とりぶみ
実験小説の書評&実践
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    大塚晩霜
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【小説】砂漠にも雨は降る   (2015/10/22)
 原稿用紙ジャスト100枚。

 最高傑作と自負する小説であり、俺にはもうこれ以上の作品は書けない。

 ただし、通読にはある程度の読書力が必要であり、特に酒の席が舞台の第2章は南米文学を読みなれていないとキツいかも知れない。飛ばしてください。




 メキシコシティ国際空港から飛行機を乗り継ぎ、ミナティトラン空港に着いたのは10月下旬。予定より一日早く着いてしまったので秋野が迎えに来てくれるのを待つしかない。
 カメラをメキシコシティで盗まれていた。新しい物を調達したい。近くに売っている店はないか新聞売りに身振りを交えて訊ねる。新聞売りは半ば挙げた自らの右足の先を示して頻りに同じ単語を繰り返す。スペイン語はよく解らない。靴のことを言っているようだった。靴がどうした。欲しいのはカメラだ。お互いに通じぬまま2分間ほどやり合っていると周りに野次馬が集まってきた。業を煮やした新聞売りが人垣の中から手近な老婆を選んで顎をしゃくった。老婆は俺の手を掴み、人垣の外へと引いていく。人垣はそれで決壊するように自然と崩れたが、老婆と俺の後には船舶が尾を引くように子供たちが何人か泡立ちながらついてきた。させるがままにしていたが、老婆の連れて行く方向にブーツをデザインした看板が浮遊していたので俺はやっと抵抗を示して腕に力を入れた。老婆は構わずぐいぐいと牽引していく。欲しいのは靴ではないよ、カメラが欲しいんだよ、カメラって知らないかな、俺は微笑みながらかぶりを振ったが一向に通じない。ついに看板の下に引きずり込まれて靴屋の客となった。老婆は店主に何か伝えると俺の方は少しも見ずに帰って行った。子供たちは店の入口に集まってトーテムポール式に頭を並べている。
 店のおやじは黒髪を油で光らせている40がらみの痩せた男で、見覚えのある口髭を生やしている。靴を買うつもりはないので困った愛想笑いを浮かべていると、店主は奥に一旦引っ込んでカメラを持ってきた。まさかのデジタルカメラである。しかも、都合が良いことに俺が愛用しているのと同じ機種だ。箱に入っていないのでおそらく見本だろう。「売るのか、価格はいくらだ」英語と身振りで尋ねると、カウンターに置かれた新聞紙の端に数字を走り書きする。「$100」。単純に1ドル100円として1万円。そんなに安くはない。しかし、どうしても旅の風景を記録したいので俺は迷わず100ドル紙幣を紙入れから出した。おやじは大きな目をさらに大きく見開いて札を受け取る。その驚きの目は、彼のスペイン語よりも雄弁に「本当に買うのか。馬鹿じゃないのか」と物語っていた。買うのだ。1万円は大金かも知れないが俺にとってこのカメラはそれ以上の価値があるのだ。代金を受け取ったおやじは、目でなおも「信じられない」と呟きながらカメラを渡してきた。ん。カメラ本体だけだ。不審に思って「箱や付属品を忘れてるぞ」と目で訴えると、おやじは肩をすくめる。見本だとばかり思っていたがどうやら現物限りらしい。大丈夫か。すぐ確かめるために電源スイッチを触ってみたが、液晶画面は全く反応しない。おやじの目が声を出して笑っている。なるほどこれで1万円は高い。壊れている。かっとなっておやじの黄色いシャツの胸元を掴んだ。おやじは驚いて俺の手を抑えるが放しはしない。軒先のトーテムポールが蜘蛛の子に変身した。どうせ英語でも通じないから日本語で罵倒した。怒りに任せて恫喝していると右手の拳の先でおやじの面がナイフを突き付けられた女のように湿気ていった。おやじは胸ぐらの自由を失ったままレジスターを開けてその中から紙幣を一枚一枚丁寧に抜き出した。こちらへ差し出したその手は水を掬う形で、その上には札がたっぷり湛えられている。請うような媚びるような子犬の目が、蓄えた口髭には似合わない。
 地元の警察官が両手で構えた銃を前方に突き出しながら入ってきた。俺はおやじの胸ぐらをすぐ放した。銃の先っぽは奥の壁に陳列されているハイヒールに狙いを定めている。ここで両手を挙げたら自分の方に銃口が誘導されそうなので俺は静かにしていた。警察官は銃を上げたまま俺と店のおやじを交互に見比べる。おやじが両手に札を大事そうに載せたまま何事か口走る。俺はチャンスを窺うが店の出入口は一つなので逃げるにも逃げられない。警察官は銃をホルダーに収め、おやじの手から札を引ったくった。俺の空いている方の手、すなわち先ほどまでおやじのシャツを握っていた右手に札を握らせた。そして帰って行った。おやじは手を摺り合わせて困ったような微笑を浮かべている。なんだかよく分からない。右手に剥き出しの札、左手にカメラを持ち、へつらうおやじの目を見つめたままゆっくり入口へ後ずさった。戸口にはまたトーテムポールが出来ていて、一人一枚ずつ俺の手から札を抜いて逃げて行った。無事に店を出られた時、俺は自然と万歳をしていた。
 店の周りにはまたしても野次馬が集まっていた。30近い数の目玉がカメラに注がれていたがその一つ一つを漏れのないよう丹念に潰していくと地面にはのたうち回る人間が10人ほど転がった。カメラを再度確かめてみると別に壊れているわけではなくどうやらバッテリー切れのようだ。幸いこの機種専用の充電器なら持っている。海外のコンセントにも対応できる変圧器も持っている。さっそく転げ回る人たちと靴屋の看板を撮影したかったが充電が先。泊まる必要もあるのでホテルを探すことにした。
 空港周辺を適当に歩いて見つけたホテルはこぢんまりとしていた。自動ドアの玄関を抜けるとガラクタを並べ立てた貧乏くさい民宿のような佇まいが漂っている。フロントでは英語が通じた。良い部屋は残ってないがそれでもいいか。距離を隔てた地区に繁華街もあるのだろうが、秋野との待ち合わせは空港なので離れない方が無難だ。1泊445ペソ30センターボだと言う。高いのか安いのかよく判らないし、あいにく円とドルしか持っていない。両替してそこからよろしくやってくれ、と、100ドル紙幣を10枚渡した。フロントは額に浮かんだ困惑を隠しもせず為替レートを計算し始めた。しばらく電卓とメモ用紙の間を往復していたが、やがて1000ペソ紙幣を3枚・500ペソ紙幣4枚・200ペソ紙幣10枚ほどと、その他の額面の紙幣・硬貨を何枚か用意し、その上で「釣り銭が足りなくなってしまいますので」と言い添えて100ドル紙幣を4枚返してきた。ホテルの従業員に教えられて初めて知ったが、メキシコでの「$」は「ドル」ではなく「ペソ」であり、1米ドルは13メキシコペソの実力があるそうだ。1ペソは6.8円。──靴屋がデジカメに付けた値段はおよそ700円だった計算になる。
 宿の台帳に筆記体でサインをし、渡された鍵の刻印番号を確かめ確かめ自分に宛われた客室へと向かった。日当たりが悪くて物置のように狭い部屋だった。ベッドは堅かったが思っていたよりかは心地よい。さっそくコンセントを探してデジタルカメラを充電する。近くの料理店で夕食を採り、いくら頑張っても適切にならない温度のシャワーを浴び、すぐ布団に入った。



「シャワーがぬるかったり熱湯になったりするのは困ったけど、なんとなく想像してたよりかはマシだった。デジカメも充電できたし。それで、その日はすぐ寝た。」
 メキシコ料理を出す飲み屋で会社の同僚10名ほどと騒いでいたら、隣の集団もこちらの大音声に負けじと盛り上がってきて、ついには両者入り乱れての酒盛りとなった。その中で、実際にメキシコに行ったことがあるという男の体験談は興味をそそった。その男というのが津島だった。カメラを盗まれた話。カメラを買おうとしたらカメラ屋ではなく靴屋に連れて行かれた話。壊れたカメラが渡された話。強盗と間違われて通報された話。などが披露され、大いに酒席を沸かせた。
 そのうち各人勝手それぞれ男と女の話に没頭し始めたため、初めの内こそ一座の関心を一身に集めていた津島だったが、乱痴気騒ぎが跳ねる頃には耳を傾けているのは俺と原野くんだけになっていた。それは決して津島の話が詰まらないからではなく、図らずも二つの団体が合コンの様相を呈してきたからであって、津島の経験にも話術にも責任はない。俺と津島はすっかり意気投合し、二人だけでもう一軒はしごすることにした。原野くんは先に帰りますと言って目を眠らせたまま敬礼をし、左右に大きく蛇行しながら自宅とは逆方向の闇に沈んで行った。俺と津島はメキシコ居酒屋と同じ雑居ビルに入っているダイニング・バー「プードル・ロッキン」に肩を組んだまま転がり込んだ。へらへら笑いながら「暴れるからよろしく」と冗談めかして告げると、店員は迷惑そうな色を暗い目に光らせ、黙ってボックス席へ案内した。顔つなぎにテキーラをぐっと呷った所で二人ともすっかり酔っ払った。
「だからさ、こんな風な、まるで、まるでドラマか、なんかのような、出会いは、俺あ、2回目だ。」舌足らずになっているがそれはこっちも同じだ。「2回目だ」と津島は繰り返す。「俺もおまえ、おまえみたいに、気の合う奴と、こうして、偶然に、会うのは、初めて、かも、知れない……。」「俺あ、2回目」津島は新たに注文したハイボールをちびちびやりながらまた繰り返す。「で、1回目は、秋野って、ヤツと、旅先のアメリカで、会ったんだ。アメリカの、」ニューオリンズのダイナーでハンバーガーを頬張っていたら、隣に座っていた男がテーブル越しに日本語で「日本人か?」と訊ねてきた。頷くと、「一緒に食べていいか?」と訊くので、口の中の物を嚥下してから声に出して承諾した。男は少し酒臭かった。それが秋野だった。こういう場所で日本人に会うことは珍しかったし、話が合うとなると更に稀だった。津島と秋野はすっかり意気投合し、二人はビール以外のアルコールを出す店へとはしごすることにした。ダイナーと同じ並びのストリートにあるプール・バー「ザ・グリーン・ハウス」に移動し、シロウトの日本人には手の出せない賭けビリヤードを眺めながら、強い酒を呷った。秋野は相当の酒豪らしく、津島より何倍も早いペースでスピリッツを胃袋に収めていく。
「だから、こんな風に、まるで映画のような出会いは、俺は、2回目だ。」若干呂律が怪しくなってきているようだったがそれはこっちも同じだ。「2回目だ」と秋野は繰り返す。「俺もおまえ、おまえみたいに、馬の合う奴と、こうして、運命的に、会うのは、初めて、かも、知れない……。」津島がそう言うと秋野は新たに注文したウィスキーを飲みながらまた繰り返す。「俺は2回目だ。1回目はジョルジュってヤツと、旅先のメキシコで、会ったんだ。去年の夏、スペインで牛追い祭とトマト祭に参加したんだけど、そのあとメキシコへ渡って、」ジョルジュ・サルマナザールと出会ったのはミナティトランという街、コショウの利いたウィンナーが美味いレストランだった。東洋人を珍しがって向こうから話し掛けてきたのだった。サンタ・カベザという村で宿屋を営む33歳の陽気なメスティーソ(白人とインディオの混血)で、美しい奥さんと可愛い娘と三人で暮らしていた。秋野はその年の末までジョルジュの宿屋に身を置くことにした。死者の日・ポサダ・クリスマスをジョルジュたち家族と楽しく過ごした。年の瀬が迫ってくると、秋野は再会を約束して一家に別れを告げ、一旦日本に帰国した。日本で2010年を迎え、2月に渡米してマルディグラ祭を見物し、そのまま現地をうろついていたら津島と偶然出会ったのだった。
「だからおまえは二人目の、なんだ、こういう運命的な出会いを果たした男ってことになるな。」
 そう言ってジョルジュのことを語って聞かせた秋野はウィスキーを飲み干した。威勢の良いブレイクショットの音が響き渡る。「出ようか。」津島と秋野は二人揃って日本に帰国してからも親交を温めた。秋野は自らの職業を詳しく語らなかったが世界中を遊び回っている事実からもわかるように相当の資産があるようだった。津島とは四つしか年齢が違わない。熱心に働いているような気配は全く見せない。真相は謎だった。
 春になり、今度はインドへ向かうという連絡が秋野からきた。夏にはまたメキシコに飛んでサンタ・カベザに滞在するとのことだった。「ぜひ遊びに来てほしい」と、社交辞令ではなく強い口調で津島を誘った。津島は「どうにか時間を作ってみる」と答えを濁したが、先方の熱意に押され、しまいには不快ではない固い約束を交わした。津島は約束通り時間を作り、手紙のやりとりで集合場所と日時を決めた。
「だから、おまえは、二人目の、運命的な、なんだ、こういう出会いを、俺とした、二人目ってことになるな。」
 そう言って秋野のことを聞かせた津島はハイボールにちょくちょく口をつける。メキシコから持ち帰ったデジタルカメラを大切そうにいじる。拝見させてもらうと、メキシコシティ国際空港、駅舎でチューバを吹く男、ミナティトランの製油所、サンタ・カベザの全景、宿屋「ラ・メンティラ」の外観と各部屋と1階部分のバー、ちょっと困った笑顔のジョルジュ、立ち小便をする秋野の後ろ姿、教会内のキリスト磔刑像、半裸の少女、街頭で演奏するマリアッチの楽団、奥さんにキスをするジョルジュの画像などが保存されている。



 デジタルカメラを津島は大切そうにいじる。閲覧モードにしてみたら、靴屋のおやじが撮ったのだろうか、100枚近いデータが残っていた。古い順で確認すると、まず、メキシコシティ国際空港が写っていた。津島が撮ろうとしていた被写体だ。撮ろうとした瞬間に盗難の憂き目に遭ったのでこのカメラに偶然空港の画像が収まっているのはまさしく僥倖だった。しかも、津島が撮りたいと思っていた構図。奇蹟だった。
 その後は意味のない試し撮り写真が数枚、残りはほぼ全てが熟女のありがたくないヌードだった。「食欲が無くなるから、この話は詳しくしない。思い出すだけで吐きそうだ。おまえ、勝手に、色々と想像してみろ。」黒ずんだ乳首を囲むようにマリーゴールドを乳房に散りばめたり、4分の1にカットしたライムを尻の穴に挿していたり、むせ返るほど扇情的でこれ以上ないほど下品なポーズばかりだ。よく撮れているが、よく撮れているからこそ毒性も強い。そして後半は激しい手ブレで物の形が判別しづらい。掻き混ぜられた褐色を含む光だけが記録されているのもあったりする。しかし、たとえ褐色の霧に覆われた画像であっても、その奥先に茫洋と透かし見ることのできる、地獄の亡者のような顔の歪みは、津島の背筋になめくじを這わせずには置かない。隅にちらっと写っている貧相な裸体がお相手の男なのだろう。靴屋とその女房かも知れない。メキシコシティの画像と、駅舎で撮ったと思しき印象的な1枚だけを保護し、残りは全て消去する。
 約束の時間に空港のロビーで待っているとしばらくして秋野が来てくれた。
「本当に来てくれるとは思わなかったよ。」
「おまえだって本当に迎えに来てくれるとは思わなかったぞ。このまま来ないんじゃないかと思ってちょっと不安だった。」
 二人は笑い合いながら肩を叩き合う。津島は正直不安だった。もし秋野と会えなかったらと思うと。旅行慣れしているので英語は得意だが、メキシコでは英語はあまり通じない。だから言葉に関しては現地暮らしの秋野頼りだ。秋野のスペイン語は津島の英語よりも上手いとは言えなさそうだったが、それでも津島はスペイン語が全く出来ないのだから頼らざるを得ない。
 タクシーを拾う。秋野が先に乗り込み行き先を告げる。津島は右座席に尻を落ち着ける。メキシコも諸外国同様左ハンドル右車線で、日本とは反対だ。好ましいこの軽い違和感も、諸国を漫遊しているうちに段々と薄らいでしまい、今では何も感じなくなったのは残念だ。
 タクシーの乗り心地は良くなかった。車か道か、どちらが悪いのか、もしくはどちらも悪いのか、その上景色も詰まらない。製油所が建ち並ぶ風景が途切れると更に詰まらない乾燥地帯の単調な色彩が車の前から後ろへと綿々と続く。所々岩肌が露出している以外は黄色が丘陵を埋め尽くしている。マリーゴールドという花だそうだ。
 サンタ・カベザはミナティトランから東の方角約100マイルの場所に位置する。バスは途中までしか路線が無い。車で2時間半かかる田舎だ。秋野によって披瀝される、インドに関する見聞が車中の唯一の慰めとなった。取り分け、カジュラホでの感動を生々しく語る段に至って津島は大笑いした。日本語の分からない運転手は車内の空気に薄く瀰漫する地元のラジオ番組を必死に耳で吸い込んでいる。どうせすぐ忘れてしまうと思った俺はペンとノートを取り出して津島の話をメモし始めた。
 信号待ちで停車した。農作業でもしているのだろうか、うねの向こうに立つ女がいた。こちらを見ていた。よそ者の津島をじっと凝視しているようだった。思わずちょっと会釈した。先方は完全に会釈を無視した。身動きすらしない。津島は気詰まりをして目を伏せた。それでもまだ鏃のような視線を感じるから、またちらっと女の方を見た。女は依然としてこちらを見ていた。礼儀には深海と同じくらい縁遠い未開人なのかも知れない。
 道は大きく右へ迂回し、西南西の方角を指していた鼻梁が東に向く。左を見るとまた同じ女がさっきとは違う畝の向こうに立っていた。やはり同様にこちらを見ている。ただ、どうも上の空だ。その見る所は向こうの光を透かし見ているような目つきだ。光を吸わない瞳孔なのかとも思ったが、ふと気付いたように車の動きを目で追い始めたので見えてはいるようだ。
 車は東へ東へと去る。しかし女の姿は視界からなかなか消えない。道路から10メートルほどの場所に位置を保ったままずっと車を見つめている。追ってくる太陽や雲を振り切れないのと同じことで、木立や対向車が車窓の彼方へ飛んで行こうとも女の姿は執念く残っている。そしてその姿は微かに霞んでいる。幽霊なんじゃないかと思ううちに車はトンネルに飛び込んだ。女はやっと消えた。
「どうした?」
 秋野は津島がぼんやりした返事しかしなくなったので津島の横腹を小突いた。超常現象の類を信じていない津島は、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、さっき見た女の話をした。
「100メートル先にいた身長160メートルくらいの女のこと?」
「100メートルも無いよ。10メートルくらいだったよ。」
「ああ、その人は幽霊なんかじゃないよ」と秋野は笑った。「タリアおばさんがいたんなら、サンタ・カベザはもうすぐだ。」



 サンタ・カベザは酪農によって成り立つ小さな村である。正面には石造りの小さなカトリック教会があり、建物の一番上には鐘が黙っている。夜明けと夕暮れに鳴る。暮れなずむ光の中で金属の音を歌う晩鐘は、玲瓏とした響きで旅人の心を否が応でも揺さぶる。中央の広場を囲むようにして煉瓦造りの民家や店舗がぐるりと建ち並ぶ。広場では鶏や羊が放し飼いになっていて彼らは少しも逃げる様子がない。西部劇さながらの保安官や馬はいない。馬の代わりに自動車が数台停まっているのが見える。電気やガス水道が通じている。
 秋野はこの村でたった一軒の宿屋「ラ・メンティラ」に前払いで長逗留をしている。ロビーには12の印象的な小物が置いてある。湖の絵画1枚目・フィンランドの帽子・踊るガチョウの群れを表した陶器・美しい髪の一房が漂う水槽・攻撃的な機械製のカゲロウ・スコットランドの写真・からっぽのシャンパンボトル・英語で「あれだった?ああ」と書かれたポスター・ガチョウの踊りもう一群れ・紐の切り取られた巾着・『事実と数と論理』という題名の本・湖の絵画2枚目。ロビー以外の1階部分は簡単なバーと、経営者家族の居住スペースから成る。客用のベッドは2階の3部屋に合計わずか4台しかない。津島は秋野の隣室に投宿する。現在客はこの日本人2名しかいない。宿泊費は朝食付きで1晩150ペソ。日本円にしたら1000円ほどである。値段相応の部屋だ。埃っぽい部屋でほんのり獣臭い。絨毯はダニや南京虫の格好の棲み処となっていそうだ。掃除はあまりしそうにない。布団が湿ったら広場に面した大きな鎧戸を開けて客手ずから干すしか無さそうだった。ベッドスプリングは均一の強さではなく頭の方がギシギシ軋む。ナイトテーブルの突端には安手の電気ランプが据えられている。その他の家具は抽斗付きの鏡台が1基のみ。鏡は少し曇っていて、砂を含んだ光を鈍く反射している。鏡台の前には布地がぼろぼろのスツールが置いてある。
 秋野の部屋はさすがほとんど下宿状態だけあってまるで私室のように飾ってある。秋野が自分の射撃で仕留めたという鹿の頭蓋骨や、ドライフラワーにしたマリーゴールド、蹄鉄数種類、銃座が傷んで実用にならないライフル、色とりどりのガラス玉、サボテンの破片、小石や岩、酒場の飲み競べで勝ち取った大型のナイフ、その飲兵衛が以前の飲み競べで日本人旅行者から巻き上げてバンダナとして活用していた摩周湖の汚れたペナント、時代物のガンベルト。現地で獲得した種種雑多のガラクタだ。
 宿の主人であるジョルジュは留守だった。食材や生活用品や酒や髑髏の買い出しのため10マイル離れた町に居た。サンタ・カベザにも雑貨屋はあるが、食料は菓子以外置いてないし、日用品は町で買った方が安い。帰ってくるのは陽の落ちる前、バーを開ける時間だ。ジョルジュの主な仕事は買い出しの他に朝食の準備、階段・ロビー・シャワー室・外にある共用トイレなど公共部分の掃除、店番と会計。暇を盗んで一般的な家事、洗濯や自室の掃除をする。夜になればバーテンダーをする。冷蔵庫から瓶を3本出して栓を抜き、櫛切りにしたライムを瓶の口に差し、そのままカウンターに並べる。津島は最初これをビールだとは思わなかった。瓶が日本で慣れ親しんだ褐色ではなく無色透明であるし、ジョッキを用意しないし、何と言っても柑橘類が差し込んである。ジョルジュと秋野がライムを瓶の中にぎゅうぎゅう押し込み始めたので津島も二人に倣った。秋野はかてて加えてタバスコを少量垂らしていたが津島はこれは真似をしなかった。ジョルジュが津島に微笑みかけ、日本語で「カンパイ」と言った。思い掛けぬ音頭に喜んで唱和し、ラッパ飲みをした。爽やかな軽い飲み口だった。喉が渇いていたのでつるつる入る。津島の教えてくれたビールの名称はコロナ。無性に試してみたくなった俺はさっそくウェイターを呼んで店に置いてあるか訊いた。ございます。津島から聞いた通りの体裁で運ばれてきた。すなわち、無色透明の瓶のその口に、8分の1にカットされたライムが突き刺さっている。津島がライムを瓶の中にぎゅうぎゅう押し込み始めたので俺も倣った。秋野は糅てて加えてタバスコを少量垂らしていたが津島はこれは真似をしなかったし俺もしなかった。津島が俺に微笑みかけ、ジョルジュの口調で「カンパイ」と言った。俺も外国訛りの日本語で唱和し、ラッパ飲みをした。爽やかな軽い飲み口だった。扉を開けて原野くんが入ってきた。ウェイターを制してこちらの席にまっすぐ向かってきて、開口一番「帰ります」とだけ言い残してすぐ出て行った。また来るかも知れない。津島はげらげら笑い出した。あいつはもう帰ったんじゃなかったっけ。いつもああなんですよ。あいつが帰ってきたみたいだ。ジョルジュが陽気な笑顔を光らせて入ってきた。秋野がジョルジュと津島の間を取り持つ。秋野の勧めで津島は宿泊料を1週間分先払いした。ジョルジュはすぐバーを開き、冷蔵庫を開けた。瓶が3本出たので津島はすっかり嬉しくなった。ジョルジュとは言葉が通じないが、店対客の関係を一気に飛び越して仲間同士に成れた気がした。玄関には好奇心旺盛なトーテムポールが出来上がっていた。その中に、津島を寂しそうに喜ばしそうに見つめる目が、夕焼けの光に赤く濡れていた。ジョルジュの娘ジョディーだった。



 俺は手の平の上に小さな俺が載っているのを見た。そして俺は手の平の上に俺を載せている大きな俺を見た。小さいが確かに俺だ。大きいが確かに俺だ。顔はよく見えないが、この髪型・体型・服装、間違いなく俺だろう。体型や服装はよく見えないが、この顔・髪型、間違いなく俺だろう。顔はよく見えないが表情は茫然としているようだ。見えすぎるほどよく見えるその顔は茫然としているようだ。俺が茫然としているということは俺だって茫然としているのだろう。俺が茫然としているということは俺だって茫然としているのだろう。「載せている」と「乗っている」の違いはあるが、俺は俺だし、俺は俺だ。たとえば俺が俺の手を握れば俺は潰れるだろうし、俺が俺の手に握られれば俺は潰れるだろう。大きい俺は右手を結んではいけないし、小さい俺は右手を結んではいけない。さてどうしたものだろう。とりあえず立ち上がって見るか。
 津島がベッドから身を起こそうとすると、誰かが慌てて部屋を出て行く気配がした。遠くで階段をぱたぱた下りる音が聞こえた。鼻先のナイトテーブルに朝食が見えた。頭が重い。喉が焼けていた。コロナを簡単に飲み干したあと、ジョルジュは仕事に戻った。津島はまたハイボールに戻り、俺はウーロンハイとポテトフライを注文した。秋野と津島は晩飯を食べるため村の料理屋へ出掛けた。秋野はボーイに流暢ではないスペイン語で流暢に料理を伝えていたが、メキシコ料理に疎かった当時の津島は、とりあえずタコスとブリトーとシーザーサラダを注文した。メキシコ居酒屋ではファヒータを注文していたからこの旅の経験によって進歩したのだろう。もちろん料理だけでなく酒も飲んだが、テキーラを皮切りにして強いのばかり頼む秋野のペースに振り回されて津島は二日酔い気味だ。食事の前にまず水が飲みたいと思い、ベッドから抜け出して1階へ下りる。蛇口の水をごくごく飲み、顔をじゃぶじゃぶ洗う。熱暴走が冷却される爽快感。水道を止め、流れ入る水の痛みに目を閉じる。そのまま水が流れ落ちるのを待っていると、まぶたの裏に光の変化を感知した。薄目を開けると、怯えたような姿勢のジョディーがそばに立っていた。あまり上等ではないタオルをおずおずと差し出してきた。緊張がこちらにも伝わってくるが何にせよ助かった。顔を拭きながらスペイン語で「グラシアス」と礼を述べると、ジョディーは英語で応じた。驚いてタオルから顔を離してジョディーを見た。目はトーテムポールの時と同じ物だったが今度は一人の少女としての顔がそこには存在していた。「学校で習ってるから話せる。少しだけ」と見事な英語だが弁明のような口振りで説明し、うつむいて「好きじゃないですか、朝ごはん」と呟き、潤んだ目で津島をちょっと見上げた。どうも朝食が口に合うかどうかを気にしているようだったので今度は津島が慌てて弁解した。自分の思い違いが判明するとジョディーは太陽のように笑い、すぐにまたはにかみ、風船が一気に萎む要領で自分の部屋に引っ込んで行った。津島はタオルを返せぬままその行方を見送った。顔は濡れたままだった。
 自室への戻り掛けに隣室を覗くと、秋野は不在だった。彼の分の朝食は既に平らげられていた。津島は自室に戻り、タオルをハンガーにぶら下げ、自分の分の朝食に取り掛かる。家族用の料理をついでに客にも出す感じだ。トルティーヤの上に目玉焼きを乗せてピリ辛のトマトソースを掛けた料理。トルティーヤはメキシコ料理のあらゆる局面で登場する主食中の主食で、いわゆるタコスの皮の部分だ。トウモロコシの粉や小麦粉で作る伝統的な薄焼きパン。
 秋野がどこに行ったかは解らない。ジョディーが何か知っているかもと思い、着替えて階下へ下りる。ジョディーはもう学校に登校してしまっていて、ジョルジュが新聞を読んでいる。秋野の所在を訊くと大仰に首をすくめて申し訳なさそうな表情をしてみせた。ジョルジュと小一時間ほどお話をするのもいいが、いかんせん言葉が通じない。秋野はジョルジュをメキシコ人らしい陽気な男だと言っていたが津島にはそうは思えなかった。脳天気の片鱗を覗かせることはあるが、人見知りをしているのか、津島には気を置いている。しばらく手持ち無沙汰にロビーの小物を眺めたりガチョウの群れをからかったりしていたが、秋野が帰ってくるまでこうしていても仕方がないので津島は村を散歩することにした。広場に面した建物に沿って歩く。よそ者の津島を見る村人の視線は冷たい。精一杯の笑顔を作って「オラ」とスペイン語であいさつして回る。あいさつを返す人はいない。子供とだったら仲良くなれたかも知れないがあいにく今は学校の時間だ。首に止まった蚊をぴしゃりと叩き、手をちょっと確認し、汗を拭う。
 昨夜入った料理屋が大きなトウガラシの看板を風に揺すっている。その隣の雑貨屋では軒先で砂糖菓子をたくさん売っていた。心配になるくらい大量に。しかもデザインが奇抜で、金紙の目を光らせた人間の頭蓋骨だ。頭頂部にはカラフルな網目が書かれている。きっと着色したカラメルだろう。その上を蠅が数匹歩き回っている。話題作りのお土産としては良いかも知れないがこの村は旅人が訪れるような観光地ではない。村人だけでこんなに需要があるのか。捌き切れるわけあるまい。何年前の在庫だ。砂糖菓子の他、祭具のための道具と思しきロウソクや十字架や人形がやたらと並べられている。近々大量の葬式を出すぞと宣言するような品揃え。雑貨屋じゃなくて葬儀屋なのかな。それにしては店内に日用雑貨が豊富に置いてある。スペイン語が話せたら店番のおばさんに真相を教えてもらうのに。津島は雑貨屋の前から離れる。
 その他、小さな村役場、たくさんの民家、教会、ぶらつきながら写真を撮りまくる。津島にとって教会は特に印象的だった。講堂に一歩踏み入るとそこは別世界。薬草を燃やしているのだろう特異な臭気が立ち籠めている。電灯の代わりに夥しい数のロウソクが煌々と灯る。ロウソク全ての火力を合わせればキャンプファイアーに匹敵するだろう。室温は外の日なたよりも高く、顔を照らす光は熱い。酸素を大量に燃焼しているからか息苦しい。そしてこの厳粛な雰囲気が息苦しさに拍車を掛ける。平日にも関わらず村人が数人座っていて、それぞれが祈りを捧げている。低く呟く祈祷の声によって、腹痛を起こした悪魔の呻きが地底から響いてくる。正面に祭壇があり、十字架に架けられたキリストが俯いている。西欧の金属質な像ではなく、彩色もされていて生身の人間のようだった。津島は教会内の写真を何枚か撮った。キリストの磔刑像もデジタルカメラに収めた。確認すると、ロウソクの光の加減で本物の人間になっていた。
 インディオのおばあさんを承諾無しに撮影した際には一悶着があり、ほとぼりが冷めるまで広場を離れることにした。舗装されてない道を通って村の外に出てみる。灌木の他にサボテンもちらほら生えていて、赤土の奇岩がにょっきり首を出していてる。野原には牛が放牧されている。マリーゴールドがそこかしこに咲いている。津島はメキシコの大自然を堪能しながら道に沿って歩き続けた。1時間半ほど歩き、そろそろ引き返そうと考えた時、ちょうど川に着いた。石造りの橋のそばでしばらく寝転がった。海沿いの国道。海に浮く無数の家具。机、イス、ベッド、食卓、タンス、棚。車の1台も通らない道。しばらく行くと大衆食堂。茶の間に布団で寝ている病弱な美女。そこへ通りがかる車。運転しているのは女の前の夫。海の中へ落下する車。男を追って飛び込む女。瀕死の身体で必死に泳ぐ女。
 ほんのり涼しい風に夢を破られた津島は太陽が西の方へ下りていくのを感じた。起き上がって伸びをし、村に戻ろうと立ち上がる。ふと向こう岸を見ると、軍人が集まっているのが見えた。迷彩服を着た連中が一般人を取り囲んでいる。東洋人が軍用車に乗せられた。秋野を乗せた車は村とは反対方向に走り去った。
 落陽の色に背中を染めた津島が、サンタ・カベザ村にほど近い場所まで戻ってくると、教会の鐘の音が前方より微かに鳴り響いてきた。鐘の悲鳴だった。



 津島はジョルジュに見たままを伝えた。伝えようとした。取り乱していたし、英語が通じないのを忘れていた。ジョルジュは明らかに困惑していたものの、津島の熱心な口調に気圧され、解らない英語を黙って聞き続けた。頷くことさえあった。
 ジョディーが学校から帰ってきた。そこで初めて津島はジョルジュとのコミュニケーションの不全に思い至った。津島は渋い表情でちょっと手を合わせて詫びてから、今度はジョディーを捕まえた。ジョルジュは苦笑いしながらバーの開店準備に取り掛かった。
 津島はジョルジュに話していた通りを再びまくし立てた。ジョディーは黙って聴く。少し前傾姿勢になっているのは、早口の英語を何とか聞き逃さないように配慮しているようにも見える。津島の訴えをあらかた聴き終えたジョディーは、少し考えて、そして、津島の頭を優しく撫でた。倍以上も歳の離れた大人の頭を、15歳ほどの小娘が。そしてそっと口にした。「心配しないで。」
 津島は晩飯を食べに出掛けた。トウガラシの看板が夕闇に沈み始める。津島は昨晩と同じメニューとウィスキーを注文した。秋野がいないのは心細い。言葉が通じないのは色々と困るし、何より友人の身が心配だった。どうして連行されたのだろう。もしくは拉致か誘拐か。いずれにせよただ事ではない。罪を犯したのか、冤罪で引っ立てられたのか。拷問をされていなければ良いが。いや、拷問で済めばまだいい──メキシコの治安は誉められた物ではないと聞くし、あれは正規の軍隊ではなかったんじゃないか。最悪の想像とアルコールが津島の頭を満たす。頭の中で火薬が爆ぜる。心配しないでと言われても心配せざるを得ない。
 ジョディーには悪いことをした。恐れにも近い驚きを感じたことだろう、津島が鳥のように宿を飛び出したから。しかし津島はあの場に留まれなかった。ジョディーに見られたくなかった。目の中から込み上げて漏れそうになる「水の粒」が排泄物に思えたから。(単純に、「涙」と言えばいいのに)
 料理屋を出て宿へ戻ろうとすると、腹にずしりと響く波動を感じた。辺りを見回すと、その衝撃波は身体全体の皮膚を震わせ始めた。大砲の連続発射か打ち上げ花火かといぶかっていると骨震動で鼓膜に重低音が届く。どうやら音楽が奏でられているらしい。道路に面した暗いガレージの中で青年がコントラバスを弾いていた。抱きつくような姿勢で楽器を支え、頬ずりをするようにネックへと顔を押し付けている。弦を揉みしだくように左手で押さえ、ヴァイオリンを演奏するような速度の弓使いで弦を擦る。その表情は恍惚としていて全身で恋人からの音波による愛撫を愉しんでいるかのようだ。どれくらい粗末に扱えばこれほど傷むのだろう、楽器の胴は大小無数の傷で光沢を失っている。一部に漢字のような文字がある。興味を覚え、近寄って目を凝らせば墨書された「妖怪大提琴」の5文字だ。「Anselmo」と彫りつけたのはおそらく青年の名前だろう。何の曲か分からないものの異常に早いテンポで奏でられるその音は、耳よりも肌に訴えかける低音が多用されていてメロディは無いも同然だ。速度はプレスティッシモ・モルト・スフォルツァンド。楽器は木製だが飛び出す音波は野太い重金属(ヘヴィーメタル)だ。チキショウ、楽器を持っていれば一緒に演奏したものを。
 曲想もへったくれも無い箇所で突然彼の弓が止まった。発達したアジタート(激しく粗暴)な大型台風が、移動もせず勢力も弱めず、ズモルツァンド(だんだん静まり)もせず、気象レーダーから一瞬で姿を消す様相だった。カプリチョーソ(あまり気まぐれ)すぎて津島は面食らったが、知らぬ間に、敬意と感謝の意を表する音が手と手の間から鳴っていた。世界は広い。まだまだ未知の音楽がある。津島は絶え間ない低周波の囲繞と感動とで全身が震えているのにも構わず青年にアパッシオナート(情熱で燃えるよう)な拍手を送り続けた。
 青年は津島の祝福を無視した。いくら拍手しても見向きもしない。引っ込みがつかなくなった津島は拍手の勢いをリタルダンド(だんだん遅く)させながらソットヴォーチェ(ひそひそとした声)で賛辞を延べた。それでも青年はレジェロ(ごく軽く)黙殺した。津島はペルデンドシ(消えるように)元気の無くなる心を奮い立たせ、相手の視界を塞ぐような位置に立ってから、再びカンタービレ(表情の豊かな)賛意を呈した。青年はそれでも首を傾げるばかりだった。津島は肩を落としてガレージを離れた。音楽の力で一瞬だけ弱められた心配事が勢いをまた盛り返す。宿に着く頃には津島はすっかり元気を失っていた。
 津島はベッドに座って頭を抱えた。あんな場面を目撃しなければ、あんな場面さえ目撃しなければ、秋野が一日くらい行方をくらましても、こんなに苦しむことはないのに。不安だ。秋野は戻ってこないかも知れない。実は、コントラバスの演奏に聴き惚れていたのとほぼ同時刻、秋野は麻薬組織のアジトで、頭を撃ち抜かれていた。秋野の背後の壁は血と肉と脳漿とで赤く染まった。濡れたその壁を裸電球が冷たく光らせた。というようなことになっていたらどうしよう。そうしたら、秋野はもちろん気の毒だが、自分も気の毒だ。サルマナザール一家とだってそれほどまだ親しくはない。ジョルジュの奥さんにはまだ会ったこともない。言葉がほとんど通じない異国の田舎で、すぐには帰国できない環境に一人取り残されて、これからどうすればいいんだ。
 ジョディーが静かに入ってきた。津島は少し顔を上げたが、またすぐに頭を抱えた。ジョディーはベッドに上がり、津島の背中にそっと寄り添った。津島の首に腕を回し、後ろから抱きしめた。津島はこらえ切れなくなって泣いた。ジョディーはコントラバス奏者のように頬を擦り寄せた。空気を少しも揺らすことがない穏やかさで、ゆっくりと、静かに。そして津島の耳元でもう一遍囁いた。一度目よりもかすれた声で、甘い吐息と一緒に、「心配しないで」と。声のした方へ、津島が首を向ける。未熟な唾液の匂いがした。



 机の上にドールハウスが置いてあった。造りは実に精巧で、生活感を出すためにわざわざ汚したのだろう、外壁の煉瓦は薄汚れている。鎧戸を指先でつまんで開け、窓から中を覗く。室内も見事な造型で、家具は少ないもののとてもリアルだ。ベッドのそばにナイトテーブル・スーツケース・リュックが置いてある。その他の家具は抽斗付きの鏡台1基とスツールのみ。鏡は少し曇っているが本物だ。ベッドには一人の東洋人が寝ている。それは俺だ。俺は眠っている俺を観察する。俺は眠っている。眠っている俺は俺に観察されている。監視されている気がして目を細く開ける。窓の方に視線をくれると窓から視線が来ている。俺は驚いて目を見開く。窓の外の目も驚いて見開く。俺が起きたのは望ましくない事態だったらしく目は逃げるように窓から消えた。俺は誰かに監視されていた。ベッドから飛び起きて急いで窓を開け放つ。山の方に去って行く女の後ろ姿が見えた。三つ編みのお下げと青い民族衣装。タリアおばさんだ。「タリアおばさんがいたんなら、サンタ・カベザはもうすぐだ。タリア・J・エクルバーグ。青い服だろ。毎日同じのを着てるんだ。三つ編みのお下げ髪でな。目がとても大きな人で、網膜の直径は1ヤードくらいあって、黄色いメガネを掛けてる。ある自動車工がおばさんの強烈な視線に精神を焼かれたという伝説があるくらいだ。」確かに、夢にまで浸透してくるような眼差しだった。
 しばらくベッドに座っていると窓から鐘の音が吹き込んできた。それを合図にしてジョディーがお盆に朝食を載せて運んできた。津島とほんの少し目を合わせ、挨拶代わりに白い歯を覗かせ、逃げるように出て行った。津島は目玉焼きに口を付け、どんよりした目をして、こう思う。ジョディーは自分のことが好きなんだろうな、ちょっと困るな。だけど好意を寄せてくれるのはこの際ありがたい。優しい子だし。
 秋野が帰ってくる日は未定である。果たして帰ってくるのかどうか、それも判らない。しかし仕方がない、待つしかない。空港までの道程は勿論、タクシーの呼び方さえ知らないのだから。ジョディーに訊けば教えてくれるかも知れないけどそれは最後の手段だ。携帯電話はカメラと一緒に盗まれたがどうせこの村では通じなかっただろう。
 外をぶらぶら歩き回る。秋野がいなくなっても村は外見上は変わらない。しかし、秋野がいなくなったことで異国の趣は一層濃くなっていた。せめて英語が通じる土地ならば、ここまで絶望的な孤独感に苛まれなかっただろう。同じような日が二日間続いた。秋野はまだ帰ってこない。二日の間に起きた変化と言えば、ジョルジュが津島をセニョールではなく名前で呼び始めたことぐらいだ。もっとも、「ツシマ」の発音は難しいらしく、「トゥーシア」と呼ぶけれど。ちなみに秋野のことは「アキーノ」と呼んでいた。いずれにせよ名前を呼んでくれるのは嬉しいことだった。
 三日目もいつものように散歩をして無聊を慰めた。以前未承諾撮影を巡って住民と揉めた辺りを通ると、そこに小さな沼があった。近くの木の枝に縛られた麻縄の一端がその水中に垂らされている。何か捕っているのかと思ってしげしげと観察していると、向こうの家からソンブレロをかぶった男がやって来た。日焼けした逞しい顔に太い口髭を生やしている。津島の方をじろりと一瞥したが、特に気にするでもなく、麻縄を掴んで引き揚げた。すごい物が釣れた。縄の先端には泥を滴らせた巨大な豚の頭が括り付けてあった。半ば腐乱した豚の頭だけだ。自分の目を信じてあげられなかった津島はまぶたをしばたたいた。その隙に豚の頭が回転して津島の方を向いた。目と目が合った。気がした。が、眼窩は虚になっていた。そしてその目の奥の闇の中からウナギがにょろにょろと這い出してきた。津島はさすがにぶったまげて小さく悲鳴が出た。ソンブレロがうるさそうにちょっと睨む。ウナギは両方の目からコンニチハしただけではなく口腔の中からも数匹頭を出した。豚の首からウナギの尻尾がタコの足のように垂れ下がり、苦しげにその身をよじっている。津島は朝食が出ないよう無理矢理胃の腑をなだめて沼を立ち去った。
 腹をさする津島に秋野が日本語で話し掛けた。村の子供から伝え聞いた或る事件に就いてだった。サンタ・カベザ村からもそれほど遠くはない沿岸の村で原因不明の奇病が発生したことがある。最初の兆候は妊婦に現れた。難産やシャム双生児が急増した。次に、海水浴客が溺死した。解剖してみると内臓が溶けていることが判明した。健康だった村人にも症状が現れ始めた。喉が激しく渇いた。いくら水分を補給しても渇きは癒えず、皮膚から水分が蒸発していくような痛痒を感じた。次第に身体が液化した。身体中の筋肉が粘性を失い、サラサラの液体になった。患者同士が握手をすると互いに癒着してしまった。
 医学博士や生物学者たちが原因の究明に乗り出した。新種の病原菌の発生が疑われた。瘴気による風土病の可能性が指摘された。その地域独特の虫や泥を食う風習のせいではないかとも言われた。環境汚染が槍玉に上げられたこともある。最後には、誰かが呪いを掛けているのではないかと噂された。最後の説が最も説得力があったので犯人の捜索が開始された。犯人が生身の呪術師であればすぐさま叩き殺せばいい。犯人が死者で、怨念による呪いであるとすれば、お祓いをして──続きを秋野が言い掛けた時に、追加注文したファヒータが円卓に着陸し、話はそれっ切りになった。その正体不明の病気は、あの気色悪いウナギのせいではないかと思う。津島は口をぽかんと開け、夢見るような目つきで村を彷徨う。



 雑貨屋の前に来て違和感を感じた。軒先が昨日とは少し変わっているように思えた。注視すると、骸骨型の砂糖菓子が結構無くなっている。よもや売れたわけではあるまい。処分したのだろう。いや、売れたのか。秋野が津島に説明する。「もうすぐメキシコの伝統的なお祭『死者の日』が行なわれる。別名ガイコツ祭とも呼ばれるそれは欧米のハロウィンに当たる。」ファヒータを腹に収め、津島にとって初めてのサンタ・カベザでの夜が更けて行く。「先祖の霊を自宅に迎え入れる祝祭で、日本のお盆に似てるかも。」曖昧な輪郭で漂う秋野の不鮮明な言葉が本当なら──つまり、津島の記憶が確かならば、この砂糖菓子は死者の日のための供物、日本の盂蘭盆に於けるキュウリとナスだ。食べられるドクロ……。日本人にとって人間の白骨は忌まわしい畏怖すべき対象だが、この地にあってはドクロや骸骨に対して抵抗を感じる人はほとんどいない。日本人的な感覚からするとその親しみは度を越していて不謹慎にも思えるのだが、メキシコ人は少しもそう思っていない。死に親しむ風習はスペイン人上陸以前のアステカ文明にも散見される。デフォルメされたガイコツの壁画や石造りのドクロ像などが今でも遺跡に現存している。
「ホッケ。それから、らっきょうと、手羽先ね。」
 物語に登場する海賊旗(ジョリー・ロジャー)はドクロマークと骨2本の×がデザインされている。不吉なイメージを撒き散らす意図だが、厳粛な宗教用具である十字架が異教徒にはアクセサリーに過ぎないのと同様、子供にとって海賊旗は冒険を象徴する憧れの対象でしかない。人骨に対するメキシコ人の慣れは海賊旗に対する子供たちの恐れの無さと似ているかも知れない。ホッケとらっきょうと手羽先が運ばれてきた。何の話だっけ。日本では万物に神が存在しているがメキシコでは万物に魂が宿っている。魂が死ねば鳥が落ち魚が浮くように、木は枯れ川は涸れ石は砕け皿は壊れる。人形は死に人間は動かなくなる。そして、写真は明治時代の日本人から魂を抜いたが、墨西哥(メヒコ)では万物からその魂を吸い取る。迷信深い村人が、自身を写されるのはもちろん、写真撮影自体を嫌がるのはそれが理由だ。津島は空港の外観や周辺を写真に撮ろうと思った。デジタルカメラを胸ポケットから取り出した。電源を入れ、レンズを被写体に向け、シャッターボタンに指を掛ける。指に力を入れたその瞬間、背後から足音が近付いてきて、次の瞬間には手の中は空っぽになった。ちょうど手で空間を画して「俺のデジカメはこのくらいの大きさだったよ」と証言するような指の形だけが残された。後ろを向くと、路地の方に黄色いシャツが上下動しながら遠ざかっていく。
 軽く溜息をついて、バッグからデジタルカメラを取り出した。電源を入れ、レンズを被写体に向け、シャッターボタンに指を掛ける。指に力を入れたその瞬間、横から足音が近付いてきて、次の瞬間には手には何も残らなかった。横を向くと、口髭を蓄えた痩せた男によってデジカメが靴屋の中に連れられていく。
 溜息をついて、バッグからカメラを取り出した。レンズを被写体に向け、ピントを合わせ、シャッターボタンを押そうとしたその瞬間、手には空気しか無かった。大儀そうに行方を目で追うとカメラはおばさんに捕まっていて、そのインディオと思われるおばさんはその場でしばらくファインダーを覗いていたが、そのままの姿勢で前方へ歩き始めた。
 大きく溜息をついて、ズボンから携帯電話を取り出した。カメラモードを起動し、レンズを被写体に向け、撮影の決定ボタンを押そうとしたその瞬間、液晶画面内で子供たちがケンカを始めた。小学生と思えるいずれも坊主頭の男の子たち5名が携帯電話を奪い合っている。砂ぼこりが軽く立つ。
 津島は手扇で砂塵を払い、念のため咳き込んで、写真を撮影できなかったことを残念がりながらその場を離れようとしたが、その時初めて周りを取り囲まれているのに気が付いた。津島をドラえもんか何かと誤解しているらしくカメラをもらう順番を待っているのだ。品切れですよ。砂塵を払うように手をひらひらさせると失望の極み突如として怒り狂った民衆は殴る蹴るの暴行に及ぶ。砂煙が朦々と立ち昇る。袋叩きが終わってようやく煙幕が晴れると地面にはボロ雑巾と化した四次元ポケットが内から滾々と赤い水を吐き出している。
 津島の目には未来が映らない。過去のことばかり再上映される。網膜を今まさにこの瞬間通過した現在の風光すら脳に届かない。覚醒している夢遊病者となって歩き続けた。歩き続けた。さらに二日経っていた。いつの間にか村外れの寂しい峠道に来ていたのに気が付いて随分驚いた。林の中だった。



 津島は木陰の石に休息した。デジタルカメラの中を確認する。教会内のキリスト磔刑像、立ち小便をする秋野の後ろ姿、ちょっと困った笑顔のジョルジュ、「ラ・メンティラ」の1階部分のバーと各部屋と外観、サンタ・カベザの全景、ミナティトランの製油所、駅舎でチューバを吹く男。駅舎でチューバを吹く男。津島は記憶に無いこの写真に見入る。駅舎でチューバを吹く男。不思議な光景だ。停車中の電車が画面の奥に見えることから、この屋内が駅舎だと推察できる。画面手前で男がチューバのような楽器を吹いている。バスサックスかも知れない。どちらでも良い。彼の後方にある、手荷物の輸送受付が問題だ。画面右端の窓口に神経質そうなメガネの受付係が待ち構えていて、左から山高帽姿の紳士が手荷物を預けにやって来た所だ。ショルダーバッグを左肩から袈裟懸けにし、右手に傘左手に手提げ鞄を持っている。受付と紳士の間──チューバ男のちょうど背後に、上半身裸の女が手枷を填められて立っている。憔悴した顔を仰向けて鼻血を垂らしている。胴の皮膚所々に鞭を打ったようなミミズ腫れが浮いている。女の尻の辺りに半円形の板が設置されていて、板に振られた目盛りを受付係が注視している。この写真は何だろう。どういうシチュエーションなのだろう。津島は妄想する。勤勉な駅員は怒り狂った。妻の浮気が発覚したのだ。彼は妻を殴ったが彼自身の拳が痛くなった。そこで今度は蹴ってみたがすぐ疲れたしあまり痛そうでもなかった。彼は自身の虚弱を呪い、妻は夫の脆弱を祝った。そこで彼は一計を案じた。妻を職場に連行して両手を吊し上げ、お客さんに暴行してもらうのだ。彼の代わりに苦痛を与えてもらうのだ。もちろんただ暴力を振るってもらうだけではない。妻の苦痛を計測するメーターを設置し、その大きさに応じて輸送費を値引きしてやることにした。この割引サービスが功を奏し、お客はみんな大ハリキリでゲームに参加した。中には酷い客もいて、輸送費が全額免除になるほどの苦しみを哀れな女に食らわせたりもした。上司や同僚から悲鳴が耳障りとの苦情が来たのでチンドン屋を雇って掻き消すことにした。妻は段々グッタリしてきた。死んでしまうかも知れない。でもそれでもいい。さあ、この紳士は何点を叩き出すかな。その傘の先で目をえぐり出せば高得点間違いなしだろう。悪趣味な写真ではあるけど、想像を掻き立てる超現実性が見事に表現されている。この写真だけは靴屋以外の誰かが撮ったのかも知れない。いや、ヌードだって靴屋が撮ったかどうか確証は無いのだが。
 むくむくと隆起した己の嗜虐性に驚き、津島はそれを必死で否定した。俺はそんな男じゃない。そんなことを考える男ではない。俺もそんな男じゃない。津島は人間精算機の邪な空想を頭の中から決然と追い払った。立ち上がった。そして村の方に向けて歩き始めた。しかし画像は消さなかった。
 蚊柱を避けながらしばらく歩いていると人の気配を感じた。ジョディーが道に背を向けて石垣に腰掛けていた。学校帰りなのだろう。津島は気軽に声を掛けた。こんな所で何をしているの。ジョディーは陰鬱な顔で振り返ったが、津島の姿を確認すると破顔一笑ひまわりの咲いたようだった。ジョディーが座って見ていたその敷地は、マリーゴールドが敷き詰められていて一見お花畑のようだったが、木材で組んだ無数の十字架が墓地である事実を示していた。津島はジョディーの横に腰を下ろした。ジョディーはじっと一点を見つめて物思いに耽っている。その視線の先には真新しい白塗りの十字架が直立し、黒いペンキで横木に
   A LA MEMORIA DE
  MI QUEDISIMA ESPOSA
と書かれていた。それは十字架の裏だった。ジョディーは津島の手を引いて表に回った。ちょうど人一人が寝るのに充分な面積の土地が、他の固い地面とは土質が異なっていて、しかも周囲より少し高くなっていた。土饅頭の新しさから察するに埋葬されてからそれほど年月は経っていないようだった。十字架の表にはやはり黒いペンキで
  ISABEL PSALMANAZAR
    1977─2010
と書かれていた。生年は津島と二つしか違わない。没年は今年だった。道理でお目に掛からなかったわけだ。ジョルジュが宿の業務の合間に忙しそうに家事までこなしていた事情がようやく飲み込めた。ジョルジュの奥さんイザベルは、ここで永遠の休息をしている。永遠という物があれば、だが。津島は唇を固く閉じた。自然と掌を合わせた。ジョディーが津島を黙って見つめる。彼女の瞳に悲痛な色彩は少しも含まれていなかった。それが逆に、津島の憐憫の情を誘った。津島はジョディーを両腕の中に掻い込んだ。国宝を運ぶように抱擁した。ジョディーは津島に身を委ねた。津島は涙ぐんだ。この不憫な女の子の、心の中に氷結している悲しみを溶かそうと、情愛をこめて抱きしめた。津島の熱がじっくり伝わり、ジョディーの頬を冷たい物が零れて行った。しばらく二人はそのまま立ち尽くした。くっついた耳と耳が熱を帯び始めた。
 身体はそのままで顔だけ離し、お互いに見つめ合った。津島は、おそらくこれが初めてだったが、まじまじとジョディーの顔を観察した。鼻だけは西洋人らしい形をしているものの、その他は中南米人らしい野性味を残した健康な顔付きだ。小麦色の艶やかな肌からはコーヒー牛乳の甘い臭気がぷうんと漂う。目の下と頬に少しそばかすが見える。やや厚めの肉感的な唇の隙間から白金色の歯が微かに光る。鼻と口の間にうぶ毛が白く光っている。なめらかな顎の曲線ときりっとした眉のカーブが美しい。そしてこの目。大きくて可愛らしいくせに、肉食獣に似た所がある。瞳は常に潤っていて、その白目はあらゆる色の光線を反射して輝いている。そしてまた、彼女自身の中から湧き出してくる、やや茶色い光彩の中から放射される優しい光は、何よりも温かい。真っ黒い髪は少し傷んでいるが、日本製のシャンプーを使えば見違えるほどの色艶に輝くことだろう。ジョディーは津島の腕の中で、15歳とは思えない色香を漂わせ始めた。ついさっきまでは可哀想な外国の子供だったのに。今ではオスを惑わせる魔物に化けていた。津島は頭の中で己の意外な欲望を必死に否定する。たかが薄汚い子供だぞ。デジタルカメラの画像が頭にちらついた。
 虫の声も風の音もしない世界で、唯一、彼女の肺に空気がせわしなく出入りする音だけが、一定のリズムを刻んで聞こえていた。その音が周りの静寂を一層強調する。津島は旅の記念にと、着衣の乱れたジョディーをカメラに収めた。シャッター音。すると、それまで息遣いの荒かった彼女は急に落ち着き、人形のように静かになった。
「すみませーん。もしもーし。盛り上がってきたんでー。すみませーん!おーい!」「バッキャロウ深刻な話なんだよ?」「うんうん。あ、水割りもう1杯下さい。あいー。で。それで?」



 彼女は先に帰った。津島はしばらく休んだあと清々しい気持ちで墓地を後にした。何も、ジョディーの中に女を発見したから嬉しいのではない。メキシコにいるのが楽しくなってきたのだ。旅先で得られる一番の収穫は、その土地が保有する独自の空気だ。景色は写真で見ればいいし、特産品は取り寄せればいい。だが、アルプスのよく撮れた写真を何時間眺めてもアルプスの空気を肌で感じることはできない。冷凍庫に入って写真を鑑賞したり空気の瓶詰めを開封したりすれば解決できる問題でもない。A地点からB地点へ移動する際に電車を利用するか徒歩で向かうかの違いでもある。なるほど電車は楽だろう。しかし、AからBへと移動する間に獲得できる世界は、結局は限定された車内の空間だけだ。車窓の外を飛んで行く景色は写真の中に静止するアルプスと同様他人事の景色だ。だからこそ、写真に写らない空気・運搬不能な雰囲気は、現地で直接堪能するしかない。旅先で得られる一番の収穫は、景色でも土産でもグルメでもなく、その土地が保有する独自の空気なのである。──森の空気は青みがかった緑、磯の香りは海苔の味、ひなたぼっこは柔らかな心地、牧場は家畜の匂い、床屋は雲丹、秋風は寂寥、都会は鋭角だ。そして、メキシコの空気は辛い。もちろんこれは悪い意味ではないし味覚に限った話でもない。現地に行った人にしかこの感覚は共有できないだろう。この酒がすすむ感覚は。写真やガイドマップでは絶対に分からない、その場所特有の空気感。
 落ち込んでいる場合ではない。メキシコにいることを楽しまないでどうする。ジョディーのおでこに溜まった汗を蠅が舐めるメキシコ。秋野の失踪をいつまでも悲しんでいても仕方がない。負の感情を貯蓄することで秋野の懲役が減刑するのならいくらでも落ち込もう。けれど、港がいくら心配しても船は引き寄せられない。秋野はいつもの調子で飄然と沖に出ただけ、帰港する際は自力で接岸する。心配したって帰ってこないんだから心配するだけ損。快晴には程遠いが黒雲は去った。津島は絶望の雲を払拭して口笛を吹きながら村に帰る。
 村に近付くに連れて口笛は弱まった。打ち鳴らされる晩鐘が単調な遁走曲を奏でた。爆風のような衝撃波が草を揺らした。微かに音楽が聞こえてきた。弦楽器の旋律が止むと拍手と歓声がそれに入れ替わった。唯一呻り続けていた重低音も遅れて止んだ。
 広場に人だかりが出来ている。死者の日が始まったのかその前夜祭なのかマリアッチの楽団が村に来ている。派手な刺繍のされたソンブレロとマントにお揃いの黒い服装。その中に一人だけ普段着の青年がぼろぼろのコントラバスで加わっている。彼は演奏開始の合図を静かに待っている。口上を終えたバンドマスターが指で拍子を取り、まず彼ひとりで演奏を始める。家々のガラスを震わせる重低音が辺りに満ちる。その反復音を土台にして他の楽器が音色を重ねていく。ギター、ギターと似た楽器(ビウエラ・デ・マーノ)、トランペット、ヴァイオリン。大きめのギター(ギタロン)を持った男だけは演奏に参加せず、少し不満げに、しかし敬意を含んだ眼差しで青年の演奏に目を見張っている。村人たちは思い思いに出鱈目なフラメンコを踊り始める。テノール歌手による歌唱でダンスは最高潮に盛り上がった。広場全体が火の点くような狂騒の熱気に包まれ、男と女は汗を流し、鶏がグリルされ羊が蒸し焼きにされる。離れて見物する中高年たちは家畜の肉を食いちぎり酒を喉の内外に垂れ流す。興奮した若者が見すぼらしい花火を打ち上げた。
 津島は目を輝かせた。これぞメキシコ土着の音楽。産業としてメキシコ国内で売れている音楽ジャンルは世界各国と似たり寄ったり日本と同様のポップスだが、それはアメリカに影響されている。そういった、どこの国でも聞ける音楽に興味はない。日本を観光する欧米人がJポップより演歌を聴きたがるのと同じ心理だ。疫病のような流行の波はこの田舎の村にまでは到達していない。サンタ・カベザは蔓延する産業音楽に毒されていない。津島は耳を輝かせた。大好きな音楽のお陰で秋野のことを片時忘れてますます精気を回復させた。
 演奏が終わり、村人はみな拍手喝采をした。子供たちが興奮冷めやらずに走り回る。料理屋の2階の露台からおじいさんがグラスを掲げる。こうして広場に秩序が戻り始めてもコントラバスだけが音を出し続けていた。トランペットが手で制したが、青年は目を閉じて演奏に没頭している。ギタロンの男が気の毒そうに肩を叩くとようやく止まった。青年の耳には、音が鳴っていなかった。



 いつも通りジョディーが朝食を運んできた。津島は目尻を下げた微笑みをベッドの中で浮かべて少女の労をねぎらう。ジョディーは目も合わせず機械的にお盆を置いて何も言わず去って行った。何かを考え込んでいるようであり、また無意識で動いているようでもあった。完全な無表情だった。津島は目玉焼きを口に含み、もぐもぐと咀嚼して、こう思う。元気がなかったな。どうしたんだろう。昨日のことを怒っているのかな。
 午前中は自室で携帯音楽プレイヤーを聴いた。日本から持ってきたiPodだ。旅の情緒が壊れるのを恐れ、退屈な飛行機の中での使用に限定していたが、その禁を破った。今鼓膜を振動させているのはゴーキーズ・ザイゴティック・マンキの『スパニッシュ・ダンス・トゥループ』で、曲名を翻訳して順に並べると──玄関、プードル・ロッキン、彼女は山暮らし、扉、通信終了、心配しないで、どんよりした目、愚者、毛は猿歯は犬、スペインの舞踏一座、みじめな哀歌、殺しのバラード、そばかす、クリスマス・イヴ、鼻歌──以上15曲のアルバムだ。物寂びた雰囲気が津島の気分にぴったりだった。繰り返し3回聴いた。様々な想念が頭に浮かんだ。みじめな哀歌。ブルーズ。ブルーズはシカゴで聴いた。カントリーをナッシュビルで聴いた。メンフィスではソウルを聴いた。そしてディキシーランドジャズを、ニューオリンズで聴いた。秋野との出会いが思い出された。
 もしかして帰ってるんじゃないかと思って隣の部屋を覗いた。半ば開いた鎧戸の隙間から太陽の光が差し込んでいる。一条の光線が室内の塵を輝かせながら色とりどりのガラス玉へと注ぐ。乱反射は白壁にカラフルなまだら模様を投影する。偶然が織り成す、それはそれは美しい絵画だった。──科学者は現象の原因を解明しようとして研究に腐心する。詩人はその感動を記録しようとして言葉探しに没頭する。大衆は「きれいだね」と素直に感心する。大衆の態度が常に一番正しい。しかしまた、路傍の石は誰からも顧みられず、気付かれてもただ蹴られるのみ。津島は土中に埋もれた石の気分になってドアをそっと閉めた。
 投宿して1週間が経っていた。また先払いをしようと思い、ジョルジュに1000ペソ紙幣と500ペソ紙幣を1枚ずつ差し出して、少し考えた。死者の日が目前に迫っていた。祭を見物したら秋野が戻って来ようと来まいとサンタ・カベザを出るつもりだった。都会に出て現地のミュージックシーンを見聞し、ついでに本場のルチャリブレを観戦し、早々に帰国しようと思った。戻る頃には日本では上着が必要な気候になっていることだろう。1000ペソ紙幣を引っ込め、三本指を立てて三日分の宿泊代を払った。
 料理屋のタコスで昼食を済ませて日課の散歩に出掛けた。野生の鹿の群れや猿を見掛けた。またイザベルのお墓に足を伸ばせばジョディーと会えるのではないかと津島は考えた。昨日獲れた果物をまたもぎ取ろうと考えたのではない。今朝の不可解な覇気の無さを知りたかったからだ。必要があれば謝ろうと思った。誤解しないでもらいたい、昨日の果物をまた味わおうと企んだわけではないのだ。
 墓地に人の気配があるのを遠くからでも感じた。イザベルのお墓に屈み込んでいる人影が見えた。自ら望んで待っていたのかも知れない。津島は努めて作り笑顔を作って近付いた。
 津島の足音に振り向いたのはジョルジュだった。ジョルジュは笑っていない。津島はこの笑顔をどこに片付けようかやり場に困った。ジョルジュの身体の陰になっていてよく見えないが、どうやら墓の飾り付けをしているようだった。メキシコでは死者の日になると彩色したドクロの彫像を土饅頭の上に安置したりマリーゴールドの花びらを綺麗に並べて十字架の形や同心円などの図形を描いたりする。日本の盂蘭盆で墓石に水を掛けたり花を換えたりするのに当たる祭祀だ。
 ジョルジュはなおも黙ったまま日本人の動静を見守った。津島はやっと真顔に戻り、敵意が無いことを全身で示しながらメキシコ人へ一歩近付いた。ジョルジュは屈んだままの姿勢でなおも黙っている。土が掘り起こしてあり、泥の中に石のような物が見えた。まだ完全に土に還っていない人骨だった。津島は息を呑んだ。それでもジョルジュは何も言わない。津島は動けなくなった。立ち去ることも、何か言うことも、仮面を取り替えることも。もはや行動ターンはジョルジュ側にあり、彼が何か言動を起こさない限りこの状況は発展しない。芝居は永久に進行しない、役者が台本の台詞を忘れて石のように沈黙を守るなら。
 ジョルジュはそれでも黙って津島の目を見つめ続けた。その顔は穏やかだ。哀しみも、怒りも、そしてもちろん喜びも、存在しない。気まずさも、津島に対する敵意や嫌悪も、焦りも驚きも不安も、一切無い。ただただ穏やかだった。10秒間ほど、世界は、止まった。津島には耐え難い時間だった。
「ジョディー。」
 やがてジョルジュは娘の名を一言だけ口にした。そして少し目を伏せたが、津島が何か応える前にまた二言三言、声に出した。スペイン語なのでもちろん解らない。津島は何も返せない。ジョルジュはそれっきり「墓の飾り付け」に戻って行った。背中が無言で立ち去れと語っていた。セネカよりも雄弁に。
 その夜ジョルジュは津島をバーに誘って1杯おごった。そして昼間の非礼を詫びるかのように熱い口調でまくし立てた。言葉は通じないが気持ちは伝わってきた。津島は何かの見間違いだったと思い込もうと努力した。通じないのは承知の上で懸命に取り繕うとその気持ちはジョルジュにも伝わった。ジョルジュは大変喜び、握手を求めてきた。そこへ部屋から出てきたジョディーが通り掛かった。ジョルジュは大声で娘を呼び止め、津島の方をちらちら見つつ何事か依頼した。ジョディーはこくりと頷いて、「家族デ明日ノ午前中、死者ノ日ヲオ祝イスル。とぅーしあモ、是非、参加シテクレ」と、機械のような調子で翻訳した。目が死んでいた。その瞬間津島の脳裏には数時間前に対面したイザベルの面影が再現された。ジョディーは滑るように外に出てトイレへ向かった。ジョルジュは彼が津島に対してよく見せる困った微笑を浮かべ、今度は娘の態度を詫びるようにベラベラ喋り始めた。津島は苦々しくその異国語を聞き流し、コロナをぐっと一息に飲み干した。
 ジョルジュは最後に、彼の大切な宝物であるプレゼントをくれた。それは人間の脂肪で作った石鹸だった。



 津島は平静を装って2階へ上がった。部屋に入り、静かにそしてしっかりとドアを閉めた。もらった石鹸を大慌てで鏡台の抽斗に投げ入れ、掛け布団の端で手を拭った。さっそく荷物をまとめた。宿泊代を多めに支払ってしまったがこの際そんなことはどうでも良い。気味が悪くなったので翌日の「オ祝イ」とやらを済ませたらとっとと村を出ようと思った。タクシーを呼べるかどうか疑問だったが村役場の公衆電話を使えばどうにかなるだろう。
 1週間ばかりの滞在だったが得難い経験が出来た。充分すぎるほどで心残りは無い。ただ、ジョディーの豹変だけが気掛かりだった。一時はあれだけ仲良くなったのに。このまま険悪な関係のまま別れるのはいかにも心苦しかった。津島は罪悪感に圧迫される。やるせない孤独に陥った時、温かに包んでくれた、ジョディー。だから、今度は自分の番だと思った。自分が彼女の寂しさを消し飛ばしてやろうと思ったのだ。しかし満足したのは俺ばかりで、彼女のことは傷つけたかも知れない。秋野がいたらどう思っただろう。多分、大笑いに笑って戦友の武勲を祝福しただろう。冗談の累積に塗り込めることさえ出来れば、あの密会は幸せな思い出へと醗酵していくだろうに。俺は秋野の存在に疑問を感じ始めた。秋野などという人間は最初からいなかったのではないか。秋野は、津島の頭の中にだけ生きている、現実世界には実在しない人物なのではないか。立ちションする秋野の画像はどこの馬の骨とも解らない他人の写真ではないか。そんな風に思えてきた。時刻は明け方近くなってきており津島は大分酔っ払っている。泥酔と言って差し支えない。当然俺もだが。走り書きしていたメモが段々と殴り書きに変じる。店の営業時間は午前7時まで。ついさっきまでは聞こえてきた笑い声も潜まって店内は静かだ。この時初めて意識した店内のBGMがちょうど聞き覚えのあるバラードだった。津島がすぐに曲名を当てた。始発電車が走り始めたのかにわかに数組の客が退店する。夏のようなあの顔にもう一度会おうと津島は試み、立ち上がってトイレへ向かった。夏のようなあの顔にもう一度会おうと津島は試み、その場で探せばいいのに、立ち上がってトイレへ向かった。一方の津島はトイレの外でジョディーに会えるのを期待し、もう一方の津島はトイレの中でジョディーを探した。
 津島は自分の手の平の上に乗ったジョディーを見つめた。
 デジタルカメラの中に閉じこめられたジョディーを見下ろした。
 液晶画面の窓の中から大きな目が津島を見つめていた。
 思い出の中で美化された彼女は、さらに、美しかった。津島は汚い笑いを口元に浮かべた。すぐに笑いは凍った。
 液晶画面へと反射した大きな目が津島を見つめていた。
 デジタルカメラの中に閉じこめられたジョディーを見下ろした津島を見下ろした。
 タリアおばさんは自分の手の平の上に乗った津島を見つめた。
「水を、二つ、下さい。あ、すみません、やっぱりお茶で。はい。お茶を二つ。お願いします。」
 津島は手の平の上に小さなジョディーが載っているのを見た。小さいが確かにジョディーだ。身体はよく見えないが、この髪型・顔・そばかす、間違いなくジョディーだろう。見えすぎるほどよく見えるその顔は茫然としているようだ。そして津島は手の平の上に津島を載せている大きなタリアおばさんを見た。大きいが確かにタリアおばさんだ。体型や服装はよく見えないが、この顔・巨大な目・黄色いメガネ、間違いなくタリアおばさんだろう。顔は近すぎてよく見えないが表情は茫然としているようだ。俺がスイッチを押せばジョディーは消えるだろうし、俺がタリアおばさんの手に握られれば俺は潰れるだろう。こんな夢を見たことがあった。夢なら良いのに。タリアおばさんは墓地での一件をたしなめるようでもあり、ジョディーを解放しろと訴えているようでもあった。そうか。津島はようやく気が付く。この画像さえ消せば、魂の無い人形のようなジョディーを元の元気なジョディーに戻せるのかも知れない、と。
 すだれの下の日陰でインディオのおばあさんが縄を縒っていた。深い水脈を思わせる皺が顔全体に走り、乾燥で罅割れた大地のような肌だった。人間の年輪であり、味わい深いと思った。津島は真正面からまともに撮影した。自然な表情をカメラに収めたかったので、許可も取らず、不意打ちを食らわせて。津島は今撮った画を液晶画面でおばあさんに示してにこりと微笑んだ。初めおばあさんはちょっと見ただけだった。そのうちこれは自分の姿だと理解すると目を大きく見開いて痙攣を始めた。眼球の直径が5インチほどに膨れ上がった。溺れ始めた。
 津島は慌てた。村の住民が駆け寄ってきた。女たちがおばあさんを介抱し、男たちが津島をわからぬ言葉で責め始めた。四五本の人差し指がカメラを威嚇する。
 写真を撮られるとその都度少しずつ魂が奪われる。広告会社のカメラマンから聞いた話だが、宣伝用の写真を撮られた後の料理は撮影前より味が落ちると言う。人間も写真を撮られ過ぎると魂が徐々に薄まり、しまいには入れ物だけの存在となる。津島はカメラが魂を吸うことを知らず、悪意のない無知を発散させながら、自然の風景・村の建物・民芸品などに次から次へとレンズを向けていた。見えない弾丸が銃口から飛び出しているのに気付かずトリガーを引き続ける狙撃手のように。
 おばあさんは黒目を青白く変色させながら大量の涎を垂らした。その涎は地面の窪みに流れて水たまりとなった。男たちはなおも津島に詰め寄って訛りの強いスペイン語をぶつけまくる。カメラの画像を消すように要求していると解釈した津島は、男たちに実際の操作を見せながら、今撮った写真を未練無く削除した。すると、直前に教会の中で撮影したキリスト像が代わりに表示された。男たちは驚いて悲鳴を上げた。空中に十字を切って女たちの方へ何事か叫びながら走った。男たちの報告を聞いた女たちに天から光が照射された。おばあさんは正気を取り戻した。大きく腫れた目は元の大きさに縮まり、光彩も濃い色を取り戻した。男たちは我先に津島の手を取ってその奇蹟を讃えた。女たちは気味悪そうに遠くから見守っていた。神の御業を敬う声と、悪魔を蔑む視線。おばあさんの涎溜まりはその後ウナギの棲む沼になった。
 津島はデジタルカメラの電源を消した。ジョディーの画像を消したわけではないが、タリアおばさんは勘違いしたのか満足らしく津島をそっと地面に下ろし、暗闇に溶けて行った。トイレの外にいた津島は生身のジョディーには会えなかったがタリアおばさんが幽霊などではなくただ単に大きい女だったことに安心し、トイレの中に入った。一方、トイレの中にいた津島はトイレの近くにてジョディーの画像を閲覧したことでタリアおばさんの記憶がフラッシュバックしたのを機に、透明な胃液が出るまでさんざん内容物を嘔吐し、ある程度すっきりした所でトイレの外に出て、席に戻った。



 翌日、ジョディーではなくジョルジュが初めて朝食を運んできた。それほどあの娘に嫌われたかと悲しく思いながらトルティーヤに手をつけているとジョルジュが朝食をもう一人分運んできた。もしや秋野が帰還したかと津島は顔を明るくしたが、ジョルジュはにこにこしながら鏡台の前のスツールに座って食事に取り掛かった。津島は肩透かしを食らった。ジョルジュにしてみれば、「トゥーシア」と仲良くなろうと思って一緒にごはんを食べるのだろう。しかし、会話は無い。
 津島に続いてジョルジュも食事を終えた。ジョルジュは食器を片付けながら、部屋の入口の前で手招きをした。これまで見せたことがないほどの陽気な笑顔だった。ジョディーの笑顔と似た輝きを放っていた。さっそく死者の日のお祝いをしようと言うのだろう。嬉しくて堪らない様子で、不本意ながらこちらまで引き込まれる。それくらいメキシコ人にとっては重要なお祭りなのだ。たとえ近親者が亡くなったばかりでも死者の日には決して涙を見せてはならない決まりだそうだ。それは「お家に迎え入れた死者が帰りに生者の涙で滑らないように」という理由による。
 津島は初めてサルマナザール家のプライベートな住居へ招かれた。入ってすぐが台所で、その奥が食堂を兼ねた居間だった。料理の用意された食卓を囲むように三つイスが置いてあり、壁ぎわに座り心地の悪そうなソファが据えられている。ソファの正面にはテレビが置いてあった。このテレビがロビーにあればあちこち散歩せず暇潰しが出来たのに。向こうに見える二つの戸は夫婦の寝室と子供部屋だろう。部屋の片隅に祭壇が設けられている。
 ソファには糸の切れた操り人形のようにジョディーがだらしなく座ってテレビを観ていた。相変わらず死んだ表情で100マイルも先を見ているような目つきだった。津島は苦々しく思った。撮影した画像を消せば元通りになってくれるのか?なるんなら今すぐにでも削除してやる!だが、ただ単に津島を憎んでいて、不機嫌なだけだったとしたら。あの美しく成長していく写真を殺すことなどできない。津島は雰囲気の悪さに圧倒された。すぐにでも逃げ出したいくらいだった。この部屋からではなく、サンタ・カベザから。津島が尻込みをしていると、ジョルジュが気付いてソファを勧めた。右の掌でジョディーの隣を指し示した。居たたまれない。
 宿の業務の隙間を縫ったジョルジュと、学校から帰ってきたジョディーによって何日も掛けて準備されたのだろう、祭壇はとても見事だ。それは立派すぎるほど立派で、死者に対しての想いの大きさが現れているようだった。失礼な話だが、この貧乏宿にとっては相当の出費だっただろう。中心を成すキリスト像の足下に、美しい女性の写真が立てられている。イザベルだ。壇上にはパン生地で作ったタペストリーが敷かれ、その上に砂糖菓子がたくさん供えてある。菓子のデザインは人骨だけでなく、猪や鹿や鳥や蛙やロバやラバ、キリンまでいる。動物たちは死者の旅路に役立つ下僕だ。ドクロやガイコツには悲愴感は微塵もなく、滑稽な表情やポーズで楽しい祭にはしゃいでいる。その他、砂糖菓子ではなく紙粘土に布や色がみを羽織った人形も数え切れぬほど整列している。これだけガイコツだらけな壮観に接すると、死を穢れとする日本人的感覚が少しずつ麻痺していく。四つあるミニチュア棺桶の上に、十字の形を彫りつけた太いロウソクがそれぞれ立てられ、灯明をゆるやかに揺らしている。木・石・金属・砂糖・花、あらゆる素材で作られた十字架が至る所に屹立する。そしてもちろんマリーゴールドを筆頭にした美しい花々が豪華絢爛に飾られている。死者の霊を楽しく持てなそうという工夫があちこちに見られる。
 いよいよ死者を迎え入れる段になり、ジョルジュ親子は壺に入れてあった黄色い物を祭壇からロビーに向けて撒き始めた。マリーゴールドの花びらだった。津島も手伝おうとしたが、丁重に断られたので黙って傍に付き従った。花びらはロビーを抜け玄関を出て宿の前まで丁寧に散らされ地面を埋めた。黄色い道筋が出来上がった。そして、括り付けた棒を発射台にしてロケット花火を打ち上げた。マリアッチが演奏した夜に打ち上がったのと同じお粗末な代物だった。見れば他の民家でも同じように花火を打ち上げている。これで死者の霊を呼ぶ目印にするのだと言う。日本の盂蘭盆に於ける、提灯の迎え火や玄関でおがらを焚く風習と似ている。
 すると、今まで死んでいたジョディーが突然生き返った。以前と同じような快活さを取り戻した。津島は嬉しくなってきらきらする目を彼女に向けた。が、ジョディーは津島の方を見向きもしなかった。まるで空気のように無視した。
 黄色い道を通って居間に戻った。サルマナザール親子は祭壇の前にひざまずいた。目を閉じ、額腹左肩右肩の順で十字を切り、腕を組み合わせて厳かな祈りを捧げる。津島も真似をする。少時の沈黙のあとジョルジュがふざけた溜息を吐くと、部屋の堅苦しさは抜け、三人とも声を出さずに笑った。ジョディーは急に明るくなったし、ジョルジュの言葉を翻訳してくれるようになったので津島は大いに助かった。ただ、相変わらず津島の存在に気が付いていないようなそぶりをする。津島こそが幽霊でもあるかのように、まるで本当に見えていないようだった。いや、本当に気が付いていなかった。どうして英語で父の言葉を繰り返さなければならないのか不審なようだった。そして、津島が話す度にどこから声がしているのか怯えるようだった。口寄せの役をするのが不気味で厭で仕方がないという表情だった。津島は正体不明の涙が出そうになるのを堪えた。
 ジョディーはソファに身を沈め、男二人はイスに座った。ジョルジュは本当に嬉しそうな顔をしながら話す、「これで死者の魂は、この場所に帰ってきた」それをジョディーが訳す。ジョルジュは笑顔を崩さぬまま「トゥーシアは俺の妻とまだ会ってなかったね。実は、俺の妻イザベルは、今年の春先に亡くなっていたんだよ。だから今まで紹介できなかった。ごめん」と詫びた。身内の死を笑いながら話すのは奇観だった。そしてその笑顔をさらに輝かせて「でも、今日は死者の日で、イザベルはひさしぶりに我が家に戻ってきたんだ」と戯れ言を抜かす。「すぐ連れてくるから。ちょっと待ってて」と言い残し、ちょっと寝室に入った。「イザベル。おいで。」
 津島は緊張で身を強張らせた。信じられなかった。寝室からイザベルが出てきた。燃えるような髪の毛を揺らし、夫にエスコートされて。そして、津島の正面に夫と並んで着席した。津島はあっけに取られ、食い入るようにイザベルを見つめた。イザベルが夫と同じ言語で何かを話し、それをジョディーが英語に翻訳する。「はじめまして。イザベルと申します。」津島はなおも押し黙ったままイザベルを遠慮なく見つめる。口の周りに紅を差し、歯を剥き出しにして笑っていた。津島は自分が死んだ気になって口も利けずただ相手の次の言葉を待つ。「きたない宿ですが、ゆっくりしていってください。」そして歯を鳴らしながら笑った。ジョルジュもジョディーも笑った。津島だけが不自然に笑った。なおも情熱的に人妻に視線を浴びせる。泥のような物の付着していない美しい白い肌だ。ジョルジュが妻の繊細な肩を優しく抱き、妻と津島を交互に見ながら、長々と話し始める。ジョディーはそれを翻訳しない。その間もイザベルはじっと津島の方を向いていて、津島も負けじと目を逸らさない。炎のように赤い髪はカツラだった。ジョルジュは客についての詳しい紹介をしていたようで、イザベルが「アキーノのお友達なの」と心底驚いた。「そう言えばアキーノは。あいさつしたい。」「あのドンファンは死んだよ。」イザベルはけたたましく笑い始めた。「ばかっ。訳さなくていいっ!」と、これは津島の想像であるが、ジョルジュが娘に何事かを叫んだ。津島は聞こえてないふりをした。そうか。死んだのか。
 昨日夫の手によって墓場で禊ぎを済ませてきたのだろう。とても美しい死骸だった。腐乱した部分は削ぎ落とされ、骸骨がバラバラにならないよう関節と関節は縄で固く結びつけてある。ジョルジュが話頭を転じて、食事をしようと提案した。もちろん死者が優先で、生者は死者の残した分をいただく。「残り物だから味や香りは無くなるけど、我慢して食べてもらいたい、我が妻のために。」あいにく朝食をいただいたばかりで腹が減っていない。それに、室内にはずっと蠅が飛んでおり、人間の手刀をかわして時折料理の上に羽根を休める。肉や汁物はいささか不潔に思えた。無難そうなリンゴを手に取った。新鮮なそれは確かに味が無かった。イザベルの歯に蠅が止まった。
 ジョルジュは少し早い昼食をゆっくりと美味くなさそうにやっつけていたが、そのうち落ち着かなさそうに指を摺り合わせ始めた。そしてついに津島の方を毅然とした態度で見つめ、抑制した丁寧な口調で要求した。
「娘の魂を返してもらいたい。」
 津島はその意外な言葉に驚いたが、イザベルの前ではそれほど驚愕はしない。取り乱してはいけない義務感が生じていた。以前ジョルジュがそうして見せたように、津島は大仰に首をすくめて申し訳なさそうな表情をしてみせた。ジョルジュは食い下がる。
「ルイーザおばあちゃんの魂を一度抜き、再び戻した奇蹟は村中に知れ渡っています。その道具で出来るんでしょう。そして──」ジョルジュは涙を必死に堪えて「可能なら、俺の妻を生き返らせてほしい。」



 閉店が近付いていた。12月24日になっていた。仕事納めのお疲れ会をしていたんだっけなぁ。津島はこれからが書き入れ時だと語っていた。ご苦労なことだ。
「それで、話は終わりか?」
 酔い潰れたのか、顎を胸につけたまましばらく喋らなくなった津島を促した。
「秋野って、ヤツは、結局いたのか。戻ってきたのか。初めっからいなかったんじゃないのか。おまえの想像上の人物じゃないのか。」
 秋野はサルマナザール一家と家族同然の暮らしを送るようになって、美しいイザベルに徐々に惹かれ始めた。イザベルも秋野に好意を寄せていたが、それは人間に対する好意でしかなかった。男に対しての好意ではなかった。その好意を秋野は日本式に取り違え、貞淑な人妻に対して密かに言い寄り始めた。アキーノのいつもの面白い冗談だと思っていたイザベルは相手に合わせて軽口を叩いた。秋野はますます増長して行った。この国の女は尻が軽いと踏んだ彼は、幼いジョディーにまで触手を伸ばした。恐れを知らぬ無垢な少女は異邦人に対する純粋な興味関心を利用されて簡単に毒牙に掛かった。怒りや哀しみより羞恥心が勝って両親には言えなかった。そのうち、年も暮れ始めた。秋野は年末年始は日本に帰らなければならなかった。帰国が数日後に迫ったクリスマス・イヴに、秋野はイザベルを自室に誘い込んで本懐を遂げた。イザベルは夫や娘に気付かれまいと健気に声を押し殺した。秋野は発覚を恐れるように帰国した。しかしどこからか発覚した。心無い誹謗中傷が事実を歪めて伝播した。ジョルジュは同情され、イザベルは不実者として村から呪われた。誰か特定の呪術師によってではなく、村全体に渦巻いた呪詛によって、呪われた。まず彼女の自慢の髪がごっそり抜け落ちた。今、ロビーの水槽に漂っているのがその一部だ。ジョルジュは妻を許し、懸命に看病をした。イザベルは身体が液化する例の奇病に罹患していた。今度は村中がサルマナザール一家を忌避し始めた。宿には配達が来なくなりジョディーが学校でいじめられた。医者も往診を拒否し、イザベルの症状はますます悪化していった。腹が膨れて行き、腹の皮から膿が出始めた。臍の辺りから小さな手のような物が生え始めた。イザベルは謝り続けた。神に、夫に。この頃になるとイザベルの顔は、かつての美しかった面影を全く留めず、どろどろに溶けていた。自分の顔の崩壊を知らないイザベルは最後にもう一度だけキスをしてとジョルジュにねだったが、ジョルジュは何だかんだ言い訳をして、「すぐに良くなるから、良くなったらお祝いのキスをしよう。今は身体を治すことに集中するんだ」と誤魔化した。イザベルは最後には死産をして亡くなった。胎児も溶けていて母胎とほぼ一体化していた。ジョルジュの子だったかどうかは不明だった。
 ジョルジュは泣いた。イザベルを失った悲しさと、キスをしてあげられなかった後悔と、秋野への激しい憎しみ。ジョルジュは泣き続けた。葬式の最中も声を出して泣いた。埋葬の時も号泣していた。伸び放題の髭に黴が生えるのにも構わず泣き続けた。宿から漏れ聞こえるその歔欷の声を聴くと誰しもが憐愍の情を催さずにはいられなかった。ついにサンタ・カベザ村はその呪いを解いた。人々が次々に「ラ・メンティラ」を訪れて一家の世話を焼いた。入れ替わり立ち替わり村人全員が交代制で助けにくるような有り様だった。ジョルジュは少しずつ平静を取り戻し、半年掛けてやっと元気になった。秋野への憎しみの炎も涙によって消えかかっていた。イザベルの悲しい思い出を消すためには、セットになっている秋野の記憶も消す必要があったからだ。だから、秋野が再びサンタ・カベザの地を踏んだ時も、初めは憎しみをすっかり忘れていて、友との再会を喜んだ。妻の死を知ったことで本物の涙を流してくれるとはなんていい人なんだとも思った。数週間が経ち、ジョディーが秋野に怯えているのに気が付いて初めて、ジョルジュの心の海底に燻っていた火がチロチロと舌舐め擦りを始めた。死者の日が近付くにつれて、イザベルの最後の頼みを叶えてあげられなかった苦い記憶が蘇ってきた。ジョルジュは復讐の機会を窺った。殺してやろうと思った。思惑を悟られないように日々を送るのは大変な努力を要した。秋野が日本の友人を連れてくるために村を離れた時は取り逃がしたかと思って気が気ではなかった。その後友人とやらを伴ってしっかり戻ってきていたのでほっとし、神への感謝を示すために「カンパイ」をした。その後秋野は失踪した。
 ジョルジュは秋野の行方を知らないと言う。津島は娘の魂の行方を知らないと言う。ジョルジュはいささか語気を強めて「その、カメラという道具の中に人間の魂を吸い込んで、その人間を絵にしてしまうんでしょう。それくらいは知っているぞ」と指摘した。イザベルが「わたしのお墓の前であなたがジョディーに何をしたか、わたしは最初から最後まで見てました」と予想外の方向から助け舟を出す。それを聴いたジョルジュは殴りかからんばかりの勢いで「おまえたち日本人は……俺から何もかも奪う。絵を返してくれ。娘の魂を封じ込めた絵を!」と迫る。津島は明らかに挙動不審になりながらも「絵のことなんて知らない」と頑張った。ここで画像の存在を認めてしまうと墓地での一件も認めることになると思ったからだ。ジョルジュは「昨晩タリアおばさんが訪れてきて、娘の魂はあの日本人が握っていると言っていた」と決定的な証言を挙げて一歩も引かない。津島は返す刀で「実は俺もタリアおばさんに会った。消すように脅されたから消した。嘘だと思うんなら直接訊いてみろ」と応じる。
「なら、なんでさっきは絵のことなんて知らないと言った。」
 津島は流し目でジョディーを盗み見てから、「おまえの娘が拙い英語力のせいで翻訳をミスしたんだろうよ。画像は消した」と大胆なことを言って退ける。津島のこの言葉をジョディーが正しいスペイン語で翻訳したのはシュールだった。当事者が双方の言い合いを翻訳しているのは名状しがたいほど皮肉な状況だった。
「ならばなぜ娘の魂は娘の中に戻ってこない。カメラの中身を見せてみろ」という段になって津島は少し言葉に詰まった。「見せてもいいが、そうすると、奥さんを蘇らせる魔力がこのカメラには無くなるぞ、それでもいいのか」と、滅茶苦茶な言い訳をした。今度はジョルジュが言葉に詰まった。信じられないことに効いていた。
 ジョルジュは急に元気を喪失して、頭を抑えて呻った。「妻が生き返るかも知れないなら、お願いだ。やってくれ。頼む。俺の魂を妻に分け与えてもいい。どうすればいいんだ。」
 津島は面食らいながらもここが先途と無茶苦茶を押し通した。「おまえと奥さんを同じ写真に収める。そうすればおまえの魂は引き抜かれ、このカメラには魂が1個入ることになる。そうしてその写真を削除すれば、魂が1個解放され、写真の被写体それぞれに返される。つまり、それぞれに半分ずつ還元される。おまえと、おまえの奥さんに。」
 ジョルジュは理解に苦しんでいた。津島は自分の思い付きを揺るぎない理論にするため自己暗示をかけるように繰り返した。
「おまえと奥さんを一緒に撮影する。な。そうすると、おまえの魂が引き抜かれてこのカメラに魂が1個入ることになる。な。おまえは一度死ぬ。な。ルイーザだっけ、インディオのおばあさんみたいに一度死にかける。な。で、そうなってから、写真を削除する。そうすると、写真に封じ込められた魂が1個解放される。さっき吸い取ったおまえの魂。な。その魂が、写真を撮られた人物へ戻る。ルイーザもそれで生き返った。な。カメラの中の魂が、撮られた人たちの元へ戻るの。な。撮られた人たちってのはつまり、おまえと奥さんな。その人たちに1個の魂が、半分半分に分割されて返される。おまえに半分、奥さんに半分。な。つまりまとめて言うと、まずおまえの魂を1個カメラの中に吸い込んで、その後すぐ魂を解放して、おまえと奥さんとに半分ずつ戻すと。わかったか。」
 自信は無いようだったがジョルジュは頷いた。こんなハッタリが通用するとはとても思えなかったが、津島はカメラを夫婦に向けた。ジョルジュは少し緊張気味に背筋を伸ばした。死ぬほど恐がっているようでもあった。が、決意したように、イザベルに濃厚な接吻をした。それは激しい後悔の念を今こそ精算しようとするような神々しいまでの真の愛情表現だった。津島は、どんな詐欺師でもかつて味わったことの無いような罪の意識に押しつぶされそうになりながら、黙ってそのキスシーンを、撮影した。
 ジョルジュはイザベルの前歯から唇を離した。窓から飛んできた甲虫がイザベルの目玉の無い眼窩に止まり、そこから涙が一粒流れ出た。ジョルジュの顔はこれまで見せたことのない厳しい表情で硬化していた。津島は身震いをしてカメラを手から滑り落とした。ジョルジュは立ち上がり、口の端から糸を引きながら、津島の右手を両手で取った。堅い握手を猛烈な勢いで上下に振った。「グラシアス、グラシアス!」と叫び、何度も何度も感謝した。「アリガトウ、アリガトウ。」抑揚の無い声でジョディーが翻訳し続けた。ジョルジュはシャツを脱ぎ捨ててイザベルを抱き上げ、茫然とする津島をその場に残し、寝室へと駆け込んで行った。焦点の定まらぬその目はもはや正気を失っていた。寝室の入口に右足首の骨が落ちた。戸が閉まり、奇声が聞こえ始めた。ジョディーが津島を見た。やっとその存在を認めるように、津島の目を見つめた。下唇を噛み、静かに涙を流した。



 津島は自分の部屋で荷物をまとめ、ハンガーに掛かっているタオルを感慨深げに眺めた。結局ジョディーに返せなかった。首に巻いてみて、匂いを嗅いだ。とそこへ、唐突に秋野が帰ってきた。失踪した時とは違う服装だった。どうしたのか、何があったのか、興奮しきった津島は矢継ぎ早に質問を投げ掛けた。秋野は「ちょっとな」とだけ言って教えてくれない。それは、空港へ向かうタクシーの中でも、飛行機の中でも、日本に戻ってきてからも同じで、今になっても、教えてくれない。
 津島は質問するのをあきらめて今度は自分の現状を訴えるような口調で説明し始めた。秋野はしばらく腕を組んで聴いていたが、中途で遮った。部屋に戻るとすぐにリュックを背負い、「行くか」とウインクしてみせる。部屋に残っている物は持って行かないのかと訊くと「どうせゴミだから」と答えてすたすたと宿を出た。津島は来た時のままの格好にタオルを加えて彼の後に従った。
 二人はメキシコシティでルチャリブレを観戦した。華麗な空中技に魅了されながら、ヨシヒコという日本のレスラーの話題で盛り上がった。
 閉店の時間である。朝になった。外は寒そうだ。津島は喋り疲れたのかうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。俺は彼の携帯電話をちょっと拝借し、メキシコ料理屋で交換した連絡先を消去した。原野くんの電話番号も登録されていたのでそれも消去した。煙草に火を点けた。酔っ払いの話だからどこまで本当か真偽は定かではないが面白い話だった。煙を天井に向けて吐き出しながら、下目で津島を見下ろした。一本吸い終わっても津島は起きなかった。酔った勢いに任せてデジタルカメラの画像を全て削除した。飲み残した大量の酒全てを彼のコートにたっぷり染み込ませ、伝票を押し付け、俺はひとり「プードル・ロッキン」を出た。(完)


創作秘話
 イームズのDVDに収録されている『死者の日』を観て、以前からメキシコを題材にした小説を書きたいと思っていた。そこへ、あらかじめ頭の中に用意していた素材(各エピソード)をちりばめた。Gorky's Zygotic Mynci『Spanish Dance Troupe』の曲目に沿って構築した。創作の原動力としての制約である。書き始めてから物語は徐々に変形していった。取り分け、最後に思い付いた「デジタルカメラを次々に盗まれるエピソード」が軸となって良い形にまとまった。
 異なる時空間が混在するスタイルはリョサ『緑の家』を参考にした。ニューオリンズのプールバーの名前はこの小説に由来する。また、津島と秋野とアンセルモの名もこの小説から採った。作中に登場する日系人フーシアのモデル──実在したトゥーシアという日本人は、漢字にしたら津島だったのではないかと思ったのだ。秋野はフーシアの相棒でありフーシアの息子の名の由来でもあるアキリーノから。アンセルモは『緑の家』では盲目のハープ弾きである。フランク・ザッパの自伝に、ベースの音が好きでたまらない人種について書かれていたのを参考に耳の聞こえないコントラバス奏者を着想し、そこにアンセルモの名前を頂戴した(『緑の家』経由でコントラバス奏者をでっち上げたわけではない)。
 ジョルジュ・サルマナザールは台湾の偽誌を捏造した実在の男の名から。サンタ・カベザはカプコンのゲームソフト『デッドライジング』から。イザベルは、ジョン・レノンが『ストロベリーフィールズフォーエヴァー』を作った地サンタ・イザベルから。ロビーのガラクタはゴーキーズの「12 Impressionistic Soundscapes」に含まれる12の小品を和訳した。ジョディーは同じくゴーキーズの「Freckles」の歌詞中のJody Brown eyesから。宿の名前「ラ・メンティラ」はスペイン語で「嘘」。
 手荷物の輸送受付所でチューバを弾く男は、エルンスト『百頭女』の絵をそっくりそのまま写生した。T.J.エクルバーグはフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』に出てくる看板から。墓碑銘のスペイン語はロックスターのテレビゲーム『レッド・デッド・リデンプション』を参考にした。豚や牛の頭を使ってウナギを獲る漁はライン川で実際に行なわれているらしい。ヨシヒコは日本のDDTというプロレス団体に登場するダッチワイフで、相手のレスラーは空気人形相手に技を食らう演技をする。
 あとはなるべくメキシコの風俗の実際をマジックリアリズムの筆致で忠実に描いた。



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