とりぶみ
実験小説の書評&実践
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【小説】This video has been deleted   (2018/05/15)
 わがTwitterにおける2017年2月8日のツイート。

(日記)
長らく放置してたスローモーション小説をついに書き上げた。
どれくらい放置してたのか調べてみたら、書き始めたのがなんと2008年1月5日。9年越しの脱稿だ。
インスパイア元は『中二階』だと思い込んでいたが、起稿のタイミングから考えると、たぶん『虚人たち』だったのだろう。

 それが今回掲載する『This video has been deleted』(原題は『2sec.』)です。
 書き上げるのに9年。アップロードするのに1年。どんだけ時間かかってんだ。遅筆ってレベルじゃねえぞ。
 原稿用紙100枚。





再生

 木曜日の放課後。
 中学三年生の時図守夫は、リビングルームでビデオを観ていた。
 性的な映像を収めた大人向けのビデオ。
 いわゆるアダルトビデオ。
 略してAV。
 俗にエロビデオともいう。

 作品タイトル
 『裸舞揉子、デビュー』
 メディアはVHS。
 収録時間は全六十分。
 成人指定、18歳未満の視聴禁止。

 このビデオは拾い物だ。
 近所の児童公園で拾った。

 拾ったのは十九日前のこと。
 ベンチ背後の茂みに黒いビニール袋がひっそりと安置されていた。
 黒いビニール袋の表面にはどこかの書店の名前がローマ字で印字されていた。
 その袋を見つけたとき、時図守夫は神に願掛けをするように手を合わせた。
 恐る恐る袋の口を開けた。
 袋には期待通りの宝物が納められていた。
 パッケージに入っていない剥き出しのビデオカセットが四本。

 時代遅れのVHS。
 VHSで良かった、と時図守夫は思う。
 自宅でアダルトDVDは観られなかった。
 DVDプレイヤーは視聴年齢が制限された設定だったし、父のパソコンはパスワード保護が施されていた。
 だから、動く女の裸を鑑賞するにはVHSしか手段はなかった。

 VHSのビデオデッキはテレビ台の中でホコリを積もらせていた。
 旧時代の悲しい直方体。
 家族での使用はずいぶん前から絶えていたが、捨てるのも面倒がられ、放置されている。

 週末、家族の不在を利用して時図守夫はビデオテープを再生した。
 残念なことに、ビデオテープ四本のうち三本は、画像や音声が乱れていて鑑賞に耐えなかった。
 おそらく雨による(と信じたい)湿気で壊れたのだろう。
 しかしそれでも、時図守夫は満足だった。
 一本でも無事だったことを、神に感謝した。
 『裸舞揉子、デビュー』は童貞の彼に天国の有り様を伝道する極楽絵巻だった。
 その日のうちに彼は四度に及ぶ往生を遂げた。

 そして今日。
 担任に急用が出来たため早く下校できた平日午後二時、家族は不在でしばらく帰ってくる気遣いはない。
 恍惚たる悦楽に耽るため、逸る気持ちを必死に自制しながら、ビデオ再生の準備をした。

 その所作は宗教的な厳粛さを伴っていた。

 まずテレビの電源を点け、音量を調節した。
 ビデオデッキの三色コードをテレビのビデオ入力端子に繋ぎ、ビデオデッキの電源を入れた。
 テレビの入力切り替えをビデオに合わせた。
 ビデオカセットを挿入した。
 カーペットに仰向けで寝そべり、ソファーに首をもたせかける。
 ズボンを膝までずり下げ、パンツも同じ水準まで下ろした。
 
 真っ黒だったテレビの画面に映像が映し出された。
 それは作品の冒頭ではなく、インタビューや愛撫の場面をすっ飛ばした、中盤からの絡みだった。
 全裸でまぐわう男女のすがた。
 男が女にのしかかっている。
 いやらしい情事。
 卑猥なシーン。

 プレイは正常位から始まった。
 側臥位・後背位・騎乗位での交合を経て、ふたたび正常位の体勢に戻ってきた。
 しかしスタートの正常位とは様子が異なる。
 あきらかに勢いが違う。
 駆動力を増した男の運動。
 ここが先途とばかりにピストンの回転数を早める。

 このあと、男はクライマックスを迎える。
 時図守夫はそれを知っている。
 すでに十回目の鑑賞なので一連の流れは熟知している。

 多くの男子がそうするように、時図守夫も作品の世界に没頭し、女を実際に抱いている気持ちを高めていた。
 彼にその経験はなかったが、男優とのシンクロ率の数値を上昇させようと試みていた。
 男優の絶頂に合わせて自分も絶頂を迎える心づもりだった。
 円筒形に軽く握られた時図守夫の右手が、次第に速度を加え、上下に激しく振られていく。

 おちんちんを女のちんちんに入れちゃうなんて、改めて考えると、なんてすごいことなんだろう。

 腹の底からこみあげるマグマを、ビデオの中のAV男優と、テレビの外の時図守夫とが、今まさに、同時に放出しようとしていた時、事態は一変した。





ガチャッ

 と音がした。
 いや、正確には、「ガチャッ」のガの音の冒頭部分が鳴り始めた、だろうか。それは音ではなかった。まだ、音ではなかった。音になろうとして揺れ始めた空気の振動だった。
 ドアノブが回転し、ラッチボルトが引っ込みはじめる。ガチャッ。ラッチボルトがドアケースの中に引きこまれる音。その震動の、最初の波。ガチャッという金属音の響く前兆。
 時図守夫の耳の鼓膜が、震える空気の第一波をキャッチした。しかしそれはただの震動であり、音とはなっていない。時図守夫にはまだドアのひらく音が聞こえてはいない。人間は無数の細胞の総合から成る有機体である。耳の鼓膜はあくまで「時図守夫」を構成する細胞群のはしくれであって、時図守夫そのものではない。時図守夫の総体が音を認識するのはまだ先のことだった。
 しかし鋭敏に研ぎ澄まされていた聴覚は、ガチャッが確実な音声となっていないにも関わらず、看過できない危険信号として取り扱い、その情報をすみやかに脳へと伝達した。この厳重な予防線は、厳戒態勢を布いていた脳への、忠実な職務だった。
「キケン」
 緊急事態を一刻も早く知らせるため、情報は極力小さなサイズに圧縮された。鼓膜と脳幹の間をつなぐ神経細胞たちは、すり切れるほどに切迫して、ただならぬ機密事項を急いで走らせた。キケンキケンキケンキケンキケンキケンキケンキケンキケンキケンキケンキケンキケン。振動数の高い電信は恐るべき速度で短波を上下にうねらせながら神経回路を突き進み、次第にそのメッセージの語調を強めていく。キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!キケン!
 脳幹に連絡が到達し、聴覚野が情報を受信すると同時に、脳全体の千数百億個の神経細胞は、雷鳴のように、一どきに閃いた。
「時間よ、止まれ!」
 時間よ、止まれ!
  時間よ、止ま
   時間よ、止
    時間よ
     時間
      時
       時図守夫の生涯で最も長い十秒間が始まった。





一時停止

 テレビ画面は停止した。今や静止画となったその映像はまさにクライマックス寸前の一コマ。破滅的な動力に達していた掘鑿作業を男優が突如中断し、女優の身体から離れようとしたその瞬間だった。
 時図守夫はその場面を凝視したまま、これもやはり停止している。ソファーの基底部に頭を寄りかからせ、左右の足を完全に脱力した状態で放り出し、カーペットの上に寝そべっている。ズボンはパンツごと膝のあたりまで下ろされ、円筒形をかたち作った右手が下腹部に添えられている。左手はカーペットの上にヒジを突き、身体のバランスを支えている。
 「時間よ止まれ」の閃光を合図に緊急モードへと切り替わった時図守夫の脳は、暴走に近い状態の演算処理を開始していた。そのスピードは0.01秒で百ギガバイトもの途方もない情報量を扱う。人間の限界をはるかに超越する仕事量だった。まるで、エンジンが焼き付くのも構わずフルスロットルで加速するオートモービルのようだった。たとえ脳髄が燃え尽きてでもこの窮地を脱しようとする決死の覚悟。死をも恐れぬ過剰稼動だった。
 もし時間が止められるものならば、このまま永久に止めておこうと、時図守夫はチラと考えた。しかしそれはあくまで楽観的な希望だった。時間は止められない。停止しているように見えたテレビの映像が、今まさにこの瞬間、パッと、変わった。
 ここで、総動員された大脳皮質の神経細胞百数十億個の、そのうちの一億個ほどが小さくぼやいた。
「あーあ。自分以外の時間がピタリと止まってしまえばいいのに。そうでなくとも、ゆっくりと遅くなればいいのに。世界は動かずに、自分だけが自由に動ければいいのに」
 このぼやきは、他の百億個以上の細胞からただちに戒められた。時間は止められない。時図守夫の体感している時間が遅くなっているだけであって、世界に流れる時間は宇宙開闢以来の速度で正しく運行している。時間の流れがスローモーションになっているのは、高速でフル回転をしている時図守夫の脳内だけだ。いくら時図守夫の脳が活発に動き回ろうとも、時図守夫の肉体は現実時間の中でしか動けない。
 だからこそ、慎重に行動しなければならない。思考は超高速だからある程度の逡巡・葛藤・試行錯誤も許されるが、筋肉の伸縮にはそれが許されない。身体運動には思考作業よりも多くの時間を要するので、少しでも次の行動を誤ると手遅れとなる。間違った選択をせず、正しい手順をたどらねばならない。
 身体運動を準備するために、脳内では複雑な事務手続きが超高速で行なわれる。たとえば、「えんぴつを拾う」。この単純な動作をするためには、以下のような手順が一瞬で処理される。
 えんぴつに反射した光を、偵察係が望遠鏡で観察し、その様子をありのまま通信技師に伝える。通信技師はビジュアル情報を暗号に変換し、「ツートンツートンツーツートン」ものすごい速度でモールス信号を打つ。モールス信号は電線を介さず、手をつないだたくさんのメッセンジャーが、バケツリレーの要領で大脳へと伝えていく。
 モールス信号を受信した諜報課は、その情報をさまざまな要素(形・色・位置・動き)に分解し、営業部・広報部・経理部それぞれの部長に報告する。
 営業部は、諜報課の直属する組織であり、情報を分析・統合し、そのデータを取締役会に提出した。
 広報部は、形や色や質感を区別することにより、当該物体がえんぴつであることを突き止め、「あれはえんぴつです」という報告書を取締役会に提出した。
 経理部は、情報から空間を認識することにより、えんぴつの位置情報(距離・遠近・向き・大きさなど)を特定し、測量した座標を取締役会に提出した。
 営業部・広報部・経理部からの報告を受けた取締役会は、「えんぴつ、拾おうよ」という経営戦略を打ち出す。
 取締役会が発した命令は各部署へ送られるが、まず、開発部が「手を動かすプログラム」を開発する。このプログラムは、中継地点となる総務部へと送られ、企画部と管理部に転送される。
 企画部は、運動の内容を販売部に告知し、筋肉を動かすための電気信号を身体の各部位に送ってもらう。
 管理部は、物理運動の品質管理を担っており、これまでの経験で培われたプログラムのひな型を多数保管している。
「えんぴつを取る? それなら、上腕二頭筋の値と、指の関節を動かす関数をちょっと修正した方がいいぞ。」
 より正確な動きを実現するため、力・速度・距離を微調整し、管制塔である総務部へ送り返す。
 総務部は、デバッグされた更新情報を企画部にアップデートする。さらに精度が高くなったプログラムは、販売部を通じて筋肉の繊細な動きとなって達成される。
 こうしてえんぴつは拾われる。この間、0.04秒。
 考える時間はたっぷり「数秒以上」あるとはいえ、それが貴重な時間であることに変わりはない。ただ漫然と対策を練っているだけでは無駄に浪費してしまう。最も効率の良い思考を実現するため、まずは脳内で検討すべき事項の確認から始める。時図守夫の脳細胞たちは次々に議案を提出した。
「目前に迫っている危機の種類。その特定」
「制限時間の猶予はどれほどあるのか……
「時図守夫が現在置かれている状況………
「肉体が起こすべき行動の順序……………
「現在の状況に対する弁解…………………
「脳内時間の速度を計算……………………
「地の利を知る。室内………………………
「社会的地位…………………………………
「裸舞揉子……………………………………
「生死…………………………………………
「精……………………………………………
 一遍に無数の議案が大脳を駆け巡った。脳細胞たちはこれらを取捨選択し、整理し、優先順位をつける。その結果、まずは脳内時間の把握から始めることにした。





コマ送り

 現実世界の時間を置き去りにするほど先鋭なこの意識は、いったいどれほどの速度で思考を巡らせているのか。それを検証するには、定期的に変化するビデオの画像が重要な鍵となることを、時図守夫の脳は早くも察知していた。
 これまでに網膜が補足した画像の変化は計六回。時計に頼ることができないから正確には計れないが、どうも一分ごとにコマ送りされていくらしい。一分間で、一コマ動く。
 時図守夫は深層意識から古い知識を取り出した。
「VHSのビデオテープは、確か一秒間に三十コマの画像を次々に映し出したはずだ。つまり、一コマの絵が画面に映っている時間は、約0.03秒間。」
 ということは、時図守夫の脳内時間の一分間は、すなわち現実世界の0.03秒間に当たることが計算できる。現実世界で0.03秒が経過する間に時図守夫の脳はおよそ一分の体感時間の中を動き回るのだ。
 0.03秒で一分。0.01秒で二十秒。実際の0.01秒が脳内の二十秒。──猛スピードの思考を走らせる時図守夫の脳内では現実世界の二千倍の早さの時間が流れている勘定になる。
 VHSは一秒三十コマ。0.03秒ごとに映像が切り替わっていく。新たに映し出されたばかりのこの映像も、0.03秒後には別の映像と差し替えられるだろう。そのまた0.03秒後にはまた別の映像。そのまた0.03秒後にはまた別の映像。そのまた0.03秒後にはまた別の映像…。こうしたコマの連続によって、画面に映る男優は少しずつ体勢を変えていく。そして今からおよそ二秒後・六十数コマのあとには、交合の終わりを証明する印が、息の整わない女優の顔にベッタリと描かれ始めるはずである。それまでに現状を変容させなければならない。──正否を検討するまでもなく、時図守夫の脳はそういう判断を下した。
 次に、物音がしてから現在に至るまでの経過時間を把握し、現在時刻を算出することに努めた。
 音の速さは、空気中では時速約千二百キロメートル。秒速三百四十一メートルである。気圧や気温によっても変動する数値だが通常の室内においてはおよそ三百四十一と考えて差し支えないだろう。しかるに、時図守夫は玄関ドアから三四メートル離れたリビングルームに位置を占めている。よってドアが音を発してから鼓膜に届くまでに0.01秒ほど経過していると考えられる。
 さらに、反射神経の問題がある。陸上競技ではスタートの合図から0.10秒以内に走り始めたらフライングと見なされる。0.10秒以内に反応するのは人間には不可能であるから、ヤマを張ったバクチ的飛び出しと判断されるのだ。ここから類推するに、鼓膜からの情報を脳が認識して「時間よ止まれ」の指令を出すまでの間、0.10秒以上の時間が経過しているはずである。ただし、何秒以上という曖昧な認識では困るので、自分の神経の鋭敏さを信じ、0.10秒とする。
 音速と神経の反射を総合して考えると、物音がしてから時図守夫の脳が緊急モードに切り替わるまでに、0.11秒以上の時間が経過している計算となる。
 加えて、テレビの映像が変化した回数は、現在までに計八回。いや、待て、今また変化した。計九回である。一コマ0.03秒だから計0.27秒。緊急モードに切り替わってからすでに0.27秒が経過していた。
 緊急モードに切り替わるまでに、0.11秒。切り替わってから、0.27秒。つまり、ドアのラッチボルトが不穏な動きをした時点から数えて、現在時刻は0.38秒。
 時図守夫の意識野の左上に「0.38」という表示が明滅し始めた。





スロー再生

 このころになってくると、鼓膜からの情報はそのデータ量を大幅に増加させ、得体の知れなかったキケンの正体が“玄関ドアからの音響である”ことを余すことなく伝達してくる。何者かがドアノブを回したのはもはや明白の事実だ。
 「ドア」を中心紋にして、時図守夫の意識野にはフローチャートがマッピングされる。「ドア」と近接したステップは「すぐに開く」と「すぐには開かない」である。仮にドアがすぐに開いてしまえばその後の選択肢は無きに等しく、「施錠していなかった後悔」から小規模な反省会を催して然るのち「ビデオ停止」と「パンツ及びズボンの着用」を出来うる限り最速のスピードで行なうしか道は無い。二つの行為は闖入者が時図守夫の痴態を目撃するまでに最も適切な手順で速やかに遂行される必要があり、間に合わなければ即死、即死亡。要するに「ドア」が次のステップ「すぐに開く」に進むケースは危険極まりない一方通行の順路であり、致命傷に至る確率が格段に高まる荊の道だ。であるからして「ドア」が「すぐに開く」と「すぐに開かない」は大きな分水嶺であり、前者ならば生存確率は十パーセント未満であろう。ドアはすぐに開くよりすぐには開かない方が良い、開いては駄目だ、開きませんように、と時図守夫は願った。
 「ドア」が「すぐには開かない」へ移行するには様々な要因が考えられる。「隣人が部屋を間違えてドアノブに手を掛けた」「空き巣狙いの泥棒」「ドア開閉の仕組みを知らない」「奥側に押すべきドアを、手前側に引いている」「引き戸と勘違いしている」「極端に握力が弱い」「手にローションが附着しているので滑る」「ドアノブが潤滑油まみれなので滑る」「他人の家のドアノブをガチャガチャ言わせて回るのが好き」「ポルターガイストの類」などなど、ちょっとありそうにない要因も含めればいくつも挙げられるだろう。しかし最も期待されるステップは「鍵が掛かっている」ことだ。時図守夫はサムターンのつまみの状態を思い浮かべる。帰宅時に操作した記憶はない、しかし無意識のうちに捻ったはずだ。確証はないが、つまみは垂直ではなく水平になっている、つまりドアを施錠しているに違いない。施錠されていると信じたい。施錠されていなければ困る。本当に施錠していたかどうか、記憶を掘り起こすのには時間が掛かり過ぎるし、数分前に帰宅した過去の自分を信用する他ない。長年の習慣によって自動化された行為「玄関に入ったらドアを閉めて鍵を掛けること」を、自分はこの日もしっかり遵守していたと、祈るような気持ちで信じ込むしかなかった。「ドア」が「すぐに開く」は断崖絶壁に等しい下り坂のハイキングコースなのだから、そちらに転びたくはない。
 「ドアには鍵が掛かっている」と仮定して、今ドアノブに手を掛けたのは何者か。即座に思い浮かぶのは、家族の顔──黄土色の靄の中に浮遊する顔面三つ、それぞれに地獄の微笑を湛えた母・妹・父が平将門の生首よろしく宙を飛び回るイメージだが、その線はなるべくなら考えたくない《悪夢》なので時図守夫はそのイメージを忌避し、他方面から別の可能性を考える。ドアの向こうに立っているのが赤の他人であることを切望する。それならば問題はグッと絞られて、「ビデオの音声、聞こえないかな?」という素朴な心配のみが当面の課題となる。裸舞揉子の喘ぎ声が外部に漏れるのを恐れるなら単純にテレビの音量を下げればいいだけの話だし、ドアを隔てた向こうに音が波及する可能性は低いのでこのままの状態を保っていても良さそうだ。そう、ドアの向こうの他人に裸舞揉子の声が聞こえるはずはない。それを「ビデオの音声、聞こえないかな?」と過剰に気に病むのは現在の時図守夫の聴覚その他五感が異常に研ぎ澄まされているゆえの錯覚であり、現状維持が不安ならば安全策としてやはり音を絞れば良い。なんなら消音モードにでも。その上で様子を見れば良かろう。「ドア」が「すぐには開かない」であるならば、「テレビの音量を下げる」ことによってフローチャートは大きな結節点「様子見」へと移行する。「様子見」からの枝は大きく三つに分かれ、「無音状態の継続」「呼び鈴」「ドアの向こうで鍵を探す音」に展開する。次の瞬間にどんな音が聞こえるかによってどのステップに移行するかが決定される。
 「無音状態の継続」は「様子見」に取って返し、二つのステップをしばらく往復することになるだろう。無音が十秒以上続けば世は全て事も無し、時図守夫は裸舞揉子とのヴァーチャルな逢瀬に戻っていくことができるだろう。
 「呼び鈴」のステップには、ドアチャイムはもちろん、ノックや呼び掛けも含まれる。これは四つのステップ「宅配業者」「(回覧板などの)用事を足しに来た隣人」「空き巣狙いの泥棒」「家族が時図守夫の在宅を期待」へと分岐するだろう。宅配業者や隣人ならば応対しても良いし無視しても良いだろう。応対するならば「ビデオ停止」を経て「解錠する」に至る。泥棒が空き巣を探っているとしたら居留守は得策ではないので直接顔を合わせず電話口で応じるべきだろう。家族が守夫の在宅を期待している場合は、鍵を持っていないか、鍵探しが面倒だから解錠してもらおうと言うのだろう。この場合は、直ちに「解錠する」という愚は犯さず、速やかに「ビデオ停止」と「パンツ及びズボンの着用」を遂行するのが生存率を高める正しい選択だ。そのあとで「解錠する」に進んでも良いし、子ども部屋に移動して「就寝(寝たフリ)」を採用するのも手だ。もしも家族が鍵を持っていないことが「誰かいないのー。あけてー」などの声によって判明した場合は、かなり大胆な選択だが、中途となっている性的な一人作業をきっちりこなし、その後で「ビデオ停止」「パンツ及びズボンの着用」を済ませ、「解錠する」もしくは「就寝(寝たフリ)」でとどめを刺すこともできる。
 「ドアの向こうで鍵を探す音」のステップは、これはもう十中八九、というか九十九.九九パーセント家族で間違いないだろうが、万に一つ「空き巣狙いの泥棒」のケースがあるだろう。その場合はどうする。ベランダから逃げるか。警察に電話をするか。在宅中であることをアピールするために大声でわめくか。いいや。──十五歳の時図守夫の脳細胞たちが民主主義で採択した方法は「武器を手に取る」だ。武器にも色々種類があり、時図家には包丁・フライパン・彫刻刀・げんのう・カッターナイフ・こけし・裁縫針・灰皿・ハサミ・文鎮・ほうき・飛騨高山土産の十手・ビデオデッキなどがあったが、時図議会が採用したのはプラスチック製のバットだ。妄想会議は紛糾し、「バットと言えば肉製バット。鋼のような硬さ!」などの法案が提出される段に至って会議の不毛に思い至り、「ドアの向こうで鍵を探す音」のステップに立ち返る。このステップは遅からず「シリンダーに鍵を挿す音」にランクアップするだろうし、最悪の場合「ドアの向こうで鍵を探す音」をすっ飛ばして「シリンダーに鍵を挿す音」からスタートするだろう。これはもう風雲急を告げる事態であり、「ビデオ停止」「パンツ及びズボンの着用」を呼吸や心拍よりも優先しなければならない。
 「ドア」から出立した時図守夫の一番目の意識は現在「様子見」にひとまず停泊している。しかしフローチャートは一種類の楽観的な未来を示す物ではない。もしも──考えたくない「もしも」の話だが、ドアの向こうで緑色の二股に分かれた舌をチロチロさせている人物が家族のうちの誰か一名もしくは複数名だったとしたら。考えたくはないが、ドアノブに手を掛けたのは赤の他人ではなく肉親であると考える方が普通なのだ。時図守夫の脳細胞の首脳陣は考えざるを得ない、家族への対処方法を。それが誰であるかはまだ判別できない。母か、妹か、もしくは父か。それとも母と妹か、母と父か、妹と父か。もしくは全員か。時間的には妹の可能性が一番高い。父がこの時間に帰宅する事はまず有り得ないし、母は夕飯の食材を買い出しに行っているはずだ。しかし妹にしても今日はクラブ活動で遅くなるはずだったが。
 一番確率が低いのは父だ。会社で働いているはずである。ドアの向こうの人物が父だとすれば、彼は忘れ物をしたのか、早退をしたのか、はたまたリストラをされたのか。父だとすれば──とチラリと考えたとき「見つかっても男同士だ」という安堵感が微かに芽吹いた。父だって自分と同じ年齢のころは勉強よりも性に関する事柄に興味津々だったに違いないし、今でも性欲が(あるかどうか知らないが)あれば自分の行為を理解してくれるはずだ。秘密の同盟関係を締結する、とも言える。さりとて自慰行為の現場を見つかるのは精神的に大きな痛手だ。だって結局身内だもの。だから、醜態を晒さないで済むなら、晒さずに済ましたい。
 母がこの時間に〝自宅に居る〟のは珍しいことではないが、この時間に〝帰ってくる〟のはあまり前例が無い。たとえば昼食を自宅で済ませてそのまま夕食の支度までテレビを観て時間を潰すことは間々ある。しかし一旦出掛ければ──友だちとのバス旅行・お茶会、パソコン教室や美容院などに足を運べば、その後は買い物に移行し、夕方まで帰宅することは滅多にない。けれどもし、ドアノブに手を掛けたのが母だとしたら。時図守夫の精神にとってこれ以上の痛手はない。実の母親に自慰行為を目撃されるほどの恥が、この現世に用意されているだろうか。これ以上恥ずかしい死にたくなるような体験がこの地球上に存在するだろうか。母だけはイヤだ。
 妹がこんなに早い時間に帰宅する理由──よもや学級閉鎖・早退・小教協ではあるまい。学級閉鎖や早退なら時図守夫よりも先に在宅していただろうし、小教協は水曜日、しかも別の週のはずだ。門前に迫った敵が妹だとすれば、クラブ活動をサボッたと考えるのが妥当だ。しかしサボるだろうか。いやサボるかも知れない。父のリストラや母の早期帰還より可能性が高いのは、妹のクラブ活動サボタージュだ。妹だとして最も懸念されるのは密告だ。兄の痴態を発見したら鬼の首を取ったかのように両親に報告するだろう。男性の自慰行為の意味を理解しないかも知れないが、小学六年生だから友だちとそういう方面の話題で盛り上がってもおかしくない年齢だ。
 さて、「ドア」は「すぐに開かない」であった。ドアは施錠状態であり、時図守夫の人生は即座にゲームオーバーとはならなかった。彼は自分の防犯意識の高さに感謝を捧げた。しかしだからと言って揚々と安楽出来るような結構なご身分ではない。「ドアの向こうで鍵を探す音」もしくは「シリンダーに鍵を挿す音」が聞こえたら家族確定だし、家族であるなら闖入してくるのは理の当然だ。敵はシリンダーに鍵を挿してひねる手順を経ず、この308号室に踏み入ろうとした。ここから推理する犯人像は「母の在宅を期待してとりあえずドアノブに手を掛けた妹」が第一容疑者であろう。いずれにせよ、誰であるかはさして重要ではない。今後受信するであろう正式な声明「ただいま」の声紋によってその正体は判然とするだろうし、誰であってもキケンであることに変わりはない。考えるだけ徒労だ。





CMスキップ(30秒送り)

 時図守夫の脳内で、暴走する無数の意識同士が、衝突しながら複雑にこんぐらかった。
 本来は家族の憩いの場であるダイニングルームで下腹部を露出してアダルトビデオを観ながらマスターベーションにふけっている現場を血の繋がった肉親に目撃されるという耐え難い恥辱だけは避けなければならないしかもそれがフィニッシュ直前のシーンで自分自身もエロティックシンクロナイズドオーガズムだらしない痴態を晒している最中ならばなおさら恥恥恥恥恥恥恥恥ああアアああっアアッ時間よ止まれ時間よ止まれ止まれ時間よ時間よ止ま止ま止ま止ま時間よ時時時間よどうしてこんな事になったのかなあただ俺は誰にも迷惑を掛けずに最高の快楽を貪ろうと貪ろうとむさぼ貪ろうとしただけ恥恥恥恥気持ち「0.50」よくなりたいだけだったのにそれなのにヒドイよどうしてこんなこんなどうしてこんな苦苦苦しい目に目に遭わなけれ苦境に立たされねばいけなああアアああ~恥恥恥恥ず恥ずかし恥ずかし目辱め辱め落ち着かな死ぬ死ぬ死ぬ恥ずかしくて死ぬ恥ずか死ぬ落ち着かなければ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬか死ぬのか死んだ方がマシだああアア落ち着かなければいけな落ち着かなければいけない時図守夫よ落ち着けいくら悲嘆しても状況は回復しないしますます混乱していく一方だ落ち着かなければダメだyes冷静沈着な指令を身体の各部位に下そう命令系統の足並みが揃わないと末端神経は能率の良い働きをしてくれないそればかりか突拍子のない行動を起こして時図守夫全体を揺るがす危機を招くとも限らない落ち着け落ち着け。
 時図守夫の思考は千々に乱れた。
 混乱する現場を収集するため、統一意思の最高決定機関たる脳内議会が招集された。
 まず、野党議員が勇ましく手を挙げ、勢い良く立ち上がった。
「ドアの向こうにいるのは家族である、と決まったんですか。まだわからないでしょう。数少ないビデオ鑑賞のせっかくの機会を、そのような臆病極まりない消極案によってふいにしてしまうのは、人生における豊饒な時間の重大な損失じゃないんですかね。やはりここは、いっそのことテープを数秒間巻き戻し、コンセントレーションを高める助走を踏み直すべきではないか。むしろ緊急モードを解除してマスターベーションを通常速度で1からやり直した方が良いのでは。そう思うんですがね」
 議場はざわめいた。
 この過激な陳情に対し、首相は咳ばらいをしてから以下のような答弁をした。
「人生の損失だと仰るが、『もしも本当に家族が帰って来たのだとしたら?』と考えたことはあるのですか。人生の一部が喪失されるというレベルではない。未曽有の大災害に見舞われます。ビデオ鑑賞を中止することによる被害は一瞬で、後日いくらでも補填できる種類の損失です。が、家族が帰ってきたら。そして、オナニーの場面を発見されたら。その時点でわたくしども時図守夫の全生涯はあっけなく幕を閉じるのですよ。──幕を閉じるばかりじゃない。その汚名は時図家末代まで伝えられましょう。時図守夫が生物的な死を迎えた後も、ぶざまなオナニーの場面を家族が吹聴することにより、その不名誉は半永久的に語り継がれるわけです。言わばダンテによって地獄に落とされた政敵のように、人間的な尊厳は永遠に傷つけられ、レイプされ続ける。その危険性を再度改めて認識すべきではないですか」
 未来を見据えたこのプレゼンテーションをきっかけに、満場一致とまではいかないものの「ただちに観賞をやめ、今のうちに隠蔽工作のための行動を開始すべし」という声が強まった。議場は拍手に包まれた。
 一方、神経の反射作用に急かされた筋肉は、脳からの指令を待たずにすでに動き始めてしまっていた。寝そべった上体を起こそうとしている。尻を浮かせてズボンをずりあげようとしている。無理もない。あれから0.59秒も経っている。裸を恥と思うのはエデンの時代から人類に宿命づけられた摂理だ。身体は各々勝手に瞬発的な動作を開始してしまっていた。
 議論に夢中だった脳内議会は、身体が勝手に動き始めるという予想外の事態に慌てた。どうしよう。どうする。肉体の自発的行動の是非について意見が戦わされたが、最終的には「今さら筋肉の作業を制止しても体勢はかえって中途半端になってしまう」と判断した。命令系統のこれ以上の混乱を避けるためにも、現場の判断による自衛行動を容認する事にした。身体の各部位に宛てて指令書を発信する。
「局部は最重要機密事項であり、真っ先に敵の目から隠すべき部位だ。作戦を許可する」
 勃起したデチ棒を家族に見られるのは耐え難い恥辱だ。それだけでなく、汚いデチ棒に接触した光線を、肉親の視神経に曝すという暴挙でもある。汚染された光を、目の中に。家族に対しても申し訳ない。
 ズボンをパンツごとずりあげる作業は目下最優先事項と認定された。臀部や上腕ら担当筋肉の本能的蠕動のみに任せるのではなく、時図守夫を構成する細胞のほとんどが総動員で協力体制に入った。錯乱し掛けていた脳細胞もこれを機にまた一丸となり、全意識を下腹部の隠蔽事業に集中させた。
 一方耳の中でその任に当たる鼓膜はどんな微細な音も逃すまいと蝸牛神経と前庭神経をあわせた聴神経または内耳神経と呼ばれる神経を尖らせていた。その時だった。鼓膜が新たな音声を傍受した。それはテレビのスピーカーが放射した空気振動だった。





あーん

 という声がした。
 いや、正確には、「あーん」なのか「ああん」なのか「ああっ」なのか「あっ」なのか「あはん」なのか「あふん」なのか、まだ区別が付かなかった。いずれにせよ「あ」の先端部分だった。それは声になりかけている空気の振動だった。
 「ガチャッ」が危機レベル5だとすると、この「あーん」は危機レベル4として扱われた。そのため、鼓膜はただ「キケン」とだけ報告するのではなく、音波の全体像を知覚してから脳に異変を報告することにした。
 徐々に声の正体が浮かび始めた。玄関ドアで音がした際とは異なり、幸いにもテレビのスピーカーと時図守夫の耳との距離は一メートル足らずと非常に近かった。
 判明した。やはり「あーん」であった。テレビのスピーカーからのよがり声、AV女優・裸舞揉子の甘ったるい淫靡なあえぎ声だった。
 この妖美な音色によって、一丸となりかけた時図守夫の脳細胞たちは簡単に足並みを乱す。
 前脳基底部に所属する神経細胞は、どっきり番組で見かけるスロー再生の映像を思い出した。映像と同期してスローとなった音声は、普通、周波数が間延びして音程が低くなってはいなかったか。然るに今の淫奔な声の甲高さは何事であるか。通常の速度で再生したのと同じ音程だ。その生々しさに、現実世界の速度が正常化してしまったのではないかと怪しむ。前脳基底部に所属する神経細胞は、一刻を争うこの場面でただただ無駄な狼狽をし、貴重な時間を浪費した。
 聴覚野に所属するニューロンは、スピーカーの音量に注目した。屹立したモノはすぐにしまわずとも、その匂いが玄関まで届くわけではない。その形状・その色彩が侵入者の目に映じるわけでもない。だが、音は。音は靴脱ぎまで飛んで行く。テレビのスピーカーが発するあえぎ声によってAV鑑賞の事実が発覚するのではないか。だとすれば目下の急務はズボンを履くことよりも消音、出来ればテレビの電源を落とす、もっと欲を言えばビデオの再生を停止することではないか。ひとまずはビデオを停止するに越したことはない。耳聡いニューロンはそう判断した。他の細胞に相談している手間がもったいないので、左手にテレビのリモコンを持つよう直接命令を発した。「ひとまずはビデオを停止するに越したことはない。」右手と共闘してズボンずり上げ任務を遂行しようとしていた左手は、突然の作戦変更に混乱する。
 快楽中枢に所属する脳細胞は、命取りにも程がある危険な反応を呈した。妖艶な声に毒されて理性を失い、快楽にまみれたかつての淫蕩を夢見たのだ。
「黄金時代をもう一度。我々の悲願は、満了直前に寸断された。OH、満了。くち惜しや。あな口惜しや。我々は、あの行為への回帰を訴える。シコシコ、シコシコ!」
 矢も楯もたまらず、快楽中枢に所属する脳細胞は、驚くべき行動に出た。
 あろうことか、再び自瀆行為に戻るよう勝手に戒厳令を敷いたのだ。
 民主主義で決定した法律を無視し、司令部の許可なく、自分たちの下に権力を移行した。
 局部の露出が、即ち死に直結するかも知れない、厳しい状況下。にも関わらず、右手の指五本はズボンのウエスト部分を掴む作戦を中断し、その先端に再び陽物を握らせんと陰部に向けて進攻を開始した。
 一方の左手も、指五本のうち四本まではズボンずり上げ任務を放棄する気配を見せ、リモコンの方角へ推移しようと企んだが親指がズボンに引っ掛かっているためスタートダッシュに出遅れる。
 この間0.05秒であり、右手の移動距離は一.六センチメートル、左手の移動距離は四ミリメートルだった。
 右手は一心不乱脇目も振らず下腹部に突撃したわけではなくズボンのウエストに未練を残していたし、左手はリモコンかズボンかの二者択一に迫られて結局どっちつかずの膠着状態に陥った。
 混乱。秩序の完全なる喪失。
 上層部の意見の齟齬によって損害をこうむるのはいつも下っ端、別々の上司からそれぞれ違った発令を押し付けられ、どちらに従属すべきか判断に迷って右往左往するばかり。
 この逡巡は時図守夫と呼称される総体に新たな局面をもたらした。「無音状態の継続」が長期間に渡って維持されていることを聴覚が認識したのだ。直近で鼓膜に響いた音はあーんのみであり、ドアの方角からは絶えて久しく音の聞こえてくる様子がなかった。
「これはもしかして、気のせいだったのではないか。何者かがドアノブに手を掛けたという事実はなく、ビクビクしながらAVを鑑賞している己の臆病な態度が呼び起こした幻聴だったのではないか。」
 時図守夫の脳内にある諮問機関が希望的観測を打ち出した。あるいは気のせいでなかったにせよ「隣人が部屋を間違えてドアノブに手を掛けた」という可能性も大いに有り得るのではないか。ドアの向こう側に誰かが立っているとしても、それは家族ではない、のではないか。家族でないとすれば時図守夫と時図守夫自身を法悦に導くこの行為を中断する謂われはない、ここまで少しずつ育て上げてきた興奮をうっちゃるのは馬鹿げた冒瀆だ。
「沸々と煮えたぎるマグマを我々は徐々に高めてきた。オルガスムスへの段階的発展は言わば右手伝来の由緒ある文化遺産であって、単なる小心からその伝統を簡単に放棄するなど、卑怯にも悖る裏切り行為ぞ」
 時図守夫の中の急進派が叫ぶシュプレヒコールは保守派に負い目を感じさせ、右腕に危険な橋を渡らせようとする。脳内いっぱいに満たされる悪魔のささやき。時図守夫の恐怖心は戸板の汚れが流水の水圧に負けて剥がれ落ちる如く麻痺し始め、取って代わって精液発射への大胆不敵な欲望がニョッキリ頭角を現した。是が非でも局部を隠蔽しようという保守主流は、じわじわとその勢力を奪われていった。しかしまだ、臣民の総意は「ビデオ停止」と「パンツ及びズボンの着用」であって、「一発抜こう」という過激な論調は少数派だった。
 脳内の思考回路は非常な混乱を来していたが、視覚は邪な思惑を差し挟まない器官として公正に作動していた。時図守夫の網膜は裸舞揉子の肢体を捉えた。ああ女体。白金の肌を艶やかに輝かせ、柔らかなる肉に丸みを帯びた永遠の謎よ。特にこの、おっぱい。
 おっぱい。
 おっぱいおっぱい。
 おっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱい。
 脳へと送られねばならないはずの血液は、物言わぬ心臓へと輸送された。主体性の無いその生き物は血液で全身をみなぎらせ、再び活力を取り戻し、筋肉をギンギンに怒張させて、無声ではあるが獅子の咆吼にも似た鬨の声を挙げた。
 砂漠で渇きに喘ぐ旅人が黄金よりも水筒を欲するように、生理的な欲求が論理的な思考にまさった。もはや時図守夫は怖い物知らずの獣だった。ただ精液を発射するそのことだけを冀う、本能というプログラムに支配された自動機械だった。
 猛り狂う時図守夫は、猛将本多忠勝も斯くやと思われる果敢さで名槍蜻蛉切を上下に磨き出した。しごきあげられる槍は鋭利な熱を発し、その先端には威風堂々たる光彩を放つ雫がぷっくりと浮かび出した。蜻蛉がこの雫を吸おうと羽根を休めればきっと真っ二つになるであろう。





停止

 武装蜂起した右腕は理性の可決したビデオ停止法案を蔑ろにして4ストロークエンジンばりの駆動力でピストンが吸血圧縮の工程を経て爆発排泄に至るための点火を目指して制御不能の上下動を繰り返していて暴走モードに突入臨界点突破の様相であり且つ時図守夫の遺伝子たちはもうどうしようもなく裸舞揉子に抱き付きたい欲望を狂おしいほどコポコポと沸騰させており今すぐにでも鈴口から出陣して画面の中の熱帯の雪山に飛び掛からんばかりの勢いでしっぽを振り振りしながら右手の仕事が完了するのを陰嚢の中で各自激しくスクワットをしながら控えているのであったがかと言って時図守夫の全精力が自家発電所に注がれていたわけではなく右耳は常に警戒を怠らずドアの方に向いており必然的に顔の正面で映像を補足することはできず網膜を通じて映像を脳に届けるためには眼球を左に寄せるという筋肉運動の手間を必要としておりつまり全てを忘却した悟りの境地でのマス掻きとまでは至らずそこにはまだ議会が介入する余地があり先の会議で可決した法案「ラッチボトルの立てた物音に対する驚愕と家族の予告なき突然の帰宅に対する恐怖により海綿体を擁する血液袋は若干ではあるが萎えていて100パーセントベストの状態ではない現状のような快楽指数曲線の波が低空飛行を続けている状態では男優とのシンクロ率も低下するであろうことは明白な事実でありこのまま半ば強引に射精を果たしてもその性的満足感は通常の半分にも満たない正確に述べるならば46パーセントほどの満足にしかならないゆえに今から男優のフィニッシュに合わせるのは至難の業でありよしんば無理に毒液をドピュッと発射しても十全な快感は得られず単なるガス抜き的生理行動に堕する可能性が高いしかるがゆえ本日中の射精成就はあきらめて後日再挑戦すべし」を施行し右腕への喧々囂々たる神経伝達物質による止めろやめろの大合唱で右手の先端で手淫に励む五本の指と掌は一瞬怯み活動延期を余儀なくされクーデターは失敗かと思われたがまだ千擦り達成への未練を残しいつでも原発再稼働の機会を窺うために陰茎は握られたままになっていたがげに恐ろしきは裸舞揉子の猥褻な喘ぎ声の持つ魔力でこのころにはかつて「あ」の先端部分でしかなかった空気の振動もはっきりとした人声の形を取ってきておりやはりそれは「あはん」でも「あふん」でも「ああん」でも「ああっ」でも「あっ」でもなく最終的には「ん」に着地するであろうと思われる「あ」の持続音でそれは天国におわします女神の声のように玲瓏たる響きで時図守夫の耳の中をくすぐり続けていたわけであたかも身に迫る危険に対する心拍数の上昇を恋のそれと勘違いするいわゆる吊り橋効果のように興奮状態を高めそれに伴って動悸の回転数も上げていくわけで燃料棒の奥底でぐつぐつと煮える白濁液はもはや包皮を擦らずともメルトダウンを起こしそうなほどかっかと滾り掌の汗ばんだ皮膚の感触だけでも暴発しそうで結果おねしょのようにカウパー氏腺液がじんわりと滲み出し必然的に間欠泉のような自然現象となって外部に小出しに噴き出した。
 発射オーライ。アクセル。エンスト。玉突き事故。
 右手の中でペニスがビクリと脈動するのが文字通り手に取るようにわかり重たい液体が自分の意志とは無関係に水脈をドクドク通過する感触は尿道のみならず肉棒を包み込む掌にも伝導したが事態を簡潔にするためにというのも何事も簡潔にすべきですから脳生理学的見地から一言申し上げるとオナニーの際に感じる気持ち良さはチンポそれ自体がキモチイーのではなくチンポからの今おれ気持ちいいっすという報告を大脳が受け取っているに過ぎず結局気持ち良さを感じているのは大脳なのだがその気持ち良さを賞味している余裕は今の時図守夫にあろうはずもなくその瞬間時図守夫の意識野の左上に明滅する表示はいつの間にか「1.39」にまで増幅しておりこれは要するにドアのラッチボルトが不穏な動きをした時点から始まった緊急モードが切り替わってからすでに1.39秒経過していることを示していたわけだが画面内の男優が発射に至るのはおよそ約0.80秒後でありシンクロ率100パーセントの夢は叶わずそしてまたフルスイング全力投球での発射ではなかったので当初予期していたような1リットル分の精液が尿道を通過するような痺れるほど甘美な快感ではなく消化不良の気持ちよさしか付与してくれずこのアクシデントに脳細胞百数十億個は一斉に溜め息交じりの悲痛な嘆声を挙げて口々に残念無念と遺憾の意を表明し一日の生産量に限りがある貴重な弾丸を浪費したことに対して哀悼の意を表明しほれ見ろ言わんこっちゃないだからテープを数秒巻き戻して1からやり直すべきだったんだという野次が野党から飛んで責任問題の追及が起こり与党からはクーデターを起こした右手への激しい非難の声が上がったが野党はこれを責任転嫁だとして斥ける構えを見せて議事堂は大恐慌に見舞われた時の証券取引所のような尋常ではない混乱を来たしたし右手は右手でたとえ脳から中止せよとの命令が飛んできても躊躇することなく仕事を完遂すべきだったという激しい後悔が青年将校たちの胸を苛み今からでも遅くないんじゃないか上下の手コキ運動によってまだ残留している精液たちを最後まで責任もって絞り出してやったらいいんじゃないかと思案したがあまりに突発的な意にそぐわない射精が開始されたことに面食らった精神的ショックは計り知れず次にどう行動すべきか踏ん切りがつかず思いあぐねていると全速前進の猛烈な勢いで晴れ舞台に躍り出ることを期待していた精子たちも変なタイミングで世にデビューしたことをこりゃいかんと勘付いて泡を食って慌てて輸精管内に留まろうとしたのであるが押すな押すな待て待ての精子の制止の声もむなしく後から後から押し寄せて来る後続体液のプレッシャーを受けて将棋倒しの体でちょびりちょびりと漏れ出ることしか出来ずそれはもうどうすることもできない自然作用なのであったが憤懣やるかたないやるせなさは察するに余りあるし童貞である時図守夫を母体とするため卵子と出合うことのできない無駄死には宿命的な結末としてあきらめてはいるもののそれでもこれは過去前例のないほどに無意味な死だったのではないかと無常観に捉われつつ虚しく亀頭の先にへばりついていたが後続体液に押し上げられる形となった第一陣は重力に負けて早くも垂れ落ち始めておりそれはやがてボタリという擬態語を伴って腹の上に悲しき着地を遂げるであろう途方もない悲劇的なこの阿鼻叫喚の地獄絵図はワールド21やスタープラチナを召還しても止めることはできずあとにはただ広漠たる宇宙空間のような空虚さが時図守夫の意識にビッグバンさながら拡散していくのみ、だと思われたがそこへこれまた絶望的にタイミングの悪いことに







 という声がした。
 いや、正確には、「ただいま」の「た」の音の冒頭部分が鳴り始めた、だろうか。それは声ではなかった。まだ、声ではなかった。それは声になりかけている空気の振動だった。いずれにせよ「た」の先端部分だった。玄関の方から聞こえて来た、人の声だった。
 「た」。「ただいま」の他に何がある。「たのみます」だったら宅配業者か何かがお届け物に来たのだろう。宅配業者。「宅配でーす」かも知れない。「たいしたものではありませんが」なら隣近所の住民からのお土産かお裾分けか何かだが挨拶抜きにいきなり本題から喋り始める無粋かつ無礼な人間が礼節の象徴たるお土産かお裾分け持参で闖入してくるというのは甚だしい矛盾ではないだろうか。やはりここは素直に「ただいま」の「た」の端緒が鼓膜に達したのだろうと考えるのが穏当であった。帝国に忍び寄る巨大な黒い影・暗黒時代の到来・死の予感が痛切に感じられた。自律神経がズタズタになり、冷や汗がドッと噴き出した。急にお腹が痛くなった。事ここに至って右手も欲望の一切を廃棄し脳からの指令を受け入れ、陰嚢の最奥で一刻も早い出撃を望む精虫軍団にお預けを食らわせ、保身のための行動に可及的速やかに移ることを承諾したのである。賢者モードに突入。
 しかしこれまたどうしたことか。こんなことがあって良いのだろうか。反射的に「ファック・ユー」と呟かずにはいられなくなり、「ファ」を発音するために唇が一旦くっつき始め、声帯を震わせるために肺が吐息を準備し始めた。本来そんなことをしている余裕はないのだが、どうしても発話せずにはいられなかった。
 かつて(と言っても1.45秒前であったが)時図守夫は、「ドア」は「すぐに開かない」であったために、ドアが施錠された状態にあると判断した。自分の防犯意識の高さに感謝を捧げもした。時図守夫にとってドアは分厚い防護壁と同様で、核シェルターにも比せられるバリアーだった。外界とリビングルームを隔てるATフィールドだった。閉ざされている限り身の安全を保障してくれる、頼もしい存在だった。
 そのドアが、裏切った。
 もしも、「ドアの向こうで鍵を探す音」または「シリンダーに鍵を挿す音」がしたら家族の帰宅を意味し、破滅へのカウントダウンを意味したが、そのカウントダウンすらすっ飛ばしていきなり破滅を申し渡してきた。カウント・ゼロ。最後通告。死刑宣告。余命0分。
 実際は解錠状態だったのだ。鍵は掛けられていなかったのだ。 敵はまず、ドアノブに手を掛け、期待せずにひねった。ひねりながら、「あ。どうせ鍵が掛かってるに違いない。最初から鍵を挿せば良かった」と毛の先ほどの小さな後悔をしたかも知れない。しかしながら、ドアノブが回転し切ってラッチボルトがドアケースの中に収まると、ドアはそのまま抵抗なく開いてしまう様相を呈していた。かんぬきである所のデッドボルトが受座に刺さっておらず、要するに未施錠だ。敵は「おや?」と思っただろう。
 敵は鍵があいていることを不審がり、一瞬ためらい、すぐにはドアを押さなかった。ただそれだけだ。それを時図守夫は「ドア」は「すぐに開かない」イコール「施錠状態」であると履き違えた。スーパーコンピューターよりも高速の思考により、彼の脳内では現実世界の二千倍の早さの時間が流れていた。それが裏目に出た。敵がドアを開けるのを一瞬ためらったその「一瞬」を、彼は「数秒間」と誤認した。実はドアは1秒と間を置かず開けられ始めていたのだ。
 時図守夫は施錠をしなかった帰宅時の己を呪った。そしてまた、「ドアを施錠しているに違いない。施錠されていると信じたい」と判断した0.82秒前の己を呪った。かてて加えて、ドアがゆっくりと開く音に気付かず責務を全うしなかった己の耳を呪った。
 時図守夫の意識が緊急モードに切り替わった初期段階、具体的には「0.39秒」の時に、ドアがすぐに開いてしまったケースについて考察した。その考察が、頭の片隅で反復される。
「──ドアがすぐに開いてしまえばその後の選択肢は無きに等しく、「施錠していなかった後悔」から小規模な反省会を催して然るのち「ビデオ停止」と「パンツ及びズボンの着用」を出来うる限り最速のスピードで行なうしか道は無い。二つの行為は闖入者が痴態を目撃するまでに最も適切な手順で速やかに遂行される必要があり、間に合わなければ即死、即死亡。要するに「ドア」が次のステップ「すぐに開く」に進むケースは危険極まりない一方通行の順路であり、致命傷に至る確率が格段に高まる荊の道だ。」
 時図守夫は「反省会」「呪詛」と並行して「認識」「計画」「運動」を実行した。それは同時多発的に執行された。一人の人間がこなす仕事の許容量を完全に横溢していた。彼の頭脳は処理すべき仕事の多さに忙殺され熱暴走寸前で踏みとどまっていた。
 同時に書くことが出来ないので「認識」から順に叙述していくが、「計画」と「運動」も同時に進められていたことをあらかじめお断りしておく。
 まず、「た」の発生源が何なのか、何者による発話なのか、判別しようとした。最初の一音を聞けば誰の声なのか容易に判別できそうなものだが、事はそう単純ではない。音には基音と倍音があり、基音「た」の中にもそれに付随する倍音が含まれている。発音が子音「t」から母音「a」に完全に移行していても、そこには「t」の残響が微かに残っている。この倍音が基音と混然一体となることによって豊かな音色となるのだ。神経が超人的に過敏になっている今の時図守夫の耳には基音が先に認識され、倍音がなかなか到達しない。基音だけでなく、背後で微かに鳴っている倍音が、その音色の特徴を決定づける。──楽器の持続音を録音し、始めと終わりをカットして中間の音だけを聴かせ、「さあ、これは何の楽器?」というクイズを出すと、音楽の専門家たちでさえそれが何の楽器か識別できないという。ロングブレスの管楽器が、時に弦楽器の音のように聞こえるあれだ。
 そういった理由で「た」だけでは男か女かさえ判断できなかった。ただし、和声ではなく単独犯による声明、人間ひとりによる発話であることは辛うじて聞き取れた。
 玄関から直接リビングルームを目視することは出来ない。これはこちらも同様で、振り返っても使徒を肉眼で確認することはできない。となると心配なのは音だ。敵の耳に裸舞揉子の嬌声は届いてないだろうか。テレビのスピーカーからどろりと流れ出た「あーん」は聞こえなかっただろうか。もしかしたら、聞こえてしまった可能性はある。聞かれたのか。どうしようもう言い逃れは出来ないのだろうか死にたい死にたい死にたいよ。
 が。仮に「あーん」が聞こえていたとして、それは微かな物であるだろうし、ヤツ自身の発した「た」という声の方が大きな音量を伴ってヤツの耳に聞こえているはずだ。過ぎてしまったことは仕方がない。くよくよしている場合ではないその程度の些末な事柄に気を取られている場合ではない戦況は芳しくない。まったく芳しくない。下半身は露出したままだし、テレビ画面ではちょうど顔射がおっぱじまる瞬間だ。とにかくこれらをどうにかしなければ。







 ほら聞こえて来た「た」に続く「だ」の音が。「だ」になりつつある濁った音声が。そして、「た」の残響も混じっている。
 ここに至って、ようやくそれが高周波数であること、すなわち男声ではないことが知れた。父ではない。母か妹だ。音圧レベルも高い。大きな声である。母か妹か。いや、妹だ。
 妹だ。
 妹が帰って来た。
 「敵を知り、己を知り、地の利を知れ」とはプロ野球選手の言葉である。敵を知ることで今後の対応を講ずることができる。妹か。そうか妹か。クラブ活動をサボッたのだ。ドアノブに手を掛けたのが誰なのか色々と予測を立てたとき、容疑者の筆頭に上げられたのがこの妹だ。推理的中。さあどうする。
 「認識」と同時進行をしていた「計画」は、いかにテレビ画面と下半身それぞれの始末をつけるかが眼目だった。どちらを優先するべきか。どちらも重要だ。どちらも疎かにしてはならない。下半身をどうにかしてもテレビ画面が顔射の真っ最中だったらダメだし、テレビ画面をどうにかしても下半身が射精の真っ最中だったらダメだ。どちらもどうにかしなきゃダメだ。
 そう。時図守夫の息子は嘔吐を続けていた。もはや小出しでしかなかったが、えずき続けていた。しかも、それでもなお、胃の中(睾丸)には白いヘドが滞留していた。ヘドどもは暴徒化寸前だった。まるで、刑期を全うしたのに出獄を突如として中断された囚人のように、爆発しそうな不満を募らせていた。
 まずはテレビ画面の始末をつけよう。司令部はそう決定した。もちろん局部を衆目から遮るのも最優先に対策すべき事象だが、テレビ画面の方に意識を集中すれば、陰嚢刑務所に収監されたままの不満分子も、多少は落ち着くかも知れなかったからだ。
 計画その1、テレビ画面の始末。まず始めに、ビデオデッキを操作するのか、テレビを操作するのか。残された時間は限りなく少なく、どちらを選択するかが今後の命運を大きく左右する。
 「A.ビデオのリモコン」「B.テレビのリモコン」どちらを先に手にするべきか。
 ビデオデッキを操作するとしたら「A1.ビデオの停止」「A2.ビデオデッキの電源OFF」「A3.テープの取り出し」に分岐する。
 テレビを操作するとしたら「B1.消音」「B2.テレビの電源OFF」「B3.入力切替」に分岐する。
 どちらのリモコンの、どのボタンを押すべきか。0コンマ1秒も無駄にできない。無駄な手数を踏んでいる余裕はない。
 裸舞揉子の「あーん」は、すでに「ん」の音も発表し終えていた。しかし、女優の甘い吐息と男優の荒い息遣いは継続している。聴覚野の報告により、何よりも先に音を消すべしだと知れた。問題は山積しているが、その中でも特に、音を消すことは呼吸よりも優先すべきと思われた。
 では、最初に為すべき行為は「B1.消音」なのか。確かに、最優先課題である音の消去は達成できる。しかし……音が消せても画が消せない。画面は顔射真っ最中のいちばんイケナイ場面が表示されたままであり、妹がリビングルームに到達したらアウトだ。結局、画をどうにかしなければ、音を消したところで無意味だ。
 では、「A1.ビデオの停止」はどうか。画も音も同時に消すことが出来る。すばらしい。最高。
 だが、「A1」の手段だとビデオデッキの電源は入ったままである。普段使うことのないビデオデッキがデジタル表示を光らせていたら、家族は不審がるだろう。
 それならばいっそのこと、「A2.ビデオデッキの電源OFF」を実行すべきだ。画も音も同時に消すことが出来るし、ビデオデッキの電源も切れる。「A1」の作用に加え、ビデオデッキも沈黙させられる。すばらしい。最高。
 となってくると、「A2.ビデオデッキの電源OFF」が正解なのか。他の可能性はないのか。「A3.テープの取り出し」はどうだろう。
 今現在リール座にセットされているVHSテープ『裸舞揉子、デビュー』は、時図守夫の宝物。──由緒あるお寺が火事に遭い、それが鎮火不能だったとき、まずどうする。倉庫から国宝の仏像を運び出す。VHSテープ『裸舞揉子、デビュー』も、中学三年生にとってはダイヤモンドより貴重な至宝。必ず取り出さなければならない。それに、テープの取り出しは自動的に「A1.ビデオの停止」を伴うので、画も音も同時に消すことが出来る。すばらしい。最高。もう考えるの疲れちゃったよ、「A3.テープの取り出し」でいいんじゃない?
 だが、これは考え得る限り最悪のシナリオだった。取り出しボタンを押すと、カセットテープが取り出し口から排出される。ここまではいい。問題はそのあとだ。カセットテープは、中途半端にデッキからはみ出した、不自然極まりない状態になる。いや待て。事はそう単純ではない。カセットテープの背には『裸舞揉子、デビュー』のラベルが貼ったままだ。これを父が見つけようものなら「何のビデオだ?」AVだと気付かず再生しそうだ。それか、なんとなぁくAVだと予感していても、好奇心もしくは悪意から再生しそうだ、たとえ母と妹が箸を動かす団欒の時間であっても。家族全員でAV鑑賞。最悪の事態だ。
 「A3.テープの取り出し」を実行した場合、「テープ排出」を経て「中途半端にはみだす」になる。そのため、「テープを抜き取る」という追加行動が必須となってしまう。そんなことをしている時間的余裕が今の時図守夫にあるだろうか、いやない。だから、「A3.テープの取り出し」は今するべきことリストの最下位に内定する。
 段々と序列がはっきりしてきた。この調子で「B2.テレビの電源OFF」と「B3.入力切替」についても検討する。だが、急がねば。妹はすぐそこまで迫っている。
 まず、「B2.テレビの電源OFF」はどうか。これは「A1.ビデオの停止」と同じく画も音も同時に消すことが出来る。「すばらしい。最高」と0.18秒前なら評価できただろう。しかしもう最高ではない。「A1.ビデオの停止」と同じくビデオデッキの電源は入ったままであるし、ビデオそれ自体は再生されたままだ。妹がもしテレビの電源をONにしたら、ビデオの続きが映し出されてしまう。危険だ。
 「先にテレビの電源をOFFにして、そのあとゆっくりビデオの電源をOFFにする」という行動も考えられなくもない。しかしながらその二段構えの行動にどういうメリットがあるのか、探し当てている猶予はない。妹は「ただいま」の「だ」をとっくに叫び終え、「い」を発音するために口角を横に引く段階に入り始めた。
 「B3.入力切替」はどうか。これが実は正解である。天啓がひらめき、はっとする。テレビの状態を、ビデオ入力から、放映中のテレビ番組にチャンネルを変える。これこそが最良。これこそが至高。
 暫定1位の「A2.ビデオデッキの電源OFF」には、実は重大な欠陥がある。テレビ画面右上に「ビデオ」という3文字が残されることである。これは、現在の状態が「ビデオ端子からの信号出力待ち」であることを示す。時図家では通常、DVDやゲームをプレイしたり、録画番組を再生したりする時には、「HDMI」か「USB」を使う。その際、入力信号がなければテレビ画面右上には「HDMI」もしくは「USB」と表示されるわけで、「ビデオ」と表示されるはずがない。もし「ビデオ」表示ならさっきまでVHSを観ていたことになり、ビデオデッキを調べられるはめになるだろう。結局、入力切替ボタンを押すか、チャンネルの数字ボタンを押すか、どちらかの追加行動が必須となってしまう。
 その点、「B3.入力切替」ならばそのような追加行動を必要としない。一発で安全な状態に移行する。ビデオデッキが再生したままという懸念材料もあるが、何より、音に関する大きなメリットがある。
 0.33秒前、聴覚野の報告により、何よりも先に音を消すべしだと知れた。それは間違いない。だが、妹の耳にすでに「あーん」が到達していたらと考えたとき、「B3.入力切替」以外の方法を取ったら、どうだろう。急に無音となり、不自然な感じを与えること必定である。しかし、「B3.入力切替」ならば、カモフラージュになる。これが最大のメリットだ。妹が「いま、へんな声しなかった?おんなのひとの」と訝しがっても、テレビ番組もしくはコマーシャル映像からの音声であると誤魔化すことができる。最高ではないか。決まった。
 今するべきことランキング、下から順番に、順位発表。
 最下位 「A3.テープの取り出し」。論外だ。
 第5位 「B1.消音」。映像が残る!
 第4位 「B2.テレビの電源OFF」ビデオ本体は再生のまま。
 第3位 「A1.ビデオの停止」ビデオデッキ本体のデジタル表示が光ったまま。
 第2位 「A2.ビデオデッキの電源OFF」惜しい!残念!
 ──そして堂々の第1位。
 第1位 「B3.入力切替」
 プロの将棋指しのように様々な可能性を考慮したせいで、「計画」に0.41秒も費やしてしまった。しかしそれもすべて、その後の行動を寸分も無駄のない洗練した動きにするためだ。
 脳からの、大本営発表。作戦の概要は末端神経にまで送り届けられる。
「布告、布告。左手はただちにテレビのリモコンを手に取るべし。よいか。テレビのリモコンだぞ。ビデオの方ではない。テレビだ」
「そして、テレビのリモコンを持ち上げ、その先端をテレビ画面に向けろ。しかるのち、入力切替ボタンを押せ」
「この作戦には、緻密で確実な動作が要求される。入力切替ボタンは小さい。一撃必殺での押下が困難であり、失敗の可能性が1パーセントでもあるなら、数字ボタンを押しても構わない。どれを押してもどこかのチャンネルにつながる」
「何番でも構わないが、我々がNHKや放送大学を観るはずはないので、無難に8チャンあたりにしておけ」
「諸君の精密機械のような働きに期待する。取り掛かれ!」
 「計画」は妹が「い」を発音する間際まで練りに練り上げられた。







 「い」だ。それがどうした。この次は「ま」だろう。しかもその「ま」は長く伸ばした「まー」になるんだろう。何の驚きもない。
 声の主。妹であることに疑いを差し挟む余地はティッシュ1枚ほどの厚さもなく、そんなことに拘泥している段階ではない。妹だからって、他に特別な対処の仕方があるのか。「母や父じゃなかった。ラッキー。あの方法が使えるー」みたいな。あるはずがない。とにかくテレビ画面をどうにかし、下半身をどうにかするしか、道はない。
 「同時に書くことが出来ないので『認識』から順に叙述していく」とお断りしておいた通り、実際は「運動」も同時に進められていた。「計画」のプロセスは妹が「ただいま」の前半部分を言い終えてしまうほど長い時間が必要だったが、「運動」は「た」を「認識」した瞬間から開始されていた。
 脳が企図した計画は、「テレビのリモコンを手に取ること」そして「それをテレビ画面に向け、入力切替ボタンを押すか、いずれかの数字のボタンを押すこと」だった。これこそが最良。これこそが至高。準備に手間暇を掛けただけある、完成度の高いプロジェクトだった。
 だがそれは、妹が「ただ」を言い終えた頃に、ようやく完成した。
 かつて、聴覚野に所属するニューロンが独断で「ひとまずはビデオを停止するに越したことはない」という指令を発したことがある。左手の筋肉は、ひとまずは「ひとまずはビデオを停止するに越したことはない」に越したことはない、と考えて反射的に運動を開始していたのである。これは心理学用語でいうところの無意識というやつで、意識的に身体を動かそうとする随意運動ではなかった。
 左手はビデオのリモコンに向かって伸び始めていた。
 「テレビのリモコンを取れ」と命じた脳は、驚いた。左手が、大本営発表とは異なった動きを取り始めている。
 だが、左手が悪いわけではない。上層部の意向を無視して反乱を企てたわけではない。これから左手がしようとしている「ひとまずはビデオを停止するに越したことはない」は、「た」の段階で開始されていた行動だった。
 遅かったのだ。脳はモタモタし過ぎた。指令を発するのが、遅すぎたのだ。
 司令部からの「やめろー!よせー!」の声も虚しく、左手はすでに動き始めてしまっていた。脳は今するべきことリストを子細に検討していたので、左手の行動がどういう結果をもたらすかも熟知していた。「A1.ビデオの停止」は第3位である。これはビデオデッキ本体のデジタル表示が光ったままという結果をもたらすので、「A2.ビデオデッキの電源OFF」や「B3.入力切替」の追加コマンドが必要となる。
 起こってしまったことはもう仕方がない。脳は左手に追加の指令を送ることにした。左手の行く末を見守ってからでは遅いので、上書きするように指令を送った。
 ──敗戦の被害。それが最大となるか最小となるかは、司令部の判断と、正確な情報伝達が重要となる。
 情報の正確な伝達。
 神経細胞は混乱し、脳が「A3.テープの取り出し」の是非について議論している最中の古い情報を左手に送信した。
「VHSテープ『裸舞揉子、デビュー』も、中学三年生にとってはダイヤモンドより貴重な至宝。必ず取り出さなければならない。それに、テープの取り出しは自動的に「A1.ビデオの停止」を伴うので、画も音も同時に消すことが出来る。すばらしい。最高。もう考えるの疲れちゃったよ、『A3.テープの取り出し』でいいんじゃない?」
 その後いろいろ検討した結果、「A3.テープの取り出し」は考え得る限り最悪のシナリオだということが判明した。家族全員でAV鑑賞。最悪の事態。今するべきことリストの最下位。
「え? テープの取り出し?」
 左手の親指は、最初、停止ボタンを押そうとしていたが、神経細胞からの新規の情報伝達により「追加注文、承りましたー」急遽、取り出しボタンを押した。
 良かれと思って。時図守夫を構成する全細胞、みんなのために、良かれと思って。
 ──敗戦の被害。さらに悪化するか最小限に食いとどめられるかは、正確な情報伝達が不可欠となる。
 ファック・ユー。そんなことをしている余裕はないはずなのに、思わず発話せずにはいられなかった「ファック・ユー」が、このタイミングでようやく時図守夫の口に上って来た。







 テレビ画面を横一直線に走る稲妻。中央辺りに走査線の閃光を一本だけ留め、テレビ画面は黒くなった。絶望。0コンマ何秒かあとに、「ビデオ」の3文字が右上に表示されることだろう。
 今になってやっと後悔する。なぜ『裸舞揉子、デビュー』のラベルを剥がさなかったのか。ラベルには、タイトル文字の他に、裸舞揉子の顔写真が印刷されているではないか。ひときわ明度の強い、扇情的なその笑顔。家族の目につくことは絶対だ。
 ビデオデッキがモーター音を作動させ、カセットを吐き出す準備を開始する。排出が完了するまでには1.00秒近い莫大な時間が必要だろう、構っている場合ではない。そしてまた、後悔している暇はなく、左手を軍法会議に掛けて裁く時間もない。こうなった以上、もう一つの懸案事項に全力を注ぐほかない。
 パンツ及びズボンの着用。
 ASAP、可能な限り急ぎ、局部を衆目から遮らねばならない。丸出しの、ザーメンまみれのチンポ。どう処理したら良かろう。テレビ画面に意識を集中させ過ぎていたのでこっちの方面は全くのノープランだった。1から行動順序を考えねば。
 まず考えつくファーストステップは3種類。「ティッシュ」「パンツ」「ズボン」の3つである。
 心情的には、亀頭や竿に付着したスペルマをティッシュで拭いたい。だが、それには少なく見積もって3.00秒ほど掛かるだろう。しかもそれは、ただ単に「拭う時間」だけを勘定した見積もりであり、ティッシュペーパーの用意に必要な時間は考慮されていない。時図守夫は自慰のあと、いつもティッシュを3枚以上使う。ティッシュボックスからティッシュペーパーを1枚取り出すのに最低0.30秒掛かるとして、3枚で0.90秒。大きなタイムロスだ。それに、使用済みティッシュをどうするかという問題もある。ゴミ箱に捨てるのか、家族の集まるリビングルームのゴミ箱に? きっと青くさい臭いをぷうんと立ち昇らせるだろう。丸めて飲み込む? キモチワルイ。では、ズボンのポケットに入れるのはどうか。使用済みティッシュに対する対処法はそれしかないのだろうが、時間が掛かるのは明白だ。
 気持ち悪くなるのは百も承知で、「ティッシュ」は選択肢から除外した。
 残るは「パンツ」と「ズボン」。
 どちらに指を掛けるか。
 「パンツ」。通常の手順だ。パンツを先にずり上げ、股間に定着させる。しかるべきのち、ズボンをしっかり履く。
 だが今は有事の真っ最中である。
 「ズボン」。ズボンをずり上げる勢いで、パンツも同時に履く。これは一か八かの荒業であり、成功すれば大幅な時間短縮になる。だが、難易度の高い大技であり、失敗する危険性を大いに孕んでいる。失敗すれば、パンツが膝の辺りでストッパーと化し、ズボンのスムーズな移動を阻害する。そればかりではない。ズボンが股まで上がらず、にっちもさっちも行かない状態に陥る可能性すらある。その場合はズボンを一旦下ろし、絡まっていたパンツをちゃんと履き直さなければならなくなる。ズボンとパンツを同時に履くのは高等技術であり、ハイリスク・ハイリターンと言える。それに、男性自身の先端でぬめぬめしている液体がズボンにべったり付着するのは避けられない。
 時図守夫は中学三年生であり、洗濯はお母さんにしてもらっている。その母がズボンの恥ずかしいシミを見つけたら、どう思うだろう。やはり、一度「ティッシュ」に立ち返った方が良いのだろうか。
 「ま」の持続音が鳴り続けている。予想通りの「ただい、まー」。「ま」の背後でドアの閉まる重金属音が響く。へヴィーメタル。水銀の毒が時図守夫の心を重く染める。敵はもうそこまで迫っている。器用に靴を脱ぎ捨て始めているかも知れない。
 迷うのはやめた。死ぬか生きるかの瀬戸際。やってみるしかない。
 この土壇場で、ズボンとパンツを同時に履く荒業を試みることにした。
 ズボンに両手すべての指を掛ける。
 ソファーにもたせかけた首を支えにして、少しケツを持ち上げる。その隙に、ズボンを一気にずり上げる。パンツも一緒に引き上がって来るのを期待しながら。
 乾坤一擲、伸るか反るかの大博打。
 よっ!
 ウェイトリフティングの強化選手じみた裂帛の気合を無言のうちに吼え、両手はズボンを腰の方へと引き寄せた。
 結果は、半ば成功。半ば失敗。
 ズボンは下腹部まで持ち上がった。が、パンツは予期していた通り膝の辺りに絡んだまま全く動こうとしなかった。
 しかしもう、履き直している余裕はない。とにかく男根を隠さねば。
 不幸中の幸い、このズボンにベルトはない。あとはボタンを閉め、社会の窓を閉じるだけだ。ちんこを挟まないように慎重にチャックを上げれば局部隠匿の目的は達せられる。
 息子は無駄弾を発射したというのに、いまだ雄々しく隆起したままだった。フルスロットルでの昇天はお預けを食ったため、カッチカチの硬度を保ったまま血管を浮き立たせている。
 簡単にズボンの中にしまうことは出来なかった。
 そして。
 息子の中にいる、未来の息子たち。時図守夫の意思が通用しない、勝手気ままなオタマジャクシたち。
 お預けを食った彼らは、父親に復讐した。オイディプス神話さながら、「親が子に殺される」という予言が成就する。
 時図守夫がなんとかちんぽをなだめて、社会の窓の深閨へと押し込めようとしたとき、残存勢力が鈴口から出撃した。そのおつゆは精子僅少につきあまり濁っておらず、ほとんど水に近いステータスだった。だが実は、そっちの方が重量が少ない分、飛距離が出る。
 最後の一滴がピュッと飛んだ。







 気配、という概念がある。「人の気配がする」とか「気配を消す」とか。時図守夫は超能力じみたこの概念を信じていなかった。「気配を感じる」ってのは、要するに音がしたんだろ。物音を立てたり、ひそひそ声がしたり、そういう情報を耳がキャッチするんだろ──と。
 だが、この認識は改めねばならない。人の気配というものは、人体が発する熱や、呼吸による空気の乱れや、心音によって、実際に感じられるものだ。
 まさかと思って首を少しねじってみると、そこには母が立っていた。
 母。
 母……?
 「ただいま」と言ったのは妹だが、母と妹は、ふたり連れ立って帰って来たのだ。
「あ」
「あ」
 時図守夫とその母。目と目が合い、お互いに思わず「あ」と発声した。
 その時、時図守夫は、注射器の細い針から、非常に薄くてサラサラした薬液を、勢いよく発射した瞬間だった。





再生

 時図守夫の思考は普段通りに戻り、体感される時間は通常速度となる。時図守夫の脳内時間は、現実世界の時間の流れと同期する。
 ビデオデッキが「ウィーン」VHSテープを「ガシャン」吐き出す音がした。
 その後は、深海のような沈黙が流れる。
 母は何も言わず、時図守夫も何も言わない。
 ガチリと結合した視線は磁石のN極とS極になり離せなくなった。
 妹がリビングルームに入ってきて、にらみ合う時図守夫と母を発見した。母は時図守夫を見下ろしている。時図守夫は横たわったまま母の方に首をねじっている。
「お兄ちゃん、いたんだ」
 妹がそう言ってみても、時図守夫と母は相互に照射しあう視線を引き剥がすことができず、黙ったままだった。
 テレビ画面の右上には、白い文字で「ビデオ」と表示されている。
 ビデオデッキからカセットテープがデロリと飛び出していて、そのラベルには色っぽい女がいやらしい笑顔を輝かせている。
 時図守夫は横たわったまま、社会の窓からちんぽを露出している。ちんぽはロウソクを垂らしたように乳白色の液体でコーティングされている。
 時図守夫の顔色が見る見る白くなる。
 口から白い煙がゆっくり上っていく。
 唇が白くなる。
 黒目が光を失い、白くなる。
 白くなる、白くなる。





早送り

 人は、死の間際、その瞬間、自分の生涯を、高速で振り返るという。走馬燈を見るように、人生の中の印象的なシーンを再生するという。今がまさに、その状態ではないか。時図守夫はそう思う。
 まぶしい光。
 最初の呼吸。泣き声。医師に持ち上げられる赤ん坊。
 母。そして父。
 ベビーベッドから見上げる天井。
 回転するメリー。糸で吊り下げられた傘。動物のキャラクター。メリーの回転。
 おっぱい。
 哺乳瓶。
 ハイハイ。
 保育園。やすこ先生。
 おいもほり。七夕の笹のかざりつけ。のぶおくんに泣かされたこと。
 卒園式。
 入学式。ピッカピカのランドセル。花紙で飾られたアーチ。体育館の壁際に立ち並ぶスーツ姿のお父さんたち。角田先生。
 角田先生を「お母さん」と呼んでしまったこと。
 サッカー。九九暗唱。濡れた千円札。
 海水浴。海藻。クラゲ。浮いていたカップ麺のナルト。
 カブトムシ。梨のにおい。
 遠足。バスの中で吐いたゲロ。オエエ、オエエエ。
 テレビゲーム。デジタル腕時計。リコーダー試験。
 かなこちゃん。好きだったかなこちゃん。リコーダー事件。
 家庭科室の焼きベーコン。ザリガニ釣り。
 小学校卒業。黒板に「みんなありがとう」。先生のことば。泣きわめくクラスメート。涙でかゆくなるほっぺ。
 学ランの袖にはじめて腕を通した自分。身の引き締まる思い。中学校の校門の前で母とツーショット記念撮影。
 卓球部での部活動。部室での遊戯王。ピンポン玉。
 エロ本。
 運動会。徒競走。ライン引きの石灰を含んだ突風。
 女子。体操服の背中に透けるブラジャー。坂本がジャージ姿でプールの授業を見学。
 修学旅行。大仏。枕投げ。天井を円く照らす懐中電灯の光。好きな女子発表会。エロ本。
 進路。進路指導室。三者面談。
 裸舞揉子。
 裸舞揉子。裸舞揉子との密会。
 担任の急用。早い時間での下校。
 裸舞揉子へのリビドー。愛してる、裸舞揉子。ラブジュース。
 ドアの音。
 噴き出す汗。
 妹の声。
 母。
 汚い物を見る、母の目。
 母の目に映る、自分の姿。
 母の目の表面に反射している、自分。
 自分。





巻き戻し

 これはきっと、悪い冗談なのだろう。何かの間違いであって、現実ではない。そうだ夢だ。悪夢だ。ちょっとした脳の妄想であり、目を覚ませば元通りの日常があるはずだ。現実逃避のために、時図守夫はそう思う。
 Be kind rewind。DVD登場以前、アメリカのレンタルビデオ店には、そういう表示があった。観終えたビデオは、巻き戻しをしてから返却するようお願いするものだ。
 巻き戻しお願いします。巻き戻しお願いします。巻き戻しお願いします。

 自分。
 母の目の表面に反射している、自分。
 母の目に映る、自分の姿。
 汚い物を見る、母の目。母。妹の声。
 引っ込む汗。ドアの音。
 ラブジュース。愛してる、裸舞揉子。裸舞揉子へのリビドー。
 早い時間での下校。担任の急用。
 裸舞揉子との密会。裸舞揉子。
 裸舞揉子。
 進路。進路指導室。三者面談。
 エロ本。好きな女子発表会。天井を円く照らしていた懐中電灯の光が消える。枕キャッチ。大仏。修学旅行。坂本がジャージ姿でプールの授業を見学。体操服の背中に透けるブラジャー。女子。突風に含まれていた石灰がグラウンドに白線を引く。徒競走。運動会。
 エロ本。
 ピンポン玉。部室での遊戯王。卓球部での部活動。中学校の校門の前で母とツーショット記念撮影。身のゆるみ出す思い。学ランの袖から腕を抜くのはこれが最後。
 ほっぺの涙が目に戻る。泣きわめくクラスメート。逆回転の先生のことば。黒板から「みんなありがとう」が消える。小学校出戻り。
 ザリガニ放流。家庭科室で復元するベーコン。かなこちゃん。好きだったかなこちゃん。リコーダー事件。リコーダー試験。デジタル腕時計。テレビゲーム。
 遠足。バスの中で飲み込むゲロ。ズロロ、ズロロロ。梨のにおい。カブトムシ。海水浴。浮いていたカップ麺のナルト。クラゲ。海藻。濡れた千円札。九九暗唱。サッカー。角田先生を「お母さん」と呼んでしまったこと。角田先生。体育館の壁際に立ち並ぶスーツ姿のお父さんたち。花紙で飾られたアーチ。ピッカピカのランドセル。小学校にサヨナラ。保育園に凱旋。のぶおくんに泣かされたこと。七夕の笹のかざりつけ。おいもほり。やすこ先生。ハイハイ。哺乳瓶。おっぱい。メリーの回転。動物のキャラクター。糸で吊り下げられた傘。回転するメリー。ベビーベッドから見上げる天井。母。そして父。
 医師に押し込められる赤ん坊。泣き声。最後の呼吸。
 まぶしい光。
 暗闇。生まれる以前の。
 暗闇。永遠の。





録画


              あ


                         あ


                   あ

       う




               あ




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