とりぶみ
実験小説の書評&実践
プロフィール

  • 執筆陣紹介

    大塚晩霜
    原作/草稿担当。

    大塚晩霜
    推敲/編集担当。

    大塚晩霜
    昼寝担当。



過去記事



最新記事



最新コメント



RSSフィード



検索フォーム



リンク



【小説】石川一全歌集(後編)   (2015/02/14)
「啄木以後(晩年)」
原稿用紙264枚
(一)ニート生活
(二)『あこがれ』を携えてふたたび東京へ
(三)新婚生活
(四)小学校に就職
(五)北海道
(六)小説家シボウ
(七)朝日新聞入社
(八)一握の砂
【略年譜】
石川一全歌集




【石川一の人と文学②
啄木以後(晩年)】

(一)ニート生活
 父に連れられて渋民村に帰ってきた石川は、心身共に深いダメージを負っており、しばらくは腑抜けのようになった。眼病のため眼鏡を掛けるようになった。ガリガリに痩せていた。
「メガネさえ掛ければ/頭がよくなると思いて/買いし鼻メガネかな」
「シモネタの似合わぬ清い/良いメガネ男子に憧れ/徹夜でゲーム」
 前途洋々たる気持ちで向かった東京にあえなく惨敗。将来への展望などまるでなく、未来は暗闇。このときばかりは自信家の石川も鼻っ柱をへし折られた。学ばず、働かず、就活せず、高等遊民の状態になった。「高等遊民」と言えば聞こえは良いが、実際にはニートである。ニートの状態になった。
 当時のことを石川はこう振り返る。
「私は十七歳の年、学途半ばにたもとを払って、盛岡の校舎を退き、瓢然として希望の影を追うべく東京に走りました。詳しい事を申し上げるのは失礼にあたりましょうから、申しますまい。ただその数箇月の間に、他人が五十年もかかって初めて知る深酷な人生の苦痛を、鋭く胸に刻みつけられたのです。」
 石川は自宅宝徳寺で無為に過ごした。友達とも会わなかった。堀合節子とも会わなかった。自室から庭を漫然と眺めたり、漫画を読んだり、ワイドショーを観たり、毎日おなじことの繰り返しだった。気鬱のひどい日には食事と便所に立つ以外は布団の中でブツブツ独り言をつぶやいた。正真正銘の引きこもりであった。
邦人くにびとの顔たえがたく卑しげに/目にうつる日なり/家にこもらむ」
「一日を無為に過ごせど/苦にならぬ/薄き人生なれてきており」
「わが泣くを少女等おとめらきかば/病犬やまいぬの/月に吠ゆるに似たりというらむ」
「すっぽりと蒲団をかぶり、/足をちぢめ、/舌を出してみぬ、誰にともなしに。」
「いと暗き/穴に心を吸われゆくごとく思いて/つかれて眠る」
「目さませば、からだ痛くて/動かれず。/泣きたくなりて、夜明くるを待つ。」
「目覚めたら背が痛むので/鏡見き/誰かに腎臓摘出されたり」
「死ぬことを/持薬をのむがごとくにも我はおもえり/心いためば」
「もし明日我が死しても/この地球/その回転を止めざらむべし」
 石川は停滞した。父は何も言わず息子の回復を見守った。石川の心の傷が癒えるにはただただ時間が必要だった。折れた骨を治すのには、接骨院の施術よりもその後の経過の方が大切なのと同じように。
「よく怒る人にてありしわが父の/日ごろ怒らず/怒れと思う」
「父母の/あまり過ぎたる愛育に/かく風狂のとなりしかな」
「親と子と/はなればなれの心もて静かにむかう/気まづきやぞ」
「親と子が同じ番組観ていたり/それぞれの部屋/別のテレビで」
 不満の捌け口に窮し、よく癇癪を起こした。当時は高価な貴重品だった時計や電話機を庭石に投げつけて壊したりした。
「まれにある/このたいらなる心には/時計の鳴るもおもしろく聴く」
「永しえに鳴りてやまざる音楽を聞けと時計を指さしていう」
「見ておれば時計とまれり/吸わるるごと/心はまたもさびしさに行く」
「庭石に/時計をはたとなげうてる/昔の我のなつかしきかな」
 雨が降れば雨に感情移入をした。口をぽかんとひらいたまま、糸のような雨を見つめ、屋根を叩く雨音に聴き入った。
「曇天が/我の心にそっくりで/この世界をば手に入れし気分」
「突然の雨に降られし女生徒に/傘傾ける/妄想止まず」
「パラパラとトタンの屋根にふり来る雨に驚きその手はなしき」
「ばらばらとトタンの屋根に雨来る傘なき男駆け出せ駆け出せ」
「たんたらたらたんたらたらと/雨滴が/痛むあたまにひびくかなしさ」
「雨落ちる/雲は落ちざるその違い/自殺志願と飛行願望」
「雨上がり/くっきりとした虹を見ても何も感じぬ/老成せし余」
 石川が絶望のどん底から頭をもたげるには、三ヶ月近くの月日を要した。服用する薬は母が医者から貰ってきたが、母の手を煩わせるのに気が咎め、自分で医者に行くようになった。阿片チンキにまた手を出した。
「心臓がポンプとなりて/全身に毒を送らむ/二の腕の穴」
「ココロ売る/するとスベテが味気なし/舌なき口の食事のごとく」
「語り合う/水タバコを吸う芋虫と/いけないクスリで気持ちよきとき」
「何処やらむかすかに虫のなくごとき/こころ細さを/今日もおぼゆる」
「ストローが/触手伸ばして胃を撫でて/吸い上げし液舌に転がす」
「泣けてきてそっとつぶやく/『ありがとう』/ワグネルの鳴る蓄音機に。」
 五月下旬になってようやく、『ワグネルの思想』という評論を書いた。翻訳は挫折したので今度は評論で世に出ようと目論んだのである。「ワグネルって何だろう?」ワーグナーのことである。「ワーグナーって、作曲家の?」そのワーグナーである。「啄木はワーグナーの曲を聴いてたの?」これに関しては、「あらえびす」の筆名で音楽評論も書いていた野村長一の文章を引こう。
「私より一年下の級で中学の五年になったばかりの啄木は、その年の五月(ママ)、中学を飛出して、私共の後を追って上京して来たのである。(略)『ローエングリン』であったと思う、ワグナーの劇詩の英訳が、読みさした頁を開いたまま置いてあった。(略)『こんなものを読んだって仕様が無いじゃないか、ワグナーは作曲者だ、音楽を抜きにしたワグナーなどは意味が無いよ』と私が一とかど物識ものしりめかして言うと、『それは違う、ワグナーは作曲者ではあるが、ドイツでも一流の劇詩人だ、僕は文学としてのワグナーを味読して居る』啄木は昂然としてこう言うのである。」
 『ワグネルの思想』は五月三十一日から六月十日まで『岩手日報』に七回に分けて掲載された。当初の計画ではワーグナーに関する壮大な評論となるはずだったが、石川生来の飽きっぽさから未完のまま中断した。しかしこの評論を書いたことは無駄ではなかった、再起のきっかけとなったのだから、と、言えれば良いのだが、実際には何にもならなかった。実のところ石川が独力で生み出した評論ではなく、ネタ本からの引き写しだった。書かれても書かれなくても彼のキャリアに反映しない、毒にも薬にもならない、黙殺しても一向に構わない作品である。
 石川は再び死んだようになった。彼が文筆活動をぼちぼち再開するのには盛夏を待たねばならない。表舞台に出るにはさらに冬を待たねばならない。『ワグネルの思想』以降、半年に及ぶ引きこもり生活に舞い戻った。それほどまでに、東京が彼に与えた傷は深かったのだ。
 石川は阿片の過剰摂取で幻覚を視るようになった。中毒になりかけていた。医者から処方を中止された。
「アルコオルニコチン水銀食活字/種々の中毒/世に数あれど」
「しっぽ立てシュウシュウと鳴く猫のいて体を畳みとぐろを巻きぬ」
「薄暗き礼拝堂で血まみれの大型バスを蛇行運転」
「生けるまま脳をスプウンですくわれておかげで嫌な記憶が消えり」
「丸々と肥りし豚の大群が国道走り幼女をはねき」
「漏電する高圧線に絡まりし子供の死体放置三日目」
 阿片の服用を止めたからといって、すぐに幻覚が終わるわけではなかった。禁断症状に大いに悩まされ、眠れぬ闇を幾夜も過ごした。ただし、医者の賢明な判断がもうちょっと遅れていたら、ただでさえ短い彼の寿命がさらに縮まっていた可能性もある。石川愛好家はこの医者に感謝せねばならない。
「白馬にまたがりてゆく赤鬼の騎兵士官も恋せしあわれ」
牛頭馬頭ごずめずのつどいて覗く大香炉中より一縷白き煙す」
「現実と非現実との/その淡い境をまさに/壊すカササギ」
「わがかぶる帽子の庇/大空を覆いて重し/声も出でなく」
「炎天の下/わが前を大いなるくつ/ただ一つ牛のごと行く」
「百万の屋根を一度に推しつぶす/大いなる足/頭上に来る」
「階段を/登りたるのに降りてあり/何言いたるかわからざらむや」
 夏になると石川は阿片の呪縛を次第に振りほどいた。中毒症状の改善と共に心も回復し、友達と会ったり、堀合節子と会ったりするようになる。
「藻外が好きな音楽みな自殺せしアアチスト心配になり」(※「藻外」は瀬川深の雅号)
「藻外の趣味はベンツのエンブレムコレクションなり今日もへし折り」
「停まりたるベンツにもたれ記念写真/ボデエへこみぬ/逃げろすたこら」
「残紅は荒巻鮭の身を食べずイクラ掻き出すまるで熊かな」(※「残紅」は岡山儀七の雅号)
「鈴なりの鈴が鳴るなり熊よけの/それにつけても/金の欲しさよ」
「おい小池!おい!おおい!おい!おい小池!おい!おまえ!おい!おまえだよ!おい!」
「ほくろからヒゲの伸びたる早乙女やあれはやっぱり育てたるかも」
「くしゃみして鼻毛飛び出す/舌先に届くくらいの/成長株が」
「『右だって。もっと右右あー左!』/茂雄の寝言/なんだったんだろ」
「頼まれて/犬の名前を考えぬ/『国民の生活が第一』」
「飼い犬を呼び/『国民の生活が第一、お手!』と言えば/お手する。」
「『ワンワンの入国を禁ず──世界王』陸橋下の壁の落書き」
 東京時代に患った虫歯を治すため歯医者に通院した。診察の待ち時間を利用して少しずつ詠歌を再開した。
「歯医者にて長い長あい待ち時間/歌を詠みつつ/ドカベン読破」
「小さくも吾は芸の子/詩の愛児/歌わば足らん君に相似る」
「痛む歯をおさえつつ、/日が赤赤と、/冬のもやの中にのぼるを見たり。」
「しょうもなき短歌を並べ/自己満足/自家薬籠中の皮つるみかな」
 人と会う気力のないときは寺の周りの林を散歩した。木々が減っているのに気付いた。それが何を意味するかはこのときの石川には知る由もなかった。
「大木の枝/ことごとくきりすてし後の姿の/寂しきかなや」
「ふるさとの目に親しめる栗の木の消えて失せるを寂しと思う」
「むき出しのひりひりとした/感情が/空気が動くだけで痛むの」
 小林茂雄から、励ましのプレゼントとして、『SURF AND WAFE(波濤と波)』という詩集をもらった。アメリカの女流文学者によって英語で編まれた、海に関する詩を世界中から採録した詞華集だった。この詩集に深い感銘を覚えた石川は、気に入った英詩をノートに丁寧に書き写した。また、自身も海を題材にした日本語の新体詩を作り、同じノートに書き綴った。『EBB AND FLOW(干満)』という題名がつけられたこのノートは、誰に読まれるわけでもなかったが、石川の創作意欲を焚き付けたき火として、『ワグネルの思想』よりも評価して然るべき文献である。
「止めどなく溢れる言葉/垂れ流す/まったく誰も読む人いねど」
「知り合いに読ませられざる/拙さの/日本語の詩を晒す気安さ」
「まめまめしく文通をせし我が友よ/『相手は我ぞ』/いつ切り出さむ」
 『干満』を一冊の作品として仕上げた石川は、短歌よりも新体詩を作ることに情熱を傾けるようになる。その情熱はやがて実を結び、十一月はじめ、石川白蘋は東京新詩社の同人に正式に推挙されることとなった。これで発奮した石川は、「杜に立ちて」「啄木鳥」「隠沼」「白羽の鵠船」「人に捧ぐ」の長詩五篇を書き上げ、まとめて「愁調」と題し、東京新詩社の与謝野鉄幹に郵送した。この長詩群は『明星』十二月号に掲載された。このとき、最も出来映えの良かった「啄木鳥」の詩にちなんで、鉄幹が石川の署名を「石川啄木」にした。歌人白蘋との訣別、詩人啄木としての再出発である。
「じっとして、/蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる/心もとなさ!」
「何となく、/今朝は少しく、わが心明るきごとし。/手の爪を切る。」
「ここにいる/昨日今日明日ここにいる/過去も未来も別世界もなし」
「その時は思い上がりし翠江の/名をば捨てけむ/羞恥心から」
「啄木鳥は何の鳥ぞも千代かけて歓楽山の山の辺に住む」
「人生は『もうだめだ』てうことはなし。/今日は負けても/明日勝てばよし。」
「人生は一発勝負にあらぬべし/良き日もあらば/悪き日もあり」
「喜んで怒りて泣きて/また笑う。/それが人生なんじゃないかな。」
 一九〇三年は、石川のこれまでの人生のうちで、最も暗い一年であった。出口の見えないトンネルのようであった。このとき石川は齢十七、青春を謳歌すべき一年を棒に振ってしまったが、しかし安心してほしい。晩年はもっと暗くなっていく。
「行く年の鐘なる夜の/冬の守/髑髏がうめく荒墓に似る」
「新年の御慶謹みながら賀し奉り候/ソロ/早漏」
百年ももとせの長き眠りの覚めしごと/呿呻あくびしてまし/思うことなしに」
「天よりか地よりか知らず唯わかきいのちむべく迫る『時』なり」
「大鐘を海に沈めて/八千潮に/巨霊呼ぶべき響添えばや」
 一九〇四年、新年を迎えて心機一転、『甲辰詩程こうしんしてい』と題した日記を付け始める。正月元旦の記述はかなり長い物である。その中の一説に「ああ新しき年はきたりぬ。永き放浪と、永き病愁と、永き苦悩のなみだにうち沈みたる我精神はかくて希望の大海に舟出せんとするの時をえたり」とあり、彼の精神状態が快方に向かっていることが窺える。この日発行された『明星』には「森の追憶」が載り、岩手日報には「詩談一則」が掲載された。前者は長詩、後者は野口米次郎の詩集『東海より』に対する書評。『東海より』は野口が前年の一月にロンドンで自費出版した『FROM THE EASTERN SEA』を同年の十月に冨山房が翻刻出版したもの。石川はこの詩集にたいへん感心していて、書評が出たあとも繰り返し『東海より』を再読している。
 一月六日、東京から届いた阿部修一郎からのハガキによって、阿部の姉が死んだことを知った。阿部は両親をすでに亡くしている。この日石川は阿部の境遇を案じ、熟睡できなかった。
 八日、阿部の姉の葬儀に参列した。葬儀のあと、田村邸(姉サダの家)で堀合節子と会った。五時間話し込み、一発ヤッた。翌々日も田村邸で逢瀬を重ね、「未来を語り、希望を談じ、温かき口付けをうち交わしつつ話は絶え間なく続いた。詩・音楽・宗教の区別もなく、くつろいで話し続け、話題が尽きると無音の語が各自の瞳に輝いた」一発ヤッた。二人の仲はもはや夫婦同然となっていた。まだ結婚していないのに日記中において「ああ我けなげの妻、美しの妻、たとえ如何なる事のありとて、我らは終生の友たる外に道なきなり。さなり、愛なくして我は如何にして生くべきや。ああこの一問はやがて我終生の方針なり、理想なり、希望なり。」「望む者は遂に得るの期あらん。愛する者は遂に合うの時あらん。(略)二人の瞳仲々に離れず、はるかに我は我が妻を、彼は彼が夫を見やり見かえしたり」と書いている。石川は依然としてニートだったが、啄木と号してから俄に文名も上がってきていたこともあり、一刻も早い入籍を望んでいた。
「水虫を/むしりておらば手も感染/斯くな右手であの娘と握手」
「包帯に血を滲ませるそのごとく/色白の子の/赤面せしや」
「生卵生麦生米生ビール/生が一番/ゴムは二番」
「文明堂カステラ一番電話二番/生が一番/ゴムは二番」
 一月十四日、金矢七郎が遊びに来た。信濃で一人暮らしをする計画がうまくまとまったのを報せに来たのだった。親元を離れて自由を獲得する嬉しさと、冒険への期待。石川と金矢は互いに喜び合い、詩を応酬した。
 とそこへ、姉のサダから一通のメールが届いた。堀合節子との婚約がまとまった、という内容だった。石川は狂喜した。待ちに待った吉報であると同時に、降って湧いた望外の喜びでもあったのだ。「希望の年は来た」と、金矢と一緒になって絶叫した。石川は読み飽きた『SURF AND WAFE』を餞別として金矢に与え、見返しに「じめ・節子」の連名で献辞を書いた。金矢は石川の部屋に泊まった。真夜中過ぎまで話し込んだ。その夜、二人は幸せな夢を見た。
「地に理想/天に大日の/まばゆき世に眩ゆき希望の春を迎えぬ」
「若うして愛の宮居にいつく子は/眩ゆき詩もて/君を送らん」
「世界一の美女では確かになけれども/おまえはやっぱ/俺一の美女」
「港の夜/花火が上がるそのたびに/浮かぶふたりのシルエットかな」
「君が名を七度ななたびよべば/ありとある国内の鐘の/一時ひとときに鳴る」
「口説くなら/押せ押せ押して押しまくれ/押尾学の押しを学ぼう」
 その後石川は、アメリカに居る野口米次郎に手紙を書いたり、詩を作ったり、幸福の絶頂にある自分と不幸のどん底にある阿部修一郎を比較して泣いたり、学校でオルガンを弾いたり、講演で村を訪れた博士とビールを飲んだりしたが、普段はニートらしい起伏の無い生活を送った。「せつ子の君」などと崇拝していた堀合節子を「せつ子」と呼び捨てで書くようになった。
「飴売のチャルメラ聴けば/うしないし/おさなき心ひろえるごとし」
「唯一のピヤノの持ち曲/チャルメラの/ドレミーレドドレミレドレー」
「『ヒロシマの犠牲者へ』のフルスコア/最終頁/真黒墨塗り」
「『わたくしのお墓の前で泣かないで』/うろ覚えゆえ/歌謡曲風」
朱絃しゅげん兄の放歌高吟耳障り/弾けぬアコギを/じゃかじゃか鳴らす」(※「朱絃」は金矢七郎の雅号)
「引退し牛の世話せし闘牛士マイルス聴きて牛を刺殺す」
「ロビンソン/終わりて部屋が静寂に/無性に女を抱きたくなりぬ」
 二月八日、日露戦争が始まった。将来の夢が軍人だった石川も、日本軍快進撃の報に興奮した。『戦雲余録』という評論を書き下ろして岩手日報に連載した。義戦論であり、「ロシアの水飲み百姓にとっても、日本の文化発展にとっても、共に有益な戦争だから大いにやれ」という内容。また、社会主義者である幸徳秋水の言説に対しては「今の世には社会主義者などと云う、非戦論者があって、戦争は罪悪だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある」と批判している。六年後の一九一〇年、大逆事件の際には幸徳秋水たちに篤く同情することを考えると、この批判は興味深い。
「残雪を/丘の上から見下ろせり/これこそ坂の下の雲かな」
「謙信の一撃防ぎし/軍配は/ダイヤか何かで出来てありしや」
「あの島で/実験すればよかれかし/地図から消えるほどの水爆」
「正念場重馬場重傷愁嘆場/屁をつっぱりし/馬クソぢから」
 三月、新郎となるべき石川はいまだニートであったが、新婦となるべき節子は就職が決まった。岩手郡滝沢村立篠木小学校の代用教員となり、自立したのである。月給五円ではあったが、無職の新郎よりマシなのは無論である。石川は詩や評論の方面に少し希望が出てきたが、所詮はアマチュアであり、原稿料をもらったことはなかった。それでも実家・宝徳寺のおかげで悠々自適な生活を送ることができていた。
 岩手日報社が石川を社員として迎えようとする動きもあったが、半年間は何事もなく打ち過ごした。夜遅く床に就き午前十時まで寝ている毎日だった。
「昼下がり/ショーンタンの『アライバル』眺めてありき/背筋ぞくぞく」
「こんにちはいただきまうす/こんばんはごちそうさまです/おやすみなさい」
「『今日一日どんな日だった?』『別に普通』/それも良きかな/普通の日々も。」
「コロコロを卒業しよう/俺ももう/そんな年でも最早ないから」
「テレビから舞踊家の臥し/基準値を越えぬ程度の/興奮の野次」
「一二三/指揮消防車リズム取る/町内合唱犬の遠吠え」
「三連休どこへ行かむや家族会議/議論白熱/今年もジャスコ」
「今日ひょいと山が恋しくて/山に来ぬ。/去年腰掛けし石をさがすかな。」
「青草の土手に寝ころび/楽隊の遠き響きを/大空から聞く」
「青草の床ゆ/はるかに天空の日のしょくを見て/我が雲雀ひばり病む」
「茫然として見送りぬ/天上をゆく一列の/白き鳥かげ」
「窓硝子/塵と雨とに曇りたる窓硝子にも/かなしみはあり」
「この闇にこの火と共に消えてゆく命と告げば親は泣かむか」
「園芸を趣味とせし母/植木鉢/自分で増やし忙しがりており」
「起きてみて、/また直ぐ寝たくなる時の/力なき眼に愛でしチュリップ!」
「いつなりとも死ぬ可能性あるべけれど/生きる確率/死ぬより高し」
「ひとしきり静かになれる/ゆうぐれの/くりやにのこるハムのにおいかな」
「ほほけては/藪かけめぐる啄木鳥の/みにくきがごと我は痩せにき」
「三枚の羽根を盤へと歌い上げし/扇風機くん/また来夏まで」
「今日/九月九日の夜の九時をうつ鐘を合図に/何か事あれ」


(二)『あこがれ』を携えてふたたび東京へ
 優雅な暮らしによって心身の病を癒やした石川は、これまでに書いた詩をまとめ、世に問うことを思い立つ。『明星』『帝国文学』『時代思潮』『太陽』『白百合』などに発表した既存の作に加え、未発表作、書き下ろし作の原稿をまとめ、浄書し、これを東京で刊行しようと企てた。
 初めは父に泣きついてみたが、父には出資を断られたので、姉のトラに出版費用を借りようと思い付いた。姉夫婦は、国鉄に勤める夫が上野駅から小樽中央駅に転勤していたので、今は北海道に住んでいた。石川は九月二十八日に渋民村を出発し、電車・フェリー・貨物船を乗り継ぎ、十月一日に目的の山本宅に到着した。しかし姉は病中であり、金銭面に余裕はないということで、石川の申し出を断った。石川は愕然とした。この詩集が刊行されればたちまちベストセラーとなり、我が一族は大金持ちになれるのに。石川には父や姉の貸し渋りがどうしても理解できなかった。
 しばらく山本宅で寝起きをし、十月十九日に渋民村の自宅に帰ってきた。一週間、策を練った。が、どうしても他に良い案は浮かばない。この天才の書を刊行さえできれば、巨万の富が転がり込むのはほぼ確実。姉の快癒を待ってから、お金(出版費用・交通費・滞在費)を貸してもらうべきか。いや、出版するなら今だ。今しかない。渋る父を何とか説得し、交通費と雑費だけ工面してもらい、十月二十八日、一路東京を目指した。石川を完膚無きまでに叩きのめした、夢の都・魔都・東京を。
「ふるさとの土をわが踏めば/何がなしに足軽くなり/心重れり」
「我が寺の本堂全てを針で満たし/その針の数の/金を寄越せよ」
「父と我無言のままに秋の夜半ならびて行きし故郷の路」
「カリプソの流れる部屋でカクテルを飲みたくなりぬ肌寒き夕」
 どうにかなると思った。宿代が心配になれば在京の友達を頼ればよい。詩集さえ売れれば今までの負けは全て取り返せる。めざせ逆転満塁ホームラン。彼は楽天的だった。
 十月三十一日、上野駅に到着した。東京はさらに発展していた。駅舎は鉄筋コンクリートの近代的な外観となり、駅前のロータリーでは自動車がたくさん走っていた。
「鉄道のガード下住む老人に/ちり紙そっと/差し入れる人」
「浮浪者の段ボール製の御殿へと/ゴミ差し入れる/いじめられっ子」
「浮浪者や/いつの間にやら退去せり/体動かず亡くなりぬるべし」
「標準的御老人から/発せらる/防腐処理後の波動について」
 石川は抗いがたい東京の魅力を間近に感じつつ、下宿を探した。向ヶ岡弥生町三丁目の村井さんのお宅に下宿した。家賃はまたも踏み倒すつもりだった。
 珠玉の原稿を携え、石川は出版社を手当たり次第に訪問した。そのエネルギーたるや凄まじかったが、彼の熱意に反して書肆の反応は冷ややかだった。石川は、自分が思っているほど「啄木」が有名ではないことを思い知らされた。膨らんだ風船が日ごと萎んでいくように、彼の情熱も萎えていった。東京はまたしても彼を廃人同様にしてくれるのだろうか。
「わが和歌は粗製乱造/その謗り免れまいが/だからどうした」
「この御代は選び放題/エンタメを/わかりづらければ黙殺さるる」
「口当たりまろやかなりしモノばかり歓迎されむ今の世の中」
「他に合わせ/孤高の山を降りるべし/例のニイチェのゾラスタのごと」
「さわやかな歌/歌いたく/とりあえずチュウインガムをひたすらに噛む」
 一週間後には、下宿代を払う気が無い(払う能力が無い)ことを村井さんに見破られ、仕方なく、神田駿河台袋町の養精館というウィークリーマンションに間借りすることになった。ここの家賃は先払い。石川は三週間分の家賃を支払い、引き続き出版社探しに奔走した。芳しい成果は挙げられなかった。
「いつまでも文語を使う/俳壇や歌壇は/百年遅れ取りたり」
「口語より文語の方が簡単な/散れる日本語/エントロピーよ」
「『恋捨てふ』を/『コイスチョー』へと改めて書けと脅せし/仮名調査会」
「マジぶっちゃけ/もっと気楽な口調でさ/和歌を詠めたらいいなと思うよ」
 養精館の家主・井田芳太郎は、都合により養精館を閉鎖し、居住者たちを自宅に下宿させることにした。十一月二十八日、石川は牛込区砂土原町三丁目二十二番地の井田邸に引っ越した。大名屋敷のように広壮な邸宅だった。井田は青年の夢を応援したくなる性分であり、格安の下宿料で石川の面倒を見てくれた。格安だが、石川はちゃんと払わなかった。
「四畳半/襖の下の張り紙をめくりて読まば/『開かざる知性』」
「奇趣奇想練り文で掘る/極東のボルヘスなるや/神懸かる君」
「君の散文は一篇の詩ならむ/グロテスクな美/鏡花の如く」
 詩集を刊行してくれる出版社はなかなか見つからなかった。詩集といえば平成の出版業界において最も売れないジャンルのひとつであるが、それは明治時代でも変わらなかった。石川の詩は少しずつ評価され始めていたが、それはごく狭い範囲内に限られるものであり、いわば身内の間で誉められている状態だった。世間一般から言えば地方出身の無名詩人に過ぎなかったのである。契約してくれる出版社などあるはずがなかった。
「惜しむらくは/彫心縷骨のその文は/長編物に不向きなりしか」
「現代の幾多の馬鹿の読めぬとも/媚び売るなかれ/未来が待てり」
「現状を/お悩みたもうことなかれ/どうせ未来に残るのだから」
 こんなはずではなかった。この珠玉の原稿をちらつかせれば、幾多の書肆が我先に飛び付いてきて、「私の所で出版させて下さい」「いや私の所で」と、熾烈な獲得競争が巻き起こるはずだったのに。石川は暗中模索のまま一九〇五年を迎える。東京で迎える二度目の正月。いつだって東京の正月はろくなことがない。
「歌作る田作る同じことといえば/農夫も怒り/歌人もいかる」
「よよと泣く/ことしも知らでいつしかに年は重ねぬ/悲しと思う」
「我悩む/実は才能なきかもと。/理解の浅き周りのやつらが!」
 そしてその頃、実家では大問題が持ち上がっていた。曹洞宗の『宗報』(全国の曹洞宗関係者に配られる会報)第百九十四号に、父一禎の名前が掲載されたのだ。「警誡処分(明治三十七年)」のコーナーに「免住職 宗費怠納 (十二月二十六日)石川一禎」と書かれていた。
「免住職って何だろう?」住職をクビになったのである。「宗費怠納って、何?」曹洞宗の本山に収めるべきお金を献上しなかったのだ。家賃の踏み倒しに似ている。「そんなに重罪なの?」同じコーナーを見ると、お堂が焼けちゃっても譴責処分で済んでいる。免住職になるのは最も思い罰であるから、相当な額を滞納しないとこうはならない。もともと渋民村の人口は少なく、よって檀家の数も少なく、つまるところ寺の収入も少なかったわけだが、滞納額は百十三円余。巨額である。「どうしてそんな額に膨れ上がるまで宗費を怠納したの? 啄木と同じ性格だったの?」石川と同じ性格だったというのもあるが、石川のためにお金を工面していたという事情もある。息子の天才を信じ、度重なる上京や遊行を許したのが、宗費怠納の一大要因だった。
 特に象徴的なのが、石川が東京で病に倒れたときのエピソードである。少し時間をさかのぼり、一九〇三年二月の石川一禎に注目してみよう。
 ──上京後しばらくして、息子石川からの音信が途絶えた。息子の友人の誰彼に訊ねてみるが、消息は一向に掴めない。一禎は気を揉んだ。厳しい父だったが、それは愛ゆえであり、一人息子のことが心配で心配でたまらなかった。来る日も来る日も郵便屋からもたらされるはずの手紙を待ち受けた。
 そこへ、待望の手紙が届いた。分厚い封書が。父母と妹の三人はその手紙を丁寧に読んだ。そこには病気のこと、それに伴う借金のことが哀切に綴ってあった。石川からのSOS。ギブアップ宣言。一禎は居ても立っても居られず、自らが上京して石川を連れて帰ることにした。
 しかし、寺に潤沢な貯金はなかった。住職とはいえ総本山に宗費を収めねばならない身であり、月々の払いをしなければならなかったので、余分な金など無かった。一禎は悩んだ末に、寺の裏山にある木々を無断で売ることにした。この林は言うなれば渋民村から預けられた借り物の林であり、石川家の固有財産ではなかったが、檀家への相談無しにこっそり売却してしまった。石川が「ふるさとの目に親しめる栗の木の消えて失せるを寂しと思う」と詠んだ情景は、石川救済のための資金づくりによって伐採された禿げ山だった。
 一禎はすぐさま駅までタクシーを走らせた。息子への盲目の愛に突き動かされ、寺の木を売るという禁じ手を使い、夜行列車に飛び乗った。手紙にあった通りの須田町の宿屋で、変わり果てた息子の姿を発見した。夜具の中で小刻みに震える、幽鬼のように痩せさらばえた石川を。石川は泣いて謝った。一禎は何も言わなかった。
 宿の支払いを済ませるため、一禎は部屋にメイドを呼び、高額紙幣を差し出した。メイドはそれを受け取ると、レジで会計をし、お釣りを持って戻ってきた。
 一禎はお釣りを受け取ろうと手を伸ばした。その瞬間、空気の読めない石川が「うん。これはおまえにやる」と言って、お釣りを全額メイドの手に握らせてしまった。きっと持ち前の虚栄心が働き、自分を良く見せようと思ったのだろう。君には僕の身なりが貧しく見えたかも知れないが、本当は御曹司なんだぜ、金持ちの御子息なんだぜ、と。
 一禎は「あっ」と思ったが、メイドは笑顔で御辞儀をし、チップを持ったまま部屋から出て行ってしまった。一旦は差し伸ばしてしまった手をどう片付けていいものやら、一禎は畳のゴミをつまむふりをしながら目を白黒とさせた。
 こうして石川は帰郷した。お釣りを受け取る気だった一禎の困惑にも気が付かなかったし、寺の財政が逼迫していることも知らなかった。父が自分のためにどんなに無理をしてくれたか知らなかった。後世から見ればあっぱれな豪傑ぶりだが、身内の者はたまらない。経済観念が完全に欠如していた。以上が一九〇三年二月の詳細である──
 時間を一九〇五年の正月に戻す。石川は東京新詩社の新年会に参加していた。経済観念が完全に欠如していた彼は、実家の財政難に気付くはずもなく、しかもその原因の一因が自分の遊蕩であることに思い至るはずもなく、酒を呑んだり団子を食べたり短歌を詠んだりしてはしゃぎ回っていた。新年会に参加したのは二十八名、錚々たるメンバーで、与謝野鉄幹・与謝野晶子・上田敏・馬場孤蝶・蒲原有明ら明治詩壇のスタープレイヤーばかり。石川はこの場に同席できる幸福に感激し、誰彼ともなく話し掛け、自分のデビューアルバムとなるはずのデモ詩集『沈める鐘』を聴かせて回った。みんな好意的な批評を述べてくれた。出席者二十名は終電前に帰ったが、石川は朝まで留まり、残った八名と徹夜で短歌を詠った。そこにはなつかしや白羊会同人の大井一郎先生も居た。
「ヨオデルで命乞いする人のいて激鉄に添う指が弛みぬ」
「『バカヤロウ』日本各地で怒られる/悪くないのに/ダンカンさんは」
「酒焼けのお聞き苦しき喉声でブルウズ歌いぬ石井柏亭はくてい
「伝統的やまとの謡い手/潮風へと向かいて絶叫/わざと喉潰す」
「しわがれし渋みある声/謡いでは評価されけり/深き声とぞ」
「日本の謡いの達人西欧ではsangerknotenてう病気なりけり」
「夏炉冬扇夜サングラス昼行灯/馬鹿文芸誌/馬鹿文芸誌」
「世をなみす酔歌つくると酒座のはて我れをとむらう挽歌はなりぬ」
「テッテッテ/テレッテッテレ/テレッテテ帰り道つい鼻唄が出る」
 渋民村の上空に立ち籠めた黒雲は、ゆっくり東京方面にも勢力を伸ばしつつあった。石川は近付く嵐には気が付かず天下の春を謳歌していた。特に一月十日付『岩手日報』に掲載された短歌「古三輪ふるみわを枕す僧は酔の禅酒あり壇の仏も招ぜよ」は図らずも、破戒僧の父に当て付けたような内容となっている。何も知らずいい気なものだという意味において、傑作である。
「居酒屋に飲みに出かけり/アルコオル飲めぬ金子きんすで/烏龍茶飲む」
「百年の孤独を舐めて酔いもせず/刹那のマコンド/月が沈みぬ」
「酔っぱらい/一人ぶつぶつ呟きぬ/耳を済ませばシシャモに愚痴れり」
「酔っぱらい/小さくなりて/酒の満つるコップの中に飛び込みてみる」
「マニエルなグスタフホッケ/居酒屋にありなむ名前/脂のるべし」
 処女詩集刊行への情熱は次第に鎮火していった。断られ続けたのでさすがの石川も気持ちが萎えた。自信が揺らぎ始めた。またもや東京に負けるのか。
「今日もまた酒のめるかな!/酒のめば/胸のむかつく癖を知りつつ。」
「しっとりと/酒のかおりにひたりたる/脳の重みを感じて帰る。」
「板塀に/神社のマークが書きてあり/逆に小便かけたくなりぬ」
「立ち小便/撒き散らして円を描く/滴ぞ飛ばし似顔絵とする」
「すっきりと酔いのさめたる心地よさよ!/夜中に起きて、/墨をるかな。」
 連日連夜友だちと呑みに繰り出した。もちろん友だちのおごりで。
「興来たれば/友なみだ垂れ手をりて/酔漢えいどれのごとくなりて語りき」
「電柱に湯気立ち上る/きっとあのサラリイマンの/出来立てのげろ」
「ほかほかと/湯気の立つなり/盛り場の電柱脇の尿に吐瀉物」
「もしかして便意こらえる人かしら/目をギュッと閉じ/忍者的指」
「ジョジョ立ちをしたる男の駅にいて/トイレの前で/便意こらえし」
「途中にて乗換の電車なくなりしに、/泣こうかと思いき。/雨も降りていき。」
 アルコールのおかげで現実を直視せずに済んだ。彼の自尊心は危ういところで崩壊を免れていた。石川が後年に詠んだ「我悩む/実は才能なきかもと。/理解の浅き周りの奴等が!」という歌はこの時の彼の心情をよく表している。実は思ったよりも自分には才能が無いかも知れない……と、一旦は弱気になるのだが、才能が無いのは自分ではなく世間一般の方だ! と開き直ってみせる。こうして内輪では盛り上がったものの実質的には目立った成果のないまま、上京してから五ヶ月が経過した。
「春ゆうべ/若き男はものずきに玻璃はりの管もて/アルコオル吸う」
「今日もまたおかしき帽子/うちかぶり/浪漫的が酒のみに行く」
「芥川の目の歯車を彷彿とさせる視界に浮く想い人」
「ゴキブリを/叩き潰せるスリッパで/同じにぶってぶッてぶッてぶって」
 五ヶ月間も実家の援助無しで、無職の若者がどうやって食いつないだのか。借金である。心の琴線に触れる手紙を書くことによって、友人だちから借金をしまくったのだ。特に、情け深い性格の金田一は格好のターゲットとなった。金田一は、返ってこないと知りながらも何度も石川一に金を貸し、自分の貯金が尽きると、親御さんに立て替えてもらうことまでした。石川は自分の文章力を誇った。人の心を自在に動かすことのできる、自分の筆力を。やはり自分は天才だと思った。その通りだった。借金の天才だった。積み重なる借金は、「一月には詩集出版と、今書きつつある小説とにて小百円は取れるつもり」だから、それで返済しようとしていた。
「神様は乗り越えらるる試練しか与えずというそれは嘘だよ」
「嫌なことばかりの世界/逃避して/逃げ込んでみる理想の世界」
「室内で七輪使い小火ぼや騒ぎ露台に流れる焦げし塩鮎」
「西方の山のかなたに億兆の入日うずめし墓あるを思う」
 三月十日、井田さんが大名屋敷を引き払ったのに伴い、石川は牛込区払方町二十五番地の、大和館というアパートに転居した。石川はもちろん家賃を払わない。払わないどころか、ここの大家から借金に成功している。「詩集が出版されたらボロ儲けです。どうです、ひとくち乗りませんか」とでも言ったのだろう。先物取引めいた商法である。借金の額は七十円にも及んだ。その金で石川は友人たちに洋食をおごった。それから、いっぱしの有名詩人気取りで、東京の名士たちを訪問した。名士たちの中には、のちの「憲政の神様」当時は東京市長だった尾崎行雄や、早稲田の学長大隈重信も含まれていた。
 一方、郷里の家族はいよいよ宝徳寺を追い出され、渋民大字芋田の知人宅に身を寄せた。
 石川は家族からの手紙で初めて深刻な状況を思い知らされた。大きな衝撃を受けた。
 父一禎が住職をクビになる。住職をクビになるということは、無職になるということ。そればかりでなく、寺に住まうことができなくなるということ。寺に住まうことができないということは、住む家を失うということ。自分の人生は一変することになる。ニートとして毎日ぶらぶらしていられたのも、安定した生活基盤があったからだ。彼の行く末にはたちまち暗雲が垂れ籠めてしまった。鉄幹の言葉「文学で食おうとするのはゲスいよね。詩はもっとロマンチックなものだからね」という言葉に構っている場合ではなかった。こうなってくると自分の天才に頼ってばかりは居られない。どんな手を弄しても詩集で稼がねばならない。なんとしてでも詩集を刊行し、巨額の原稿料を手に入れねばならないと思った。今こそ父に恩返しする時が来た。そう思った。
 石川は人脈を最大限に活用することにした。たいして親しくもない旧友たちに片っ端から手紙を出し、書肆と関わりのある者を探した。その中に、高等小学校時代の同級生・小田島真平が居た。小田島の兄は東京で出版業を営んでいた。
 石川はさっそく小田島真平に紹介状をしたためてもらい、小田島書房を訪れた。長兄の小田島嘉兵衛は、「弟の友だちなら」と、しぶしぶ出版を引き受けてくれた。金は小田島家次男・小田島尚三が負担してくれることになった。日露戦争に招集された小田島尚三は「生きて帰って来られるかもわからないから、どうせなら同郷人のために一肌脱ぎましょう」と、勤め先の日本橋八十九銀行の貯金から三百円を出資してくれたのだ(余談ながら付け加えておくと、この大恩人に対して石川は一言もお礼を述べていない)。
 こうして処女詩集『あこがれ』の刊行は成った。装丁は横山大観、序詩は上田敏、跋文は与謝野鉄幹。この豪華競演にも助けられ、『あこがれ』は賞賛された。石川は若き明星派詩人としての名声を華々しく確立した。
 しかし商業的に成功したわけではなかった。初版五百部、再版五百部を刷り、定価は五十銭。自費出版同様であり、原稿料や印税が発生するわけではない(当時の日本には印税という制度は存在しなかった。この年の十月に『吾輩は猫である』が刊行されるまで)。知り合いの購入に期待するしかないが、知り合いにはプレゼントしてしまっていた。ほとんど売れなかった。
 石川は知らなかった。詩集は売れないということを。『一握の砂』のような大傑作でさえ大して稼げはしない。どんな自信作であっても世間ではあまり珍重されない。文学で食べていくのは大変だった。
「詩集が出版されたのですね。おめでとう。じゃあ、さっそく払いの方を」
 大和館の大家からえびす顔の督促があり、石川はもごもご口の中で言い訳をしたあと、逃げ出した。友人たち(中館松生・小沢恒一・並木某)の部屋を転々とした。
「エアコンの部品を作る人のいて/組み立てる人/設置する人」
「文明化されし世界で筆すさび/それも良きかな/色々ありてよし」
「世の中は/あまたの仕事に溢れたり/分業制の凄まじさかな」
「米農家酒の職人輸送業問屋居酒屋/飲み介/医者僧」
「年収の低きを嘆く人の居て/『いくら』と問わば/我の三倍」
 そのころ、郷里の家族は知人宅にいつまでも厄介になるわけにもいかず、盛岡市帷子小路八番戸の借家に引っ越した。父一禎が石川と節子の婚姻届を盛岡市役所に提出した。嫁を逃がしてなるものかという気持ちが働いたのかも知れない。
 盛岡ではユニオン会のメンバーが中心となって結婚式の準備が進められた。しかし石川はなかなか帰ろうとしなかった。東京在住の友人たちが交通費を出し合い、石川を無理に帰郷させようとした。それでも石川は「実は私が節子と結婚すれば、ある一人の女を殺さねばならない。その女性を私は愛しているのだ」などと、すぐにばれる嘘をついたりして、ぐずぐずしていた。そこで仕方なく、ちょうど仙台に行く用事のあった田沼甚八郎が途中まで石川を引っ張っていくことになった。
 石川は帰郷することとなった。式場や日取りまでみんなに決められてしまい、いやでも帰郷しなければならなくなった。与謝野鉄幹から餞別として十五円を贈られた。普通の感覚をしていればこの十五円は困窮する実家に納めるが、もちろん石川はそんな感覚は持ち合わせていない。新妻への土産として十四円のアコースティックギターを購入した。ちなみに妻節子はギターを習ったことはない。
「あなかなし/かかる最後もありやとて/新婚の日の我を弔う」
「何処やらに/若き女の死ぬごとき悩ましさあり/春のみぞれ降る」
「考える/あなたとわたしだけの世界/幸せだけどちょっとイヤかも」
「月面に立てる如くや/パンパンに膨れ上がりし/汝れの顔面」
「『何故に泣くや』答えぬ『わが恋のまことならぬをじて我泣く』」
「アイシテル/アイシテオリマスアイシテマス/コンピューターのプログラムバグ」
 詩集出版の苦労・父の失業・自身の結婚。石川の双肩にはズシリと重い責任が一度にのしかかってきた。東北に向かう寝台特急の車中、彼のストレスは最高潮に達していた。


(三)新婚生活
 五月二十日、電車は仙台駅に停車した。結婚式は五月三十日。猶予はまだあると判断し、石川は途中下車することにした。普通の神経をしていれば、危急存亡に見舞われた実家へと駆け付ける所だが、普通の神経をしていない。
 仙台は夕暮れ時で、小雨が降っていた。石川は小林茂雄を呼び出した。おどけし歌を詠みし小林は、女性器への興味感心から産婦人科医を目指し、仙台医学専門学校に在籍中だった。同じく盛岡中学出身で仙台医専の学生・猪狩見龍も合流し、三人は仙台市内で遊び回った。三人で撮影したプリクラが今も現存している。そこに写る小林は新刊本の『あこがれ』を手にしている。
 そして、有名な詩人・土井晩翠を訪ねた。面識はなかったが、『あこがれ』を手土産に乗り込もうと、石川が無茶な発案をしたのである。土井は会見してくれた。石川は料理をご馳走になり、有名詩人を相手取って得意の大言壮語を撒き散らした。そればかりではない。土井夫人に対して大胆不敵なほらを吹いた。下手な筆跡の手紙を偽造し、それを見せて「妹のミツからです。母の危篤を報せる手紙です。そのために、私はやむなく帰郷するのです。しかし、誠に恥ずかしながら、母を救えるだけの経済力が私にはありません。電車賃にも事欠き、こうして仙台で途中下車をした次第です。ああ、郷里では、家族が私の帰りを待ち侘びている……」と哀れっぽく訴えた。土井夫人はまんまと心を打たれ、石川に十五円貸した。石川はその金で仙台随一のホテル・大泉旅館に十日間逗留することにした。
「ただひとり泣かまほしさに/来て寝たる/宿屋の夜具のこころよさかな」
「汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/えりを正すも」
「そのかみの神童の名の/かなしさよ/ふるさとに来て泣くはそのこと」
 五月三十日。結婚式の当日となった。宿泊料は支払わず、ホテルの従業員が目を離した隙に黙って出立した。石川は汽車に乗った。式場のある盛岡駅を通り過ぎ、その先の好摩駅で下り、故郷である渋民村に向かった。なぜ渋民村に向かったのか。結婚式場を間違えたわけではない。出席したくなかったので結婚式をすっぽかしたのである。無職になった父のことが気に掛かったし、家庭を持つ責任の重さに今さらながら尻込みしたのだった。晴れ舞台に持ち上げられ、やんややんやと祝福される──そんな気分ではなかった。
 結婚式は新郎不在で執り行なわれた。そこには上座で寂しそうに俯く新婦と、決まり悪そうに居並ぶ新郎新婦の親族と、石川の不在を嘆く友人たちが勢揃いしていた。出席者全員が新郎の身の上を案じた。事件に巻き込まれでもしたのではないか、と。
 そのころ新郎は故郷を懐かしみ、山や川を散策したり、学校の近くをうろついたり、土井夫人から巻き上げた金で遊んだり、不来方のお城の草に寝転んで十九の心を空に吸われたりした。実家である宝徳寺にも足を運んだ。見知らぬ幼児が庭で遊んでいた。無性に泣きたくなった。
故郷ふるさとの/停車場路ていしゃばみちの川ばたの胡桃くるみの下の/紅き傘かな」
「草にて/おもうことなし/わがぬかふんして鳥は空に遊べり」
「いろいろの形はあれどむつかしき我の心に似る雲はなし」
「青空に消えゆく煙/さびしくも消えゆく煙/われにし似るか」
「大木の幹に耳あて/小半日/堅き皮をばむしりてありき」
 六月に入り、石川は覚悟を決め、妻・両親・妹の待つ借家に出頭した。
 家族は石川の無事を歓迎した。強く強く心配していたので、石川の無事を熱烈に祝った。しばらくして安堵の熱狂が冷めてくると、あまりに新郎が無事なことに疑念が湧いた。結婚式に出て来なかった割にはなんだかすごく健康そうだ。質問攻めにした。失踪の理由を四人掛かりで小一時間問い詰めた。ごにょごにょ言い淀む新郎に、付き合いの長い家族たちはピンと来た。普通の人間ならば、大事な結婚式をすっぽかすという非常識は有り得ない。しかしこいつは普通の人間ではない。全てを察した家族は、新郎を激しく叱責した。新婚生活は最悪のスタートを切った。
 石川一家が住んだ、盛岡市帷子小路八番戸の借家。そこでは一軒の日本家屋を四世帯が分割して住んでいた。石川家の領地は後方の玄関から入って右の四畳半(新婚夫婦の部屋)と左の八畳(父母妹の部屋)だけだった。この家では結婚初夜もままならなかったので、ほどなくして中津川なかつがわのほとり・加賀野磧かわら町四番戸に転居した。橋の近くの4LDKで、家賃は月五円。
「中津川や月に河鹿かじかく夜なり涼風追いぬ夢見る人と」
「この橋渡るべからずと注意書き/真ん中渡る/セメント入れ立て」
「夏の月は窓をすべりて盗むごと人の寝顔に口づけにける」
 家族の収入はほとんどなかった。大黒柱だった父一禎は失職。六十歳間近であり、僧職しか務まらず、他につぶしも利かない。母カツは専業主婦、妹ミツは盛岡女学校の女生徒。頼みの綱の嫁節子も小学校の代用教員を人間関係から一年で辞職、家事手伝い。曹洞宗本山から一禎が恩赦を受け、宝徳寺住職に再任させてもらえることをひたすらに願った。
 露命を繋ぐためには石川が自分の手で生活費を稼ぐしかなかった。「啄木」の雅号でちょっとした著名人となり、職業文士気取りだった彼は、ビッグマウスによって『岩手日報』から原稿料をもらう契約に成功。「閑天地」というエッセイを二十一回に渉って連載した。しかしその仕事は、正社員としての仕事ではなく、派遣の仕事でしかなかった。石川は依然として非正規労働者だった。粗衣粗食を強いられた。
 金銭的に苦しくなると、衣類を質屋に入れたり、家具をリサイクルショップに引き取ってもらったり、書籍をブックオフで売り払ったり、畑で万引きをしたりした。
「とある日に/酒をのみたくてならぬごとく/今日われ切に金をりせり」
「父母のいうことをみなよしとせしむかしを思う悲しき日かな」
「超人と尊びうやまう父母を普通の人と気づく年ごろ」
「一瞬も憎しと思い思う日のあらぬ無聊に君うらみける」
「父と母/猶ましませり故に我死ぬを得ざりと/また筆をとる」
 石川は策を講じた。「父の名を高めれば、曹洞宗のお偉いさんも許してくれるのではないか。」そう考えた彼は、父を発行人とした文芸誌を創刊しようと企てる。夏、友人で呉服屋若主人の大信田おおしだ金次郎を言いくるめて資金を出させ、東京で形成した人脈と得意の舌先三寸を駆使し、豪華メンバー(岩野泡鳴・正宗白鳥・金田一京助・小山内薫・与謝野寛・石川節子ら)から原稿を集めることに成功した。石川自身も長詩や短歌を用意した。表紙の装丁も石川自ら手掛けた。
「秋風の心地よさに肌ぞくり眠る詩興を刺激されたり」
「思い出の北の海来し船旅の七日み膝に枕せし日を」
「魂誘うくゆらし溢れ燭も照り母が御寺は我をまねぎぬ」
「愛だとか恋だとかいう/小ささを/不慣れな機知で説く無表情」
「笑わせらぁ怪しき長さの婆さんの悩み無用の他愛なき声」
 九月、雑誌『小天地』は刊行された。発行人は石川一禎名義だが、一禎は実際には何もしていない。実質的な発行人は金を出した大信田である。主幹は「石川啄木」と「大信田落花」の共同名義だったが、雑誌発刊時には石川啄木の単独名義となった。定価は二十銭で、発行部数三百部。
 大信田こそ好い面の皮だった。大金を都合したのに、知らぬうちに石川の父親が発行人に収まっている。面識も無い老人が資金を出したことになっている。主幹の名義からも外され、自作小説を掲載してもらえず、金だけ出した。馬鹿みたいだった。そして雑誌はさっぱり売れない。大信田だけが大損をこいた。
「人並の才に過ぎざる/わが友の/深き不平もあわれなるかな」
「情熱が鎌首もたげ溌剌はつらつとエゴ振りかざす糞フェミニスト」
「我が友がお披露目をした恋人は光沢なめらかポリゴンの肌」
「誰が見てもとりどころなき男来て/威張りて帰りぬ/かなしくもあるか」
 雑誌は売れなかった。知り合いに押し売りをすれば捌けたかも知れなかったが、このころの石川は仲間たちから見限られていた。借金をしても返さなかったり自分から誘っておいた飲み会で金を払わなかったり借りた本やCDを勝手に売ってしまったりする金銭にだらしない性格。そして何と言っても、結婚式をばっくれたのが決定打となった。仲間たちは石川のためを思って綿密な結婚式の準備を進めていたのだ。余興として披露するため、寸劇の稽古や漫才の練習やダンスのトレーニングを何週間もしていたのだ。仲間たちは石川に失望した。許せなかった。ユニオン会のメンバーたちでさえそれは同様だった。ユニオン会はすでにグループとしては機能していなかったが、石川の除名を申し合わせた。あれほど仲が良かったのに絶交された。石川は泣いた。
「その後に我を捨てし友も/あの頃は共にふみ読み/ともに遊びき」
「何もかも行末の事みゆるごとき/このかなしみは/拭いあえずも」
「あの河原/離散まく罠蛾の怒濤/確かにダイヤ嘘つきらしさ」
「君が眼は万年筆の仕掛けにや絶えず涙を流していたもう」
「友われに飯を与えき/その友に背きし我の/さがのかなしさ」
 現在では中津川に架かる富士見橋の欄干にも掲げられている「あの河原……」の歌には、友人たちへのメッセージが折り句によって隠されている。句頭を順に繋ぐと「ありがたう」となり、句尾を逆に繋ぐと「さやうなら」となる。また、三十一音のうち奇数音だけを抽出すると「あからさま我が同士に言う辛さ」という文章が浮かび上がることを、作家の井上ひさしが一九八八年に発見した。
 翌十月中旬、『小天地』第二号のための原稿は集まっていたが、発行はされなかった。自分の取り扱いに不満を覚えた大信田が資金を出さなかったからである。こうして『小天地』は創刊号が最終号となった。
「人とともに事をはかるに/適せざる、/わが性格を思う寝覚めかな。」
「世の中の全ての人が笑えたら/よしと思えり/欺瞞と思うや」
「全世界/しあわせ満ちてみな笑う時にも/我は泣きてあるらむ」
「どんよりと/くもれる空を見ていしに/人を殺したくなりにけるかな」
「『大丈夫。あなたはあなたらしくいて』/あなたって誰?/俺じゃないよな。」
「何となく明日はよき事あるごとく/思う心を/叱りて眠る。」
 一九〇六年を迎えた。妻と迎える最初の正月。ただし家計は大赤字であり、素直に新年を寿ことほぐことはできなかった。生活苦は予断を許さないほどに悪化していた。口減らしが必要だった。苦肉の策として、ごくつぶしの父が家を出ることになった。師匠・葛原対月を頼って、青森県野辺地の常光寺に居候することにした(この常光寺は石川の出生地である常光寺とは別物である。念のため)。
「雪深き人果の山をただひとり越えてゆきけむ老いし父はも」
「『何故に手をばとらざる』『見よそこをわが亡き父にし人ぞゆく』」
「われつねに一人歩みぬわが父の葬りの日にも遠き旅にも」
「父母の老いし如くに我も老いむ老は疎ましそれを思えば」
 それでも生活は苦しかった。水道代を節約するため中津川で用を足し、風呂は一週間に一度入るだけにした。洗濯機・冷蔵庫・電子レンジも売却した。それでも生活は苦しかった。借金をするにも親しい友人たちからは絶交されていたので、たいして親しくもない知り合いに対し無心の手紙を出しまくった。和製ユアン・マクティーグル(スコットランドの詩人)とも評せる、憐憫を誘う芸術的な手紙で返す宛てのない借金を繰り返した。借金の申し込みなのに、差出人の欄には「逸民啄木」と尊大な署名をした。必要とあれば男色行為も受け入れた。
「『カネヨリモ ヒトノナサケノ アリガタサ』/借金の礼/我の電報」
「限りなく高く築ける灰色の壁に面して我ひとり泣く」
「借金を踏みにじること大魔人の全都を破壊するが如くに」
 バレンタインの翌々日、石川は一家の窮状打開のため、北海道に住む次姉トラを訪ねることにした。トラの夫・山本千三郎は出世して二代目函館駅長になっていた。泣きつけばお金を出してくれるかも知れない。函館までの旅費は、『小天地』の参加者でもあった小学校教員の小笠原迷宮から借りた。
「かの旅の夜汽車の窓に/おもいたる/我がゆくすえのかなしかりしかな」
「うたうごと駅の名呼びし/柔和なる/若き駅夫の眼をも忘れず」
「腹すこし痛み出でしを/しのびつつ/長路の汽車にのむ煙草かな」
「しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月かな」
「雪のなか/処処に屋根見えて/煙突の煙うすくも空にまよえり」
「さいはての駅に下おり立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき」
 山本家に到着した。すぐには援助を申し出ず、父の話題などでお茶を濁した。トラは石川の目論見を察知した。山本家の客間には侵略者を警戒するような微妙な空気が流れた。気まずい雰囲気の中でテレビを観ながら到着初日は打ち過ぎた。翌日、石川は意を決して経済的援助を頼み込んだ。山本夫妻は丁重に、しかし強い口調で申し出を断った。「同情はするが金は出せない。自分たちのことは自分たちでどうにかしてほしい」と言うのが彼らの言い分だった。金を出しても無駄になることを彼らは知っていた。以前「東京での生活費の足しに」と送った郵便為替が趣味の方面に使い込まれたからだ。
「かぎりなき知識の慾に燃ゆる眼を/姉は傷みき/人恋うるかと」
 石川はがっくり肩を落とし、故郷に退散するしかなかった。帰途、青森の常光寺に立ち寄って父に善後策を相談したが、生活者として無能な二人には良策は何も思い浮かばなかった。父は無念そうに「俺に出来ることはこれだけだ」と言い、おみやげにリンゴをくれた。
「さらさらと氷の屑が/波に鳴る/磯の月夜のゆきかえりかな」
「遠くより/笛ながながとひびかせて/汽車今とある森林に入る」
「忘れ来し煙草を思う/ゆけどゆけど/山なお遠き雪の野の汽車」
「ふと見れば/とある林の停車場の時計とまれり/雨の夜の汽車」
「いたく汽車に疲れて猶も/きれぎれに思うは/我のいとしさなりき」
「わかれ来て/燈火小暗き夜の汽車の窓にもてあそぶ/青き林檎よ」
 帰郷して四日後に、秋田に住む長姉のサダが死んだ。享年三十一、死因は肺結核。塗装工の夫は残された五人の子供を男手一つで育てなければならなくなった。石川は急転する一族の運命を深く嘆き悲しんだ。葬儀に出向くための旅費が無かったため、今度は新渡戸仙岳に借金をした。新渡戸は石川が小学生だったころの校長先生。
「大いなるいと大いなる黒きもの家をつぶしてころがりてゆく」
「かく弱き我を生かさず殺さざる姿を見せぬ残忍の敵」
 石川は秋田に行くための旅費を生活費に回し、葬儀には参列しなかった。



(四)小学校に就職
 父一禎が住職に復帰できる可能性が出てきた。単純に宗費を追納するという手段もあったが、それは当然無理なので、石川が期待したのは宗務局からの恩赦だった。「宗門においておめでたいビッグイベントがあると、警誡処分が一斉に許されることがある」という嬉しい情報を関係者から聞きかじっていた。そしてそのビッグイベントが、やって来た。曹洞宗の最高規定となる「宗憲」が二月末日に発布されたのだ。
 一禎も赦免を受けられそうな情勢だった。石川は渋民村に帰り、父が宝徳寺に再就職できるよう、地元民に働きかけることにした。そして父の再就職までは自分が働いて家族を養おうと、殊勝なことを考えた。
 三月四日、石川は加賀野磧町四番戸を出立した。その前日、盛岡女学校の女教師に土下座し、妹のミツを預かってもらった。石川は母と妻だけを連れて渋民村に帰郷した。国道沿いに建つ農家、その表座敷に間借り生活を始めた。後輩の齋藤佐蔵の祖母、齋藤トメの家である。部屋は二階の六畳間で、長年の煤によってどこもかしこも黒く汚れていた。この一室が石川の書斎であり、同時に家族三人の寝室・食堂・応接室の全てを兼ねた。
「その名さえ忘られし頃/飄然とふるさとに来て/咳せし男」
「ふるさとに入りて先づ心傷むかな/道広くなり/橋もあたらし」
「ふるさとの停車場路の/川ばたの/胡桃の下に小石拾えり」
 この日から石川は『渋民日記』を書き始めた。
「渋民は、家並百戸にも満たぬ、極く不便な、共に詩を談ずる友のほとんど無い、自然の風致の優れたほかには何一つ取柄の無い野人の巣で、みちのくの広野の中の一寒村である。我が一家のこの度の転居は、(略)生活の苦闘の中に長く家族を忍ばしめる事の堪えられなかった為や、閑地に隠れて存分筆をとりたかった為や、種々の原因のある事であるが、新住地として何故に特にこの僻陬へきすうえらんだか。それは一言にして尽きる。曰く、渋民は我が故郷――幾万方里のこの地球の上で最も自分と関係深い故郷であるからだ。」
 そして翌五日には「知人への通知を書く。曰く、天下の逸民啄木、今度はグットおとなしく出て、再び故山渋民村の住人と相成申候あいなりもうしそうろう。草々」と、謙虚な気持ちで新生活を迎えた。
 石川の元へは毎日のように村人や子どもたちが遊びに来た。東京で詩集を出した偉い人という評判だった。「グットおとなしく出て」という謙虚な気持ちは一日で吹き飛んだ。石川はいい気になって村人相手に大口を叩いた。間借り生活でありながらドカドカと来訪者があれば当然家主は迷惑するだろうが、トメおばあちゃんはいい人だったので苦情を言わなかった。
 石川は子どもたちと対するときには自らギターを弾き、小学唱歌を合唱させた。石川が何かお話をすれば子どもたちは真剣に聴き入った。ほのかに「自分は小学校教師に向いているかも知れないな」と思った。
「思いださむ/少年時代を思いださむ/光の満ちし若き季節を」
「山本の鼻毛を食べる宮島の/小学時代/それでいいのか」
「幼稚園年長組で彼と寝き/マセしあの子は/鼻くそ食う子」
「滝さんの老後の姿/簡単に想像できる/小二なのに」
「パンツ見き/指折り数え和歌を読む/字数気にする小学生の」
 三月八日、子どもたちと一緒に寺の小僧がやって来た。この小僧は、現在宝徳寺の代務住職に収まっている中村義寛の息子である。石川の日記には小僧に対する憎悪が満ちあふれていて面白い。
「無論他郷者である。自分は今までこれくらいイヤな卑俗な人相を見た事がない。年は十八だとか。そのまた音声のイヤな事。これも憎むべき侵入者の一人である。もしも彼が一つの悪事をも成さないとしても、純朴な郷人の心には、彼のこの卑俗な人相を一見しただけでも恐るべき悪感化が刻まれるのだ。自分は何とかして、世の中のこういう人相の悪い者どもを一括してどこかに推し込める工夫はあるまいかと思った。そしてこの村の寺といえば、自分が十幾年の間育った所ではないか。その寺が今こんな奴の蹂躙じゅうりんにまかせられてあるのかと思うと、実に何とも言われぬイヤな心持ちがした。」すごい。人を外見だけで判断している。
 その後石川は「西洋かるた」(トランプのこと)の会に参加したり、「札五十二枚、しるされたるは、キング、クイン、ジャックなどの階級的表号。大貧民をこの村に流行らせたのは自分である」と吹聴したり、「云うまでもなく自分が一番うまい」と日記に書いたり、小学校に遊びに行ったり、月下にギターを弾いて過ごしたり、いつも通りの高等遊民生活を送った。それから、「グットおとなしく出て」という謙虚な気持ちは微塵もなくなり、村人を虫けら扱いした。
「世の中で頭脳の貧しい人だけが、幸福に暮らして居る。彼等は真の楽しみというものも知るまいが、また、大なる不幸という事を感ずる事がない。進むには足を動かさねばならぬ。足を動かせばそれだけ疲れる。彼らは立って居る、同じ所に立って居る。誠に平気なものだ。
 その代り、朝生暮死の虫けらと同じく、彼らの生活には詩がない。詩のない幸福! ああ、もし自分が一瞬たりとも彼らの平安を羨ましいと思う事があるなら、それは自分に取って最大の侮辱である。何という事であろう、自分が今度この故郷の住人に成ったのは、果して彼らと同じ平安、彼らと同じ幸福を得んがためであったろうか。否、否、否、たとえ如何に平和な境遇に居ても、自分は心の富のために不断に戦い、苦しみ、泣かねばならぬ運命を担って居る。そうだ、やはり自分の霊魂はただ戦闘と不幸の空気の中にのみ生活する事が出来るのだ。」
 三月十三日にはますます気分が荒み、「秋水三尺の日本刀を、抜身のままで床の間に飾って置いたら、気持がよいだろうと思った。誰かと思う存分喧嘩してみたいと思った。何か魔術でも覚えて、天下の人を存分愚弄してみたいとも思った。」と記している。
「何かひとつ不思議を示し/人みなのおどろくひまに/消えむと思う」
「長さ五寸/墨を吐きたる我が秋水/それにつけても金の欲しさよ」
「彫刻刀/握り刃先を見つむれば/良からぬ妄想夢が膨らむ」
 詩作への憧憬は捨て難かったが、我慢して就職活動をすることにした。小学校の先生になろうと思ったのだ。東京で『文芸界』への就職に失敗した苦い記憶が蘇り、少し気が重かったが、今回はくじけず頑張った。節子の父・堀合忠操ただざおのコネを利用し、岩手郡の視学(教育部門の行政官)平野喜平に小学校への就職斡旋を依頼し、渋民村役場に履歴書を提出した。履歴書の学業欄には「(盛岡中学校)第五年級修業中退学」と正直に書いた。内定をもらっていたからである。
「見もしらぬ女教師が/そのかみの/わが学舎の窓に立てるかな」
「朝礼台/夜中に見たら/一組の高校生が交合したり」
「教室の水槽の中の熱帯魚/水面近く/パクパクしてる」
「ふるさとの汽車の軌道に雪積もりぬ/除きながらの/牛の歩みよ」
「髪の毛を数本抜きてストウヴに置けば悪臭教室に満ち」
「観察池/ヘドロのごとき水面に/タピオカ風の蛙の卵」
 三月十九日、妹のミツが新学期が始まるまで身を寄せることになり、六畳間はますます狭くなった。 
 三月二十三日、川口村明円寺の岩崎徳明から、石川宛の手紙が届いた。中には父一禎に対する特赦令のコピーが同封されていた。再住願の届け出期限は五月三十日となっている。期日までに書類を提出すれば、父は許される。石川はこのコピーをさっそく青森県野辺地で燻っている父へと転送した。同日、小学校の卒業式に列席した。
「卒業式/今のうちに言い置かむ/俺は泣かざらむ、いや泣くかも。」
「僕たぁち(私たちわぁ)/今日(今日ー)/卒業します(卒業します)」
「放課後に校舎の裏に呼び出され/告白かリンチ/二者択一」
 その夜、自分の評判を聴いた。一部の村人からは歓迎されていなかった。この日の『渋民日記』は誠に面白い。
「自分はマサカこの渋民村をどうしようこうしようというほどには未だ老いざるつもりで、今度移住して来たのもしばらくこの閑境に隠れて他日の準備をしようと思うだけなのに、ああ田舎の天地はやはり狭いものである。自分の頭脳がも少し貧しかったら、こんな事もあるまいに。人を猜疑するという事は、自分には無い経験である。
 ナニ、この俺をどうする事が出来るものか。またもしも、事が起こったにしても、自分は極めて平気である。
 自分に来られては、村中かき回されるというので、絶交状まで飛ばして移転間際に妨害したものもあったが、自分が素早く手元に切り込んで、突然来てしまったので、計画画餅がべい、弁解ですましてしまった。誠に笑止な次第ではないか。今度はまた、自分が学校へ出るようになると、やはり一人でかき回すからというので、妨害の相談中だとか。自分はたかが二十一才の一青年ではないか、それに孫小児もあるが分別盛りの古老どもが、何をそう苦に病むのであろう。自分が代用教員に成るというのは、無論一生を教育界に投ぜんとするのではない。ただ、この村に居る間、児童の心理も研究してみたし、また旁々かたがた故山の師弟に幾分なりと善良なる感化を与えてやりたいからだ。月俸八円が生命に代えても欲しいというでもなく、陰に一村の政治を動かそうなどの野心も持ってる暇はない。小さい村を左右したところで自分には何になるか、学校に出るなというなら、出なくとも差し支えはない。誠に笑止な次第である。そのくせ自分に逢うと頭を低くして御機嫌をとるから奇妙ではないか。」
 四月十日、妹のミツと入れ替わるように父一禎が家族と合流した。六畳間に大人四人。しかしその窮屈な生活ももう少しの辛抱。一禎は宝徳寺再住願いを曹洞宗の宗務局に提出した。もう少しの辛抱。もう少しで、以前の通りすこやかな毎日が過ごせるようになる。そう思っていた。
 しかし、代務住職の中村義寛は退かなかった。中村は正式に住職跡目願いを提出していた。元住職の石川一禎と、代務住職の中村義寛。両者は激しく対立した。どちらが宝徳寺の住職にふさわしいのか、宗務局も判断をし兼ねた。檀徒は石川派と中村派に分かれ、村は真っ二つになり、大きな政治的争いへと発展した。
「故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は常に俺の敵である。予言者はさとれられざるものであろう。俺が幼くしてこの村の小学校に学んだ頃、――神童と人に持てはやされた頃から、既に俺は同窓の友の父兄たる彼らから或る嫉視を受けて居た。この嫉視は、その後十幾年、常に俺を監視して居る。高い木に風の強いのであろう。今年の三月、俺が盛岡のぐうを撤してあの村に移ろうとした時、彼らはいかにしても俺を閭門りょもんに入れまいとした。しかし俺は平気で来てしまった。俺が学校に奉職しようとした時、彼らは狂える如くなってこれを妨げた。しかし俺は勝った。勝つのは当然である。俺が呑気に昼寝をして居る間に、郡視学が決めてくれたのだ。決めてくれる筈だ、郡視学自身も俺を恐れて居るのだもの。かくて彼らは怒った。種々たる迫害を加えようとした。しかし俺は極めて平気であった。鳥が啼いたり、犬が吠えたからと云って、驚くような自分ではない。
 父が帰って来て、宝徳寺再住の問題が起るに及んで我が一家に対する陰謀はますます盛んになった。如何にもして我が一家を閭門の外に追い出そうとするのが、彼ら畢生ひっせいの目的であった。」
 石川は母校である岩手郡渋民尋常高等小学校の尋常科(生徒数二百十五名)に代用教員として採用された。教員は石川を含めてたったの四名。他の三名は、「師範出の、朝鮮風な八の字ヒゲを生やした、まづノンセンスな人相の標本といったような校長」遠藤忠志と、「この村の人で、三十年も同じ職に勤めて居る検定試験上りの訓導」秋浜市郎と、「師範女子部出の我が友」上野さめ子である。
「たった四名か、人手不足だったんだな」と思われがちだが、実は定員四名であり、石川が来なくてもすでに四名の教員が在籍していた。教員免許を持っていない石川を採用するために、教員免許を持っている高橋某という准訓導が他校に左遷された。石川を斡旋した平野視学が遠藤校長と同級生だったおかげで成立した謀略である。
「滑舌の誠に悪きおっさんや/見たことあるよ/ああいうワンちゃん」
「『好きな子と保健室にてイチャこくの/それが夢です』/夢見すぎです」
「一度だけ/保健体育授業せし/先生よりも詳しい生徒」
「オールAかたやあいつは/うんこたれ/すでにスタート格差社会が」
 石川の受け持ちは尋常科二年生五十人で、月給は八円(たとえば松山時代の夏目漱石の月給八十円などと比べると随分な薄給に感じるが、そもそも村の予算が八円しかなかったのだ)。
「自分は今まで無論教員という事について何の経験も持って居ない。しかし教育の事に一種の興味を持って居たのは、一年二年の短い間ではない。(略)無論自分はこれで一生を教壇の人となるというのではない。ある期間自分の時間をこの興味ある教育のために費してみたいというだけである。(略)自分はもともと詩人であるのだ。(略)自分は今、月給八円の代用教員になった。これもまた運命である。運命だから、仔細に考え来れば、涙も恨みもあるのだ。ああ。」
 四月二十一日、石川は欠勤して沼宮内町で徴兵検査を受けた。筋骨薄弱で徴兵免除となった。身体測定の結果は、身長一五八センチメートル、体重四十五キログラムだった。幼少時には軍人に憧れていた石川だったが、今は兵役を免れてほっと一安心した。
「運動は得意なりしが怠けにより/徴兵もされぬ/ひ弱となりぬ」
「中休み/ドッジボールで大活躍/三限体育徒競走ビリ」
「鉄棒で/女子が見ている時のみは/やたらすさまじきクラスの田中」
「正橋の/うわばき隠せる丸岡は/少女漫画の読みすぎなるかな」
 四月二十五日、右足に全治一週間の捻挫をしたが、足を引きずって出勤した。石川らしくない行動だったが、それほどまでに生徒を可愛く感じていたからだった。
「そのかみの学校一のなまけ者/今は真面目に/はたらきて居り」
「堀越はアンテナ高き/情報屋/情報科はグミ一袋」
「一ヶ月掃除してないリコーダー/乾いたおつゆ/クンクンと嗅ぐ」
「ぶっとばす学級委員の山下め/里穂にバラした/笛を舐めたの」
 四月二十六日からは、高等科生徒の希望者に対し、英語の課外授業を開始した。好評であり、参加者は日ごとに増えた。なるほど教育熱心だが、一方では指導要綱を軽視したり、早くもはみ出し始めている。
「英語の時間は、自分の最も愉快な時間である。生徒は皆多少自分の言葉を解しうるからだ。自分の呼吸を彼らの胸深く吹き込むの喜びは、頭の貧しい人の到底知り得る所でない。
 自分は自分の在職中になすべき事業の多いのを喜ぶものである。自分は自分の理想の教育者である。自分は日本一の代用教員である。これくらいうれしい事はない。またこれくらいうらめしい事もない。
 自分は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
 児童は皆自分のいう通りになる。なかんずくたのしいのは、今まで精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日に自分のいう通りになって来たことである。教授上においては、まず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る。文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ。」
 六月十日から十五日間、小学校は農繁休暇となった。この期間、農家の徒弟が多い渋民村では、田植えなどを手伝うために子どもたちが小学校に出てこなくなる。この休暇を利用して石川は上京し、千駄ヶ谷の東京新詩社に十日間滞在した。片道の汽車賃は渋民村の村役場から借りた。東京市芝区芝公園の曹洞宗の宗務局に赴き、父一禎が宝徳寺に復帰できるようお願いに上がった。そして、夏目漱石・島崎藤村・小栗風葉らの小説に刺激を受け、小説家を目指すことにした。日本一の代用教員には早々に飽きた。詩人であるという自負心も霧散した。詩や短歌よりも小説の方が飯の種になる気がした。
「近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持って居る。しかし『偉大』がない。島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない。革命の健児ではない。(略)『これから自分もいよいよ小説を書くのだ。』という決心が、帰郷の際唯一の俺のお土産であった。(略)詩の方は当分少し休んでみようかとも思う。(略)しかし休んで居たからといって時勢におくれる気づかいは少しも無いと思う。凡人や半天才がいくらあせっても大丈夫だ。馬鹿にすれば随分馬鹿にするによい世の中だ。」
 漱石は文章が上手だけど偉大じゃない。藤村は結構いい線いってるが凡才だ。石川は自信に漲っており、自分の才能が漱石藤村を凌ぐと信じて疑わなかった。六畳一間に家族が川の字で寝入る真夜中、ランプの乏しい光の下、石川は夜を徹して原稿に対峙した。
「五七五相性良い名/オタンチン・パレオロガスと/夏目漱石」
「その才を我ねたむこと/熾烈なり/自由自在のその日本語よ」
「近代の文豪とされる/人々の大半は/社会不適合者じゃん」
 七月三日、自分をモデルにした小説『雲は天才である』を書き始め、七月中に脱稿した。途中八日からは別の小説『面影』に取り掛かり、約百四十枚を六日間で脱稿した。かなりの速筆である。そして、速筆でありながら、原稿の枡を埋めた字は非常に美しいものだった。石川はやはり天才だった。
「この十日ばかりの間、俺は徹夜すること数回、さらでも毎夜二番鶏が鳴いて障子が白んでから二時間か三時間しか眠らない。それでかなり学校にも出た。もっとも欠勤して書いた事もある。」
 日本一の代用教員には飽きたので、小説のために欠勤もする。石川の生活は小説最優先となった。筆が走った。向かうところ敵なしと思えた。雲(漂泊者)は漱石や藤村よりも天才である。プロの小説家になりたかった。なれると思った。いや、なる。自分は小説家になる。
 石川は『雲は天才である』を春陽堂新人賞に応募し、『面影』を小山内薫文学賞に応募した。共に一次選考で落選した。
「さらに後藤宙外氏へ直接に送ったところ、原稿堆積のため当分ダメだといってやはり返された。また同氏は、今の世で筆で立つという事は到底至難であるといって来た。」
 八月に入り、夏休みとなった。夏休み中に少なくとも三百枚の小説一本と、脚本『長夜』を書こうと志していたが、成せなかった。犯罪の容疑者として取り調べを受けたからである。文芸雑誌『小天地』を創刊した際に大信田から資金を出してもらったが、大信田から預かった委託金を石川が不正に費消したという嫌疑だった。確かに、『小天地』が父一禎の名誉挽回のためだけに発刊されたとすれば詐欺だったし、委託金を生活費に回していれば横領だった。大信田が石川を訴えるのは当然の理だった。石川は大信田を詰った。すると、大信田はそんな告発をした覚えはないと言う。告発をしたところで石川から罰金をせしめることは不可能だと知っていたのである。この垂れ込みは、石川一家を快く思わない連中の陰謀だった。石川は盛岡地方裁判所検事局に呼ばれて取り調べを受けたが、大信田が石川の無実を証言してくれたので不起訴処分となった。大信田はどこまでもいい人である。
「驚いた。実に驚いた。しかしすぐ平生に返った。罪なき者を罰する法律のあるはずがないと思ったからだ。(略)落花と俺とは特別の関係ある友人である。かつ自分は彼に対してごうも心にじるような事をした覚えはない。やはりこれは誰かの悪意ある企画に相違ないと覚った。(略)寺問題やら党派心やから、つい彼らは皮肉なる計画によって俺を陥れんと企てたのだ。村の駐在巡査を買収して密かに捏造事件を密告せしめたのだ。(略)よしや、地獄に落され、牢獄に入れられるとも、俺は心やましからざるにおいて少しも変わりはないのだ。(略)一方に極めて平気であった俺は、さらに他面において大いに奮慨した。石川啄木不肖といえど狗盗くとうの真似をするものか。」
 狗盗の真似は、しているだろう。と思う人もあるだろう。しかし石川は、借りた金はさっぱり返さないくせに、誰からいくら借りたかを克明に記録していた。返す気は無かったが、返したいとは思っていたのだ。その意味において「狗盗の真似をするものか」と憤慨したようだ。しかし月給八円で一家四人を養うのは容易ではなく、一階に住む家主の齋藤トメには家賃を払わなくなった。それどころか、トメおばあちゃんの厚意に甘えて米を恵んでもらったりもした。
「今年ももう残すところは四分の一/人生に喩えば/還暦過ぎき」
「飯島の自慢の勲章コレクション書かれし文字は『強く押す』なり」
「半里ほど共に歩みて一本の煙草貰える恩を忘れず」
「夏休み宿題の読書感想文/クラスの半数/同じコピペ」
 ろくな収穫の無いまま夏休みは終わった。石川は小説を書くのにも飽きて、今度はドイツ語に手を出し始めた。ただし、小説の構想だけは腐るほど湧いていた。
「『これからは独語は絶対必要だ』/子供に力説/話せぬ人が」
「変わりやすし/『乙女心と秋の空』/『駅前店舗』と『マニフェスト』もね」
「秋の夜に/銀紙製のお月さま/長椅子にして足穂たるほが掛ける」
「冬コオト/夏はTシャツ/春秋のおしゃれな装いわずかしか不可」
 十一月十九日からの四日間で小説『葬列』前編を書き上げた。この時は仮病で学校を欠勤している。果たしてそれでいいのだろうか。
「十九日から、左の胸が痛く、頭の加減もよくなくなった。俺は心配した、ああ肺病になるのか?
 しかし、これは、平生へいぜい筆をとる時左の胸を机の角で圧迫されて居た為であった。しかしこの為、俺は五日間欠勤した。
 病は俺のために一面天の賚物たまものであった。俺は十九日夜に稿を起こして、二十二日夜までに、小説『葬列』の前半五十七枚を脱稿し、明星に送った。」
 もう教員生活には飽き飽きしていた。校友会の雑誌に何か書いてくれろと依頼され、『林中書』という評論を書き殴った。「これは極めて痛快なるものである。日本文明の積極的批評! 明治の教育界に投げる爆裂弾!」と石川が言う通り、当時の学校教育を痛烈に批判する過激な評論である。
「百葉箱/うんこを詰めし真犯人/田辺にあらず実は我なり」
「あげパンとソフト麺と/あとプリン/同時に出たら大三元なり」
「宵闇にコンビニで買う/ユンケルの/似合う大人に私はなりたし」
「親の不在おやじのパソコン/『おきにいり・スカトロ倶楽部』/涙ぐむ我」
 年は暮れていく。〆切を大分過ぎてから郵送した『葬列』前編が、『明星』十二月号に掲載された。これは石川の小説としては初めて活字となった作品である。石川は『明星』に目を晒しながら、胸の高鳴りを抑えられなかった。翌日には在京の金田一からはこんなハガキが届いた。
「何と言うていいか、ことばを知らぬ、赤いインキで、およそ五回もよみ返したあとで、とうとうけん点づくめにしてしまった。(略)およそ後半の文字は、私、鏡花漱石以上のものと賛してはばからぬ。君には或はこんな人と比べて失敬なと怒らるるかも知れないけれど、実をいえば、物を読んで、こうとして巻をきたかったほどに感じたのは、この後半と、それから一生の中に、先年即興詩人を読んだ時とだ」
 小説家としての道が開けた。その後も良い傾向が続く。
「一日一日に今年もなくなるのかと思うと、実に倦駑鞭影けんどべんえいに驚くの感がある。二十一歳のひと年も今ひと月で暮れるのか! ああ俺は二十二歳(註・数え年)になる前に『お父さん』になるのだ。
 お父さんになったら、この俺もやはりお父さんらしくなるだろうか、これは何だか疑問である。生まれてみねばまだ解らぬが……。
 自分の子がせつ子から生れるのだ。
 ああぞくぞくする、満足である、幸福である、十八歳の暮には、詩壇の新作家を以って目され、二十歳で処女詩集を公にして、同じ年せつ子と一緒になって、そして二十一歳、筆を小説に染め始め、小供から一躍してお父さんになる。……俺は悲しまぬ。否、悲しむ理由がない。」
 石川の予期通り、十二月二十九日、妻節子が長女京子を出産した(妻は十一月中旬から出産のため盛岡の実家に帰省していた)。十二月三十日朝、節子の母トキから「今無事オミナ産む」というメールが届いた。
 赤貧に喘いだが、一九〇六年は比較的幸せな一年であったと言うことができる。石川の死まで、あと六年。
 かくして一九〇七年になった。当時は年齢の数え方は満年齢ではなく数え年だったため、老いも若きも正月一日に一つ年を取る。この方式だと新生児はいきなり二歳になってしまうので、京子は一月一日午前六時出生として役所に届けられた。男の子なら、尾崎行雄から取って「行雄」になるはずだった。
 三学期が始まった。すでに石川の気持ちは日本一の代用教員を離れ、小説家への夢に占められていた。しかし、だからといって手抜き教育をするわけではなかった。嫌な感じの恐怖政治へとシフトした。「どうせ数ヶ月で教職を辞すのだから、生徒の精神を改革しよう」と、変なやる気を出した。そして「色気づいた高等科の生徒たち(今で言えば中学生)の、悪い風習を矯正しよう」と、田舎の男女間に普通となっていた不純異性交遊を一掃することを思い立った。浮ついた噂のある生徒数名を吊し上げ、一切合切を白状させ、叱りつけた。時には催眠術まで使って自白させた。優しい石川先生とは同一人物と思えないほどの変貌ぶりだった。吊し上げられた数名以外にも、心にやましい所のある人間は後で出頭するように言い付けた。生徒たちは正直に応じた。一人また一人と石川先生の面前に立ち、乱れた性を詳細に語った。彼らは泣いた。声を上げて泣いた。女子も泣いた。石川は懺悔室の神父気取りで彼らの行為を聴取し、免罪を与えた。これでも生徒たちの人心が石川から離れることはなかった。
「白チョーク黒板を汚す/文字の列/『一一九二作ろう鎌倉幕府』」
「かっこいい足利尊氏肖像画/別人と知り/『金返せコラ!』」
「理科室で/牛の眼を解剖ふわけせし/白目の裏は真黒なるかな」
「教会の男女おとこおんなの血色のよきを不思議と見て帰り来ぬ」
「朝礼台/夜中に見たらば/一組の小学生が交合したり」
 その後は平穏無事に過ぎた。石川の家には相変わらず子どもたちが遊びに来たし、自由参加で毎日十分間ほど英会話教室を開講したり、石川が作詞作曲したポップソングをアコギの伴奏で一緒に歌ったりした。
 しかし、平穏な生活の一方で、父一禎の住職復帰運動は良い方向に進展しなかった。中村住職の抵抗も激しかったし、中村派檀徒の反発も根強かった。彼らは「一禎は宝徳寺の住職に相応しくない」と主張した。その主張は強力で、簡単に崩せそうにはなかった。
 中村派の主張、それは寺の裏にある禿げ山のことである。
 遡ること五年前。一九〇三年二月。東京で病に倒れた息子を救うため、一禎は上京した。その際、上京資金を捻出するために、寺の裏山にある木々を無断で売却した。村有林を私的な理由で使ってしまったのだ。ああ、あの時の行ないが今になってじわじわ効いてくるとは。因果応報である。
 中村派の主張は説得力があり、石川たちの方が分が悪かった。檀徒間の争いは一年間もずるずると続いていた。一禎は無職のごくつぶしのままだった。村のギスギスした空気を醸成している張本人として肩身の狭い毎日を狭い六畳間で送っていた。
 三月四日、渋民村に帰郷してからちょうど一年が経過した。
「去年の今日は、我が一家が再びこの村に居を定めた日であった。ああその後の一ケ年! 寂しい村の寂しい生活、とはいえ、俺は今思い出す、この一ケ年はやはり戦いの一ケ年であった。そうだ、要するに生活それ自身が戦いなのだ。特に俺自身の性格と境遇とにおいて然るのだ。誰と戦ったか? 敵は?──敵はすべてであった。俺自身さえ、また俺の敵の一人であった。サテその戦いの結果はいかがであったか? 自分が勝ったのか? 否、恐らくは未だ勝ったのではあるまい。しかし、敗けたのでもなかった。」
 いや、負けたのだ。
 その翌五日、早朝。
 石川は母親の呼ぶ声に目を覚ました。母は静かに狼狽していた。おろおろした声で石川にささやいた。
「お父さんが居なくなった」
 法衣や経典や身の回り品が見当たらない。家出に違いなかった。
 父一禎が、家出をしてしまった。
 石川はいつの間にか声に出して泣いていた。しばらくは起き上がる気力もなかった。「父は自分たちを捨てて家出したのではない。貧乏という悪魔に責め立てられ追い出されたのだ」と自分に言い聞かせた。「自分の給料はわずか八円。一家はまさに貧乏という悪魔の翼の下にしつけられている。だから父は、少しでも家計を楽にしようと、気を使って居なくなったのだろう」と。母と二人、泣いて泣いて泣きまくった。一年近く係争した宝徳寺問題も、これで絶望的となった。父の失踪による喪失感と共に、長期戦の末の敗北による深い挫折感をも味わった。気の毒ではあるが、石川一家も前住職の家族に同じ仕打ちをしている。住居を兼ねた寺を乗っ取り、遊佐家を離散させた。因果応報・自業自得である。
 そこへ、父と入れ替わるように妻の節子が帰ってきた。よく笑う娘の京子を従えて。ナイスタイミングであった。石川は心痛を慰められた。娘は見事に肥っていて、食いつきたくなるほど可愛く感じられた。
 その後、青森の葛原対月に問い合わせたところ、父一禎は青森県野辺地の常光寺に再びつくねんとしていることが判明した。リストラされたけどなかなか家族に言い出せないお父さんと一般だった。
「わが父は六十にして家を出で師僧のもとに聴聞ぞする」
「哀れなる物語かなわが友の老いたる父が家出せしという」
 石川は学年末を忙しく過ごした。教職を辞める気は満々だったが、逆にそれだからこそ、一年間手塩に掛けて教育した生徒たちが愛おしかった。
「あはれかの我の教えし/子等もまた/やがてふるさとを棄てて出づるらむ」
「ふるさとを出で来し子等の/相会いて/よろこぶにまさるかなしみはなし」
 授業最終日の三月二十日には、授業は行なわず、卒業生送別会を催すことにした。嫌われ者の校長は不在だったので石川の綜合プロデュースで好き放題やった。生徒の自主性を尊重し、司会・接待係・余興係・会場係・会計係を全て生徒たちに一任した。実行委員長の生徒が村の紳士淑女十数名を招待し、会費を徴収した。生徒たちはいずれもうまく役割をこなした。来賓演説の際には、来賓の誰彼が互いに譲り合ってなかなか立ち上がろうとしなかったため、会場係長が「ただ今金矢さん(石川の友人)のお話がありますから、皆さんお静かに」と無茶振りをしたりもした。(金矢が慌てふためいたのは言うまでもない)
 在校生と卒業生それぞれの演説、いくつかの楽しい余興、配られるお菓子。そして、石川の作詞(曲は『荒城の月』)による『別れ』というバラードを、堀田先生のオルガンと石川のギターの伴奏で合唱した。「ああわが友よいざさらば♪ 希望の海に帆をあげよ♪ 思いはつきぬ今日の日の♪ つどいを永久とわの思い出に♪」送別会は大成功だった。生徒の自主性に、役場の岩本という助役が涙ぐむほどだった。
「受験という戦場へ出る/一兵卒/英語を捨てて関東語を取る」
「ブサイクな顔の子供を見て思う『やなことばかりじゃないよ頑張れ』」
「ブサイクな妻を連れてる中年に心の中で『お疲れ様です』」
「もし彼が魔法で豚になるとして養豚場にいくらで売れる」
「転校する山田のくれし宝物/『ペンギンクラブ』/濡れてよれよれ」
 三月三十日の終業式を以て生徒たちへの義務を果たし、四月一日、石川は校長に辞表を提出した。この日はちょうどエイプリルフールだったので、最初は真面目に取り合ってもらえなかった。石川が本気だと解ると、撤回しろと迫った。辞表を受け取れ、いや返す、の応酬が数度繰り返されたが、結局石川の辞表は受理されなかった。石川は高等科の生徒たちを煽動し、ストライキを実行した。申し合わせて授業をボイコットした。六年前、十五歳のときに自ら行なった学級崩壊に思いを重ねながら。
「昔すぎて/大人はみんな忘れてるが/小学生も意外と大人」
「年下にも/初対面なら『さん』付けをできる大人を/すてきと思う」
「魚魚魚を食べると/頭頭頭が良くなる/うそ金返せ」
「Don't trust over30/三十はもはや中年/決して信じず」
「三十になるまで残り十五年/まだまだ先は/長しと思う」
 十五歳七十三ヶ月の小児・石川は、同い年の生徒たちを引き連れ、声を合わせて校長を罵った。デモ行進をし、即興の革命歌を合唱した。石川と生徒たちは「我不喰魚」と書かれたヘルメットをかぶり、校長排斥のシュプレヒコールを巻き起こした。種種のスローガンが染め抜かれたのぼり「逆賊遠藤忠志は直ちに辞せよ」「時代遅れのカビめ!」「校長が辞めなければ我々は授業に出席しない」「魚は食べない」がはためいた。石川によって洗脳された生徒たち。反乱。大人しい気風の渋民村は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
 革命は成功した。遠藤校長は転任することとなった。しかし生徒たちの行為は誉められたものではなく、各家庭できつくお灸を据えられた。石川派だった檀徒たちも革命家石川に怒りを禁じ得なかった。石川は辞表を受理されるどころか、免職の辞令が下った。石川は村中から石や馬糞を投げられながら渋民村を逃げ出した。そしてその後二度と故郷の土を踏むことはなかった。ユニオン会の親友たちと和解することは死ぬまで出来なかった。
「大声にふるさと人をののしりて背に石うたれのがれ出でにき」
「石をもて追わるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」
「たのみつる年の若さを数えみて/指を見つめて/旅がいやになりき」
「船に酔いてやさしくなれる/いもうとの眼見ゆ/津軽の海を思えば」
 一家は離散した。父は青森県野辺地、妻子は盛岡の実家、母は渋民村の知人宅、石川と妹は北海道へと。


(五)北海道
 五月五日、陸奥丸で津軽海峡を越え、函館に到着した。学費未納で盛岡女学校を中退していた妹ミツは、姉トラを頼って小樽に向かった。独り石川は函館市青柳町四十五番地の苜蓿社ぼくしゅくしゃに居候をした。苜蓿社は文芸同人誌『紅苜蓿べにまごやし』を発行する文学グループ。ワナビーにとっては「若くして東京で詩集を出版した天才詩人」として有名だった石川を、尊敬すべき成功者として迎え入れたのだった(ちなみに苜蓿社同人たちが憧れを抱いた「天才詩人」という評価は、石川本人の大風呂敷による)。石川がメンバーに加わると共に団体名は「れっどくろばあ」に改められた。団体名が「苜蓿社」で誌名が「紅苜蓿」だとまぎらわしいため。
 こう書けば苜蓿社はちょっとした会社にも思えるが、実状は長屋の一角、小学校教師宅の二階八畳間である。ここで石川は松岡政之助と大井正枝と自炊をした。
 メンバーの中に宮崎大四郎が居た。郁雨いくうの雅号で知られる彼は、出会って以降、金銭面・友情面において石川を長期的にサポートしていくこととなる。大恩人と言って差し支えない強力な貢献により、石川にとって、金田一京助と並ぶ大親友となっていく。
「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」
「函館の床屋の弟子を/おもい出でぬ/耳剃らせるがこころよかりし」
「蒸しタオル/じわっと顔に当てられて/下手な床屋にうぶ毛剃らるる」
「大川の水の面を見るごとに/郁雨よ/君のなやみを思う」
 石川はれっどくろばあ同人の吉野章三の紹介で日雇いのバイトを始めた。函館商業会議所での選挙有権者台帳作成の仕事で、日給は六十銭。五月十一日から月末まで勤めた。それから石川は体調を崩してしばらく寝たきりになった。
「実務には役に立たざるうた人と/我を見る人に/金借りにけり」
「非凡なる人のごとくにふるまえる/後のさびしさは/何にかたぐえむ」
「へつらいを聞けば/腹立つわがこころ/あまりに我を知るがかなしき」
「いつしかに夏となれりけり。/やみあがりの目にこころよき/雨の明るさ!」
 六月十一日からは、やはり吉野章三の紹介で、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となった。月給は十二円。児童数千百余人のマンモス校で、教員は男八名女七名。その中に当時十九歳の橘智恵子がいた。高村光太郎の『智恵子抄』で有名なあの智恵子である。石川は彼女を好きになってしまったが、ちょっかいは出さなかった。後年、処女歌集『一握の砂』一冊を智恵子に贈呈した。そこには彼女を想って詠んだ歌が二十二首収録されている。
「さりげなく言いし言葉は/さりげなく君も聴きつらむ/それだけのこと」
「かの時に言いそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど」
「時として/君を思えば/安かりし心にわかに騒ぐかなしさ」
「わかれ来て年を重ねて/年ごとに恋しくなれる/君にしあるかな」
「死ぬまでに一度会わむと/言いやらば/君もかすかにうなづくらむか」
「かの声を最一度聴かば/すっきりと/胸やれむと今朝も思える」
 石川は小説を書かなくなった。歌を詠む回数も激減した。夢見がちな文学青年を卒業し、真面目な生活者となったのである。二度目の教員渡世。経済的には上向いてきた。青柳町十八番地のアパート四号室に新居を構え、妻子を呼び寄せた。
「海の鳥ふところに入るかく思い潮にのり来し君を抱きぬ」
「かの人とかの人しらべ迷う時来りし故に君をとりにき」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」
 夏休みには母カツを迎えに行った。母は居場所のない渋民村を出て、父一禎の隠居する青森県常光寺に滞在していた。行きの船では一等船室に宿り、帰りの船では二頭船室を使った。旅費はもちろん借金である。ちなみに父は置き去りにしてきた。脚気に掛かった妹のミツも合流し、函館の寓居は石川・妻・娘・母・妹の五人世帯となった。
「わがあとを追い来て/知れる人もなき/辺土に住みし母と妻かな」
 家庭はにぎやかになったが、そのために石川は創作活動を一切行なえなくなった。うるさい環境では静かな思索に耽ることも出来ず、何も書けなくなるものである。石川は日記に「天才は孤独を好む」と記している。
「ただ一つ家して住まむ才能をわれにあたえぬ神を罵る」
「もろもろの悲しみの中の第一のかなしき事に会えるものかも」
「火の山の火吐かずなれるその夜のさびしさよりもさびしかりけり」
「眼閉づれど、/心にうかぶ何もなし。/さびしくも、また、眼をあけるかな。」
 家族四人が映画を観に出掛けた日は、久々に執筆をするチャンスだった。しかしこのとき石川は友人たちと大森浜の海岸で生まれて初めての水泳に挑戦した。
「しらなみの寄せて騒げる/函館の大森浜に/思いしことども」
「潮かおる北の浜辺の/砂山のかの浜薔薇はまなすよ/今年も咲けるや」
「気の置けぬ友と/同じ釜の飯食べし/すき家の牛丼大盛り」
「函館の臥牛がぎゅうの山の半腹の/碑の漢詩からうたも/なかば忘れぬ」
 八月十八日、石川は小学校に在職のまま、函館日日新聞社の編輯局に入社した。必要なときに出社するだけで月給十五円。社長の斎藤大硯たいけんが宮崎郁雨の先輩だったために斡旋してもらったポストだった。石川はさっそく月曜日の紙面に文芸欄を起こし、歌壇や自分の評論を掲載した。芸術家としては停滞したが、経済的には右肩上がりとなった。家族を充分に養える稼ぎ。父一禎の失業以来続く、貧乏生活からようやく脱出できそうだった。
 彼の人生が貧しさにまみれていたのは、大半は石川自身の性格や行動に起因していたが、一度だけ、運が悪いとしか言いようの無い、彼の責任ではない事例があった。もし八月二十五日に不可抗力の大事件が起きなければ、石川の人生はもっと違ったものになっていたかも知れない。
 八月二十五日夜十時半、函館は大火に包まれた。東川町のある夫人の飼っていた牛が灯油ランプを倒し、牛舎が炎上した。強風が火勢を煽り、火は見る間に広がった。火は大洪水のように街を流れた。火の粉は夕立の雨のように、数億万の赤い糸を束ねたように降り注いだ。
 石川は異様な興奮に捉えられた。壮絶な景色を前にして、火におじきをし、にやにや笑った。怖いとか不安だとか残念などという感情は顕れなかった。愉快だと思った。彼の内なる破壊衝動が呼び覚まされた。巨額の建設費を投じたビルが燃え落ちるのを見て手を叩いて狂喜した。革命だと思った。天罰だと思った。旧弊な町がリセットされて新しい時代が到来することに対し、祝杯を上げたい気分だった。
「耳うつをえ解く間もなみ火の如きたつみあがりの風音をきく」
「はつはつと心煙しもえさかる巽あがりの風吹きこしや」
「一盃を飲みほすごとに指を噛み血の一滴をさかづきに注す」
「水晶の宮の如くに数知れぬ玻璃盃はりはいを積み爆弾を投ぐ」
 被害は甚大だった。市中は惨状を極めた。火は二日間燃え続け、函館市の三分の二を焼き払った。一万五千戸が灰燼に帰し、多くの人間・動物が死んだ。煙が空を覆い尽くし、氷河期のように暗くなった。石川の家は危ういところで難を逃れたものの、弥生尋常小学校・函館日日新聞社も焼失した。
「秋の夜の/鋼鉄の色の大空に/火を噴く山もあれなど思う」
「美よき蛾みな火にこそ死ぬれよしえやし心焼かえて死なまし我も」
「君が目の猛火の海にわが投げし小貝の一葉行方知らずも」
 九月一日、学校もろとも焼失してしまった生徒の名簿を新たに作り直した。被災状況を把握するため、公園に生徒を集合させるポスターを同僚たちと貼って歩いた。石川は半ばゴーストタウン化した函館を見限った。この地では生活していけないと感じ始めた。一人、大森浜の海岸に佇む日が続いた。
「大海にむかいて一人/七八日なのようか/泣きなむとすと家を出でにき」
「ゆえもなく海が見たくて/海に来ぬ/こころ傷みてたえがたき日に」
「九十九里つづける濱の白砂に一滴の血を印さむと行く」
「磯ゆけば浪きてわれの靴跡を消せりわれはた君忘れ行く」
「大海の/その片隅につらなれる島島の上に/秋の風吹く」
「たいらなる海につかれて/そむけたる/目をかきみだす赤き帯かな」
「ただ一人海に向いて高らかに歌うさびしき人となりにき」
 札幌に住む友人が、新聞社の校正係に石川を勧誘した。石川は小学校に辞表を提出し、家族を残して札幌に向かった。函館滞在は百三十二日間で終わりを告げた。
「知を教え徳を説きぬる教員の聖人君子であるでもなしに」
「今日九月九日の夜の九時をうつ鐘を合図に山に火を焚く」
「函館のかの焼跡を去りし夜の/こころ残りを/今も残しつ」
 九月十四日、石川は札幌に移住した。北門新報社で校正の仕事に就いた。しかし社の財政難を知った石川は早々にこの職場を見限り、知人に誘われるまま、創刊を控えた小樽日報への参加を決めた。札幌には二週間しか滞在しなかった。
「札幌に/かの秋われの持てゆきし/しかして今も持てるかなしみ」
「わが宿の姉と妹のいさかいに/初夜過ぎゆきし/札幌の雨」
「アカシヤの街樾なみきにポプラに/秋の風/吹くがかなしと日記に残れり」
「しんとして幅広き街の/秋の夜の/玉蜀黍とうもろこしの焼くるにおいよ」
「こころざし得ぬ人人の/あつまりて酒のむ場所が/我が家なりしかな」
「『少年よ大志を抱け』/小志でも/叱られこそせぬ年になりぬれ」
 九月二十七日、石川は小樽に移住し、家族と合流した。小樽日報社で三面主任となった。得意の大口を叩いて得た役職だった。同僚に詩人の野口雨情が居た。編集長の岩泉江東のことが気に食わなかったので、石川は野口と結託して排斥運動を水面下で始動し、岩泉の無能や失策を社長に告げ口した。中学時代のストライキ・教員時代の校長排斥と同様、気に入らない目上の人には消えてもらう。石川の謀叛気は変わっていなかった。
「かの年のかの新聞の/初雪の記事を書きしは/我なりしかな」
「妄想を新聞記事に捏造す/『ニュースの天才』/身につまされり」
「かなしきは小樽の町よ/歌うことなき人人の/声の荒さよ」
 編集長をうまく辞めさせることには成功したが、そのやり口の汚さから石川は事務長の小林寅吉に睨まれた。十二月十二日、調子に乗っていた石川は事務長から鉄拳制裁を浴びた。有り体に言えば、本気で殴られた。急にしょげ返り、一週間ほど無断欠勤をし、そのまま勝手に退職した。
「おれがしこの新聞の主筆ならば、/やらむ――と思いし/いろいろの事!」
「負けたるも我にてありき/あらそいのもとも我なりしと/今は思えり」
「小生は本日付けで退社そろ/二十一日/石川啄木」
 新しい編集長と社長の計らいにより、釧路新聞社に就職が決まった。一月十九日、家族と別れて小樽を発ち、一月二十一日、釧路に到着した。小樽滞在は百十五日間で終わりを告げた。そして、夫婦の関係を冷え込ませる単身赴任が始まる。
「子を負いて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな」
「何事も思うことなく/日一日/汽車のひびきに心まかせぬ」
「ゆるぎ出づる汽車の窓より/人先に顔を引きしも/負けざらむため」
「みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな」
「わが去れる後の噂を/おもいやる旅出はかなし/死ににゆくごと」
「天国のようなる国に行かむとて/我らただかく/さまよいてあり」
「わかれ来てふと瞬けば/ゆくりなく/つめたきものの頬をつたえり」
「うす紅く雪に流れて/入日影いりひかげ曠野あらのの汽車の窓を照らせり」
乗合のりあいの砲兵士官の/剣の鞘/がちゃりと鳴るに思いやぶれき」
「名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の/宿屋安けし/我が家のごと」
「今夜こそ思う存分泣いてみむと/泊まりし宿屋の/茶のぬるさかな」
「さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき」
 釧路新聞社での役職はやはり三面主任だったが、実質的には編集長と同じ待遇だった。総編集を任された。この期待に応えて石川は思う存分健筆を振るい、ライバル新聞「北東新報」を圧倒した。
「治まれる世の事無さに/飽きたりといいし頃こそ/かなしかりけれ」
「事もなく/且つこころよく肥えてゆく/わがこのごろの物足らぬかな」
「何事も思うことなく/いそがしく/暮らせし一日ひとひを忘れじと思う」
 石川は「紅筆便べにふでだより」という連載記事を開始する。これは風俗街に関するルポルタージュで、色恋沙汰の好きな読者の興味を惹き、発行部数をさらに伸ばした。石川は取材先の風俗嬢たちから坊主頭を「小ヤカン」などと呼ばれて可愛がられた。
「ほこりかに人に語りてはじとせぬ浅き恋をも見習うものか」
花売はなうりの花売る如く恋売ると聞きておどろく田舎人かな」
「皮膚病でハゲが三ヶ所/人が見て/小ヤカンとか豆ランプと言う」
 取材がきっかけで知り合った風俗嬢の小奴こやっこと男女の関係になった。
「小奴といいし女の/やわらかき/耳朶みみたぼなども忘れがたかり」
ワイという符牒ふちょう、/古日記の処処にあり――/Yとはあの人の事なりしかな。」(※「Y」はやっこのこと)
「酔いてわがうつむく時も/水ほしと眼ひらく時も/呼びし名なりけり」
「よりそいて/深夜の雪の中に立つ/女の右手のあたたかさかな」
「芸事も顔も/かれより優れたる/女あしざまに我を言えりとか」
 小奴と肉を交える一方、石川は梅川ミサホという薬局助手とも不倫をした。そののち石川は梅川との火遊びを後悔し、日記に「危険な女である」と記した。
「君を見て我は怖れぬ我を見て君は笑いぬその夕暮に」
「一夜妻よく泣く人を手にまきて寝がてに明けしおかしき夜かな」
「日もすがらほほえむ人と夜もすがらよく泣く人と二人めとらむ」
「死にたくはないかと言えば/これ見よと/咽喉のんどきずを見せし女かな」
 新聞社のお茶くみのおばさんからも誘惑された。冷たくあしらった。
「おばさんは/かつてバブルと寝た女/今じゃボディコン袖も通らず」
「正の字を六つ記して/年齢と/偽る五十路いそじ女の虚栄」
「おばさんが/つけまつけずに油性ペンでまぶたに直接/蜘蛛の足描く」
「その容姿に/コンプレックス抱くブス/心もブスで救いようなし」
 石川が仕事と浮気に精を出していたそのころ、小樽に残された家族は極寒の寒さに打ち震えていた。石川からの送金は充分ではなく、ガスも電気も止められる悲惨な生活を送っていた。
「おはようと/言えぬ時刻に起床して家を出でけり/労働のため」
「ヘッド部が壊れた電気カミソリに/頬噛みつかれ/いたち野郎ぞ」
「心から背中に寒さがかじりつきぬる心地とぞする『こころ』から引く」
「いつも逢う電車の中の小男の/かどあるまなこ/このごろ気になる」
「花島の行動範囲は数少なし家駅職場性の病院」
「午前零時止まらぬ詩興が眠らせず/チキショウ/明日も午前五時起き」
 二ヶ月間は新鮮な気持ちで働きまくったが、本当の編集長・日景安太郎の配下に甘んじているのに嫌気が差し始め、徐々に新聞の仕事が馬鹿馬鹿しくなってきた。三月二十三日、仮病を使って初めて会社を休んだ。三月二十四日、仮病を使ってまた会社を休んだ。三月二十五日、仮病を使ってまたまた会社を休んだ。もう止まらなかった。完全に気持ちが切れてしまった。三月二十六日も仮病を使って会社を休んだ。三月二十七日も仮病を使って会社を休んだ。三月二十八日には社長から「ビョウキナオセヌカエ」という電報が届き、決定的に働く気を失った。もういやだ。自分はこんな辺境の地で汲々としているべき人材ではない。詩人にサラリーマン生活は似合わないと、つくづく実感された。
 石川は逃げ出した。小樽日報のときと同様、正式な手続きを取らずに釧路新聞社を辞めた。小樽日報には退社広告(自分で自分の退社を告知するという珍しい広告)を載せたが、釧路新聞にはクビを告げる社告が載った。
「あくび噛み/夜汽車の窓に別れたる/別れが今は物足らぬかな」
「雨つよく降る夜の汽車の/たえまなく雫流るる/窓硝子かな」
「雨に濡れし夜汽車の窓に/映りたる/山間の町のともしびの色」
「水蒸気/列車の窓に花のごと凍てしを染むる/あかつきの色」
「ごおと鳴るこがらしのあと/乾きたる雪舞い立ちて/林を包めり」
「真夜中の/倶知安くちあん駅に下りゆきし/女のびんの古き痍あと」
「石狩の美国びくにといえる停車場の/柵にしてありし/赤き布片きれかな」
空知川そらちがわ雪に埋もれて/鳥も見えず/岸辺の林に人ひとりいき」
 半年の間に、札幌の北門新報社・小樽の小樽日報社・釧路の釧路新聞社を転々とするが、天性の飽きやすさによってどの新聞社も長続きはしなかった。だから、函館が大火に襲われようと、石川の運命は変わらなかったのかも知れない。現代的青年は、根性や粘りが無く、責任感はさらに無く、同じ職場に三年以上勤続することができず、すぐに仕事を辞める。石川も同様だった。結局北海道に根を下ろすことはできなかった。
 見捨てるように函館を去ってから七ヶ月。石川は函館に戻ってきた。親友・宮崎郁雨に厚かましくも家族を託し、一人だけ上京することにした。「天才は孤独を好む」の言葉通り、家族のいない静かな環境で創作的生活に専念し、自らの文学的運命を極度まで試験する決心であった。芸術家としての人生! しかし、勤め人の生活が性に合わず、逃げ出したのが実際である。
「友の厚き情は謝するに辞もない。自分が新たに築くべき創作的生活には希望がある。否、これ以外に自分の前途何事も無い! そしてただ涙が下る。ただただ涙が下る。ああ、所詮自分、石川啄木は、如何にこの世に処すべきかを知らぬのだ。」
 目指すは東京。好摩駅で故郷の人間と出会すのを恐れ、鉄道は利用しなかった。海路を選択した。単身郵船に乗り込み、函館港を出発した。
「霧ふかき好摩の原の/停車場の/朝の虫こそすずろなりけれ」
「おはようと私の言いしあいさつに/誰も返さず/聞こえてすらなく」
「津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子」
「おやすみを告げる相手が見当たらずそっと呟くチラシの裏に」


(六)小説家シボウ
 一九〇八年四月、石川を乗せた船は横浜港に到着した。横浜で東京新詩社の同人にランチをおごってもらい、横浜駅から東海道本線の汽車「C十一二百九十二号機」に乗り、新橋駅へ向かった。
 東京が近づくにつれて景色は徐々に近代化していった。木々は電柱になり、ガス灯は電灯になる。大八車が自動車になり、人力車はタクシーになる。田舎から都会へ。未開から文明へ。過去から未来へ。石川は上京して良かったとしみじみ思わざるを得なかった。東京はますます発展していた。
 東京に入ると景色はいよいよめまぐるしく変化していく。看板がネオンサインとなる。煙突が地面からニョキニョキ生えて黒い雲を吐き始める。鳥が死に絶え、代わりに飛行機が青空を行く。
 車内の様子も変貌する。田舎者は途中駅で下り、代わりに都会者が乗って来る。乗客は洗練され、著しく西欧化していく。和服が洋服になり、下駄が革靴になる。ちょんまげが散切り頭になり、文金高島田がポニーテールになる。風呂敷包みがカバンになる。袴がズボンになり、革靴がスニーカーになる。石川は自身のみすぼらしい和装を羞じ、じっと自分の膝を睨んだ。車内の床をコーラの空き缶が転がってきた。
「こみ合える電車の隅に/ちぢこまる/ゆうべゆうべの我のいとしさ」
「田舎から出てきし少年指をさし/『スカイツリーだ!』/ゴミの煙突」
「垢じみしあわせえりよ/かなしくも/ふるさとの胡桃焼くるにおいす」
「人ありて電車のなかに唾を吐く/それにも/心いたまむとしき」
「列車内マンション広告一億円/じっと見つめる/この子美人ぞ」
 汽車は電車になり、吊革が抗菌仕様になり、中吊り広告が過激になった。電光表示が「次は新橋」を表示し、電車は駅に到着した。駅前には石川の乗っていた汽車が展示されていた。
 ものすごい雑踏だった。かつてこんなにも多くの人間を見たことのなかった石川はあっけに取られた。ネクタイを締めたスーツ姿の男たちが、さも忙しそうに石川の目の前を次から次へと横切っていく。石川は不安になった。自分が前回東京に滞在したのは二年前のこと。たった二年で、魔都は急激に発展していた。無理のあるようにさえ思えるこの変化に、自分はついていけるのか。果たして東京でやっていけるのか、と。石川は、道行く人々の群れを見つめ、激流の中で一人ぽつねんと取り残されたように感じた。
「人がみな/同じ方角に向いて行く。/それを横より見ている心。」
「何処やらに沢山の人があらそいて/くじ引くごとし/われも引きたし」
「ふと深き怖れを覚え/じっとして/やがて静かにほぞをまさぐる」
 東京に着いたらまず、与謝野鉄幹を頼って東京新詩社に赴く予定だった。石川は最初、地下鉄銀座線に乗ろうと思った。しかし東京メトロの路線図が複雑すぎたため、新詩社のある千駄ヶ谷までどう乗り換えれば良いかわからず、結局タクシーを拾った。
 与謝野鉄幹はその芸名を捨て、本名の与謝野寛で芸能活動をしていた。芸名で活動することに一種の気恥ずかしさを覚えたためであろう。見すぼらしい和装で、やに老け込んだように見えた。雑誌『明星』は全く振るっていなかった。
「印刷費が二割も上がったし、紙代も上がったし、それにこの頃はどうしても原稿料を払わなければならぬ原稿もあるし、どうしても月に三十円以上の損になります。……ほかの人ならモウとうにやめて居るんですがねー」
 そのうち小説の話題が出た。近ごろは小説がお金になるので、晶子夫人も歌人から小説家に転職するという。寛は夏目漱石のことを「夏目先生」と呼んで激賞する一方、島崎藤村のことを口を極めて罵倒し、「僕も来年あたりから小説を書いてみようと思ってるんだがね」と気軽に言った。石川が「来年からですか」と訊くと、「マア、君、島崎君なんかの失敗手本を見せてもらってからにするサ」と答えた。他人を批判するだけで、自分は動こうとしない。もはや与謝野寛は旧時代の遺物だった。石川は大変悲しんだ。と同時に、寛から得られる物はもはや無いとも思った。
禿頭とくとうや老眼などの/不具合を/残せし神は無能と思う」
「死ぬさだめ/享受せむや甘んじて/なれど神様ちゃんと作れよ」
「『バーコード頭のハゲを/ピッしたら値段が出た』/って嘘だと思う」
 石川は寛のことを軽侮したが、便利な止宿先としては話は別だ。手頃なアパートが見つかるまで、東京新詩社イコール与謝野宅にしばらく厄介になることにした。
 五月二日、石川は寛に連れられて、観潮楼の歌会に初めて出席した。観潮楼とは、みやびな名で呼んだ森鴎外の住居のこと。歌会の参加者は森鴎外・石川啄木・与謝野寛・夏目漱石・島崎藤村・伊藤左千夫・北原白秋・佐々木信綱・平野万里・吉井勇という超豪華メンバー。あきれるほど錚々たる顔ぶれに対し、石川は借りたタキシード上下を着て臨んだ。題詠で一人八首を作り、鴎外が用意させた豪華な洋食を食べたあと、各々の短歌を採点した。採点の結果、ご馳走を振る舞った効果で鴎外が一位、石川は三位タイだった。佐々木信綱は気の毒なことにたった五点しか獲得できなかった。佐々木は親譲りの歌の先生であり、千人近い女弟子を抱え、大学の講師も務めていたが、中学中退の石川に惨敗してしまった。この四日後に佐々木は自ら命を絶った。
「我が和歌は/我の隣の先生より/日本語多少ましやも知れず」
「赤点の和歌を/八首も並べたり/そのうち二首は及第点かな」
「結晶の如くまったき歌詠みたい?/気張りすぎだぜ/化学式かよ」
「ただでさえ字数少なき/短歌にて/枕詞の窮屈さかな」
「質なれど/量がありての質となる/例を挙ぐればピカソの如し」
「我の和歌打率一割/五百首をまとめるならば/五千首詠まねば」
 歌会でまずまずの戦果を挙げた石川は、その二日後、本郷区菊坂八十二の「赤心館」というアパートに入居した。金田一京助の部屋の隣室。石川の人生における「終わりの始まり」である。
 ここで石川一の人生に金田一が久々に登場する。「終わりの始まり」と書いた直後にご登場いただくと何やら死神めいた印象を与えるかも知れないが、実際は大恩人である。金田一が居なければ石川一の人生は「終わりの始まり」さえ迎えずにそのまま「終わり」を迎えていたことだろう。観潮楼歌会に着ていったタキシードを貸してくれたのも金田一だし、赤心館への入居を世話してくれたのも金田一だった。死ぬまで石川一は金銭・精神の両方面において金田一から多大なるサポートを受けることになる。
 金田一は石川一の天才を高く評価していたし、聖人とも思えるほどのお人好しな性格ではあったが、それを差し引いても石川一に対する温情は常軌を逸していた。二人の関係はボーイズラブに近かったのかも知れない。実際、石川一は日記にこう記している。
「金田一君という人は、世界にただ一人の人である。かくも優しい情を持った人、かくもきよらかな情を持った人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきで無い。もし俺が女であったら、屹度きっとこの人を恋したであろうと考えた。」
 さて。小説家の夢に燃え、家族を北海道に放置してきた石川は、赤心館二階の自室で独り、小説を書きまくる。短歌も詩も簡単に作れたから小説執筆も楽勝だと思っていたし、かつてその文章力を井上ひさしから「日本史上、五指に入る日本語の使い手」と絶賛されたこともあったので、天狗になっていた(ちなみに井上の言う「五指」とは、紫式部・松尾芭蕉・井原西鶴・石川啄木・井上ひさしの五人を指す)。石川は自分の天才を信じて疑わなかった。
「書きたい事は沢山ある。あるけれどもまだ書こうと思う心地がしない。サテ短篇よりは長篇を書きたい。長篇を書いては、書ききれぬうちに飢ゆるであろうと云う心配がある。早く何らか下宿料を得る途がつけばよいがと考える。(略)二時頃から夜の十二時までに、短篇『菊池君』の冒頭を、漸々ようよう三枚書いた。書いてる内にいろいろと心が迷って、立っては広くもないしつの中を幾十回となく廻った。消しては書き直し、書き直しては消し、遂々ついついスッカリ書きかえてしまった。自分の頭は、まだまだ実際を写すにはあまりに空想に漲って居る。夏目の『虞美人草』なら一ヶ月で書けるが、西鶴の文を言文一致で行く筆は仲々無い。」
 この日記を読んで、人によっては「たった三枚書くのに十時間掛かっていて、どうして『虞美人草』が一ヶ月で書けるのだろう。どうしたって計算が合わない」と思うかも知れない。だが、石川はこの後一ヶ月ちょっとで三百枚以上の小説を書き上げるので、あながち強弁とも言えない。槍玉に上がった夏目も大学生の時に、尾崎紅葉『金色夜叉』を評して「なあにおれだってあれくらいのものはすぐ書けるよ」と言っているし、若さゆえの自信過剰と思って許してほしい。
 口では大阪城も建つ。赤心館にいる間に石川が脱稿した小説・構想した小説のタイトルを列記しておく。
『菊池君』『南の人北の人』『下宿屋の主人』『大井蒼梧君の事』『病院の窓』『舞踏』『海城中学の書記をしてる音楽家』『母』『天鵞絨ビロード』『底なしの恋』『姉』『盃底の火(底なしの盃)』『青梅』『裏の家』『朝』『言葉狩り』『二筋の血』『開業医』『伯父の家』『刑余の叔父』『八月の村』『喀血』『盲目の少年』『寺の下宿番』『宝掘り』『兄と弟』『その人々』『級友』『夏草』『静子の悲』
 石川は書いて書いて書きまくった。ツルゲーネフをライバルと目したり出版社への原稿持ち込みを行なったり文学賞に応募したりした。これは『石川一全歌集』の前段に当たる評伝なので、小説に関しては引用を控えるが、多くは自然主義の小説だった(ただし、連歌形式の小説『言葉狩り』だけは短歌の変奏と見なし、後段にて全文を引く)。
 アマチュア作家としての毎日だったが、小説執筆の他に、不倫にも文字通り精を出した。三年前にディスコで知り合って以来メル友を続けていた植木貞子(ストリートダンス講師の娘)との逢瀬を重ねた。
「本日は/昔の女の誕生日/いまだに記憶するぞ悲しき」
「思い出の中のあの子は/いつまでも若々しくて/常にあのまま」
「エレベーター/十三番目のフロアーに我を降ろしぬ/永遠とわに閉じけり」
「火の如き少女つと出づうつろなる都の響きごうたるなかゆ」
「目の前の女子高生が/どストライク/硬きバットを振らざるを得ず」
「こっち向け/俺を幻滅させてくれ/でないと好きになっちまうから」
 石川の日記に植木貞子の名が初めて登場するのは五月七日で、それから毎日のように言及される。長文のメールをやりとりしたり、実地に会って東京弁を習ったりした。実地に会ったのは五月十日、十四日、十五日、十七日、十八日、二十日、二十三日、二十四日、二十七日。肉体関係も結んだ。
「『一目惚れ?/話もせずに好きになる/そーゆー人って信じらんない』」
「一目惚れ/信じないと君は言うが/獣はみんな会話はしない」
「一目見て好きになったよ/正確には/すぐに一発ヤリたくなった」
「君は美女/そして性格サイアクだ/つまり君とは一度やりたし」
「君来るというく起き/白シャツの/袖のよごれを気にする日かな」
 植木貞子が早朝から訪ねてきた五月二十四日には、長女京子がジフテリアで死にかけていることを報せる手紙が届き、石川は激しい罪悪感に苛まれた(京子は宮崎郁雨の看病で一命を取り留めた)。その上、自身の懐具合も芳しくなくなり、煙草銭にも事欠き、原稿用紙やインクも尽き果てる次第。下宿代は無論払わない。上京して一ヶ月でさっそく新生活に暗雲が立ちこめ始めた。
「いと重く病みて痩せぬと文よめど夢に見るは笑みて痩せざり」
「やめる児をこの一心に癒さむと勇ましくいう君にまた泣く」
「重く病むその児の母よ君もまた生れざりける世をば恋うるや」
 一計を案じた石川は、六月四日、森鴎外に『病院の窓』と『天鵞絨』を出版社に紹介してくれるようお願いに上がった。そのおかげで『病院の窓』は春陽堂で買い取る事に決まったが、原稿料は雑誌に掲載されてから支払われることになった。そして結局、生前には活字にならなかった。
 石川のこれまでの人生を考えたとき、石川一が東京で再び困窮することは明らかだった。その窮地を救ったのは金田一だった。金田一は自分の服を売って石川一の下宿代を捻出したり、昔の借金さえまだ返してもらっていないのに石川一に金を貸した。誠に、金田一こそは石川一の大恩人である。石川一は感謝の意を表するため、夜店で買つて来た青磁の花瓶を金田一にプレゼントした。金の出所? 金田一からの借金である。
 石川一は創作に行き詰まった。生活に行き詰まった。人生に行き詰まった。
 六月十七日には川上眉山の自殺を知って深く困惑し動揺した。
「昨日の新聞にあった、一昨晩剃刀で自殺した川上眉山氏の事について考えた。近来の最も深酷な悲劇である。知らず知らず時代に取り残されてゆく創作家の末路、それを自覚した幻滅の悲痛! ああ、その悲痛と生活の迫害と、その二つがこの詩人的であった小説家眉山を殺したのだ。自ら剃刀をとって喉をきる、何といういたましい事であろう。創作の事にたずさわっている人には、よそ事とは思えない。」
 石川一はストレス解消のため、町で目についたカワイコちゃんのあとを「すき歩き」と称して付け回した。女たちはストーカーの尾行に気付き、早足で逃げ去った。
「少女子を狩りにゆかむと立つときにかならず見たる小さき鏡よ」
「一葉の葉書を君の入れたるを見しより愛す角のポストよ」
「悲しみにみたる時に出て歩く男に君は出逢いたるかな」
「道ゆけば若き女のあとおいて心われより逃げゆく日かな」
「ためらわずその手取りしに驚きて逃げたる女再び帰らず」
「今日逢いし町の女の/どれもどれも/恋にやぶれて帰るごとき日」
「巡査来て怪しと我をひきゆきぬ君が家あたり徂徠ゆききするをば」
「なびかざりき。/『ならいっそのこと死んじまえ』/いとも醜き嫉妬心かな!」
 植木貞子との関係を絶つため、わざと冷たくした。日記に「恋をするなら、ほのかな恋に限る」「恋には歓楽と苦痛とあるが、浮気は楽しみ一方だから浮気に限る」と書いている。植木貞子は石川に完全にお熱で、その情熱が石川には少しうざったく感じられるようになってきていたのだ。
「床の間と文机ふづくえ火鉢いろいろの城壁きずき君を防ぎぬ」
「われ君に追わると知りておなじ路日毎に逃げて十余日あり」
「『何故に君に無心を装うや』『君を恋せぬ前を恋う故』」
「ブスな子は三日で慣れむ/美女の子は三日で飽きむ/肝は性格」
「わが室に女泣きしを/小説のなかの事かと/おもい出づる日」
「つくづくと手をながめつつ/おもい出でぬ/キスが上手の女なりしが」
 順調ではない創作活動・行き詰まった小説家の自殺・経済難・こじれた不倫・北海道に残してきた家族への義務感……。種種のストレスに悩まされた石川は、その捌け口として歌を詠み捨てた。横書きのノートを縦に使い、六月十四日から十月十日まで、六百五十二首の短歌を書き殴った。のちに珠玉の歌集『一握の砂』へと結実することになる歌稿ノート『ヒマナ時』である。ヒマナ時。いかに気楽な気持ちで詠歌をしたかが窺える投げやりなタイトルである。
「わが歌の堕落の道をせ来しに瘋癲院ふうてんいんの裏に出でたり」
「カギカッコ/白抜き文字の美しさ/まるで『バールのようなもの』かも」
「十七文字しかも季語をば入れなけりゃならない俳句アクロバチッ句」
「自由律『咳をしても一人』だけで教科書に載る俳人もありき」
「自由律俳句を唱えし人偉しこの句も自由律俳句なり」(自由律俳句)
「人には吠えない犬が僕にだけ吠える」(自由律俳句)
「蟻の巣に突き刺さりしタバコの吸い殻」(自由律俳句)
「藤枝の奇作『田紳有楽でんしんゆうらく』のごとき短歌を吟じたくあり」
 六月二十三日の夜、石川は布団に入ったまま何となく歌を詠じていた。すると、次から次へと歌が出来上がるので、とうとう起きあがり、『ヒマナ時』に書きつけていった。インスピレーションの爆発は留まることを知らず、石川は結局徹夜をした。ポール・マッカートニーが『イエローサブマリン』を作曲した時と同じ状態「トワイライト・ゾーン」である。日記にはこうある。
「昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻にさかんになって来て、ついつい徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとえるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作ったもの、昨夜百二十首の余」
「頭がすっかり歌になっている。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作った。父母のことを歌う歌約四十首、泣きながら」
 二日間で二百六十一首の歌を作った。小説家としての修業が功を奏し、さまざまな奇想に富んだ歌が生まれたのだ。その中には『一握の砂』のタイトルの由来となる「につたう涙のごわず一握の砂を示せし人を忘れず」も含まれていた。石川自身には知る由もなかったが、この夜こそがのちに石川の名を文学史に刻む端緒となった。これらの歌は清書され、『明星』に送付された。
「石一つ落して聞きぬ千仞せんじんの谷轟々ごうごうと一山をる」
「山呼んで山が動かず自分から歩き始めしとんち預言者」
UFOユウホオが京都の夜を横に飛ぶきっとかぐやの送迎ならむ」
「『神曲』の中で嫌いな知り合いを地獄に落とすダンテアリゲリ」
「生きているゴキブリを食う大会で/口からブチュリ/まるでマヨネーズ」
「砂浜に打ち上げられし流木にたかるフナムシあな水死体?」
「老人は昔は良かりと言うけれど昔もひどし知らざるのみなり」
「拳銃を向けられずとも『手をあげよ』あげねば死ねる横断歩道」
「『パパとママどっちが好きだ?』『どっちも』と齢五才で気を使う子よ」
「先刻まで元気に遊びてある子らがその三秒後肉塊となる」
「国道で轢かれし毛皮ぺしゃんこに前世は多分猫なりしかな」
「『赤信号みんなで渡れば怖くない』そんな時代がなつかしいやら」
「競馬場『カセギガシラ』という馬に想いを致す『馬頼みの家?』」
「ダリの妻ガラに似ているおばさんのスーパーで買う海老の惣菜」
「『ただいま』と言えば『おかえり』と返事する嬉しかれど一人暮らしぞ」
「ナマモノを/冷蔵庫へと入れ忘れ/レンジで温めなめこ汁飲む」
「コピー機に顔押し付けてコピーする魚拓のような矢野の顔面」
「三百の職工は皆血を吐きぬ大炎熱の午後の一時に」
「火をつくる大エンジンのかたわらに若き男の屍をつむ」
「愛犬とディープキスせし友人が舌を噛まれて深夜病棟」
「半身に赤きあざして蛇をかむ人を見しより我はかく病む」
「色盲や緑内障のある如く我見し世界あの子と違うや」
「はてもなき曠野の草のただ中の髑髏を貫きて赤き百合咲く」
 短時間でものすごい量の短歌が出来上がったが、これを換金する方策はなかった。『明星』に送ったところで、原稿料をもらえる契約を結んでいるわけではなかった(ただし、今回に限り原稿料として五円が送られてきた)。歌の先生にでもならぬ限り短歌で飯が食えるわけはなく、歌人という職業はない。所詮、歌は趣味だ。石川は己を歌人ではなく小説家として自負していた。そしてその小説が書けなくなった。書けても金にならない。石川はいよいよ落ち込んだ。自殺を考えた。
「ああ、死のうか、田舎にかくれようか、はたまたモット苦闘をつづけようか? この夜の思いはこれであった。いつになったら自分は、心安くその日一日を送ることが出来るであろう。安き一日!?
 死んだ独歩氏は幸福である。自ら殺した眉山氏も、死せむとして死しえざる者よりは幸福である。
 作物と飢餓、その二つの一つ!
 誰か知らぬまに殺してくれぬであろうか! 寝てる間に!(註・芥川龍之介『歯車』の末尾「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」の影響)」
「目をさますと、凄まじい雨、うつらうつらと枕の上で考えて、死にたくなった。死という外に安けさを求める工夫はない様に思える。生活の苦痛! それも自分一人ならまだしも、老いたる父は野辺地の居候、老いたる母と妻と子と妹は函館で友人の厄介! ああ、自分は何とすればよいのか。今月もまた下宿料が払えぬではないか?
 To be, or not to be ?
 死にたい。けれども自ら死のうとはしない! 悲しい事だ、自分で自分を自由にしえないとは!」
 石川は自殺を実行に移すことはなかった。蔵書を売って煙草銭を得たり、女ったらしの吉井勇と出歩いたり、正宗白鳥と面会したり、子連れのブスから手を触られたりして日々を過ごした。
「『さばかりの事に死ぬるや』『さばかりの事に生くるや』止せ止せ問答」
「究極の逃亡のため/片道の切符を手にす/蒼き刃を」
「尋常のおどけならむや/ナイフ持ち死ぬまねをする/その顔その顔」
「よく笑う若き男の/死にたらば/すこしはこの世さびしくもなれ」
「天に問う今もし一人我しなばわが父母ちちははをいかに処するや」
 七月八日、大学の前で催された植木市を通り掛かり、やるかたない孤独感に苦しめられた。
「今夜ほど沢山の人の出た事は今までになかった。(略)小児が野に花を尋ねる時のように見てあるいてると、何という事もなく、目が眩しいようで、耳が鳴るようで、妙な圧迫が頭の中に起こった。胸の中が冷えて、冷えて、暗く淋しくなって、四辺の華やかさを見れば見るほど、淋しさがますます深くなる。目が一層急がしくなる。ついつい俺は大声をあげて泣き出したいような気持になった。何度目かに本郷館の前まで来たとき、ちょっと立って見廻すと、数限りなき美しき人がゾロゾロと向うから来る。妙な怒りが体中に伝った。我ながらただ一人ウロツいている自分が見すぼらしい。馬鹿なと叱ってみても、やはり見すぼらしい。淋しい。生き甲斐がないような気持だ。絶望と憤怒とが一緒になって、鋭く自分を嘲る。こらえきれなくなって帰って来た」
「すずしげに飾り立てたる/硝子屋の前にながめし/夏の夜の月」
「鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/見すぼらしげに歩むものかも」
「死ね死ねと己を怒り/もだしたる/心の底の暗きむなしさ」
「死にたくてならぬ時あり/はばかりに人目を避けて/怖き顔する」
「いくたびか死なむとしては/死なざりし/わが来しかたのおかしく悲し」
 石川が二日間で吐き捨てた歌のうち百十四首が『明星』七月号に「石破集」と題して掲載された。いくつかの歌は与謝野寛によって添削が施されていた。もとより吐き捨てた歌であるし、どう改変されても未練はなかったが、不快には違いなかった。日記には「与謝野氏の直した俺の歌は、皆原作より悪い。感情が虚偽になっている。所詮標準が違うのであろうから仕方がないが、少し気持が悪い」と漏らしている。
 寛の仕打ちに想を得て、七月十一日、石川は『言葉狩り』という作品を書き上げる。この作品を小説として分類する研究者もいるが、ここでは短歌群と見なし、以下にその四十九首を全て掲げる。
「われはこの牧場まきばで/自給自足にて/晴耕雨読を営めり」
「さまざまな家畜を飼いたる/わが牧場/牛豚羊鶏魚」
「さまざまな野菜を植えたる/わが牧場/米麦人参大根白菜」
「薩摩芋牛蒡馬鈴薯/玉蜀黍茄子葱胡瓜/キャベジレタス」
手懐てなずけし禽獣きんじゅうかこう/柵の中/われに群がる給餌のひととき」
「喰うための/食材として育める/家畜なれども情も移れり」
「雌豚の頭を撫でし/その時に/柵の外よりヤツら来たれり」
「十四五人/老若いずれも男にて/各々武器を手に吶喊とっかんす」
「柵を、のりを越えて/闖入ちんにゅうせしヤツら/ち殺さるるわが家畜たち」
「わが制止の声は虚し/聞かれまじ/惨き殺戮は止まらざりき」
「見る見るうち/無抵抗の動物の/死骸累々死骸累々」
「われ叫ぶ/『うぬらの働く狼藉は何のいいぞ』と/声を限りに」
「叫べども一向に腕を止めむとせず/わが畜を打つ/屠殺の腕を」
「緑なりき/赤く染まりたる牧草の/なびきしは今や血深泥ちみどろの沼」
「血の匂うわが安らぎの地/『な殺しそ』/声を限りにわれは叫びぬ」
「ヤツらのうち/おさと思えるハゲオヤジ/われに向かいてくすくす笑う」
「『この牛や豚や羊や鶏は/危険がゆえに/殺してしまう』」
「『何が危険/無害にあらずやわが獣/だってこんなに大人しいじゃんか』」
「『人を噛む噛まないの議論にやあらず/諦めよ/これはお上のお達し』」
「罵りしわれには構わず/動物をほふってわらう/男たちの目」
「脳天を重き斧にてかち割らる/優しき牛の/断末魔の声」
「豚に似し男が/豚を殺し言う/『なれの家畜は不愉快なるかな』」
「めえめえと/命乞いするわが羊に/振り下ろさるるなたの一撃」
「うらめしや/馬がいななき犬が吠ゆ/わが下僕たちに何の罪やある」
「じっと睨むわれの視線を/気にしてか/『俺はこいつにアレルギイあり』」
「つまり何か/なれの都合が原因で命取らるか/わが鶏は」
「伝染病でも持ちたれば/仕方無し/間引かるるのも承服すれども」
「咎も無く断罪さるる/わが家畜/命を奪わる理由は『不快』」
「毒を飲む/養殖池の魚たち/水面に浮かぶ白き腹かな」
「丹誠を込めし彼らを処分され/頬を伝いぬ/ぬるき涙が」
「『今日からは/なれは野菜を食べるべし/生臭の調理一切を禁ず』」
「捨て台詞/吐きて去りぬる男たちの/背をわれ睨み血に膝を着く」
「人を毀損する能う強き獣なれど/余りに惨し/惨きかな嗚呼」
「味気なき精進料理ぞ出来上がる/辛みもぞなし/野暮ったき味」
「ふと醒める牧場の夢/あれは夢/しかれど頬には涙のあとかも」
「書きかけの原稿用紙を枕にし/〆切前に/眠りたるらし」
「ハゲオヤジが/寝惚け眼のわれを訪い/苦き顔して文に朱を入る」
「赤き筆もて/我が歌を消したまう毎に/一すじ胸に裂隙ひび入る」
「咎も無く断罪さるる/わが言葉/命を奪わる理由は『不快』」
「『盲なる語句を用いることなかれ/目不自由なる/人に失礼」
「聾なる語句を用いることなかれ/耳不自由なる/人に失礼」
「跛なる語句を用いることなかれ/足不自由なる/人に失礼」
「白痴なる語句を用いることなかれ/馬鹿に馬鹿てう/馬鹿に失礼」
とくと知れ/乞食を乞食と書くなかれ/家なき者はホオムレスなり』」
「われは問う/『禿にハゲとは言うまじや』/ハゲオヤジ殿『然り』と答えり」
「われは笑む/『されば汝は/毛髪の不自由な方とお呼びすべきか』」
「わが料理の味をピリリと引き立てる/一匙の毒/一言の語」
「わが言葉が誰かの舌を傷めても/われは譲らじ/言葉に咎無し」
「わが言葉は命を持てり/生きて御座居/いずれも可愛き下僕たちなり」
 このころ金田一の妹が入水自殺を遂げた。嘆き悲しむ金田一に、石川一は自分も抗しがたい死の誘惑に襲われていることを告白した。金田一は「石川君は、僕の著す回想録では、明治の最後の年に死ぬことになっているのだから、今死なれては困る」と言って引き留めた。石川一は今すぐ死にたかったがもう少し苦しむことにした。しかし日記のページは死への欲求にまみれた。
「誰か訪ねようと思っても、出かけるのも臆劫だ。本を手にとる気もない。ましてペンを執るような気持ちじゃない。神経衰弱にかかってるなと気がついた。」
「死にたいという考えが湧いた!」
「いかなる言葉を以ても、この自分の心の深いところをば言い表わす事が出来ぬ。だから死んだ方がよいという事を、半醒半眠のうちに念を押して二三度考えた。死ぬと考えながら、ちっともその手段をとらぬ事を自分で疑ってもみた。老いたる母の顔が目に浮かんだ。もし自分が死んだら! と思うと、涙が流れた。泣いてるうちにまた眠ってしまったらしい」
「しめやかな気持が続いている。この数日は、女というものが自分の心から遠ざかったようだ。その代わりに、生命その者に対する倦怠――死を欲する心が時々起こって来る。歌を作ってるのは、煙草をのむと同じ効能がある。それ以上の事はない。そして、一人何もせずにいると、自分はついに敗れたる哀れな一 Soul だ!」
「夜の空の黒きが故に黒という色を怖れぬ死の色かとも」
「その心弱きを憎み生れ得て弱き男は死ぬべし死ぬべし」
「死に場所を見つけねばならぬという考えが、親孝行をしたいという哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧している。静かに考えうる境遇、そして親を養うことの出来る境遇、今望む所はただそれだ。
 何事も自分の満心の興をひくものがない! ああ、生命に倦むというのがこれかしら。何事も深い興がなく、極端な破壊――自殺――の考えがチラチラと心をそそのかす。重い重い、冷たい圧迫が頭から去らぬ。」
「聞きたまえ同情という大石に圧されてうめく男の声を」
「大いなる都の中に我ひとり為すこともなし死なむと思う」
「ゆくという寝むというよし帰らむという/更によし/やがて死ぬらむ」
「古い日誌を取り出して、枕の上で読む。五行か十行読むと、もう悲しさが胸一杯に迫って来て、日誌を投げ出しては目を瞑った。こんな悲しい事があろうか。読んでは泣き、泣いては読み、これではならぬと立って卓子に向った。やがて心が暗くなってしまって、ペンを投じて、横になって日誌を読んだ。かくする事何回かにしてこの一日は暮れた。
 身一つ、心一つ、それすらも遣り場のない今の自分! 死という問題を余り心で弄びすぎるような気がするので、強いてその囁きを聞くまいとするが、いつかしらその優しい囁きが耳の後から聞える。敢えて自殺の手段に着手しようとはせぬが、ただ、その死の囁きを聞いている時だけ、何となく心が一番安らかなような気がする。」
「一日故山の事ばかり考えた。単純な生活が恋しい。何もかもいらぬ。ただ故郷の山が恋しい。死にたい。」
「今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば、/ふるさとに行きて死なむと思う。」
「うつらうつらと、気のぬけたような心地で、蚊に攻められながら、いろいろの事を考えた。大ざっぱに言ってみようなら、自己の価値、文学の価値、それらがすべて疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。俺は生れてから今が一番真面目な時だ。しかし今でもまだ不真面目なところがある。」
 家賃の督促は激しさを増した。もう何も売る物も質に入れる物もなかった。煙草銭を節約するため禁煙に挑戦するが、すぐに挫折した。家賃を払えなければ退去しなければならなかった。しかるに、家賃は到底払えそうになかった。小栗風葉おぐりふうようの書生になろうと思って小栗邸を探したが、場所を知らなかった。町々をうろつき回るだけで終わった。その夕方、石川は発作的に電車の前に飛び出そうとした。が、礫死体の汚さや自分の轢死を報じる新聞記事などを想像し、すんでの所で思い留まった。石川の精神状態はのっぴきならない所まで来ていた。手元にピストルがあれば綺麗に死ねると思った。
「いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに」
「ぴすとるを内ふところに入れありく男をみればおそろしきかな」
「誰そ我に/ピストルにても撃てよかし/伊藤のごとく死にて見せなむ」
鶏頭けいとうを起し照準ねらいをさだめたるその時我に神なし神なし」
「こそこその話がやがて高くなり/ピストル鳴りて/人生終る」
「森の奥より銃声聞ゆ/あわれあわれ/自から死ぬる音のよろしさ」
 窮地を救ったのはやはり金田一だった。頼まれるでもなくアパートの管理人室に出向き、厳しい督促をしていた大家を叱りつけて来た。死に至る病に冒された石川一を訪れ、にっこり笑って十六円を差し出し、「これを宿に払いなさい」と告げた。石川一はあまりの事に開いた口がふさがらなかった。何と言ってよいか急には思い付かなかった。金田一だってお金が有り余っているわけではない。ただ石川のためを思って私財をなげうったのだ。真に、聖人君子の類として記憶されるべき人物であろう。小説家をめざす者はすべて金田一と友誼を締結するべきである。
 厚い友情によって石川一の鬱病はひとまず収まった。家賃を振り込み、残ったお金で蚊取り線香と携帯電話を買った。携帯電話は金田一に勧められて買った。
 八月、植木貞子との関係は完全なる終止符を打った。石川は当初不義密通の禁断の味に酔いしれていたが、それにも飽き飽きし彼女を疎ましく思い始め、悪口を日記に書きつけたり、携帯のメールで友だちに愚痴をこぼしていた。それが貞子にバレた。彼女は急に冷たくなった石川の留守を襲い、携帯電話のメモリーと日記を盗み見たのだ。彼女は石川の日記帳と『天鵞絨』原稿と『ヒマナ時』を持ち去り、「返してほしければ取りに来い」と置き手紙をした。石川は激怒した。相手の挑発には乗らず、メールを送りつけて脅迫した。数日後、一切合切は戻ってきたが、日記は貞子の悪口を書いた部分が破り取られていた。
「君よ君/君を殺して我死なむ/かくわがいいし日もありしかな」
「瓶ガラス瀬戸物の如き/が心/こわれものとぞ顔に書きたれ」
「揺れ動く乙女心に/気づかざる/男というは馬鹿な生き物」
「一方で/女も男を解さざらむ/ふたりは永遠にすれ違うかな」
「今も猶恋に死ぬ人あり/かかる大事は/史書に記すべかりける」
「鼻少し曲れるひとと髪赤き人に恋われて泣きて怒りぬ」
 八月二十一日、石川一は金田一と浅草に遊びに出掛けた。ナイアガラ大瀑布の映画を観たほか、凌雲閣りょううんかくを訪れた。関東大震災で倒壊するこのタワーの膝元は私娼窟だった。浅草十二階下の伏魔殿に石川一は初めて足を踏み入れた。金欠だったので女を買うことはなかったが、のちに風俗狂いとなるその第一歩であった。
「浅草の雷門の提灯に/松下の名のある訳は/膝」
「スクリーンスポーツセックス/愚民への/戦後日本の3S政策」
「ダックウォク/モンローウォーク/シリーウォク/ムーンウォーク/エドノオオオク」
「浅草の凌雲閣に/かけのぼり息がきれしに/飛び下りかねき」
「浅草の凌雲閣のいただきに/腕組みし日の/長き日記かな」
「ギャルの立つ硝子の塔の十二階/スカートの中/見えそで見えぬ」
「高きより飛びおりるごとき心もて/この一生を/終るすべなきか」
 八月二十九日、読売新聞の三面記者募集に応募した。釧路新聞時代に書いた記事を同封して履歴書を郵送したが、不採用だった。希望給料をわざとべらぼうな高額にしたのがいけなかった。
「俺には才があり過ぎる。俺は何事にも適合する人間だ。だから、何事にも適合しない人間なんだ!」
「恋あるは恋に死ぬらむ/才あるは才に死ぬらむ/すべて死ぬらむ」
が才に身をあやまちし人のこと/かたりきかせし/師もありしかな」
 九月六日、金田一は赤心館を離れる決心をした。大家から石川一の家賃延滞について随分とひどい談判を受け、憤慨していたのだ。金田一は大量の蔵書を売り払って費用を捻出し、石川一を連れ、本郷区森川町一番地新坂三五九の「蓋平館がいへいかん別荘」というマンションの三階に引っ越した。二人は別室。石川は元々布団部屋だった三畳一間に入居した。金田一は引っ越し費用とは別に五円を石川一に分け与えた。本当に、金田一の厚意は尋常ではない。石川一は節子とではなく金田一と結婚すべきだったのではないかとさえ思えてくる。
 九月十一日、石川は電話恐怖症を克服する。
「並木から電話。実は俺は電話はイヤだった。イヤというよりは恐ろしかった。四年前にかけた事があるッ限り、だから、何という訳もなく、電話に対して親しみがない。(略)何でもなかった。これからは、いくら電話がかかって来てもよい。」
「ケータイのバイブ鳴動/『あのコかな!』飛び付いてみる/またアマゾンぞ」
 最先端の文化に乗っかると共に、『源氏物語』などの古典を復習した。小説『級友』『静子の悲』『樹下の屍』『青地君』『泥濘』を書いた。しかし小説をお金に換えることは叶わなかった。国木田独歩・小栗風葉・真山青果らの才能を心底羨ましく感じた。
「売り売りて/手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る/夏の末かな」
「くだらない小説を書きてよろこべる/男憐れなり/初秋の風」
「漂泊の愁いを叙して成らざりし/草稿の字の/読みがたさかな」
「あめつちに/わが悲しみと月光と/あまねき秋の夜となれりけり」
 小説家・石川啄木が東京で燻っている間、家族は赤貧に喘いでいた。まさしく鍋の底を舐める生活で、宮崎郁雨の存在が無ければとっくに飢え死にしていただろう。しかし宮崎郁雨は所詮は赤の他人。頼るにも限度があった。母カツは石川からの仕送りを首を長くして待っていた。東京で小説家として成功を納めた息子からの、仕送りを。──いつまで待っても届くはずがなかった。
「わが母は今日も我より送るべき為替を待ちて門に立つらむ」
「百二百さるはした金何かあるかくいう我を信ずるや母」
「ただ一人の/おとこの子なる我はかく育てり。/父母もかなしかるらむ。」
「父母のあまり過ぎたる愛育にかく風狂の児となりしかな」
 妻の節子は「夫は頼りにならない。このまま待ちぼうけていては餓死する」と一念発起、四年ぶりに就職をする。函館区立宝尋常高等小学校の代用教員となり、月給は十二円。朝八時から夕方までのフルタイム勤務。娘の面倒は石川の妹光子に看てもらうことにした。十月十九日に初出勤した。
 節子就職から一週間後の十月二十六日、宮崎郁雨が節子の妹ふき子と婚約をした。これにより宮崎郁雨は、石川の親友から石川の義弟へと昇格することになった。
 一方、東京の石川にも転機が訪れた。『静子の悲』のリメイク・バージョン『鳥影』が、東京新詩社の同人・栗原古城の紹介によって、東京毎日新聞で連載されることになったのだ。ようやく職業作家としてのスタート地点に立つことができた。原稿料は一回一円で、十一月一日から年末まで五十九回続いた。石川はようやく夢を叶えたが、同時に、新聞連載の苦痛を存分に味わった。
「終日ペンを執って、(二)の三を書き改めた。そして遂に満足することが出来なかった。全篇の順序を詳しく立てて見ようとした。遂にまとまらなかった。夜の九時頃には、後脳こうのうが痛んで来て、頚窩けいかの筋が張った。(略)この日の苦悶は、俺をして何故に小説を書くかを疑わしめた!」
 執筆のストレスで石川の生活は荒れた。浅草で映画を観たり、「O-mi-tsu-san」という売春婦を抱いたり、スリに財布と実印を盗られたり、深夜にタクシーでアパートに帰ってきてタクシー代を大家に払わせたりした。
「浅草の夜のにぎわいに/まぎれ入り/まぎれ出て来しさびしき心」
「女たち/好きな人へとその想いを伝えられずに/手巾ハンケチを噛む」
赤蒟蒻あかこんにゃく幼心おさなごころに妻と決めし女を見捨て/芸者と遊びぬ」
「春を売る夜鷹を抱いて/はたと気付く/小学校の同級生なり」
「『検非違使けびいしよなどかく我を縛せるや』『汝心に三度姦せり』」
「よしさらば汝の獄にその少女ともに置かむと言えわが判事」
「『気にするな星の数ほど女いる』東京の空に星は見えざり」
 十一月五日、『明星』が百号を区切りに終刊した。有終の美を飾るはずだったが、一千部を刷ったうち二百部が売れ残った。時代は古くさい言葉づかいの詩歌よりも言文一致体のエンタメ小説を求め出していた。
「そのかみの愛読の書よ/大方は/今は流行らずなりにけるかな」
「若々しき短歌を切りし/歌詠みの疑わしき声/共感出来ず」
「雑草という草はあらず然れども人さえ十把一絡げなり」
「コツコツと自己満足の歌を詠む/サルでもかける/皮つるみかな」
 石川は『鳥影』の連載と同時進行で、小説『哄笑』『解剖図』『天理教』『連想』『赤痢』に着手した。執筆のストレスを解消させるため浅草の花柳街にも足繁く通った。辰巳屋たつみやというソープランドで「mine」という泡姫を抱いたり、常陸屋ひたちやというヘルスで「Masako」に拳を突っ込んだり、ピンサロでえくぼのある「Kiyoko」嬢に金の入れ歯を外させたり、冷えピタシートをおでこに貼った風邪気味の「Masako」と再戦した。釧路時代に愛し合った風俗嬢の小奴と再会してキッスを交わしたりもした。石川は小説家らしく遊んだ。「芸人は遊べ。遊んで芸の肥やしとしろ」の言葉通り。
「浅草の/凌雲閣の麓にて/また生理的無駄遣いをす」
「ストリップ/舞台始まり/受付でモギリやりたるババア出てきぬ」
「指一本入れても起きぬ眠りに二本三本四本五本」
「五本指それでも醒めず手首まで入れり目を開け『もっともっと』と」
「魔窟にて天才歌人にフィストファックされて喘いだ娘十八」
「この世よりのがれむと思う企てに遊蕩の名を与えられしかな」
 一九〇九年。正月元旦に文芸誌『スバル』が創刊された。主要メンバーは石川・森鴎外・北原白秋・与謝野晶子・吉井勇・木下杢太郎・小山内薫・阿部次郎。石川は発行名義人となり、小説『赤痢』を発表した。そそっかしい人は「ほう、集英社のあの『すばる』は石川啄木が創刊したのか」と思うかも知れないが、あの『すばる』とは全然別物である。さっき調べた。
 『鳥影』も『赤痢』も文壇からは黙殺された。石川一は自分の進むべき方向性を考えた。当時隆盛を誇っていた自然主義文学に媚びるため、石川一は金田一との関係を赤裸々に暴露することにした。小説『束縛』を起稿し、大恩人である金田一のことを悪し様に書こうと思った。
 摘要欄に「『束縛』――作家としての最初の一夜――忘るべからざる一夜。」とメモをした日記にはこう書いている。(一月十日)
「束縛! 情誼の束縛! 俺は今までなぜ真に書くことが出来なかったか?! かくて俺は決心した。この束縛を破らねばならぬ! 現在の俺にとって最も情誼のあつい人は三人ママある。宮崎君、与謝野氏夫妻、そうして金田一君。――どれをどれとも言いがたいが、同じ宿にいるだけに金田一君のことは最も書きにくい。俺は決心した。俺はまず情誼の束縛を捨てて紙に向かわねばならぬ。俺はその第一着手として、俺の一生の小説の序として、最も破りがたきものを破らねばならぬ。かくて俺は『束縛』に金田一と俺との関係を、最も冷ややかに、最も鋭利に書こうとした。
 そして、俺は、今夜初めて真の作家の苦痛――真実を告白することの苦痛を知った。その苦痛は意外に、然り意外につよかった。終日客のあった金田一君は十一時頃にちょっと来た。俺はその書こうと思うことを語った。俺は彼の顔に言いがたき不快と不安を見た。
 ああ、これをなせなければ、俺はついに作家たることが出来ぬ! とそうまで思った。俺は胸をしぼられるほどの苦痛を感じた。真面目というものは実に苦しいものである。いたましいものである。俺は歯ぎしりした。頭をむしりたく思った。ああ情誼の束縛! 遂に俺は惨酷な決心と深い悲痛を抱いて、暁の三時半までにやっと二枚半ばかりかいた。
 俺は勝たねばならぬ。」 
 とんだ恩知らずが居たものである。書くなら親父一禎のことを書けば良いのに。
 金田一の友情(財布)を失う恐れがあったので、結局『束縛』は未完のまま封印された。しかしこれをきっかけにして、「モウ俺は金田一君と心臓と心臓が相ふれることが出来なくなった」と日記に書く通り、二人の間には若干の距離が生じた(ただし、金田一が石川一を遠ざけるようになったわけではなく、石川一の方から離れたのだが)。
「おさなき時/橋の欄干てすりに糞塗りし/話も友はかなしみてしき」
「縛るのが好きな男が/別れたり/放置プレイの好きな女と」
「縄好きのM男が/江戸の拷問に憧れている。/死ねばいいのに!」
「威厳ある口髭の生えぬ友が/日々鼻下に塗る/毛生え薬よ」
「智慧とその深き慈悲とを/もちあぐみ/為すこともなく友は遊べり」
「水道町/救世軍の女ありト見ると大館光おおだてみつ!/驚きぬ。」
 二月一日、石川が編集の実権を握った『スバル』第二号が発行された。石川は自伝小説『足跡』(その一)を掲載した。その末尾には「俺が今までに書いたものは、自分でも忘れたい、人にも忘れて貰いたい、そして、俺は今、俺にとっての新らしい覚悟を以てこの長編を書き出してみた。他日になったら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰いたくなる時があるかも知れぬ。――啄木」とあり、非常に強い決意を胸にこの長編小説を書き始めたことが窺える。
 傑作と信じて発表した『足跡』は、「早稲田文学」で中村星湖から簡単にけなされ、石川はやる気を失った。小説家として立身していく自信を喪失した。「他日になったら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰いたくなる時があるかも知れぬ」という瞬間はすぐに訪れた。『足跡』(その二)はついに書かれなかった。「俺は勝たねばならぬ」惨敗だった。小説家石川啄木は完全に失敗だった。


(七)朝日新聞入社
 石川は焦った。自分は小説家としては使い物にならなさそうだと自覚した。認めたくはないが、あまり向いていなかった。かと言って詩人や歌人でおまんまが食べられるわけではない。石川は焦った。必要に迫られて就職活動をすることにした。手紙と履歴書と自分が発行した『スバル』を、朝日新聞社に郵送した。
 二月八日、前年六月に春陽堂が買い取った『病院の窓』の原稿料が送られてきた。原稿料は雑誌に掲載されてから支払われる約束だったが、石川がせっついたため、仕方なく二十二円七十五銭が支払われたのだ。一枚二十五銭に値切られたがそれでも大金だった。これで貧窮する家族に仕送りができる。と普通は思うが、そこは石川だ。北原白秋と浅草に繰り出し、植木貞子とその妹の勤めるバーで豪遊し、その日のうちに蕩尽した。金持ちのボンボンである北原白秋の遊んだ分も、石川がおごった。家族へ仕送りはしないし、友人たちへ借金も返さないし、百十円以上も滞納していた家賃も納めない。宵越しの金は持たない、江戸っ子気質である。
「火をしたう虫のごとくに/ともしびの明るき家に/かよい慣れにき」
「寸胴の売笑女のあえぎ声/天道誼の/天城越え声」
「おっさんとオカマのカップルしょんぼりと/ホテル出される。/あれは無理ある。」
「何事も金金とわらい/すこし経て/またも俄かに不平つのり来」
「金が欲しい/金の欲しさよ/金が欲しい/それにつけても/金の欲しさよ」
 そうこうするうちに朝日新聞への入社が決まった。当時の編集長・佐藤真一は超がつくほどの好人物であり、同じ盛岡出身というだけで面識もないのに、石川を校正係として採用してくれた。勤務時間は午後一時から午後六時、別に休日は決まっていないが申し合わせて週一回の割合で休む。気になる給料は基本給が二十五円で、他に夜勤手当が一晩一円ずつ、都合月給三十円以上となる計算だった。石川は喜んだ。Suica定期券と名刺の束を購入し、京橋区滝山町の朝日新聞社へ電車で通勤した。
「あさ風が電車のなかに吹き入れし/柳のひと葉/手にとりて見る」
「通勤の車中に歌詠み約一名/読書九名/寝子十五匹」
「君に似し姿を街に見る時の/こころ踊りを/あわれと思え」
「明日こそ/君に会えると願いたり/駅にてたまにすれちがう娘と」
「チャージなく改札出れぬ/おじさんが/駅員に向かい『俺だよ俺!』」
 このころ、石川はインターネットを始め、以降小説は余技としてウェブサイト「石川啄木のホームページ」に発表することにした。さっそく『眠れる女』『寝顔』『二筋の血(リメイク・バージョン)』などを掲載するものの、訪問者は自分以外ほとんどなかった。また、親友だった小野弘吉が死んだが、石川には通知が来なかった。ネットサーフィン中に『岩手日報』のサイトで友人たちの弔文を目にし、そこで初めて小野の死を知った。石川は二重にも三重にも泣いた。
「我に似し友の二人よ/一人は死に/一人は牢を出でて今病やむ」
「いにしえの外国とつくにの大王の如くに君のたおれたるかな」
「しかはあれ君のごとくに死ぬことは我が年ごろの願いなりしかな」
 石川は真面目に勤務した。同僚は爺さんばかりで話が合わなかったせいもあり、熱心に校正の仕事に打ち込んだ。プライベートの時間はインターネットに費やされた。インターネット中毒になり、食事と風俗に出掛ける以外はパソコンに向かって座った。日本語に不自由なフランス人を装い、「ポーラン・ガーニュ」と名乗ってBBS(電子掲示板)に短歌を投稿した。
「自分の名ポーランガーニュ/カタカナで書けし/あの日の書けぬ嬉しさ」
「『六本木』という漢字が/書けなくて/『大大大』と書いた昔日」
「日本人/名前に数字をつけたがる/九、三十五、五十六、十三」
「広大なワイン畑を思い出す/焼却場の/ミニチュアを見て」
「フランスの天地を思う/かの地では/星降り月も裂ける夜かな」
「我がパリは/花の都と称されど/今でも犬の糞だらけなるや」
 この時期の作歌は「ポーラン・ガーニュ期」と呼ばれるが、石川自身はこの覆面活動を後悔したようだ。後年の短歌にこう詠んでいる。
「あの頃はよく嘘を言いき。/平気にてよく嘘を言いき。/汗が出づるかな。」
「明日になればみな嘘になること共と知りつつ今日も何故に歌よむ」
「いつわりの声を交えぬ言葉もてただ一言をいわむと願う」
「もう嘘をいわじと思いき――/それは今朝――/今また一つ嘘をいえるかな。」
「何となく、自分を嘘のかたまりの如く思いて、/目をばつぶれる。」
「今までのことを/みな嘘にしてみれど、/心すこしも慰さまざりき。」
 インターネットに没頭する一方で、石川は会社の歯車として毎日ルーティーンワークをこなし、こびりついた天才意識を徐々に振り払っていった。
「『女』という考えが頭の底にこびり着くのは、男の一生の痛ましい革命の始まりである。十七八歳の頃から『詩人』という言葉が、赤墨汁のように私の胸に浸み込んだ。『天才』という言葉が、唐辛子のように私の頭を熱くした。髮の毛の柔らかい、眼の生々した、可愛らしいセキソトキシンの中毒者は『無限』『永遠』『憧憬』『権威』などという言葉を持薬にしていた。それは明治三十五年頃からの事である。
 何方どちらも悪魔の口から出たものには違いないが、『英雄』という言葉は劇薬である。然し『天才』という言葉は毒薬――余程質の悪い毒薬である。一度それをんで少年は、一生骨が硬まらない。」
「かなしきは/飽くなき利己の一念を/持てあましたる男にありけり」
「こころよく/人をめてみたくなりにけり/利己の心に倦めるさびしさ」
おのが名をほのかに呼びて/涙せし/十四の春にかえるすべなし」
「金田一君と語った。どうせ世界は人類の生息にたえなくなる――その時のことを語った。結局人間はつまらぬもの。人工避妊法の進歩は実際十九世紀文明の最大功績で、そして最も皮肉な人類の反逆だ。そして英雄とは人間の或る緊張した心状態の比較的長いもの――天才は注意力の長い人と心理はいう――英雄天才との差異は、素質の相違でなくてその状態の時間の問題だ――
 俺は人生全体に波をつたえるようなことを発見したい。文学! それも狭い、絶対の価値というものがないとすれば、人は、ああ!」
「ああ、俺は束縛をのがれたい、戦いたい、皆を殺してやりたい。」
「黙っていると、何かこう手当り次第に破壊してしまいたい様な気持になる。そのくせ何もしたくない。生そのものに対する倦怠厭悪とはこれか!何も考えたくなかった、そして何も考えなかった。頭が熱している様で、ボーウとしている。
 価値! 価値! ああ、何が価値のある事なのか?」
「ああ、文学は、はたして、男子一生の事業とすべきものなのか? 俺は近ごろこんな疑いに悩まされる。今まで文字を連綿と綴ってきたのは、はたしてどんな価値のあることだったのか?」
「おお、俺の文学は俺の敵だ、そして俺の哲学は俺の自ら嘲る論理に過ぎぬ! 俺の欲するものは沢山あるようだ。しかし、実際はほんの少しではあるまいか? 金だ!」
「いかなることにしろ、俺は、人間の事業というものを偉いものと思わぬ。他の事より文学を偉い、尊いと思っていたのはまだ偉いとはどんな事か知らぬ時のことであった。人間のすることで何一つ偉い事が有り得るものか。人間そのものがすでに偉くも尊くもないのだ。」
「ああ、自分は東京に来ているのだ、という感じが、しみじみと味わわれた。そして妻や母のことが思い出された。かの渋民の、軒燈一つしかない暗い町を、蛇の目をさして心に何のわづらいもなくたどった頃のことが思い出された。大きい都会、その中に住んでいる人は皆生命がけに働いている。……その中に自分もまぎれこんでいる。……ああ、自分は働けるだろうか、働き通せるだろうか!」
 石川は熱心に働いた。新聞社を次々に辞めた北海道時代とは違っていた。彼もすでに二十三歳。余命三年。すっかり大人になっていた。
 しかし、「責任感ある大人」には成長していなかった。入社早々、編集長に給料の前借りを依頼した。「経理がうるさいから」と、編集長は自らのポケットマネー二十五円を貸してくれた。石川はアパートへの滞納金を二十円払い、残ったお金で浅草に出掛けた。下って二十五日に編集長から初任給二十五円を受け取ると、給料袋の中身を一瞥し、そのまま編集長にお返しした。まともな生活ではなかった。彼は大人になったが、金銭面に関しては相変わらず小児だった。どら息子の気質が抜けていなかった。
 石川の気質をずばりと表す文章が、彼の日記にはっきり書かれている。
「昨日社から前借した金の残り、五円紙幣が一枚サイフの中にある、午前中はそればっかり気になって、仕様がなかった。この気持ちは、平生へいぜい金のある人が急に持たなくなった時と同じ様な気がかりかも知れぬ。どちらもおかしいことだ、同じ様におかしいには違いないが、その幸不幸には大した違いがある。」
 苦しい生活の中、『鳥影』の単行本化による臨時収入を期待していたが、版元の大学館から原稿が返却された。売れそうにないので当社では出版できませんと言うのである。
「約の如く今日こそはと大学館へ行った。二時間も待たされているうちに出社の時間はパッスした。そして『鳥影』の原稿を返された!
 面当てに死んでくれようか! そんな自暴な考えを起して出ると、すぐ前で電車線に人だかりがしている。犬が轢かれて生々しい血! 血まぶれの頭! ああ助かった! と俺は思ってイヤーな気になった。
 そのまま帰って来て休んでしまった。」
「ああ三月も末だ、そしてアテにしていた大学館がはずれて、一文なしの月末!」
 わざわざ会社を遅刻してまで出向いたのに徒労となった。会社はそのまま休んだ。
 四月、石川は「NIKKI」というタイトルのブログを匿名で開設した。赤裸々な思いを全編ローマ字で綴った。一番有名な記事(四月十日)を、少し長くなるが資料として引用する。別に読む必要はないので飛ばして構わない。
「lkura ka no Kane no aru toki, Ore wa nan no tamero koto naku, kano, Midara na Koe ni mitita, semai, kitanai Mati ni itta. Ore wa Kyonen no Aki kara Ima made ni, oyoso 13-4 kwai mo itta, sosite 10nin bakari no Inbaihu wo katta. Mitu, Masa, Kiyo, Mine, Tuyu, Hana, Aki ............ Na wo wasureta no mo aru. Ore no motometa no wa atatakai, yawarakai, massiro na Karada da : Karada mo Kokoro mo torokeru yo na Tanosimi da. Sikasi sorera no Onna wa, ya-ya Tosi no itta no mo, mada 16 gurai no hon no Kodomo na no mo, dore datte nan-byaku nin, nan-zen nin no Otoko to neta no bakari da. Kao ni Tuya ga naku, Hada wa tumetaku arete, Otoko to yu mono ni wa narekitte iru, nan no Sigeki mo kanjinai. Waduka no Kane wo totte sono Inbu wo tyotto Otoko ni kasu dake da. Sore igwai ni nan no Imi mo nai. Obi wo toku de mo naku, " sah," to itte, sono mama neru : nan no Hadukasi-ge mo naku Mata wo hirogeru. Tonari no Heya ni Hito ga i-yo to imai to sukosi mo kamo tokoro ga nai. (Koko ga, sikasi, omosiroi Karera no lrony da!) Nanzen nin ni kakimawasareta sono Inbu ni wa, mo Kinniku no SyuSyuku-sayo ga nakunatte iru, yurunde iru. Koko ni wa tada Haisetu-sayo no okonawareru bakari da : Karada mo Kokoro mo torokeru yo na Tanosimi wa Kusuri ni sitaku mo nai!
 Tuyoki Sigeki wo motomuru ira-ira sita Kokoro wa, sono Sigeki wo uke-tutu aru toki de mo Ore no Kokoro wo saranakatta. Ore wa mi-tabi ka yo-tabi tomatta koto ga aru. Juhati no Masa no Hada wa Binbo na Tosima-onna no sore ka to bakari arete gasa-gasa site ita. Tatta hito-tubo no semai Heya no naka ni Akari mo naku, iyo na Niku no Nioi ga muh' to suru hodo komotte ita. Onna wa Ma mo naku nemutta. Ore no Kokoro wa tamaranaku ira-ira site, do site mo nemurenai. Ore wa Onna no Mata ni Te wo irete, tearaku sono Inbu wo kakimawasita. Simai ni wa go-hon no Yubi wo irete dekiru dake tuyoku osita. Onna wa sore de mo Me wo samasanu : osoraku mo Inbu ni tuite wa nan no Kankaku mo nai kurai, Otoko ni narete simatte iru no da. Nan-zen-nin no Otoko to neta Onna! Ore wa masu-masu ira-ira site kita. Sosite isso tuyoku Te wo ireta. Tui ni Te wa Tekubi made haitta. " U ─ u," to itte Onna wa sono toki Me wo samasita. Sosite ikinari Ore ni daki-tuita. " A ─ a ─ a, uresii! motto, motto ─ motto, a ─ a ─ a! " Juhati ni site sude ni Hutu no Sigeki de wa nan no Omosiromi mo kanjinaku natte iru Onna! Ore wa sono Te wo Onna no Kao ni nutakutte yatta. Sosite, Ryote nari, Asi nari wo irete sono Inbu wo saite yaritaku omotta. Saite, sosite Onna no Sigai no Ti-darake ni natte Yami no naka ni yokotawatte iru tokoro Maborosi ni nari to mi tai to omotta! Ah, Otoko ni wa mottomo Zankoku na Sikata ni yotte Onna wo korosu Kenri ga aru! Nan to yu osorosii, iyana Koto da ro! 」
 ローマ字でブログを書いた理由を彼はこう明かす。
「なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 俺は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ、──しかしこれはうそだ! 愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。」
 「NIKKI」は人気ブログとなり、一日あたり百人以上のアクセスを記録した。妻の節子も石川の死後にこれを読んだ。「読ませたくない」はずだったが、節子はローマ字を読むことができた。石川の悪事は全て知られてしまった。ついでに金田一の恥ずかしい嫉妬も露見した。
 以下、この時期の石川がいかに精神的な苦闘を繰り広げたか察せられる記事を抜き出すことにする。(※原文はローマ字)
「着物の裂けたのを縫おうと思って、夜八時頃、針と糸を買いに一人出かけた。(略)俺は針と糸を買わずに、『やめろ、やめろ』と言う心の叫びを聞きながら、とうとう財布を出してこの帳面と足袋と猿股と巻紙と、それから三色菫の鉢を二つと、五銭ずつで買ってきた。俺はなぜ必要なものを買う時にまで『やめろ』という心の声を聞かねばならぬか? 『一文無しになるぞ。』と、その声が言う。『函館では困ってるぞ。』とその声が言う!」
「俺は今疲れている。そして安心を求めている。その安心とはどんなものか? どこにあるのか? 苦痛を知らぬ昔の白い心には百年経っても帰ることができぬ。安心はどこにある?
『病気をしたい。』この希望は長い事俺の頭の中に潜んでいる。病気! 人の厭うこの言葉は、俺には故郷の山の名の様に懐かしく聞こえる!――ああ、あらゆる責任を解除した自由の生活! 我らがそれを得るの道は、ただ病気あるのみだ!
『みんな死んでくれればいい。』そう思っても誰も死なぬ。『みんなが俺を敵にしてくれればいい。』そう思っても誰も別段敵にもしてくれぬ、友達はみんな俺を憐れんでいる。ああ! なぜ俺は人に愛されるのか? なぜ俺は人を芯から憎む事ができぬか? 愛されるという事は耐えがたい侮辱だ!(略)
 死だ! 死だ! 私の願いはこれたった一つだ! ああ!
 あっ、あっ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、ありがたい神様、あ、ちょっと!
 ほんの少し、パンを買うだけだ、五、五、五銭でもいい! 殺すくらいのお慈悲があるなら!」
「以前俺は人の訪問を喜ぶ男だった。従って、一度来た人にはこの次にも来てくれる様に、なるべく満足を与えて帰そうとしたものだ。何という詰まらない事をしたものだろう! 今では人に来られても、さほど嬉しくもない。嬉しいと思うのは金の無い時にそれを貸してくれそうな奴の来た時ばかりだ。しかし、俺はなるべく借りたくない。もし俺が何事によらず、人から憐れまれ、助けられることなしに生活する事が出来たら、俺はどんなに嬉しいだろう! これは敢えて金の事ばかりではない。そうなったら俺はあらゆる人間に口一つきかずに過ごす事もできる。」
「人の許しを乞わねばならぬ事をするな。決して人に自己を語るな。常に仮面をかぶっておれ。いつ何時でも戦の出来る様に──いつ何時でもその人の頭を叩き得る様にしておけ。一人の人と友人になる時は、その人といつか必ず絶交することあるを忘れるな。」
「何事も金金といいて笑いけり不平のかぎりぶちまけし後」
「あてもなき金などを待つ思いかな。/寝つ起きつして、/今日も暮したり。」
「何故こうかとなさけなくなり、/弱い心を何度も叱り、/金かりに行く。」
「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言う時」
「一度でも我に頭を下げさせし/人みな死ねと/いのりてしこと」
「かかること喜ぶべきか泣くべきか貧しき人の上のみ思う」
「気の腐る時ふり起す反逆心日記に向いて友をののしる」
 四月十三日、石川に一通の手紙が届いた。ローマ字だけで日記を書く息子への、ひらがなだけで手紙を書く母からだった。下手な字で貧窮を訴え、東京にはいつ呼んでくれるのかを問う内容だった。
「ヨボヨボした平仮名の、仮名違いだらけな母の手紙! 俺でなければ何びとといえどもこの手紙を読み得る人はあるまい! 母が幼かった時は、かの盛岡仙北町せんぼくちょうの寺子屋で、第一の秀才だったという。それが一たび我が父にして以来四十年の間、母はおそらく一度も手紙を書いた事がなかったろう。俺の初めて受け取った母の手紙は、一昨年の夏のそれであった。俺は母一人を故郷に残して函館に行った。老いたる母はかの厭わしき渋民に居たたまらなくなって、忘れ果てていた平仮名を思い出して俺に悲しき手紙を送った! その後俺は、去年の初め釧路にいて、小樽からの母の手紙を受け取った。東京に出てからの五本目の手紙が今日来たのだ。初めの頃からみると間違いも少ないし、字もうまくなってきた。それが悲しい!ああ! 母の手紙!」
「母上の仮名の手紙のこのごろは少し上手にならせ給える」
 四月十八日、妹の光子から長い手紙が来た。
「……俺の眼はかすんだ。この心持ちをそのまま妹に告げたなら、妹はどんなに喜ぶであろう! 現在の俺に、心ゆくばかり味わって読む手紙は妹のそればかりだ。母の手紙、節子の手紙、それらは俺にはあまり悲しい、あまり辛い。なるべくなら読みたくないとすら思う。そしてまた、俺には以前のように心と心の響き合うような手紙を書く友人が無くなった。時々消息する女――二三人の若い女の手紙――それも懐かしくないわけではないが、しかしそれは偽りだ。……妹! 俺のただ一人の妹! 妹の身についての責任はすべて俺にある。しかも俺はそれを少しも果たしていない。(略)妹はもう二十二だ。当たり前ならば無論もう結婚して、可愛い子供でも抱いてるべき年だ。それを、妹は今までも幾たびか自活の方針を立てた。不幸にしてそれは失敗に終った。あまりに兄に似ている不幸な妹は、やはり現実の世界に当てはまるように出来ていなかった!(略)今夜、俺は妹――哀れなる妹を思うの情に堪えぬ。会いたい! 会って兄らしい口を利いてやりたい!」
「朝はやく/婚期を過ぎし妹の/恋文めける文を読めりけり」
 家族は貧困に殺され掛けていた。しかし石川は小説への未練を捨て切れなかった。もはや小説家の才能が無い事を痛感しているのに。
「今日こそ必ず書こうと思って社を休んだ――否、休みたかったから書く事にしたのだ。それはともかくも俺は昨夜考えておいた『赤墨汁インク』というのを書こうとした。俺が自殺する事を書くのだ。ノート三枚ばかりは書いた。……そして書けなくなった!
 なぜ書けぬか? 俺は到底俺自身を客観する事が出来ないのだ、否。とにかく俺は書けない――頭がまとまらぬ。(略)
 泣きたい! 真に泣きたい!
『断然文学を止めよう。』と独りで言ってみた。
『止めて、どうする? 何をする?』
『Death』と考える他はないのだ。
 実際俺は何をすればよいのだ? 俺のする事は何かあるだろうか?」
「途中にてふと気が変り、/つとめ先を休みて、今日も、/河岸かしをさまよえり。」
「かくばかり熱き涙は/初恋の日にもありきと/泣く日またなし」
 石川は自身のウェブサイト「石川啄木のホームページ」に小説を次々に掲載した。「NIKKI」の更新と並行して『茂吉イズム』『小使豊吉』『坂牛君の手紙』『底』『鎖門一日』『追想』『面白い男?』『少年時の追想』『手を見つつ』『宿屋』『一握の砂』『札幌』などを書き上げた(ちなみに『一握の砂』は後に歌集のタイトルに転用される)。これらの小説のうちいくつかは青空文庫というサイトに転載した。読んでくれる人は多くなかった。
「創作の興と性欲とはよほど近いように思われる。貸本屋が来て妙な本を見せられると、なんだか読んでみたくなった。そして借りてしまった。一つは『花の朧夜おぼろよ』(略)ローマ字で帳面に写して、三時間ばかり費やした。(略)
 節子が恋しかった――しかしそれは侘しい雨の音の為ではない。『花の朧夜』を読んだためだ!(略)
 否! 俺における節子の必要は単に性欲のためばかりか? 否! 否!
 恋は冷めた。それは事実だ。当然なる事実だ――悲しむべき、しかしやむを得ぬ事実だ!
 しかし恋は人生の全てではない。その一部分だ。恋は遊戯だ。歌の様なものだ。人は誰でも歌いたくなる時がある。そして歌ってる時は楽しい。が、人は決して一生歌ってばかりはおられぬものである。同じ歌ばかり歌ってると、いくら楽しい歌でも飽きる。またいくら歌いたくっても歌えぬ時がある。
 恋は冷めた。俺は楽しかった歌を歌わなくなった。しかしその歌そのものは楽しい。いつまで経っても楽しいに違いない。
 俺はその歌ばかりを歌ってる事に飽きた事はある。しかし、その歌を、厭になったのではない。節子は誠に善良な女だ。世界のどこにあんな善良な、優しい、そしてしっかりした女があるか? 俺は妻として節子より良き女を持ち得るとはどうしても考える事が出来ぬ。俺は節子以外の女を恋しいと思った事はある。他の女と寝てみたいと思った事もある。現に節子と寝ていながらそう思った事もある。そして俺は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 俺は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。」
「君に告ぐあえてまた世の女に告ぐ我は男の権利もてう」
「何という馬鹿な事だろう! 俺は昨夜、貸本屋から借りた徳川時代の好色本『花の朧夜』を三時頃まで帳面に写した――ああ、俺は! 俺はその激しき楽しみを求むる心を制し兼ねた!
 今朝は異様なる心の疲れを抱いて十時半頃に眼をさました。そして宮崎君の手紙を読んだ。ああ! みんなが死んでくれるか、俺が死ぬか。二つに一つだ! 実際俺はそう思った。そして返事を書いた。俺の生活の基礎は出来た、ただ下宿を引き払う金と、家を持つ金と、それから家族を呼び寄せる旅費! それだけあればよい! こう書いた。そして死にたくなった。
 やろうやろうと思いながら、手紙を書くのが厭さに――恐ろしさに、今日までやらずに置いた一円を母に送った――宮崎君の手紙に同封して。
 俺は昨夜の続き――『花の朧夜』を写して、社を休んだ。」
「今朝また下宿屋の催促! こういう生活をいつまで続けねばならぬか?この考えはすぐに俺の心を弱くした。何をする気もない。そのうちに雨は晴れた。どこかへ行きたい。そう思って俺は外に出た。(略)郊外へ出たい――が、どこにしよう?(略)或いはまた、もしどこかに空き家でもあったら、こっそりその中へ入って夕方まで寝てみたい!(略)とにかく俺のその時の気持ちでは人の沢山いるところは厭であった。(略)汽車に乗りたい! そう俺は思った。どこまでという当ても無いが、乗って、そしてまだ行った事の無い所へ行きたい! 幸い、ふところには三円ばかりある。 ああ! 汽車に乗りたい!」
「空家に入り/煙草のみたることありき/あわれただ一人居たきばかりに」
「なつかしき/故郷にかえる思いあり、/久し振りにて汽車に乗りしに。」
「何となく汽車に乗りたく思いしのみ/汽車を下りしに/ゆくところなし」
「何処にか行きたくなりぬ何処好けむ行くところなし今日も日暮れぬ」
「飄然と家を出でては/飄然と帰りし癖よ/友はわらえど」
 四月二十六日、石川は窮まって自殺したくてたまらなくなった。友への申し訳なさがその気持ちに拍車を掛けた。
「何とかして明るい気分になりたいという様な事を考えている所へ並木君のハガキが着いた。それを見ると俺の頭はすっかり暗く、冷たく、湿り返ってしまった。借りて質に入れてある時計を今月中に返してくれまいかというハガキだ。
 ああ! 今朝ほど俺の心に死という問題が直接に迫った事がなかった。今日社に行こうか行くまいか……いや、いや、それよりも先ず死のうか死ぬまいか? ……そうだ、この部屋ではいけない。行こう、どこかへ行こう……」
「今日はなぜか、/二度も、三度も、/金側きんがわの時計を一つ欲しと思えり。」
「庭石に/はたと時計をなげうてる/昔のわれの怒りいとしも」
「罪人を/縛りつけたる時計台/正午を指した針が首刺す」
 その晩は金田一と二人で浅草の風俗街に行って女を買った。
「二人は池之端から歩いて帰った。俺は友に寄り掛かりながら言い難き悲しみの道を歩くような気持ち。酔ってもいた。
『酒を飲んで泣く人がある。僕は今夜その気持ちが分かったような気持ちがする。』
『ああ!』
『家へ行ったら僕を抱いて寝てくれませんか?』」
 金田一と寝た翌朝。石川はとうとう禁欲を思い立つ。
「昨夜の事が詳らかに思い出された。俺がO-enという女と寝たのも事実だ。その時何の愉快をも感じなかったのも事実だ。再び俺があの部屋に入って行った時、Tama-chanの頬に微かにくれないちょうしていたのも事実だ。そして金田一君が帰りの道すがら、ついにあの女と寝ず、ただ生まれて初めて女とキッスしただけだと言ったのも事実だ。その道すがら、俺は非常に酔った様な振りをして、襲い来る恐ろしい悲しみから逃げていたのも事実ならば、その心の底のなるべく手を触れずにそっとしておきたかった悲しみが、三円の金を空しく使ったという事であったのも事実だ。そして今朝俺は、今後決して女のために金と時間を費やすまいと思った。つまり仮面だ。」
 しかしその四日後にはまた浅草に一人で出掛けた。
尾張町おわりちょうから電車に乗った。それは浅草行きであった。
『お乗換は?』
『なし。』
 こう答えて俺は『また行くのか?』と自分に言った。(略)『行くな! 行くな!』と思いながら足は千束町せんぞくまちへ向かった。(略)白い手が格子の間から出て俺のそでを捕えた。フラフラとして入った。
 ああ! その女は! 名はHana-ko。年は十七。一目見て俺はすぐそう思った。
『ああ! 小奴だ! 小奴を二つ三つ若くした顔だ!』
 程なくして俺は、お菓子売りのうす汚い婆さんとともに、そこを出た。(略)
『ここに待ってて下さい。私は今戸を開けてくるから』と婆さんが言った。何だかキョロキョロしている。巡査を恐れているのだ。(略)Hana-koは俺よりも先に来ていて、俺が上がるが否や、いきなり俺に抱きついた。(略)微かな明りにじっと女の顔を見ると、丸い、白い、小奴そのままの顔が薄暗い中にポッと浮かんで見える。俺は眼も細くなるほどウットリとした心地になってしまった。
『小奴に似た、実に似た!』と、幾度か同じことばかり俺の心は囁いた。
『ああ、こんなに髪が壊れた。いやよ、そんなに私の顔ばかり見ちゃ!』と女は言った。
 若い女の肌はとろけるばかり温かい。隣室の時計はカタッカタッと鳴っている。
『もう疲れて?』
 婆さんが静かに家に入った音がして、それなり音がしない。
『婆さんはどうした?』
『台所にかがんでるわ。きっと。』
『可哀そうだね。』
『構わないわ。』
『だって可哀そうだ!』
『そりゃ可哀そうには可哀そうよ。本当の独り者なんですもの。』
『お前も年を取るとああなる。』
『イヤ、わたし!』
 そしてしばらく経つと、女はまた、
『いやよ、そんなにわたしの顔ばかり見ちゃ。』
『よく似てる』
『どなたに?』
『俺の妹に。』
『ま、うれしい?』と言ってHana-koは俺の胸に顔を埋めた。」
 石川は会社をサボりがちになった。またしても東京に打ち負かされた。自分は都会の生活に不適合なのだと思うようになった。
「学校に行きたくない日があるように/会社いやな日/あるのでしょうか」
「気の変る人に仕えて/つくづくと/わが世がいやになりにけるかな」
「どうなりと勝手になれというごとき/わがこのごろを/ひとり恐るる。」
「誰か我を/思う存分叱りつくる人あれと思う。/何の心ぞ。」
 田舎で地方新聞を立ち上げようという考えが浮かんだ。それこそが自分の天職だと思った。結構本気でそう思った。──彼は思い至らない。北海道時代、新聞社勤めが長続きしなかったことを。
「限りなき絶望の闇が時々俺の眼を暗くした。死のうという考えだけはなるべく寄せ付けぬようにした。ある晩、どうすればいいのか、急に眼の前が真っ暗になった。社に出た所で仕様がなく、社を休んでいた所でどうもならぬ。俺は金田一君から借りて来てる剃刀で胸に傷をつけ、それを口実に社を一ヶ月も休んで、そして自分の一切をよく考えようと思った。そして左の乳の下を斬ろうと思ったが、痛くて斬れぬ。微かな傷が二つか三つ付いた。金田一君は驚いて剃刀を取り上げ、無理矢理に俺を引っ張って、インバネスを質に入れ、例の天ぷら屋に行った。飲んだ。笑った。そして十二時ごろに帰って来たが、頭は重かった。明りを消しさえすれば目の前に恐ろしいものが居る様な気がした。(略)
 俺は今俺の心に何の自信なく、何の目的もなく、朝から晩まで動揺と不安に追っ立てられていることを知っている。何のきまったところがない。この先どうなるのか?
 当てはまらぬ、無用な鍵! それだ! どこへ持って行っても俺のうまく当てはまる穴がみつからない!」
「田舎! 田舎! 俺の骨を埋むべき所はそこだ。俺は都会の激しい生活に適していない。一生を文学に! それは出来ぬ。やって出来ぬことではないが、要するに文学者の生活などは、空虚なものに過ぎぬ。」
「夕闇に横たわり/見る天井に/知らざる人が此方を見てあり」
「妖怪の天井に居て/ぬたを打つ/我が顔に血がぽたぽたと落つ」
「誰からも求められざり/必要なし/我が価値は今テレカそれ以下」
「月に三十円もあれば、田舎にては、/楽に暮せると――/ひょっと思える。」
 自殺を試みたり、下痢をしたり、ニコチン中毒の禁断症状に悩まされたり、おびただしく喀血したり、肉体的にも精神的にも経済的にもボロボロの状態だった。死刑を待つような気持ちで日々を過ごした。過去の栄光を示す物的証拠である詩集『あこがれ』もたったの五銭でブックオフに売ってしまった。
 六月一日、またしても給料の前借をした。二十五円のうち、佐藤編集長に借りていた五円を返した。残金二十円。石川を頼って家出してきた渋民村役場助役の息子・岩本くんとその友人の下宿料十三円を代わりに払って上げた。残金七円。岩本くんと浅草で映画を観て西洋料理を食べ、岩本くんにお小遣い一円を上げて別れ、ソープランドで少女を抱き、そのあとで小奴に似たHana-koちゃんを指名して抱き、帰りに雑誌を五六冊買った。残金四十銭。
 石川は確かにだらしない。彼が困窮するのは自業自得だ。誰もがそう思うだろう。しかし、石川はこういう風にしか生きられなかった。早寝早起きのサラリーマンと夜行性のミュージシャンとでは、朝六時に起きるための努力量は著しく異なる。力士と小児とでは、腕力に雲泥の差がある。折り目正しく生活できる者とぐうたらな怠け者とでは、世渡りの難易度が断然違ってくる。彼は確かにだらしない。しかしそういう性向だったのだ。そういう病気だったのだ。性格さえもうちょっとまともだったら、北海道での安定した生活を捨てたりはしなかっただろうし、そもそも中学を退学したりはしなかっただろう。彼を堕落させたのは文学だった。文学に毒されていなければ金銭感覚がこんなにも狂うことはなかったはずだ。吾人は石川の無茶苦茶な生き方を憎んだり蔑んだりするのではなく、文学の被害者として気の毒と思うべきである。
「人という人のこころに/一人ずつ囚人がいて/うめくかなしさ」
 石川も苦しんでいたが、北海道に残された家族はもっと苦しんでいた。大黒柱たる石川からは仕送りがほとんど無く、食うにも事欠いていた。わずかな雑穀と、ほとんどお湯に近い汁と、近所の空き地で抜いて来た野草と、雑草を煮詰めたお茶で胃を慰める日々。風呂にもまともに入れず、不潔な暮らしを余儀なくされた。不衛生と栄養不足で健康は著しく衰えていた。自覚症状はなかったが母カツは結核に罹患し、妻節子にも感染した。
 家族は石川からの仕送りを切望していたし、当初の約束では、石川が小説家として成功したら東京に呼び寄せてくれるはずだった。しかるに石川は家族を呼び寄せなかった。小説家として成功しなかったためもあるが、家族を養うにはあまりに未熟すぎたからである。自分一人でも生活が破綻しているというのに、家族を養うという責任ある役目を満足に達成できるわけはなかった。
 しかし、そろそろ年貢の収め時だった。宮崎郁雨への手紙に「俺の生活の基礎は出来た、ただ下宿を引き払う金と、家を持つ金と、それから家族を呼び寄せる旅費! それだけあればよい!」と書いてしまったのが運の尽きで、宮崎が実際に旅費を工面してしまったのだ。家族の上京を石川は認めなかったが、母カツが強く希望して押し切り、妻節子は小学校の代用教員を退職し、東京に向けて強引に出発した。石川は慌てた。今の三畳間に家族四人が住めるはずがなかった。新しい住まいを探さざるを得なかった。
 六月十五日、宮崎郁雨が送ってきた十五円で、新井こうという未亡人が営む床屋「喜之床きのとこ」(本郷弓町ゆみまち二丁目十七番地)の二階二間計六畳を借りた。家賃は六円。蓋平館別荘への滞納金百十九円は、金田一が保証人となり、十円ずつの月賦にしてもらった。石川が色々な人から生涯に借りた金は、今の物価に換算すると一千四百万円以上になる。
 翌六月十六日の朝、宮崎郁雨に連れられ、母カツ・妻節子・長女京子が上野駅に到着した。
 石川はこの日の記述を最後に、ブログ「NIKKI」を閉鎖した。


(八)一握の砂
 節子は北海道での極貧生活によって心身ともに疲弊していた。容色は衰え、肌は色艶を失い、急に老け込んだようだった。姑のカツとも不仲となっていた。石川不在の一年間に生じた嫁姑の確執は根深かった。二人の女は些細なことで喧嘩をした。
「解けがたき/不和のあいだに身を処して、/ひとりかなしく今日も怒れり。」
「泣きさわぐ幼児とそれに怒りたる母とを見るは悲しき事かな」
「猫を飼わば、/その猫がまた争いの種となるらむ、/かなしきわが家。」
「俺ひとり下宿屋にやりてくれぬかと、/今日もあやうく、/いい出でしかな。」
「家を出て五町ばかりは、/用のある人のごとくに/歩いてみたれど――」
「用のある人のごとくに家を出で上野の山に来て落葉踏む」
「夜明けまであそびてくらす場所が欲し/家をおもえば/こころ冷たし」
 石川家の雰囲気は最悪だった。空気はピリピリと緊張し、会話の端々にトゲが尖り、日々の食卓は殺伐としていた。そんな折りの十月二日、節子が家出をしてしまった。上京後の苦しい生活・夫への失望・七月に発症した肋膜炎ろくまくえんの病苦・姑との軋轢に我慢が出来なくなり、書き置きをして盛岡の実家に帰ってしまったのだ。石川一は狼狽し、母を激しく詰った。金田一のアパートに駆け込み「かかあに逃げられあんした」と相談した。盛岡の恩師新渡戸仙岳に手紙を書いて取り成しを依頼した。
「移りゆく時の流行はやりのあとを追うさびしさにいて妻といさかう」
「我妻のびんすきてみゆるまるき禿それにまされる目の毒はなし」
「我よりも強き女の手とりしがけだし第一のしくじりなりき」
「放たれし女のごとく、/わが妻の振舞う日なり。/ダリヤを見入る。」
 節子は十月二十六日に戻って来てくれたが、この事件は石川に多大な衝撃を与え、猛省を促した。彼はとうとう観念し、改心した。天才意識から来る小説家ごっこを辞め、それに付随する風俗通いをすっぱりった。単なる市井の人として生活を第一とする生き方を誓った。また、石川が烈火の如く叱りつけたためカツは弱り切り、以後節子へのお小言を口にすることは無くなった。台所支配権は姑から嫁に委譲された。
 妻の家出事件によって、石川は完全に生まれ変わった。仕事に打ち込むようになった。この態度が『一握の砂』への布石となる。
「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思う」
「京橋の滝山町の/新聞社/灯ともる頃のいそがしさかな」
「南米の習慣であるシエスタを/見習えばよし/働きすぎぞ」
「三年半働きづめでも返せざる/膨れしオバケ/怖き借金」
人気ひとけなき夜の事務室に/けたたましく/電話のりんの鳴りて止みたり」
「夜の下/始発電車を待つ人の/線路見つめる物憂げな目よ」
 十二月二十日、もはや寄生虫に成り下がった父一禎が青森県野辺地から合流した。狭い六畳間に五人暮らしとなった。明けて一九一〇年、石川は二十四歳になった。余命は二年を切った。
「世におこないがたき事のみ考える/われの頭よ!/今年もしかるか。」
「妻と子と父と母とは各々に手ランプをもて暗中やみなかを来る」
「あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけ給う母の白髪」
「今日はが生れし日ぞとわが膳の上に載せたる一合の酒」
「わが父が蝋燭をもて蚊をやくと一夜寝ざりしこと夢となれ」
「かなしきは我が父!/今日も新聞を読みあきて、/庭に小蟻と遊べり。」
 石川は小説をあまり書かなくなった。「石川啄木のホームページ」は更新が滞りがちになった。まとまった時間を確保できなくなったせいだった。代わりにツイッターを始め、暇な時の手すさびに、リラックスした気持ちで歌をつぶやいた。
「何事か今我つぶやけり。/かく思い、/目をうちつぶり、酔いを味わう。」
「ツイッター使い方すらよく知らず/三十一文字みそひともじを/ケータイで打つ」
「『ツイートとはつぶやきのこと』と教わりぬ我の後ろで呟く人に」
「ツイートが/あっという間に百近く/西鶴のごと大矢数おおやかずかな」
「『なう』とさえ/言っときゃ君も一人前!/じゃあいいですよ半人前で。」
「つい言ったそのつぶやきが/釣糸となって炎上/雑魚がわんさか」
「ケータイのキーを押す指止まらない/まるで之介の/『戯作三昧』」
「機関銃のごときつぶやき/ケータイが悲鳴を上げて/ひどく熱持つ」
「通過する車のナンバー/ケータイで入力すれば/自動生成」
「ケータイの電池が切れて/充電をしている暇に/自家発電ねん」
「ツイッター/市井の人の発言は/百年後には消えて無くならむ」
 春先、中学時代の友人岡山儀七が上京してきたので久々に会った。すっかり東京に慣れ切っていた石川は、岡山の風体や言葉遣いが妙に田舎者だと感じられた。
「ふるさとのなまりなつかし/停車場ていしゃばの人ごみの中に/そを聴きにゆく」
「人ごみの中をわけ来る/わが友の/むかしながらの太き杖かな」
「人ごみの中をわけ来る/我が友の/靴の破れを見ぬふりに見る」
「やまいある獣のごとき/わがこころ/ふるさとのこと聞けばおとなし」
「田舎めく旅の姿を/三日みかばかり都にさらし/かえる友かな」
 四月、「名声」のためではなく「金」のために、処女歌集出版を企てた。歌稿ノート『ヒマナ時』から秀歌を選び、そこにツイッターで書き散らかした歌をいくつか加えた。文名を挙げようという意気込みはなかったので、歌集のタイトルは適当に決めた。『仕事の後』と。
「今度出す(出し得れば)歌集の名も『仕事の後』という名をつけるつもりだ。仕事の後! それでいじゃないか、つまり有っても無くっても可いというわけだ。」
 二百五十五首から成る『仕事の後』を春陽堂へ売り込んだが、出版は断られた。金になればラッキー程度に思っていたので、没を食らってもあまり落ち込まなかった。出版をすぐにあきらめ、仕事に精を出す日常に戻った。
「こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ」
「通過する快速列車のその車窓/掴む吊革/手枷てかせに見えき」
「朝夕の電車の中のいろいろの顔にも日頃うみにけるかな」
「早朝の列車に母と女の子/制帽かぶり/ランドセル背負う」
「まだ暗きうちからタンクローリーが資材を運ぶ秋朝まだき」
「バス停のなき道路にて/バスを待つ/工場へ行く人々の群れ」
「道路工事/誘導係の無数いて/日本に何人いるやと思う」
「明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも」
 九月十五日、朝日歌壇の選者に石川は抜擢された。かねてより石川の短歌を高く評価していた社会部長の渋川玄耳しぶかわげんじが推薦してくれたのだった。特別手当が八円ついた。朝日歌壇は評判となり、一般読者からの投稿で大いに賑わった。投稿者の中には若き日の萩原朔太郎も含まれていた。
 その縁もあり、十月四日、石川は東雲堂と処女歌集の出版契約を結ぶことができた。タイトルはぞんざいな『仕事の後』ではなく『一握の砂』に改めた。歌の数も倍以上に増えた。
 そして出版契約と同じ日、節子が男の子を産んだ。日ごろ世話になっている佐藤編集長の名をもらい、「真一」と名付けた。この真一の生涯と『一握の砂』の出版作業はリンクして進む。
「十月の朝の空気に/あたらしく/息吸いそめし赤坊のあり」
「十月の産病院の/しめりたる/長き廊下のゆきかえりかな」
真白ましろなる大根の根のこころよく肥ゆる頃なり男生れぬ」
 病魔に冒されている母から生まれたためか、真一は病弱だった。いつ死んでもおかしくないくらい弱っていた。節子も産後の経過が良くなかった。『一握の砂』の原稿料は母子の薬代にすっかり費やされた。
 十月二十七日深夜、石川が夜勤から帰宅する二分前、真一は死んだ。わずか二十四日の露命だった。
「真白なる大根の根の肥ゆる頃/うまれて/やがて死にし児のあり」  
「夜おそく/つとめ先よりかえり来て/今死にしてう児を抱けるかな」
「二三こえ/いまわのきわに微かにも泣きしというに/なみだ誘わる」
「おそ秋の空気を/三尺四方ばかり/吸いてわが児の死にゆきしかな」
「死にし児の/胸に注射の針を刺す/医者の手もとにあつまる心」
「底知れぬ謎にむかいてあるごとし/死児しじのひたいに/またも手をやる」
「かなしみのつよくいたらぬ/さびしさよ/わが児のからだ冷えてゆけども」
「かなしくも/夜明くるまでは残りいぬ/息きれし児の肌のぬくもり」
 十月二十八日朝、石川は亡児を詠った歌八首を加えた『一握の砂』の決定稿を東雲堂書店に渡した。一握の砂。それは歌集のタイトルであり、五五一首の歌を砂粒に見立てた比喩であり、こぼれ落ちる長男真一の命であり、石川自身の人生・身体・精神のシンボライズでもあった。
 十月二十九日の昼、浅草区永住町の了源寺で真一の葬儀が行なわれた。了源寺は「喜之床」を営む新井さんの菩提寺で、真一の遺骨も新井家の墓に納めさせてもらった。そしてこの夜、『一握の砂』の見本組が届いた。
「いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあいだより落つ」
「しっとりと/なみだを吸える砂の玉/なみだは重きものにしあるかな」
「大という字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来たれり」
 十二月一日、『一握の砂』は刊行された。定価六十銭。『万葉集』『古今和歌集』『みだれ髪』『サラダ記念日』と並んで「日本の五大歌集」と称されるこの歌集は、内容においても形式においても革新的な傑作だった。
 従来の短歌は美しい景色や高雅な叙情を詠むべきとされ、石川も天才時代は風流な歌人を気取っていたが、『一握の砂』においては卑近な生活や情けない感情を詠った。後年国語の教科書にも掲載されることとなる、日本人なら誰でも知っている歌が数多く収められた。
 そしてまた、一首三行書きで一ページに二首(見開き四首)を収録し、通常一行書きの短歌を三行に分けて在来の格調を破った。
「歌の調子はまだまだ複雑になりうる余地がある。昔はいつの間にか五七五、七七と二行に書くことになっていたのを、明治になってから一本に書くことになった。今度はあれを壊すんだね。歌には一首一首おのおの異なった調子があるはずだから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。」(『一利己主義者と友人との対話』)
「我々の歌の形式は万葉以前から在ったものである。しかし我々の今日の歌はどこまでも我々の今日の歌である。我々の明日の歌もやっぱりどこまでも我々の明日の歌でなくてはならぬ。」(『歌のいろいろ』)
 石川は『一握の砂』一冊で日本文学史に名を残した。絶頂期であった神童時代をピークに、その後は負け続けの人生だったが、この一冊で全てが変わった。今日では日本人の誰もが「石川啄木」を知っている。『一握の砂』を発表しなければ文学史における位置づけも大部変わっていただろう。早熟な少年詩人、もしくは単なるアマチュア小説家──平野万里や吉井勇と同じくらいの知名度で終わっていたはずだ。
 ただ、超傑作歌集を編んでも石川の生活は楽にならなかった。家計を維持するために三日に一度夜勤をした。天才詩人の成れの果て、見事な社畜に成りおおせた。
「二晩おきに、/夜の一時頃に切通きりどおしの坂をのぼりしも――/勤めなればかな。」
「家にかえる時間となるを、/ただ一つの待つことにして、/今日も働けり。」
「はたらけど/はたらけど猶わが生活くらし楽にならざり/じっと手を見る」
闇雲やみくもに働き糧を得し人が/手の中を見る/何も残らず」
「よごれたる手をみる――/ちょうど/この頃の自分の心にむかうがごとし。」
「どうしても好きになれない人がいて/早く死んでと/いつも思ってる」
「不仲だが一緒にいなけりゃならぬ彼/『前世は便座…』/思うことにし」
「いろいろの人の思わく/はかりかねて、/今日もおとなしく暮らしたるかな。」
「おとなしく人にしたがう安けさをようやく知りて二十五になりぬ」
 夜勤のせいで虚弱な彼は体調を崩してしまった。体力が落ち、病気に対する抵抗力が低下した。夜勤は金には成るが、断念せざるを得なかった。
「じりじりと、/蝋燭の燃えつくるごとく、/夜となりたる大晦日かな。」
「過ぎゆける一年のつかれ出でしものか、/元日というに/うとうと眠し。」
「それとなく/その由るところ悲しまる、/元日の午後の眠たき心。」
「今年こそ何か気味よき事せむと今年も誓えり元日の朝」
「何となく、/今年はよい事あるごとし。/元日の朝、晴れて風無し。」
「新しき明日の来たるを信ずという/自分の言葉に/嘘はなけれど――」
 一九一一年。石川は前年度に起きた大逆事件にいたく感心を示し、経過を興味深く見守った。事件は、無政府主義の青年たちが爆弾による天皇暗殺を計画したことから始まった。計画は事前に発覚し、実行には至らなかったが、政府が行なった制裁措置は凄まじかった。大逆罪を口実に、目のかたきだった社会主義者たちを一網打尽にしたのである。天皇暗殺を妄想したのはたった四名だったが、死刑判決が二十四名に下された。暗殺計画に関与していなかったにも関わらず、社会主義のかしらと目された幸徳秋水までもが処刑された。政府の行き過ぎた弾圧に社会は恐れおののいた。石川は一九〇四年に岩手日報に連載していた『戦雲余録』で幸徳を痛罵していたが、この時は深い同情を寄せ、急速に社会主義に接近した。
「わがいだく思想はすべて/金なきにいんするごとし/秋の風吹く」
「何か一つ騒ぎを起してみたかりし、/先刻さっきの我を/いとしと思える。」
「やや遠きものに思いし/テロリストの悲しき心も――/近づく日のあり。」
赤紙あかがみの表紙手擦れし/国禁こっきんの/ふみ行李こうりの底にさがす日」
「ボロオヂンという露西亜名ロシアなが、/何故なぜともなく、/幾度いくども思い出さるる日なり。」(※「ボロオヂン」は無政府主義王子こと「ピョートル・クロポトキン」の地下活動時の名)
「五歳になる子に、何故ともなく、/ソニヤという露西亜名をつけて、/呼びてはよろこぶ。」(※「ソニヤ」はロシアのテロリスト「ソフィア・ペロフスカヤ」の愛称)
「『労働者』『革命』などという言葉を/聞きおぼえたる/五歳の子かな。」
しも我露西亜ロシアに入りて反乱に死なむというも誰か咎めむ」
 盛岡中時代、そして小学校教員時代に起こした「革命」が頭をよぎった。もし石川が丈夫で健康だったら、革命家かテロリストになっていたかも知れない。また、このころ、『時代閉塞の現状』という優れた評論を書いた。が、その過激な内容によるとばっちりを朝日新聞が恐れたので掲載はしてもらえなかった。
「時代閉塞の現状を奈何いかにせむ秋に入りてことに斯く思うかな」
「つね日頃好みて言いし革命の語をつつしみて秋に入れりけり」
「秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く」
謀叛気むほんぎの起る夜ほどわがいのち惜しき時なしかなしき時なし」
「友も妻もかなしと思うらし――/病みても猶、/革命のこと口に絶たねば。」
 二月、石川は健康を害した。腹が妊婦のように膨れ始めた。東京帝国大学附属病院にて、慢性腹膜炎と診断された。
「早速入院することにして、一旦家へかえり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大学病院青山内科十八号室の人となった。同室の人二人。夕方有馬学士の診察。夕食は普通の飯。
 病院の第一夜は淋しいものだった。何だかもう世の中から遠く離れてしまったようで、今までうるさかったあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになった。長い廊下に足音が起っては消えた。本をよむには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入った。」
「ふるさとを出でて五年いつとせ、/病をえて、/かの閑古鳥を夢にきけるかな。」
「ふと思う/ふるさとにいて日毎聴きし雀の鳴くを/三年聴かざり」
「この四五年、/空を仰ぐということが一度もなかりき。/こうもなるものか?」
「ふくれたる腹を撫でつつ、/病院の寝台ねだいに、ひとり、/かなしみてあり。」
「病院に入りて初めての夜というに、/すぐ寝入りしが、/物足らぬかな。」
 この十八号室は結核患者のための隔離病棟だった。しかし石川はそれを知らなかった。「どうも病院へ来てから暢気になりすぎていけない」と、病気になったことを喜んでさえ居た。かつて彼は、例の全編ローマ字のブログ「NIKKI」にこう書いた。
「『病気をしたい。』この希望は長い事俺の頭の中に潜んでいる。病気! 人の厭うこの言葉は、俺には故郷の山の名の様に懐かしく聞こえる!――ああ、あらゆる責任を解除した自由の生活! 我らがそれを得るの道は、ただ病気あるのみだ!」
 その希望通り、石川は病気をした。予期した通りの自由は得られなかったが、なるほど家族を扶養する責任は放棄できた。二度と会社に出勤せずに済んだ。
「重い荷を下したような、/気持なりき、/この寝台の上に来ていねしとき。」
「かなしくも、病いゆるを願わざる心我に在あり。/何の心ぞ。」
 手術をして腹膜に溜まった水を取った。手術中も石川は冗談を言うほど余裕綽々であった。入院中は暇なので度々タバコを吸った。
「新しきからだを欲しと思いけり、/手術の傷の/あとを撫でつつ。」
「看護婦の徹夜するまで、/わが病、/わるくなれとも、ひそかに願える。」
「晴れし日のかなしみの一つ!/病室の窓にもたれて/煙草を味わう。」
「胸いたむ日のかなしみも、/かをりよき煙草の如く、/棄てがたきかな。」
「そんならば生命いのちが欲しくないのかと、/医者に言われて、/だまりし心!」
 石川は入院中もツイッターで短歌をつぶやいた。これらの歌が死後にまとめられ、歌集『悲しき玩具』となる。『一握の砂』の革新をさらに大胆に押し進めたもので、句読点・ダッシュ・感嘆符・疑問符が多用され、もはや五七五七七調の歌はほとんど無かった。題材は勢い病床での呻吟が多くなった。
「何度でも書けて前の句を保存する斯く短冊を欲しと思えり」
「原稿紙にでなくては/字を書かぬものと、/かたく信ずる我が児のあどけなさ!」
「頭首肩胸腕腹/×××/股間太股脹脛足」
ひさしくなおらないやまい。/たなごころ。/ほねとかわとがはなれるおと。」
「病みてあれば心も弱るらむ!/さまざまの/泣きたきことが胸にあつまる。」
「我々は既に一首の歌を一行に書き下すことにある不便、ある不自然を感じて来た。そこでこれは歌それぞれの調子に依ってある歌は二行にある歌は三行に書くことにすればよい。よしそれが歌の調子そのものを破ると言われるにしてからが、その在来の調子それ自身が我々の感情にしっくりそぐわなくなって来たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ。三十一文字という制限が不便な場合にはどしどし字あまりもやるべきである。又歌うべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいう勝手な拘束をめてしまって、何に限らず歌いたいと思った事は自由に歌えばよい。こうしてさえ行けば、忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那刹那の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌というものは滅びない。仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、とにかく歌というものは滅びない。そうして我々はそれに依って、その刹那刹那の生命を愛惜する心を満足させることが出来る。」(『歌のいろいろ』)
 石川は入院生活に飽き飽きした。
「三人部屋。昼間は仕切りカーテンがある。お互いの存在は無視できる。が、消灯時間になり、仕切りが見えなくなると、『仕切りが見えなくなる』。つまり、仕切りは透明になり、そして消滅してしまう。隣の人の存在が闇の向こうにありありと浮かび上がり、その息遣いや気配が同室である事を痛感させる。見知らぬ人との、一夜……。」
「退屈な夜だった。廊下を一周して来てやや疲れを覚えた。俺はそろそろ病院生活に飽きて来た。静安な一日! それはよい。しかしあまりといえばあまりに刺戟しげきがない。俺はもうここでみるすべての顔に飽きてしまった。」
「入院生活は単調だ。毎日が同じ事の繰り返しだ。──同じ事の繰り返し?正確には違う。太陽の運行のような正確さではない。毎日の食事も違えば、出勤している看護婦も違う。入院する者あれば退院する者もある。だがそれは、『昨日の体温は三十六度四分だったが、今日計ったら三十六度六分だった』程度の違いだ。昨日と今日とで違いなんかあるだろうか。違いなんぞない。同じ平熱だ。ああ、入院生活は単調だ!」
「話しかけて返事のなきに/よく見れば、/泣いていたりき、隣の患者。」
「ドア推してひと足出れば、/病人の目にはてもなき/長廊下かな」
「はづれまで一度ゆきたしと/思いいし/かの病院の長廊下かな。」
 もう一回手術をして、石川は退院した。しかし完治はしていなかった。病状は小康状態だっただけで、しばらくして肺結核に移行した。余命一年。
「病みて四月――/そのときどきに変りたる/くすりの味もなつかしきかな。」
「病みて四月――/その間にも、猶、目に見えて、/わが子の背丈のびしかなしみ。」
「すこやかに、/背丈のびゆく子を見つつ、/われの日毎にさびしきはぞ。」
 六月、妻節子の実家・堀合家と義絶。余命十ヶ月。
「『石川はふびんな奴だ。』/ときにこう自分で言いて、/かなしみてみる。」
 七月、妻節子が肺結核と診断される。母カツが台所仕事の第一線に復帰。余命九ヶ月。
「わが病の/その因るところ深く且つ遠きを思う。/目をとじて思う。」
 八月、母カツが腸カタルと診断される。妻が懐妊。余命八ヶ月。
「やまい癒えず、/死なず、/日毎にこころのみ険しくなれる七八月かな。」
 九月、父一禎が再び家出。義弟宮崎郁雨と義絶。娘京子が肺炎で倒れる。余命七ヶ月。(郁雨からは四月二十九日に十五円、七月十三日に十五円、八月二日に四十円の為替が送られてきていたが、これ以後援助は途絶える。)
「何がなしに/肺が小さくなれる如く思いて起きぬ――/秋近き朝。」
「買いおきし/薬つきたる朝に来し/友のなさけの為替のかなしさ。」
「ヒ一ニチクルシクナリヌアタマイタシキミノタスケヲマツミトナリヌ」
「われとわが心に負えるいろいろの負債を思う除夜のかなしみ」
 一九一二年、一月。余命三ヶ月。
「今年ほど新年らしい気持ちのしない新年を迎えたことはない。というよりは寧ろ、新年らしい気持ちになるだけの気力さえない新年だったという方が当っているかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考えると、それも無理はないのだが、あまり可い気持のものではなかった。朝にまだ寝てるうちに十何通かの年賀状が来たけれども、いそいそと手を出して見る気にもなれなかった。
 いつも敷いておく布団は新年だというので久し振りに押入にしまわれたが、暮れの三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だった。二日だけは気の張りでどうかこうか持ちこたえていたが、今日はとうとうまいってしまった。先ず朝早くから雑煮がまずいと言って皮肉な小言を言い、夕方に子供が少し無理を言い出した時には、元日だから叱らずに置こうかと自分で思ったのがしゃくにさわって、却ってしたたか頬っぺをなぐって泣かせてやった。じっとして行火あんかに寝ていても、背中に熱のあるのが絶えず意識に上って、不愉快で不愉快で仕方がなかった。新年を迎えたというのがちっとも喜ばしくないばかりでなく、またしても苦しい一年を繰返さねばならぬのかと思うと、今まで死なずにいたのを泣きたくもあった。『元日だというのに笑い声一つしないのは、おれの家ばかりだろうな。』こう夕飯の席で言った時には、さらでだに興のない顔をしていた母や妻の顔は見る見る曇った。
「夜になると、熱は薬のために下つていたが、心はあたらしい暗さに占められていた。私は今月から何かしら書いて原稿料をとらなくてはならぬ事になつている。何を書こうか? こう思うと、もう何事からも興味を見付けかねるような私の今の心は、恰度ちょうどぎりぎりとしめ木にかけて生身を絞められるように痛んだ。いつしか行火にまどろんで、不図目をさまして、さうしてこれも夕方から居眠りばかりしていた妻を呼び起して寝床の支度をさせた時には、私はすっかり今日が正月の二日だという事を忘れていた。」
「たとえようもない不愉快な日であった。熱がやっぱり三十八度の上にのぼった。ピラミドン(註・鎮痛解熱剤)をのんだ。もう三ヶ日もすぎたのに、私の家には、近所の人が門口まで来た外、一人の客もない。」
「昨日も今日も言いがたき不愉快のうちに暮らさねばならなかった不幸を、私はここに嘆かずには居られない。妻はこの頃また少し容態が悪い。髪もくしけずらず、古袷ふるあわせの上に寝巻を不恰好に着て、全く意地も張りもないような顔をしていて、そうして時々はげしく咳をする。私はその醜悪な姿を見る毎に何とも言えない暗い怒りと自棄の念に捉えられずには済まされない。
 今日も私が行火に寝ていると、妻は風の吹く縁側に出ているようだった。そこで私は前後二度『縁側は寒くないかい?』と言った。初めの時はただ『いいえ』という返事しか耳に入らなかったが、三十分ばかり経て二度目に言った時には、『縁側になんかいませんよ』とつっけんどんな答えで酬いられた。次の間の行火に寝ているらしかった。私はその時、何かしら怒った言葉を言わねばならぬ心持ちになった。しかしその時私は仰向けに寝ていたので、怒るだけの力がまるで腹になかった。
 夜になって、京子の寝る時、妻はまた烈しく咳をした。『お前も寝ろ』と私は命令的に言った。妻も寝た。そこで私は、『咳の薬を買って来るが、のむか、のまないか』と聞いた。『私が明日行って買って来ます。』『いいや。おれの親切はお前にはうるさいようだけど、お前のその咳をきくとおれは気違いになりそうだ。』こう言って私は寒い風の吹く中を、電車通りまで行って、咳の薬と浅田飴とを買って来た。私は自分を憐れむの情に堪えなかった。」
「四度名をよべど答えず/こたえずば/我死ぬ日まで答えずてあれ」
「兎も角もこの二日間は穏やかに過ぎたというものだ。今日はことに朝から気分がよかったので、思い切ってひと月振りに湯に行った。札を二枚買って流させたが、ひどい垢だった。熱い湯につかって、湯槽ゆぶねのふちにうなじをのせて、静かに深呼吸をしていると、何だか自分のからだに病気があるというのが嘘なように思われた。それほど気持がよかった。
 午後には、しかし、熱がまた三十八度まで出たので、うろたえてピラミドンをのんで、夕方までじっとして寝ていた。」
「今日も不愉快な一日を送らねばならなかった。熱は三十八度三分まで出た。しかしもうピラミドンはなかった。」
「十三日か十四日の晩から、せつ子と京子を隣室へ母と一緒に寝せることにした。せつ子はやっぱり咳がはげしいので、炊事むきは万事また母一人でやっていたが、その母が二三日前から時々痰と一しょに血を吐くようになった。それでもせつ子は、自分は薬を怠けて飲まずにいたりする癖に、水まで母にくませていた。あまり顔色がよくないので、今夜熱を計ったところが、三十八度二分、脈搏百〇二あった。医者に見せたくても金がない。兎も角二三日は寝ていて貰うことにした。『明日から私がします』とせつ子が言った。
 京子も今日はよかったようだが、二三日来また少し熱があった。私の家は病人の家だ、どれもこれも不愉快な顔をした病人の家だ。『おれは去年の六月、とうとうお前が出てゆかない事になった時から、おれの家の者が皆肺病になつて死ぬことを覚悟しているのだ。』こんな事を今朝言ってみた。私の熱も三十八度一分まで上った、そうしてもう薬がとうに尽きている。(略)去年のうちは死ぬ事ばかり考えていたっけが、この頃は何とかして生きなければならぬと思う。」
「あな苦しむしろ死なむと我にいう三人のいづれ先に死ぬらむ」
「母の吐血はやっぱりとまらない、咳をする度に多少ずつ出る。もう初めからで御飯茶碗に二つ位は出たらしい。それだのに売薬さえ買うことが出来ないという事は、ひどく私を悩ました。昨夜は寝る前に、『明日か明後日少し金をこしらえるから、それまで待ってくれ』と母に言ったが、しかし別にアテがあったのではなかった。」
「思い切って近所の三浦という医者に使いをやったところが、三十位の丁寧な代診が来た。診察の結果は、母はもう何年前よりとも知れない痼疾こしつの肺患を持っていて、老体の事だから病勢は緩慢に進行したにちがいないが、もう左の肺は殆ど用をなさない位になっているという事だった。
 喀血したからこそ『或は…』と思っていたものの、これは私にとって全く初耳だった。しかし不幸にして私は、医者の言葉を証拠立てる色々の事実を知っていた。母がまだ十五六の頃に労症すなわち今の肺病をわずらったという話も母の口から聞いた事があったし、そればかりか数年前から、母は左を下にして寝れば咳が出て眠れないと言っていた。そうして去年私の入院中にも母は多少喀血したことがあるそうである。……私はまた長姉の死因についても考えなければならなかった。(略)母の病気が分ったと同時に、現在私の家を包んでいる不幸な原因も分ったようなものである。私は今日という今日こそ自分が全く絶望の境にいることを承認せざるを得なかった。私には母をなるべく長く生かしたいという希望と、長く生きられては困るという心とが、同時に働いている……」
「わが母の死ぬ日一日よき衣を着むと願えりゆるし給うや」
呼吸いきすれば、/胸の中より鳴る音あり。/凩よりもさびしきその音!」
 二月二十日。石川は二六歳になり、最後の日記を書く。余命二ヶ月。
「日記をつけなかった事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。三十九度まで上がった事さえあった。そうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。
 そうしている間にも金はドンドンなくなった。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかった。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たった一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。
 母の容態は昨今少し可いように見える。然し食慾は減じた。」
 三月七日、母カツが死去。余命一ヶ月。
──石川一の人と文学②、了。


【略年譜】
一八八六年(明治十九年) うまれる。
一八八七年(明治二十年) 一歳になる。
一八八八年(明治二十一年)二歳になる。
一八八九年(明治二十二年)三歳になる。
一八九〇年(明治二十三年)四歳になる。
一八九一年(明治二十四年)五歳になる。
一八九二年(明治二十五年)六歳になる。
一八九三年(明治二十六年)七歳になる。
一八九四年(明治二十七年)八歳になる。
一八九五年(明治二十八年)九歳になる。
一八九六年(明治二十九年)十歳になる。
一八九七年(明治三十年) 十一歳になる。
一八九八年(明治三十一年)十二歳になる。
一八九九年(明治三十二年)ハーグで万国平和会議。
一九〇〇年(明治三十三年)十四歳になる。
一九〇一年(明治三十四年)十五歳になる。
一九〇二年(明治三十五年)十六歳になる。
一九〇三年(明治三十六年)十七歳になる。
一九〇四年(明治三十七年)十八歳になる。
一九〇五年(明治三十八年)十九歳になる。
一九〇六年(明治三十九年)二十歳になる。
一九〇七年(明治四十年) 二十一歳になる。
一九〇八年(明治四十一年)二十二歳になる。
一九〇九年(明治四十二年)二十三歳になる。
一九一〇年(明治四十三年)二十四歳になる。
一九一一年(明治四十四年)宮崎郁雨、二十六歳になる。
一九一二年(明治四十五年)二十七歳になる。
一九一三年(大正二年)二十八歳になる。
一九一四年(大正三年)二十九歳になる。
一九一五年(大正四年)三十歳になる。
一九一六年(大正五年)三十一歳になる。
一九一七年(大正六年)三十二歳になる。
一九一八年(大正七年)三十三歳になる。
一九一九年(大正八年)三十四歳になる。
一九二〇年(大正九年)三十五歳になる。
一九二一年(大正十年)三十六歳になる。
一九二二年(大正十一年)三十七歳になる。
一九二三年(大正十二年)三十八歳になる。
一九二四年(大正十三年)三十九歳になる。
一九二五年(大正十四年)四十歳になる。
一九二六年(大正十五年)四十一歳になる。
一九二七年(昭和二年)芥川、「ぼんやりした不安」を解剖。
一九二八年(昭和三年)四十三歳になる。
一九二九年(昭和四年)四十四歳になる。
一九三〇年(昭和五年)四十五歳になる。
一九三一年(昭和六年)四十六歳になる。
一九三二年(昭和七年)四十七歳になる。
一九三三年(昭和八年)四十八歳になる。
一九三四年(昭和九年)四十九歳になる。
一九三五年(昭和十年)五十歳になる。
一九三六年(昭和十一年)五十一歳になる。
一九三七年(昭和十二年)五十二歳になる。
一九三八年(昭和十三年)五十三歳になる。
一九三九年(昭和十四年)五十四歳になる。
一九四〇年(昭和十五年)五十五歳になる。
一九四一年(昭和十六年)五十六歳になる。
一九四二年(昭和十七年)五十七歳になる。
一九四三年(昭和十八年)五十八歳になる。
一九四四年(昭和十九年)五十九歳になる。
一九四五年(昭和二十年)六十歳になる。
一九四六年(昭和二十一年)第一回国連総会。
一九四七年(昭和二十二年)六十二歳になる。
一九四八年(昭和二十三年)六十三歳になる。
一九四九年(昭和二十四年)六十四歳になる。
一九五〇年(昭和二十五年)六十五歳になる。
一九五一年(昭和二十六年)六十六歳になる。
一九五二年(昭和二十七年)六十七歳になる。
一九五三年(昭和二十八年)六十八歳になる。
一九五四年(昭和二十九年)六十九歳になる。
一九五五年(昭和三十年) 七十歳になる。
一九五六年(昭和三十一年)七十一歳になる。
一九五七年(昭和三十二年)七十二歳になる。
一九五八年(昭和三十三年)七十三歳になる。
一九五九年(昭和三十四年)七十四歳になる。
一九六〇年(昭和三十五年)七十五歳になる。
一九六一年(昭和三十六年)七十六歳になる。
一九六二年(昭和三十七年)七十七歳にならない。


【主要参考文献一覧】
 大塚晩霜『石川一全歌集』(民明書房、二〇一五年)


────────────────────────────────────────

  石川一生誕 百二十九周年 記念企画

石川一全歌集



 一八九一年
石川るたるみの上のさわらびのもえいづるはるになりにけるかも
うらうらとてれるハルヒにひばり上がり心かなしもひとりとおもえば
オクラらは今はまからむ子なくらむそれをおうははもわれをまつらむ
カらごろもキつつきつつきツまあればハるばるきぬるタびをぞ思う
こちかめばにおいおこせようめの花あるじなしとてはるをわするな
なつすぎてあききたるらし白たえのころもほしたり雨のかぐ山
花の色はうつりけるよないたづらにわがみよにふるながめせしまに
ひがしののののかぎろいの立つみえてかえりみすれば月かたむきぬ
たごのうらにうちいでてみればま白にぞふじのたかねにゆきがふりける
つねならむ色はにおえどちりぬるをあさきゆめみしういのおく山
よの中にたえてさくらのなかりせばはるの心はのどかなるべし

 一八九六年
赤々とうまみのこれる干し蝦よ猫の飛び込む紙袋かな
白き猫と一緒に暮らす友の居て彼の絣の毛まみれも良し
日に一度散歩に出づるがそのほかは庭で寝そべる犬ぞ悲しき
遠雷の響きに臍を隠しおる妹の恐怖ほほえましかり
妹のおねしょのくせが根治せず地図を描かむと気張るせいかも
駄菓子屋の婆に手渡す息弾ませ汗をかきぬる五銭銅貨を
茶菓に合う地球単位の雪衣求めて深し山際の美味
掃除時間窓拭き係を拝命ししかしあの娘の指紋は残せり
路に落ちし草の切れはしよく見れば押し花風のカマキリなりき
絵の具の金絵の具の銀を未練無く水に溶きたり腹の立つとき
うとうととうたた寝をする快さ春の眠りは暁を覚えず
紅灯の巷に車の赤き尾灯無数ゆらゆら胸に火が点く
健康を害せし祖父の二人いて泣けて参りぬ競い合うよで
熊射殺一件落着一安心よしこれからはアザラシも撃て
しんしんと静まる夜の底冷えが朝に残るらむ季節は進みぬ
少しずつ薄皮を剥く衣替え一雨ごとに季節の進む
盛夏過ぎ秋ぞ深まる肌寒の冬が来たらば春遠からじ
朝露の如く消え行くつぶやきの蒸気にも似て霧散せるかな
土砂降りの水圧のいと強くして和紙を張りし傘が破れぬ
剽軽の性なりし友の死顔の青き疲れがいまも目にあり
砂のごと己が魂をばものに籠め百年生きる人もありけり
(以下続刊)




この記事に対するコメント


お気軽にコメントをお書き下さい











«  | ホーム |  »