石さとしぃ!」
 森永だ。うざい。
「おーい! おーいってばぁ。聞こえてるんだろー。そこの、おい」
 とてもうるさい。生徒の何人かがボクの事をチラチラ見る。
「おーい。おまえー、おまえだよ、そこの、なんだ、ナマズに似てるやつ」
 生徒の何人かが噴き出す。笑いをこらえるのに必死なようで、肩が小刻みに揺れている。だ、断じて似てはおらん!
 森永は一番前の席に陣取っていたが、ボクは教室の最後尾に着席した。他人のフリを貫く。早く授業始まれ…!
 目を閉じ、祈るような気持ちで始業開始を待った。ようやくのことチャイムが鳴ると時を置かずに教授が入室してきた。



【講義第二回・アインシュタイン】
 相対性理論! なんて甘美な響きなんだろうな? ソウタイセイリロンって言うだけで、なんだか自分が賢くなった気がしてくるね。うふふ。
 しかしよ、この教室の中の何人が相対性理論を理解してるっていうんだいベイベー? あなた説明できますか。あなたは。ん。できないでしょ。相対性理論のソの字もわかっちゃいないでしょ。だからこそ、この授業を取った。そうだろ。(そうじゃない)
 まず、本題に入る前に、相対性理論を唱えたおじちゃんについて勉強しておこうか。はい誰。はい。はいそう。アインシュタインだね。アルバート・アインシュタイン。これくらいは一般常識だな。
 このアインシュタイン、ドイツの人ですが、いつごろの人だと思う? はいきみ。はいいつ。はい。はい違ーう。一八七九年うまれでーす。このとき日本は明治時代。徳川幕府が瓦解して十年しか経っていませーん。
 さて、後年「天才」の名を欲しいままにしたアインシュタインですが、幼少時代はあんまり頭良くありませんでした。むしろ悪かった。学校の成績も良くなかったみたい。これはエジソンと同じパターンだね。エジソンも小学校をドロップアウトしております。
 彼の天才が爆発したのは一九〇五年。彼が二十六歳の時でありました。「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」と、現代物理学を語る上で外せない超重要理論を立て続けに発表したのであります。
 「特殊相対性理論」は今後の授業で講義していくので今は解説しません。「光量子仮説」は…えーと、これは相対性理論ではなく量子論なので…まあ、のちのち光速度とかに絡めて触れるかも知れませんから今は捨て置こう。「ブラウン運動の理論」ね、これは今チャチャッと概略を話しておこう。今後は全く取り扱わないから。
 他の二つに比べてあんまり知名度の高くない,無視されがちな「ブラウン運動の理論」ですが、これはどういう物かと申しますと、ブラウンって人が発見した不可解な現象の謎をですね、アインシュタインが解いたと。そういうわけです。
 肝心のその現象がどういう物なのかについてですが、これですね、花粉を液体にひたすとですね、なんか中から細かいツブが出てくると。もちろん肉眼では確認できないほどの超小さなツブですよー。その微粒子がね、なんか水中で不規則な動きをすると。こういうわけです。
 どうしてこんな動きをするのか長らく不明だったんですが、これを二十六歳のアインシュタインが解き明かしてしまうんですね。気持ち悪い。彼の理論によりますと、微粒子そのものが自由に動き回ってるんじゃなく、水がね、水の分子がね、水の分子同士がね、衝突する、と。それで微粒子が揺すられると。
 アインシュタインって目がいいんだなぁ。そう思った人、おりますか。バーカ。実際に水の分子がゴッチンコする瞬間を目視したわけじゃないですよ。理論ですよ理論。アボガドロ定数っていう数式を用いて証明できるのです。が、これは私もよく知りません。なぜなら私は経済学部の教授だからです。専門外です、ってなわけで逃げを打っとくぞ。ごめんあそばせ。
 はい、アインシュタインに関する入門書でも兎角無視されがちな「ブラウン運動の理論」、今お話しした通りです。何か質問ありますか。ない。ある。ない。ないね。お、あるの?何。いや、そういう事は自分で調べて。相対性理論の授業なんだからさ。(※ 資本論の授業)
 ちなみにこの年・一九〇五年は、科学史における「奇跡の年」と呼ばれております。ここはテストに出しますので覚えて置いて下さいね。メモメモ。一九〇五年、アインシュタイン「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」発表、奇跡の年、ってね。書けたかなー。次行くぞー。
 えーとね、この「奇跡の年」ですが、実はこれ二度目。一度目は一六六六年です。このゴロの良い年に科学界で何が起きたか解る人いますかー。アインシュタインの時と同様、一人の若者が超重要理論を立て続けに三本発表したんだ。わかるかなー。ヒントはリンゴ!わかっちゃったねイェイ!
 そうです。ニュートンです。二十三歳のニュートンでーす。三つの超重要理論とは、ひとつは「万有引力の法則」、これは超有名だよね。もうふたつは、「流率法」と「光と色に関する理論」。流率法って何って感じだろうけど、これはいわゆる微分積分です。聴いただけで背筋が凍るだろ、へへっ。光と色に関する理論っていうのは、分光器、いわゆるプリズムを使った実験から「色彩粒子説」を提唱したモンだね。──この授業は相対性理論の授業なんだから(※ 念のためもう一度。ちがう)、ここでは詳しく解説しません。はい。
 な。ば、バカ。わかってるよ。わかってるけどやらないの。
 寝てる人ー。起きなさーい。何が不満だ。え? 相対性理論を学びたいと言って、学び舎の門を叩いて来たのはおまえの方だろうが。もう頭来た。ニュートンの事はわからないんでしょなんて抜かす輩もおるし、どうなってるんだ全く一体! 今日の授業はもうおしまいだよ。バカッ! 出席カードを提出してとっとと退室しなさい! し な さ い!
[坂本教授は身勝手で怒りっぽい人のようだ。この日の授業はここで終わった。元友人が話しかけて来ようとしたが、ボクは気づかないふりを決め込んで逃げるように教室を飛び出した]



【講義第三回・ニュートン】
 えー、先週は突然帰ってしまい、すまんかった。おとなげなかった。誰だか知らないけど教学課に報告してくれたみたいだね。どうもありがとう。チクリを入れてくれた人、差し支えなければ授業のあとに名乗り出て下さい。たっぷりお礼をさせていただきます。
 そんなわけで、さっそく授業に取り掛かる。先週の続きから。先週は「奇跡の年」について説明し、一九〇五年がアインシュタイン、一六六六年がニュートンだよーってところまで話したと思います。ニュートンね。すごいよね。みんなも中学校で学んだと思いますけど、万有引力の法則ね。リンゴがどうたらってね。
 この授業では専門的に扱わないけど、どういう法則か知らない人のために資料を持ってきたので今から配ります。
 読みます。
 一六六六年。二十三歳のアイザック・ニュートンは、ペストの猛威を避けるため、故郷のウールスソープで休暇を取っていた。
 おだやかな午後である。ニュートンは自室で『新約聖書』やケプラー著『世界の調和』などを読んでいたが、やがて目が疲れてきたので、ティータイムのあとは庭に出て、リンゴの木の下で黙想に耽っていた。
 静かだ。空は晴れ晴れとした露草色.秋風が心地良い。夕暮れ時にはまだ早いというのに、空には白く円く小さな月が、その涼しい顔をほの薄く覗かせている。
 とても静かだ。この静けさは、繁雑とした人生の塵労を忘れさせてくれる。ケンブリッジ大学での忙しい日々を忘れさせてくれる。免費生として、学問だけではなく雑務にも従事せねばならない、気に食わぬ生活を忘れさせてくれる…。
 今この瞬間.ニュートンの世界に存在しているのは、彼自身と,木と,風と,そして月だけになった。彼の意識は不純物を取り除かれて透き通るように浄化され、脳内の視界がパァッとひらけていった。
 ニュートンの世界は幸せな光に満ち、空には神からの祝福・虹が架かるような錯覚すら覚える。虹。七色の半円形アーチ…。
 七色の光──三角プリズムの分光を観察し、色によって屈折率が異なる事を発見した実験が思い出される。この実験によって思いがけず得られた「光と色に関する理論」色彩粒子説は、ギリシャ時代から信じられてきた色彩変容説を革命的に覆した。(のちにニュートンはこの理論を応用し、反射式望遠鏡を発明する事となる)
 半円形──曲線を運動する点として捉え、変数や関数を試算した経験が思い出される。これは微積分学の祖として後世に知られる事となる「流率法」で、ライプニッツの微積分法よりも十年ほど早い発見である。
 そんな「虹」を感じながら、ニュートンはただ漫然と木の下に座っていた。
 この年は「驚異の年」と呼ばれる。当時の彼自身は気付いていなかっただろうが、近代科学に残る巨大な足跡を、この一年間で三つも着想したのだった。
 そして今まさに、三つめの足跡・しかも最大級の一歩を、ニュートンは踏み出そうとしていた。神からのギフトがニュートンの目の前に投下されようとしている。
 リンゴが落ちた。
 それは単なるリンゴの落下だった。取るに足らない現象だった。
 ニュートンはその様子をキョトンと見ていたが、やがて彼らしい好奇心に駆られ始めた。なぜ、リンゴは落ちたのだろう。そんな疑問がうっすらと、彼の心をモヤのように曇らせ始めた。
 風が吹いている。やわらかな風だ。リンゴを打ち落とすほどの暴風ではない。では、なぜリンゴは落ちた? ニュートンは赤い実を手に取ってみた。すると彼の頭は電気が走ったように閃いた。ニュートンの世界はさらに抽象化され、木と,リンゴと,そして地球だけになった。リンゴの落下運動は神の啓示としてニュートンの心に響いたのである。
「物体は地面に向かって真っ直ぐに落ちてくる…」
 ニュートンは右手でリンゴをもてあそびながら、怪訝そうな顔で木を見上げた。
「垂直に。地球の中心めがけて、逸れる事なく…」
 リンゴを一囓り。歯グキから血が出ませんか?
「地球の重力がリンゴを引っ張ったから、だからリンゴは落ちたのだ」
 独り言をつぶやく彼の口から白い歯が見える。幸い、歯グキから血は出ていなかった。
「では、月はどうだ?」
 ニュートンの世界は、いよいよ地球と月だけになる。
「月もリンゴと同じように落ちて来ないのはなぜだ?」
 再びリンゴを噛む。今度も血は出ない。さらに噛む。大丈夫。なかなか健康な歯グキをしてらっしゃる。ニュートンは白い月を凝視したままリンゴを囓り続ける。囓り続ける。それでも答えは出ない。しまいには、少し興奮しながらリンゴの芯を遠くへ投げ捨てた。
 その咄嗟の瞬間、答えは出た。
「リンゴは飛んで行っているのだ!」
 芯の飛んで行くイメージが思索を助けた。そう、月は遠くへ飛んで行っている。そのまま宇宙のかなたへ飛んで行ってしまわないのは、地球に引っ張られているからだ。月にも地球の重力は及んでいるのだ。月は飛びながら落ちている。落ちながら飛んでいる。そうして地球の周りをグルグル回っている…。
 デカルトの唱えた惑星運動論は間違いだったのだ。微細物質が渦動して星は動くのではない。石をくくりつけた紐を振り回すように、飛んで行こうとする力と引く力との相剋だったのである。
 そのままニュートンの精神は宇宙に飛翔し、太陽系を俯瞰した。そこで彼の目は、太陽を中心にしてグルグル回転する惑星を見た。水星・金星・地球・火星・木星・土星…。目に見えない糸が、引力が、彼の双眸に映じた。
「このバランス感覚…。これこそが、神の成せる御業だ」
 月は次第に明るくなって来ている。空はほのかに暗くなり始めた。リンゴの木の下に腰を下ろしていたニュートンは、秋らしい夕暮れに冷たさを感じたせいもあり、部屋に戻って今日の印象をまとめる事にした。
「この宇宙を統べる統一的法則。その謎を解明する事こそ、神に近付く唯一の方法…」
 ニュートンは万有引力の発見に心を踊らせた。英国国教会の教義とは相容れぬ、異端的信仰を薄々自覚しながら…。 ──赤井茂著『ニュートン一六六六』掘文社刊
 はい、今まで「リンゴが落ちたから引力があるだなんてアホくさ。そんくらい俺にも証明できるぜ」って思ってた人、ご理解いただけましたでしょうか。以上のような経緯でもって万有引力の法則は発見されました。
 この万有引力の法則、みなさんの誰も異論を唱えないと思います。理にかなってるもんね。地球が太陽の周りを廻るのも、月が地球の周りを巡るのも、確かにこの論理で説明できます。常識ですよね、常識。アー万有引力があるから俺たちは空を飛べないんだーとか、イヤンあたしの体重が重いのは地球が引っ張るからなのよーとか、身近に感じられますよね、引力。正しい法則だと、感覚的に理解できる。
 でもね…。
 これ、忘れて下さい。常識中の常識・当たり前すぎる法則に思うでしょうけど、これね、驚かずに聴いて下さいね、正確じゃないんですよ…。
 ンなアホな! って思うでしょ。誰もがそう思うよ、普通。しかし悲しいかなニュートンの唱えた万有引力の法則は間違ってるのです。いや、間違ってるは言いすぎだけどさ、真実じゃないんです。マジで。
 昔の人はキリスト教の影響で「天動説」っていうのを信じてました。有名だよな。宇宙の中心は地球だ、太陽が地球の周りを廻ってるんだ、ってやつ。現代からするとバッカじゃねーのって感じだけどさ、コペルニクスが「地動説」を提唱して、ガリレオ・ガリレイが頑固に主張するまでは、それが一般常識だったの。
 昔の人とおんなじくらいのショックを感じるが良い。ニュートン力学は正確ではない。限りなく正解に近いんだけど、実は違う。アインシュタインの一般相対論こそが、より正しいのであります。
 一般相対論がどういう物なのか、詳しくは追い追い話していくけどさ、これがもう、ファンタジーの世界だよ。「アインシュタインって、妄想好きのおバカさん?」って思っちゃうかもよ。絶対ね、ニュートン力学の方が納得が行くんです。アインシュタインの一般相対論はSF好きの根暗が今朝見た夢、そんな感じ。かなり突拍子もない。非常識。
 一般相対論の世界はとても奇妙です。とっても。そういう奇妙な世界をね、幻覚の中でエヘエヘ空想するだけならただのアブナイ人ですが、アインシュタインのすごい所はここから。そんな異常な世界観それこそが実は正しいのだと証明してしまったのです。これが天才と呼ばれる由縁ですね。
 宇宙広しといえど、宇宙の正しい姿を精確に描写してみせたのはこの地球人・アインシュタインただ一人だったのではないでしょうか。そのくらい、途方もない、壮大な理論なのです。ちっぽけな一人の人間がですよ、神の繰り出した手品のタネをね、解き明かしちゃったって感じ。おそろしい事ですよ。
 異常な思考・非常識もイイトコな空想。一般人から見れば、ちょっと頭のおかしなドイツ野郎。しかしそれが単なる空想じゃなかった。厳しい現実だった。証明しちゃった。それがアインシュタインです。
 天才と呼ばれる人は多いですけど、その多くは常識的な発想をします。ニュートンしかり。でもアインシュタインは違った。常識的じゃないんだ。そこが、「天才」と「天才中の天才」の違いでしょうかね。
 本日の授業はこれまで。まとめると、アインシュタインの主張は「変」で、でも「真実」だった、そう覚えておいて下さい。私たちは、私たちが考えているよりももっとずっと変な世界に住んでいるのです。



 第四回の講義ではアインシュタインの生涯についてもっと詳しく習った。しかしボクは寝てた。そりゃさ、生い立ちを聴くことで博士に対して人間的な魅力を感じたけどさ、別にそれを暗記した所でさ、「チョンガーチョンガー」(←ノートに書き殴ってあった落書き。意味は不明です。)今後もこの調子で授業が続いて行くのだろうか。いい加減食傷気味だ。
 第五回の講義、ボクは授業開始ギリギリで校舎三階に上がった。早めに来ると例のバカに声を掛けられるからである。ボクは森永を避けつつ、チャイムが鳴り響くのと同時に後ろのドアから入室する。いつもの通り一番うしろの席に腰を下ろした。時を経ず教授も来る。さっそく授業が始まる。
 見回すと、百名ほど入るはずの教室は三分の一ほどしか埋まっていない。当たり前だ。だって学生の要求と違う授業やってるんだもの。その上、出欠を取らない事も判明した。三分の一入ってること自体奇跡だ。
 講義をまともに聴いている学生はさらに絞られる。教授の話に熱心に耳を傾けているのは最前列付近の十名ほどだろうか。教室は騒がしく、寝ている学生や内職にいそしむ学生も多い。
 ボクは遠慮なくアクビをしながら、涙目で黒板を見つめた。大きく「相対性理論」と書かれている。今日は「相対性とは如何なるものか」について話すみたい。何もする事は無いし、聴いてやるか。
 と、ボクの右側の戸が少しずつ少しずつ音を立てないようにひらき、ひとりの女子学生が前傾姿勢で潜入してきた。なんだこいつ。遅刻か。
「ここ、あいてますかぁ?」
 彼女はヒソヒソ声でボクに話しかけてきた。ボクは黙ったままでうなずいた。
「ありがとーございますっ」
 ニコッと笑い、ピョコンと座る。ボクは横目で彼女をチラリと一瞥した。ケバいねーちゃんだ。いかにもギャルと言った感じで、見るからにバカそうである。
 ボクは視線をノートに戻し、けだるく筆記を始めた(その時に書かれた言葉は、「オッペケペー」)。ギャルも何やら真剣な表情で坂本教授を見つめている。
「し…ほ…」
 何ごとかつぶやいている。不審に思って見てみると、どうやら彼女は黒板に書かれた文字を音読しているらしい。
「…ん…ろん? しほんろん?」
 相対性理論である。黒板に書かれている文字は「相対性理論」である。
 やっぱり、バカだ。どう間違ったら「相対性理」を「しほん」と読めるのだろう。
 気持ち悪いなと思って聞こえぬふりをしていると、彼女の方が小声で話しかけてきた。
「わたし、この授業出るの今日が初めてなんですヨ。これ、資本論の授業ですよね? あの人坂本ですよね?」
「そうですよ」ボクは淡々と答えた。「坂本教授の『資本論』の授業です。教科書はコレ、マルクスの『資本論』。でも、俺にもよくわからないんだけど、アインシュタインの『相対性理論』をやってます」
 彼女は「そうですか」と答えたきり、何も疑問に思わなかったのか、それっきり黙ってしまった。彼女に気を取られたおかげで授業冒頭は聴き逃した。



【講義第五回・相対性って何?】
 ──ではこの「相対性」、どんなものか、わかる人いますか。わっかるっかな~、わっかんねーだろ~な~。聴いた事はあっても、明確に説明は出来ないでしょ。ん、できる?じゃあ、説明して見ろよ。なぁ、説明してみろっつってんだよ!
(いかにもガリ勉してそうな女子学生、おびえながら起立)
 ん、ふむ…そう、それで合ってます…。はい。よく出来ました。アインシュタイン自身はこんな風に説明しています。(教授は黒板に文章を書き始めた)
「熟いストーブに手を乗せると一分がまるで一時間ぐらいに感じられる。しかし、好きな女の子と一緒に居ると一時間が一分ぐらいに感じられる。それが『相対性』です」
 これ、わかりやすいですよね。君の説明よりもね。けだし名言。この他にもアインシュタインはたくさんの名言を遺しています。手紙を書くのも好きだったようで生涯に一万五千通近い手紙を書いています。と言うと全知全能みたいですが、それはそれ、根っからの理数系ですので文章を書くのはそれほど得意ではありませんでした。板書の書き間違いも多くて学生から指摘される事もしょっちゅうだったそうです。天才も万能ではないという事。なんだかほほえましいですよね。
(ここでさきほどの女子学生から「熱いの字が間違っています」と指摘が)
(むっつり黙ったまま、「熟」の字を「暑」に書き直す坂本教授)
(女子学生再び何か言いかけるが、坂本教授が睨み付けるので沈黙)
 アインシュタインが相対性理論を講義するため来日した時の事。日本人のほとんどは彼の熱弁を理解できませんでした。あまりにも奇抜な論理だから、難しすぎたんだよね。まあ、今だって充分難しく感じるもんね。
 新聞記者は、博士の講義をどういう風に紹介したらいいもんだか解らなくてさ、上の例を引用してウヤムヤに紹介しました。詳しくは忘れたけど、「アヰンスタイン博士の相對論、戀しき人と過ごす時間嬉しや短し」みたいな感じでね。
 苦しい時間は長く感じますよね。それに引き替え、楽しい時間はあっという間。おんなじ一分でも、時間の感じ方は人それぞれ、その場その場、状況に応じて違うという事です。アインシュタインの言葉は「相対性」という概念をよく説明しています。
 宇宙に流れる「一分間」は絶対──はい、相対の反対語です──絶対的な時間であって、万人に等しく流れます。客観的に時を刻む時計は、「一分間」で秒針を一回転させます。常に。一分間は六十秒であって、六十一秒になったり五十九秒になったりはしない。そうだろーがー!
 しかしね、主観的な「一分間」は、必ずしも同じではありません。私の一分間と君の一分間は違うのだ、私にとっての「一分間」は四十秒くらいかも知れないし、君にとっての「一分間」は百二十秒かも知れない、そういう事です。私なんかね、この授業、三十分間くらいに感じますね。ベラベラ好きに喋ってて楽しいから。でもさ、君たちの何人かにとってはキッカリ一時間半だろうし、もしかしたら三時間くらいに感じてる人も居るかも知れない。そういう事です。ご理解いただけたかな?
 ご理解いただけなかった。ボクは長々しい授業にウンザリして来ていた。時計を見ると、一時四十分。まだ三十分しか経っていない。ウソだろ。あと三十分の間違いじゃなくて?てっきり一時間以上経ってるもんだとばかり思ってたよ!
 時間が流れるのがとてつもなく遅く感じる。ガマンしてガマンして耐え抜いて、「さすがにもう二時は回っただろ」と思った頃にまた時計を見ると、まだ一時四十五分。五分しか経っていない。なんて時間の経つのが遅いんだ。退屈だ退屈だ退屈だおかしくなりそうだっ!
 すると、隣に座った女の子がまた話しかけてきた。
「資本論って、なんだか科学的ですね!」
 バカかこいつは。まだ資本論だと思ってる。
 え…?
 なんだこいつ。な ん だ こ い つ !
 その子の顔を改めて見直したボクは、慄然とした。なんだこいつ。よく見ると、しっかり見つめると、超かわいい。なんで、なんでこんなにかわいいんだ! なんでだ!?
 化粧の濃いおねーちゃんだと思っていたが、どっこいどっこい、めちゃくちゃ美人じゃないか。ボクはドギマギしてしまった。しかも天真爛漫に「科学的ですね!」なんて言いのけてニッコリ笑ってけつかる。
 ボクは顔をそむけ、「そうですね」とそっけなく答えた。急に照れくさくなったのだ。目と目が一瞬合ったけど、ボクがビックリしたの、わかっちゃっただろうか。恥ずかしい!
 ボクの心の乱れを知ってか知らずか、なおも彼女は話しかけて来る。「知ってか知らずか」っていうか、たぶん、「知らず」だろう。ボクが動揺してる事はバレていないようだ。すごく魅力的な女の子だけど、やっぱりバカそうだもの。
「どうしてこの授業取ったんですかぁ?」
「どうしてって、まあ、必修科目だからね」
「必修科目なんですかぁ」
「そうだよ。え、そうだよね。え?」
「そうなんだぁ。あはは」
「知らないで取ったんですか?」
「わたしあんまり考えないで履修表提出しちゃったから、よくわかんないんです」
 お母さーん。彼女はやっぱりバカでーす。
 その後も、なんか色々話した。あんまり覚えてない。けど、楽しかった事は確実。ふと気が付くとチャイムが鳴っていた。いつのまにか、あっという間に授業が終わっている。
 この瞬間、ボクは「相対性」の意味を百パーセント理解した。
「来週もまた来ます?」
「ええ。多分」
「じゃあ、来週も色々教えてもらっていいですか?」
「ええもちろん」
 ボクと彼女は一緒に教室を出て、そこで別れた。彼女は可愛らしくチョコチョコ手を振り、廊下の向こうへ消えて行った。



【母への手紙】
 親愛なるママへ。ボクは元気にやってます。鬱々としたキャンパスライフをエンジョイ・ナウ。単位も順調に落としてます。すみません。
 正直なところ成績の方は芳しくありませんが、経済のイロハは順調にマスターしております。だいじょうぶ、ご心配なく。今期は相対性理論という学問にもチャレンジしました。ご存じですか。アインシュタイン博士という,お茶の水博士がフサフサになったような人が究めた物理学です。
 物理学を修めた所で経営の何に役立つのか。あなたはそう思うでしょう。無駄な授業を取るなと、ボクを責めるかも知れない。そこで弁明しておきます。ママは『神はサイコロを振らない』というドラマをご覧になりましたか。観たでしょう、あなたヒマだもの。あのドラマのタイトルも、実はアインシュタインの言った言葉なのです。ね。だからどうしたと言われても困りますが。ね。
 とにかくボクは頑張ってます。エッヘン、えらいでしょ。ボクえらいでしょ。授業もしっかり出てるし、勉強一筋。ママから「女は魔物」と教わった通り女の子と付き合ったりもしてないよ。ママが一番大好き。次に帰省できるのは夏休みだから、さみしいな。帰ったらちゃんとおうちのお手伝いする。ジョンの散歩もがんばるー。いっしょにおふろもはいろうね。
 また手紙書くから。アインシュタインは手紙魔だったらしいけど、ボクも負けないように書きまくります。ばいばい。──ママのボクより



【講義第六回・神は老獪だが、悪意はない】
 その日もボクは講義開始間際に三〇八教室へ移動した。後ろの入り口から入ろうとすると、理由は不明だけどなんだか心臓の高鳴りを感じる。マズイ、なんか知らんが緊張してる。何に?
 なるべくクールな表情を作り、手グシで髪を掻き上げ、ボクは教室に足を踏み入れた。最後尾の席に誰か座っているのがすぐにわかった。見覚えが、ある。見覚えのある人。──ボクは心の準備をして来たから、うろたえなかった。
 誰? 誰なの。えっ、誰、知らねー。ボク、知らないよ。あなたの事なんか知らないよ。ぜんぜん興味ないよ。ボクはクールなんだ。女の子のひとりやふたりにドキドキする男じゃあないぜ。気が動転してるはずがない。見てよこの平然とした表情。きみの方はね、見てもいません。きみの姿がチラッと視界に入ってるけどさ、別に意識なんかしてないし?そりゃきみは一般的に言えば可愛い部類に入ると思
「おっすタトシこと立石さとし!」
 ボクはズッこけた。座っていたのはあの子ではなく、絶交したい友だちナンバーワンの森永であった。
「昨日の授業来てた? まじめそうな女の子、教授に怒られまくったじゃん──あ、あの子今日も来てるみたいだな、こりずに」
 ここで森永は深刻な表情になって一瞬何かを思案した。
「こりずに今日もあの子に…。こりずに今日子に…。こ、こりずに今日子! 小泉今日子ぉっ! 今考えたんだけど、うまくない!?」
 ボクは何も言わず森永の頭をひっぱたいた。力いっぱい。
「いっ、いてぇ! 何すんだっ!」
 ボクはいつもの最後尾の席をあきらめる事にした。
「ちょっと待てよぉ。最前列に座ると坂本教授が怖いから、今日はおまえと一緒に授業受けようと思ったのにぃ。待てってぇ」
 教室なかほどの窓側の席に座る。と、チャイムが鳴った。坂本教授が入ってきた。あの子は、来ていない。まだ来ていない…。来たとしたって最後尾の席に座るだろう。くそ。クソッ。
 ボクはなんだか急に森永を殺したい衝動に駆られた。
 この日の講義は「神は老獪だが、悪意はない」というアインシュタインの言葉についてだった。でも、なんか、聴く気が起きない。
「アインシュタインの言う『神』とは…」
 授業に身が入らない。
「宗教的な創造主の事ではなく…」
 モリナガ、シネ。
「宇宙の事であり、これは…」
 クソ退屈だ。一眠りするか。
「そこのきみぃ!」
 突然教授が声を荒げた。水を打ったように静かになる。ボクはビックリして顔を上げた。見ると教授は怒り心頭のご様子。目が据わっている。ボクが注意されたのか。他にも寝てる生徒は居るのに、ボクだけぇ?
 恐怖の感情に眠気をすっ飛ばし、教授を見つめる。おびえた目をしてただろうなぁ、ボク。カッコワルイなぁ。教授が睨んでいたのはボクじゃなかったのに。
「遅刻するとは何ごとだぁぁぁ! なっちょらぁぁぁん…!」
 遅刻者を叱っているらしい。良かったりゅん。ボクじゃなかったピョン。でも、遅刻ごときでそんなに怒る事ないと思う。出席率も良くないし、教室はこんなに騒がしいんだしさあ。
「ごめんなさぁい」
 え、この声、もしかして。
「きみ、名前は!」
「近江さやかです」
「今後は二度と遅刻するなっ!」
「はぁい」
 足音が近づいて来る。靴の音が大きくなるにつれボクの心臓の鼓動も大きくなる。来た。まさか。
「ここ、いいですかぁ?」
 あの子が、来た!
 いやっほぅぅぅ! バカヤローっ、元気ですかーっ。はい元気でーす。いくぞーっ。いーち、にーい、サン、ダー・バードッ!
 ボクは彼女をチラッと見て、黙ったままコクリと首を縦に振った。たぶん顔は真っ赤だったろう。
「えへへ。バレちった」
 彼女は恥ずかしそうに、そして不安そうに、小さく笑った。やっぱりちょっと怖かったみたいだ。坂本の野郎、あんなに怒る事ないのに。
「一番うしろに座れば気づかれなかったのに…。なんで…」
「だって来週も色々教えてくれるって約束したじゃないですか」
 瞬間、心臓を射抜かれた気がした。軽く勃起した。
「顔赤いっスね。風邪でも引いたの?」
「いや、別に。大丈夫。(ちょっと局所が堅いけど)」
「ふぅ~ん」
 彼女はニヤニヤ笑いながらボクの横顔を見つめてくる。ほっぺたに穴が開きそうだ。開いた穴から汗や体液が蒸発しそうだ。
「今日はどんな話ですか」
「いや、俺もちゃんと聴いてなかったからよくわかんない」
「そうなんだあ。あはは。じゃあ今日は互角ですね♪」
 なんて可愛いんだろうチキショウ。殺してやりたいよ。
「神は…。神は? あれ何て読むの? むつかしいね」
「老獪? ああ、ロウコツでしょ」
「すごーい。よく読めますね~。あたしバカだから頭のイイ人って尊敬しちゃう」
 三・一四一七六五三五なんちゃらかんちゃら! イヨー、国! 一四九二年コロンブス西インド諸島発見! NAFTAは北米自由貿易協定の略ぅぅ…! うあぁっ! ママーン、ボクいっぱい勉強して頭のイイ人にナルヨーゥ。
「神はロウコツだが、わるぎはない、かぁ。どーゆー意味なのかな」
 頭のイイ所を見せつけなければ! 学問の神さま菅原道真、我に降臨せよ…!
「神っていうのはね、宗教上の創造主を…」
「しゅーきょーじょーのそーぞーしゅ?」
「そう。宗教上の創造主」
「すごいですね。やっぱり頭イイんですね」
 なんか知らんけど、菅原道真サンキューーーー!
 その後ボクらは授業そっちのけで話し込んだ。
「うにゃーん♪ 時間割表、見せてー」
「え。どぼちて」
 しばらくするとボクの緊張もすっかり緩んでいた。「どぼちて」なんて言葉が出るくらいに。彼女の性格が、というより彼女の脳の少なさが、ボクをリラックスさせるのだろう。「うにゃーん♪」ってなんだ。かわいいな。クソ。
「おんなじ授業、取ってるかも知れないじゃないですかぁ」
「あーあーあー。そっかそっか」
 時間割表を並べ、照らし合わせてみた。
「おっ、株式の授業いっしょじゃん。水曜二限。あれー、いたんだぁ。気がつかなかったなぁ」
「あたしこの授業、まだ一回も出てない…」
「えっ。出席日数はダイジョブなの?」
「うん。ともだちに代返たのんであるから、たぶん」
 まさか男友達じゃあるまいね。きみはかわいいから悪い虫がつかないか心配だよ。
「そういえばまだお名前きいてなかったですね」
「俺? 俺の名前は立石さとし」
「立石くんかぁ。あたしは…」
「おうみさやか」
 ボクの言葉にビックリし、彼女は驚いた表情でボクを見つめる。ボクは言葉を継いだ。
「さん…」
 ボク、ちがうぞ…。彼女がビックリしたのは呼び捨てにされたからじゃない…。我ながら悲しいよ貴様のふがいなさ!
「なんで知ってるの?」
「さっき、先生に名乗ってたじゃん」
「あ、そっかぁ。立石くん、ストーカーなのかと思った!」
 あっけらかんと笑ってみせる。そうしてまた、ボクを見つめてくる。ああ、そのキラキラした瞳に直視されるのはつらい。だって、君の曇りなき水晶体にボクみたいな汚い物が映り込んだら申し訳ないんだもの…。
 ボクのポエムチックな心境をつゆ知らず、引き続きボクの方を向きながらさやかちゃんは元気はつらつな態度で言う。
「立石くんがいるなら、水曜二限、ちゃんと学校来ようかな!」
「マジでぇ!?」
 若者言葉、いや、バカ者言葉炸裂である。心臓が燃えるように熱い。ハートに火をつけてbyドアーズ!
 神はボクをもてあそんでいるのだろうか。悪意は無い、なんて言うけど、老獪なんだろ。老獪って事は、なんだそのつまり、
  ろうかいラウクワイ【老獪】─な 〔「獪」は、悪い方面に頭がよく働く意〕
  経験を積んで悪賢い・こと(様子)。「─な人物」 ──さ

って事じゃないか。(へーそうなんだ。ロウカイって読むのか…)
 ボクの思い過ごしか? さやかちゃんはアホだから、誰とでも仲良くするのか。ボクのこと何とも思っちゃいない? いやいや、ボクのためにわざわざ授業に出るって言ってはる。キライではないはず!(うひょー)
 でも、神は老獪だ。さやかちゃんのようなきれいな女の子がボクなんかに好意をいだくはずがない。これは学校ぐるみ、いや、国家ぐるみの陰謀の匂いがするぜ…!
 というわけでこの日の授業はほとんど聴かず、さやかちゃんとの甘いヒソヒソ話に終始した。チャイムが鳴ればバイバイまたねの時間である。ボクは別れを惜しみ、このまま永久に授業が続く事を心の中で祈った。離れたくなかった。
 しかし祈りむなしく、幸せな時間は飛ぶように過ぎ去る。残酷にも「時間切れ」のチャイムが鳴り響く。
「バイバイ。またね☆」
 バイバイまたねの時間である。喋り足りないままの愛別離苦。遠ざかって行くさやかちゃんの後ろ姿を、ボクは見えなくなるまで見送り続けた。
 その後の一週間、ボクは魂が抜けたようになった。授業もうわのそら。何をするにも身が入らない。考えるのはさやかちゃんの事ばかり。これが恋なのかな。恋なんだろうなあ。うふふ…。
「コラッ」
 ギクッ!
「いいかい、女は魔物だよ。決して気を許しちゃいけないよ。おまえはしっかり勉強だけしていればいいんだ。わたしのかわいい、かわいいさとし…」
 お母さんの言葉が自警団となって定期的に脳内を巡回する。その度にボクはさやかちゃんの映像を意識から追い出し、居住まいを正して清廉潔白を誓う。
「わかってるよママ。女の子にたぶらかされないように、いっしょうけんめい勉強するよ。ボク、がんばるー」
 息子の宣誓に安心するとお母さんは粘り気をともなって霧散する。まるで魔女の奇術のようだ。当のボクは、お母さんが帰ってもすぐには安心できず、しばらくは正座のままである。修行僧のように堅くなって己の煩悩を非難する。
 でも、人間は弱い生き物。自省もそこそこに足を崩し、やがて立ち上がり、結局は脳内の本棚からさやかちゃんの写真を取り出してしまう。ベッドの下からさやかちゃんの人形を引っ張り出してしまう。再びボクの頭の中はさやかちゃんのイメージで満たされた。まるで麻薬中毒だ。薬物乱用をいさめられて一旦は猛省するものの、そのうちに誓いをケロリと忘れ、懲りずにコッソリ服用してしまう。やっぱり忘れられないみたいだ。早く会いたい。
 日はめぐり、お待ちかねの木曜三時限となった。ボクはクールで知的な優等生を装いながらこの日も時間通り教室に到着する。
「おはよ!」
 教室に入ろうとするなり元気な声を掛けられた。い、いかん、表情がゆるむ。冷静沈着な顔がほころぶぅ! ボクのクールなイメージが…。 えへへ、さやかちゃん、オハ
「タトシこと立石さとし!」
 一気に意気消沈、下半身も意気小チン。やっぱりおまえかよ…。また一番うしろの席取ってるよ…。
「なんだよ先週はー。いきなりひっぱたきやがって。ひでぇなぁ」
 ニコニコ話しかけてくる森永の顔を見て、たまっていた鬱憤が爆発し、ついにボクはキレた。
「あ…? 殺すぞてめー」
「ななななんだよ、何怒ってるんだよ。俺はただ、おまえ、タトシこと立石さとしと授業を一緒に…」
 ボクは森永に人差し指を突き付け、顔を近づけて凄んだ。
「二度と俺をそう呼ぶな。二・度・と」
「ど、どうしてそんなにピリピリしてんだよ、生理でも来たのかよ」
「あのさぁ…そこ、どいてくれねぇかな? もともと俺の席だったんだぜ…」
「席なんか決まってないだろ。それに、俺はタト…立石と仲良く授業を受けたいだけだって。俺の隣に座りゃーいいじゃない」
「ダメだ。人が来る。オマエワキエロ。以前のように一番前の席に座れ。失せやがれ」
「な、なんなんだよぉ」
 授業のチャイムが鳴り始めた。ボクは森永のカバンを掴み、一番前の席まで運んであげた。しかたなく、森永移動──
 ──なんて具合に事が運べば嬉しかったのだが、ボクにそこまでの度胸はございません。「知り合いが来るからあっちに行って」とお願いし、森永を窓側の席に押し込んだ。
 さやかちゃんは慣例通り遅刻した。ボクが開け放って置いたドアから、さしずめ空き巣泥棒のように忍び入って来た。
「きょうはうしろの席なんだ。やったぁ」
 もぅっ、かわいいなー。今日もいっしょにいっぱいオベンキョしようね!!



【講義第七回・絶対空間って×!】
 本日は「絶対空間」について講義します。
 アインシュタインが登場する以前は二百年以上にわたってニュートン力学が世界の常識を支配していました。ていうかね、アインシュタイン以後に生まれた私たちだって、普段の生活ではニュートン力学の思考です。月や人工衛星が地球に落ちて来ないのも万有引力の法則で説明できますし、日常的感覚では相対性理論よりもニュートン力学の方が正しいように思えます。
 「絶対空間」はニュートン力学の概念です。宇宙には天体やらガスやら岩石やらチリやら浮いていて、飛び散ったり引き寄せ合ったり様々な動きをしております。ご存じですね。物質は空間の中で運動しております。この考え方は、「まず空間があって、その中を物質が動いている」という論理です。もっとわかりやすく言えば「空間は変わらないのだ、絶対なのだ。空間の中にある物質が変化するのだ」っつーこと。おわかり? おわかりっていうか、当たり前ですよね。んなことイチイチ言われなくても知ってるゼって思ったでしょ。ねえ、思ったでしょ。しかしですね、この「絶対空間」という考え方がですね、ショッキング、実は正しくないのです。宇宙の正しい姿ではありません。ショッキング。
 アインシュタインはニュートンと全く逆の考えを提示しました。「物質があるから、空間が変化する」と。うそーほんとー? って感じがしますね。これがホントなんだなぁ…。

「え。言ってる意味がよくわかんないんだけど」
 さやかちゃんが授業についていけず困っている。ここで頭の良い所を見せつければもっと親密な間柄になるチャンス。下心まる見えテレビ特捜部だよ!
「つまり、こういうこと。ニュートンは、絶対空間。アインシュタインは、その逆」
「ふむふむ」
「絶対空間とは──この教室と俺たちを例にして話そうか。ここに教室があるでしょ」
「ありますね」
「で、俺たちが二人で座ってるでしょ」
「座ってますね」
「で、いろいろ話してるでしょ」
「いろいろ話してますね」
「話したり文字を書いたり呼吸したり、動いてるじゃん」
「見つめ合ったり。ね」
「(顔を真っ赤にして)で、でも、俺たちがいくら動いても教室が揺れたり壊れたりはしないじゃん。俺たちがどんなに動いても教室は動かない。変わらない。これこそが『絶対空間』ってこと。わかったかな」
「ちょっとわかったかも」
「でも、これが違う。絶対空間っていうのは一種の幻想。まやかしだ」
「えぇーっ。そうなの?」
「アインシュタインの主張はこんな感じだよ。俺たちが教室の中に居るとするね」
「そこはおんなじなんだ」
「うん。で、俺たちが何か会話したり、近づいたり遠ざかったりすると」
「すると?」
「教室が変化するんだよ」
「どういうこと? すごいね」
「どんな変化をするかは具体的には知らないけどさ、何かしらの変化が起きる」
「なんだか運命的な話でステキだね。ふたりが世界を変えちゃうのかぁ。あたしと立石くんが近づくと、教室の中が変化するんだ」
 そう言った彼女は、なんと、身をずらしてボクに寄り添うではないか。ピタリとふれあう腕と腕、伝わる彼女の体温。なーに、これは? 何のいたずら?
 彼女はボクの顔のすぐ横で、ほっぺたをプクーッとふくらませた。そして「教室動かないぞ」とこぼした。バカじゃねーの、たとえ話だよ。動くわけないだろ。クソッ、な んで そ ん な に カ ワ イ イ ん だ よ。
 この子はボクを挑発しているのだろうか。バカと見せかけておいて、本性は男を手玉に取る小悪魔なのか。その気にさせておいて後で奈落の底に突き落とすつもりなのだろうか。ボクは彼女にもてあそばれているだけなのか。それとも、外見通りの無邪気な行動なのだろうか。額面通りのバカなのだろうか。ボクにはわからない。わからないよママン。
 頭に血がのぼるのを感じる。心臓がドキドキしてる。教室は変化せずボクの内面が変化したよファッキン。
 思うさま動揺していると、おや、何か視線を感じます。視線の出所は──
「いいや。さやかちゃんがボクに近づいた事で、教室にはわずかながら変化が起きたよ。もちろん教室それ自体が動いたわけじゃないけど、空気が動いた」
「?」
「見て」
 ボクらの様子を盗み見ていた森永が慌てていた。



【講義第八回・特殊相対論と一般相対論】
[ボクとさやかちゃんはこの日も仲良く最後列の席に並んで座った。講義に関する素朴な疑問を発するさやかちゃんに対し、ボクはハッスル解答したのでした]
 ひとくちに相対性理論と言いますが、実は二種類あります。「特殊相対論」と「一般相対論」です。この違いについて今日は講義するぞよ。
 どういう風に違うのか、想像つきます? 字面から臆断すると間違っちゃうから気をつけてね。
(オクダンって何?)(奥田民夫と無関係なのは間違いないよ)(じゃあ安心だね)
 名称で推測すると「一般相対論が基本で、ちょっと特別なのが特殊相対論」って思っちゃうでしょ。私も最初はそう思った。でも、それは正しくないからね。全然合ってないからね。特殊相対論と一般相対論、ぜんぜん別物と思っていただいて構わない。名前が似てるから混乱するけどね。
 授業二回目で「奇跡の年」について触れたけど、あれは西暦何年でしたっけ。ニュートンは一六六六年。では、アインシュタインは?
(あたし、二回目の授業出席してなかった。何年?)(一九〇〇年だよ)
 そう、一九〇五年だね。この年にアインシュタインは「特殊相対性理論」を発表します。「特殊」の方が先なんだ笑っちゃうね。とはいっても、最初は「特殊相対性理論」なんて言わなかった。後年に登場した「一般相対性理論」と区別するため、便宜的に「特殊」と冠しただけなのです。
(相対性理論と相対論って、なんかちがうの?)(いや、同じだと思うよ)
 では具体的にはどんな風にちがうのか。話の取っ掛かり上、とりあえず表にまとめてみた。今から板書するので各自ノートを取るように。
  ・特殊相対論  光/時間  慣性系(静止状態・等速直線運動)
  ・一般相対論  重力/物質 非慣性系(重力=加速)
[めずらしくさやかちゃんもノートを取っている。
  ・特列相対輪  米/時間  ○性係(静止壮能・等速直綿運動)
  ・一船相対輪  動/物質  非○性係(動二加速)
 えーと。目が悪いだけだよね? もしくは教授の字が汚かったんだよね? うん、きっとそうだよ。ね。それからさ、うんとさ、「慣」の所にさやかちゃんオリジナル漢字が使われてるんだけど、それは何て読むのかな?]
 「慣性系」「非慣性系」って何なのか。それはまだ気にしなくていいです。大事なのは、特殊相対論が光と時間を扱い、一般相対論が重力と物質を扱うって事です。OK?
 もっと具体的に言いますね。特殊相対論から導き出される産物は、四次元・タイムマシン・核爆弾。一般相対論から導き出される産物は、宇宙のゆがみ・ブラックホール・ビッグバン。なんとなくイメージできますかね?
(タイムマシンってアインシュタインが作ったの? すごーい。尊敬しちゃーう)(知らなかったなあ。アインシュタインって、想像してたよりもさらに偉い人だったんだな)
 カン違いしちゃう人が居ると困るので念のためことわっておきますが、アインシュタインが発明したわけじゃないですよ。アインシュタインが提唱した理論が元となって、さまざまな夢が膨らんだってわけ。
(……)(……)
 言ってみりゃドラえもんだよ。藤子F不二夫先生の遺産にしがみついて勝手気ままな創作をしているアニメ製作陣っていうか、ね。
(ま)(わ)
 ちょっ、ちょっと待った! 今のオフレコ! 坂本がこんなこと言ってましたなんてチクり入れたらダメだよ!? そんなことした生徒には単位あげませんからね!



 授業に飽き始めたボクたちは私語を開始した。何が楽しくてこんなクソ授業を受講してるか。さやかちゃんとおしゃべり出来るからに決まってる。この時この瞬間が、一番幸せだ。木曜日、好きな曜日に成りました。
「立石さんって彼女さんはいるんですか」
「えっ。」
 突然なにを言い出すのかと思った。彼女さんって、恋人って事? だよな。でも、聞き返さずにはいられない。十パーセントの期待と、九十パーセントの「そんなはずない。はは。からかってんだよ。ははは」という、期待感を無理に抑え込んだ冷静さで臨む。
「どういう意味?」
「えーとぉ、そのぉ、恋人がいるのかどうかってことです」
 いるはずがない。見てよこのカメレオンみたいな顔。目は離れてるし、鼻は低いし、皮膚はゴワゴワだし、ひしゃげた爬虫類みたいな輪郭をしてるし、舌が長いし、背景に合わせて変色するし、虫を瞬時に捕まえるし、動物園の人気者だし、女の子にかまってもらえるはずがないじゃないか。
「(涙声で)いるように見える?」
「え、わかんない」
「彼女が出来ると思う? この顔で」
「かっこいいじゃないですかぁ」
 よく、「全身に電気が走る」とか「脳天を落雷が直撃する」とか言うけど、あれをボクはオーバーで陳腐な表現だと思っていた。が、それを今実際に体験した。まさしくこの瞬間のような状況を指すのだろう。ボクは激しい電流が身を焦がす感覚に襲われた。ときめきなんて生やさしいものじゃない。ビビビッと来たなんて生っちょろいもんじゃない。その刹那おそろしいレーザービームに焼かれた。
 この子がもし、もっとブスだったなら。ボクはこれほど不信を起こさなかっただろう。さやかちゃんは超美人、いかにも遊んでそうな派手派手ギャル。ボクをおちょくってるとしか思えない。
 ぜいたくな悩みなんだろうか。美人から好かれたいと常々願っていて、初詣の時には「超カワイイ彼女が出来ますように!」と願掛けしてしまったほどなのに、いざ美人から好意を持たれると尻込みしてしまう…。
 ボクは臆病者だ。いや、卑怯者だ。神が与えてくれた千載一遇のチャンス、ここであやからなければ男じゃない! 言え、言うんだ。勇気を振り絞って、口説け!
「じゃあ、さやかちゃんが俺と付き合ってよ」
 うひょおぉーっ。そんなん言えるはずネェーー! 授業中だし、授業中だし!
「カッコ良くなんてないよ。かっこ悪いよ。どうせモテない。彼女なんて出来るはずがないよ。生まれ持って出た顔だから仕方がないとあきらめてるけどね。あは、あはははは…」
 せっかくさやかちゃんがボクの事を誉めてくれたのに、クソったれのボクは話題を逸らした。どうして「じゃあ付き合って」と言えなかったんだ。授業中だから。そんなのは言いわけだ。失恋するのが怖かったのか。バカ野郎、おまえなんてフラれるのが当たり前なんだから、当たって砕けろの勢いで挑めば良かったじゃないか。バカにされるのが恐ろしかったのか。どうせバカじゃないか、さやかちゃんほどではないにしろ。何を怖がる事があるんだ。この意気地なし! ちょっと勇気を出せば夢のような幸福に手が届いたかも知れないのに。この階段を一歩踏み出せば楽園に行けるはずなのに。つまずいて転ぶかも知れないから、ためらってしまった。自分のちっぽけな自尊心を守るために話題を逸らした。バカバカバカ、ボクのバカッ。おまえなんか死んじゃえー。
 入り混じる期待と不安と逡巡。複雑な感情を「さみしそうな顔」に集約してボクは力無く苦笑した。ボクの心中を知ってか知らずか、さやかちゃん、こうおっしゃる。
「じゃあ、彼女いないんですね。立候補しちゃおうかな~」
 なんだこの子は。もう、殺すしかない。ここまでコケにされたら、アタックするしかないよ。
「デートしてくれませんか。お金はボクが出します」
 ボクの精一杯の殺し文句。(最低)
「いいですよ~」
「やった!」
 どうにかデート権を獲得できた。激しい緊張に圧されてヘッピリ腰だったけど、一か八かアタックしてみて良かった。何事もちょっと頑張れば案外成功するものだなぁ。
 デートといってもいきなり温泉宿に一泊したり結婚式場を探してみたりするわけにはいかない。とりあえず食事する事にした。「善は急げ、さやかちゃんの気が変わらないうちに!」とボクの心の中の悪魔がささやくのでさっそくその日に。
「さやかちゃん、四限は?」
「今日は休講みたい。立石くんは?」
 ボクは休講じゃないです。「健康スポーツ④テコンドー」です。しかしさやかちゃんを待たせて一人そんな汗をかいている場合じゃないので当然のごとくサボる事にした。なにがネリチャギだよバカタレが。やってられっか。というわけでレッツゴー下校。
 女の子と付き合った事はおろか、キスした経験も無い、そればかりか手をつないだ事さえ無い超純情少年のボク。女性と並んで歩くなんて、お母さんとデパートで買い物した時以来の経験です。超緊張します。けれど、なるべく女性に慣れてるふりを装い、隅々まで気配りの行き届いたエスコートを心掛ける。なにせクールで知的な男を気取っておりますから。立石、冷静沈着なオトナの男演じてますから!
 すっかり恋の偽装建築師に変身したボクはこんな提案をした。
「ごはん食べるにはちょっと時間が早いから、軽くお茶でも飲んでく?」
 喫茶店で会話が弾んだらそのまま食事。気まずくなったら逃げるように解散しよう。こう考えておりますタトシこと立石さとし。正真正銘のヘタレです。
「うん。飲んでく飲んでくー」
 うれしそうにピョコピョン跳びはねる近江さやか容疑者二十歳。なんてかわいいんだよ、もぅ。ボクのハートを盗みやがった。ハート泥棒、現行犯で逮捕するぞ。
「おごってくれるんですよね?」
 さやかちゃんは上目遣いでにやにや笑っている。「お金はボクが出します」っていう殺し文句、効果てきめんだった。気分は援助交際だ。
 大学から駅に至る途中、「珈琲カラテオドリ」という怪しい名前の喫茶店が営業している。外装はこざっぱりしているし、大きな出窓から望む店内はオシャレで落ち着いた雰囲気。普段こういう店には入らないからよくわからないけど喫茶店なんてどこもこんな感じなのだろう。いちいち探すのもかったるいのでここに決める。店内には近所のマダム連や大学生らしきグループ、一人で読書にふける女の子らが座っていた。いい具合の客数である。混雑してたら窮屈だが、あまり閑散としているのもよろしくない。気まずくなる。
 ボクたちは奥の方の角の席に案内された。カップルだと思って気を遣ってくれたのだろう。BGMにシャンソンなんぞ流れてしまっているがそれほど高級な感じでもなく、ゆったりとリラックス出来そうなお店だ。我ながらナイスチョイスだった。
 二人用のテーブルにさやかちゃんと向かい合って座る。メニューをひらいてみるものの、普段コーヒーなんて飲まないから何の事やらよくわからない。コーヒーってこんなにたくさん種類があるの?
 でも、無知を悟られるのは避けたい。なんてったってボクは知的で遊び慣れてるオトナの男を演じ切らねばならないのだ。「よくわからないんだけど」なんて泣きごとを漏らすわけにはいかない。「ホットミルク」なんてダサい注文をしてはならない。なんだ、とりあえずこの、エスプレッソってやつにしとくか。聞いたことあるし、オサレな感じがするじゃ~ん。一方のさやかちゃんはカフェモカを頼む。なんかカモシカみたいだね、それ。きみの美脚にピッタリなカーフィーだよ! ハァハァ…。
 コーヒーはすぐに来た。え。何これ。これがエスプレッソ? やたらとちっこいぞ。どうやって飲むのこれ。え、このまま飲むのかな。いやまさかそんなはずは。いかん。いかんいかんいかん。わからんぞ。まさかこのまま飲むのか。少なすぎる。なんだよ、これで三百円って、冗談だろ。何かを混ぜて水増しするのか、一気に飲むのか、チビチビ飲むのか、それとも店側のミスなのか、想像もつかない。見栄なんか張らなければ良かった。ホットミルクにしておけばよかった。さとし大ピンチ!
 ボクが手持ちぶさたに困っていると、さやかちゃんは全てを悟ったように「それは砂糖をたっぷり入れてそのまま飲むんだよ」と教えてくれる。これはかなりカッコ悪かったな。マイナス査定だろ。偽装発覚だろ。どうせさやかちゃんとは到底釣り合わない冴えない男なんだよ。
 自分でもブン殴りたくなるほど情けない事を考え出すボク。しかしさやかちゃんは寛容というかバカというか、ボクの狼狽には知らん顔で通してくれる。「おいしいね」なんて微笑みながらニコニコしてる。ベイビーきみは天使なのかい。ケバいギャルかと思ってたけど、それはボクの偏見だったのかい。
 おかげさまで肩の荷が下りた気がした。やっぱりですね、この子と一緒にいるとなんだかホッとするんですよ。もうね、はっきり言っちゃうとですね、本格的にフォーリング・ラヴですよボクぁ。きゃっ、はずかぴぃ!
「俺、あんまり喫茶店とか来ないからさ。エスプレッソって名前が美味しそうだなーと思って頼んだけど、これっぽっちしか来ないんだね。失敗しちゃったよ」
 どんどん正直に成れる。自分のカッコ悪い姿も臆せずさらけ出せる。どんなにぶざまな所を見せても、さやかちゃんなら笑って許してくれそうな気がする。
「どぺーん!」
 ここで突然、ボク十八番のギャグが炸裂!
「…」
 凍り付くさやかちゃん。さすがにちと早かったか。ボクも凍り付いた。いたたまれなくなってエスプレッソのカップに口をつけるが、いつの間にか飲み干していた。ズズッとすするが、一滴も残っていない。いよいよ場を持て余す。
「あたしのカフェモカあげるよ」
 豪快に滑ったボクに対し、しかしさやかちゃんはあたたかかった。「さむーい」とか「オヤジじゃないの?」とか「きもーい」とか言わず、イヤな顔ひとつしない。なんて優しいんだろ。
「いっしょに飲もう!」
 それではお言葉に甘えまして。さやかちゃんが口をつけたカップ。さやかちゃんが口をつけたカップ。さやかちゃんが口をつけた、さやかちゃんの口がついた、さやかちゃんのカップ…。
「そういやさやかちゃんって何カップ?」
 …。
 え。突然何を言い出すんだボクは。
 …?
 …!
 えっ! 突然何言い出したの!? 何を言ってくれちゃったのこのオタンコナス!?
 間接キスになるかも知れないワクワク感を抑え切れず、思わず変な事を口走ったらしい。これだから童貞は困る…。どうすんだ。どう埋め合わせするんだ。せっかくここまで良い雰囲気になってきたのに、その一言で台無しだよバカ!
「あたしFカップだよ」
 おまえもバカだー。
 さやかちゃん、あっけらかんとボクの失言に答えてくれた。質問ではない、失言である。なのに全く気にせず答えてくれたぞ。しかもそれだけではない。妙な目つきでこう付け足すのだ。
「ぐへへ巨乳でしょ」
 ボッキーン! うぐ…ぐ。「ドッキーン」じゃない。この場にふさわしい擬音語は「ボッキーン」だ。
 さやかちゃんは男遊びの激しそうな外見をしているが、そうでもないのかも知れない。アインシュタインの言葉を借りれば「理論的真実は心の中にあって、目で見る物ではない」ということになる。目で判断せず、心で相手を判断するんだ。
 まだ真相はわからない。うますぎる話には裏がある。油断した所で浄水器を買わされたり宗教に勧誘されたりするのかも知れない。が、もうどうでもいい。だまされていようが何だろうが、ボクは完全に恋に落ちた。
 喫茶店では三時間ほど話し込んでしまった。ボクはあくまで「いや、俺おまえになんか興味ねーし?」という,この美人に対して畏れ多すぎる態度を貫いていたが、段々とその凝り固まった姿勢もほぐれてきた。さやかちゃんにおねつだ。楽しくって楽しくって仕方がないので自然と表情がゆるむ。さやかちゃんも言葉にこそ出さないものの、ボクにホの字だろう。
 店の外には夕闇がこめ、レジ袋を大量にぶらさげたママチャリや家路を急ぐ窓際族が往復し始めた。ボクらは場を移す事にした。こんなに親密になっているのだから、無論解散なんてしない。本格的な食事を採るぞ。会計を済ませ、店を出る。
「ごちそうさまぁ」
 ペコリと頭を下げるさやかちゃん。喫茶店から差す光に照らされたあなたの顔は、白く半透明に透き通ったように輝き、なんて美しいのでしょう。路地に連れ込んで今すぐめちゃくちゃに犯してやりたい気分だよ。
 ボクたちは駅前のファミレスに入った。楽しく食事をし、笑い、時には真面目な話もする。豊かな時を過ごした。ふたりはすっかり仲の良いコンビだよ。残念ながらお似合いのカップルではないけどね。ボクがブサイクだから。
 食後のデザートが運ばれてくるころ、さやかちゃんがこんな事を切り出した。
「あたし最初のほうは授業出てなかったじゃないですかぁ。だから、その時に習った事も含めて、今までの復習したいなぁ」
 さやかちゃんは頭は良くないけど学習意欲は旺盛なようだ。
「そういえばさ、この授業って資本論? の授業だよね。相対性理論っていうのは資本論の一部なの?」
「いいや。ぜんっぜん違うよ。『資本論』はボクたち経済学部の学生が修めなくてはならない学問で、貨幣経済や市場メカニズムについて取り扱う。対して相対性理論は物理学部の学生が修める学問だ」
「おさめるおさめないって、なんだか年貢みたいだね。…あのね、立石くんの言い回しはあたま良さそーでカッコイイんだけどね、バカなあたしにもわかるようにもうちょっと簡単におしえてほしいの」
「つまりまあ、なんだその、俺たちは勉強しなくていい『相対性理論』を勉強してるんだ」
「えっ、勉強しなくてもいいの?」
「そうだよ」(そうだろ。普通に考えりゃわかるだろ)
「やったー♪」
「ん。もう授業出るのやめちゃう?」
「ううんー。なんだか面白そうだし、立石くんがやさしく教えてくれるならがんばろうかな。やさしくしてね」
「や…やさしくしちゃうよ!」
「あたしやさしいひと大すき」
「ほんとにー?」
「おもしろい人もすき」
「が、がちょーん!」
「おもしろーい」
「棒読みじゃない? ほんとに面白いと思ってる?」
「おもってるよー。おもしろいよー。立石くん、すっごくおもしろいよ」
「そ、そうかなー」
「むつかしいことを言ってる時も、なんだかおもしろオーラがにじみ出てるんだよね」
 そんなつもりはなかったんだが。無口でクールなハンサムガイのつもりだったんだけど。馬鹿にされてるって事か。天然か。ぶざまな汚れ芸人か。みじめだな、ボク…。ボクはすぐネガティヴに物事を考えてしまう。自分という存在にとことん悲観的だ。
 ボクが悲しげなシワを眉間に寄せると、さやかちゃんがフォローしてくれた。
「立石くん天然なんだよね。あはは」
 容赦ない。容赦ないよさやかちゃん。でもそれが逆に、ボクの気持ちを穏やかにする。吹っ切れてさっぱりした。そうだよ。ボク、天然ボケだよ。天然ボクだよ。狙ってなんかいないんだ。真面目な堅物のボクも、ごくまれに面白いギャグを口にする時があるけど、それは小ざかしい計算によるものではなく、天性の素質によるものなんだよね。まったくそうに違いない。ボクはお笑い界の未完の大器。眠れる天才を宿した眠れる森の変態だ。
 ボクとさやかちゃんは見つめ合って微笑みを交わす。なんか幸せ。ボクは異性とお付き合いをした経験がないけど、彼女が出来るっていうのはこんな感じなのだろうか。くそっ、むちゃくちゃ楽しいじゃねぇか。やっぱり楽しいんじゃねえか、恋人と過ごす時間っていうのは。ちまたのカップルども、さんざんイイ想いしやがって。おまえら全員呪われろ!
「ところでさ。資本論の授業なのにどうして資本論をやらないの?」
「坂本教授の気まぐれさ」
「坂本せんせい、なに考えてるのかなー」
「それは永遠の謎だね。どんな天才にも解明できないと思うよ」
「ふーん。変な先生だね。──じゃあそろそろ復習タイムに入ろっか。せんせいよろしくお願いします」
「うむ。講義ノートを読み返すと──第二・三回の授業はアインシュタインについて学んだみたい」
「アインシュタイン博士ね。かっこいいよね」
「天才として名高いけど、その頭脳をひけらかすでもなく、ユーモアにあふれ…」
「ひけらかすってなぁに?」
「決して脳切開手術じゃないよ。頭のいいのを自慢しないって意味。アインシュタインは天才だったのに決して威張ったりしない、親しみやすい人だったんだ。頭のいい人っていうと真面目一徹なイメージがあるけどアインシュタインはとってもひょうきんな性格だったみたいだよ」
「立石くんみたいだね」
「いや、え。ノーノーノー…」
「ほめすぎか」
「そうだね…。教授が言うには、アインシュタインはとてつもない天才なんだって。他の誰も及ばないほどの、人類史上最高の天才。俺もそう思うよ。分野が違うから比べちゃいけないのかも知れないけど、シェイクスピアやモーツアルトやピカソやスピルバーグがいくら天才だと言っても、アインシュタインには遙か及ばないと思う。それくらいブッ飛んでいる。ピカソみたいな画家はピカソが登場しなくても現れたかも知れないけど、アインシュタインの思考は誰もマネできなかったと思うよ。何千年経ってもね」
「そんなにすごいんだ。ちょっとそのノート見せてもらっていーい?」
「うん。いいけど」
 さやかちゃんは照れくさそうにほほえみながら席を立った。トイレかな、と思ったら、なんとそのままボクの隣に座る。
「えへ。授業中みたいだね」
 むむむ…。これじゃまるでカップル同士だぜホントにもう。心臓の鼓動が一気に高鳴る。興奮を顔には出さぬよう踏ん張る。さやかちゃんはボクがドギマギしているのに頓着せずノートをはぐる。
「なあに。このチョンガーチョンガーって」
「さあ、なんだろうね…。ヒマだったんだろうね、第四回。寝てたな、たしか」
「だーめーじゃーないかぁ~。立石くん。廊下に立ってなさいっ」
「え。あ。立たなきゃ、だめ?」
「じょうだんだよぉ。そういうところが立石くん、おもしろ~い」
 かわいいよ。かわいいったらありゃしないよ。ホント大好きだよ、さやか。愛してる。
「そうそう。ここがテストに出るって。奇跡の年」
「なにそれ。あ、このまえ立石くんがまちがえたやつだぁ」
「ウシシシシ…。ちょっとした間違いは誰にだってあるさ。これね、あ、出来れば書き写して」
 さやかちゃんは言われるがままにボクのノートを書き写した。
  ・一九〇五年、アインシュタイン(二十六歳)
   「特殊相対性理論」 「光量子仮説」 「ブラウン運動の理論」
  ・一六六六年、ニュートン(二十三歳)
   「万有引力の法則」 「流率法」 「光と色に関する理論」
 書けたかな。「特殊相対性理論」だからね。「特列」じゃないよ。あ、さやかちゃんの書く「引力」って「31力」に見えるね。かわいくて馬鹿っぽい丸文字だね。
「アインシュタインが生まれる前は、ニュートンの言ってる事が正しいと思われていました。ずーっとニュートンが常識になっていました」
「ふむふむ」
「でも、アインシュタインが生まれて、ニュートン理論がくつがえります。万有引力の法則は知ってるね」
「うん。聞いたことあるよ」
「これがね、アインシュタインに言わせると、正しくないんだ」
「へー」
「あんまり驚かないね…。万有引力の法則は間違いではないんだけど、せまい範囲にしか適用できないんだ」
「せまいって、どれくらい? 世田谷区くらい?」
「太陽系くらい」
「チョー広いじゃん」
「いや、宇宙はもっともっと広いからね。宇宙全体で考えると、ニュートンの説だけじゃ不十分なんだ」
「ほへー」
「それからさ、これは一緒に授業受けたから知ってるよね、絶対空間という概念もくつがえしたって」
「お。知ってる知ってる」
「空間の中に存在する物質が運動するのではなく、物質があるから空間が変化するのだ、と、そういう事らしい。アインシュタインの主張は従来の説とは全くの正反対であり、正反対でありながら実は正解だったんだ」
「アインシュタイン博士はニュートン先生を負かしちゃったんだ」
「そうです。ニュートンが支配していた世界観を打ち破いた。そういう人としても評価できます、アインシュタインは。わかったかな」
「せんせいわかりましたぁ」
「で、アインシュタイン博士が主張したのは相対性理論です。これによると宇宙は常識では考えられないようなファンタジーな世界らしい。俺たちが生命活動をおこなっているこの宇宙、俺たちが想像している以上に不思議な世界らしいぞ」
「なんだかメルヘンチックだね」
「そう、メル変チック。どんな世界なのか、くわしくは後期の授業で教わると思うよ」
 ボクたちはケーキなどをほおばりながら、仲良く並んで座って復習に励んだ。ノートを順番にめくっていく。ほどなくして「第五回・相対性とは何か」のページに行き着いた。忘れない、特別な講義。
「この授業の時だね、さやかちゃんと出会ったのは」
 ボクはまじまじとさやかちゃんを見つめた。
「立石くんと会えてよかったな。もし会えてなかったら、ちゃんと出席してなかったと思う」
 真剣なまなざしでボクを見つめるさやかちゃん。甘い吐息が匂ってきそうな距離だ。正常な成人男性ならここでキスの一つや二つかます所なんだろうけど、異常な成人男性のボクには無理です。目を覗き込むだけで精いっぱい。それも、一秒以上は無理。絶対無理。これでも頑張った方だ。引っ込み思案のボクとしては。
「相対性っていうのはね…」
 慌ててノートに視線を落とし、復習を続けるボク。なんだかさやかちゃんは物足りなさそうだ。ごめん、意気地のない男で。
「うん、ここからはさやかちゃんも授業に出てたから、わかるよね。ちょっと交代してさ、今度はさやかちゃんが説明してみせてよ」
「え~。できないよぉ」
「やってみてって。おせーておせーて」
「うーん。笑わないでね」
「ゲハハハハハ…」
「もぅ!」
「ごめんごめん、ウソウソ。笑わない、笑わない。ホントに笑わないよ。だから続けて。お願い。ね」
 さやかちゃんはコホンと一つ咳払いをし、課題発表時のような真剣な調子でしゃべり始めた。「おどけてるんだな」とボクは思った。しかしその予想は間違っていた。彼女の意図を、心を、読めていなかった。
「…熱いストーブに手を乗せると一分がまるで一時間ぐらいに感じられる」
「みごとなまでにノートの朗読だね」
「しかし、好きな男の子と一緒に居ると一時間が一分ぐらいに感じられる」
「え…」
「それが『相対性』です…」
 さやかちゃんはうつむいている。なんだろう、これ。なんなんだろうこの状況。告白されたのか。ボクは女の子から告白されたのか。告白なんてされた事も、ましてした事さえないこのボクが、こんなステキな女性から? えーと、これは何のいたずらなのでしょうか。アインシュタインせんせー! あなたの言葉によれば「神は老獪だが、悪意はない」という事ですが、いたずらじゃないんでしょうかっ。「神はサイコロを振らない」という事ですが、これは運命か何かなのでしょうかっ。信じられません!
「えーと、ね。うん。そうそう。よく出来ました。あはははは」
 ボク、情けねえぇぇ…っ!
「笑わないって約束したじゃん」
 さやかちゃんの声はいつものかわいい声ではない。こんな様子の彼女は初めて見る。ふざけているわけじゃなさそうだ。本気で不機嫌になってるみたいだ。ボクはゴクリと喉を鳴らした。
「あたし…。あたし帰るね」
 ビデオをスローモーション再生にしたような、一秒が一時間に感じるような、そんな時間が流れた。
 バッグに筆記用具を詰め、席を立とうとするさやかちゃん。顔をそむけているが表情の沈んでいる様子はありありと見て取れる。ボクはどうすればいいのだろう。取り返しのつかない事をしてしまったと思いながら、そわそわとテーブルの上の食器を見つめる。これ、全部でいくらだろ。って、そんな心配をしてる場合ではない。ああ。あああ。あああああ。なんてことだ、せっかく、せっかくこれ以上ない幸せな時間を過ごしていたのに。時間よ止まれ!
 彼女はそのまま席を立つ。そして、ボクの方を見ないまま、低く落ち着いた声で「ごめんなさい。じゃあね」と言い残し、立ち去ろうとする。
 時間よ、止まれ!
「待ってよ!」
 ボクは叫んだ。そうして猛然と立ち上がり、さやかちゃんの肩に手をやり、力強くこちらを振り向かせ、そのまま抱きしめた。
「好きだよ。好きだ」
 ……。
「ごっ、ごめん!」
 パッと飛び退くボク。我ながら気の毒になるほどうろたえている。顔が焦げるように熱い。さやかちゃんは何も言わず床をじっと見つめている。アリさんでも居るのかな?
 なかば勢いだけで「好き」と告げてしまったものの、どうしたものやら。きみに帰ってほしくなくて。一緒に居てもらいたくて。せっかくここまで仲良くなったのだから別れたくなくて。今の信頼関係を失うのが怖くて。せっかく女の子が秘めた想いを打ち明けてくれたのだから、ボクだって男らしく自分の気持ちを表明しなきゃいけないと思って。さやかちゃん、きみを引き留めたのには色々な感情が介在しているけど、とにかく、待ってほしかったんだ。ひとりになるのがイヤだった。さやかちゃんが去ってしまうのは堪えられなかったんだ。
 しかし、堂々と「好き」なんて抜かしてしまったが、きみの本当の気持ちはどうなのだろう。今でもボクは半信半疑。きみのような美しい娘がボクのような醜い男にホレるなんて、そんなの自然の摂理に反していると思う。美少女は美男子とつがいになるべきだし、ブサイクはそれ相応の相手の元に落ち着くべきである。きみが恥ずかしそうに「好きな男の子と一緒に居ると一時間が一分ぐらいに感じられる」とスピーチしたのは、本当にボクに向けたメッセージだったのだろうか。それともボクの思い込みだったのだろうか。遠回しの告白に見せかけて実はおちょくっていただけではないのか。「好きな男の子」というのはボクを指しているのではなく、他の誰かを想定して言った言葉ではあるまいか。もしそうだとすればボクはカン違いもはなはだしい大馬鹿野郎だし、抱きしめて「好きだ」なんて言ったのは悶絶物の失態だ。きみの真意がまだ見えず、ボクは怯えている。ボクがきみに抱く恋心は確かな感情だけど、告白のタイミングはこれで良かったのかどうか。
 ふたりはテーブルの脇に突っ立ったままで、お互い別々の方向を見据えながら、黙りこくる。端から見れば不審者である。まるで食い逃げのタイミングをうかがっている無銭飲食者のようだ。突っ立っていたのは多く見積もってもせいぜい三十秒ほどだったろうが、まるで一時間にも感じられた。長く重い、沈黙の時。──またもや相対性だよ。
 ボクはずっと、彼女が話すのを待っていた。ボクからはもう、何もアプローチできないと思ったからだ。恋愛初心者のボクに、これ以上の修羅場は無茶っスよ。キャパシティー超えてますよ。あ~さやかちゃん! あとは任せた! 何か喋って! 何か言えコンニャロオ!
 長い沈黙の時を経て、さやかちゃんがやっと言葉を発した。
「うれしい…」
 さやかちゃんの目から何か光る物が落ちた気がした。コンタクトレンズか。って、こんなシリアスな状況で何をクダラナイこと考えてるのボクはー。
「うれしいの」
 さやかちゃんはポロポロと涙を落とし始める。なんだかボクも涙ぐむ。涙ぐんだその瞬間、自分の心が澄み渡るのを自覚した。さやかちゃんの気持ちがボクの心の中に流れ込んで来るのを感じる。さやかちゃんが何を考えているのか、どうしようと思っているのか、手に取るようにわかる。ボクは先ほどまでの軟弱な態度ではなく、今度は胸いっぱいの愛を持って、どっしりと構えてさやかちゃんの次なる声を待つ。静かに、静かに。
「あたしも」
 さやかちゃんは下を向いたまま、クスンクスンと泣きながら、喉につかえた言葉を抜き出そうと懸命なようだった。彼女の口から現れるギフト。それは──短いけど、大事な、言葉。
「あたしも、立石くんのこと」
 うん。
「立石くんのこと」
 早く言えよボケ。
「好きだよ」
 うんーっ! 生きてて良かったー!
 この言葉を受け取ったボクは、さっきよりも強く、そしてさっきよりも優しく、彼女を抱擁してやるのだった。
 アインシュタインは「世界が理解可能だという事実は、ひとつの奇跡だ」という言葉を遺した。なるほど。途方もなく広い宇宙がどういう仕組みで成り立っているのか、博士は解明してしまった。無限大に近い空間の秘密をちっぽけな人間が解き明かしてしまったのだ。間違いなくひとつの奇跡だろう。
 ボクはまた「人が人を理解できるのは奇跡だ」とも思う。境遇や生い立ちのまるで違うふたりがお互いを理解し合う。それは何てステキな事なんだろう。相手の気持ちが解る。相手の立場になって物事を考える事が出来る。心がぴったりと同化する。それは何てステキな事なんだろう。
 「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」という箴言がある。確かにそれは真理だろう。しかしボクはこう考える。愛とは、対象を理解してあげる行為だ。深く理解すること、それは深く愛すること。
 恋愛は、相互理解だ。



【第九回~第十一回講義】
 第九回から第十一回の授業は量子論を講義した。らしい。「らしい」というのは、ボクたちは仲良く授業をサボったからだ。校門で待ち合わせをし、二限目が終わった時点で下校してデートに出かけた。四限目は自主休講(サボリ)にした。
 デートはショッピングと食事が中心だった。洋服を選ぶさやかちゃんに同伴して二十軒近いショップを回った。下着屋にも連れ込まれた。待たされるのは愉快ではなかったが、一緒に居てはしゃいだり笑い合ったりするだけでボクは満足だった。自然に手もつなげるようになった。
 レストランでの抱擁から三週間。あれ以来、肉体関係に進展は無い。いまだにキスもしていない。それでも幸せだった。さやかちゃんは内心では物足りなく思っているかも知れないが、そういった不満を外見には漏らさず、いつでも楽しそうに笑っていた。このカップル、オスの方が超純情でやや頼りない感じだけど、心の底から愛し合っているに違いなかった。幸せ!
 第十二回めの授業からはちゃんと出席した。



【第十二回講義・光の速度】
 お待たせしました。基礎知識や前置きばかり話して来たけど、本日からいよいよ特殊相対論に突入だー。光と時間について扱う、特殊相対論からね。
 特殊相対論は、ふたつの原理を中心として成り立っている。「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」だ。とにかくキーワードとなってくるのは光。これね。太田光とか宇多田ヒカルとかヨード卵・光とは関係ないよ。ライトだよ、light。うん。
(ライト兄弟だね)(立石くんなら言うと思ったぁ。ちょーウケルんだけど)(とほほ…)
 この光、どういう物か正しく説明できる人はこの教室にどれくらい居るかな。高校の物理の授業で習ったと思うけどほとんどの人が忘れているはずです。だって経済学部だからね、ここ。光は特殊相対論の要となりますので、私の説明を聞いてしっかり知識を深めておきましょう。
 さて。光の速度って、どれくらいでしょう。とてつもなく速いよね。懐中電灯で壁を照らすと、一瞬で光は伝わる。もしかして無限かな。
 みなさんはそれでも大学生なんだから、一般常識でわかるよね。光の速さは無限ではありません。秒速三十万キロメートルです。一秒でなんと地球を七周半。かの冒険小説『八十日間世界一周』の五一八四万倍のスピードです。フィリアス・フォグ氏が豪華客船や汽車などを乗り継いで頑張っている間に光は五一八四万回も地球を回ってしまうのです。すごく速いですね。フォグ氏惨敗。大惨敗。一回死んで詫びて来いってくらいのボロ負け。
(何の話?)(小説だよ。八十日間で世界を一周できるか挑戦する話。映画で観た事あるよ。日本なんかも出てくるんだぜ)(へ~今度みてみたいなぁ)(よし、一緒に観ようっ!)
 ん。ぴったり三十万キロなのかって? いや、正確には違います。二十九万九七九二・四五八キロメートルです。でもほとんど三十万キロ。すっきりまとまっていて良かった。これが二十二万三六〇六・七九キロメートルとかだったら覚えるのが大変でした。人間が定めた単位に、たまたま光の速度が合ってくれた、と。光に感謝しなきゃね!
 ただし式を立てる時いちいち三十万で計算するのは大変。三十万っていうのはおおよその値だし、より精密に計算しようと思ったらもっと面倒。ふざけんな。そこで、円周率「π」と同じように、光速度を表す便利な記号があります。小文字で「c」と書きます。コピーライト・著作権の略じゃないですよ。ラテン語「celeritas(速度・素早さ)」の頭文字です。
 光の速度に関しては、三十万キロメートルと覚えておいていただければそれで結構。正しい数値とかceleritasとかは覚えなくてよろしい。三十万キロメートルだけテストに出します。
 あらあら。テストに出すって言った瞬間、起き上がる学生の多いこと多いこと(笑)。いいよいいよ、寝てても。経済学には関係の無い授業なんだから。



【第十三回講義・見える電磁波】
 ところで光って、なんだ。物体か。この世界で一番速いのはカール・ルイス親分と相場が決まっているけど、彼よりも速いって事は物質じゃないんじゃない? どうなの。
 大昔から光の正体に関する議論は盛んでした。主に「粒子説」と「波動説」が対立していたんです。
 あのニュートンは粒子説を主張していたのね。光は直進するし、物に反射したりするから。水面に波紋を立てる実験、覚えてる? あれ、波は円形に広がったよね。それに、水中についたてを立てても波は透過したよね。覚えてないかな。
 一方の波動説の主張はこうです。光線と光線を交差させても光は衝突しないじゃないか。もしも光が粒子だったらぶつかって何か変化が起きるはずだ。だから粒子なんかじゃない。波だ。と。
 この議論はマクスウェルによって終止符が打たれます。マクスウェル先生、重要な人物ですので覚えて置いて下さいね。彼は電気や磁気の様々な法則を一本化し、電磁気学を確立します。
 この電磁気学はあらゆる発見をもたらしましたが、その中で最高の成果が「電磁波」の発見です。この発見によって「光は見える電磁波である」という結論が導き出されました。そう、電磁波なのです。光っていうのは電磁波の一種なのです。電場と磁場が振動して生じる波なのです。
 電磁波はγ線・X線・紫外線・可視光線・赤外線・電波の総称です。これ、メモして置いて下さい。波長や振動数が違うだけでみんな同じ電磁波です。γ線から電波まで、波長の短い順に並べてみました。
 この電磁波、すごいやつでして、伝播するのに媒質が必要ないんです。
(デンパってなあに?)(伝わるって事だろうね)(そっかぁ。やっぱり立石くんはおりこうさんだね)(へへへ)(じゃあ、バイシツってなあに?)(それは…媒体の物質…メディアだね)(メディア?)(そう、メディア…)(知らないんだね)
 おっと失礼。媒質っていうのは波や振動が伝わる物質の事だよ。普通、波といえば、水や空気やヒモなどの媒質がなければ伝わらないでしょ。真空中では人は会話は出来ない。OK?
 しかし光は波のくせに媒質を必要としない。空気も何も無い真空の宇宙空間を秒速三十万キロメートルで突き進むのです。すごいやろ。
 そのからくりですが、まずビビッと電場が振動して波が進むでしょ。そうすっと、進んだ電場に磁場が遅ればせながら伝わります。で、今度は磁場がビビッと振動して電場より先に進む。一歩リード。そしたら今度は磁場に電場が乗っかる。その繰り返し。
(よくわからない。どーゆーこと?)(ボクの人指し指をよく見て。左手が電場で、右手が磁場だとするね。この指で電磁波の動きを表現すると)(お、おーおーおー)(こういうわけ。左指に右指が乗り、右指に左指が乗り…。こうして順々に移動していく。電磁波は電磁波自身の体を媒質にして伝わっていく。だから真空でも進めるんだ)(なるほど。ところでバイシツってなあに?)(え…)
 ようわからんだろうけど、それくらい複雑な動きをしているわけ。こんな複雑な動きをしているのにあんなに速いわけ。ほとんどバケモノだよね、電磁波は。
 それからですね、どの電磁波も速度は一緒です。X線も赤外線も等しく時速三十万キロメートル。この速度は[波長×振動数]で決まります。波長の短いγ線はとてつもない回数振動しますし、波長の長い電波はゆっくりと振動します。γ線の動きを声に出して表すならば…タンタンタンタンタン! 電波は、ターーーンターーーン。こんな感じでしょうか。



【第十四回講義・光量子仮説】
 そんなわけで、光の正体は粒子ではなく波動であるって事が決定的になりましたが、これを訂正してしまう人が現れます。そう、アインシュタインです。
 ここで問題です。アインシュタインはノーベル賞を受賞しているでしょうか。どうなの。え、どうなのおい。受賞したのしてないの、どっちなの。わかる人ー? はーい。じゃあ、坂本くん。
 はい、受賞してます。受賞して当然すぎますよね、この人は。一九二一年ノーベル物理学賞受賞です。では受賞の理由は何でしょうか。特殊相対論? 一般相対論? 違うんだな。途方もなく大きい宇宙・その秘密を解き明かしたアインシュタインですが、途方もなく小さいミクロの世界・量子力学の分野でも偉大な業績を残しました。賞を授与されたのは光量子仮説。光電効果の解明です。
 これは相対性理論の授業だから量子力学については詳しく突っ込まないけれど、簡単に言えばそれは分子や原子よりもさらに小さい世界。小さな、小さな、顕微鏡でも観察できないくらいの極小の世界。そこには大宇宙と同じような複雑さの小宇宙が存在しております。大宇宙が無限大に近い大きさの世界だとすると、小宇宙の世界は無限小の小ささに近い世界だと言えます。
(原子ってなあに?)(サザンの原由子とは関係ないし、伝説の女優原節子とも違うよ。ゲンシって読むんだ。かといって光GENJIとは何の因果も無いから用心してね)(そうなんだ。ためになる~)(物って、どんなに硬くても頑張れば細かく出来るじゃん。木は砕く事が出来るし、鉄は溶かせるし、豚はコマ切れに出来る。水は水滴になったり蒸発したり…)(うんうん。わかるわかる)(でもさ、これ以上小さく分けられない限界ってもんがあるのさ。それが分子とか原子。肉眼では見えない粒の事だよ)(分子と原子の違いは?)(分子は原子の集まりです。例を挙げると水の分子は水素原子ふたつに酸素原子ひとつです)(ふむふむ)(原子とは、いわゆる「元素」です。炭素とか窒素とか硫黄とかマグネシウムとかアインスタイニウムとか)(うーん)(CとかLとかOとかのアルファベットが並べられた「元素周期表」を目にした記憶は無いかな)(記憶にありません)(そ、そっか)
 「量子」っていうのは原子を構成する要素の事です。原子の中心部にある「陽子」や、その周りを回る「電子」など。これが量子です。
(陽子と電子って…)(そんな不安そうな顔をしないでよ(かわいいなぁ)。俺にもよくわからない。ただ、俺に言える事は、南野陽子とか、東京電力のでんこちゃんとは別物だろうって事だけだ)
 原子の要素って事は、原子よりさらに小さいんです。ぜんぜん小さいんです。どうですか。わかりますかね。イメージが沸きにくい人には、ちょっと大げさなたとえを。太陽系を原子とします。ちょっと無理のある話ですが、太陽系全体=原子一個だと思って下さい。そうすると、「太陽=陽子」「惑星=電子」です。陽子を中心にして電子が回っている、と。そういう動きが、ほんとにもうイヤになるくらいミクロな世界で行なわれているのです。
 アインシュタインは光を「量子の集合」としてとらえました。光の量子、つまり「光子」がいっぱい束になっているのだろうと仮定したのです。
(今度は森光子?)(先回りしてギャグを言われちゃったね)(うふふ)(分子・原子・量子・陽子・電子・光子。いっぺんに出てくると何が何やら。ややこしいね)(簡単に説明して下さいっ)(うーん。ちょっとやってみよう。うまい比喩が思い付くかな)(がんばって!)(がんばっちゃう! 陽子・電子・光子は芸能人。みんなから「量子」と呼ばれている)(量子=タレントなんですね)(そう。で、量子たちはアイドルグループ「原子」の一員)(ほほぅ。陽子ちゃんがリーダーで、電子ちゃんがバックダンサーだったりするのかな)(そ、そうかも知れない。そして、アイドルグループ「原子」は芸能プロダクション「分子」に所属している)(なあるほど。タレント数名がグループを結成してて、そういうグループが何組かあって、同じ事務所で働いてる。こういう事だね)(そういうこと。どうだ!)(わかった!)
 おびただしい数の光子から、光は出来ている。これが世に名高い「光量子仮説」であります。誤りだと思われた粒子説が、ここで一気に復権したのです。
 しかしね、粒子説が復権したからと言ってね、波動説が否定される訳じゃあないんですよ。光は波状。これは本当。アインシュタインは波動説と共に、光子の存在も認めたのです。相反する理論だと思われていた「粒子説」と「波動説」の融合。つまり、光とは無数の光子の束が波打っている状態であると看破したのであります。
 アインシュタインが光量子仮説を発想したのは単なる思いつきではありません。「光電効果」という現象を正しく説明するために提唱された仮説です。なるべく簡単な言葉で説明しますが、ちょっと難しいので気合いを入れて置いて下さい。



【第十五回講義・光電効果】
 光電効果とは何か。それは、金属に光を当てた時に観察される現象のこと。金属の表面を光で照らすとですね、金属の中の電子が光のエネルギーに押し出されてポンポン飛び出すのです。これが光電効果です。たとえるなら、上空からの風が砂地に吹き下ろすイメージかな。風が地面に衝突すると砂が舞い上がるでしょ。あれと似たような動きですね。
 この現象にはひとつの謎がありました。紫外線なら光電効果が起きるのに赤外線では光電効果が起きなかったのです。紫外線を照射すると,たとえその光が微量であっても電子は飛び出しましたが、しかし赤外線を浴びせる時は,それが多量の光であっても,長時間だとしても,決して電子は飛び出さなかったのです。なぜ赤外線では光電効果が起きないのか。これは長年原因不明とされていました。
 学者たちは首をかしげました。「光は波動であーる。波っていうのはウネウネ連続するゆえ、エネルギーは途切れる事なく続いているのであーる。だから、紫外線だろうが赤外線だろうが,時間さえかければ電子を吹っ飛ばすほどのエネルギーが蓄積していくはずなのであーる。しかるに、赤外線ではどんなに時間をかけても光電効果は起きない。なんでだチクショーッ!」
(ふしぎだね。なんでだろ。紫外線はお肌の大敵だからかな)(俺に言える事はただひとつ。お肌は関係ないだろうね)
 そこに登場したのがお待たせしましたまたもやアインシュタイン博士。彼は光量子仮説を唱えました。光を、波のような連続的エネルギーではなく、つぶつぶの離散的エネルギーとして捉えたのです。今聞けば「へー」って感じの発想ですが、発表当時は否定されまくりでした。斬新すぎて、みんな理解できなかったのです。相対性理論以上に突拍子も無い考え方だったのです。
 しかし光を「光子」の集合体と規定した事で、光電効果の謎が一気に解決されました。──また例え話を引っ張り出しますよ。従来の学説では、光はまるで風のような連続的エネルギーだと思われていました。だけどアインシュタインは反論します。光を雪や雹のような物だと主張したのです。
(ヒョウってなあに?)(氷のかたまりだよ。珍しい現象で、めったに降る事はないけど)
 光電効果の起こる起こらないはエネルギーの大きさによって確定していたのです。紫外線は振動数が高く、したがってエネルギーが大きい。雹みたいな存在。一方、赤外線は振動数が低く、よってエネルギーが小さい。雪みたいな存在。この差です。雹は小粒でも地面に突き刺さる時に砂が舞い上がります。雪はいくら広範囲に積もってもどれだけ長時間降ったとしても、砂を動かす事は出来ませんね。そういう事です。わかりますか。
 もっとわかりやすく、身近な「光電効果」を例にとって話しましょうか。日焼け、あれも光電効果の変種なのですよ。紫外線による光化学作用で皮膚の細胞が変色するのです。太陽の中に含まれる紫外線、そのエネルギーが強いから起こる現象ですね。
(そういえば日焼けサロンのライトも紫外線だな)(あっ、そうだよね。紫色してるよー。なにさなにさ、お肌関係あったんじゃん)(ご、ごめん!)
 エネルギーの弱い赤外線では日焼けは出来ません。日焼け、つまり光電効果は起きまっしぇーん。赤外線ストーブを超高温にしても長時間浴びても肌は黒くならないでしょ。焼けるかも知れないけど。あれは光のエネルギーが弱いからなのです。電子を弾き出すほどの勢いで光子がぶつかって来ないんですわ。
 余談となりますが、紫外線にも「UVA」と「UVB」と呼ばれる波長の違いがあります。UVAならば問題なく健康な日焼けが出来ますが、波長の短いUVBだとヤケドしたり皮膚ガンを招いたりします。さらにまた、紫外線よりも強力なX線やγ線を身体に浴びると日焼けなんてレベルじゃなくもはや被曝。何ごともほどほどにって事だね。
 それから、デジカメや、星の光が肉眼で瞬時に見えるのも光電効果なんだけど、これは端折ります。キーワードだけ触れておくと、「波動」ではなく「光量子」です。「じんわりと波及」ではなく「トントンぶつかる」だぜ。興味があれば調べるといいよ。テストには出さないけどね。
 どうでしょうか。これまで講義した光の特徴をまとめると次の通りです。
・速度は三十万キロメートル弱
・我々が普段目にしている光は電磁波の一種
・無数の光子が波打っている状態
 以上の性質をしっかり覚え、後期から始まる特殊相対論に備えて下さい。
 これにて前期の授業は終了です。おつかれさまでした。みなさんは夏休みに突入ですね。うらやましいこって。暇な時間がタップリ設けられるんだもん、どっか遠出すんのかな。空気の澄んだ土地に旅行する人は満天の星空を眺める機会もあることでしょう。いいなぁ。私なんて研究会や論文執筆に大忙しだよ。
 最後に、素敵な話をしましょうか。
 「光年」という単位がある。みなさんはそれでも大学生ですが、中には何人か容姿相応に、この単位が何なのか知らない人、いるんじゃないでしょうか。これ、距離です。時間の単位じゃないよ。
(へ~。立石くん、知ってた?)(しっ、知ってたよ)
 「年」だからって、まどわされないように。一光年とは、光が一年で進む距離・約十兆キロメートルを表します。よく、「あの星は地球から1万光年離れている」という言い方をしますね。聞いた事があるでしょう。一万×十兆って事は、──えーと、四たす十三か──十の十七乗。ゼロが十七個ついちゃう。数詞で言えば、十万兆は、うーん、十京キロメートルか。すさまじい距離だよね。何せ、光の速さで走っても着くのに一万年も掛かっちゃうんですから。
 それからね、とてつもないのは距離だけじゃない。一万光年って事は、その星から地球に光が届くまでに一万年経っているって事ですよ。あなたの目は一万年前に照射された光を見ているってわけ。もしかしたらその星は、遠く一〇〇,〇〇〇,〇〇〇,〇〇〇,〇〇〇,〇〇〇キロメートル離れた場所で今ごろ爆発しているのかも知れない。本当は五千年くらい前に消滅しているのかも知れない。私たちが見ている光は、星の遺した幻のような残滓なのかも知れない。そう考えると、神秘的じゃないですか。
 この夏、星を観賞するチャンスがあったら、今話した事をぜひ思い出してみて下さい。きっと「きれい」の一言では済まない、高潔な感覚に見舞われると思います。それではごきげんよう。



 その日ボクと彼女は居酒屋で食事をした。イヤになるくらい楽しい時を過ごしてから店を出ると、さやかちゃんがふと空を見上げる。
「一番星、見ぃつけたぁ」
 見れば都会の汚い夜空にかすかに光る点ポチが。
「今あたしたちが見てるあの光は、何万年も前の光なんだよね」
「そうだよ。ボクたちには絶対に行く事の出来ない場所、絶対に行く事の出来ない過去。遙か彼方の世界から届いた光だ」
「いつも何気なく見てる星の光だけど、こうして考えるとトッテモ哲学的…。壮大だね。宇宙って、おっきいね!」
 空に向けていた顔をボクの方に向け、にんまりと笑うさやかちゃん。ボクもニッコリと笑った。そうして、二人してウットリと夜空を見上げる。二人して同じ星を見つめる。
「見て。なんか点滅してる。ロマンチック」
 よく見ると飛行機のライトだった。

 夏休みが始まるとボクは実家に帰省した。さやかちゃんとは携帯電話のメールで連絡を取り合った。
 さやかちゃんからは「おはよ。起きた?」「今テレビで温泉の特集観てる。いつか旅行したいね」「今日もバイト。えーん、ヤダよぉ(泣)」「ちゅみーん。なんとなくメールしてみたのだ」など、可愛らしいメールが毎時間のように届く。何げないやり取りでも嬉しい。「おやすみー♪ だいすきだよ☆」なんてメールが届いた日にゃ、鼻の下を伸ばしてニヤけている。こんな顔を他人に観られたら通報される。人知れず、デレデレした変態顔でのろけている。
 しかしメールは保存せず、届いたらすぐに削除している。こちらから送信したメールも同様だ。一生の宝物と成り得るラヴレターなのに、読んだら即座に消している。
 ボクだって好きで削除しているわけじゃない。消すのは惜しい。もったいない。「メールを一件削除しますか?」の表示が出るたんびに胸が締め付けられる想いだ。そのメールに「だいすきだよ☆」なんて書かれていたら尚更だ。
 でも、消さなければいけない。愛が込められた大切なメールほど捨てなければいけない。なぜならお母さんによる抜き打ちチェックが実施されるからだ。ボクが女の子と付き合ってる事は決してバレてはいけない。昨日だって「悪い女の子にだまされたりなんかしてないでしょうね」と釘を刺してきた。息子の微妙な変化に気が付いてる様子でもあった。ボクが女の子と恋愛をしている事、しかもさやかちゃんのようなギャルと愛し合っている事は、お母さんには絶対に知られてはいけない。だからさやかちゃんから届いたメールはこまめに消さなければいけない。本当は消したくない。だけど、お母さんには逆らえない…。まるでボクは浮気発覚を恐れてビクビクしているダンナみたいだ。ふがいない。情けない。だけど、しょうがない。
 夏休みも終わり近くなった頃、ボクは両親に対するうやうやしい別れのあいさつを済ませ、携帯電話を握り締めて故郷を後にした。メールフォルダが空っぽの、ケータイ。本当はラヴいっぱいのメールが詰まっているはずだったのに。お母さんに没収されたに等しい。
 一生お母さんの言いなりにはなりたくない。いつか自分の意志を押し通し、さやかちゃんとの交際も認めてもらいたい。と、頭ではそう思っていても、なかなか行動に移せない。いつでも卑屈に服従してしまう。ボクは…ボクはダメな男だ。
 上京したその日に早速さやかちゃんとデートした。ボクの姿を見るなり「ニパッ」と笑い、シッポを振る子犬のようにじゃれついてくる。彼女は少し日焼けしたようだった。友だちと海に出かけたらしい。友だちって、男じゃないだろうね。聞かないけどさ。
 相変わらず可愛い。端整な顔立ちにバッチリ決まったメイク。スタイル抜群、ファッションセンスも一流モデルばり。街を歩けば大抵の男が振り向く。どうしてきみのような美女がボクみたいなチンチクリンの恋人なのだろう。つくづく、身に余る幸福におびえる。もしかしてこの不相応の好待遇はとてつもない絶望への事前準備なのではないかとさえ思える。「絶頂まで持ち上げるだけ持ち上げて置いて、あとで一気にドン底へ叩き落としてやる。」神の悪意を感じてしまう。ボクは、幸せすぎて怖い。神から天罰が下される日の到来が、恐ろしい。ああっ、神よ、罪深きボクを許したまえ!
 でもまあ、神様なんてこの際どうでもいいや、今が良ければ。ボクたちはひさしぶりのデートを楽しんだ。クレープを食べ、CD屋に立ち寄り、ゲームセンターで騒ぐ。すれ違う男たちは皆一様にボクとさやかちゃんを見比べ、不審そうに眉をひそめる。遠慮なく首をひねる男や、「マジかよ!」なんて素っ頓狂な声を出して憚らないバカも居る。
 どこへ行ったってさやかちゃんは目立つ。野郎どもの視線を一身に集める。後光が差してるは言い過ぎかも知れないけれど、オーラは出ている。まぶしい。魅力という名の見えない光が放出されている。彼女の身体から発散されるフェロモンの横溢は、ボクにとって多少心配の種でもあり、また、誇らしくもあった。ボクは意味もなく目尻を垂らし、ヤニ下がった表情で彼女と街を練り歩く。彼女もボクの薄気味悪い笑顔に合わせてニヤニヤしている。この時は、まさか次の場面で自分の笑顔が凍り付くなんて、思いもしなかった。
 洋服屋に立ち寄った際、彼女はふとこんな事を言った。それは実際、何げない言葉だったに違いない。
「立石くんからもらったメール、全部保存してあるよ。でももうすぐメモリーいっぱい。ケータイ代えよっかな。で、今使ってるケータイはメール保存用にするの。あは」
 その言葉を聞いたボクは色を失った。心に拭いがたい罪悪感が影を落とす。
「どした? ウンコしたくなった?」
 笑顔の消えたボクに無邪気な態度で問いかけてくるさやかちゃん。心苦しくて、たまらなかった。



【講義第十六回・光速度不変】
 オッスおひさしぶり。楽しい夏休みは過ごせたかな。ん、どうかな。どうだった。どっか出かけた? どう。ああ、そう。そうなんだ。ヒマだったんだ。そっか。ま、いずれにせよ、授業が無かったのは嬉しかったんじゃないかな。ね。…グハハざまあみろ、楽しかったのは先週までで終わりだ。今日から特殊相対論の講義に突入するからな。厳しいぞ。気合い入れておかないとチンプンカンプンになるぞ。理解できない人はどんなに頑張ってもついに理解できないだろうよ。ざまあみろ。
(こわいよぅ…)(だいじょうぶ。安心して。俺がついてるよ)(みゃーん♪ 立石くん頼もちぃ)(エッヘン! 立石くんの、力持ちぃ!)
 おいそこ。うしろのふたり。ちょっとうるさいぞ。
(わ…)(コホン…)
 まずはじめに。特殊相対論の大前提、覚えてますか。ふたつありますよってな感じで話したと思うんだけど。ひとつは「特殊相対性原理」です。じゃあもうひとつは? 「光速度不変の原理」です。これは本当に基本中の基本。ちょっと難解だけど、相対性理論の根幹を成す大前提だから頑張って理解しよう。
 十六歳のアインシュタインは、ある日ふと疑問に感じました。
「時速五十キロメートルで走行中の車を、時速五十キロメートルで併走する車から見ると、止まって見える。じゃあ、光を光の速さから観察したらどう見えるんだ?」
 彼は十年間この疑問に悩み続け、奇跡の年・一九〇五年に直感しました。「どのような状況でも光の速度は変わらない。常に一定だ。光の速度で光と競走しても、光は変わらず秒速約三十万キロメートル。ゼロにはならない」と。
 これは「基本原理」です。「A=B なら A+C=B+C」「全ての直角は等しい角度である」みたいなお約束で、これ以上は証明できないのです。人間が光の速度で移動して光の動きを観察するのは物理的に不可能ですからね。
 座った状態で光を見ると秒速約三十万キロメートル。音速飛行機で追いかけても光は秒速約三十万キロメートル。秒速約三十万キロメートルのロケットで並んでも光はあいかわらず秒速約三十万キロメートル…。受け入れにくい法則かも知れません。しかし丸暗記して下さい。光だけは例外なのだ、と。この原理によって、数々の実りある結論が導き出されるのですからコンチクショー。
 この原理を説明する時、必ずと言って良いほど引き合いに出されるのが列車を用いた思考実験です。「思考実験」とは、実際に実験したり観測したりせず、頭の中で色々考えて実験結果を導き出す行為のことです。そこの窓際の男子学生を鈍器で殴ったらどうなるだろう? どんな結果になるのか非常に興味をそそられますよね。でも、実際にチャレンジしちゃったら私はムショ行き確定です。だからシミュレーションにとどめるのです。あー、このくらいの強さで殴ったら頭蓋骨がカチ割れるな…。これが思考実験のスタイルです。
 な、なんだその目は。きさまら。殺人鬼を見るような目で私をさげずみやがって。ジョークだよジョーク。本当にそんな想像するかよー? まったくもう。失礼なこっちゃ。ね。けしからん。うん。あの。ごめん。教育委員会には言わないでね。
 この列車を用いた思考実験──便宜上「ドキドキ! 電車ドボチテ大作戦」とでも名付けておきましょうか。いくつか前準備がありますので私と一緒にセッティングしていきましょう。
 用意するのは[まっすぐな線路][一両編成の列車][ステキな異性][大きめの懐中電灯二本]です。はい、用意して下さいよー。頭の中に思いえがいて下さいよぉ。想像するだけなら金は掛からないからね。
 [ステキな異性]が用意できなければ[人間」で代用してもいいですよ。とにかく人を雇えれば問題ない。好きなプロレスラーでもいいですし、上方落語の師匠でも構いません。誰を立てても実験結果に影響はございません。わざわざ異性を指定したのはですね、あのですね、この実験をきっかけに恋なんぞ芽生えたらなんかステキじゃないですか。坂本先生のイキなはからいです。
(じゃああたしは立石くんにしよっと)(お、俺は、さ、さやかちゃんにすすするぜ!)(すする?)(するぜ!)
 いいですか。実験に必要な器具の準備は整いましたか。それではいよいよ思考実験が始まります。ここからはみなさんの想像力に掛かっていますよー。
 今みなさんの頭の中はからっぽでしょう。──別に悪い意味じゃないぜ。何か考え込んでいる人はまっさらな状態にリセットしてな。「宝クジ当たるかな」とか「巨人の星の続きが気になる」とか、「前に座ってる娘のパンツ何色だろ」とかそういう雑念は捨てて真っ白にして下さいね。
(あー。あばばばば)(放心しすぎだよ)
 まず、鉄道を敷設します。画面の左から右まで、直線を伸ばして下さい。この直線が線路です。横から見た景色ね。
 次に、その線の上に列車を載せて下さい。この列車は左から右に進みますので、画面左端に配置しましょう。
 出来ましたか。出来たら今度は列車の中に実験器具をセットします。まず、ステキな異性を列車のちょうど中央に立たせ,顔をこちらに向かせます。プロレスラーを連れて来た人はジャンボ鶴田を、上方落語の師匠を招聘した人は笑福亭松鶴を乗せて下さい。ちょうど真ん中ですよ。距離を間違えないよう慎重に。立ち位置がズレると実験に支障をきたしますので細心の注意を払って下さいね。出来ましたか。あれあれ、そっぽを向かせちゃダメですよ。顔が正面となるように立たせて下さい。そう。よろしい。
(立石くんこっち向いて。向いてってば)(え。何? ああ、車内の様子を想像してるんだね。さやかちゃんの頭の中の俺、わがまま勝手なの?)(ねえ。ねえってば。そう。そうだよ。カッコイイよ。あん…)(どんな想像してるわけ!?)
 そうしましたら大きめの懐中電灯二本を列車の最後部と最前部にそれぞれセットします。便宜のために、最後部・向かって左側の電灯は「暁」、最前部・向かって右側の電灯は「魁」と命名しましょう。照射部が人間を挟むように取り付けます。暁は右側を向くように。魁は左側を向く向くように。ステキな異性の目の高さ──あるいは鶴田・松鶴の目の高さに設置します。そしてこの懐中電灯には私の配る装置を取り付けて下さい。スイッチを入れるセンサーです。
 これで準備が整いました。実験それ自体は簡単。すぐに済みます。
 列車を左から右に一定速度で走らせます。段々と加速させるんじゃなく、いきなり時速六十キロメートルで以後ずっとキープね。で、車内の異性の位置があなたの立ち位置まで来たら、センサーが反応して懐中電灯の電源が入る。異性の左目右目両方に光がピカッ。これで実験終了。あとは実験結果を観察するだけです。どや、簡単やろ。
 わかったかな? ステキな異性とあなたの目と目が合った瞬間、光が灯るんだ。ロマンチックでしょ。獲物を見つけた瞬間ジャンボ鶴田の眼が鋭く光るっていうシチュエーションもワクワクするだろうね。師匠がライトアップされる場面も見ものだよな。
 さー、準備は面倒くさかったけど実験それ自体はあっけなく完了。車内の人間と、外から列車の内部を覗くあなた。二人には光がどんな風に見えたのかな。考察して行きましょう。
 まずは車内の実験結果から。車内に居た異性・もしくは鶴ちゃんたちには、光はどんな風に見えたのか。結論から言おう。左右から迫り来る光は同時に届きます。同じタイミングで両方の目に入ります。
 列車本体は時速六十キロメートルで右方向に移動しています。「等速直線運動」っていうんだけどね、一定の速度で走行しています。でも、車内ではステキな異性も光源も立ち歩いていません。静止状態です。だから、光が異性の目を同時に射抜くのは必定。そうだろう。「ドキドキ! 電車ドボチテ大作戦」において、車内では、光は同時に届くように見えるのです。
(ブッ!)(どうしたの?)(不意を突かれた。実験名称なんかすっかり忘れてたぜ…)(において? 臭いて?)(いや、笑い所はそこじゃないよ)
 それじゃー、次は車外から観測した様子だぞっ。車外に居たあなたには、光はどんな風に見えたのかな。これが光じゃなくてボールだったら、異性の顔を同時にストライクして見えるんだろうけど。
 光の場合はどうか。結論から言おう。魁から出した光の方が、暁から撃った光より速く異性に届きます。列車が前に進む分、進行方向から放射される光の方が先に到達するからです。暁の光は、時速六十キロメートルで右側に進んでいくステキな異性のあとを追う形になるので遅れます。「ドキドキ! 電車ドボチテ大作戦」において、車外では、光はズレて届くように見えるのです。
(今度は噴き出さなかった)(やったね)
 あれあれ。列車の中と外とで、実験結果が異なっちゃったぞ。どうなってんだこりゃ。そうです。これこそ相対性です。
 車内中央に立っていたステキな異性は「光は同時に自分の顔を照らした」と言います。「まぶしかった」と言います。「視力が落ちた。治療代を払え」とも言います。しかし外でボケていたあなたから見ると,魁の光の方が先に異性の顔に届いたように見えました。どちらかが間違ってるわけではありません。車内の人間には同時に光が見え、車外の人間には魁の光が先に届いて見えたのです。
 どうしてこのような差が生じたのでしょう。ハイ、これは「光速度不変の原理」にのっとって思考実験を行なったからです。光の速度は常にc(=秒速約三十万キロメートル)と決まっていて、これ以上速くなったり遅くなったりはしません。たとえば…。光速で航行する宇宙戦艦が、艦のへさきから波動砲を撃ったら、秒速六十万キロメートルの光が飛び出すのでしょうか。どうでしょう。そんなわけありませんね。有り得ません。光は全宇宙で最も速い。光の速度を超えるのは、光と光が協力しても無理です。琴光喜と伊集院光が強力タッグを組んだとしたって不可能です。光の速度はいつも秒速三十万キロメートル。頭に叩き込んでおいて下さい。
 魁の光も暁の光も同じ速度です。しかし、列車が魁の方向に進む分、魁の方が有利になります。ステキな異性が暁の方向から離れる分、暁は不利になります。もし同時に届くように細工するならば、暁からの光には列車の速度を足し、魁からの光には列車の速度を引かなければなりません。つまり、暁と魁はそれぞれ[cプラス時速六十キロメートル]と[cマイナス時速六十キロメートル]のスピードにしなければ成り立たない道理です。
(むつかしいよ…)(うーん。確かに難しいね。これが光じゃなくてボールを投げる実験だったら、どの場所から観察しても同時にデッドボールなんだろうけど。光だけは通常の運動法則が成り立たないって事じゃないかな。物理学の、唯一の例外。光だけは特別な存在なんだよ、きっと。どう、わかったかな。今の説明で納得できた?)(ZZZ…)(ね、寝てる!)
 アインシュタインが登場する以前はニュートン力学が世界認識の指標となっていました。ニュートン力学は絶対空間と絶対時間を基準にしていました。前期の授業で話したよね、絶対空間。「空間は変わらないのだ、絶対なのだ。空間の中にある物質が変化するのだ」って。絶対時間っていうのは、一秒は一秒であり、人によって〇・九秒になったり一・一秒になったりはしないぞーっていう事です。ニュートン力学の立場でこの「ドキドキ! 電車ドボチテ大作戦」を思考すると、光は列車の外から観測しても同時に異性を照らすはずでした。つまり、暁と魁はそれぞれ(cプラス時速六十キロメートルと(cマイナス時速六十キロメートル)のスピードになるはずでした。ニュートン力学の「絶対空間」では、光の速度は観測者の状況によって変わるはずだったのです。
 しかしアインシュタインは「光」を絶対の基準にしました。光の速度を軸にして世界を考えたのです。こうすると、光の速度を変えるわけにはいかないから、代わりに空間や時間の方を変化させて考えなければいけなくなる。すごい話だよね。唯一絶対変わらないのは光速度だけで、空間と時間は変化するっていうんだから。
 光速度不変の原理を基準にすると、通常では考えられないような不可思議な現象が次々に導き出されます。空間はゆがみ、時間はねじれ、ありえない世界が出現します。信じがたいかも知れません。が、信じてついてきて下さい。相対性理論の描く世界観こそが、わたしたちの住む宇宙の真の姿なのですから。今日の授業はこれまでです。よく復習しておいて下さい。



 四限終了後、ボクとさやかちゃんは地下鉄を乗り継いで都営大江戸線赤羽橋駅を目指す。東京タワーの蝋人形館でダモ鈴木を拝むためだ。まだ退社時間には早いためか乗客は少ない。空席にさやかちゃんを座らせてボクは吊革に掴まった。
「ありがと」
「どういたしまして。さやかちゃん疲れてそうだしさ」
 ドアーが閉まり、電車がゆるやかに動き出した。ボクは軽くよろめく。
「今の、カンセイの法則ってやつでしょ」
「そうそう。さやかちゃんも段々と科学通になってきたね」
「立石くんのおかげだよ。でも、今日の授業は寝ちゃったな」
「かわいい寝顔だったよ」
「やーだーもー。…あたし、立石くんがいなかったら絶対ダメだった。あの授業」
「実を言うと俺も、多少しんどくなってきてる」
「立石くんにもむつかしいんだ。じゃあ、あたしなんかにわかるわけないな。もうついてけないかも」
「そんなことないよ。がんばろうよ」
「けっきょく、どんな話だったの」
「要点だけをかいつまんで話すと…」
「うん」
「光の速度は変わらない! 観測者が動いていても止まっていても」
「それで」
「それだけだよ」
「えーホントー? 超カンタンなんだけど」
「教授は回りくどいんだよね。光の速度は変わらない! 以上! って一息に言い切れば良い物を」
「じゃぁあたしも落ちこぼれずにすむんだね」
「大丈夫だいじょうぶ。光の速度は変わらないって事だけ覚えておけば」
「光の速度は、変わらない…」
 電車は次の駅に停車した。ボクは進行方向につんのめる。
「あー。またカンセイの法則だー」
「こんなにフラフラするなんて、俺も年かな」
 さやかちゃんの隣の席が空いたのでボクも腰かける。
「えへへ」
 さやかちゃんはボクの方に寄りかかってくる。あのー、あなたのFカップの巨乳がボクの腕に当たるんですが?
「こうしてピッタリくっついてると、しやわせ…」
 ボクだって幸せだよバカやろう。しかしな、そんな凶悪なモノを容赦なく押し付けられるとな、目的駅に着いても席を立てなくなるんだよ。立っちゃって。
 童貞らしい情けなさでドギマギしていると、さやかちゃんは真剣な瞳を潤ませてボクの顔を見つめて来た。至近距離。ますます興奮してしまう。居ても立ってもいられないというか、立っている。座っているけど屹立している。暴発しそうだ。
「次は、どうしてくれるの」
 彼女の濡れそぼった唇は震えているようだった。どういう意味だ。キスをせまっているのか。空いている車内とはいえ、公衆の面前で? ファーストキッスもまだのボクにそんな大胆なことできるかよぉ!
 そういえば、レストランで勢い任せに抱きしめたあの日以来、ボクたちの仲には進展が無い。こうして密着したり、手をつないで町を歩いたりはするが、キスもまだだ。女の子にしてみればボクのような甲斐性無しはじれったいだろう。ここらで思い切って一歩を進めなければ、きっとあきれられてしまうに違いない。あきられてしまうに違いない! 男らしさを見せなければならない時が来たようだ。
「さやかちゃん」
 ボクは彼女の顔を見つめる。彼女は静かに眼を閉じようとする。ボクは低い声で厳かに告げる。
「次はー、国立競技場ー。国立競技場です。お出口、左側です」
 やってしまった。照れくささから、車内アナウンスのモノマネをしてしまった。シリアスな場面で、いつもおどけてしまう。決めなければいけない勝負時に見事に外す。ボクの悪いくせだ。本当に、自分で自分を殴りたくなる。半殺しの目に遭わせたくなる。
「……」
 固まるさやかちゃん。ややあって、彼女の表情は、苦しげにゆがむ。もう取り返しは付かない。
「ぷっ…」
 泣きそうな顔のボク。
「…ぷはははは。あはは。超ウケルんだけどぉ」
 おっ、ウケタ。なんか知らないけど笑いを取ったぞ!
 電車は次の駅「国立競技場」に停車した。オシャレな男が数人乗ってきた。するとさやかちゃんはもたれかかるのをやめて普通に座り直した。ふたりの間に、ふたりにしか察する事の出来ない、微妙な空気。彼女が笑ったのは、笑ったフリだ。作り笑いだった。本当はやっぱり快く思っていなかったのだ。沈黙。
 電車が発進する時は、身体が後方に持って行かれる。さやかちゃんの言う通り慣性の法則である。静止している物体は、いつまでも静止した状態であり続けようとする。電車が急に加速するから、元の場所にとどまろうとする身体は大きく動揺する。恋の始まりも電車の発進と似たような物。愛の電車がゆっくりと輪転を始めると心は大きく動揺し、好きという気持ちは倍々に加速していく。
 電車が加速をやめ、同じ速度を維持した安定状態に入る。これは等速直線運動だ。電車自体は高速で走っているが車内は静止状態と同じ状態であり、揺れる事は無い。この状態も恋愛にたとえる事が出来る。お互いに強固な信頼関係を築き、揺らぎない幸せな生活を送る。うまく行っている証拠だ。
 電車が減速すると身体は前方に持って行かれる。これも慣性の法則。等速直線運動がブレーキの作用にさえぎられると、身体は元のままの速度を保とうとして大きく動揺する。そうして、減速を始めた電車は、やがて停止する。恋の破局だ。
 ボクだってキスはしたい。もっと言えばそれ以上の事もしたい。でも、出来ない。ボクには勇気が無い。
 電車は赤羽橋駅に着いた。この電車は止まったが、ボクとさやかちゃんの恋仲まで止まってしまうのだろうか。
 不穏な空気に居心地の悪さを感じながらボクたちは東京タワーに到着した。こんな状況でダモ鈴木を拝んでいる場合ではない。恋人たちにふさわしいロマンチックな景色を望むため特別展望台に登った。入場料クソ高い。しかし背に腹は変えられない。奮発した。
 エレベーターに乗る。加速。上から身体を押し付けられるような感覚。重力が発生しているような錯覚に陥る。これも慣性の法則か。なんて事をいちいち考えてしまうほどに、今のボクはすっかり相対性理論に毒されているようだ。そんな事を考えてる場合ではない。さやかちゃんとの危機的状況が突如として訪れているってのに。
 特別展望台は宇宙船のような内装だった。眺めは絶景。しかしさやかちゃんがはしゃぐ様子は見られない。もしかして高所恐怖症なのかな。なんちゃって。どう考えたってボクの優柔不断な態度のせいだろうが。クソッタレ。
 ボクは沈黙に耐え切れず、虚勢を張って豆知識を披露する。さやかちゃんの好きな「頭のいい人」になろうと振る舞う。
「東京タワーはただの観光地じゃないんだよ。テレビやラジオの電波が発信されてるんだ」
「ふーん」
 空っぽな中身を見せかけで覆い隠そうとする、驚くほど薄っぺらい男だ。自分でも悲しくなる。
「電波は電磁波の一種だよ。光も電磁波の一種だよね。つまり、電波は光と同じ速さなんだ」
「ふーん」
 会話が弾まない。なんだよハニー、いつもの元気はどうしたんだよ。何が君を不機嫌にさせるのか。あの時ボクが地下鉄で口づけしてあげていればもっとハッピーな気分だったのかい。君の望む物は接吻か。いや、場所とタイミングって物があるでしょーが。衆人環視の下でファーストキスするなんて、そんな大胆さはボクにはないよ。なぜならボクはヘタレ。でも、きみが真に望んでいるなら、レストランで抱きしめたように勇気を振り絞って…。ブツブツ…
 ボクの葛藤をよそに、さやかちゃんは眼下に広がる大都会を見下ろしながら、淡々とした口調で語り始めた。
「あたし、こう見えて、いっぱいいっぱい恋愛してきたんだよ」
 見りゃわかるよ。激クソかわいいもの。
「恋をするたびに、もっともっとキレイになろうって努力した」
 恋が多くて、そのたびに美しさに磨きをかけていれば、そりゃかわゆくなるわな。きみの美しさはそこに秘密が隠されていたんだね。恋は美にとって最上の栄養だ。さやかちゃん、きみはホントにかわいいよ。
「今だって、いっぱい努力してる」
 それ以上かわゆくなったら見てらんない! デレデレえへえへ。
「あたし、立石くんが好き。ホントに好き」
 ああ、ボクはなんて幸せ者なんだろう。さやかちゃん、ボクだってきみが大好きだよ。顔はもちろん、性格も、その頭の悪さもひっくるめて、全部。その大きなおっぱいだって好きだよ。
「だから…。だからもっとキレイになろうって。今でも努力してる」
 ありがとう。
「あたしバカだけど、立石くんにふさわしい女の子になろうと思って、少しでも頭良くなろうと思って…。がんばって、勉強してる」
 いや、ボクの方こそさやかちゃんいふさわしい男になるよう努力しなきゃいけないんだけどね。てへへ…。
「この気持ち、立石くんには伝わってないのかな。あたし、魅力無いのかな」
 そんなわけないよ。超魅力的だよ。ボクにはもったいないくらいだ。──ボクは彼女にその旨を真摯な態度で伝える。
「じゃあどうして。どうして何もしてくれないの」
 確かに夏休みも何も手出ししなかった。実家に帰省したので満足なデートも出来なかった。つきあって三ヶ月以上経つけど、いまだにチューのひとつもしてないっていうのはやっぱり異常だと思う。中学生じゃあるまいし。その点は認めるよ。でも、昔っから「男女七歳にして同衾せず」とかいうじゃない? キスとかそれ以上の行為はやっぱり結婚してからするのが正当じゃないかとブツブツ…
「立石くんのきもちが、わかんないよ…」
 さやかちゃんは涙ぐみ始めた。ボクは何も答えられなかった。
「あたしのこと、好きじゃないの…?」
 好きに決まってるじゃないか。どうしてそんな事を言うの。証明しよう。一発ブチューッとかませば安心してくれるんでしょ?
 ……。
 しかしそれでもボクはキスができなかった。なぜだか自分にもわからない。いっそこのまま東京タワーから飛び降りたい気持ちになった。
 長い沈黙。結局うやむやな雰囲気のままボクたちは特別展望台を下り、一階にあるレストランで夕食を喫した。蝋人形館は入場料が高かったのでダモ鈴木は見なかった。
 翌週。さやかちゃんは授業に出席しなかった。メールも途絶えた。ボクからメールは送れなかった。それはボクの性格のせいだ。



【講義第十七回・高速だと時間がのろくなる】
 はい、授業を始めますよー。先週は光速度不変の原理を講義しました。簡単におさらいしておくと「この世界で唯一絶対なのは光の速度だけだ。あとはあやふや、相対的。光速度を基準にして世界を計ると空間や時間が変形し始める」って感じです。先週お休みした人もこれでだいたい解りますかね。
 そうなんですよ。光を絶対の基準にすると、光の周辺が形を変えなくちゃいけなくなる。光を取り巻く空間や時間の方が伸び縮みしなくちゃいけなくなるんです。
 もう、手っ取り早く正解から言っちゃうぞ。あ~。止まっている人より! 動いてる人の方が! 時間の流れるのがっ! 遅いっっ!
 もう一度、ゆっくり言います。止まっている人より動いている人の方が、時間の流れるのが遅いのです。そう、遅いの。相対性なのであります。しかも、早く動けば動くほど時間の流れはどんどん遅くなります。光の速さに近づけば近づくほど時間はスローになり、光速度に追いつけば時間は止まると言われています。
 前回前々回の講義で扱った思考実験「ドキドキ! 電車ドボチテ大作戦」は覚えてるかな。欠席してたよーって人は自分の怠慢を後悔して下さい。今日はあの舞台設定をちょっとだけ変えて、新しい思考実験・題して「ワクワク? 電車ギザギザ心電図」に挑戦してみます。用意する物は前回とほぼ一緒だけど、今回は懐中電灯の設置方法がちょっと違うから気を付けてな。
 まず、電車に乗っている人──ステキな異性か鶴田か松鶴か、みなさんの好みで乗せた人に、別れを告げます。実りある実験を共にしてきたので情も移ってきているでしょうが、必要ないので途中下車してもらって下さい。さようなら~。
 邪魔者にどいてもらったら、今度は電車の内装を改造しましょう。天井と床を全て鏡張りにします。合わせ鏡の世界、下を覗けば底知れぬ深さの穴、上を覗けば限りない天。こういう車内にします。
 列車の最後部と最前部それぞれに設置してある懐中電灯を取り外し、片方は避難袋にしまって下さい。もう片方は今回は床に埋め込みます。電球が天井の方を向くよう、垂直に、正確に立てて下さい。埋め込む場所は適当で構いませんがなるべく列車中央がよろしい。それから、電球のちょうど真上に位置する天井の一地点を、便宜上「カズノコ」と命名します。
 これでセッティングは終了です。準備はよろしいですか。列車の床と天井が合わせ鏡になっていて、床には懐中電灯が垂直に刺さっている。懐中電灯の真上の天井は「カズノコ」と呼ぶ。大丈夫ですか。それでは思考実験をスタートしましょう。
 とりあえず最初は列車が停車している状態で光を出してみます。ずーっと照らすんじゃなくて、光の玉が出るように一瞬だけ光らせます。懐中電灯のスイッチをカチカチッとオンオフにして下さい。どうですか。上向きに真っ直ぐ飛んだ光はカズノコで反射し、そのまま同じ道筋を通って元の位置に戻ってくるでしょう。元の位置ってぇと懐中電灯の点灯部でございますが、点灯部がもし光を跳ね返すとしたら、光は再び天井に向けて上昇していきますね。そうしてカズノコに当たればまた床に引き返し…。床にぶつかれば天井を目指し…。永久の上下運動です。
 みなさんには光のボールがものすごい速さで床と天井を往復しているのが見えますか。スーパーボールなんてレベルじゃないね。超高速の反射反射反射反射…。あまりにも速すぎるので、よく解らない。これだと観測が出来なくて困ります。だから、一往復に二秒かかる事にしましょう。床から発射されて天井に到達するまでが一秒。天井で反射して床に戻ってくるまでが一秒。往復二秒。よろしいですか。いじわるな人は「光の速さで一秒かかる距離って事は天井高三十万キロメートルの電車なのカヨ」って思うでしょうけど、そうです。高さ三十万キロメートルの電車です。地下駐車場などでは車高制限に気を付けて下さい。
 ハイッ、停車状態では二秒で一往復しました。一往復で二秒。よろしいですね。それでは今度は列車を走らせた状態で光を出してみましょう。列車は前例通り左から右に等速直線運動させます。
 列車が止まっていようが走っていようが、点灯部から射出された光はカズノコに当たり、そのまま真っ直ぐ跳ね返って点灯部に戻ってきます。逸れたりはしません。列車がどんなに猛スピードで運行していても、光の道筋を列車の中で観測すればやっぱり単なる上下運動なのです。
 だけど、車外から観測すると話は違ってきます。「ドキドキ! 電車ドボチテ大作戦」の時と同様、相対的になります。光が天井に届くまで、一秒。この間に列車は進むわけですから、光の軌跡という物は右肩上がりになります。わかるかな。光はカズノコに到達するはずだけど、列車動いちゃうじゃん。カズノコの位置も右側に移動しちゃうじゃん。だから、光も右に流れながら上昇するってわけ。わかるかな。天井を反射して点灯部に戻ってくる時も同じです。光が点灯部に戻ってくるまで、一秒。この一秒間に点灯部も右に右に進むわけですから、それを追う光の軌道は当然右肩下がりになります。
 床から発射、天井で跳弾、床に命中、この二秒間。車外から光の動きを観測するとその道筋は二等辺三角形になります。長い時間観測すればジグザグ状になっていきます。よろしいでしょうか。
 あれあれ。停車中と走行中とでは、光の動きに違いが出たね。停車中は、上下に往復する一本線。走行中は、二等辺三角形の連続。こりゃーなんでしょう。
 上下の直線運動は往復六十万キロメートルだけど、斜めのアップダウンではそれ以上の距離になる…って、感覚的にわかりますよね。アップダウンの距離はどれくらいなのか、具体的にはピタゴラスの定理で求める事が出来ます。直角三角形の斜辺の二乗は他の直線の二乗の合計に等しいってやつ。式はa2+b2=c2。「ワクワク? 電車ギザギザ心電図」の場合は、(一秒間で列車が進んだ距離)二乗+(床から天井までの距離)二乗=(光が斜めに進む距離)二乗になります。どうです、中学生程度の数学ですけど理解できましたか。まあ、どうせあなたがたのオツムじゃチンプンカンプンでしょうから実際の計算は省きます。
 ……睡魔に襲われた人、起きなさーい。ピタゴラスっていう名前を聞いただけで逃げ出したくなった人、衝動を抑えなさーい。大丈夫、別に三平方の定理は忘れて構いませんから。要するに大事なのは、「停車中より走行中の方が光の進む距離は長くなる」って事。普通は二秒で一往復するはずなんだけど、二秒以上掛かっちゃう、と。そうです、そうなのであります。ついにたどり着いたね。冒頭でお話しした通り、止まっているより動いている方が、時間の流れるのが遅いのです。みなさんの中には「本当かよ。空想の世界だけで通用する屁理屈じゃないの」と思う人もいるでしょう。でも安心して。この理論の正確性は様々な実験で証明されています。思考実験ではなく、現実世界の実験で。高速であればあるほど時間の進むスピードはゆるやかになるんです。初めは受け入れづらいかも知れませんが、真実なのでドーンと信じちゃって下さい。
 本当に摩訶不思議な現象ですよね。光の速度が絶対的な軸になっているから、時間の方が相対的になったんです。光が「俺は絶対秒速三十万キロメートル。このスピードじゃなきゃヤダ。加速も減速もしないぞ、チキショーめ」とダダをこねるから、時間が「やれやれ…、俺が遅れればいいんだろ…」と折れた感じです。
 今日の授業はここまで。段々おかしな世界に突入して来たでしょ。理解するまでは難しそうに思える相対性理論だけど、いったん飲み込めばかなり面白くなってくるからしっかり勉強しといてね。


 終業のチャイムが鳴り、席を立とうとすると、森永がニヤニヤしながら近寄って来た。
「よ! ひさしぶり」
 ボクは無視して退室しようと思ったが、行く手をはばむように話しかけてくる。
「そんなに邪険にするなよぉ。つれないなぁ」
「次、体育の授業だから。着替えなきゃいけないから急ぐんで」
「まあ待てって。いい事を教えてやるから」
 ボクは森永を押しのけるようにして教室を出た。いちいち相手をしてられない。
「いつもおまえと授業受けてた女の子。の事なんだけど」
 ギョッとして振り返った。
「今日は珍しく一緒じゃなかったみたいだね。まあ、それも当然か」
「どういう意味だよ」
 森永は待ってましたと言わんばかりの笑顔で語を継ぐ。
「嫉妬しちゃうくらいにおまえと仲良くしてたよな。でもさ、あの子さ…。あ、これ言っちゃっていいのかなぁ」
 やに勿体ぶるヤツだ。腹立たしい。さやかちゃんがどうしたってんだよ。
「なんだよ。早く言えよ」
「男がいるぜ」
 ガビーン。何だか、よく理解できない。いつもなら本能的にグーで殴ってる所だけど、頭が真っ白けになって成せず。どゆこと?
「おまえ、あの子の事、好き?」
 好きに決まってるだろ。おまえには教えないけど。
「でもさ、あきらめた方がいいぜ。カレシがいるから」
 何を言ってるんだ、てめぇ。さやかちゃんと付き合ってる男はこのボクだぞ。ボクがさやかちゃんのカレシだっ。
「角田っていう男とデキてる」
 魂が脳天からスポーンと飛び抜けて行った。ボクは二股を掛けられていたって事か。なんてこった、さやかちゃんは浮気をしていたのか。それとも、浮気相手がこのボク? いずれにせよ、これは由々しき事態ですぞ!
「角田ってのは、どんなヤツだ」
「この授業では見かけない。でも、かなり目立つヤツだよ。男前でさ、赤いメッシュの入った長髪って言えばわかるか」
 あいつか! 水曜二限、株式の授業で見かけた事がある。あの野郎、角田っていう名前なのか。クソッ、顔じゃ到底かなわねぇ…!
 株式の授業はさやかちゃんも履修しているけど、彼女は一度も講義に出席した事が無い。「面倒くさいから」という理由だったが、それは実は建て前であって、本当は二股が判明するのを畏れての事だったのか。何て事だろう。ボクはこれから何を信じて生きていけば良いのだろう。
「立石、悪い事は言わない。あの子に手を出そうなんて思わない方がいいぞ」
 森永には何も答えず、ボクは体育館に急いだ。この日のテコンドーの授業は妙に力が入った。
 その晩、ひとりさみしい食事を済ませたあと、ボクは自室で物思いに耽った。
 さやかちゃんと過ごした日々は楽しかった。猛スピードでブッ飛んで行く列車に揺られているような毎日だった。楽しい時間は早く過ぎる物。ボクたちが車窓から眺めた景色は恐ろしい速度で目の前を通過して行った。しかし車内にはゆったりとした時間が流れていた。悠久の大河にたゆたうような豊かな時。濃い時間だった。
 「恋は盲目」なんて言う。情熱的に愛する二人には周りが見えなくなる。そうして時が経つのを忘れて互いに見つめ合う。気が付くと時計の針が数時間分移動していた、なんて事もざらだ。
 これは案外「ワクワク? 電車ギザギザ心電図」と同じ原理なのかも知れない。ボクは今まで「苦しい時間は長く感じ、楽しい時間は短く感じる」という感覚を正しい時間認識として信じていた。けれど、この感覚はニュートン力学と同じく、時間の正しい姿を厳密には説明していないのではないか。楽しいから時間の流れが速くなるのではなく、楽しいから周囲が見えず、時が経つのを忘れるのではないだろうか。
 今のボクにはそう思える。さやかちゃんと過ごした日月は決して薄っぺらい物ではない。あっという間の出来事ではなかった。濃密だった。時間の流れが速くなっていたのはボクら自身ではなく、ボクらを取り巻く世界だったのだ。ボクらが気づいてなかっただけで、本当はボクらの時間こそが遅くなっていたのだ。ボクはこういう真理を得た。
 だが、列車は止まってしまった。さやかちゃんは途中下車してしまった。ボクの人生は彼女と出会う以前の生活速度に戻ってしまった。懐中電灯の光はもはや単調に上下するだけ。外の景色も変わり映えがしなくなる。



【講義第十八回・浦島太郎】
[彼女はこの日も授業を欠席した。あの日以来メールも送られて来ない。クッ、か、悲しくなんかないやい。講義に集中できるから、こ、こここ好都合だよ!]
 先週の講義では「高速で移動すると時間の流れはスローになる」という現象について説明しました。移動が速ければ速いほど時間は遅くなるわけで、光の速度に近づけば近づくほど時間が経つのはゆっくりになっていきます。
 遅れる度合いは「ローレンツ因子」を用いた計算で測る事が出来ます。ローレンツ因子っていうのはピタゴラスの定理で導き出せる要素なんですが、みなさんはピタゴラ嫌いだと思うので詳細は割愛しますね。
 具体的に時間はどれくらい遅れるのか、いきなり答えから言っちゃいましょう。列車の速さが光速度の九十パーセントだとすると時間は約二倍になります。一年しか経っていないはずなのに二年の歳月が流れるのです。すごいでしょ。まったくもってすごい。
 しかしそんな速い列車が存在するはずがないのでもうちょっと速度を落としてみましょう。列車の速度が光速度の半分だとしたら? ハイ、一・二五倍になります。四百五十六日。あれあれ。急激に落ち込みましたね。なんだか怪しいゾ。じゃあ光速度の十パーセント・秒速三万キロメートルの列車だったとしたら。ハイ、三百六十七日。あらあら。なんだそんな物カヨ。ガッカリですね。
 そうなのです。相当速くないと時間の遅れっていうのは体感できないのです。残念無念。でも、気を取り直して下さい。この話にはまだ続きがあります。夢があります。光の速度に近づけば近づくほど時間が経つのはゆっくりになっていきますって言ったけど、本当にそうなんですから。
 みなさんの中には「光速度の九十パーセントで動いても、時間の流れは二倍になるだけなんだろ。たった二倍だろ。じゃあ、大して変わらないじゃないか。もっと劇的に何百年何千年単位で遅れるのかと思ってたよ。期待外れだ」と思ってる人も居るかも知れませんね。あいや待たれい。九十パーセントよりも上に九十九パーセントがあるじゃないですか。九十九・九パーセントがあるじゃないですか。九十九・九九九九パーセントだってあるよ。まだまだ光速度には近づけます。
 九十九パーセントの時、時間は七倍になります。すごいだろ。でも、この程度で驚いてちゃいけない。九十九・九パーセントの時は驚くなかれ二十二倍になります。驚くなかれと言ったけどさ、驚いて下さい。そして九十九・九九九九パーセントの時は、なななんと、七百倍になります。どうです、光のスピードに近づけば近づくほど時間が遅れ始めたでしょう。光速度に限りなく近い世界では、たった〇・〇〇一パーセント加速するだけで偉いことになります。
[ボクは戸惑った。教授の言葉がすぐには理解できない。ちょっと難しい。ああ、さやかちゃんが同席してたら説明するのが大変だったろうな]
 なんだい、どいつもこいつも浮かない顔をしやがって。わからない? 列車で思考実験を行なってるからイメージしにくいのかな。よし、宇宙船を例にして考えてみようか。
 ──あなたは光の九九・九九九九九パーセントの速度で航行する宇宙船に乗り、気ままに太陽系を旅行し、一年経った時点で地球に帰ってきました。すると、地球では二千年も時間が経過していました。あなたの友人や家族はとうの昔に死に絶え、知ってる人は誰もいませんでした。あなたは愕然とし、「光の九九パーセントの速度で運転していれば時差は七年で済んだのに!」と悔しがりました──
 どうかな。これで理解できたかな。ちっとやそっとのスピードじゃほとんど時間の流れに影響はないんだけど、光とほぼ同じ速度で移動すると大変な目に遭うんです。
 この例え話、どこかで聞いた事のあるような話だよね。酷似した昔話があります。そう、『浦島太郎』です。理屈はまるっきり同じだから、「世界で初めて特殊相対論を応用したSFだ」と言えるかも知れません。
 今日の講義はこれまで。また来週。


 『浦島太郎』が実話に思えて来る。ボクは乙姫さやかちゃんと楽しい日々を過ごした。それはそれは、楽しかった。今までこんな喜びを味わった事は無い。人生ってなんてステキなんだろうと思った。世界には飢えて苦しむ人もいるというのに、ボクだけこんなに幸せでいいのかしらとも思った。
 気が付くといつの間にか九月だ。三ヶ月間、何を学んだのかよく覚えていない。女なんかにうつつを抜かしたせいで貴重な勉強時間を無駄にしてしまったのだ。
 見事にボクはたぶらかされたんだ。女狐に。小悪魔に。近江さやかに。「女は魔物」というのは真理だ。ママーン。ママンの言った通りだったよ。言い付け通りにしなかったからバチが当たったよぉ。ごめんなさい。やっぱりママの言う事はいつでも正しいや。
 これからは、さやかちゃんの事なんかすっきり忘れて、勉強に専念する。ボクは勉強するために大学にやって来たのだ。頑張って経済学を修め、ガッポリ稼ぐ実業家を目指すぞ。世の中ゼニや! オンナなんかクソ食らえ!
 一週間後。授業が始まった時、ボクの隣に居たのはさやかちゃん! ではなく森永。なんだよコノヤロウ、どうしてそんなに付きまとうんだ。ボクがおまえを避けている事、雰囲気で察しろよ。
「なあなあ、普段どんな音楽聴くの」
 ボクはうるさそうな顔をし、「迷惑なんだよ。オマエの存在が」という意志を暗にほのめかす。それでも森永は話しかけるのをやめない。しつこい。
「あの映画観た?」
 ボクの全身からは嫌悪の波動が立ち昇っている。殺気と言っても良いだろう。しかし森永は容易にへこたれない。
「休みの日は何してんの」
 この陰々滅々たるエナジーを感じないほど鈍いのか、はたまた無理に会話の糸口を探しているのか。いずれにせよあきらめてほしい。ボクはおまえとは話したくないんだ。一人にしてくれ…。
「俺さ、去年ロンドンに行って来たんだ。そしたらさ…」
 出たよ。始まったよ。ついに自分の話題を語り出した。誰もおまえの事なんて知りたくねぇ~。
「現地で歌舞伎の公演をやってたんだよ。驚いたなぁ」
 ボクはずっと無言のままなのに、森永は気まずさを微塵も見せずにささやき続ける。あきれた不屈の精神だ。
「歌舞伎って結構すごいよ。古くさいと思ってバカにしちゃダメだぜ」
 寝たふりを決め込む。これにはさすがの森永も暖簾に腕押しと思ったのだろう、ようやく口を閉ざしてくれた。森永のささやき声の代わりに、マイクを通した教授の声がスピーカーから降り注いで来る。



【講義第十九回・タイムマシン】
 …郎は世界で初めて特殊相対論を応用したSFだという話をしました。これに対し、ある学生から──廊下側の席・前から三番目に座っている,正気を疑うようなセンスの服を着ている男、そう、教室中の注目を浴びてるアンタだよ──から、こんなイチャモンをつけられました。いわく、「『浦島太郎』はアインシュタインが誕生する遙か以前に作られた話だから、特殊相対論を応用したSFなどというのはおかしいのではないか」と。バカヤロウ、そんくらい解るよ。知ってて言ったんだよ。詰まらねぇ指摘しやがって。バ、バカにするなよ!
(坂本教授ってちょっと指摘されただけですぐ激怒するよな)(……)(立石、聞いてる?)
 長年『浦島太郎』は意味不明な昔話として親しまれていましたが、特殊相対論をかじった人の一部からは「もしかして実話だったのではないか。作り話の割には何も教訓が無いし」という無茶な仮説が唱えられました。さすがに史実では無いでしょうが、それほどまでに特殊相対論の理に適っていたのです。
 『浦島太郎』同様、しばしばSFで扱われる題材は「時間」です。有名なのはH・G・ウェルズの『タイムマシン』。ただしこの古典的SFが発表されたのはアインシュタインの特殊相対論より十年早い一八九五年でした。そのため、「超高速移動をすると時間の経過が遅くなる」などの概念は盛り込まれておりません。未来の世界にタイムスリップする話です。
 過去の時代に遡るというコンセプトをもたらしたのはやはり特殊相対論です。特殊相対論を応用したSFでは、光の速度を超えたら時間が逆行するゾって説明されています。私、実はSFの大ファンでしてね、それでこの授業を始めたんです。好きな作品はたくさんありますが、その中でも特に…
[教授が自分の趣味を語り始めた辺りから、ボクは眠りに落ちてしまった。夢を見た。何か悪い夢だった。──汗だくになって目を覚ますと、授業は佳境に差し掛かっていた。しばらく目を閉じていただけなのに時間が飛躍的に流れている。未来にタイムスリップしたような感覚だった]
 …理論的にはタイムマシンの発明は可能だと言われていますが、現実的に実現可能かと言うと、ちょっと難しい。物質が光以上のスピードで動くのは到底無理でしょうし、第一、光はこの世で一番速いのですから。この世で一番速いって事は、抜かせないって事です。
 ただ、量子力学の分野からは「量子テレポーテーションを利用すれば光の速度を超えられるかも知れない」と言われています。ちなみに量子テレポーテーションとは、量子が別の場所に瞬時に移動する現象だとか何とか…。私にもよく解りません。深く訊かないで下さい。
 本日は夢のある話をしました。また来週。
[森永が何か話しかけてきたが、ボクは寝起きの頭を奮って逃げるようにその場を後にした]


 翌週の水曜、ボクは株式の授業にて角田を発見した。男女数人のグループで談笑している。いかにもプレイボーイの容貌をしてやがらあ。群れなきゃ自己主張できないのかよ、情けねぇ。おまえなんかにさやかちゃんは不釣り合いだよ。
 などと憎悪してみたが、冷静に考えると嫉妬としか思われない。さやかちゃんに不釣り合いなのはむしろ自分の方だ。角田とさやかちゃんはお似合いのカップルだろう。
 ちくしょう。ちくしょう。



【講義第二十回・四次元】
[この日も隣には森永が座っていた。ボクは極力会話を避けた]
 いやあ、先週は熱く語ってしまいました。面目ない。でもさ、SF、いいよ。最高だよ。勉強にもなるよ。みんなも『雇用、利子および貨幣の一般理論』なんかひらいてるヒマがあったらもっとSFを読みなさい。今日の講義は四次元についてだけど、あの『タイムマシン』はアインシュタインより先に、四つ目の次元の正体を看破しているんだぜ。やっぱりSFってスゴイだろ。なあ。
 …まあ、残念ながら彼が四次元の概念を発明したわけじゃないんですけどね。それに、四次元理論を確立したのはやっぱりと言うか何と言うかアインシュタインご本人です。いい加減ウンザリしてきますね。業績多すぎ。
 そもそも、次元って何でしょうか。一次元から順に説明していきましょう。
 一次元は線です。幅がありません。
 二次元は面です。縦・横の二つの次元から成り立つ世界です。しかし高さはありません。みなさんの大嫌いな二次関数がこれです。
 三次元は立体です。縦・横・高さの三つの次元がある、我々の存在している世界です。
 では、四次元とは何か。四次元とは、三次元に「時間」の次元を加えた時空連続体の事です。四つ目の次元は「時間」なのです。
(なんか聞いた事あるけど、ピンと来ないんだよな)(……)
 おそらく、素直に納得できず居心地の悪さを感じる人もいるでしょう。「私たちの住んでる世界には時間が流れてますけど。それに、時間と空間をごちゃまぜにして考えるなんて、そんなのアリなの?」と思ったりね。
 縦横高さそれぞれの次元には方向性があります。二次関数で言えば、y軸とx軸はそれぞれマイナスからプラスに進む直線ですね。同じく時間にもマイナスからプラスに進む一つの方向があります。過去現在未来です。これを一つの次元として考えるのです。──完全に別物と思われていた空間と時間をアインシュタインは「四次元時空」に統一しました。時間は縦横高さと同じように次元として扱えるのだ、と。
(縦の線・横の線・高さの柱に、時間の線を加えるって事か。どうやるんだろう)(……)
 特殊相対論は奇妙奇天烈な(しかも正しい)理論をいくつも導き出しましたが、これもその内の一つ。発表当時は受け容れがたいショッキングな新学説でした。一九〇〇年前後は「四つ目の次元があるとしたら新しい空間だ」と思われていましたし、時間と空間の融合は高名な学者たちにも理解しにくかったのです。二十一世紀に生きる私たちにだって奇異に感じるもんね。
 四次元時空が多くの人に理解されるようになったのは、距離を表す横軸と時間を表す縦軸で構成された「ミンコフスキーダイアグラム」の登場によってです。この二次関数を用いれば四次元時空は一応図示できます。しかしみなさんは二次関数は絶対嫌いなはずなのでここでは省略します。
(失礼だよな。二次関数くらい、俺たちにもわかるよな)(……)
 私たちは縦横高さの三つの軸は自由に動き回れますが、時間軸を好き勝手に動く事は出来ません。ですから、三次元空間の住人なのです。ついでながら申し上げて置けば、私たちの暮らす三次元空間には二次元も一次元も存在しません。どんなに細い線を書いてもその線の幅はゼロでは無いですし、どんなに薄い紙でもわずかながら厚さがありますから。三次元空間では、三次元以外の次元は理論の上にしか存在しないのです。
(ふむふむ、なるほど。おい、立石。授業聞いてるか)(……)(何か喋れよ)(ナニカ)(冷たいなぁ…。俺の何がそんなに気に食わないんだよ)(すべて)
 しかし四次元時空は確固として存在します。地球上には存在しませんし、決して行く事も見る事も出来ませんが、確実にあるのです。一次元や二次元があるように、四次元も実体を持っています。証明して見せろって言われると困っちゃうけどさ…。あっ、ほら、四次元殺法や四次元ポケットってあるじゃない。あれが四次元の存在する証拠だよ。ね。
(バッカじゃねーの。あれは想像の産物じゃないか。四次元殺法なんて、もろに三次元じゃないか。なー)(……)(またダンマリか)(……)
 さて。四次元時空の存在が明らかになって以来、「五次元は重力で六次元はエネルギーだ」とか、「超ひも理論によれば宇宙は十次元だ」とか、色々と言いたい放題議論されています。しかしそのレベルになってくると何が正しくて何が正しくないのか不明瞭に成ってきますし、結局わかんないって事ですよ。我々が勉強するのはアインシュタインの提唱した四次元までで結構。それ以上は物理学や数学の博士に任せて置けばよろしい。
 今日の講義をコンパクトにまとめるとこんな感じになります。
「特殊相対論は時間と空間をを統一して時空にした。四つ目の次元は時間である」
 これだけ知っておけば充分インテリとして振る舞えます。それではまた来週。


 ボクはいつも通りすぐに教室を出た。森永が急いで追いかけてくる。
「ちょっと待ってよ」
 当然、待たない。ずんずん廊下を歩き、体育館へ向かう。手を変え品を変え話題を振ってくるがことごとく無視する。
「あのさあのさあのさ」ひと気のない校舎の裏まで来た時、ヤツはこう言った。「あの子の事なんだけど」
 ボクは思わず振り向いてしまった。森永の目にはシテヤッタリと書かれていた。
「この話題にだけは反応してくれるね。もしかして本当に好きなんじゃないの」
 この憎たらしい笑顔。ボクは我慢しきれずついに真相をぶちまけてやった。思い切り真正面から爆弾発言を浴びせてやった。
「ああ。好きだったよ。ボクとあの子は付き合ってたんだ」
 森永は相当驚いたようだった。動揺のあまり先ほどまでの憎たらしい笑みは消え、目が泳ぎ始めた。明らかに挙動不審だ。
「こいつは…驚いた、な…」
 自分の知っている言葉を総動員して現在の心境を表す最も適切な言葉を探した所、やっと見つかった言葉がそれだった、という顔色で森永は言葉を絞り出した。
 饒舌な森永もしばらく黙り込んでしまった。遠くで学生の声がはしゃいでいる。ボクと森永の間には凍り付いた時間が沈黙している。まさにここだけ三次元空間だ。
 このまま立ち去っても良かったのだが、森永が何か言おうとしているのでボクは待ってやった。可哀想なくらい落ち込んでいるし、何となく不憫になったのだ。
 十秒ほどしてようやく森永は言葉を継いだ。
「俺、そんなの知らず…。悪い事、教えちゃったな。おまえの心中、察するにあまりあるよ」
 なんだよコイツ。いいヤツじゃんか。
「別にいいよ。気にしてないから」
 これはウソである。気にしているに決まっている。
「だけど…。おまえの彼女、浮気してたって事になるじゃないか。おまえをもてあそんだって事になるじゃないか」
 一瞬でもいいヤツだと思った自分が情けない。言わなくて良い事をいちいち言ってけつかる。腹立たしく成って来た。コイツも、さやかちゃんも。
「教えてくれてありがとな。じゃあな」
 ハラワタの煮えくり返る想いで踵を返す。背後では森永が慌て声を出す。
「俺で良ければいつでも相談に乗るから!」
 誰がおまえなんかに相談するものか。



【講義第二十一回・E=mc2】
 特殊相対論を扱うのは本日が最後です。これまでは主に光と時間の遅れについて講義して来ましたが、今回はちょっと毛色の違う題材を扱います。エネルギーと質量の関係についてです。
 みなさんは「E=mc2」という公式を目にした事はありませんか。イーイコールエムシージジョウ。とてもシンプルな式なので聞いた事のある人も居るかな。アインシュタインが導き出した数々の式の中でも最も有名な関係式です。Eはエネルギー、mは質量、cは光速度。「光速度二乗かける質量の値はエネルギー量に等しい」。そういう式です。
 あまりにも単純な式なのでイッチョアガリ的な思い付きで作られたんじゃないかとも思えますが、実際には、光子を物質に吸収させる思考実験を経たのち、質量保存の法則と運動量保存の法則を用いた計算によって求められました。そうしてゴチャゴチャした部分をスッキリ整理したらE=mc2の形に成ったんですわ。アパートから要らない物を手当たり次第に捨てて行ったら電子レンジと冷蔵庫しか残らなかった、そんな感じ。はい、違いますね。しかしうまい具合にまとまったものです。一度眼にしただけで覚えてしまうほど短い式だもんね。
 この式が何を意味するのか知っている人は案外少ないのではないでしょうか。何だと思います。「MC(司会者)が二人居るとイーぜ。絶妙のコンビネーションをかませるし、片方がトチってももう片方がフォロー出来るしな」じゃねーぞ。「全ての物質はとてつもないエネルギーを秘めている」という事を表しております。全ての物質です。鉄でも銀でもダイヤモンドでも、自動車でも人間でも鼻毛でも、重さのある物すべてです。
 たとえ重さが一グラムでも、光速度の値を二回も掛け算してしまったら、途方もない数になる事は簡単に想像できますね。一かける三十万かける三十万ですから。それがどれくらい途方もない数字になるかと言うと──
 ズバリ、計算で弾き出されるエネルギー量は、ヒロシマに落とされた原爆の威力を上回ります。
 驚くでしょ。ビックリするでしょ。ありえねーって思うでしょ。一グラムの物質に原爆並のエネルギーが潜んでいるなんて悪い夢のようです。考えたくもないです。体重計に上るたび、「今あたしが爆発したら地球は大変な事になる…」って不安に陥るバカも出てくるかも知れない。
 でも安心して下さい。主に原子レベルでの話です。原子核が分裂したり融合したりする際に、質量のほんの一部が膨大なエネルギーに転換するという話です。しかも相当効率良く核反応が起きなければ、物質内に宿るエネルギーは永久に秘められたままです。良かったですね。
 そうなんですよ。E=mc2っていうのは、まんま核爆弾の原理なんです。別にアインシュタインが原爆を発明したわけではありませんが、元ネタになった式なんです。ドーン。おっかないやろ。覚えやすい単純さもさる事ながら、その重要性においても有名な式なのでございました。
 核爆弾の仕組みについてちょっと触れておきましょう。
 ウランやプルトニウムなどの重い原子の核が分裂し、質量が減る時にエネルギー発生。これが核分裂です。原子爆弾はこの原理を応用しています。何となく理解できるよね。たとえどんなに小さな原子でも、バラバラになったら軽くなるのは当たり前だからさ。そうだなあ、例えば、熱々だったカップルが別れると、心は軽くなるけど憎悪のエネルギーが爆発するじゃない。それとおんなじだよ。うん。違うね。
 一方、水素などの軽い原子核が融合し、質量が失われる際にエネルギー放出。これが核融合です。水素爆弾はこの原理を応用しています。太陽が燃えているのも核融合です。なぜ融合するのに質量が失われるのか具体的に説明しますと…水素原子四個が核融合してヘリウム原子一個に成りますが、ヘリウム原子一個は水素原子四個よりも若干軽いので、その質量の差が莫大なエネルギーに変換されるのです。イメージとしては、五枚の百円玉を五百円硬貨に両替すると総重量は減る、という感じでしょうか。
 前期の授業でアインシュタインの生涯について触れた時(ボクがノートを取らなかった時だ)、「アインシュタインはアメリカの原爆開発に賛成した」と述べました。しかし「おまえが変な式を発見したから悲劇が起きたのだ」などと責めてはいけません。特殊相対論から導き出されたE=mc2が、まさか後年あんな形で利用されるとは思いも寄らなかったはずです。アインシュタインが原爆開発に賛成したのは、ナチスドイツより先にアメリカが最新兵器を開発し、戦争を早く終わらせて欲しかったからに過ぎません。決して、決して、愛する日本に大破壊をもたらそうとしたわけではないのです。
 これにて特殊相対論の講義は終了です。キリも良い事ですし、来週は休講にしますね。次回からは一般相対論の講義に取り掛かりますので前期のノートを軽く読み直して置いて下さい。


 翌週、株式の授業にさやかちゃんが現れた。あまりに唐突なのでボクはビックリし、思わず顔を伏せた。一回も出席してない授業に今さら顔を出すなんて、どういう風の吹き回しだろう。
 ボクは彼女の姿を目で追った。もちろん、大っぴらにではなく、こっそりと。引け目があるわけでもないのに、なんだこのヘッピリ腰は。さながら町で借金取りにバッタリ出くわした債務者である。我ながら自分の臆病風には涙が出てくる。
 座る場所を見て確信した。角田の隣だったのだ。
「さやかじゃん」
「相変わらずカッワウィー」
「授業出てくるなんてめずらしいじゃん」
 さやかちゃんはエヘエヘ笑いながら、グループからの歓迎に応える。楽しそうだ。やっぱり君は、ボクとは住む世界の違うお方だったのだね。
 さやかちゃんは教室中を眺め回す。教室の片隅から放出される莫大な負のエネルギーに気が付いたのだろう、さみしそうな顔をしてボクの方を見た。ボクは目を逸らす。
「どうした。あんなナマズに似たヤツを見つめて」
 だ、断じて似ておらん!
 不意に原子爆弾を製造したくなった。角田もさやかちゃんも死んでしまえばいいんだ。いいや、世界もろとも滅んでしまえ。こんな腐った世界、ダイキライだ。



【講義第二十三回・等価原理①】
 後期も佳境に差し掛かって来ました。いよいよ一般相対論です。
 だいぶ学生の数も減ったね。最初は満員御礼だったのに、今ではその五分の一以下の人数しか居ない。空席が目立ちます。ガラガラです。資本論の授業なのに資本論について全く触れなかったのが原因でしょうね。でもまあ、いいじゃない。授業と関連性の無い自分の趣味について一時間延々と喋る講師も世の中には居るってんだからさ。少しでも勉強になるんだから儲けもんだろ。
 さて。一九〇五年にアインシュタインが打ち立てた相対性理論を宇宙の範囲にまで応用したのが一般相対論です。応用って言っても、ほとんど別物ですけどね。完成は一九一六年。特殊の方では光と時間を扱いましたが、一般の方では重力と物質の問題を扱います。
 物理学者として名を馳せる前のアインシュタインは特許局に勤めていました。ニュートンのような「若くして大学教授に就任。やっぱ天才は違う」みたいな華々しい経歴ではありません。最初は単なる公務員だったんです。──この逸話は君たちのようなお先真っ暗の大学生に勇気を与えてくれるんじゃないかな。「俺もアインシュタインのように、今はパッとしなくてもいつか大事業を成し遂げるぞ」ってね。頑張って下さいね。どうせ無理だろうけど。
 特許局で働くアインシュタインは要領よく仕事をこなし、午前のうちに全ての仕事を済ませちゃいました。午後からは暇になりました。でも公務員なので定時までは帰宅できません。
 有り余った時間、彼は思索に耽りました。ちょうど我々が電車の中で暇を持て余す状況と同じです。やる事が無い、けど、じっとしてなければならない。そんな時って人間観察眼が鋭くなったり読書がはかどったりするよね。全校集会、校長の話が長いとエッチな妄想が浮かぶよね。あれと似ています。拘束時間は人に思索の機会をもたらします。
 特許局での午後、アインシュタインは色々な想像に思いを馳せました。もちろん光に関する思考実験もしていただろうし、もしかしたらスケベな事も多少は考えてたかも知れない。そんな色々な想像の中に、彼いわく「人生で最高の思い付き」と呼ばれるひらめきがありました。
「人は転落したら自分の体重を感じない」
 なんじゃソリャって感じですが、このひらめきが一般相対論の足がかりとなります。
 このひらめきにどんな意味があるのか、アインシュタインはエレベーターを用いた思考実験で説明しました。
 エレベーターに乗っている場面を想像して下さい。超高層ビルに備えてあるような長大なエレベーターがいいな。乗りましたか。乗って下さい。早く乗り込んで下さい。あ、別にエレベーターガールは同乗させなくてもいいですよ。君ひとりで結構。
(教授の軽口にドキッとした。ボクは一瞬、さやかちゃんを想起してしまった。なんてこったよー。自分では気が付いていないだけで、副意識下ではまだ未練タラタラなのだろうか。チキショーメ)
 乗りましたか。乗りましたね。じゃあ、最上階のボタンを押して下さい。超高層ビルに備えられたハイテクエレベーターですから、ギュウーンと加速しますよ。どうです。何か感じませんか。急速に上昇する時って、慣性の法則で身体が地上に残ろうとするから、上から押し付けられるような感じがしますよね。
 押し潰されそうな重さを感じつつ、早くも最上階に到着です。エレベーターから降りないで下さいよ。今度は逆に、一階に向けて急発進します。イェイ、レッツゴー。下へ参りまーす。
 急速に下降する時はフワリと浮くような感じがしますね。これも慣性の法則ですな。感じますか、地上への垂直落下。遊園地のアトラクションみたいでしょ。あれって魂が頭の天辺から抜けて行くような感覚がありますよね。おしっこチビりそうになります。それと同じ状態になりましたか。
 一旦エレベーターを止めましょう。最上階に戻ります。大事なのはここからです。自分の身に何が起きるのかよーく観察して下さい。
 エレベーターの操作盤に「H」と表示されているボタンはありませんかな。Bは地下でRは屋上だけど、Hって何だろう。これは当ハイテクエレベーター独自の機能です、気にせず押しちゃって。いいから押せって。
 押しましたね。ニヤリ。これ、HELLの略です。ヘルって事は、地獄です。地獄へまっさかさま括弧笑い。ワイヤーが切断され、あなたの乗った箱は地上へ落下! うわあアア…!
 …って、もっと驚いて下さいよ。他人事じゃないんですよ。今あなたの乗ったエレベーターが物凄い速さで落っこちてるんですよ。もっと真剣に。もっと集中して思考実験に参加して下さい。いい年こいた大学生だからって、恥ずかしがらずに。
 スットーン。エレベーターは重力に任せるままに落ち始めました。するとどうなるか。エレベーターの箱もあなたも同時に落ちます。同じ速度で落ちます。フワリと浮くような感覚がパワーアップして無重力状態になります。身体が宙に浮いているのが感じられますか。外国には「飛行機で急降下して無重力を体感しましょう」ってな豪勢な遊びがあるけど、あれと同じ原理だね。
 自由落下すると無重力状態になるっていうのが体感できたら、墜落死する前にもう一度Hボタンを押して下さい。これでエレベーターは停止します。ああ、おっかなかった。どうだい、スリル満点だったろ。
 じゃあ、お次はUボタンを押して下さい。また何か良からぬ事が起こるんじゃないかと思いますか。心配しなくていいですよ、大丈夫です。今度は死ぬような思いはさせません。安全です。信じて下さい。Uボタンをプッシュ!
 イエス、宇宙にワープ括弧笑い。あなたの乗ったエレベーターは突如として宇宙空間に放り出されました。スケールが大きい実験だろ。酸素は充分だし、ちゃんと地球に帰って来られるからしっかり人体実験に協力してね。
 宇宙空間はご存じの通り無重力。超高層ビルにて自由落下した時と同じく、身体がフワフワ浮きますね。足が床に着いてない。キーモチ、イイーッ。
 でも、今は遊んでる場合じゃない。とっととGボタンを押して下さい。Gボタン。──次から次へと新機能が発表されて申し訳ありませんが、これが最後の機能です。覚悟を決めてヤケクソで押しちゃって下さい。
 このボタンを押すとエレベーターは一Gの力で上向きに加速し始めます。一Gの速度で等速直線運動じゃないですよ。ぐんぐんスピードは上がり続けるんです。宇宙空間をスッ飛んで行く、あなたの乗ったエレベーター。きっと外の景色はすごいでしょうね。地球が見る見る遠ざかって行く…。
 しかしお気の毒ですが外の景色は見えません。見ようとしないで下さい。意識は箱内の現象に集中しましょう。どうです、超高層ビルの屋上に向かって上昇した時と同じ感覚じゃないですか。無重力ではないでしょう。上から押し付けられるような力が働き、足が床に着いたと思います。もっと言えば、地上で突っ立っているのと同じ状態になったと思います。一Gっていうのは、実は地表での重力と同じ力です。そう、一Gの加速と、一Gの重力は、全く変わらないのです。
 宇宙空間では、静止していると無重力だけど、加速していると重力が生じる。これだけの事実を観測できたらもう充分。再度Gボタンを押して下さい。地球への凱旋帰還。お疲れ様でした。
 それではここで問題。あなたがもし、Hボタン(地獄行き)とUボタン(宇宙行き)を間違えて押したら、どうなるでしょう。Hボタンを押したつもりだったのに、気づかずにUボタンを押していたら? どちらも無重力状態になりますが、それが自由落下状態なのか宇宙空間での無重力なのか、あなたに判断できるでしょうか。地上で突っ立っている状態と、宇宙空間でGボタンを押した状態、区別が付くでしょうか。
 そうです。地球での重力と、宇宙空間での加速。どちらも見分けが付きません。という事は、もしかして重力と加速って同じ物なんじゃなかろうか。「人は転落したら自分の体重を感じない」というひらめきから出発したアインシュタインは深く考え込んだ末にこの結論に到着しました。
 重力イコール加速。これが「等価原理」と呼ばれる考え方です。等価原理は一般相対論の基礎となります。特殊相対論における光速度不変の原理のように超重要な柱ですのでよく覚えて置いて下さい。



【講義第二十四回・等価原理②】
 重力と加速運動。本来ならば全く別物の力です。同一視するなんて非常識です。しかし相手はあのアインシュタイン。慣習的な常識の通用する相手ではございません。
 重力と加速は同じ性質の力であると確信したアインシュタインはさらに考えを推し進めました。エレベーターの片側に小さな丸窓があって、そこからまばゆい光線が差し込んで来ると…ってな事を考えたんです。光の軌道はどう見えるでしょうか。特殊相対論での思考実験「ワクワク? 電車ギザギザ心電図」を応用して考えて下さい。
 エレベーターが止まっていれば光はまっすぐに入って来て、水平に進み、反対側の壁にぶつかるでしょうね。反対側の壁の、丸窓と同じ高さの位置に。当たり前ですね。
 じゃあ、エレベーターが一Gで天井方向に加速していたら。さーどうなる。横に進む光と、上に進む箱。交わる刹那! どうなると思いますか。はいきみ。答えて。はい。「わかりません」は無しだよ。
 はい、違いまーす。直線的な入射はしませーん。それじゃあ止まっている時と同じだろ。備え付けの電灯が光るんじゃないんだよ、窓から光が射してくるの。
 正解は、やや下方向に曲がる、でした。丸窓から入ってきた光が反対側の壁に達するのは同じだけど、静止していた時よりちょっと低い位置を照らします。光は水平方向に進んでるんだけど、エレベーターは上方向にギュウーンと加速しているからね。光が向かい側の壁に到着するまでにエレベーターはちょっと上に移動する。だから、光の描く軌跡は下向きの曲線になるんです。野茂のフォークみたいにね。
 で、アインシュタインはここで思い付いた。加速しているエレベーター内では光は曲がる。ならば、重力でも光は曲がるはずだ、と。ね。ここ重要だよ。よろしいか。加速すると光は曲がる・加速と重力いっしょ・じゃあ重力で光は曲がる。こういう論法ね。光も重力で落下するんです。野茂のフォークみたいにね。
 しかしね、誤解しないでほしいのはだね、野茂のフォーク、あれは空気抵抗の…


 ボクは窓の外に目を移した。学内に植えられた樹木は葉の数を減らし、世は晩秋の趣きがある。秋晴れの空にちぎれ雲が群れている。物憂い季節だ。そよ風が木々を揺らす。葉が落ちる。そんな寂びた景色。
 ハッとした。
 ボクの視線の先には、向かい側の校舎からこちらを見つめるさやかちゃんの姿。二号館三階、廊下突き当たりの窓。彼女はそこに立っていた。あきらかにボクの事を見つめているようだった。
 多少の距離があるし、光を反射するガラス越しなので表情はよくわからなかった。楽しそうな雰囲気でないのは確かだった。
 窓と窓を隔てたこの見つめ合い、ボクは嬉しかったに違いない。さやかちゃんの事が、やっぱり好きなんだ。しかしそこは悲しく愚かな童貞の虚栄心。心の中で自我と本能のせめぎ合いが始まった。
 なんだろう。今さらボクに何の用だろう。君は角田のオンナだろ。純真なボクをだまし、たぶらかし、二股を掛けた魔女じゃないか。ママの言う通り女は魔物だ。ボクを見つめるその眼差しもきっと悪意に満ちた侮蔑に決まっている。ギリシア神話に登場するゴーゴンのような、見る者すべてを石に変えるような邪眼。ボクは負けない。君の目がボクの人格を愚弄する色を湛えていても、ボクは目を逸らさない。たとえ誘惑の熱視線だとしても、二度となびかない。ボクは君の視線から自分の視線を外さない。おんどりゃ何メンチ切っとんねんこのアマ。わしゃおのれの事なぞ未練あらへん。あるんはただ憎悪のみじゃ。シバくぞコラ。
 などと、頭の中では否定しつつも、やっぱりまだ好きみたいで、どうしても見てしまう。今にも涙のこぼれそうな潤んだ瞳で。情けないやら素直じゃないやら、これぞ童貞イズムですよ。女の子が愛しくて愛しくてたまらないのに、おのれの容姿の醜悪さに対する引け目からか・モテない事のヒガミからか・はたまた硬派を気取る腐ったプライドのせいか、女性に興味の無いフリをしてしまう…。ボクの…ボクのトンチキッ!
「で、あるからして!」
 急に坂本教授の声が荒くなったのでビックリして黒板の方向に首を戻す。フォークボールの落ちる仕組みを熱心に説明している。なんだよ、脅かすなよ。
 再び窓の方に目をやると、さやかちゃんはもう、いなかった。



【講義第二十五回・重力で空間がゆがむ】
 はいどうもー。等価原理、わかってきたかな。単純な話だよ。長々と二回に渡って講義してきたけど、結局は「重力イコール加速」ってことです。オーライ? 「私たちは地球から重力の影響を受けている」という表現は、「私たちは地球の中心に向かって加速している」と言い換える事も出来ます。出来るんじゃないかな。よく知らねぇや!
 等価原理を究めたアインシュタインは次に、「重力によって空間がゆがむ」事を突き止めます。彼がこの考えを着想したのは──

 ズボンのポケットにしまってある携帯電話が震動した。自慢じゃないがボクの携帯電話は滅多に着信しない。友だちが少ないのだ。
 取り出して確認してみるとさやかちゃんからのメールだった。いつ以来だろう。東京タワーでのデート、その前日に受信したおやすみメール以来か。実に二ヶ月ぶりだ。
 そうだ。二ヶ月経つのだ。ボクたちが面会を遮断し、電子メールによるコミュニケーションすら交わさなくなってから。これだけ音信が無ければ、二人の仲は自然消滅したと考えるのが普通だろう。
 メールの件名は書かれていなかった。ボクは怖かった。なかなか本文をひらいて読む気になれない。何か良からぬ事が書かれている予感がしたからだ。ボクたちの交際は途絶えたが、まだハッキリと終焉を確かめ合ったわけじゃない。しかしもし、このメールが正式な破局の通告だったら。「立石くんのこと、好きだったよ。でも、もうおわりにしよう」とか「角田くんと本気でつきあうことにしました。わかれてください」なんて書かれてたら、どうしよう。それが怖かった。関係を修復する努力はしないくせに、恋愛継続へのわずかな可能性にしがみついていたかったのだ。勝手なものである。男は未練たらしい生き物である。
 目を閉じ、静かに深呼吸した。
(たとえどんなにつらいメッセージがディスプレイに表示されていても、甘んじて受け容れよう)
 目を閉じたまま、メール本文をひらいた。
(さやかちゃんをほったらかしにした自分の非を認め、別れ話にもおだやかにうなずこう)
 ボクは覚悟を決めた。そうして目を開けた。目に飛び込んで来た文字、それは。
「ばびょーん」
 ボクの理解を超えていた。ばびょーん。一体どういう意味だろう…。彼女はいかなる意図があってこのようなメールを送りつけて来たのだろうか。彼女の知能から察するに、深い含蓄が含まれているとは到底考えられない。しかし二ヶ月ぶりのメールだ。重要なメッセージが込められているに相違ないのだ。
 煩悶とした。意味がわからない。ばびょーん。何かの暗合だろうか。二人だけの合い言葉を定めた事は何度かあったが、そのうちの一つだったろうか。
 机に肘を突き、その掌に額を載せる。左手に握った携帯電話の画面を見つめながらボクは悩み込む。この意味不明なメッセージは、彼女からの仲直りの申し出か。羞恥心、もしくは自尊心が邪魔をして、直接的な言葉が出せないのではないだろうか。それとも、ボクへの挑発か。「あたしにとってアンタはほんの一時の浮気相手に過ぎなかったんだよ」という残酷な現実を知らしめるための怪文書か。返事をするべきか。返すとしたらどのような文言で? ボクは答えを決めかねて低くうなった。
 ほどなくして携帯電話がまた震動した。今度は何だ。メール受信だ。誰からだ。やっぱりさやかちゃんだ。ボクは友だちが少ないのだ。
 件名は「まちがえました」だった。
 緊張して損をした。悪い想像をめぐらせた徒労感に言い知れぬ腹立たしさを感じ、また、何か安心もした。複雑な心境だが九対一で快感が不快感に勝っている。つまり嬉しい。意味不明なメールに対するモヤモヤした疑問が解消された。心の中に立ちこめた雲の隙から陽光が降り注ぎ、曇天の空は晴れ渡る。お日様と一緒に顔を出す天使たち。彼らの吹くラッパの音色は、オメデトー・オメデトー。
 一通目の時と比べものにならないほどの気軽さで本文をひらく。こう書かれていた。
「ごめん!送るあいてまちがえた(汗)ほんと~にゴメン!」
 なつかしい感覚に胸が温かくなる。次の瞬間、ボクは返信メールを打ち始めていた。ほとんど感情に突き動かされてプッシュボタンを押していく。件名は「ひさしぶりだね」で、本文は以下の通りである。
「まちがえちゃったんだ(笑)。あいかわらずおっちょこちょいだね。メール来てうれしかった。なんだかしんみりです…」
 送信、と。さやかちゃんの浮気発覚にあれほど絶望したボクだったが、今やデレデレ顔。女性は過去の恋愛に割と執着しないと言うけれど、男の未練たらしさと言ったら醜悪にもほどがある。
 しばらくはだらしなく顔を変形させていた。他人が見たらギョッとするほどの、直視に堪えない気持ち悪さだったと思う。が、ふとイヤな事に思い当たり、ボクの表情は元通り硬くなった。送る相手を間違えたっていうのは、やっぱり今のカレシと間違えたのかな。
 数分して、またメールが届いた。
「立石くん、怒ってると思ってたから、メールが返ってきてうれしかったよ。/ごめんね。まだ怒ってるかな。あたしが悪いんだよね。はあ…」
 イヤな気持ちがブリ返してきた。そうだよ。悪いのはおまえだ。純朴な男の子の心をさんざもてあそびやがって。
 さやかちゃんなんて、好きだけど、嫌いだ。嫌いだけど、好き。素直になれないボク。

 ──前期の授業で「ニュートンの万有引力の法則は正確ではない」って宣言したの、覚えてるかな。いよいよその真意を説明する時が訪れました。
 ニュートン力学によれば、太陽系の運行は万有引力の法則で充分に説明できました。「天体は万有引力によって引っ張り合っている。引力の強い太陽に引き寄せられて、惑星は太陽の周りを廻っている」ってね。実際、太陽を中心に運行する惑星の軌道は万有引力の法則でほぼ完璧に計算できました。しかしですね、唯一例外がありました。水星です。どういうわけだか、計算で導き出される軌道よりも毎年少しずつズレて動いていたのです。ここが「正確」ではない由縁。対する一般相対論は、その例外すらも見事に解決しちゃう。
 一般相対論のえがく宇宙の姿「重力によって空間がゆがむ」とは具体的にはどんな状態なのか。恒例の思考実験、ちょっとやってみようか。
 めちゃくちゃ大きい一枚の布をイメージして下さい。縦横十メートルくらいの。その布の四辺を結わえて、ピンと張りつめた状態にして下さい。これを宇宙空間だとしましょう。
 布に石を載せると、ちょっと沈むでしょう。これが一般相対論における重力です。物質が存在する事で重力が発生し、宇宙空間が少しゆがんだってわけ。石より重い鉄を載せるともっと沈むよね。布に載せる物質が重ければ重いほど、布のへこみ・空間のゆがみは大きくなるんです。
 鉄と石の距離が近いと石は鉄の方に転がりそうになるんじゃないかな。これが今まで万有引力だと思われていた現象です。そう、地球は決して太陽本体に引き付けられているのではなく、太陽の重さによって生じた淵にハマっているのです。すり鉢の内側をグルグル回るボールのような感じだね。外に飛び出したいけど、傾斜がきつすぎて登れない、そんな感じ。これが天体の運行です。天体同士が磁石のように引き寄せ合うんじゃなくて、天体と天体の間の時空が変化する。これが宇宙の真の姿なのであります。太陽から最も近い惑星であり、太陽の重力の影響を最も強く受けていた水星の軌道も、一般相対論の完成によってキッチリ計算できるようになりました。めでたしめでたし。
 布の上に何も無ければ布は変化しません。何か載るからへこむ。へこんで、浅い穴のようにくぼむ。宇宙空間でも理屈は同じです。物質があるから重力が生じる。重力が生じるから、空間がゆがむ。わかりましたか。それではまた来週。



【講義第二十六回・アインシュタイン方程式】
 重力の生じ方ってさぁ、ニュートン先生は「天体から引力が発生してるんだ」って主張してたけどさぁ、本当は時空がゆがんでるんじゃないかなぁ。
 と、これだけでは夢想家の単なる思い付きです。誰も相手にしません。真理であると証明するためには数学的に正しく表現する必要がありました。アインシュタインは方程式を立てる取り組みに挑戦します。
 これがもう、困難に満ち満ちた道。あの天才が挫けそうになるほど悩み、数年かかってやっと完成しました。悩み抜いた末に辿り着いた式。それがこれです。
[とても複雑な式を教授は板書した。字が汚いのでボクはこの方程式をノートに書き写せなかった]
 これが宇宙の秘密を解き明かす究極の方程式です。このたった一行の式の中に宇宙の縮図が詰め込まれています。
 左辺が時空の構造を表し、右辺が質量やエネルギーを表しています。左辺に数を代入して右辺の値を算出すれば「こういう構造の時空があれば質量はこうだ」と求められますし、その逆の計算をすれば「あれくらいのエネルギーならば時空の曲がり具合はああだ」ってな具合に答えが出ます。
 と説明してみてもピンと来ないだろうけどさ。要するに、この式を解けば宇宙の果てにある天体の配置やその重さが解っちゃったりするんです。宇宙の年齢も解っちゃう。すごいでしょ。──あ、有能な物理学者でさえ頭を悩ます難解な式なんだから「どれ、いっちょ計算してやっか」なんて無茶な考えは起こさないでくれよな。
 そうなんです。めちゃくちゃ難しいんです。この式を解けた人は世界に数人しか居ません。無限の可能性を秘めた方程式だけど、まだ答えはほんの一部・数種類しか出されていません。アインシュタイン本人でさえ手に負えないシロモノだからね。宇宙の全貌を暴く究極の方程式とはいえ、まだまだ宇宙は謎だらけ。今後の物理学界に期待しましょう。
 何が究極の方程式だ。役立たずじゃないか。そう怒る人もいるかも知れませんが、あいや待たれい。ブラックホールやビッグバンの概念はこの式から導かれたんですよ。特にビッグバンを発見できたのはすごい。宇宙の始まりはちっぽけな火の玉の爆発だったって言うんだからね、驚きだよね。小さな、それでいてとてつもなく重い火の玉。その中に全宇宙、我々の住んでいる地球、そして我々自身の素が全部ひっくるめて含まれていたってんだからさあ。それが解っただけでも物すごい成果だよ。うん。このビッグバンについてはまたの機会に詳しくお話ししますぞ。お楽しみに。
 さて、ビッグバンは今や一般常識と化していますが、当時はとてもじゃないが考えられない現象でした。宇宙が爆発で広がったなんて有り得ない事だと思われていました。常識をくつがえし続けて来たアインシュタインでさえ有り得ないと否定していたんです。
 アインシュタインが後年「生涯最大の失敗」と悔やんだとても興味深いエピソードがありましてね。彼はこの方程式を完成させた際、試しに計算してみて、愕然としたんです。「この方程式だと宇宙は膨張する事になっちゃうみたいだぞ。宇宙が膨らんでいるなんて、バカヤロウ、そんなはずはない。じゃあ何か。昔の宇宙は今よりもっと小さかったってのか。ンなわきゃあないよー、ちみ。宇宙は静止している!」ってね。そんなわけで式の中に「宇宙項」と呼ばれるパーツを付け加えました。これにより計算は補正され、宇宙は膨らまなくなりました。アインシュタイン一安心。
 でも、実際には宇宙は膨らんでいたんですわ。それはハッブル望遠鏡による観測で判明しました。距離の離れた銀河が段々遠ざかって行く様子、つまり全宇宙が膨らんで行く様子が観測できたんです。
 けったいな話だよね。「こりゃ違う。こんなこと起きるはずはない」と思って慌てて偽装工作したんだけど、実はいじくる前の方が正しかった、と。最初の式で合ってたんです。あのアインシュタインでさえもそれまでの常識に囚われていたって事ですね。事実は小説よりも奇なり、です。
 宇宙項はすぐに取り除かれました。[教授は黒板消しで宇宙項を消した。]こうしてアインシュタイン方程式は元の通りの完璧な状態になりましたとさ。
 おめでとう。アインシュタインの提唱した相対性理論は、特殊相対論・一般相対論ともに全て講義し終えました。長い間おつかれさまでした。これにて修得完了、酒の席で「相対性理論とはね」などと議論をぶてるようになりましたな。
 ただ、授業はもうちょっとだけ続きます。アインシュタイン博士はもう出てきませんが、彼の遺産「一般相対論」から発掘された産物、ブラックホールとビッグバンについて触れますよー。


 出欠を確認しないこの授業にボクが出席し続けたのはさやかちゃんの存在が大きかった。さやかちゃんと会えるから、さやかちゃんが隣に居てくれるから、頑張れた。しかし今、ボクは授業に対して純粋な面白みを感じて来ていた。『資本論』の授業なのに全く違った学問を講義しているから初めは軽蔑していたが、理解が深まるにつれて段々と相対性理論に対する興味が増して来た。ひとりで受講していても苦にならない。年度も終わりに近いというのに、今さら…。
 だけど、それでも、隣にさやかちゃんがいないのは、やっぱりさみしい。さみしくてたまらない。授業の好悪とは別の問題だ。どんな授業であろうと、どんな瞬間であろうと、さやかちゃんの不在はボクの心を宇宙の果てのような空虚で染める。
 今から思えばボクは何と弱かったろう。彼女に浮気されていたからといって、それが何だったろう。ボクの他に恋人が居ても、本当に好きならば力ずくで奪ってしまえば良かったではないか。ボクに、彼女を振り向かせるほどの力が在れば。襲い来る、激しい自己嫌悪。
 ボクは本当に臆病だった。さやかちゃんの美貌に圧倒されていた。恐れていた。しょっちゅう疑心暗鬼に沈み込んだ。「自分はこの娘が好きなのではなく、この娘の美貌に魅了されているだけではないか。ひとりの人間としてではなく、アイドルを崇拝するような倒錯した感情に気持ちを高ぶらせているだけではないか」と。付き合っている最中も折々そういう不安にさいなまれた。自分の気持ちに確信が持てなかった。
 しかし今ははっきりと自覚する。彼女の裏切りをいくら憎もうとしても、理性ではどうにもならない強い力が働いて憎悪の火を掻き消してしまう。これほど好きだったとは。どうしてボクは彼女の気持ちに応えようとしなかったのだろう。地下鉄車内で、そして東京タワーで、彼女の要求を叶えてやらなかったろう。タイムマシンに乗るチャンスがあれば過去の自分を思い切り殴ってやりたい。
 今日の講義ノートを読み返しながら、感傷的な気持ちにひたる。
 ボクは宇宙の一部だという。元をたどれば森羅万象は同化していたらしい。ビッグバンによってバラバラに飛散したそうだ。宇宙誕生以前には、ボクとさやかちゃんはひとつだったのかな。ずっとひとつだったら、ずっとくっついていられたら、良かったのに。いや、離ればなれになったからこそ、また元通りに戻りたいと願うからこそ、愛おしく感じるのかな。
 ヨリを戻したい。しかしさやかちゃんがそれを許してくれるとは到底思えない。数々の失態を演じてきた上、連絡は途絶えた。客観的に判断すればふたりはとっくに破局している。そして彼女のそばには本命の彼氏・角田。せめてコイツさえ消えてくれれば、ボクはもっと元気を振り絞れるのに。
「決闘を挑めば良いではないか。腕ずくで奪い返せ」
 ボクの内側で他人の声がボクを励ます。しかしボクは頭を振る。残念ながらボクにはそこまでの勇気は無い。そんな剛胆さが備わっているくらいなら初めからこんな悲劇的な事態に見舞われるはずはなかったのだ。角田と別れてくれたらすぐにでも君を迎えに行くよ。君と対面できたら一目散に引き寄せてしっかり抱きしめて離さない二度と。
 だけど。だけどだ。ボクが心の中で念じたからといって、さやかちゃんがすぐさま角田と別れてくれるなんて都合の良い話があるだろうか。おとぎ話じゃあるまいし、そんな簡単に事が運ぶ法はあるまい。のみならず、たとえ角田と別れても、ボクの元に戻って来てくれる保証なんかどこにも無い。彼女の美貌に魅せられた男たちがあちこちに潜み、彼女が独りになる機会を虎視眈々と狙っている。ボクとさやかちゃんが元の鞘に収まる可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
 さやかちゃん。きみにとって、きみの人生にとって、結局ボクの存在は宇宙項のような不純物だったのだろうか?



【講義第二十八回・ブラックホール】
[第二十七回めの授業は坂本教授が経済シンポジウムに出席するため休講になった。そう、坂本教授は酔狂で相対性理論なんぞ講義しているけど、本当は結構著名な経済学者なのだ。ちゃんと経済学の授業やれ。]
 さ、ブラックホールです。一般相対論によって導き出された不可解な天体。その実体に迫ります。
 まずはブラックホール研究の歴史から始めましょう。一般相対論が完成したその年に、早くも一人の学者がアインシュタイン方程式を解きました。いわゆる「解いた」っていうのはあれですよ、ご存じだとは思いますが、ワイ・イコール・エー・エックスにエー・イコール・ミスターを代入したらワイはサルヤっていう、あの作業ですよ。みなさんの嫌いな。
 方程式を解いた彼の名はシュヴァルツシルト…言いにくいな。愛称シュバちゃんです。このシュバちゃん、かなりの強者ですよ。時は第一次世界大戦の真っただ中、方程式を解いた場所はなんと戦場。遠征先で一般相対論を知った彼は、野営地でせっせこ計算に励んだのです。暇さえあれば延々と数独に熱中してしまうようなタイプ、いわゆる計算バカですね。私はこういう、好きな事に夢中になる人って大好きです。
 シュバちゃんの求めた解答は現在「シュヴァルツシルト解」と呼ばれています。天体の周りの時空が重力によってどんな風にねじ曲がるのかを表す鍵。この鍵が、ブラックホール発見への第一歩となりました。計算ごくろうさまです。えー、そんな愛すべきシュバちゃんでしたが、研究成果の報告をアインシュタイン博士に郵送したのち、わずか半年ほどで戦死しました。戦争ってイヤですね。
 そして、シュバ解の発見から約二十年後。オッペンハイマーとその愉快な仲間がブラックホールの成立過程を突き止めました。この面白い名前はどっかで聞いた事があるんじゃないかな。原子爆弾の開発者です。最初のうち彼はブラックホールの研究を専行していたのですが、研究途中で原爆開発プロジェクトに駆り出されるハメになりました。戦争ってイヤですね。
 そしてそして、オッペンハイマーがブラックホールの概念を唱えてからさらに約三十年後。「本当にそんな珍妙な天体があるのか。机上の空論に過ぎんのではないか」という疑念は見事に吹き飛びました。白鳥座の中に、ブラックホールが観測されたのです。本当に存在しました。
 以上がブラックホール研究の大まかな歩みです。それでは次に、ブラックホールとはどんな天体なのか、先人たちの研究であきらかになった恐るべき性質を学んで行きましょう。
 名前からすると「宇宙にぽっかり開いた黒い穴」と思われがちなブラックホールですが、その正体は歴とした星です。月よりも小さい、だけど太陽の何倍も重い、超高密度の天体です。巨大な恒星が年を取って、ブクブク肥ってドカーンと爆発お亡くなり、みずからの体重に負けてギューッと凝縮した成れの果ての姿でございます。だから、小さいのに、重いんです。
 ものすごい重力なので何でも吸い込む印象のあるブラックホールですが、ある程度近づいても大丈夫です。ただ、中心から一定の距離にちょっとした境界線がありまして、この境界線を一歩越えると二度と脱出できなくなります。光さえも。そう、ブラックホールは普通の天体と違って光が反射しません。重力に飲み込まれて戻ってきませんから。だからブラックホールは常に真っ暗で、形が見えないんです。引き寄せられたガスが境界線周辺でパチパチ輝く事はあるけどね。
 光が脱出できないのはなぜなのか。それは脱出速度の問題です。「脱出速度」っていうのは、天体の重力を振り切って宇宙に飛び出すための最低限のスピードの事ね。たとえば、地球の重力に逆らってロケットが宇宙のかなたに飛び立つには、秒速約十一キロメートル以上の速度で発進する必要があります。それ以下だと途中で重力に負けて落ちて来てしまいます。この「秒速約十一キロメートル」というのが脱出速度です。
 この脱出速度、天体の重さ・すなわち重力の強さによって変化します。天体が重ければ重いほど逃げる際のハードルは高くなります。地球より重い太陽から脱出するためには秒速約六百キロメートル以上のスピードを出さなければなりません。重力が強大であればあるほど脱出速度は速くなっていく、って事は…。ブラックホールはアホほど質量が大きく重力が異常ですから、脱出速度が秒速三十万キロメートル以上になっちゃうんです。つまり、光速度を超えちゃう。よって、光でさえも境界線を越えて向こう側に行くと二度と返って来られないのです。さようなら。
 境界線の向こう側はどうなっているのか。それは「無」です。ブラックホールの中心地と境界との間には何もありません。完全な虚無です。では、中心地はどうなっているのか。これはまだ詳しく解明されておりません。中心地の重力が無限大なのでアインシュタイン方程式は計算不能になります。現代の科学では解明できないんです。「なんだよ。アインシュタイン方程式は万能じゃなかったのかよ」と思った人、ごめんなさい。万能じゃなかった。将来宇宙旅行士になりたいと思っている人、ちょっくら行って確かめて来てみて下さい。境界線を越えた瞬間スポンと中心地に吸い込まれ、自分の身体が潰れる感覚を味わう暇も無くブラックホールと同化できるはずです。
 ブラックホールについてはまだまだ未知の部分が多く、今でも活発な議論が交わされています。量子力学の考えでは、成熟したブラックホールは徐々に質量を失って行き、最後には爆発に近い形で蒸発してしまうだろうと言われています。いずれにせよ、中心地の謎が解ければよりいっそう宇宙の秘密に迫れるはずですから、研究の更なる進展に期待しましょう。


「ちょっと大事な話がある」授業が終わると森永が深刻な様子で話し掛けて来た。「とても重要な話なんだ。ここでは話せない。誰もいない場所で、ゆっくり腰を据えて話したい」
 なんだろう。いつになく重々しい雰囲気だ。さやかちゃんに関する悪い情報を新しく仕入れたのだろうか。あまり聞きたくない。気が進まない。しかし気になる。聞かずには居られない。森永の尋常ではない重苦しい雰囲気には、何かとてつもない力が働いていた。
 数秒の葛藤を経たのち、ボクは厳かな調子で森永の誘いにうなずいた。
 ボクと森永は無言のまま連れ立って階段を上がった。最上階の五階には誰も居ない。空き教室に入り、窓際の席に腰を下ろす。物音ひとつ聞こえない静寂。森永の顔はほとんど悲痛と評して良いくらいにこわばっていた。ボクも背筋を伸ばす。この緊張感はただごとではない。彼は何かとてつもない爆弾を胸にしまって持ち運んだらしい。
「驚かないで、聞いてほしい」
 沈み込んだ森永の顔色に、ボクの表情も暗くなる。重苦しい沈黙。何も聞こえない。時間が止まったようだ。
「俺は」
 森永は「俺は」で言葉を切り、またしばらく黙る。
 長い沈黙。
 ……。
 え。
「俺は」って? そこって言い澱む場所か?
 森永は強く目を閉じ、意を決したように、大声でまくし立てた。
「俺はおまえが好きだ!」
 ボクは発作的に彼をブン殴った。机から派手に転がり落ちる森永。
「待ってくれ。待ってくれ。冗談なんかじゃない。本当に愛…」
 鼻血に染まった顔面にしこたま蹴りを入れてやった。なんてこった。なんてこったよ。何て事だよ。こいつホモだよ。なんてこった!
「てめぇ! それで今までつきまとっていたのか!」
 森永は口元を押さえながら涙目でボクを見る。力強く首を縦に振り、へなへな声で訴える。
「ぜんぜん振り向いてくんないんだもん。そればかりか、おまえは妙なギャルと仲良くし始めるし。だから俺は…」
 とどめの一撃をお見舞いして地獄に葬り去ろうと思ったが、すんでの所で拳を止めた。ボクの直感が鋭く嗅ぎ取った。こいつ、さらなる爆弾を隠し持っている。今まさに吐き出そうとしている。聞き逃してはいけない、何かを。
「だから俺は…」
 俺は…?
「……」
「さっさと言えよ!」
 結局、もう一発殴ってしまった。
「ゆ、言うよぉ。この際だから洗いざらい言うよぉ」
 森永の告白は我慢しかねるほどの激怒をもたらした。ボクの心にはたっぷりの怒りが湛えられ、森永の言葉が注がれる度にあふれ、器からこぼれた分だけ森永に返還される。話を聞きながら、相槌を打つ代わりに、いちいち平手打ちを食らわしてやった。森永はヒイヒイ言いながら最後まで話し終えた。
 このゲス野郎はボクとさやかちゃんの仲が裂かれるように工作していた。さやかちゃんの浮気をボクに教えたのもその一環だった。さやかちゃんと角田が交際しているなんて、真っ赤な嘘だった。ありもしない噂をこの男がでっち上げたのだ。
 そればかりではない。森永の小ざかしい手回しはさやかちゃんにも及んでいた。ボクに嘘を教えたのと前後して彼女本人と接触を試み、「立石くんはあなたに愛想を尽かしている」なんていうとんでもない偽りの情報を垂れ込んでいやがったのだ。
 何という事だろう。ボクはさやかちゃんの事を信じてあげられず、こんなヤツの嘘を信じ込んでしまっていた!
 タイミングが悪かった。折り悪く東京タワーで気まずい雰囲気になった直後だ。ボクとさやかちゃんはこんな男の口車に惑わされ、お互いに誤解し合っていたのである。
 森永くん。白状してくれてありがとう。率直に言うよ。死んで欲しい。百回殺しても足りないくらいだ。


 ボクはその晩、意を決してさやかちゃんに電話を掛ける事にした。何度もためらったのち、ついにダイヤルを発信した。
 呼び出し音が鳴り始める。ややあって、通話状態になった。相手からの応答は無い。ボクは生唾を飲み込んでから、言葉を絞るように喋り出した。激しい緊張で声が震える。
「立石です。元気かな。突然、電話して、ごめんね」
 どうにか第一声を発するも、あとが続かない。気を失いそうになるほど気が重い。精神の底にどす黒く沈澱した暗黒がボクの意志を縛りつける。打ち明けなければならないこの想いを、深遠なる心の闇から打ち上げるには、とてつもないエネルギーが必要だった。容易に声が出せない。
「どうしても伝えたい事があって」
 言葉を継いでもすぐに途切れてしまう。ボクは訥々と、気の遠くなるような時間を費やして言葉を点じて行く。実際の通話時間は数分ほどだったが、まるで一日がかりにも感じられるほどの長く鈍重な心情吐露。
 何を話したのか、ほとんど覚えていない。いや、覚えていないというよりも、発語したその瞬間においてさえ、自分が何を話しつつあるのか認識できなかった。
 さやかちゃんは終始無言だった。どんな感情でボクの訥弁を聞いているのだろう。ボクの差し延べる手を彼女は再び握り返してくれるだろうか。
 元々、不釣り合いの恋。さやかちゃんはボクと距離を置いた事で真実に開眼した可能性もある。ボクの器量の悪さにやっと気付き、自分の見る目の無さに辟易してるかも知れない。──心の片隅に凝り固まった陰影は、希望の光を容赦なく飲み込んで行く。喋りながら不意に泣きたくなった。
「もし、やり直してくれる気があったら…。今度の授業、木曜三限。出席して欲しいんだ。待ってるから」
 そこまで告げてボクは電話を切った。枕に顔をうずめた。神に祈った。



【講義第二十九回・ビッグバン】
[始業寸前で教室に来てみると学生がワンサカ。室内は講義第一回目以来の盛況。普段サボっていた学生が「そろそろテスト範囲を発表するだろう」と踏んで登校して来たに違いない。迷惑な話だ。ボクはいつも最後尾の席にゆったりと座っていたが、今日は仕方ないので空席を探して座る。ボクが席に着くのと時をほぼ同じくして教授も入室して来た。胸が騒ぐ。全身の血が心臓に集まってしまったような心地だ。教室をグルリと見回してみる。さやかちゃんの姿は無い。ボクは自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。]
 お、いつもは閑散としていた教室がひさしぶりに埋まっているね。満員御礼。どうせテストについて聞きに来たんだろ。安心しな。テストは実施しない事にした。[安堵のささやきに包まれる教室]
(ボクの意識は混濁し、耳から入って来る教授の声と、ボクの内なる悲鳴とが、盛んに飛び回り交錯する)
 その代わり、レポートを提出してもらう。相対性理論をしっかりマスターしていないと厳しいぞ~。レポートの題目と形式は授業の最後で発表する。それまでは相対性理論のフィナーレに付き合いたまえ。今まで散々なまけてきたんだから、最後くらい我慢しなさいっ。[低い嘆息でざわめく教室]
(さやかちゃんは来ていない。来てくれなかった。)
 まずお断りして置きたいのは、ビッグバン現象を発見したのはアインシュタイン本人ではないという事。もう、あのおじいちゃんの事は忘れて下さい。(いや、あきらめられない。遅刻して来るんだ。そうだよ。そうに違いない!)これからお話しする思考過程を経て、ビッグバンは突き止められました。
(しかしそうだろうか。本当に遅刻して来るのだろうか。)
 まず、アインシュタイン方程式のおかげで宇宙の膨脹が明らかになりました。この宇宙は静止しているんじゃない、大きく大きく膨らんでいる、ってね。
(来てくれる事を前提に考えるのは、浅ましい考えではないか。)
 今もなお、膨らみ続けています。(さやかちゃん。忘れられない。)大きく大きく育って行ってます。(きみの存在は、ボクの中で日増しに大きくなっていく。)と、いう事はですよ。(あの顔。)逆に考えると、昔は今のサイズよりも小さかったんじゃないでしょうか。(あの笑顔。)そうです、今より膨らんでいなかったのです。(あの性格。)膨らんで、今のサイズに成長したんです。(あのオッパイ…)
 それじゃあ時間を巻き戻してみましょう。昔むかし、大昔。地球が誕生する、はるか以前のその昔。宇宙はもっと小さかったのです。狭かったのです。狭い宇宙空間に、あらゆる天体や、天体の素がギッシリ。現在の宇宙より狭くて、密度が濃かったのです。
(会いたい。きみに会いたい。)
 さらに時間を巻き戻して考えてみましょう。(早く、来て。)未来に向けて膨脹していく宇宙の姿を逆回転させると、宇宙は過去に向けてどんどん収縮していきますね。どんどん。(一刻も早く、その顔をボクに見せて。)どんどん小さく、高密度になっていきますね。
(あきらめきれないよ。)
 密度が濃いという事は、すさまじいエネルギー量が集中していたという事です。全宇宙のエネルギーが狭い時空に凝縮されていたのです。(ボクはまだ信じてる。君がきっと来てくれると。)そして、エネルギーが強いという事は、温度が高い。これを極限まで突き詰めて考えていくと…
(ボクはきみを愛している。)
 結論。「初めは、超高温超高圧の小さな火の玉だった。」イェイ! 宇宙のルーツは火の玉だったんです。この小さな火の玉の中にあらゆる物質とエネルギー、空間と時間が含まれていたのです。
(だがしかし、これだけ強く望んでも、きみは来ない。)
 宇宙の始まり、それはこの火の玉の爆発。すなわちビッグバンです。何かのきっかけで爆発を起こして中身をぶちまけた、と。火の玉から時空が放出されてこの宇宙が形成された、と。「無」の上に宇宙が上塗りされていった、と。こういうわけです。ご理解いただけたかな。
(もう会えないのだろうか。)
 さて、「宇宙は火の玉の始まり」だっていうのは解ったけど、では、火の玉の前はどうなっていたのか。宇宙の始まりの、さらにそれ以前は? これは人知を超えた難問で、いまだに定説は出されていません。「完全な無だった」という比較的平凡な予測から「始まりは精神だった」なんて宗教的な概念まで持ち出されるありさま。よく解っていません。
(いや、もし今日会えなくても、フラれたと決まったわけじゃないぞ。)
 同様に、宇宙の未来についても断定的な判断は下せていません。今この瞬間も膨脹し続けている宇宙ですが、はたしてその膨脹におしまいはあるのか。現在、おもに三つの説が唱えられています。
(何かの都合でたまたま来られないのかも知れないし…。そうだよ。そうに違いない──)
 無限遠に向けて永久に膨脹し続けるとする説。(──って、自分の思い通りの未来絵図を描いているだけじゃないか。)ある程度膨らんだら成長は止まり、それ以上大きくならないとする説。(悪い未来を想像しようとしない。最悪の結果を避けている。)限界まで膨らんだのち、今度は徐々にしぼんでいくとする説。(これじゃ現実逃避の単なる妄想だ!)
 どの説が正しいのか、現段階では判明しておりません。(とことん自分がイヤになる。でも、もし本当にさやかちゃんが来てくれたら──)ただ、さまざまな観測や理論に基づいて「小さなサイズに収縮していく可能性は薄い」とされています。(──その時こそ、しっかりと想いを伝える。)


「そこのきみぃ!」
 いきなり教授が猛烈に怒鳴った。怯えた教室はたちまち静寂に包まれる。目を閉じて悲嘆に暮れていたボクは、電撃を流されたように身を震わせて覚醒する。
「遅刻するとは何ごとだ! テスト範囲について聞きに来ただけだろ!」
 聞き覚えのあるセリフだった。この瞬間は以前、経験した事がある。
「ごめんなさぁい」
 この声。確信した。ボクは振り返った。
 互いに惹かれ合いながらも一度はバラバラになったボクたちふたり。誤解によって緩んだ絆は再び絡み始め、より強固な関係を結ぼうとしていた。ごく自然に、自然界の法則に導かれるように。
 ボクは立ち上がり、歩み寄るさやかちゃんを迎える。ボクたちは教室のほぼ中央で、教室中に溢れ返った学生に囲まれて、向かい合う。
「さやかちゃん」
「立石くん…」
 ボクにはこの時の自分の精神状態を細緻に分析する事が出来ない。様々な感情が入り混じって飽和した混沌とも言えたし、完全なる虚無とも評せた。
 茫洋たる宇宙に、たった二人だけで孤立しているような、錯覚。
 次の瞬間、なんとボクは、さやかちゃんにキスをしてしまった。彼女を力強く抱き寄せ、右手で彼女の頭を優しく包み込み、大胆にもみんなの見ている前でキスをしてしまった。ボク自身にも予測できない行動だった。一番驚いたのは自分自身だ。
 一瞬の静寂。教室中がシンとする。
 ややあって、歓喜を含んだどよめきが巻き起こる。続いて万雷の拍手と大喝采、やんややんやの大合唱。囃し立てられるボクとさやかちゃんは唇を離し、無言で見つめ合った。
「いきなり何してんだよっ、おい!」
 感動的な場面に水を差すように坂本教授が怒鳴る。元来は小心者のボクである。思わず大それた事をしてしまった事に気が付き、視線を虚空に漂わせながらドギマギとした。頼りないボクに代わってさやかちゃんが教授の方に向き直り、あっけらかんと言い放つ。
「あたしたち、もう五ヶ月も付き合ってるのに、これが初めてのキスです」
 ポカンと口を開ける教授。教室には再び拍手が巻き起こる。先ほどの拍手は無頼の英雄に対する狂的な讃辞だったが、今度は恋人たちへの好意的な祝福に変じていた。
 教授は呆然としてちょっと黙ったが、やがて不機嫌そうにこぼした。
「何だよ。いいなあ」
 教室中をほがらかな笑い声が包む。ボクとさやかちゃんは顔を赤くして席に着いた。


 ボクとさやかちゃんは、この夜、ひとつになった。
 ただ黙って手をつないだまま、さやかちゃんはボクのアパートについて来た。ふたりとも、話すべき事が多すぎて、適切な言葉を見つけられない。何から話し出そうか考えあぐね、しまいにはその努力を投げ出した。無理して話そうとするのをやめた。
(積もる話は後にしよう)(うん)
 声に出さずとも、そう了解し合えた。
 ボクたちは無言のまま、各々の存在の求めるに任せ、相手の存在を奪い合い、与え合った。
 重力がなぜ生じるのか、ニュートンにもアインシュタインにも解明できなかったと聞く。天才たちでさえ解明できなかった。それほど謎に満ちた力なんだ。
 でも、案外単純な理由なのかも知れない。重力が発生する仕組みをボクはこう考える。万物は元々ひとつだったのだ。火の玉だったのだ。火の玉は不本意な力で引き裂かれ、たくさんの破片となった。離散した破片は仲間を求めて寄り集まり、本来の姿に戻ろうと凝固する。「ひとつに戻ろうとする力」、それが重力の本質ではないだろうか。一旦は散り散りになったボクとさやかちゃんも、自然の導きでひとつになった。本来の関係に立ち返ったのだ。
 今日の授業で教授は「膨脹を終えた宇宙が小さなサイズに収縮していく可能性は少ない」と言っていた。しかしボクはこの説こそを支持したい。宇宙は思う存分拡散したあと、再び集合していく、と。膨れ上がった巨星が凝縮してブラックホールに成るように。そこには重力が──ひとつになろうとする力が働くはずだ。
 そして、ひとつの火の玉に戻った宇宙は、いつの日にか再び爆発するに違いない。成長し切ったブラックホールが蒸発するように。宇宙は爆発膨脹収縮を永久に繰り返す。ボクは物理学者ではないし、難しい理屈はさっぱり解らないけど、なぜかそう確信する。
 さやかちゃんとひとつになったボクも、たちまちのうちに爆発した。ビッグバン。新たな生命の誕生の予感。


 『八十日間世界一周』のDVDを観ながら、ボクらはポツリポツリと言葉を交換し始めた。空白の時間を埋めるように、焦らず急がず、じっくりと。東京タワーでのデート。森永と角田のこと。メールのこと。レポート提出のこと。そして、教室の窓と廊下の窓を隔てて見つめ合ったあの日のこと。楽しい会話のひと時が戻って来た。
 自分がこれほどまでに他人を愛するようになるとは思わなかった。激しく恋い焦がれるようになるとは思わなかった。お母さーん。ごめんなさい、ボク、好きな人がいます。あなたは「女は魔物」だとおっしゃいましたが、魔物でも何でも構いません。あなたの息子は、近江さやかさんを、愛しています。近江さんは、あなたが顔をしかめるような今時のギャルです。でも、ボクは、自分の気持ちを譲りません。たとえ反対されようと、この気持ちを曲げる事は出来ません。ボクはあなたの支配から独立し、自分の足でこの地球に立ちます。
 映画が日本の場面に差し掛かったころ、ボクはさやかちゃんに率直な疑問をぶつけてみた。彼女の想いを、確かめるように。
「さやかちゃんはボクの外見を初めから気にしていなかったね。中身を評価してくれたんだ。ありがとう。だけど、中身もこんなに醜いよ。救いようの無いほど優柔不断だし、君の貞節を信じてあげる事も出来なかった。愛想が尽きて当然だ。君は一体、ボクの何に惹かれたの」
「うーん」
 さやかちゃんは目を強く閉じ、うなり始めた。これほど真剣に考え込む彼女は初めて見る。きっと思考回路をフル回転させて答えを練り上げているのだろう。
 やがて彼女はほとんど無表情で言い放った。その言葉を、ボクは生涯忘れないだろう。──生涯? いや、この宇宙が終わっても忘れない。宇宙が火の玉に戻ったとしても、その火の玉が再び爆発したとしても。
「好きに理由なんていらないでしょ」
 思考停止っぽい感じが如何にもさやかちゃんらしいや。でも、この単純な言葉は、恋愛における究極の方程式の一つだよな。
 ボクは今一度さやかちゃんを抱きしめてキスをした。



この記事に対するコメント

■ 宇宙のしくみ
私は相対性理論など勉強もしたことのない素人ですが、それでも宇宙について思いをめぐらせています。
相対性理論には賛否両論があるように思いますが。その原因は、光の速さと、物理的な力に得た速さを、同じ速さと捉えていることにあるように思います。
何分素人宇宙論ですが気が向いたら読んでみてください。トンタマパール、と検索すれば、宇宙のしくみ、と出てきます。
【2014/06/10 17:03】 URL | トンタマパール #-


■ 
お返事遅れて申し訳ございません。
コメントありがとうございます。

「宇宙のしくみ」拝見させていただきましたが
私には難しい宇宙論でした。
もう少し勉強してから再読させていただきます。
【2014/06/29 13:05】 URL | 大塚晩霜 #-



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