とりぶみ
実験小説の書評&実践
【小説】101号室   (2017/03/02)
 僕はホラー映画が大嫌い! 怖いから? 怖くないから!

 三寒四温の候、皆様におかれましてはやや体調不良のことと存じます。
 寒さの揺り戻しが厳しいこの季節、鼻水が出たり痰が絡んだりしてイヤですよね。あったか~いだったり、つめた~いだったり、どっちかにしろ!
 そんなわけで今回の短編小説は、納涼! 本当にあったこわ~い話をお送りします。



第1章 内覧

 大学を卒業し、N県N市内のバス会社に就職した。
 一人暮らしを始めることになり、検索サイトで引っ越し先を探した。検索条件は駅徒歩15分以内・家賃7万円以内・風呂トイレ別。
 いくつかヒットしたうちの、駅徒歩10分、築30年、2階建ての2階、2DK、エアコンつきの物件に目星をつけた。最寄駅はS駅。家賃は4万5000円だった。S駅徒歩10分はワンルームでも6万円が相場だから、かなり格安だ。
 間取り図を見ると、左上が和室6畳。右上が洋間4畳半。右下がダイニング・キッチン6畳。左下に風呂・トイレ・洗面台。
 さっそく不動産会社に連絡し、内覧させてもらうことにした。
 駅徒歩10分。不動産会社のいう徒歩10分は、実際には15分くらい掛かるものだ。しかし、団地の中を突っ切っていけば、実際には8分しか掛からなかった。
 約束の時間の少し前にアパートに着くと、スーツ姿の中年男性が1階のドアを開けているところだった。
 スーツは僕に気づくと、ぺこりと会釈をし、「大塚さんですか?」とたずねてきた。
「そうです。よろしくお願いします」
「わたくし、S住販のTと申します」
 名刺を受け取り、内覧がはじまった。
 アパートは、101号室・102号室・201号室・202号室の、全4部屋。
「今あいているのは102号室と201号室。どの部屋も同じ間取りです」
 僕の希望は201号室だったが、まずは102号室を見せてもらうことになった。郵便受けに「CLOSE」と書いたシールが貼ってある。
 玄関入ってすぐ、6畳ほどのダイニング・キッチンになっている。靴を脱いで上がると、右手に流し場・調理台・ガスコンロ置き場。左手に風呂・トイレ・洗面台。
 風呂は新品だった。最近、改装したのだという。
「102号室はお家賃4万3000円です。台所の給湯器が、古いままでして。それで201号室より2000円お安くなっています。お湯は出せますので……あ、洗面台はどうかな。あ、洗面台はお湯出ないみたいです」
 洗面台のコンセントには、昭和のフォントで「ナショナル」と書いてあった。
 風呂とトイレはせまい。特にトイレは僕が生涯に見てきた全トイレの中で一番せまい。洋式だが、シャワートイレではない。
「もし入居したらシャワートイレにしてもいいですか」
「あ。はい。お客さまご負担になりますが」
「で、このトイレ、コンセントがありませんよね。それは──」
「それは大丈夫です。電気屋に依頼をし、コンセントを増設させます」
 僕はうなずき、洋間に移動した。4畳のフローリング。横開きの戸でダイニングと隔てられている。
「この戸を外してしまって、ダイニングと直結させる。そうしますと10畳ほどぶちぬきの部屋としてもお使いいただけます」
 洋間つきあたりのガラス戸をあけると外に下りられる。南東に向いており、陽当たりは良好だった。
「隣は空き地になっています。このアパートの大家さん所有の土地ですが、今のところ何か建てる予定はないそうです。何か建ってしまうと、陽当たりは悪くなるかも知れませんが」
 和室は取っ手つきのドアで、やはり南東向きの窓。大きな押入れがある。畳は色あせていた。
「入居が決まりましたら、畳はこちらで新品と入れ替えさせていただきますので」
「これ、部屋の電気は」
「照明ですか。照明はお客様ご自身で買っていただいて、あそこ、電源がありますね、あそこにご自身で取り付けていただきます」
 一通り102号室を見て回ると、お目当ての201号室に移動することにした。
 外付け階段の下に自転車が2台置いてあった。
「自転車買ったとしたらここに置けばいいんですか。でも、もう置くスペースないですね」
「そのあたり、わたくしもちょっとわかっていないんですが。大家さんに確認します」
 201号室の郵便受けにも「CLOSE」と書いたシールが貼ってあった。ダイレクトメールやチラシなどを防止するためだろう。鍵はすでに開けてあり、すぐ中に入った。
「間取りは同じですね。ただ、台所の給湯器がお風呂と直結していて、洗い物をしながらでも、お風呂の自動給湯がおこなえます。102号室だと出来ないんですけどね」
 そのほか、102号室との違いは、洋間の外だった。小さなベランダになってる。洗濯物はここで干せる。ただ、雨戸は錆びついているのか開きにくかった。
「サッシ業者に直させます」
 アパートのすぐ横は片側2車線の道路になっているが、交通量はそれほどでもない。道路の向こう岸に小学校があるが、子どもたちの騒ぐ声もほとんど聞こえてこない。僕はベランダからの眺めをしばらく満喫した。たまに通る車を見下ろしながら、風の音に耳をかたむけた。
「借ります」
「え」
「ここ、借ります」
 急に決断したので、S住販のTさんは少し驚いていた。気に入ったのだ。僕はここに住む。
「201号室でよろしいですか」
「はい。やっぱり201で」
「大丈夫ですか。他に質問はありませんか」
 引っ越しシーズンのこの季節。駅からの近さ・間取りの良さ。ハイスペック。なのに、なぜ売れ残っているのが不思議だった。忌憚のないところを訊いてみた。
「なんでこんなに安いんですか。もしかして事故物件とかですか」
 スーツは少し眉を上げた。すかさずニコリと笑って、手うちわを左右になびかせた。
「いえいえいえ。そういうことではございません」
「いや別に事故物件でも気にしないんですが。どうしてこんなに安いのかな、って」
「それはですね……。この辺に、大学があるのですが」
「ありますね」
「あの大学のキャンパスが、M市に移動したんですね」
「ほう」
「今ではあの校舎には、大学院とか研究者の人しかかよってないんじゃないかな。で、この辺も昔は学生さんがいっぱい借りてたんですが。ごっそりいなくなったと。必然的に部屋が余ってしまって、それでどんどんお安くなっているというわけです」
「なるほど」
「意外とね。意外とこの辺は、探すと空き家が残っているんですよ」
「わかりました」
 僕とS住販のTさんはアパートを出た。201号室と102号室に施錠をした。
 社用車に乗せてもらい、近所をドライブした。徒歩2分のスーパーマーケットや広々とした公園、うまいラーメン屋などを紹介してもらった。のみならずS駅の周辺や反対側も案内してくれた。S駅はかなり栄えていた。
 駅前のデパートの立体駐車場に車を駐車し、デパート内の事務所で契約手続きの説明を受けた。必要書類を受け取り、契約日を約束した。契約日に部屋の鍵を受け取り、即日入居する手筈を整えた。




第2章 契約、入居

 契約日に向けて、引っ越し準備を粛々と進めた。
 大量の荷物を処分した。
 CD・LP・音楽関係の書籍やDVDは、ディスクユニオンの宅配買取を利用した。梱包用の段ボール箱を郵送してくれるし、集荷手続きもしてくれる。7箱分364品を詰め込んで買取りセンターに発送した。査定には2週間ほど掛かった。キャンペーン中につき買取り価格が20パーセントアップし、全部で159,747円になった。なかばヤケクソで押しつけた『コデックス・セラフィニアヌス』が3600円で売れたのには驚いた。
 本・ゲーム・映画のDVD・服・ゴミCDは、ブックオフの訪問買取を利用した。自宅まで来て、その場で引き取ってくれる。査定には2時間ほどかかった。293点に値が付いた。予想していた買取価格は5000円だったが、実際には5万円になったので驚いた。
 ブックオフですら見捨てたゴミは、複数回に分けてゴミに出した。
 転出届や各種住所変更をこなした。ガス会社に供給開始の申し込みをした。父親に保証人承諾書を書いてもらった。アマゾンで家電を購入し、引っ越し翌日、新居に届くよう設定した。必要な荷物はレンタカーで運ぶことにした。
 そして契約日。約束の時間は昼過ぎだった。認印・実印・銀行通帳・住民票などの必要書類をたずさえて、僕はS住販の事務所を訪ねた。
 1時間ほど、関係書類の読み合わせをする。約款や遵守事項、補修の負担区分、敷金や火災保険を相互に確認する。
 そして、契約書にハンコを押す段階になった。すべて確認し合い、ハンコを朱肉に押し付けたその間際、S住販のTさんは言った。
「あ、言い忘れてましたが。大塚さんの201号室の、下。101号室。あそこ、開かずの間なんですよね」
「え」
 僕は思わず顔を上げた。このタイミングで言うか。
「なんか、人が入居してないのに勝手に電気メーターが上がるんですよ。誰かが侵入してるんじゃないかって。で、大家さんが気味悪がっちゃって……。あそこはもう、誰にも貸さないことになったんです」
 言われてみれば、101号室の郵便受けにもテープが貼ってあった。「CLOSE」とは書かれていない、黒色の養生テープが。
「まあ、たいしたことではありませんが」
 S住販のTさんは目顔で捺印を促してきた。何週間も掛けて引っ越し準備をしてきた。今さら後に引けない。僕はハンコを契約書に押し付けた。楕円に囲まれた「大塚」という縦書きの文字が、朱色で鮮やかに刻印された。
 鍵を受け取った。事務所にいた社員が全員立ち上がり、深々とおじぎをして僕を見送った。
 荷物の大半は明日届くし、レンタカーの予約も明日だ。だが、電灯だけでも取り付けようと思い、デパートでLEDのシーリングライトを物色した。3部屋分必要だが、まずはダイニング・キッチンの分を1つだけ買った。
 シーリングライトの入った段ボール箱を脇に抱え、僕はアパートに向かって歩き始めた。陽が傾き出していた。
 アパートに着くと、部屋の中は薄暗かった。さっそくシーリングライトを取り付けようと思った。
 段ボール箱を開封しようとしたが、ハサミがない。そうか。この部屋には何もない。仕方がないから、受け取ったばかりの鍵の先で粘着テープを切り裂いた。中からシーリングライトを取り出した。説明書を読み、取り付け方法を確認した。
 天井を見上げた。あそこに取り付けるのだな。両手でシーリングライトを持ったまま、天井を見上げている。
「高い」
 思わずつぶやいた。そうか。この部屋には何もない。踏み台となるテーブルやイスすらない。
 精いっぱい腕を伸ばしたり、ジャンプをしたりしたが、届くわけがない。窓から入ってくる光はどんどん弱くなる。流し台の蛍光灯を点けた。僕はすっかり悲しくなった。
 仕方がないから、ゲタ箱を壁からひっぺがした。バキバキ音がした。不安定なゲタ箱の上に恐る恐る上がって、シーリングライトを取り付けた。ゲタ箱を元の位置に戻し、クギをうまく引っ掛けた。靴を履き、外に出て、鍵を閉めた。こうして契約当日は終わった。
 翌日、タイムズのカーシェアでコンパクトカーを借りてきた。せまい荷台に、イスやちゃぶ台などの家具、テレビやパソコン、布団、衣類・生活必需品を詰めた段ボール箱を押し込んだ。2往復して、必要な物はだいたい移動し終わった。
 2往復めで、ガス会社の人と会った。約束よりずいぶん早い。レンタカーの返却時間が気がかりだったが、元栓を開けるのに立ち会い、書類に必要事項を記入した。
 レンタカーを返却し、新居に凱旋して、ようやく一息ついた。小雨が降ってきた。薄暗いダイニングでタバコを吸った。実家から持ってきた灰皿に灰を落とした。
 その後、アマゾンから家電が続々と届いた。冷蔵庫・洗濯機・電子レンジ。シャワートイレ。IHヒーター・フライパン・鍋・電気ポット・炊飯器。トイレットペーパー・ティッシュ・石鹸・シャンプー・ボディータオル・歯ブラシ・歯磨き粉。風呂用と食器用のスポンジ・洗剤。インスタント焼きそば・即席めん・ゼリー飲料・ティーパック。
 家電を設置するときにようやく気付いたが、この部屋はコンセントの配置が絶望的だった。
 洋間の窓側にテレビのアンテナ端子があり、必然的にテレビはここに置くことになるが、コンセントが一つしかない。テレビの電源を取ったら、他に何も使えない。何も。洋間にはこれしかコンセントがなく、DVDを観ようと思えば二股ソケットを買って来るしかない。
 冷蔵庫の上に電子レンジを載せようと思っていたが、コンセントの数が足りない。そのくせ、電器をあまり使う予定のない和室には、コンセントが4つもある。絶望的にセンスがなかった。試行錯誤のすえに、家電の位置を決めた。シャワートイレは自分で便座を交換・設置した。
 ゼリー飲料を手土産にして、隣室の202号室にあいさつに行った。まさかの3人家族だった。階段の下の自転車2台はこの人たちの物だった。あの自転車のせいでてっきり、4部屋のうち2部屋は入居済みだと思っていたが、ちがった。このアパートには、僕が入居してくる前はこの人たちしか住んでいなかったのだ。
「あ、言い忘れてましたが。大塚さんの201号室の、下。101号室。あそこ、開かずの間なんですよね」
 S住販のTさんの言葉が思い浮かんだ。
 休憩がてらテレビを観ていると、いつの間にか夜になった。雨は強くなっていた。外に出るのが億劫になったが、引っ越し初日からインスタント焼きそばを食べる気はしない。傘を差し、夜の下に出た。引っ越し前から目をつけていたラーメン屋ののれんをくぐった。ラーメン・つけ麺・油そばのうち、油そばを食べた。たいへん美味しかった。
 帰ってきてインターネットをし、新品の風呂に第1号の入浴者として入り、歯をみがき、寝た。見慣れない和室での初夜は、なんだか旅先の宿に泊まっている気がした。
 窓から日が差してきて、目を覚ます。この部屋にはまだカーテンがない。会社の帰りに買ってこよう。
 新居で初めて迎える朝であり、朝食は簡易的なゼリー飲料で我慢する。ただし、長年の習慣である紅茶は我慢できない。熱い紅茶を飲むことで、一気に体を温めるのだ。そのために電気ポットや個包装100個入りのティーパックを買ったのだ。
 電気ポットでお湯を沸かす。ティーパックを取り出す。
 が、しかし。
 マグカップがない。マグカップどころか、食器が1枚もない。うっかりしていた。
 しばらく熱湯とティーパックの処理に困ってまごまごしたが、仕方がないから、マグカップはフライパンで代用した。
「あちち、あちち。」
 IH用の、たいへん熱伝導率の良いフライパンだった。ダイヤモンド・コーティング。奮発しただけあって、良い品だった。


 

第3章 101号室

 デパートでカーテンを買い、ダイソーで手あたり次第に買い物をした。数日かけて、足りない物を徐々に買い足した。本棚を自分で組み立てて設置し、段ボール箱に閉じ込められていた本もようやく解放された。引越しで使った段ボールは小さく畳まれ、資源物の日にゴミ収集所へ出した。
 生活は安定した。仕事にも慣れ、暮らしに満足した。
 平穏な毎日が続いていたある日、忘れられない事件が起きた。
 その日、仕事から帰ってくると、洋間の床にぬいぐるみが落ちていた。元々は本棚の上に座っていたぬいぐるみである。地震が起きたわけではなく、泥棒が入ったわけでもない。しかも棚から落ちたとは思えない、不自然な角度で横たわっていた。
 論理的に考えるなら、本棚から『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を取り出したときに手が触れて、すでに落下寸前だったのだろう。そして床に墜落してから弾んで、こんな体勢になったのだろう。
 子どもっぽい空想を許すなら、ぬいぐるみに生命が宿ったんだろう。プーやテッドや『トイ・ストーリー』のように。僕はフフと笑い、ぬいぐるみを本棚に優しく戻した。
「ただいま」
 自分でも少し子どもっぽいなと思ったが、ぬいぐるみにあいさつした。
 風呂が沸いたので、入浴。湯船に浸かっていると、洗い場で排水口がゴボゴボ音を立てた。なんだろうと思って浴槽から身を乗り出し、フタを開けてみると、大量の髪の毛がぬらぬらと光っていた。はっと思った。顔から血の気が引き、呼吸が荒くなった。心臓の鼓動が早くなるのがわかった。
 すぐさま自分の頭に手をやった。ある。あるよな。いとおしげに毛髪を掻き分け、頭皮を隈なく点検した。ほっとして、排水口をもう1度観察する。僕の髪の毛にしてはずいぶん長い。僕はむしろハゲて来ている。誰の髪だろう、前に住んでた人のかな。少し気持ち悪かったが、明日掃除することにして、ほうっておいた。
 風呂から出て、ドライヤーで髪を乾かす。タオルを首にかけ、缶ビールをコップに注ぐ。そして黄金色の液体をグイッと喉に流し込んだとき、携帯電話が鳴動した。
 知らない番号からだった。
 会社の人かと思い、特にためらうことなく電話に出た。すると、通話できているのに何も聞こえない。
「もしもし? もしもし?」
 ややあってから、ざらついた女の声がした。
「今、あなたの下にいるよ……」
 僕は何と言っていいかわからず、黙っていた。女は同じことを繰り返した。さっきよりも苦しそうな声で。
「今、あなたの下に、いる、よ……」
 きっと誰かとの約束に遅れて、ダッシュで待ち合わせ場所に到着したのだろう。
「すみませんが、どちらへお掛けですか?」
「今あ、ああああなたの下にいいいいいる」
「すみませんが、たぶん間違い電話です」
「今あアあー、あなたの」
 切った。ビールをチビリチビリやりながら、『クレイジージャーニー』を観た。
 夜も更け、和室に布団を敷いた。毛布の中にくるまっていると、202号室の方から声が聞こえてきた。3人の爆笑する声。壁が薄いことがよくわかる。そういえば、やけに室内が寒い気がする。とっくに春を迎えているというのに冷気が漂っている気がする。きっと夏は暑いんだろう。家賃・間取り・周辺環境すべて満足だったが、こればっかりは実際に住んでみないとわからない。
 邪念を振り払い、リラックスしようと務めた。聞こえない聞こえない何も聞こえない……。
 ようやくウトウトしてきたとき、突然、目が冴えた。まったく眠くなくなった。はて、これはどうしたことだろう。なんだか喉がカラカラに乾いている。水を1杯飲もうと思って布団から体を起こそうとしたが、体が動かない。意識はあるのに、手足がしびれて動かない。懸命にもがこうとしたが、やっぱりダメだ。見えない糸でがんじがらめにされているような感覚。
 手足の先から感覚がなくなっていった。それは段々と手足から胴体の方へと上っていた。筋肉が硬直していくような気配があり、僕は焦った。このまま全身が固まっていき、最後には心臓まで止まってしまうんではないか。意識だけはビンビンに冴えている。不安になった。しかし焦ったところで、どうしようもなかった。
 それから何時間経っただろう。実際には数分だったかも知れないが、僕には数時間の出来事に思えた。体のこわばりは徐々に解きほぐされてきた。「思ったより疲れていたんだな」僕は腕や足をモミモミ揉みほぐした。
 ようやく体が自由になってきたので、携帯電話で現在の時刻を確かめると、夜中の1時。起床まで、充分に睡眠時間は確保できる。
 だが、深夜だというのに、また誰かの話し声が聞こえた。隣の住人はまだ起きているんだな。本人たちはどれほどうるさいのか自覚してないのだろう。やんわりたしなめなければ、僕の安眠はいつまでも妨害されるにちがいない。明日直接言うか、郵便受けに手紙を入れておこう。
 その時になってようやく気がついた。話し声は壁の向こうから聞こえてくるのではなかった。念のため、布団から抜け出して壁に耳をつけた。「ブーン」という冷蔵庫の運転音が聞こえるばかり。人の声はしない。静かだ。
 まさかと思って畳に耳をつけると、はたして、話し声は階下から聞こえてきていた。誰かが、いる。開かずの間であるはずの101号室から、人の声がする。
 女の悲鳴が聞こえた気もした。僕は怖くなった。こういう時、どうすれば良いのだろう? 不動産会社はもちろん営業時間外。警察? 警察に来てもらって、確かめてもらうのか。もしも101号室からの声が空耳で、結果的にイタズラ電話になってしまったら、たっぷり怒られるだろう。なにせ夜中の1時だ。
 僕は迷っていた。話し声は途切れない。気になって眠るどころの騒ぎではない。どうすればいい。
 女の悲鳴が、今度はハッキリ聞こえた。僕は意を決した。コートを羽織り、外に出た。なるべく音をさせないよう、慎重に慎重に階段を下りた。
 階段を無事に下り終えて、ひょいと覗くと南側の雨戸は閉まっていた。ここに越して来てから、101号室の雨戸が開いていたことは、当然ながら1度もない。
 玄関に回ってみる。玄関側の窓は磨りガラスだが、カーテンがないので、室内に明かりが灯っていればすぐわかる。室内は暗い。
 郵便受けには黒色の養生テープが貼られたままだ。ドアに耳をつけてみる。やはり話し声が聞こえる。間違いない、101号室からだ。
 自分の心臓の音が聞こえそうだった。つっかけサンダルのまま、僕はぼうぜんと立ち尽くした。夜気が素足にまとわりついて冷たかった。
 やっぱり警察を呼んだ方がいいのか。携帯電話を取りに戻ろうか。
 そこまで考えたとき、室内からこれまでにないほど大きな悲鳴がした。
 僕は極度に緊張しながら、ドアノブに手を掛けた。本心では「開かないでくれ」と思った。
 開いてしまった。
 少しだけ開いたドアの隙間から、室内をうかがった。室内は真っ暗だ。この中に本当に誰かいるのか?
「すみませーん……」
 ビクビクしながら小さな声で呼び掛けてみた。しんとしている。
「すみませーん……」
 返事はない。さっきまでの話し声も、水を打ったように静まってしまった。
「開けますよぉ……」
 確かめずにはいられず、ドアを押した。ゆっくり、ゆっくりと。
 人1人通れるくらいドアは開いた。だが、すぐには入らず、首だけ室内に突っ込んでみた。
 ほこりのにおいが立ちこめていた。家具は何もなく、誰もいない。
「誰かいませんかぁ?」
 自分の臆病な声が情けない。
「いるんでしょお?」
 情けない。
「別に何もしませんからぁ。ただちょっと気になってぇ」
 返事はない。一方通行の、むなしい発話だ。
 そのままの状態で1分ほど待ったが、室内で人の動く気配はない。声をひそめ、息を殺しているのか……?
 この時はもう、僕の精神状態はおかしかったのだろう。普段なら絶対にしないが、室内に踏み込むことにした。蛮勇ともいえる無謀さであり、サスペンス映画の主人公になった気でいたのかも知れない。
「入りますよぉ」
 声は相変わらず情けなかった。
 電気のスイッチは自分の部屋と同じ配置なので、ひとまず押してみる。何の反応もない。照明は撤去されているのだろう。
 律儀にもサンダルを脱いでダイニングに上がる。僕が201号室に初めて入居した時と同様、流し場の蛍光灯は生きているかも知れない。闇の中、手さぐりでヒモを探す。腕をゆらゆらなびかせていると、ヒモに触れた。引っ張ってみた。ああ神よ、S住販のTさんよ。蛍光灯は思わせぶりな沈黙のあと、青白い光を点灯してくれた。
 ダイニング全体が照らされる。ダイニングには何もない。また、洋間の戸は外されていて、誰もいないことが確認できた。
 残るは風呂とトイレと和室。このどこかに、誰かいる。
 その時だ。和室の方から女のうめき声が聞こえた。
 なぜ僕はあの時、引き返さなかったのだろう。今でも理解に苦しむ。ただ、一つの予感があった。その予感を頼りに、英雄的無謀を試みたのだろう。
 和室のドアノブに手を掛ける。このときの恐怖は筆舌に尽くしがたい。読者にはとうてい伝わるまい。何も僕の筆力が不足しているからではない。読者は当事者ではないからだ。バンジージャンプも、下から見上げるとたいしたことのない高さに見える。だが実際、台の上から下を見下ろすと、地上では決して感じることのできない恐怖が牙をむいている。
 恐怖。鼓膜が痛くなるほどの、恐怖。
 ドアノブを回す。金庫破りのような繊細さで回したが、それでも軋んだ音が立つ。
 ドアノブを回し切り、ドアを少し引く。中は暗い。そして、畳の青臭いにおいに混じって、腐臭がぷうんとした。この中に人がいるのか。信じがたかった。
 思い切って、ドアノブを引っ張った。全開になる。
 薄暗い中で、何かが動いた。僕の全身の毛穴から汗が噴き出した。
 なあんだ。俺はてっきり、地元の高校生がピッキングで侵入し、女をレイプしているんだと思っていた。なんだよ。女ひとりかよ。僕はためいきをついた。自室に戻って警察に通報しようかと思った。
 女はうめきながら、芋虫のように体をよじっていた。ボロ切れのような物をまとっていたが、それ以外は何も着用していなかった。下着すら履いていないようだった。
「あ……あ……。う……」
 苦悶の表情を浮かべているのだろうが、よく見えないし、年齢さえわからない。僕はしばらく女の様子を観察した。イケなくはない、な。
 女の上に覆いかぶさって、ゴムもつけずに犯した。女の体はとてもくさかった。
 それが今の彼女です。



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