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実験小説の書評&実践
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【書評】ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』   (2017/02/28)
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 【大塚】 前回の南米文学10連発!の10発目は 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(以下『オスワオ』。2007年)でした。主人公の名前は「オスカー」でした。
 【晩霜】 いちいち言う必要あるか? 『オスワオ』の主人公が「オスカー」って。タニシでもわかるよ。
 【大塚】 今回とりあげるのは、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(以下『ものすご』。2005年)です。
 【晩霜】 『ものすご!』って書くと、なんだかラノベのタイトルみたいだね。
 【大塚】 『ものすご』も、主人公の名前が「オスカー」です。オスカーつながりで取りあげました。
 【晩霜】 こじつけじゃん。オスカーつながりだったら、『ブリキの太鼓』(以下『ブリ焼き』)でもいいだろ。おまえのような遅読野郎は、どうせ読んでないだろうけど(ドヤ顔)
 【大塚】 じつは主人公の名前以外にも共通点があります。いずれの作品も、主人公の祖父母に関する物語が包含され、親子3代にわたる物語となっています。
 【晩霜】 へー。そういう逃げを打ってきやがったか。
 【大塚】 ところで、『ブリ焼き』の主人公は「オスカル」では?
 【晩霜】 ……(赤面)
 【大塚】 不思議な符号ですよね。なにもディアスとフォアが「よーし!おたがい次作はオスカーって名前の主人公で、3世代にわたる物語にしようぜ!」「ガッテン、承知!!」飲み屋で意気投合したわけではなく、偶然の一致ですから。同時代性を感じさせます。
 【晩霜】 ふん。じゃあ、今回は『オスワオ』と『ものすご』の共通点を比較していくわけね。
 【大塚】 しません。
 【晩霜】 え。
 【大塚】 比較しません。
 【晩霜】 しないの……? じゃあ、なにするの。



 例の『実験する小説たち』(以下『するたち』)でも『ものすご』は紹介されており、ネタバレさえしております。内容に関してはそちらを読んでいただければ、ぼくに語れることは何も残されていません。また、小説の軸となるオスカーのエピソードだけ味わいたければ、祖父母の話をばっさりカットして映画化されていますので、そちらを観ていただければ充分かと思います。
 じゃあ、何をするか。ぼくは形式的な面から『ものすご』を批評していきます。

 まず、文体から見ていきましょう。
 オスカー(9歳)の語りは、テンションが高く饒舌で、頭が良さそうです。連想が連想を呼び、どんどん脱線していったりします。きたない言葉は母親に禁じられているため、それに近い音で言い換えたりします。たとえば、shitをshiitakeに、suck my ballsをsuccotash my Balzacという風に。(shiitakeって英語になってるんですね。ビックリしました。邦訳では「シッイタケ」になってますが、「ヘクソカズラ」とかでも良かったかも)。
 この口調、僕は大好きなんですが、『ものすご』に挫折する人の多くはなじめないようですね。こざかしい。生意気で、ウザい、と。
 作者はどうしてこんな文体を選んだのでしょう。
 その理由を、前作『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』(以下『イイイ』。2002年)から探ります。
 『イイイ』はジョナサン・サフラン・フォアの処女作で、やはり映画化されています(邦題は『僕の大事なコレクション』)。
 『イイイ』の最大の特徴は、通訳を務めるウクライナ青年アレックスの珍妙な英語。日本版でもその珍妙さは見事に再現されており、思わず吹き出すほどおかしいです。
 ただ、その陽気な語り口の背後には、家族問題や、ホロコーストが暗くよどんでいます。これを深刻な口調で語られたら、正直つらい。悲惨な話を読み通すには我慢が必要となります。飲み屋のカウンターで聞く身の上話だって、暗~く重~く語られると逃げ出したくなります。
 作中に「ユーモアだけが、悲しい話を真実として伝えられる」という文がありますが、これぞまさしく。『イイイ』はアレックスの珍英語を導入することにより、親しみやすさを獲得しました。と同時に、「軽妙なユーモアによって肝心の悲劇が際立つ」という効果も発揮しています。
 『ものすご』の文体に子どもの口調が選ばれたのも同じ理由です。
 『ものすご』は9.11を題材にしています。9.11は古今未曽有の大事件であり、アメリカ文化にさまざまな影響を与えました。事件を題材にした数多くの芸術作品が世に出ました。しかし、ある種タブー化しています。「あの悲劇をネタに、メシのタネにするたあ、ゆるせねぇ」という風潮は今なお継続していますし、遺族コンプライアンスにも配慮しなければなりません。軽々しく作品化すると炎上します。それに、事件はあまりにも壮絶すぎて、ありのままに書くと深刻になりすぎて読むに堪えないものになりそうです。
 自分の言葉で語るには、重すぎる話──フォアはそう判断したのでしょう。人生経験の足りない子どもを語り部にすることで、作品に軽さを与えることに成功しました。
 ですから、「オスカーうぜえ」と思って読むのをやめた人は、彼に同情してあげながら読んでみてください。彼は深い悲しみに対する反動から陽気な口調でふるまっているのですから。

 さて、こっから本題。南米文学10連発の時とは比べ物にならないくらいの情熱で書評しますよ。
 『ものすご』における最たる特徴は、その視覚的な効果です。名刺・新聞記事・索引カードがそのまま印刷されていたり、写真だけのページが数ページ続いたり、1ページに1行しか書かれていなかったり。従来の小説のような、単なる文字の羅列ではありません。これは「ビジュアル・ライティング」と呼ばれ、小説の読者に視覚的な情報を付与する技法です。(ただし、ライトノベルや旧来の挿し絵入りの小説(ギュスターヴ・ドレの版画や江戸の洒落本など)は除きます。ビジュアル・ライティングの名を冠する対象は、添え物としての絵ではなく、本文の一部としての絵や図です。また、絵本や漫画は絵が主で文が従なので同じく省きます。)
 残念ながら、ビジュアル・ライティングは『ものすご』の専売特許ではありません。タイポグラフィ(文字組みの遊び)を含めればマーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』やレイモンド・フェダマン『嫌ならやめとけ』などの先行作品があります。絵や図のある小説としてはアルフレッド・ベスター『ゴーレム100』(以下『百乗』)というクレイジーな先輩が奇書界に君臨しています。浅暮三文『実験小説 ぬ』所収の数編も、モロです。最も顕著なのがライフ・ラーセン『T.S.スピヴェット君傑作集』(以下『スェッ君集』)で、天才少年スピヴェットの描いた(めちゃくちゃうまい)スケッチや図がふんだんに盛り込まれています。そのほか、ほんの少しでもビジュアル・ライティングを含む作品は枚挙にいとまがありません。

 ──余談となりますが、ご紹介した本のことごとくは『するたち』ですでに紹介されており、何をいまさら的な雰囲気になってしまうのはジェネリック書評家の哀しき定めであります。
「おい晩霜。なんか高そうな本いっぱい挙げてっけど、どうせ『するたち』で初めて知ったクチだろ。本当は読んですらいないんだろ?」
 僕のような低所得層が高価な『紙葉の家』を所有していることに対し、反発する気持ちはわかります。わかりますが、こちとら寿司やビフテキや満漢全席、高級ソープや世界1周旅行やランボルギーニ・ヴェネーノを我慢して書籍代を捻出してるんですから、スペインの宗教裁判みたいに責めないでください。
 なんかくやしいので、『するたち』に載っていない作品も挙げておきます。フランスの印刷工、ニコラ・シリエの『見習い管理職』(1840)です。未訳だしフランス語だし、僕も所有してませんが。(検索の便宜に→ Nicolas Cirier 『L'APPRENTIF ADMINISTRATEUR』 )。

 話を戻します。残念ながら、ビジュアル・ライティングは『ものすご』の専売特許ではありません。しかし、ここまでビジュアル・ライティングが効果的だった文学作品は『ものすご』以前には存在しない、といっても過言ではありません。『百乗』に挿入された図画は別の図画に差し替えても大丈夫ですし、『スェッ君集』のスケッチはそのほとんどが脚注の形で存在するもので、『ものすご』の技法とはちょっとちがいます。
 では、どのあたりが効果的だったのか。実際の紙面を3枚お見せしましょう。
 従来の文学作品は、紙面を文字が埋めつくしていました。古典的名作を集めた世界文学全集などは、段組みで小さな文字をぎゅうぎゅうに詰めています。
 一方の『ものすご』は、余白が非常に多い。
 たった1行しか書かれてないページが数枚にわたって続いたり、はなはだしいときは何ひとつ書かれてない白紙が3ページ近く続きます。20世紀の編集者だったら「文字もっと詰めて。これじゃ原稿料ドロボウだよ」とたしなめたかも知れません。
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 これは何も、枚数を稼ぐためにフォアがサボったわけではありません。
 1ページ1行の文章は、発声できなくなった男によるもの。自分の意思を他人に伝達するため、手帳に書きつけた文章です。
 白紙の連続は、タイプライターのインクリボンがセットされていることに気づかず、自伝を入力し続けた結果です。
 
 次にお見せするのは、朱を入れまくった手紙です。これは古本で買った人はビックリしたでしょう。あまりにリアルなので、「書き込みあるやんけ!」と、前に読んだ人を呪わずにはいられません。
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 オスカーの父は、新聞の誤植や書き間違いに赤ペンでしるしをつけるクセがあります。ここでも、句点が読点になっている箇所を余すところなく校正しています。また、心を動かされたのであろう箇所が赤丸で囲まれています。

 最後にお見せするのは、画材屋に置いてある、ペンを試し書きするためのメモ帳。(邦訳でも手書きをちゃんと再現しており、すばらしい仕事です)
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 物語はいわゆる「宝探し」が原動力となって進行しますが、キーワードとなるのは「ブラック」という単語。オスカーはメモ帳の試し書きを見て、「ブラック」が指す意味について悟ります。重要な場面です。

 これらビジュアル・ライティングは、どんな効果を生み出しているのか。
 それは、作中人物たちが実際に見ている文字そのものだということです(1ページ1行の文章は、手書きならもっと良かったですね)。私たち読者は、「登場人物と同じものを、そっくりそのまま見ている」というわけです。
 たとえばメモ帳のくだりは、「メモ帳には、いろんな色で、色の名前と、人の名前が書いてあった。」と書けば済みます。意味内容としてはそれで充分です。だけどそれは、読者に対して「こう想像せよ」と指示する文章であって、作中人物が目にした現物ではありません。
 小説は宿命的に、音声と結びついた芸術形態です。聴覚情報です。目で読むものですが、音として認識せざるを得ません。──速読術を身につけた人にとっては、音は無視されますが。その人たちだって文字そのものではなく、頭の中で自分なりに情景を思い浮かべているのです。絵画や映画のようにダイレクトに視覚情報が入ってきているわけではない。(この特性を最大限に利用した小説がギルバート・アデアの『閉じた本』ですが、ここでは詳述しません。)
 僕たちは、与えられた文字情報から、自分なりに頭の中で映像を作り出します。「彼女は世界一の美人だった」と書かれていれば、読者は頭のなかでそれぞれの「世界一の美人」を想像することになります。それはもう、千差万別になることでしょう。ベネズエラ人だったらミス・ユニバースの顔を思い浮かべるでしょうし、平安貴族だったら2千円札の裏に印刷されたブスを想像するかも知れません。
 『するたち』によれば、フォアは「9.11の事件に関する私たちの記憶には視覚的なイメージが多く結びついていて、それを表現したかった」という意味の発言をしているそうです。僕も該当インタビューを読んでみました。そこでフォアは、こういう発言もしています。(中学レベルの英語力なので誤訳するかも知れません)
「本は小さな彫刻です。フォントの選択・マージンの大きさ・タイポグラフィーなどはすべて、本の読み方に影響を与えます。それを意識的に考え、言葉を伝えるだけではない、手に取る価値のある本にしたかったのです。本文をどのように刻印すべきか、デザインのあらゆる段階に関わりました」
 この小説が書かれた2000年代は、インターネットの普及にともない、ネット小説が流行していました。
 ネット小説っていうのは、シロウトがホームページやブログを通じて、自作の小説を発表したものです(あっ、俺のやってることだ!)。今でこそゴミとして認知されたネット小説ですが、当初は驚きを持って迎えられました。商業ベースに乗っていない、ユニークな小説として。あるいは、市井の人のダイレクトな生の声として。
 また、著作権切れの古典を無料公開する「プロジェクト・グーテンベルク」や、その日本版である「青空文庫」のおかげで、まともな文学作品も簡単にネット上で閲覧できるようになりました。しかも無料。「金をはらわなくても小説が読める!」ってなもんです。
 その後、電子書籍が鳴り物入りで登場しました。紙の本は絶滅するともささやかれました。
 ネット小説、電子書籍の台頭。そんな時代に『ものすご』が書かれたことは、書評をするうえで充分に考慮せねばなりません。
 『ものすご』は、紙の本でしかできないことを追及しているように思えます。
 『ものすご』を初めて読んだときは、興奮しました。当時の僕も変な小説をいっぱい書いており、「紙媒体ならではの小説、紙の本でしかできない表現とは何か」を追及していました(一例を挙げれば、渦を巻くように文章が印刷されていて、本をグルグル回しながら読む掌編。主人公の運転手がハンドルを回すのをイメージした)。そんな時に、『ものすご』の登場。先を越されたようで嫉妬しました。「してやられた」と思いました。これだ。これだよ、と。小説というジャンルの、新たなステージと思えたのです。
「あのさあ晩霜。そういう視覚的イメージこそ、映画で補えばイんじゃね? 絵を観たけりゃ映画で充分だろ。何が悲しくて小説なんて読まなきゃいけねんだよ」
 そ、そうですね。そういう考え方もあるでしょう(汗)。しかし、『ものすご』は紙の本でしかできないことを達成しています。特に、小説の最後を締めくくるパラパラ漫画などは、まさしく紙媒体の特権的技法。電子書籍にはできない、動画では再現しきれない、生の紙があってこそ出来る表現だと確信します。
「ふうん。『ものすご』は結局、いらないページが長々とおまけについた、コストパフォーマンスの悪いフリップブックってことね。ギャーッ!」(鈍器で殴り倒される)

 フィナーレ。
 フォアは『ものすご』のあと、ドキュメンタリー作品『イーティング・アニマル』(2009年。邦訳あり)を書き、他人の小説『Street of Crocodiles』を切り刻んで新しい作品に仕立て上げた『Tree of Codes』(2010年)を出版しました。(題名からして「sTREEt OF CrocODilES」になっとる。詳しくは実験小説あれこれさんをご覧あれこれ。)
 これぞまさしく紙の本でしかできない芸当であり、我が意を得たりと思いました。「さすがジョナさん!」と。「出版社もイカれてやがる、おまえら最高!」と。
 しかしその後、さっぱり長編小説を発表しませんでした。これからの文学をになう存在だと期待してたのに。「こいつもバートルビー症候群(とつぜん作品が書けなくなる作家)か!」哀しみと失望で今日も酒が進む……
 で、生きてるかどうかちょっと調べたんですが、なんか2016年に第3作を発表してたみたいです。喜びと驚きで酒が進むー!
 邦訳お待ちしております。また近藤隆文さんがいいな☆



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