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【書評】ニコルソン・ベイカー『中二階』   (2017/06/04)


 1時少し前、私は白い表紙の白水Uブックスのペーパーバックと、「マツモトキヨシ」の黄色いビニール袋を手に、物理学部2号館のロビーに入ると、エスカレーターの方へ曲がった。エスカレーターは、ベンチや丸テーブルや、自動販売機の置かれた中二階に通じていた。(1) 自動販売機はそれ自身が2号館のミニチュアのようだった。ただ一つ違うのは、自動販売機から降りてくる食べ物が、実物大のエレベーターと違って、呼び出されると途中の階に寄り道せずに、さまざまな色や形をしたロビーや玄関にすとんと直行するという点だった。なかでも最もエレベーターに似ていたのは、私がいちばん頻繁に利用する機械だった。前面のパネルに小さな扉が三つついていて、選択ボタンを押すと、そのうちの一つの扉の奥で、金属のはしご段がかたんと一段だけ上がり(下がるのではなく上がるのだと思う)、赤いくじらが印刷された「おっとっと」の小さな箱が商品取り出し口に到着する。(2)
 エスカレーターに向かいながら、私はペーパーバックをちらりと見た。池内紀の編・訳『象は世界最大の昆虫である ガレッティ先生失言録』(3)を持ってきたつもりだった。表紙のイラストは、エスカレーターのステップに座り、片方の靴を手に持った、ネクタイ姿のメガネ男だった。ガレッティ先生の生きた時代にもエスカレーターがあったことに、すこし違和感をおぼえた。しかしそれは、風をほほに感じた程度の軽い違和感であって、強く意識されるほどの強度ではなかった。風。ここちよい風は、気持ちいい。よく晴れた五月ごろのおだやかな微風が、からだ全体を撫でるように通り過ぎていくとき、私はその爽快感に声を出してしまう。風、風きもちいよ、風、ああ、あっ、上手、ああああああああああああ~~~~~~~~!
 今こうやって数年前のある昼休みのことを書いているときには、風に関するこの思いつきが、エスカレーターの下まで来たときに、‟何の前触れもなく”一瞬のうちに私の頭にひらめいたことにしてしまったほうが、たしかに簡単だし都合がいい。しかし実際には、この理解にたどり着くまでには、分かちがたく絡まり合い、ところどころではもう思い出せなくなっている体験の長い連鎖があって、それがこの時点で初めて意識の表面に浮かびあがってきた、というのが正確なところなのだ。(4)
 私が手に持っていた本は、『ゴータ王立ギムナージウム教授ヨーハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ先生の心ならずも口にせし失言録』(5)ではなく、「ペンギン・クラシックス」シリーズのマルクス・アウレリウス『自省録』(6)でもなく、ニコルソン・ベイカー『中二階』だった。
(1) 『中二階』冒頭のパロディー。「マツモトキヨシ」は、松本人志に少し似ているが無関係で、創業者の名前にちなんだ日本のドラッグストアだ。この松本清氏は千葉県の松戸市長を務めたこともあり、市民からの要望をスピーディーに処理するための「すぐやる課」を発足させたことで有名。ネーミングセンスに関しては、引退したプロ野球選手が焼肉屋を経営する手腕と同程度のセンスだったと思われる。なお、「物理学部2号館」とあるが、自分が物理学部の学生であるように偽っている。

(2) 『中二階』第9章のパロディー。白水Uブックス版104~105ページ。あまり効果的ではないのでわざわざ挿入しなくても良かったと、今になって思うが、せっかく入力したのに消すのも惜しいなと思い残すことにした。

(3) ネットの紹介では、「アレキサンダー大王は、その死に先立つこと二十一年前に毒殺された」 「住人八万人につき、毎年、二人ないし三千人が雷に打たれて死ぬ」 「ライオンの遠吠えは猛烈なもので、何マイルも離れた荒野でも、吠えたてた当のライオンの耳に達する」 「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる」 「カエサルはいまわのきわの直後に死んだ」 「イギリスでは、女王はいつも女である」 「ドイツでは、毎年、人口1人あたり22人が死ぬ」 「ナイル川は海さえも水びたしにする」など、抱腹絶倒の失言が紹介されていますが、中には「それ失言か?」といぶかしく思える発言も多く収録されていて、期待するほどではない。

(4) 『中二階』第1章の末尾をほぼそのまま転用。白水Uブックス版12ページ。木原善彦『実験する小説たち』でも引用されている。なお、「中二階」は「ちゅうにかい」と読む。まちがえる人はいないと思うが、私自身ながらく「なかにかい」と読みまちがえていたため、念のため。

(5) 『象は世界最大の昆虫である ガレッティ先生失言録』の原本。ガレッティ先生は18~19世紀のドイツ人。

(6) 『中二階』の主人公が手にしている、黒い表紙の本。タイトルからは「俺ってやつぁあ、なんてダメなヤツなんだ……マルのバカ!もう知らないっ!ムカ着火ファイアー!!」という内容を想像されるかも知れないが、実際にはローマ皇帝の書いた箴言集。




 『中二階』の、カバー裏の紹介文には、「中二階のオフィスに戻る途中のサラリーマンがめぐらす超ミクロ的考察―靴紐はなぜ左右同時期に切れるのか、牛乳容器が瓶からカートンに変わったときの感激、ミシン目の発明者への熱狂的賛辞等々。これまで誰も書かなかったとても愉快ですごーく細かい注付き小説」と書いてある。そして、帯の表側には、「想像力が細胞分裂のようにあふれ出す/前代未聞の/『極小(ナノ)文学』!」とあり、裏側には、「そこには、今までどんな小説も表現しえなかったような、全く新しい種類の美があったのだ。たとえて言うなら、雄大な山脈の写真と、一輪の花のアップの写真と、どちらを壁に掛けようかと迷っていたら、こんなものもありますよと、電子顕微鏡でとらえた素晴らしく鮮明な原子の写真をいきなり突きつけられた──そんな感じの驚きだ。(訳者あとがきより)」とある。
 ツイッターを始めたばかりのころ、お気に入りの奇書を10冊挙げようとして、ニコルソン・ベイカー『中二階』を7番目に選んだ。そのときの私のツイートは、「⑦ベイカー『中二階』 エスカレーターで中二階に上がるまでの超微視的な思考。 たかだか数十秒間の取り留めのない思考を長編として敷衍したため、他の小説にはない恐ろしくスローモーションな時間が流れる。 #奇書10」だった。(1)
 そして、お世話になっております木原善彦『実験する小説たち』では、第10章「脚注の付いた超スローモーション小説」にて、『中二階』を8ページ使ってばっちり解説している。その中で木原先生は、超ミクロ的考察をいくつかリストアップしたあと、こう書いている。

今までの日常で経験していながら、改めて考えたこともないし、誰かがそれについて話しているのを聞いたこともないようなちょっとしたことが取りあげられているのがお分かりいただけるでしょうか。お笑いネタとしての‟あるある”は、「こういうことがあるよね」と指摘して終わりですが、『中二階』はそれを時には詩的に描写し、時には歴史的に解説し、時には人生そのものを左右する問題であるかのように論じ立てます。

 「細密描写」はニコルソン・ベイカーの十八番であり、この作家最大の特徴と言える。安易に引用すると膨大になるのでやめておくけど、常人離れした観察眼と、卑近な素材をあつかっていながらちっとも退屈させない描写力は、唯一無二と言えるのではないだろうか。(2)
 以前筒井康隆『虚人たち』を書評したとき、その欠陥として以下の点をあげた。
「まだまだあります。「風景描写」のくどさです。SFから純文学への過渡期、筒井康隆は短編「寝る方法(3)」「冷水シャワーを浴びる方法」「歩くとき」でハイパーリアリズムの綿密描写に挑戦していますが、これは短編だから許される描写であって、長々と続けられると読者は辟易します。短編であったって、書く方は楽しくても、読む方はたまったものじゃありません。」
 またずいぶん思いきったことを書いたものだと、我ながらヒヤヒヤするけど、この気持ちは今も変わらない。だが、ニコルソン・ベイカーの筆致には、この指摘は当てはまらない。細密描写でありながら、まったく退屈させず、読書の愉楽を存分に味わわせてくれる。(4)
(1) その他のツイートは以下の通り。いずれも2014年6月9日の連続ツイート。
 ①スターン『トリストラム・シャンディ』 奇書の元祖として外せない。 脱線しまくる本編(主人公がなかなか誕生しない)と冗説法の文体、喪に服すための黒塗りページや物語の進行を表すグラフィカルな処理。 #奇書10
 ②ジョイス『ユリシーズ』 大長編ながら小説内時間はたった1日。小説らしからぬ卑近な題材、実験的な文体の鮨詰め。後世への影響は絶大。 #奇書10
 ③ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』 1作家1作品にしようと思ったけどこれは外せない。 ベースとなる英語に世界中の言語を混ぜ合わせた、駄洒落による大伽藍。 読み手の解釈によって自己増殖する(まともに読めない)怪文書。 #奇書10
 ④ペレック『人生 使用法』 何の先入観なしに読んでもまともな小説ではない。世界を直方体の中に詰め込んだ、サイズ以上に巨大な書。 #奇書10
 ⑤パヴィチ『ハザール事典』 幻のハザール王国に関する、事典形式の小説。 赤の書(キリスト教)緑の書(イスラム教)黄の書(ユダヤ教)から成り、同じ事物を立項しても宗教によってそれぞれ別の解釈を取る。 赤緑黄3本の紐つき。 #奇書10
 ⑥筒井康隆『虚人たち』 時間・事件・人物・性格・場所・風景描写の実験を全てぶち込んだ、「ああ、1作の中で全部やっちゃ駄目なんだ」としみじみ思わせてくれる超虚構。 『虚航~』『残像~』『朝ガス』も10選に入れたかったけど…。 #奇書10
 ⑦ベイカー『中二階』 エスカレーターで中二階に上がるまでの超微視的な思考。 たかだか数十秒間の取り留めのない思考を長編として敷衍したため、他の小説にはない恐ろしくスローモーションな時間が流れる。 #奇書10
 ⑧ダニエレブスキー『紙葉の家』 ポストモダンの極北。 写真、多彩なフォント・文字サイズ、鏡文字、「家」という字が全て青色、縦横無尽のタイポグラフィ。その異常性は読まずとも一目瞭然。 内容も形式に劣らず異様。重層的な構造によって不気味な物語は現実味を増す。 #奇書10
 ⑨フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』 ネットで小説が読めるようになったからか、紙媒体でしか出来ない表現を追及している。 写真の多用、手書きの赤丸が施された章、行間が徐々に詰まっていきやがて真っ黒になる章──9.11後の悲しみを記す最良の方法。 #奇書10
 ⑩ホフマン『牡猫ムルの人生観』 最後はあまり選ばれなさそうな一編を。 漱石の猫より早く喋った猫の自伝だが、インクの吸い取り紙として使った反故も一緒くたになって印刷されてしまい、猫と楽長の伝記が互い違いに展開するハメに。植字工の無能により、誤植もひどい。 #奇書10

(2) 大量の事物を描写する作家として、他にジョルジュ・ペレックがいる。しかし、ペレックのそれは感情の介入しない事物の「列挙」であって、無味乾燥なカタログのような印象だ。変態読者は「なんてヘンチクリンなモノを読まされてるんだ(*´Д`)ハァハァ」と興奮するかも知れないが、普通一般の読者にとっては物語性のない、読むのが苦痛な代物である。一方で、ニコルソン・ベイカーのそれは主人公の心の動きを捉えている。そしてまた、丹念に読んでいくことによって、主人公のバックボーンが明らかになっていく。

(3) 「寝る方法」の冒頭を引用する。
寝る時は、まずベッド側面部を背にして立ち、ゆっくりと膝を曲げて尻をベッドの上に乗せる。この時、尻の最後部つまり尾骶骨より垂直におろした架空の直線がベッドの端から少くとも二十五センチは奥になければならない。また、出来得れば尻と共に大腿部の裏面にあたる部分も幾分かはベッドの上に乗せ得るほど深く掛けておくことが望ましい。何故ならば通常ベッドの上にはマットレス、シーツ、毛布といった睡眠用具が多くは固定されぬままで置かれているため、ベッド両側面から二人の人間が同時に寝ようと試みる場合を除いて、ベッドの端に尻を置くという行為が当人の上半身をきわめて不安定な状態にするからである。特にマットレスはほとんどその弾力性によってのみそれ自身の価値を論じられ決定づけられているほどの製品であるから、人間の上半身の重量によってたやすく圧迫され、これはベッド表面の急激な沈下を促し、さらにシーツ、毛布といった滑りやすい布製品の急角度の傾斜を齎すのである。


(4) くどい描写の嚆矢は、ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』の第3巻第29章か。夏目漱石が評論『トリストラム、シヤンデー』において「其繊細なる事、殆んど驚くべし」「如何に綿密なる筆を以て写し出されたるかを見よ」と指摘している。
「スターン」の叙事は多く簡潔にして冗漫ならず、去れども一度此法度を破るときは、尾々叙し来つて其繊細なる事、殆んど驚くべし、「トリストラム」出産の当時、婦人科専門の医師「スロップ」と云へるが、医療器械の助を藉りて生児を胎内より引き出したる為め、彼の鼻は無残にも圧し潰されて、扁平なる事鍋焼の菓子に似たりと、聞くや否や、父「シャンデー」は悲哀の念に堪ず、倉皇己れが居室に走り入りて、慟哭したる時、彼の態度は如何に綿密なる筆を以て写し出されたるかを見よ、「床上に臥したる吾父は、右手の掌を以て其額及び眼の大方を蔽ひながら、肱の弛むに任せて漸々其顔を低れて鼻の端蒲団に達するに至りて已みぬ、左手は臥床の側らに力なくぶら下り、戸帳の陰より少しく見はれたる便器の上に倚り、左足を彎曲して体の上部に着け、右足の半分を寝台の上より垂れて其角にて脛骨を傷けながら、毫も痛を感ぜざるものゝ如く、彫りつけたらんが如き悲みは彼が顔面より溢れ出ん許りなり、嘆息を洩す事一回、胸廓の昂進するもの数たび、然れども一言なし」

同じ場面の、朱牟田夏雄による翻訳。
 私の父は階上の自分の室に入るやいなや、これ以上は想像もできないほどの取り乱した姿で、ベッドにパッタリとうつぶせに身を投げ出しました。しかしそれと同時に父の姿は、古来憐憫の眼によって一掬の涙をそそがれた中でもこれ以上は考えられないほどのいたましい、悲しみにうちひしがれたものでもありました。――父が最初にベッドに崩れるように身を横たえた時、父の右手の掌はその額をささえて、両の眼の大部分をおおっていましたが、次第に少しずつ頭とともに下って行って(肱がだんだん弱って腹のほうに寄って行ったのです)、とうとう鼻が敷蒲団についてしまいました。――左の腕はダラリとベッドの外にたれて、指の関節のあたりが、ベッドの垂れ布の下からのぞいているしびんの柄のところにさわろうとしていました――右の脚も(左脚は胴体のほうに引き寄せてありました)、なかばベッドの外にはみ出して、ベッドのへりがその脛骨を圧迫していましたが――本人はそれを感じませんでした。顔のしわの一つ一つにも、深い動かしようのない悲嘆が刻みこまれており――父は溜息を一度つき――胸を何度か大きくふくらませましたが――言葉は一言も発しません。

 ニコルソン・ベイカーの細密描写を読んでいると、どういった気持ちになるか。ツイートをくり返すが、「たかだか数十秒間の取り留めのない思考を長編として敷衍したため、他の小説にはない恐ろしくスローモーションな時間が流れる。」
 ここで思い当たるのが映像の世界だ。動体をハイスピードカメラで撮影したあと、通常の速度で再生すると、ゆっくりもったりした映像になる。具体的には、1秒間に1万コマを撮影し、それを通常の秒間24コマで再生すると、肉眼ではとらえられないような瞬間瞬間をつぶさに観ることができる。
 動物の生態ドキュメンタリーなどでは、トカゲが虫を捕捉する瞬間や、魚が水面から跳ねる瞬間を、時間が飴細工のように溶けた感覚で鑑賞できる。
 プロモーションビデオの世界で真っ先に思いつくのが、映画監督になる前のスパイク・ジョーンズが撮った、火だるまの男がバスに駆け寄る映像だ。これはWaxというアーティストの曲「California」のために撮影されたビデオで、現実時間12秒ほどの映像を2分20秒に引き伸ばしている。【Youtube(1)
 このビデオのオマージュである10 FEET「STONE COLD BREAK」は、もっとさまざまな要素が詰めこまれていて見ごたえがある。現実時間わずか4秒で撮った映像を、スロー再生で3分以上に引き伸ばしている。いったい何回撮り直したんだろう。
 映画で言えば、おもにアクション場面でスローモーションは多用される。銃弾を避けたり、車がクラッシュしたり、徒手空拳で格闘するシーン、爆発シーン、などなどだ。
 1本まるまるスローモーションという映画も、ないことはない。眠っている男をただただ映しただけの、何も起きない実験作品、アンディー・ウォーホルの超長編映画『眠り (Sleep)』がそう──だと思っていたけど、これは私の記憶違いだった。ネットで詳細を調べてみたら、6時間だか8時間だかのリアルタイムを垂れ流す映画だった。
 オノ・ヨーコとジョン・レノンが似たような映像を撮っていたと記憶していて、いろいろと検索してみた。その中で、オノ・ヨーコの5番目の映像作品「№5(通称「Smile」)」が、それに近いかなという気がした。これは、「ジョン・レノンが真顔から微笑になる過程(現実の時間で数秒)」を、1時間弱の上映時間に引き伸ばした作品。ジョン・レノンと寝たいと願う女の子でも、まともに観る気にはなれないだろう。この作品はたしか、映像としてではなく、徐々に変化していく絵画として制作していたはずだ。(2)
 漫画では、江川達也『東京大学物語』がそうだ。東大を目指す主人公・村上の思考回路は超高速で、時に数時間に及ぶ場面を一瞬で克明に妄想する(何ページにも渡る物語の進展のあと、「この間、0.1秒」村上の妄想であったことが判明する)。漫画は全34巻の長編でありながら壮大な夢オチであり、好意的に見るなら超スローモーションとも言える。(3)
(1) この炎は本物だ。ガソリン:キセロン=3:2、プロパン少々の配合。スタントマンは耐火ジェルを塗りたくり、一発撮りのこのシーンを9テイクもこなしたが、実際に採用されたのはテイク3だった。バンドメンバーがビンを投げる、そのタイミングが難しかったらしい。すごい映像だが、別にこの曲のための映像でなくても良かったと思う。なお、スパイク・ジョーンズは『マルコヴィッチの穴』などで有名。冗談音楽の王様であるスパイク・ジョーンズとは別人。

(2) ジョン・レノンが眠っているだけのスロー映像があったと思うんだけど、記憶違いだろうか。ご存知の方いらっしゃいましたら近所の居酒屋で学説を発表してください。私には知らせなくていいです。

(3) 『東京大学物語』は実質的にはエロ本であり、『もしもし』『フェルマータ』を書いたニコルソン・ベイカーと偶然にも共通している。同時代性というやつか。

 細密描写はニコルソン・ベイカーの最大の武器だが、だからといって、唯一の武器ではない。他の著作も軽く見ていこう。
 現在までに刊行されている邦訳は以下の6作。ほとんどが、岸本佐知子訳・白水社刊(1)。ゆいいつ『ひと箱のマッチ』だけはパリジェン聖絵(2)訳・近代文藝社刊である。

『中二階』(1988)(3)
『室温』(1990)(4)
『もしもし』(1992)(5)
『フェルマータ』(1994)(6)
『ノリーのおわらない物語』(1998)(7)
『ひと箱のマッチ』(2003)(8)

 これを見ると「2003年以降は本を出していないのかな」 「筆を折ったか」 「もしかして死んじゃったのかな」 「ウィキペディアの写真を見る限りでは、ずいぶん高齢だったみたいだし……」と思われそうだが、ところがどっこい生きている。バリバリ現役として活躍中だし、ウィキペディアの写真はどこのジグムント・フロイトだって感じだが、驚くなかれ50歳のときの写真だ。

 未訳の作品については以下の通り。

『U and I』(1991) ──自伝的エッセイ。
『Double Fold』(2001) ──図書館の蔵書廃棄を批判するノンフィクション。
『Checkpoint』(2004) ──主人公たちがブッシュ大統領を暗殺しようとする小説。
『Human Smoke』(2008) ──第二次世界大戦に関するノンフィクション。
『The Anthologist』(2009) ──詩人を主人公にした小説。
『House of Holes』(2011) ──エロ短編集。デカメロン的な枠物語?
『Traveling Sprinkler』(2013) ──『The Anthologist』の続編。
『Substitute』(2016) ──教師として短期間働いた際のドキュメンタリー。
(1) 岸本佐知子氏の訳はたいへん評判が良い。翻訳の刊行は『もしもし』 『中二階』 『フェルマータ』 『室温』 『ノリーのおわらない物語』の順。しかし、急にニコルソン・ベイカーに飽きたのか、新作を訳してくれなくなった。岸本さんは『エドウィン・マルハウス』の翻訳者でもあるから、『ノリーのおわらない物語』に失望したのかも知れない。

(2) パリジェン聖絵。すごい名前だ。フレスコ画に描かれていてもおかしくなさそうな、聖母さまみたいな名前だ。少女漫画の主人公だよと言われても疑わないくらい高貴。そもそも読み方すらわからないが、「パリジェン・きよえ」だろうか。

(3) 『中二階』。中二階のオフィスに戻る途中のサラリーマンがめぐらす超ミクロ的考察―靴紐はなぜ左右同時期に切れるのか、牛乳容器が瓶からカートンに変わったときの感激、ミシン目の発明者への熱狂的賛辞等々。これまで誰も書かなかったとても愉快ですごーく細かい注付き小説。だってさ。

(4) 『室温』。帯の解説によると「赤ん坊にミルクをやる二十分のあいだに、ひとりの男の脳裏に去来するさまざまな事柄を、顕微鏡的細かさと止めどない連想力で描いた小さな傑作。」とのことで、前作の姉妹作と言える。ベイカー×岸本のコンビ作のうち、この『室温』だけは白水Uブックスに入らず、ハードカバーの単行本しか存在しない。売れ行きがかんばしくなかったのかも知れない。たしかに、手法としては前作を踏襲しているし、未読の人からは「停滞」とか「マンネリ」と思われても仕方がないかも知れない。だが、実はこの作品こそがニコルソン・ベイカーの最高傑作だ。と、個人的には思っている。人生に対する深い洞察。

(5) 『もしもし』。エロ電話小説。ほぼ男女の会話だけで成り立っている。女性の深層心理をえがいている点において、女性読者からの評判も良かったそうだ。詳しくは前回の書評を参照のこと。

(6) 『フェルマータ』。その作風を「スローモーション」とたびたび評されてきたニコベーが、ついに時間を止めた! スイッチを使って時間を止める能力に目覚めた男の自伝。映画『マトリックス』に代表される「タイムスライス」という手法を、小説にも援用した感がある。『中二階』『室温』で発展させてきた手法の終着点とも言える。そして、全米大ヒットとなった『もしもし』の後釜だということもあり、ふんだんにエロが盛り込まれている(主人公は女性の服を脱がせてまじまじと観察する)。──『中二階』の時間操作と『もしもし』のエロを融合させた、著者の集大成と言っても良い作品。だからと言って最高傑作かというとそうでもなく、特に本国での女性からの評価はさんざんだったそうだ。

(7) 『ノリーのおわらない物語』。出版社からの紹介文は、「九歳のアメリカ人の女の子ノリーは、イギリスの小さな町の小学校に転校する。お話はノリーの視点で語られるが、彼女の使う言葉はいかにも子供らしいおかしな間違いでいっぱいだ。ノリーは正義感が強くて、いじめにあっている女の子を必死でかばったりする。一方彼女はお話を創るのが大好きで、奇天烈な物語を書いて、みんなに読んできかせたりする。かつて子供だった読者は、彼女のおしゃべりを聞きながら「ああ自分もこうだった」と笑いながらうなずいてしまうことだろう。『中二階』『もしもし』の作家が、これまで誰も書けなかった楽しくて可愛くてへんてこな「子供の世界」を生き生きと描く。」である。著者の娘をモデルにし、子供の世界をえがくことに挑戦していてある程度は成功している。成功しているが、スティーヴン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』の格段に落ちる劣化版と言わざるを得ない。

(8) 『ひと箱のマッチ』
 「日本国内へのニコベーの供給がストップした……」特殊読者たちは飢餓感にかられた。それはまるで、「それにつけてもおやつはカール」が東日本で生産中止になるという報を受けて、カール中毒患者たちが四国移住を本気で考えるようなありさまだった。
 とそこへ、ニコベー中毒患者たちでも知らない間にひっそりと、『ひと箱のマッチ』が翻訳刊行されていた。「いつの間に?」「パリジェン…何?誰?」 「岸本佐知子じゃないの?」 「近代文藝社って、出版の純粋な売上と言うよりは、シロウトに自費出版を勧めて利益を出してる会社じゃなかったっけ??」 「得体が知れない。大丈夫か」 大丈夫! すばらしい翻訳でした。
 パリジェンさんは名高い岸本訳を過剰に意識しており、訳者あとがきで以下のように書いている。
「同氏の作品は1994年から2004年にかけていく点か邦訳が出版されており、本書を手に取られた読者の皆様のなかには、既刊の邦訳をお楽しみになったかたがたも多いのではないでしょうか。作家ベイカー氏の力量もさることながら、その訳者の腕前にも敬服の至りです。」
「(略)ベイカー氏の邦訳書をあらかじめ研究してはどうか、という声も周囲から聞かれました。しかし、私という訳者は私以外の誰にもなり得ません。なろうとしたところで、似て非なる二流品を生み出しかねないでしょう。私は既刊の邦訳書を一冊残らず熟読したい気持ちを封印し、読み取るまま、感じるままのベイカー節を表現してみることにしました。」
 そんなに意識しなくても良かったのでは……って、意識しちゃうか。私が同じ立場だったらやっぱり、立ちはだかる岸本佐知子の壁を見あげてため息をつくと思う。
 で、肝心の内容。「グッドモーニング」から始まる、夜明け前の炉端での随想が33章にわたって書かれている。エロ要素はほとんどなく、『中二階』『室温』の細密描写へ回帰している。『中二階』『室温』には劣るものの、同傾向の作品として普通に面白いです。ニコルソン・ベイカー超早起きだなーとか、寒そうなトコに住んでんなーとか、その場にいる感覚をぞんぶんに味わえます。パリジェンさん、翻訳してくれて、どうもありがとう。
 あと、装丁が秀逸。カバーは黒地に火の付いたマッチだが、炎の部分に穴が開いており、カバーを外すと暖炉になる。これ以上に作品内容を端的に表している装丁はない。近代文藝社、いい仕事をしています。

 フィナーレ。『中二階』がニコルソン・ベイカーの代表作とされているのには、わけがある。細密描写はほかの作品も他の追随をゆるさないほどすごいし、『中二階』に限った技法ではない。『中二階』が真にオリジナリティーを発揮しているのは、その脚注のすさまじさである。ちくま文庫でも恐れおののくほどの文量で、はなはだしい時には見開き2ページに本文が3行(!)、脚注が40行(!!)、それが6ページ以上続く場面がある。もはや脚注というレベルではなく、ふざけているとしか思えない。
 脚注で遊んでいる小説は、ぱっと思いつくだけでも相当ある。田中康夫『なんとなく、クリスタル』、円城塔『烏有此譚』、筒井康隆「注釈の多い年譜」(短編)、マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』、ライフ・ラーセン『T・S・スピヴェット君 傑作集』、『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』などなど……。だが、『中二階』ほど脚注への偏愛をあからさまにしている作品は他にあるまい(1)。時として主従が逆転するほどの脚注──これこそが、『中二階』を唯一無二たらしめ、ニコルソン・ベイカーの代表作たらしめている。
(1) 「他にあるまい」とかっこよく決めた矢先に申しわけないが、『実験する小説たち』で紹介されているマーク・ダン『同書──小説』は『中二階』を超えている。なにせ、本文がなくて注釈しかない。未訳なのが残念。




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