とりぶみ
実験小説の書評&実践
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    大塚晩霜
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    大塚晩霜
    推敲/編集担当。

    大塚晩霜
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あまやどりの歌   (2007/11/15)
 台風が上陸したその夜。仕事帰りの根岸は家路を急いでいた。風にすくわれた雨が横殴りに足下を襲う。傘は上半身しか護らない。靴はもちろん靴下までグッショリと濡れ、スラックスは重く湿った。根岸は傘を前方に傾け、もはや水たまりなんぞに気を留めず、自宅まであとわずかという住宅地をのしのしと進む。濡れた路面を電灯が寒々しく照らしている。アスファルトの上で雨滴がバチバチ弾ける。
 あるアパート、102号室の前で、吹き込む雨に濡れながら、うずくまっている少年がいた。根岸はふと足を止める。不審に思って、ちょっと少年を見つめる。かたわらにランドセルが置かれているところから察するに、どうも学校から帰ってきてそのまま家に入れないでいるらしい。鍵が無くておうちに入れないのだろうか。こんな時間になっても親は帰宅しないのだろうか。根岸は少年をかわいそうに思い、自宅まであとわずかの距離であるが、足を動かせずにじっと佇む。
 不思議なことに少年は笑顔だった。ドアの前、屋根はあるが雨ざらしに近い場所で、やけに晴れがましい冷たい電灯の下、普通の小学生ならば不安に怯える場面。頭上に屋根といっても、実際にはそれは二階部分の通路であり、ひさし程度のものであって、雨を完全に凌いではいない。なのに少年は幸せそうに笑っていた。
 おせっかいな行為かも知れないとは思いながらも、根岸は少年に声を掛けずにはいられなかった。
「どうしたの」
 見知らぬ人から話し掛けられてもさして驚くでもなく、少年は根岸を見上げ、やはりニコニコ笑ったまま、答えた。
「鍵を落としちゃって、うちに入れないんです」
 根岸の心配した通りだった。よく見ると少年は細かく震えている。寒いらしい。だいぶ雨に打たれたようだ。
「傘は?」
「風で折れちゃって。それで。それで帰ってくる途中で捨てちゃいました」
 たまらず根岸は眉をひそめた。自宅に連れ帰って風呂に入れてやりたい気持ちでいっぱいだが、それはできない。未成年者略取になってしまう。それに、利発そうなこの子が見ず知らずの大人に付いていくとも思えない。
「ちょっと待ってて。あったかい飲み物買ってあげる」アパート前の自動販売機で、缶コーヒーを買ってやるのが精いっぱいだった。「はい」
 少年は初めて笑顔を失い、激しく恐縮した。
「いいですいいです」
「いいから」
 根岸は半ば押し付けるようにコーヒーの缶を渡した。少年は申し訳なさそうに礼を言い、頭を下げた。
 少年は両方の掌で包み込むように缶を持ち、さもうまそうに、少しずつコーヒーをすすった。根岸は少年のそばにしゃがみ、無言で寄り添ってやった。
 雨は一向に止む気配がない。風はますます強く吹き荒ぶばかりだ。ほっほっと小さく息継ぎをしながらコーヒーを飲む少年に、根岸は再び問いかけた。
「うまいかい」
 少年はコーヒーをもらってから必要以上に緊張していたが、根岸の優しい言葉に、あの笑顔を取り戻した。ぱぁっと明るい表情で大きくうなずいた。
「すごい台風だね」
「そうですね」
「傘、残念だったね。大変だったでしょ」
「はい」
「俺もほら。見て。ずぶ濡れだよぉ」
「ああ。はい」
 取り留めの無い会話を取っ掛かりにして、さりげなく根岸は訊いた。
「お父さんお母さんは?」
 少年は答えにくそうにちょっと笑顔を消して、またすぐ笑顔に戻り、言った。
「死にました」
 不意を打たれて言葉に困った。どう言って取り繕えば良いのか。聴いてはいけないことを聴いてしまった気詰まりから、根岸は黙ってしまう。
 雨風の音だけが耳にうるさかった。少年も根岸も一言も語を発しない。
「それ、捨ててあげよう」
「あ。ありがとうございます。本当にありがとうございました」
 根岸は立ち上がり、少年が飲み干した缶を空き缶入れに捨てた。そのまま、立ったまま、根岸は問いかける。
「これからどうするの」
 少年は微笑したまま根岸を見つめる。特に何も答えない。
「鍵が無くて、家に入れないじゃないか。どうするの」
 少年は床面に視線を落とし、さみしく笑いながら言った。
「どうにかなります。歌っていれば」
 根岸は一層気鬱になる。気の毒だが、どうしてあげることもできない。これ以上、何も言葉を掛けて上げられない。素直に退散するしかなさそうだった。
「じゃあ。俺は行くよ」
「はい」
 少年は立ち上がり、ペコペコと頭を下げた。
「ありがとうごさいました。ごちそうさまでした」
 根岸が立ち去ろうとすると、少年はニコニコ笑ったまま、またしゃがみ込んだ。根岸はどうしても立ち去れず、屋根から一歩外れた路上で立ち止まり、少年を見つめた。雨が激しく傘を叩き付ける。
 少年は根岸がまだとどまっていることを知りながらも、まるで誰もいないかのように、歌を歌い始めた。それは雨音にも負けない歌唱だった。きっと根岸が来る前にも何度も繰り返されたのであろうと思える歌であった。その歌声は決して悲愴ではなく、むしろ喜びに満ちていた。


  風立ちぬ雨降りの夜を、待って居る…
    けど気にしない
    我は笑む
      越えろ暗闇!
      オゾン燃ゆ、日差す方へね


 少年は笑顔だった。なぜか泣けてきた。こんなに明るい顔をしている少年を見て、なぜか気持ちが沈んだ。根岸の目から涙が一粒こぼれた。
 少年がもう一度同じ歌を繰り返そうとしたとき、傘を差した女がひとり、アパート前にやって来た。スカートやハンドバッグを雨にやられたせいかひどく不機嫌そうだった。どうやらアパートの住人らしい。根岸は一歩退いて道を譲った。
 女は傘を閉じる。少年は歌を中断する。今まで笑っていた少年の顔にほんの少し緊張の色が走ったのを根岸はおやと思った。女は少年の前まで来ると、ヒステリックに叫んだ。
「おまえ。何やってんだよ」
「鍵、落としちゃった」
「バカ!」
 女は右手に持った傘を一瞬振り上げようとしてからそれをやめ、ハンドバッグを掛けた左手で少年にビンタをした。根岸はたまげた。慌てた。
「ごめんなさい…」謝る少年に対し、女は無言で102号室のドアノブに鍵を挿す。「ごめんなさいお母さん…」
 根岸には物を言う暇も無かった。あっけに取られた。少年の母親は死んでいなかったのだ。少年は詫びるような目で根岸をちらと見た。きっと、家庭の事情を説明するのが億劫で、「死にました」なんて適当なことを言ったのだろう。少年の顔は、陳謝するような、また、見られたくない場面を見られたような、バツが悪そうな表情だった。その顔はもはやちっとも笑っていなかった。
 ドアが開いた。少年は母親に急かされて室内に引っ込んだ。母親はすぐには家に入らず、じっと根岸を見る。その目は誘拐犯か何かを見るような光で睨んでいた。特に弁明する気も起こらず根岸はそそくさと家路に戻った。
 雨は依然強いままだ。根岸は家までの残りわずかの道を、少年の歌を口ずさみながらトボトボ歩いた。筆舌に尽くしがたいやるせなさに全身を濡らしつつ…。




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