とりぶみ
実験小説の書評&実践
【書評】南米文学10連発!①~③   (2017/02/18)
 南米文学を一挙10作品とりあげます。
 わかってるとは思いますが、『南米文学10連発!』という本があるわけではありません。念のため。

 ──書いてるうちに記事がどんどん肥大化したので、一挙10作品のつもりでしたが、やっぱり3回に分けます。

④~⑦はこちら→ 【書評】南米文学10連発!④~⑦

⑧~⑩はこちら→ 【書評】南米文学10連発!⑧~⑩



 上
イントロダクション~なぜ10連発か?
南米とは
① アレホ・カルペンティエル 『この世の王国』1949
② フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』1955
③ フリオ・コルタサル 「誰も悪くはない」1956、「南部高速道路」1966

 中
④ ギジェルモ・カブレラ・インファンテ 『TTT』1967
⑤ ガブリエル・ガルシア=マルケス 『族長の秋』1972
⑥ ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『砂の本』1975
⑦ ホセ・ドノソ 『別荘』1978

 下
⑧ マリオ・バルガス=リョサ 『世界終末戦争』1981
⑨ サルバドール・プラセンシア 『紙の民』2005
⑩ ジュノ・ディアス 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』2007
バートルビー症候群





イントロダクション~なぜ10連発か?
 従来の予定では、筒井康隆『虚航船団』第3章に決定的な影響を与えたマリオ・バルガス=リョサ『緑の家』を取り上げるはずでした。しかし私のスタイルで『緑の家』を書評するとなると、これはもう、たいへんな労力が必要でして、バルガス=リョサ本人から原稿料をもらわないことにはやってられない重労働です。ですので、『緑の家』の書評はやめにしたい、と。
 また、南米文学のガイド本としては、木村榮一『ラテンアメリカ十大小説』という名著が存在します。南米文学に関してはこの本さえ読んでおけば、「おれ、南米文学にくわしいよ」給湯室でOLに自慢して嫌われることが可能となります。じゃあ、わざわざ俺が南米文学を語る必要なくね? という問題がここで生じます。書評しても、意味なくね?
 そこで今回は、『ラテンアメリカ十大小説』には選ばれなかった南米文学を10作品とりあげ、印象批評にて寸評します。かなり印象批評です。どれくらい印象批評かというと、取り上げる作品のうち3冊は引越しの際に処分して手元にありませんし、ある1冊に至っては積ん読状態です。読んですらいないのに書評する──印象批評以前の暴挙です。
 ちなみに、『ラテンアメリカ十大小説』の収録作品は以下の通り。目次をコピペします。
1 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』―記憶の人、書物の人
2 アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』―魔術的な時間
3 ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』―インディオの神話と独裁者
4 フリオ・コルタサル『石蹴り』―夢と無意識
5 ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』―物語の力
6 カルロス・フェンテス『我らが大地』―断絶した歴史の上に
7 マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』―騎士道物語の継承者
8 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』―妄想の闇
9 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』―映画への夢
10 イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』―ブームがすぎた後に





南米とは
 南米は、南アメリカ諸国のことです。アメリカ大陸の南側──北米(カナダとアメリカ合衆国)をのぞく、中南米をさします。けっして、アメリカ合衆国とアメリカ連合国のうちの、南北戦争に負けたほうではありません。
 また、南米は「ラテンアメリカ」と呼ばれることもあります。ラテンの血がさわぐ、っていうあれです。なぜにラテンという接頭辞がつくかというと、これはまあ、宗主国であるスペイン・ポルトガルが支配していたからです。大航海時代、アメリカ大陸にいち早く入植したのはスペイン・ポルトガルでした。原住民をぶっ殺したり奴隷化したりして、侵略したわけです。くわしくは各自お調べください。
 ラテンアメリカっていうくらいだから、ラテン語を使っているのかい。いいえ。ほとんどの国がスペイン語を公用語としています(スペイン人たちによって、原住民が使っていた固有の言葉はほぼ絶滅させられました)。ブラジルだけがポルトガル語をつかっています。ただ、スペイン語とポルトガル語はひじょうに近しい言語らしいので、津軽弁vs琉球語よりも対話がなりたつかもしれません。
 南米文学愛好家の間では「ラテアメ」「ラ米」と呼ばれることもあります。「カフェラテ」「ラーメンライス」みたいでおいしそう。
 本稿では「南米文学」で統一します。中米であるメキシコ産の作品も取りあげますが。




① アレホ・カルペンティエル 『この世の王国』1949
 この人はキューバ出身です。「アレッホ」「カルペンティエール」など、表記がゆれるので検索泣かせの人です。
 代表作を挙げるなら、『失われた足跡』か、大作『春の祭典』です。『この世の王国』は中編小説であり、代表作とはいえません。しかし、非常に南米文学らしい特徴をそなえています。
 南米文学を語るさいにはずせないのが、「マジック・リアリズム」です(魔術的リアリズム、魔術的現実とも呼ばれる)。こりゃなにかと言いますと、「ありえないことを、ありのままに語る」という手法です。おまえそりゃさすがにウソだろオイという描写が、平然とくりだされるわけで、読者は心の中でツッコミを入れながら読むことになります。
 『この世の王国』の序では、マジック・リアリズムについて興味深い説明がされています。本が手元にないので、記憶をたよりにテキトーぶっこいてみます。修士論文とかに引用するなよ!絶対だぞ!絶対引用するなよ!
「フランスのシュルレアリスム(シュール・リアリズム。超現実主義)ってさぁ。どうにかして現実を異化しようとしてるけど、あれ、頭のなかで無理にこしらえた作り物じゃん。グロテスクにしようグロテスクにしようって意図が見え見えで、不自然きわまりないよな。サムイわ。手術台のうえでミシンとこうもり傘が逢うみたいな、人工的なまがいものだよ。南米はちがうよ。現実そのものがぶっとんでんだもん。ためしにジャングル見てみ?そこにすむ生きものは全員おかしなヤツらばかりだから。俺ら南米の作家は、住んでる土地や住人のようすをたんたんと描写するだけで、じゅうぶん異化れた小説が書けるってなもんよ」
 マジックリアリズムは、シュルレアリスムに対するカウンターパンチだったわけです。
 個人的に『この世の王国』でもっとも印象に残っているシーンは、主人公の脱走奴隷がさまざまな動物に変身するシーンです。どういういきさつで変身するかというと、まず、雇い主を殺したことで主人公はほかの奴隷から英雄視されるんですね。あいつすげーよ、神ってるよ、と。で、主人公は結局つかまって処刑されちゃうんですが、ほかの奴隷たちは「あいつは最強。黒魔術のちからで、死なない」と信じてうたがわない。「こっそり鳥に変身して、逃げた」と。ほら見ろ、あそこのトカゲ。あれ、あいつだよ。あいつがトカゲに変身して偵察しにきてるんだよ。
 主人公は、ときには鳥、ときには虫、ときには家畜に変身し、奴隷たちを脱走させるチャンスをうかがっている。奴隷たちは、主人公の存在が支配者にバレないよう、ひそひそささやきあいます。「お、今日はヤギにばけてるぜ」「あ、あの虫、あいつだ」──いやいや、それただの鳥や虫や家畜だよ!主人公はとっくに死んでるよ!
 これ、馬鹿げてると思うじゃないですか。でもこれは、舞台となっているハイチの人々にとってはまぎれもない現実だったのです。これこそがマジック・リアリズム。
 マジック・リアリズムの効果は絶大でした。「小説は死んだ」とささやかれていたポストモダニズム時代に、辺境の地と思われていた南米から、突如として斬新な小説が次々に発表され、一躍世界文学のスターダムにのしあがったのです。当時の文学関係者はびっくら仰天おったまげたことでしょう。美術におけるジャポニズム(ながらく鎖国だった日本がようやっと開国。パリ万博に出展された浮世絵は、印象派の画家たちに多大な衝撃をあたえた)と似ているかも知れません。
 ぜんぜん寸評じゃなくなった! 先が思いやられる……




② フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』1955
 出た、ペドロ・パラモ! 『ラテンアメリカ十大小説』には選ばれませんでしたが、これはすごいですよ。どれくらいすごいかというと、ある批評家が南米の作家・批評家100人に「南米文学の最高傑作って何?」というアンケートをとったとき、南米文学ナンバーワンとして評価のさだまっている『百年の孤独』(ガルシア=マルケス)と、同率1位だったそうです。『百年の孤独』は南米のみならず地球規模でみてもそうとう上位にくる小説ですから、これはすごいことです。
 フアン・ルルフォはメキシコの人です。超寡作で、『ペドロ・パラモ』のほかには短編集が1冊あるだけ。『ペドロ・パラモ』自体も中編小説です。職業作家ではなかったわけです。おそらくふだんは農民とかやってたんじゃないですかね。
 内容に関しては、岩波文庫の表紙を引用しましょう。
「ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。生者と死者が混交し、現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。」
 どういう点ですごいかというと、時系列がごちゃごちゃになってることですね。『緑の家』(1966)も時空間がなんの予告もなく切りかわるけど、『ペドロ・パラモ』は1955年の発表。この手の錯時法は、今でこそサスペンス映画にも使われる手法ですが、『ペドロ・パラモ』が先がけだったんではないでしょうか?
「おいっ、『失われた時を求めて』を忘れてるぞ!」
 ん? だれかなにかいいました?
 そんなに長くない小説ですが、かなりごちゃごちゃにシャッフルされています。その結果、「あれ? この人、死んだよな。ふつうにしゃべってるよ」という違和感が生じることになります。
 小説は69の段落に分かれています。ある段落は何ページから何ページまでか、どの段落にだれが登場するか、メモを書きながら読みすすめたほうがよいでしょう。名前のある登場人物がやたら多いですし。
 「読むのめんどくさそうだなあ」と思うひとがいるかもしれません。ご安心を。めんどくさいです。あなたの予想、当たってます。ですから、私が書いたメモをここでドーンと大公開! 読書のさいの参考にしてみてはいかがでしょう。
 ──と思いましたが、ネット上にすばらしい分析を発見しましたので、リンクを貼ってごめんこうむります。ここです。
 今回書評する10作品はすべて傑作ですが、そのなかでも1冊えらぶとすれば、やはり『ペドロ・パラモ』かな、と個人的に思います。
 まあ、『百年の孤独』にならぶっていうのはほめすぎだと思いますが。(うわーっ最後の最後で手のひら返した!)




③ フリオ・コルタサル 「誰も悪くはない」「南部高速道路」1956、1966
 コルタサルはアルゼンチンの人です。まゆ毛が太いです。代表作は大作『石蹴り遊び』ですが、本質的には短編小説の名手です。ただし、『石蹴り遊び』が唯一の長編小説なわけではありません。ほかにも長編は何作か書いてます。そのなかでも実験小説『組み立てモデル/62』(未訳)はタイトルの時点でそそります。どっかの出版社が刊行を予告までしていたのですが、いつまで待っても出ません。たぶん出ない。
 あとは、エッセイ集『八十世界一日一周』(未訳)もそそるタイトルです。これは、短編・詩・コラージュなど、さまざまなジャンルの短文が詰めこまれているそうで、おそらく、レーモン・クノーでいえば『棒・数字・文字』、筒井康隆でいえば『発作的作品群』みたいな作品集なのでしょう。ザ・ビートルズでいえば『ザ・ビートルズ(ホワイトアルバム)』、トッド・ラングレンでいえば『トッド』、フランク・ザッパでいえば『レザー』みたいな。翻訳してほしい。切実に。
 では書評。短編を2作品。
「おいおい2作品えらんでるよ。10連発じゃなくて11連発になっちまうよ。」
 おっしゃるとおり。もうしわけない。『ラテンアメリカ十大小説』で『石蹴り遊び』が取り上げられている以上、ほかの作品を選ばなければならないのですが、たぶん『石蹴り遊び』以外に長編小説って翻訳されてませんよね。じゃあ、短編を取りあげるしか、ないじゃ、ないの~
「ダメよー。ダメダメ!」
 (無視して)短編1作だけだと、他の9連発に対してバランスが悪くなると思い、コルタサルだけ2作品えらびました。ご了承ください。
「じゃあ短編集を1冊まるごと書評すりゃいいじゃん。長編とちがってたくさん邦訳されてるんだし」
 (無視して)なんとなあく、南米文学=マジック・リアリズムといえば、ジャングルだの蛮族だの、土着のにおいが強そうな、泥臭そうな印象があります。しかしコルタサルは実に都会的です。アルゼンチンの作家と認識されていますが、生涯の大半をフランスですごしたのが要因でしょう。
 今回は短編集『遊戯の終わり』と『すべての火は火』から1編ずつセレクトしました。
 まずは、「誰も悪くはない」から。
 話としては、「主人公がセーターを着るのに四苦八苦する」、これだけです。これの何がおもしろいのか。おもしろいんです。セーターがきつくてなかなか腕がとおらない。頭がとおらない。とおったと思ったら、腕を首のところにとおしてた。頭をそでのところに入れていた。そのしどろもどろが延々と描写されます。初めのうちはモンティ・パイソンのドタバタ劇みたいで笑えるのですが、事態はだんだんと悪い方向へ進んでいきます。息ができなくなる。手に激痛が走る。セーターが魔物のようになって主人公を苦しめます。そして最後に……
 この短編をわざわざ書評する人はめずらしいでしょうが、個人的に大好きな作品なので取りあげました。
 ありふれた日常が、いつのまにかとんでもない事態になる。現実が、気づかないうちに幻想的な異形の世界に変貌する。その手腕は、ためいきが出るほどあざやかです。──コルタサルは、南米の作家のうち、もっとも筒井康隆に影響を与えている作家でもあります。
 「誰も悪くはない」を取りあげておいて、名作のほまれ高い「南部高速道路」を取りあげないわけにはいきますまい。
 「南部高速道路」は、とんでもない渋滞に巻きこまれた人々のお話です。どれくらいとんでもないかと言うと、片側6車線・計12車線の道路を車がビッシリと埋めつくし、ずっと動きません。しかも数時間というレベルではない。何日も何日も。季節がすすむほど、衰弱して死人が出るほど、長い時間、渋滞は解消されないのです。とんでもありません。
 やがて、周囲の車に乗っている人々のあいだで、奇妙な連帯関係が生まれます。実質的な主人公であるプジョー404の技師は、ドーフィヌの若い娘と恋仲になります(登場人物は名前をあたえられず、乗っている車の種類によって描写されます)。水や食料の確保に各自が協力し合い、まあ、このままでもいいかな的な空気が流れはじめます。そしてなんと、ドーフィヌの若い娘は妊娠します。それほど渋滞は長引くのです。
 しかし、とつぜん、渋滞は解消されます。あわてて車にもどる主人公と仲間たち。車列はのろのろと動きはじめます。404の車線とドーフィヌの車線は別だったため、徐々に404は遅れを取りはじめます。しかし404は、あせりながらも、追いつくことができません。ドーフィヌも、不安をかかえながらも、停まるわけにはいきません。ドーフィヌはやがて見えなくなり、404の周囲は見知らぬ車ばかりになります。
 小説が終わりをむかえたときの寂寥感。ちょっとほかでは味わえない、あっけにとられるほどの孤独感です。




 長くなったので今回はこれまで。
 さ~て、来週の書評さんは~?
 ギジェルモ・カブレラ・インファンテです。おれの『TTT』と、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集『砂の本』、ホセ・ドノソ『別荘』の4本です。
 来週もまた、見てくださいね。ジャン・ケン・ポン! うふふふふ~♪



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