とりぶみ
実験小説の書評&実践
術長生短   (2007/12/06)
 冬になると人が死ぬ。季節の変わり目、寒さが厳しくなる時候、体力の衰えた病人は容易に命を落とす。
 私の尊敬する芸術家たちもこの季節に多く亡くなっている。特に十二月上旬に集中している。四日、フランク・ヴィンセント・ザッパ。五日、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。八日、ジョン・ウィンストン・オノ・レノン。九日、漱石夏目金之助。……
 そして、六日。「尊敬する芸術家」ではないが、それどころかプロのアーティストですらないが、やはり一人亡くなっている。ある画家──正しくは画家志望の男。私の高校時代の同級生である。他界してから日も浅いので特に名は秘す。
 私と彼とは大して親しい間柄ではなかった。が、よく芸術の話をした。高校当時の私は漱石に心酔し、それを端緒として文学以外の芸術にも傾倒した。いっぱしの文学青年を気取って背伸びをし、黴臭い古典作品を無闇に有り難がった。母親と歌舞伎を観に出かけたり、銀杏の枝を盆栽にしていじってみたり。片っ端から有名な交響楽を聴き、自らもオルガンを弾き、水墨画の真似事をし、読めもしない南宋画の賛を苦み走った顔で詠唱して悦に入ったりしていた。かなりイヤな子どもである。
 彼も同じだった。二人は印象派・後期印象派の絵画についてよく論議した。我々は妙に老成していて、お互いにどこか畏敬し合っていた節がある。私は彼の絵画を讃え、彼は私の文章を誉めた。
 私は一枚だけ彼の作品を所持している。M1号サイズの小さな作品で、高校卒業時に本人から贈られたものだ。『来世への望遠』と名付けられたそれは原色の渦巻く抽象画で、派手な色を贅沢に塗ったくっているにも関わらず、絵の具の重ねすぎでむしろ暗く濁っていた。どぎつい極彩色でありながら画面は暗澹としており、得も言われぬ不安感を煽る。『来世への望遠』という題も、なんとなくそうと思われなくもない。高校生が描いた物ゆえ技術的にはまだ稚拙だが、人の心を力強く惹き付けてやまない何かがある。
 高校を卒業すると、私は文学部に入学し、彼は一浪して美術大学に進学した。それから酒が飲める年齢になってただ一度再会した。
 その時のことは、忘れられない。
 地元の友だち四五人で遊んでいて、何かの弾みで彼の下宿先のアパートに押し掛けたのであるが、その時彼はカーテンを閉め切ったリビングで創作に没頭していた。彼はあからさま気の進まない様子ながら「アトリエ」に私たちを招き入れた。
 室内は一見しただけでそれと知れるほどの異様な雰囲気で満たされていて、私たちは軽々しく来訪したことを各々心の中で悔やんだ。切れかかった蛍光灯が時々点滅する一方で、部屋の四隅に燭台が置いてあるのだから遣り切れない。本人曰わく、深夜など、興が乗ってくると実際に蝋燭を立てるのだそうだ。まるで悪魔でも召喚しそうなリビングだ。
 部屋のその乱雑さたるや形容に尽くしがたい。部屋を埋め尽くす紙片の海。文字通り足の踏み場もない。しかもその海は、あらゆる塗料──たとえば絵の具やペンキや墨汁やニス、それから卵テンペラというやつだろうか、無秩序な色でドロドロに染まっている。シンナーのにおいもする。二三の画架のみが、波濤の上に突出する岩礁のように平静だ。
 ベッドやソファーの上には雑誌が積み上げられてさながら前衛芸術の作品のようだった。もちろん絵の具まみれである。私たちは腰も下ろせず、かと言って押し掛けたばかりですぐお暇を乞うわけにもいかず、立ち尽くした。まあ座りなよと彼が勧めた段ボール紙の上に尻を据えてようやく落ち着いたが、はや私たちの靴下は汚れていた。
 部屋同様、彼の衣服もひどかった。元はシャツとジーンズだったのだろうが、どす黒く染まっていて上下の区別がつかない。板金工のつなぎのようだ。顔にも手にも絵具が付着して罅割れている。きっと何日も風呂に入っていなかったのだろう。彼は明らかに異常を来たしているように見えた。そして実際その当て推量は外れてはいなかった。
 よく見ると彼の左手首には自傷の痕が無数に刻まれていた。白目は黄色く澱み、口角には唾のあとがカサカサと乾燥していた。かゆいのだろうか、彼は汚れた人差し指の腹で無遠慮にゴシゴシ白目をこすった。
 友だちのうちの一人が心配になって不衛生を諫めた。けれど彼はにたにた笑うばかりで一向に頓着しなかった。時々は爪をも立てて目玉を掻く。どうやら結膜炎らしく、しかも本人はそれを自覚していた。にも関わらず彼は目をこすり続ける。ばっちい手で、直接。
 あまりに不快な光景だったので、もう一人別の友だちが大きな声を出して制止を試みた。彼は少し驚いて指の動きを止めた。笑いを止めた。しかるのち嫌悪感を露わにした。抑制された声で反発する。「君の目じゃない。俺の目だ。君に迷惑をかけてるわけじゃない。ほっといてくれ。」
「だっておまえ。白目が。白目が爛れているぜ。」
「そうだよ。放っておくと大変なことになるぞ。」
「医者に行け。眼科に。どうして行かない。」
 私たちは口々に彼を責めた。彼の健康を心配する気持ちからだが、今から考えると、その中には幾分か抗議の気持ちも混じていたに違いない。
 私たちの勧告に彼は、さも不思議そうに首を傾げて、事も無げにこう言った。「だって、俺が死ねばこの目は用済み。残らないだろ。」
 あまりのことで呆気に取られた。
 一瞬の沈黙のあと、私たちは何とか気を取り直して言葉を継ぐ。「そりゃ死んだらおしまいだよ。でも、死ぬまで使う、生きている間はずっと使う、文字通り一生モノなんだよ。」
 常識的すぎる言葉だったからか、彼には全く通じなかった。
「そんなのは関係ない。俺の死と共に滅する物になんか興味ない。俺は、俺の死後もずっと、そう、恒久に残る物、それこそを大事にしたい。それしか大事にしたくない。それ以外は大事だと思わない。この目も、見えなくなったって構わない、どうせ死んだら使えなくなるんだから。大事にしていたって、俺が突然死ねば、この目は、残りゃしないんだ。」
 私たちは黙ってしまった。彼は続ける。
「俺は俺の作品にしか興味がない。俺は自分の身体にも興味はない。」
 彼は突然ナイフを手にした。次の瞬間、左手の動脈を深々と傷つけ、血をグッと絞り出した。その血をパレットの上で捏ねて絵の具にする。私たちは呆れ返って声も出せず、この異様な光景に目を剥くしかなかった。
「頭がおかしいと思うか。そうだろ。そりゃ誰だってそう思うよなあ。でもな、血液を使わないと表現できない色味もあるんだ、君たちにゃわかるまいが。それに、俺の遺伝子を作品の中に封じ込める一種の儀式でもある。後世の人間が真贋を確かめる時に、DNA鑑定さえすればすぐ俺の真作だと知れるようにな。鶏の血で代用しようと思ったこともある。しかし俺の身体に畜生の血が流れていると思われちゃかなわん。」
 彼のリストカットは自死への憧れからではなく、文字通り心血を注いで絵を描くためであった。作品に己の遺伝子を刻印する一種の落款だったのだ。
 彼は明らかに異常を来たしているように見えた。そして実際その当て推量は外れてはいなかった。しかし今にして思えば彼は正気だった。ただ芸術への狂的な情熱に駆られた一個の可哀想な若者だったのだ。
 ナイフの代わりに絵筆を執った彼は私たちに背を向けて画架に向かった。画架の一つには描きかけの画板が支えてあった。
 それは見るからに傑作であった。制作途中でさえ見る者を圧倒せずには措かない。燃える太陽の周りを様々な記号が浮遊している構成である。この作品には永遠という言葉を与えても惜しくない気がした。彼は天才ではないかも知れないが、この絵だけは確かに天才の仕事だった。こういう作品を後世に残すことが出来るのならば、確かに命も惜しくはないのかも知れない。そんな風にも思えた。
 しかし私には、彼のように、健康を犠牲にして自分の身を削る真似は出来ない。傑作と呼ばれる作品を産むためにはそこまでしなくてはならないのならば、傑作なんぞ産み出せなくても構うものかという気もしてくる。彼の芸術至上主義は、うらやましいような、うらやましくないような、得心しにくい違和感を私に与えた。自分には決して彼のような覚悟は決められないだろう。
 彼は自らの血で絵筆を湿らせ、画板の太陽の上に毛細血管のような模様を丁寧に重ね描きする。左手から赤い汁がボタボタこぼれる。私たちはそこでついに我慢ができなくなり、急によそよそしい態度で辞去のあいさつをした。彼は振り返らずただ簡単にああとだけ言った。画面に没頭し始めていた。私は靴脱ぎから外に出て、怖気に震えながらドアを閉めた。ドアを閉める瞬間、ドアの隙間から垣間見た、彼が振るう筆の色。黒みがかった赤色。いまだに頭に残っている。
 ──その数年後の冬、彼は死んだ。死因は栄養失調だったと聞く。あの描きかけの絵がその後どうなったか、今となってはもう、わからない。
 私は毎年12月6日になると、この畏友の遺した『来世への望遠』を納戸から引っ張り出してきて、供養のつもりで眺めている。




この記事に対するコメント


お気軽にコメントをお書き下さい











«  | ホーム |  »