とりぶみ
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【書評】南米文学10連発!⑧~⑩   (2017/02/27)
①~③はこちら→ 【書評】南米文学10連発!①~③

④~⑦はこちら→ 【書評】南米文学10連発!④~⑦



 上
イントロダクション~なぜ10連発か?
南米とは
① アレホ・カルペンティエル 『この世の王国』1949
② フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』1955
③ フリオ・コルタサル 「誰も悪くはない」1956、「南部高速道路」1966

 中
④ ギジェルモ・カブレラ・インファンテ 『TTT』1967
⑤ ガブリエル・ガルシア=マルケス 『族長の秋』1972
⑥ ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『砂の本』1975
⑦ ホセ・ドノソ 『別荘』1978

 下
⑧ マリオ・バルガス=リョサ 『世界終末戦争』1981
⑨ サルバドール・プラセンシア 『紙の民』2005
⑩ ジュノ・ディアス 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』2007
バートルビー症候群




 ①~⑦でご紹介した人々はみな白玉楼中の人となっていますが、これからご紹介する3人はまだ生きてます(バルガス=リョサはかなりの高齢ですが)。




⑧ マリオ・バルガス=リョサ 『世界終末戦争』1981
 この人はペルーの作家です。「ジョサ」と表記されることもありますが、「リョサ」の方が優勢です。寺尾隆吉氏はジョサ派ですが、あれはどういうことなのでしょう。「Raymond Luxury Yacht」と書いて「スロートウォブラー・マングローブ」と読む的なヤツでしょうか。
 リョサはノーベル賞作家ですが、受賞はあまりに順当だったので、ボブ・ディランのような騒ぎにはなりませんでした。「あ。そんなまっとうなトコ行く?」なんの意外性もなく、おどろかれませんでした。それぐらいすごい人です。
 なにがすごいって、作品の質・量です。多くはへヴィー級の長編ですが、どれもこれもまー見事です。小説を書く身として嫉妬するくらい見事。現代によみがえったバルザック──って評言は、カルロス・フエンテスにあたえた方がいいのかな。でも、とにかくすごいです。
 代表作を挙げるとすると、『緑の家』か『世界終末戦争』。例の『ラテンアメリカ十大小説』で『緑の家』が取りあげられている以上、必然的に後者を書評することになります。(良かったー『緑の家』やらずに済んで)
 世界の滅亡をえがいたSFっぽいタイトルですが、ぜんぜんちがいます。ここでいう「終末」はキリスト教における終末思想を指し、実際に起きたキリスト教徒の叛乱(ブラジル版・天草の乱)の様子が活写されます。そう、実際に起きた事件なのです。膨大な資料のリサーチにもとづく丹念な記述により、まるでその場にいたかのようなリアリティーがあります。ドキュメンタリーかと錯覚するほどの臨場感があります。
 小説は、リョサお得意の、時空間が入り乱れるスタイルによって進行します。よくもまあ、ひとりの作家がここまで描き切れるものだと、感嘆します。あきれるくらいみごと。
 かつて、小説の理想とされながらも、あまり書かれることのなかった「全体小説」。ひとりの人間が社会全体やそこに属する個々人すべてを書き切るのは、とうてい不可能だったからです。ちっぽけな人間ひとりにとって、現実はあまりにも巨大すぎた。しかしながら、『世界終末戦争』は真の意味での全体小説であり、神様が書いたんじゃないかと思えるほど完璧です。
 「コンセリェイロ」という、キリストの生まれ変わりみたいな指導者が事件の中心になりますが、出てくるひと出てくるひと全員に主人公レベルのバックグラウンドがあり、読者によって好きなキャラクターは分かれることでしょう。個別に語られていた登場人物たちがコンセリェイロのもとに集まって来る様子などは、豪傑が梁山泊に集まってくるようなワクワク感があります。『魁!男塾』の終盤、かつて死闘を繰りひろげたライバルたちが、より巨大な敵に立ちむかうため一致団結するような熱い展開です。
 こういう事件を作品化すると、どうしても抵抗する側に同情した作品になりがちです。ですが、抵抗する側・弾圧する側、いずれも主役級のキャラクターでひしめいており、弾圧する側の将軍もとても魅力的な人物。リョサは特定の個人に感情移入することなく、公平な筆致でたんたんと人物を描写していきます。この主観を入れない写実主義は、たしかフローベールを意識しているはずです(まちがってたらごめんなさい)。
 筒井康隆『馬の首風雲録』でも感じましたが、戦争は、起きるときには起きてしまう。誰が決定的に悪いわけでもない。そして、誰もが戦争をしたくないのに、誰にも戦争は止められない。悲惨です。
 2段組みで700ページもあり、きちんと時間をつくって読まねばなりませんが、読む価値はぜったいにあります。物語を読みきり、本を閉じるとき、きっとあなたはためいきをつくことでしょう。悲しさとも幸せともつかない、名状しがたい感情の入りまじったためいきを。




⑨ サルバドール・プラセンシア 『紙の民』2005
 この人はメキシコ生まれですが、8歳のときアメリカに移住、『紙の民』発表時もアメリカに住んでいました。そうなると、「プラセンシアを南米文学に数えてよいのか。アメリカ文学なんじゃないの」という疑問が当然出てきます。でも、それをいうならコルタサルはどうなりますか。アルゼンチン作家とされていますが、小説を発表していたのはフランス在住のあいだです。だから、別に、いいじゃない!(顔をまっかにして口角泡を飛ばす大塚晩霜)
 実際、『紙の民』は南米文学の要素を色濃く有しています。
 そして、21世紀によくぞこんなはずかしくなるくらい王道のメタフィクションを書いてくれたな、とも思います。現役バリバリ若いバンドなのに、60年代のサイケ・ロックを奏でるエレファント6界隈のバンドみたいな(誰もわからない比喩)。
 『紙の民』は、いわば南米文学とメタフィクションの幸せな結婚であり、奇書好きとしてはヨダレが垂れずにいられません。(顔をまっかにして口角泡を飛ばす大塚晩霜)
 正直、書評10連発のうちの1作ではなく、単独で1本記事を書きたいくらい、言いたいことがいっぱいあります。思いつくままに筆をすすめたらとんでもない分量になりそうなので、いちじるしい特徴だけ簡単に。
 まず、もっともいちじるしい特徴は、多声性(ポリフォニー、っていうんですかね。使いかた合ってます?)を表現するため、本文が段組みになります。B.S.ジョンソン『老人ホーム』では30ページごとに8人の登場人物の意識や発言が書かれ、その同時性を表現していましたが、『紙の民』は同じページで多声性を表現します。主人公がこう思いこう行動していたとき、娘はこう思いこう行動していた、と。多いときでは四段組み、四段組みでも不足するときはレイアウトを変えたりして無理矢理みひらきにおさめています。──日本版のカバー表紙を取りはずすと、その裏にオリジナルの段組み(日本版の16~19ページ)が印刷されています。興味のあるむきは確かめてみてください。なお、日本版の装丁はプラセンシア本人も気に入っており、「オリジナル版の次に好きな装丁」と言っているそうです。
 内容にふれましょう。実質的主人公のフェデリコ・デ・ラ・フェは、ある日、土星に監視されている気分になります。そして、どうにかして土星から身を隠そうと試みます。まあ、バカみたいですよね。周囲の人間からもバカなんじゃないかと心配されます。
 しかし、フェデリコ・デ・ラ・フェは正しかった。土星は作者サルバドール・プラセンシア本人であることが判明し、作中人物たちは土星に対して戦争をはじめます。
 一方の土星=プラセンシアも私生活でなやみをかかえており、その様子も書かれていきます。現実と虚構がリンクしていくわけです。
 私が個人的にうなったのは、第3部の始まりかた。(これ、画像を10枚くらい並べるか動画を用意したほうがわかりやすいんですが、今回の書評で目指すのは寸評であり、かつ撮影がめんどくさいので文章でどうにかします。ごめん)
 それを説明するために、『紙の民』の書籍の構造から。
 普通一般の書籍同様、表紙をひらくとまず遊びの白紙があり、その次に標題紙(扉)があります。標題紙には標題「紙の民」と、著者名「サルバドール・プラセンシア」と「藤井光 訳」がならび、一番下に出版社名「白水社」。標題と、著者名・訳者名のあいだにはイラスト(手のひらのうえに、輝く土星の輪っかが浮いている)。
 標題紙をひらくと、作品名「紙の民」。
 もう1枚ひらくと献辞「父さんと母さん、妹に」。
 さらにもう1枚ひらくと、大切な恋人への献辞「そして、僕たちはみんな紙のものだと教えてくれたリズに」。
 で、目次、と。
 まあ、普通一般の海外文学の形式ですよね。
 で、第3部がどう始まるかと言うと──
 その直前の第2部末尾には、恋人のリズからサルバドール・プラセンシアにあてた別れの手紙が掲載されています。その文言を抜粋しましょう。
「わたしは静かにして、あなたに自分の物語を書いてもらおうと思っていたわ。あなたから見た、あなた個人の歴史が成り立つようにと思って。だって、わたしは不親切で、向こう見ずな人間で、あなたに何を言われても自業自得なんだから。でも、これは小説なのよ──もうわたしたち二人だけのものじゃないわ。」
「紙をせっせと積み上げて、あなたは自分の故郷の町やフェデリコ・デ・ラ・フェだけじゃなくて、わたしやあなたのおじいさんとおばあさん、もっと前の世代、あなたの母国、友だち、カミまでも売りに出した。」(←ここちょっとわかりにくいので補足すると、紙に書きつけることによってその人を紙の中の人物として閉じ込め、その紙の束を本として売り出すということです)
「好きなようにすればいいわ。わたしの頼みは一つだけ。わたしがこの本のページの外に存在しているってことを忘れないで。いつかは分からないけど、わたしにも子どもができるわ。母親が不誠実で残酷で、主人公を侮辱している本をその子たちが見つけるなんていや。サル、わたしのことをまだ愛してるなら、この物語からわたしを外して。わたし抜きでこの本をやり直して。」
 これに対して、プラセンシアは、1ページをまるまる使ってひとこと。「売女め」
 で、次のページをひらくと、なんと標題紙です!「紙の民、イラスト(手のひらのうえに、輝く土星の輪っかが浮いている)、サルバドール・プラセンシア」。
 もう1枚ひらくと献辞「父さんと母さん、妹に」。
 さらにもう1枚ひらくと、大切な恋人への献辞はそこにはなく、第3部がはじまるのです。
 元・恋人から「わたし抜きでこの本をやり直して。」と言われ、標題紙をくりかえすことによって本当にやり直す。これには個人的にうならさせられました。
 このほかにも、『紙の民』には実にさまざまな奇想が詰めこまれています。思いつきを何ひとつ捨てることなく全てぶち込んだような。実際、かなり長い時間をかけて執筆されたそうです。
 『紙の民』が発表されたのは2005年。長編第2作は「もう少しで完成しそう」と噂されていながら、いまだに完成しません。典型的なバートルビー症候群(とつぜん作品が書けなくなる作家)です。同じメキシコ出身の作家フアン・ルルフォみたいに、1作かぎりの一発屋として伝説になってしまうのでは……。がんばって!




⑩ ジュノ・ディアス 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』2007
 この人はドミニカ生まれですが、6歳のときアメリカに移住、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』発表時もアメリカに住んでいました。ウィキペディアにも「ドミニカ共和国生まれのアメリカ合衆国の小説家である」と書かれており、「南米文学に数えてよいのか。アメリカ文学なんじゃないの」という疑問が当然出てきます。でも、それをいうならコルタサル(以下略)
 実際、 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は南米文学の要素を色濃く有しています。
 そして、よくもまあこんなはずかしくなるくらいオタク文化に傾倒したな、とも思います。もともとパンクバンドとして出発したのに、松本零士(宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999)が好きで好きでしょうがないダフト・パンクみたいな(誰もわからない比喩)。
 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、いわば南米文学・ミーツ・おたくカルチャーであり、奇書好きとしてはべつにヨダレは垂れませんが、他に類例のない特異な作品になっていることは確かです。(真顔の大塚晩霜)
 語り手は、ジュノ・ディアスの分身とおぼしきマッチョなユニオールくん。主人公オスカー・ワオに影響され、そうとうオタク文化に通じています。いわゆる「ナード(アメリカ版のオタク)」が大好きな『指輪物語』関連の用語やアメコミの作品名、日本の漫画やアニメに対する山のような言及があり、ものすごい量の割註が挿入されます。『中二階』ほどではありませんが、注釈もたくさん入ります。原文はスペイン語と英語の混淆もあるらしく、奇書のにおいが鮮魚市場と同じくらいの強度で立ちこめています。
 オスカーは、中南米の男性に必須な「マチズモ(男らしさ。マッチョイズム)」とはかけ離れたデブのオタクであり、絶望的にモテません。超ウジウジしてます。オタクが市民権を得ている日本ならまだしも、ドミニカ社会ではそうとうキツイ立場にあり、とてもかわいそうです。しかし、どうにかして恋愛を成就させようと奮起し、最終的には感動的な行動に突っ走っていきます。
 で、小説はオスカー・ワオの一生をえがいているのかと思えば、実はさにあらず。オスカー・母・祖母の3世代にわたる物語です。しかも、思いのほか母親の分量が多く、そしてオスカーよりも悲惨です。これじゃ、「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」というより「オスカー・ワオの短い人生とその母親の凄まじい人生」です。全編おたくカルチャーまみれと期待して読むとガッカリするかも知れません。
 作品の背景をどす黒く染めるのはトルヒーヨの独裁政権です。トルヒーヨは『族長の秋』の大統領のモデルとも目されるすさまじいクソッタレで、「彼のような登場人物はSF作家さえ思えつけないほどであった」とユニオールは語ります。このトルヒーヨと強く結びついているのが、現地の言葉で「フク」と呼ばれる呪い。迷信的な概念なのですが、ドミニカ人にとってはまぎれもない現実的災厄であり、このあたりは存分にマジック・リアリズムを味わわせてくれます。
 最後に。ジュノ・ディアスに関して、ウィキペディアで衝撃の事実を発見しました。「2007年より執筆中と報告していた新作『モンストロ』を、事実上放棄したことを2015年に発表した」とのこと。おまえもバートルビー症候群か!
 プラセンシアもジュノ・ディアスも、すごい才能なのに(泣)。人生のシエスタはもうやめてくださいよ……。それとも、大学の教授やるほうが楽しくなっちゃったのか? われわれ日本人はあなたがたが教壇に立つことを求めていないっ!(英語が聴き取れないため)




バートルビー症候群
 これ↑は、スペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスがその著書『バートルビーと仲間たち』において使った用語です。急に作品を書かなくなった作家たちの症例を、ハーマン・メルヴィルの短編『代書人バートルビー』から命名したものです。
 なまじ大成功してしまったあとは、容易に次作が作れなくなる。プラセンシアもジュノ・ディアスも、そのワナにはまってしまったのでしょうか。彼らとフェイスブックでつながってるわけじゃないので確かめるすべがありませんが。
 そう考えると、『百年の孤独』のあとに『族長の秋』を書いたガボはやはりとてつもなかったわけだし、『トーキング・ブック』 『インナーヴィジョンズ』 『ファースト・フィナーレ』と歴史的傑作を連発したあとに神がかった大傑作『キー・オブ・ライフ』を作り上げてしまったスティービー・ワンダーはバケモノだったわけです。そりゃ、ポール・サイモンも頭をかかえますよね。
 ご清聴ありがとうございました。今回の「南米文学10連発!」、やたらロックミュージックの話題を織り込んですみません。なんか、「こいつ、小説しか話題ないのかな。もしかして、家にひきこもってひたすら変態小説ばかりむさぼり読む変態なんじゃね? で、聴いてる音楽も滝廉太郎とかなんじゃね?」と思われたらイヤなので、そうじゃないよってトコをちょっとアッピールしてみました。ブランド戦略です。ご寛恕ください。
 あと、シロウトが印象批評に手を出すとただの読書感想文になることも、今回の10連発でまざまざと感じさせられました。みっともないもの読ませて申し訳ありません。
 ちなみに。「南米文学10連発!①~③」のときに、「取り上げる作品のうち3冊は引越しの際に処分して手元にありませんし、ある1冊に至っては積ん読状態です」と書きましたが、どれが「持っていない本」か、どれが「積ん読本」か、わかりましたか? 正解者には北海道の海の幸、タラバガニ5kgをプレゼント!(応募締め切り17年3月末日。年号は平成)

 次回は、主人公の名前オスカーつながりで『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』をやる予定です。──あ。これの作者もバートルビー症候群だな。



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