とりぶみ
実験小説の書評&実践
【小説】石川一全歌集(前編)   (2015/02/14)
「啄木以前(幼年期から青年期まで)」
原稿用紙122枚


(一)おいたち
(二)小学校
(三)尋常中学校一二年
(四)尋常中学校三年
(五)尋常中学校四年
(六)退学、上京
(七)四ヶ月間の東京生活
【石川の技巧】




【凡例】
 一、石川が生涯に詠んだ短歌を、活字化された物はもちろん現存する物もそうでない物も含め、そのすべてを収める。
 一、小説・その他の詩・評論・日記などは収めない。
 一、短歌は成立順に収録する。ただし、評伝部分への引用に関しては伝記作者が恣意的に選んだため、必ずしも成立順ではない。晩年に詠まれた歌が幼年期の評伝に挿入される場合もある。
 一、石川の短歌の大きな特徴としては、一首を三行書きにする形式が知られるが、紙幅の都合上、評伝部分においては伝統通りの一行書きとする。ただし、スラッシュ記号により、本来は詩行のどこで改行されているのかを示す。(例:たわむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず)
 一、旧字旧仮名遣いは新字新仮名遣いに改める。(例:「盗むてふことさへ惡しと思ひえぬ」→「盗むてうことさえ悪しと思いえぬ」)



【石川一の人と文学①
啄木以前(幼年期から青年期まで)】
 石川はじめ(一八八六~一九一二)は近代日本を代表する詩人の一人である。
 彼は「短歌」という日本古来からの定型詩において、比類無き才を発現した。
 短歌は、五つの詩句から成り、それぞれの詩句の音節の長さは、五・七・五・七・七である。五つの詩句の集合を一つの詩とみなし、それを「一首」と呼ぶ。短歌は、その音節数の和から「三十一文字」とも呼ばれるが、文字数が三十一である必要はまったくなく、あくまでも音節数が重要視される。
 従来の短歌は、句読点を含まず、一行に縦書きとするのが普通だったが、石川はこれを三行に分かち書きし、彼の代名詞とも成るスタイルを築き上げた。生活苦や孤独感などを切々と歌う、抒情豊かな社会不適合者であった。
 よく知られている「石川啄木」という名は彼の筆名で、本名は「石川一」と言った。「啄木たくぼく」は雅号であり、「啄木鳥きつつき」を由来とする。
 雅号は、東洋の文人墨客が芸術作品を発表する際に自称した、風流なペンネームである。石川の暗躍した時代には文筆業者のほぼ全員が用いた。しかしその伝統は大正末期に廃れ、現代日本で使われることは少ない。「ばなな」や「ナオコーラ」など一部にその名残を留めるのみ。
 石川が「啄木」という雅号を使い始めたのは一九〇三年の暮れの頃からであり、それ以前は「翠江すいこう」「白蘋はくひん」などと号した。「啄木」を使用した期間は一九一二年までの九年間である。一方で、筆名の前半部分については二十六年間愛用した。
 石川と言えば、働いても働いても生活が楽にならなかった清貧のイメージがある。従来からのこの人物像は近年の研究によって覆された。やむを得ず貧困に苦しんでいたのではなかった。
 石川の短歌を鑑賞する前に、まずは彼の生涯や文学のあらましを紹介しよう。


(一)おいたち
 石川は一八八六年二月二十日、日本国の岩手県南岩手郡日戸ひのと村に、父・石川一禎いっていと母・カツの長男として生まれた。当時、父は三十七歳、母は四十歳であった。近所の農婦・米田某が産婆を務めた。その時の印象を石川は「石ひとつ/坂をくだるがごとくにも/我きょうの日に到り着きたる」と歌っている(「石ひとつ」が「石川一」の、「坂をくだる」が「産道を抜ける」の暗喩となっている)。
 生誕の地は日戸村五十九番地、曹洞宗日照常光寺の庫裡の八畳間。しかるに戸籍上は「日戸村乙二十一番地」で生まれたことになっている。これは母カツの住所である。しかも初め、彼は工藤姓だった。出生の実際と、役場に提出された戸籍上の記載とは異なる。戸籍の取り扱いがいいかげんなのは、当時は珍しいことではなかった。
 父は常光寺の第二十二世住職だった。放蕩者の石川の、その父親が僧侶だったのは意外に思われるかも知れない。だが石川がその歌に「父にしてこの我ありと/思うぞかし/酒色歌に耽る烏滸おこなり」「その親にも、/親の親にも似るなかれ──/かくが父は思えるぞ、子よ。」「四人よつたりも私生児にする破戒僧/飲み打ち買いて/職を免れ」と暴露している通り、石川の父であるのも納得の坊主である。
 石川誕生に先立つこと十二年。一禎は師匠の僧侶・葛原対月かつらはらたいげつ(本名工藤常久。常光寺住職の座を用意してくれたのもこの人)の妹・カツと恋仲となった。妊娠させた。カツは長女・サダを出産した。しかし一禎はカツを入籍させなかった。五戒の「不邪淫」を憚ってか、はたまた婚前交渉を恥じたのか、内縁の妻とした。次女・トラも私生児にした。石川も二人の姉と同じ扱いを受けた。そのため、石川は工藤カツの長男・工藤一として、「日戸村乙二十一番地」に誕生したことにされた。下って一九〇五年に一禎は「宗費怠納」をして住職をクビになったりもしている。五戒のことごとくを破っている。すなわち、婚前交渉により「不邪淫」を、公文書偽造により「不妄語」を、宗費怠納により「不偸盗」を。「不飲酒」「不殺生」に関しては資料が現存しないが、石川の歌に「酒色歌」ともあるように飲酒はしていただろうし、これほどのワルなら虫くらいは殺しただろう。そしてまた「酒色歌」とあるように、一禎は短歌を嗜んだ。農民の出でありながら短歌雑誌などで独学し、およそ三千八百首を『みだれ芦』という歌稿に残している。寒村で檀家も少なかったため僧職だけでは食べていけず、一山向こうの玉山小学校で用務員をして口を糊していた。歌といい生き方といい紛う事なき石川のルーツである。
 生誕地が偽られているのと同様、生年月日に関しても、一八八六年二月二十日ではない。本当は一八八五年十月二十八日である。父母のいずれかが、何らかの理由で四ヶ月間出生届を出さなかった。役場に足を運ぶのが億劫だったのか、三人目の私生児を羞じたのか、成長せずに死んでくれればいい(なかったことにしたい)と思ったのか、いずれかだろう。さらに、十月二十八日というのは旧暦であり、現在の暦に直すと十二月四日となる(ちなみに太陰暦は一八七二年十二月二日に廃止され、翌日から太陽暦が実施されている)。こうなってくるともう、はたして二月なのか十月なのか十二月なのか、よく判らなくなってくる。面倒臭いので今では戸籍の生年月日が正式な誕生日として認められている。
 石川が一歳になった一八八七年三月、一禎は隣村の岩手県南岩手郡渋民村九十二番地の万年山宝徳寺へ転住し、第十五世住職に任じられた。第十四世住職・遊佐徳英がスイカと天ぷらを一緒に食べて急逝したためである。住居を兼ねた寺を石川家に乗っ取られ、遊佐家は一家離散した。檀徒はこの悲劇を気の毒に思い、新任住職に反感を持った。一禎の方からも地域社会と積極的な交流を図ることはなく、愉快な近所付き合いは出来なかった。ただ、経済的には豊かになった。
 戸籍上、石川の住所は宝徳寺ではなく、母の住所渋民村九十六番地の借家になった。一八八八年末には妹のミツが「渋民村九十六番地」に誕生した。やはり私生児扱いだった。
 宝徳寺の本堂は一八七七年の火事で焼失していた。以来十年間手つかずの状態だったが、一禎が東奔西走して工事資金を調達。三年がかりの事業の結果、一八九〇年にようやく再建された。今でも宝徳寺の中二階階段の裏には「明治二十七年七月新調 当山十五世石川一禎代」の文字が残っているから今度見てみるといい。
 石川はわんぱくに成長した。晩年の病弱を微塵も感じさせず、すくすくと育った。戸籍上は私生児扱いであったが、父からは大いに愛された。父は神社に参詣して息子の成長を祈願し、「結ぶにも解くにも神や護るらむ祈る宮居に掛けし注連縄しめなわ 」という歌を詠んでいる。家督を継ぐ嗣子としての期待からか、石川は庭に面した八畳間を独占的に与えられた。襖を開けると広大な庭が見て取れ、濡れ縁から池まで飛び石が伸びている。宝徳寺の境内には杉やひばが鬱蒼と繁り、西には岩手山や北上川がある。豊富な自然や美しい景観は石川の原風景となり、のちの短歌に多く詠まれることとなる。
「閑古鳥――/渋民村の山荘をめぐる林の/あかつきなつかし。」
「ふるさとの寺のほとりの/ひばの木の/いただきに来て啼きし閑古鳥!」
「ふるさとの寺の御廊みろうに/踏みにける/小櫛おぐしの蝶を夢にみしかな」
「はたはたときびの葉鳴れる/ふるさとの軒端のきばなつかし/秋風吹けば」
「ふるさとの山に向かいて/言うことなし/ふるさとの山はありがたきかな」
「野兎の藪から出でて/鼻ひくひく/こちらを向きてにやり笑いぬ」
「里山の煙棚引く後景に/紅葉ちりばめ/照る秋の山」
「ぱたぱたと、/草鞋の底を鳴らしつつ、/地蔵の前を通るおにゃの子。」
胡座あぐらかき飯を喰う時/ふと臭う/草履に染みた牛の糞かな」
「やわらかに柳あおめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」
「かにかくに渋民村は恋しかり/おもいでの山/おもいでの川」
 石川にとって故郷と言えば、生誕の地・日戸村ではなく、成長の地・渋民村になる。


(二)小学校
 一八九一年(五歳)五月二日、岩手郡渋民尋常小学校に入学をした。義務教育は通常、数え年で満六歳からだったが、自分の本当の誕生日が一八八五年であることをこの時点で知っていたのだろう、「鴎外の如く年齢偽りて/早期入学せし、/幼時の予!」「我はもう六歳のはず!/彼奴らと同じ学び舎に/いざ通わむぞ!」とねだったのである。
 石川はこの年に初めて短歌を詠んでいる。それは、学校の授業で課題として作ったり、自発的に吟じた歌ではなく、父・一禎の影響だったと思われる(当時、学校の授業で短歌を扱うのは生徒が十歳に達してからだった)。その時に作られた短歌は、習作の域を出ないものの、計十一首が知られている。まだ三行分かち書きではない。
「なつすぎてあききたるらし白たえのころもほしたり雨のかぐ山」
「よの中にたえてさくらのなかりせばはるの心はのどかなるべし」
「つねならむ色はにおえどちりぬるをあさきゆめみしういのおく山」
 資料としては興味深いが、オリジナリティーの萌芽はまだ見られない。石川はこの短歌群を製造したあと、歌人としては五年間沈黙する。少しは詠じたかも知れないが、彼の三十一文字が再び紙の上に落とされるのは一八九六年になってからである。活動休止の理由は不明。一説には学業や恋愛に専念したためと言われている。
 同年十月二十一日、姉のサダが齢十五で田村かのと結婚。小学校に上がったばかりの石川にはこの姉が大変な大人に見えたようで、その時の印象を後年の短歌に詠んでいる。
「玉の汗/顔を濡らせり/雑巾で拭いし姉をたくましく思う」
「何も言えず!/平安の御代に女子たちは、/小学生で夫婦となりぬ!」
「年長の姉の/月一臭き日のありて、/思うさま鼻を摘まみぬ。」
 一八九二年(六歳)九月三日、石川の母は工藤家を廃絶し、トラ・一・ミツを伴って石川家に正式に入籍した。石川は戸籍の上では一禎の養子となった。この頃の石川はのちの風俗狂いを思わせる好色な日々を過ごした。
大形おおがた被布ひふの模様の赤き花/今も目に見ゆ/六歳むつの日の恋」
「その頃は気もつかざりし/仮名ちがいの多きことかな、/昔の恋文!」
「母よ母よ/汝が児の恋はまた破れぬ/今日は一日起さでおき給え」
「三人恋い/右と左に抱けども/のこる一人は抱くすべなし」
「かなしみといわばいうべき/物の味/我の嘗めしはあまりに早かり」
「先んじて恋のあまさと/かなしさを知りし我なり/先んじて老ゆ」
「草茂る水路の横の散歩道茂みの中で女子の雉撃ち」
「何がなく/初恋人のおくつきに詣づるごとし。/郊外に来ぬ。」
 一八九三年(七歳)。現存する資料は少ないが、この頃の石川については数々の歌に詳しい。
「糸切れし紙鳶たこのごとくに/若き日の心かろくも/とびさりしかな」
「過ぎ去りし日々/過ぎ去りし人々よ/距離ぞ離れる像がぼやける」
 記憶の遠退くのを嘆くものの、良い記憶より悪い記憶が残るのは人の常であり、碌でもない交友関係は記憶している。
「我と共に/栗毛の仔馬走らせし/母の無き子の盗癖ぬすみぐせかな」
「馬! 馬! 馬に乗りたし! 種吉と昔かけくらせしこともあり」
「われと共に/小鳥に石を投げて遊ぶ/後備大尉の子もありしかな」
「友として遊ぶものなき/性悪の巡査の子等も/あわれなりけり」
 そして、小児らしい単純さで軍人への憧れを表明したりしている。
「軍人になると言い出して、/父母に/苦労させたる昔の我かな。」
「うっとりとなりて、/剣をさげ、馬にのれる己が姿を/胸に描ける。」
 現実には、徴兵も免除されるほど「筋骨薄弱」な大人に成長した。
 一八九四年(八歳)、歴史の表舞台からは抹消されたが、弟の某がこの年の九月に生まれたとされている。同年春、石川は眼病に冒されて十日間ほど入院した。
「眼を病みて黒き眼鏡をかけし頃/その頃よ/一人泣くを覚えし」
「あの年のゆく春のころ、眼をやみてかけし黒眼鏡――/こわしやしにけむ。」
「病院の窓のゆうべの/ほの白き顔にありたる/淡き見覚え」
「病院の待合室で/屁を垂れる女子高生に、/萌える年寄り!」
「ふるさとの/村医の妻のつつましき櫛巻くしまきなども/なつかしきかな」
 一八九五年(九歳)三月、岩手郡渋民尋常小学校を首席で卒業した。当時の義務教育は尋常小学校四年までだった。
「小学の首席を我と争いし/友のいとなむ/木賃宿きちんやどかな」
 この「友」は工藤千代治ちよじという男のこと。成人してからの工藤は村役場の書記を務めながらモーテルを経営した。彼は他の歌にもその名前が刻まれている。
「千代治等も長じて恋し/子を挙げぬ/わが旅にしてなせしごとくに」
 この頃が石川の黄金期であり、最も幸せな日々であったと言える。悪く言えば温室育ちのお坊ちゃんだが、そのお陰で強烈な自負心を獲得し、与謝野晶子が「石川さんには犯し難い気品が備って居た。石川さんを私は貴族趣味の人だと思っている」と賞賛するような上品さを身に付けた。つまり、育ちが良かったのだ。
 一八九五年(九歳)四月二日、石川は盛岡市立高等小学校に上がる。現在では下橋中学校となっているこの学校には、石川の建立になる歌碑が残っている。
「その昔/小学校の柾屋根まさやねに我が投げしまり/いかになりけむ」(この鞠は一九三九年における台風によって消失した。)
 当時の岩手県には高等小学校が一校しかなかった。自宅から通える距離ではなかったため、石川は母の兄・工藤常象つねかたの家(仙北町組町四十四番戸)に寄宿した。入学式で同校四年生の金田一京助と知り合った。金田一とは終生に渡って交友を結ぶこととなる。翌年三月に第一学年を修了。成績は「学業善、行状善、認定善」という、現在ではオール5に当たる優秀なものだった。(評価は善・能・可・未・否の五段階)
 一八九六年(十歳)、石川はこの頃から本格的に短歌を詠み始めるようになる。三月十一日、伯父・工藤常象方から、伯母・海沼かいぬまイヱ方(盛岡市新築地二番地)に引っ越したのがきっかけだとされる。「短歌を詠むには絶好の環境が、石川の幼い創作欲を刺激した」という見解で研究者は一致している。(※記述を簡潔にする都合上、石川の新たな寄宿先を「海沼イヱ方」と書いたが、所帯主はイヱの娘・海沼ツヱである)
 海沼イヱは石川の母・カツの姉。続柄は伯母だが、祖母ほどの年齢差があり、石川は溺愛された。イヱの孫・慶治は石川とほぼ同い年で、良き友人となった。石川と海沼慶治は、中学受験に備えるため、二人で仲良く学習塾に通いもした。海沼慶治は腕っ節が強く、小柄な石川をガキ大将から護ったりもしてくれた。
 そしてなんと、史実とは思えない奇跡的な偶然であるが、隣が金田一京助の家だった。のちに数々の国語辞典を編纂することとなる言語学界の巨星・金田一と、近代日本を代表する詩人となる天才・石川一。その二人がお隣同士だったというのはまさしく天の配剤と言えよう。「短歌を詠むには絶好の環境」というのは主にこのことを指す。金田一も初めは歌人を志しており、両名は良き好敵手として切磋琢磨をした。
「赤々とうまみのこれる干しよ猫の飛び込む紙袋かな」
「朝露の如く消え行くつぶやきの蒸気にも似て霧散せるかな」
「絵の具の金絵の具の銀を未練無く水に溶きたり腹の立つとき」
「遠雷の響きにへそを隠しおる妹の恐怖ほほえましかり」
「しんしんと静まる夜の底冷えが朝に残るらむ季節は進みぬ」
「少しずつ薄皮をく衣替え一雨ごとに季節の進む」
「日に一度散歩に出づるがそのほかは庭で寝そべる犬ぞ悲しき」
「路に落ちし草の切れはしよく見れば押し花風のカマキリなりき」
「砂のごとおのたまをばものにこめ百年ももとせ生きる人もありけり」
「盛夏過ぎ秋ぞ深まる肌寒の冬が来たらば春遠からじ」
「土砂降りの水圧のいと強くして和紙を張りし傘が破れぬ」
剽軽ひょうきんさがなりし友の死顔しにがおの青き疲れがいまも目にあり」
 まだ三行分かち書きではない。上手に詠もうとする作為や、うまく見せようとする稚気があるのは否定できない。しかし従来の短歌から逸脱しようとする試みはすでに窺える。
 一八九七年(十一歳)、八月十一日に姉のトラが鉄道員の山本千三郎と結婚した。この慶事に関する石川の短歌は残っていない。
 この年、石川の作品は量的にも質的にも飛躍的な発展を遂げる。歌によっては外来語が用いられたり、二行分かち書きになったり三行分かち書きとなったりする。
「朝家を出ると地面が濡れてあり/知らぬ間に世界は動けり」
「あおによし奈良ぬ堪忍せろにあす文句垂ら垂ら垂乳根の母」
「教室の達磨ストウヴにくべるため登校途中に石拾わせる師」
「くくと鳴る鳴革入れし靴はけば蛙を踏むに似て気味悪し」
「牛乳の瓶のフタをば集めたる/靴の空き箱/予の宝箱」
「サアベルの如き形の三日月が/夜空の中空/刃を振るう」
「冴えざえと夜明けの空気にオリオン座冷たき光で我を温もる」
「冷えし陽の催気奏でる/闇の影円き淵から濃き底へ凍む」
「天体の廻る巡る銀河系/螺鈿鏤め鉋屑飛ぶ」
「材木場/木の他殺体が置かれおり/都会徒弟の文机となる」
「夏は夜秋は夕暮れ冬早朝春はあけぼの便意催す」
「緑が黄/黄が紅に紅が赤/赤が茶になりて死ぬる葉」
 二葉亭四迷の『浮雲』から十年、新体詩から十五年。短歌の世界にも革新の風が吹き込み始める。しかし石川はこの時齢十一。まだ無名の歌人であり、世間は彼を黙殺した。彼の斬新な歌は当時の歌壇を動かすには至らなかった。
 幼い石川の詠歌は近代短歌の発展には寄与しなかったが、何か成果を挙げたとすれば、それは金田一京助が歌人になることを諦めたことである。石川一の天才に屈服した金田一は、芸術家の夢を捨て去り、言語の科学的な分析へと情熱を向かわせる。そして「金田一京助編」と銘打たれた数々の国語辞典を編纂することになるのである。この意味において石川一は日本の言語学界に対して大なる貢献をした恩人である。
 翌年二月、石川は短歌雑誌『心の花』を創刊し、級友の作と共に前述の七十八首を収録した。石川自身は雑誌の発行に誇らしげだったが、実際には手書きの紙きれの束である。
 同三月には第三学年を修了。三年間に亘って「学業善・行状善・認定善」の好成績を維持し、常に首席だった。
 当時の高等小学校は四年制だったが、三年を修了すると中学の受験資格を得ることができた。石川は高等小学校四年が始まったばかりの四月十一日、岩手県盛岡尋常中学校の入学試験を受け、見事合格。百二十八人中十番の成績だった。
 そしてこの頃のことと推察されるが、石川は春の目覚めを味わった。
「陰毛の/たった一本生えてきて/『米治よねじ』と名付け石鹸シャボンで洗う」
「辞書開き/しかつめらしき指先で探す/使えるえろき言葉を」
「一人寝のさみしさに負け/小三で/父母の部屋にて川の字となり」
「川の字で/迷惑らしき父と母/今もあらむや夜の営み」
「古本屋/勇気奮わせ春本を帳場に持てり/むげに拒否らる」
 石川の人生はいまだ上り坂だった。何もかもうまくいき、挫折を知らない石川は、その自尊心を丸々と肥え太らせた。


(三)尋常中学校一二年
 一八九八年(十二歳)四月二十五日、岩手県盛岡尋常中学校に入学。第三学年に金田一京助が在籍していた。金田一は石川一より四つ年上だが、学年は二年先輩となった。金田一が浪人や留年を経験したわけではなく、当時の学校制度が学齢を重視しなかったためであり、また、石川一の成績が極めて優秀だったためでもある。
 当時のクラス分けは身長順だった。背が高ければ甲級に、中背ならば乙級に、低ければ丙級に、というように。低身長の石川は甲乙丙のうちの丙級に編入された。石川が一九〇〇年に詠んだ歌に、
「尋常で一番高き丈の我/中学では並/なぜか悲しく」
があるが、これは「背丈にコンプレックスを持つ石川が見栄を張ったのだ」とする説と、「『丈』は成績の比喩であり、試験順位の下降を嘆いている」とする説があり、研究者の間でも解釈が分かれている。
 丙一年級の担任は富田小一郎というダンディーな髭を生やした先生で、三年間に亘って石川の担当教員となった。
「おどけたる手つきおかしと/我のみはいつも笑いき/博学の師を」
「よく叱る師ありき/ひげの似たるより山羊やぎと名づけて/口真似もしき」
(※本稿ではこれ以降、石川に則って富田小一郎を「山羊」と表記する)
 入学式から一ヶ月後、春季運動会が開催された。運動会に関する石川の短歌は合計十四首残っているが、どの歌がどの年の運動会の物なのか、日付がないので判別はできない。ただ、巧拙から推察するに、一八九八年の運動会を詠んだ歌はおそらく以下の四首。
「普通の子てるてる坊主/運痴の子逆さてるてる/せめぎ合う二者」
「銃声が町内に響く/運動会開催を知らす/打ち上げ花火」
「運動会/白い線引く石灰を/食べられると聞き鵜呑み宇野山」
「赤がんばれ白組がんばれ/満艦飾まんかんしょく/一人さみしく弁当を食う」
 この四首は、石川が初めて試みた連作短歌と言って良いだろう。刺身のようなブツ切りで短歌を提供するのではなく、それぞれの短歌を関連づけて併置する──このスタイルは、晩年の傑作歌集『一握の砂』に結実する。感興の似た歌同士を分類し、それぞれ五章に分けることによって、超短編形式であるはずの短歌に、小説的なストーリーを語らせようとする方法論である。
 運動会の四首の他に、中古聖書の四首もこの年の作である。
「古本で買いし/聖書の見返しに/この聖書は売ることはできません」
「贈呈の/住所年齢名日付の鉛筆書きを/消した岩崎」
「一八八二年に十二歳/うっすら残る/岩崎英樹」
「下手すぎる翻訳/新約/岩崎が売り飛ばすのも致し方なし」
 夏休み、石川は盛岡市内の古書店「坐那堂」で、新約聖書を購入した。その時の印象を随筆『不憫な聖書を購いしこと』に、皮肉たっぷりに書き残している。一部を引用しよう。
「その見返し頁に思わず吹き出した。ホテルや学校に寄付される用途の聖書だったのだろう、『この聖書は売ることはできません』と印刷されている。売ってはならない聖書。それが古本屋で売っている。俺は黒い笑いを笑った。(中略)誰か親か親戚から無理に贈呈されたのだろう、消しゴムで抹消された『岩崎英樹』という名前が、うっすらと読み取れた。消し切れていない。この罰当たりな岩崎は余程金に困っていたに違いない。(中略)そうでなければ聖書を売り飛ばすなどという、神をも懼れぬ暴挙をしでかすはずがない」
 石川はもちろん仏教徒であった。聖書を買ったのはただ単に教養のためであり、知的好奇心からである。ただし妹のミツはキリストを神と信じていた。
「クリストを人なりといえば、/妹の眼がかなしくも、/われをあわれむ。」
 一八九九年(十三歳)、石川は第一学年を修了した。平均八十点で、百三十一人中二十五番の成績。
 第二学年では甲乙丙の三クラスから甲乙丙丁の四クラスになり、石川は丁級に振り分けられた。一年の時と同じく担任教員は山羊だった。
 学校名が岩手県盛岡中学校に改められたのを機に石川は中二病を発症。その症例として、春先に夏服を新調した行為が挙げられる。「花散れば/先ず人さきに白の服着て家出づる/我にてありしか」の歌に詠まれている白い洋服で、級友の船越金五郎と一緒に、盛岡は中の橋にある「豊川洋服店」で拵えさせた物である。上着は短くズボンはラッパズボンで太く短かった。昭和で言う所の短ラン・ボンタン、非行少年の服装である。しかもまだ肌寒さの残る五月中旬。この奇抜な夏服は否が応にも人目を惹いた。
 同じ日に、石川は船越から返してもらった森田思軒『十五少年』を山本篤に貸し、佐藤亀吉という教師から『歩兵操典』を借りた。少年時代への訣別と、軍人への憧憬を表した行動と言われている。
 七月十四日より八月十五日までの夏休み期間を利用し、石川は初めて上京をした。姉トラの夫が上野駅に転属となったので遊びに出掛けたのである。主に上野と品川を見物した。品川では生まれて初めて海を見た。それは数々の名作を生む美しい海ではなかったが、一応の感動は味わったようである。
 十一月一日、クラス旅行の会「丁二会」が結成された。「丁級二年」の略であるこの会は、山羊が引率を務めた。結成一ヶ月後には回覧誌『丁二会』が発行され、石川は品川の海を詠んだ歌四首を寄稿した。
「内陸の山に育ちて/海を見し初めての風/今も忘れず」
「舟だまり/アサリの漁師一人いて/恨みがましく網を手入れす」
「油浮く埠頭を染める/夕焼けの濃き橙が/涙腺を刺す」
「重工業コンビナアトを/火の海に沈下せしかな/燃える日輪」
 石川の中二病を本格的に悪化させた病原菌として後世に評価されているのは、堀合節子と金田一京助の二者である。
 堀合節子は石川の妻となる女性で、私立盛岡女学校に通っていた。二人は次第に仲を深めていく。石川は学術講習会の頃から親しくしていた伊東圭一郎(入学試験の結果は石川に次ぐ第十一位)にその恋心を打ち明けている。
「わが恋を/はじめて友にうち明けし夜のことなど/思い出づる日」
「打明けて語りて/何か損をせしごとく思いて/友とわかれぬ」
 また、後年になって石川は、『岩手日報』の「百回通信」第二十七回で、当時の自分がいかにやんちゃ盛りであったかを記している。
「二年に進みて丁級に入る。また先生の受持たり、時に十四歳。ようやく悪戯いたずらの味を知りて、友を侮り、師を恐れず。時に教室の窓より、またはその背後の扉より脱れ出でて、独り古城址こじょうあとの草に眠る。欠席の多き事と師の下口を取る事級中随一たり。先生より拉せられて叱責を享くる事殆んど連日に及ぶ」
 ここから浮かび上がってくるイメージは、みずみずしい感性を持った天才詩人ではなく、手に負えないイタズラ小僧、有り体に言えば不良少年である。我々の知っているさわやかな石川像──正確には、我々が勝手に思い描いていた石川像──とは大きく異なる。この脱走劇は、クラスメートを喜ばせる行為でもあった。前述の伊東はその著書『人間啄木』(岩手日報社。一九五九年)の中で語る。
「啄木が教室の窓から脱出する芸当は、まったくうまいものであった。先生が黒板の方へ向いて字を書き出すと、すばやく、あらかじめ開けておいた後ろの窓から、するすると音を立てずに、降りて脱出するので、先生には一度もみつからなかった」
 石川は、思春期における典型的な不良少年だった。生意気になり、反抗し、大人を信じなくなった。ただ友人と芸術とのみを愛した。十代らしい芸術至上主義に毒された石川は、言葉のちからを崇敬した。
「人間のつかわぬ言葉/ひょっとして/われのみ知れるごとく思う日」
「あめつちを動かす歌を/詠いたし/古代の祝詞のりとのごときまじない」
「天が鳴き地が轟ける/歌こそあれ/神の隠せし言霊を漏る」
「息を吸い息を吐けるが如くして/自然天然に/うたをよみたし」
 その結果、気負いすぎたのか難解な短歌を多く詠むようになる。一般的にはこの時期を、石川にとっての「青の時代」と呼ぶ。また一方で、本家フランスでの勃興に先駆けること四半世紀、「超現実主義の驚くべき先駆」と評価する研究家もいる。青の時代には全六十九首が詠まれたが、鑑賞に耐え得る歌は僅かである。
「防水の肥沃なパセリ頬張りて端境期はざかいきなり無痛分娩」
「真黒なる炎が燃やし真赤なる煙が燻す魔女の焚刑」
「継親の/かどあるまなこパサついて/庇う理論の二枚重ねよ」
「ミニチュアの黒いキャベジをぬる燗で馬に食ませし海女さんの腕」
「胸元を柄物布で覆いたる野蛮めく人のまやかしの笛」


(四)尋常中学校三年
 一九〇〇年(十四歳)、石川は前年に発症した中二病を徹底的にこじらせる。それにより、のちの日本歌壇に大きな足跡を残すこととなる精神性を獲得した。この年は近代短歌にとっての「奇跡の年」として記念されるだろう。
 一月、海沼家を出て姉サダ夫妻の住む盛岡市内帷子小路かたびらこうじ、田村叶方に引っ越した。近所に堀合節子の家があった。正月には楽しいカルタ会を催した。石川と節子はすでに両想いの恋仲となった。性交渉こそ無かったものの、ファーストキスを体験した。
「争わむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐こばこ
「シモネタの好きな/出っ歯の女の子/この頃なぜか愛しと思う」
「どうしても自由にならぬこの気持ち神の鎖に縛られており」
「好きなこと好きと気軽に言うごとく好きな人をば好きと言いたし」
「善きおなご我凝視して/目の乾き覚え/覚えし心の乾き」
「夜が更け寒さに震える君の肩ぐっと抱き寄せどてらにくるむ」
東雲しののめが月を薄皮で覆いたりそれを潮にしキスをせがみぬ」
「キスをせむと顔近付けし生娘の鼻の下にてうぶ毛光りぬ」
「思出のかのキスかとも/おどろきぬ/プラタスの葉の散りて触れしを」
 三月末、石川は二学年を修了した。成績は平均七十五点で、学年百四十人中四十六番。今後石川の順位は下がる一方となる。石川は三年丙級となったが担任はまたも山羊だった。
 五月六日に春季運動会が催された。伊東圭一郎を誘って挑戦した二人三脚にて、石川はゴール手前でわざと転倒する。場内はやんややんやの大喝采。伊東はあっけに取られたが、石川は満足げだったという。前年の白い夏服といい、目立ちたがり精神は不良生徒の証拠である。
 五月十八日『丁二会』改め『丁二雑誌』第一号が発行される。改名するなら『丁三会』となりそうなものだが、旅行会の名称は変わらなかった。石川は「翠江」の雅号を用い、運動会の印象を歌った三首を寄稿した。初めて感嘆符(「!」)と鍵括弧(『』)が使用された。短歌にこのような記号を導入することは、当時は非常に前衛的な企みだった。これも目立ちたがり精神の発露であろう。なお、石川の意図なのか編集の都合だったのか、掲載された歌はすべて三行分かち書きではない。
「ぶっちぎり!二人三脚!一等賞!その直前でわざと転びぬ」
「玉入れという名の競技に別のこと思う汚れてしまったかな我」
「騎馬戦で父の声援予に届く『肘でええから目に入れろ』って」
「弁当の品評会と銘打って試食にまわり順位づけせり」
 六月二十三日『丁二雑誌』第二号が発行された。石川の創造力はいよいよその革新性を増し、短歌の常識を覆した。まず、本歌取りによって短歌に「笑い」の要素を持ち込もうとした。次に、初めて句点(「。」)と疑問符(「?」)を使用した。そして何と言っても、史上初めて口語を導入した。話し言葉の導入は、千年に及ぶ短歌の歴史に於ける一大事件であった。一九〇〇年は近代短歌に於ける「奇跡の年」であるが、その収穫を代表する金字塔である。堀合節子に宛てたと思しき恋歌もある。
「魚扁の漢字を/たくさん書けるのを自慢する彼/寿司屋になるの?」
「『魚扁に弱いと書いてイワシだよ。/知ってたかい?』/別に興味ない」
烏焔うえんより早く起き出で/薬み/『いってきます』と植木に言いき」
「薔薇の香の匂える君よ/君/君は薄紫の百合の花なり」
「『しょっぱいね』/我が背を撫でき/独特の皮膚感覚を持つ女かな」
「少年の傷つきやすき心をば/ガリガリ削るあの娘の言葉」
「五月雨に増水する川浸かりおり犬の恥垢をこそぎ落とせり」
「松島や/ああ/松島や松島や松島や松島や松島」
「お風呂場にマンブリイノの兜あり/その内側に/キリギリス探す」
「へへへへへへへへへへへへへへへへへ/屁について詠む/加保茶元成かぼちゃのもとなり
 夏休み。七月十八日、丁二会は初めて旅行に出掛けた。参加者は引率の山羊・石川・阿部修一郎・小野弘吉・船越金五郎・川越千代司・佐藤二郎・宮崎道郎・伊東圭一郎の計九名。経済的に余裕のある生徒のみの参加だった。旅程は、十九日は水沢・中尊寺・一ノ関を巡り、二十日は北上山脈の峠越えを果たして気仙沼海岸に至り、二十一日は高田湾を眺め、二十二日は氷上山に登り、松原海岸に遊んだ。山育ちの彼らは広大な海を見て大いにはしゃぎ、飽きるまで貝を拾ったり群がる蟹を追いかけ回したりした。
「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたわむる」
「怒濤とはこの事なるぞ/歯を剥いて岩礁を噛む/白き波頭よ」
「蒼き空反映せしか/碧き海/暗き空には暗き海かも」
さざなみでささくれ立ちぬ海原を/夕陽が染めて/黄金の風」
 七月二十五日、石川は丁二会のメンバーと一旦別れ、釜石町の従兄・工藤大助を訪問。その夜メンバーと合流し、工藤方で一夜を過ごした。翌日釜石の客舎新沼方にて、先に帰る山羊のささやかな送別会を開いた。石川自身は工藤大助宅にしばらく滞在した。実に幸せな時間だった。師と友との気の置けない道連れ。しかし丁二会にとって、これが最初で最後の旅行となった。
「野こえ山こえ海こえて/あわれどこにか/行かむと思う」
「わがこころ/きょうもひそかに泣かむとす/友みな己が道をあゆめり」
「皆して/なまりあるのを嘲るに/都人士と知り皆黙りけり」
「友は皆/アカデミ出でて八方に散れり/誰先ず名をば挙ぐらむ」
「友はみな或日四方に散り行きぬ/その後八年/名挙げしもなし」
「盛岡の中学時代の記憶消ゆ/どこかに失せり/覚えておらず」
 青の時代の反動か、石川一は突如、文芸作品とは呼べない低俗で下劣な歌を連発する。これは、石川一の中二病を助長させたもう一人の張本、金田一の影響が大であったと言われている。数々の国語辞典を編纂することとなる金田一は、創刊されたばかりの『明星』を石川一に貸したりし、本格的な文学を仕込んだ。「芸術とは異化作用である」と諭し、石川一の短歌観に決定的な示唆を与えた。すなわち、旧弊な認識「短歌は古来からの伝統を守る高級な文学形式であり、雅語を用いた文語で綴られるべきで、卑語や俗語を用いた口語で語られるべきではない」から石川一は解放された。高級そうな表現の鋳型へと歌を押し込めていた石川一は、年長の友の薫陶を受け、のびのびとした作風を発露するに至るのである。同時に、『明星』の閨秀天才歌人・与謝野晶子にいたく憧れを抱く。一八九八年から一九〇一年の作歌には、発展途上の試行錯誤が如実に見て取れて非常に興味深い。
 『一握の砂』に収められた名作のいくつかは、この時代を歌ったものである。(歌の中の「十五」は数え年。「城址」は不来方こずかた城の跡地。中学から徒歩十分)
「教室の窓よりげて/ただ一人/かの城址に寝に行きしかな」
「城址の/石に腰掛け/禁制の木の実をひとり味いしこと」
「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心」
「晴れし空仰げばいつも/口笛を吹きたくなりて/吹きてあそびき」
「夜寝ても口笛吹きぬ/口笛は/十五の我の歌にしありけり」
「盛岡の中学校の/露台バルコンの/欄干てすり最一度もいちど我をらしめ」
「師も友も知らで責めにき/謎に似る/わが学業のおこたりの因」
「汝が痩せしからだはすべて/謀叛気のかたまりなりと/いわれてしこと」
 石川と文学趣味を等しうした先輩として、他に野村長一おさかずと及川古志郎がいる。のちに前者は作家となり、後者は海軍大将となる。医者の息子及川は盛岡中の番長格であり、この頃すでに軍人を目指していた。軍人に憧れを抱いていた石川も当初は将来の夢を共有する目的で及川に接近した。
 一九〇一年(十五歳)、順風満帆だった石川の人生はこの辺りから傾いていく。文学と恋に身をやつし、革命を好む校風に当てられたためである。
 正月休みが明けた盛岡中は、大荒れに荒れていた。教員の質が急激に低下していた。無断欠勤が相次ぎ、無断退職が横行し、教員間で派閥争いその他の内輪揉めが持ち上がった。東京など他県から来た優秀な教師(生徒たちに人望のあった瀬戸虎記や斯波貞吉など)を、地元出身の教師たちがいじめて追い出したりした。生徒たちの不満は爆発寸前であった。
「夏休み果ててそのまま/かえり来ぬ/若き英語の教師もありき」
「教室の床に/テープで人の跡白くかたどり/怒られし秋」
「首筋にくっきりつきし/キスマーク/『蚊に刺されき』とほざく教師ぞ」
「酒のめば/刀をぬきて妻を逐う教師もありき/村を逐われき」
 上級生たちの間で校内刷新の気運が高まり、学級崩壊が計画された。生徒によるストライキである。二月二十五日、それは実行された。特に無能な教員二名を狙い、生徒たちが申し合わせて授業を欠席したのである。ボイコットのターゲットとなったのは、三年乙級の臨時教師・夏井庄六助(歴史漢文)と、三年丙級の高木一慰(歴史地理)。
 翌日、全学年全クラスで担任教師が訓戒と説諭を行なった。山羊も石川たちにお説教をした。放課後、級長の阿部修一郎は市内の招魂社にクラス全員を集めた。阿部は盛岡中入学試験で百二十八人中三番だった男。一度立ち上がった三年丁級の反骨精神はもはや抑え込める状態ではなくなった。映画『椿三十郎』冒頭部分のように、生徒たちは社務所で雁首を揃えて密談した。熱く激しく交わされた議論は、同じ方向に向かって流れる激流のように生徒たちの意見を一点に集めた。石川もかなり熱心に演説を打った。「三年乙級・三年丙級の如く行動あるべし」と、ストライキへの合流を決議。反対者四名を除き、校長への具申書に署名捺印をした。
 二月二十八日、石川・阿部・佐藤二郎の起草した具申書が多田綱宏校長に提出された。三年生の挙げた気炎に動かされ、四年生もこの日、杜陵館や八幡宮社務所に集合した。「あいつは駄目だ」「あいつもいかん」と排斥すべき教員について協議をし、三年生同様校長を訪ねて校内刷新を要求した。
 騒動は学内外に衝撃を与えた。地元民の間でも、一方で「堕落教師を辞めさせるべし」と生徒側に賛同する者もいれば、他方で「生徒は大人しく勉学にだけ出精すべし」と否認する者もいるなど、意見が紛糾した。なお、どちら側に味方すべきか判断しかねた一・二・五年生は事態を静観した。
 三月一日、市内の杜陵館で三四年生合同のストライキ大会が開かれた。教師を代表して岡嶋献太郎(英語)も出席した。岡嶋は、岩手県知事・北条元利の意向を生徒たちに伝達し、馬鹿なことはやめるよう説得に奮闘した。後年岡嶋は「生徒は二百人以上いたのに、教師は自分一人しかいなかったので大変心細かった」と当時のことを振り返っている。
 三月四日から四日間、通常通り年度末試験が行なわれた。革命の嵐吹き荒れる中であったが三四年生も一応試験は受けた。石川の成績は平均七十点で学年百三十五人中八十六番、凋落の一途。
 ストライキ事件は北条知事の裁決によって生徒側の要求が通り、教員二十八名のうち二十四名が処分された。校長も含め、気に食わない教員が軒並み休職・転任・依願退職扱いとなり、盛岡中から姿を消した。山羊は八戸へ転任。生徒側は三年の首謀者・及川八楼だけが四年進学と同時に諭旨退学処分となった。杜陵館で岡嶋に詰め寄る際、目上の人間に使うべきではない暴言を吐き散らかしたためである。卒業式は通常通り行なわれ、金田一が卒業した。
 石川一は自分たちの運動に満足をした。自分たちの革命を心底誇らしく思った。教員たちに勝利をした。大人を負かした。学校を浄化した。世の中を変えた。少年の自尊心を満たすには充分すぎるほどの功績だった。
 スクールウォーズは生徒側の勝利に終わったが、石川の心には大人への不信感が雨雲のように渦巻いた。かつては真面目な優等生だった石川は完璧なる不良生徒となった。元来備わっていたろくでなしの気風をますます増長させた。学業が馬鹿馬鹿しくなり、勉強をしなくなった。余剰となったエネルギーは恋愛と文学に注入した。
 石川は後年『岩手日報』の「百回通信」にて「四月職員の大更迭あり。先生もまた八戸にゆかる。嵐去りて小生の心さびし。たまたまはじめて文学書を手にし、爾来それにふけりて教場に出づることますます稀なるに至る而して遂に今日に至る。」と記している。
「夢破れ/敗れし人生歩むなら/おとなにならず子どもでありたし」
「思い出も/そして未来も見えやせず/斯くなる大人になりたくはなし」
「十年後/汝と同じ身長になりぬれば/殴り返していいか」
「ストライキ思い出でても/今は早や吾が血躍らず/ひそかに淋し」
 そして、石川の弟がこの年の正月に亡くなったのではないか・・・・・という説がある。以下は金堂富幾『金田一京助とその時代』(東京教育大学文学部研究紀要七八。一九七七年)からの引用である。(※傍点筆者)
「啄木には妹のミツだけでなく、弟が一人・・・・、いた。その弟は、一八九四(明治二七)年九月に生まれ、一九〇一(明治三四)年に亡くなった・・・・・・・・・・・・・・・・・。(中略)その死は初め、事故として処理され、のちには『そんな人間は、この世に存在しなかった』と、歴史の表舞台から、完全に葬られた。戸籍も残っていない。(中略)一九〇一年三月末に、啄木は級友の古木巖と、回覧雑誌『三日月』を創刊した。そこには、石川翠江(啄木の別の筆名)の署名で、短歌が二十首掲載されているが、そのうちの四首は、吾人に違和感を覚えさせる。
『とにかくに零れやすき盃を床に落としぬ初春の風』
『やる瀬なき負の感情をぶら下げてこの表情をどこに捨てやらむ』
『君を泣く君死にたまうことなかれ茜差す昼初春の昼』
『世間には陽気な男で知られたる我の内臓汚泥の巣なり』
 三首めはもちろん、与謝野晶子からの、本歌取りである。晶子の反戦詩(一九〇四)は、弟に対する、憐情である。とすれば、啄木の歌も、弟のことを詠んでいるのだと、容易に想像できるし、そう考えるのは、不自然なことではあるまい。これらの歌に、啄木が弟の死に関与している、その符丁を読み取るのは、私の勘繰り過ぎであろうか。(中略)これは私の憶測に過ぎないかも知れない。しかし、充分に有り得た話であろう。」
 弟のことを詠んだと思われる歌をいくつか集めてみた。
「わが母の腹に入る時われ嘗て争いし子をこの日見出でぬ」
「藤沢という代議士を/弟のごとく思いて、/泣いてやりしかな。」
「我が母が弟の髪切りぬるを/我も助太刀/まじでしくじる」
「あわれかの眉の秀でし少年よ/弟と呼べば/はつかに笑みしが」
「おちつかぬ我が弟の/このごろの/眼のうるみなどかなしかりけり」
「母われをうたず罪なき弟をうちて懲せし日もありしかな」
「何か一つ/大いなる悪事しておいて、/知らぬ顔していたき気持かな。」
「我れ父の怒りをうけて声高く父を罵り泣ける日思う」
「もうお前の心底をよく見届けたと、/夢に母来て/泣いてゆきしかな。」


(五)尋常中学校四年
 激動の校内騒動を経て、一九〇一年四月、石川は四年生となった。元学習院教授の山村弥久馬が新しい校長として就任した。山村は福島県会津尋常中学校長を前任しており、強硬な生徒指導で知られた。新任教員も厳格な強者揃いで、放逐された不良教師たちとは一味も二味も違った。校内の、良く言えば豪放磊落な気風、悪く言えばだらしない雰囲気は一掃された。規律に縛られた糞真面目な学校生活を送ることになった石川たちは、早くも己が達成した革命を悔いた。
 山羊がいなくなったので丁二会は解散した。代わりに、石川の発起で「ユニオン会」が結成された。英語の教科書を自習する小規模な仲良しグループである。入会条件は「名字がア行なりしこと」。仲間に加わろうとした宮永佐吉を拒むための入会条件だったと思われる。メンバーは阿部修一郎(級長)・石川一・伊東圭一郎・小沢恒一・小野弘吉(副級長)。石川上京の際にはこの五人で集合写真を撮影もしている。
 毎週土曜日の晩に当番制で各メンバーの家に集まった。当初はただ雑談をするだけの会合だったが、勉強もしないで夜遅くまでたむろするのを小野の家人が煙たがったので、一応『ユニオン・リーダー』第四巻を読み合わせしようということになった。これが会名の由来ともなったが、建前に過ぎない。英語の学習は一時間ほどで終わるのが常で、その後は楽しいおしゃべりの時間となった。最近読んだ新聞や小説や漫画の感想を述べ合ったり恋愛談義に花を咲かせた。恋愛方面は石川と小沢の得意分野だった。この二人は趣味も共通で、このころ手塚治虫の漫画に熱中していた。他に時事問題なども採り上げたから話題はなかなか尽きず、解散はいつも午前一時頃であった。大好きな友人たちと過ごしたこの幸せな時間は、石川にとって青春のピークだったと言える。夜中に人家を叩き起こすイタズラ(いわゆるピンポンダッシュ)もよく行なった。
「知らぬ家たたき起して/げ来るがおもしろかりし/昔の恋しさ」
「夜半の雨/杉生の墓に燐焚いて/人をおどせし頃を思いぬ」
「『火の鳥』の改稿を止めぬ/治虫の/往生際の良き悪さかな」
「『食うために書く』『書くために食う』/手塚治虫は後者/真の変人」
「横文字をこの頃習う/それ故か/横路にのみ心は走る」
「『ユリシイズ』で我が唯一覚えし文/『If you see Kay,/See you in tea』」
「『virgin road。翻訳したら、国道一号』/なぜと問うたら/『茅ヶ崎に出る』」
 五月五日、石川は商売女を相手に初体験を済ませた。以下の二首がその手がかりとされる。(「蚊だ自衛……」に関しては、「技巧をこらした歌としては啄木の最高傑作である」と評する研究者もいる。後段「石川の技巧」にて詳述)
「十六年守り通せし童貞を/いざ約束の日/娼婦に捧ぐ」
「蚊だ自衛/端午の節句寿司食べた/下手なタマゴに生死賭けるな」
 また、時期は明確ではないものの、この年に堀合節子との仲も急速に発展した。つまり、何度か媾合した。
「膵臓がしくしく痛む宵の刻/『これも恋かな』/みな恋のせい」
「金/女/それより他に望む物なき感心な我の無欲よ」
「魂のその奥底に眠りたる/熱き情熱/呼び覚ませるや」
「初めての夜伽の床で発覚す/おぼこ嬢様/乳毛が長し」
「やや長きキスを交して別れ来し/夜の街の/遠き火事かな」
 六月二十五日、回覧誌『三日月』第三号が発行された。石川の歌は全十六首。そのうちの大半を心霊現象への不審が占める。きっと武田という名の級友と議論を戦わせたのであろう。
「神有りと言い張る友を/説きふせし/かの路傍の栗の樹の下」
「幽霊が見える汝が/うらやまし/横溢したる想像力が」
「宗教の起源は何か/答えけむ/死にゆく者への気休めの嘘」
「『魂が抜けて自分を見下ろしぬ』/武田の体験/ただの気のせい」
「二十世紀になれども/未だ円山の足なし幽霊信じる/武田」
「天国や地獄がもしもあるとして/汝れは無関係/行く資格なし」
 七月八日、学期試験が始まったが、石川はすでに学業に倦み切っていた。国語と英語だけがやや良い点数で、他は散々だった。
 七月一四日、友人の小林茂雄が石川の妹・ミツに愛を告白した。「眼鏡が格好悪い」という理由で断られた。石川は爆笑した。
「近眼にて/おどけし歌をよみ出でし/茂雄の恋もかなしかりしか」
「『美しき人のうんこを食べたし』と/願う茂雄に/犬の糞与う」
 参考までに、「茂雄」の「よみ出でし」「おどけし歌」を四首掲げる。「仲の良き友の催す誕生会なぜか我のみ連絡が来ず」「昼休み男女混合鬼ごっこ女子の誰もが我を追わざり」「キッスせば赤子できむと知りたるやならば余とせし母はどうなる」「初めてのキッスの味はやきそばのソースの香り母の昼飯」「食欲と読書スポーツ芸術と食欲の秋食欲の秋」(小林は真面目な歌もたくさん詠んでいる。念のため。)
 夏休み、石川は友人たち数名と秋田県鹿角地方に出掛けた。小林茂雄・瀬川深・小野弘吉・高橋某と十和田湖などを訪れた。移動の汽車では「西洋かるた」(トランプのこと)を用いた大貧民というゲームに熱中した。この旅行で石川たちは女を買っている。
「札めくり大貧民は/人生の凝縮されし/遊戯なりけり」
「居合わせし誰の時計も合わざるに/その時なぜか/すがすがしくて」
「相貌を土地ごとに変える月の蟹/兎の餅つき/女の横顔」
「虫の鳴く/夏の終わりの束の間の節の季節の/夜が大好き」
「時計の音/チクタクとひびく真夜中の廊に/往来す重き足音」
「カナブンに/燐寸まっち棒を接着し/虫相撲に参加せし小野」
「野糞して/荒き紙片を重ね置く/鏡餅上みかんの如くに」
「生活のために/春をばひさぐかな/この子もかつて恋しただろに」
「化粧せし舞妓が/我のいもに似て/近親の咎の甘美を味わう」
 新学期の頭、九月七日、杜陵館で短歌同人のオフ会が開催された。会費は七銭。出席者は石川一はじめ金田一・田子一民ら二十余名。オフ会の間は本名ではなくハンドルネームで呼び合った。石川翠江・金田一花明・田子紫琴・古木叙瑞・瀬川委水楼・小林花郷・吉田嶽暮・小笠原鹿園・岡山残紅という風に。──雅号がついていると物寂びた大変な風流人のような印象を受けるが、本名はそれぞれ石川一・金田一京助・田子一民・古木巌・瀬川深・小林茂雄・吉田初五郎・小笠原洋作・岡山儀七であり、ただの未成年である。
 オフ会の前半は送別会で、第二高等学校(現・東北大学)への入学が決まった金田一や、上京する田子を同人たちが激励した。田子という名前は文学史では聞き慣れないが、東京帝国大学卒業後は内務官僚・三重県知事・衆議院議員・同議長・農林大臣など華々しい肩書きを歴任した。なお、金田一に関しては、三度ほど「数々の国語辞典を編纂」と書いたが、本当のところは弟子たちに景気良く名前を貸しただけであって、金田一自身はたったの一冊も辞書を著していないことがさっき明らかになった。お詫びして訂正する。
 オフ会の後半は団結式で、石川一・古木の回覧誌『三日月』と瀬川らの詩誌『五月雨』が合併し、新たに回覧誌『爾伎多麻にぎたま』を発行することが高らかに宣言された。祝詞めいた誌名は『古事記』からの引用で、秋山角弥という教師が命名してくれたものだった。
 九月二十一日、『爾伎多麻』第一号が創刊された。墨で書かれた半紙の和綴り二百九十頁に及ぶ大部の雑誌で、論文・美文・小説・詩・短歌が並ぶ多彩な内容。悪く言えば各々が寄ってたかって自己主張を押し通した散漫な文集。文芸サークルによる「雑誌ごっこ」に過ぎなかった。その証拠に『爾伎多麻』は二号で廃刊した。
 石川は三十首の短歌を初め、美文・短文・記事を寄稿した。「秋草」と題された短歌群は一行書きの浪漫主義。妙に取り澄ましていてこの時期の石川らしさがない。なぜに純文学系の同人は殊更に気取りたがるのだろう。自分が侘び寂びに精通した風流人だとでも自惚れているのか。
「花ひとつさけて流れてまたあいて白くなりたる夕ぐれの夢」
「日はおちぬ雲はちぎれぬ月はいまだ夕の空のさながら吾は」
「野の月に冴えしや銀の笛の音の清しさびしのそぞろの調べ」
 十月六日、盛岡市外の津志田にある料理屋「かすと門」にて『爾伎多麻』の誌友会が催された。名物の常夜鍋をつつきながら親交を温める企画であったが、残念なことに、創刊号に関する同人間の齟齬が露呈した。各人が各人ともに「自分の作品こそが一番」と信じ、他人の作品をろくに読まなかったのである。特に散文派と詩文派の断絶はひどかった。たとえば石川は美濃部くんの小説に目すら通しておらず、「俺のせっかくの傑作を、貴様はなぜ読まないのだ」と詰られる結果となった。どうせ美濃部くんも石川の美文『あきの愁い』を精読していなかったのだろうが。
 それでも、『爾伎多麻』第二号は十月二十日に発刊された。やはり半紙の和綴りに墨書きで、二百二十頁。九月の団結式の情熱と興奮はすっかり鳴りを潜め、個々人の旺盛な創作意欲と自己顕示欲こそがこの寄せ集めを形成した。作者多数で読者少数の『爾伎多麻』は、第三号を待たずに自然消滅した。
「広き世界/一人ぼっちでいる如き気持ちにさせり/この紙束は」
「『あの人は悪き人ではあらざれど』/あなたは言えど/いい人でもなし」
「敵として憎みし友と/やや長く手をば握りき/わかれというに」
「あらそいて/いたく憎みて別れたる/友をなつかしく思う日も来ぬ」
「相似ても遂に合わざる水と油それに釘する愚かさもすや」
「あの時に/君もしおれにもの言わば/あるいは君を殺したるべし」
「疲れ果て『さよならだけが人生だ』暗誦したり齢十五で」
「この頃は/絶交状をふところに入れておく故/わが心安し」
 『爾伎多麻』は文芸作品としては価値の高い物ではなかったが、もし後世に何か果たしているとすれば、それは石川の趣味嗜好が窺える点に於いてである。第一号の同人紹介欄にて、彼は何が好みか答えている。
「花、百合の花。色、うす紫。香、バラの香・カステラの香。食、ソバ・カボチャ(但し少々にては此限りにあらず)。音、笛の音。衣、小倉服。本、乱髪、万葉、テニソンの詩(但しこれは未だ読まず)。家、ノミのいない静かな日本家。人、未来の石川一君。職、非常に急ワシキカ又は非常に楽ナ者。」
 読んでもいないテニソンを好きという迂闊ぶり。そして、未来の石川一君を好きだというのは実に興味深い。なぜか目頭が熱くなる。
 十月、石川は盛岡市四ツ家町二十七番戸の長屋に移り、十一月、さらに仁王小路三十番戸に移った。寄宿していた姉サダ夫妻の転居にともなって。
「人みなが家を持つというかなしみよ/墓に入るごとく/かえりて眠る」
「車窓より見ゆる幾多の/長屋長屋/全部に人が住みてありとは」
「顕微鏡で覗きし草に/微生物群れるが如く/野に人の満つ」
 『爾伎多麻』の空中分解に大きな失意を味わった石川だったが、懲りずに短歌グループ「白羊会」を結成した。メンバーは石川・野村長一・細越省一・細越毅夫・岡山儀七・瀬川深・小林茂雄・金子定一・原野考援・金矢七郎・猪川浩ら、『爾伎多麻』同人から散文派を排斥した面々。
 石川が白羊会を結成したのは、大井一郎という理科教師から受けた影響が大きい。「蒼梧」の雅号を持つ大井は、趣味で『明星』に関わっている趣味人であった。石川は教師連中を親の仇のように憎んでいたが、唯一大井だけは敬愛していた。不良生徒がはみだし教師と心を通わせるのと同じ図式である。以下、一九〇一年十一月五日の石川の日記より。
「今日は思いがけなくも大井先生が『明星』を持ってやって来た。『明星』と言えば与謝野ひろしさんの東京新詩社。前年のエイプリルフールに創刊された雑誌だ。どんな因縁だろうと思って見守っていると、『自分はサアクルの一員だ。』と先生は言って、威張ってもいた。私は面白い冗談だと思った。しかし、雑誌をめくると果して先生の名がある。私たちはみな驚いた。大井先生への尊敬の念を一気に深めた。どういう経緯で一員となったのか、晶子さんはどんな人か、など、いろいろと聞いた。詩歌団体に対しての多大なるアスピレエションを与えられた。仲間内だけで回し読みする半紙の綴りなどではなく、衆目を集める媒体にぜひとも私たちの文芸を発表しなければならない」
 石川は地元の新聞に短歌を載せてもらう計画を立てる。『明星』の威光を笠に着た大井蒼梧の口利きもあり、白羊会のオムニバス作品「白羊会詠草」は、『岩手日報』に計七回にわたって掲載された(十二月三・四・十二・十九・二十・二十八日と翌一月一日)。石川は「翠江」の号で合計二十五首を発表。原稿料はもらえなかったが、自分の作品が初めて活字となり、石川は非常に感激した。
「迷いくる春の香淡きくれの欄に手の紅は説きますな人」
 記念すべき活字第一号が「くれの欄」と「紅」のダジャレで一瞬力が抜けそうになるが、初めて活字となる作品だからこそやはりかなりの意欲作である。偶数音を拾うと「よくはのあきれらにのれいとまなと」であり、漢字に直せば「よく歯の呆れ。裸に乗れ。いとまなと」となる。これは「シモネタの好きな出っ歯の女の子」こと堀合節子との逢瀬を織り込んだ戯れ歌として知られている。
 この「白羊会詠草」を皮切りに、石川はその後も『岩手日報』に短歌や評論を寄稿することになる。この経験が軍人になる夢や学問を捨てさせ、その身をジャーナリズムへ方向付ける端緒となった。同時に、ユニオン会での時事放談も相俟って、社会問題への興味関心を高めていく。一月二十三日、青森歩兵第五連隊第二大隊が無謀な雪中行軍予行演習で二百十名中百九十九名の死者を出した(いわゆる八甲田山死の彷徨)。当時新聞配達のアルバイトをしていた小野弘吉が率先し、この遭難事件を報じた『岩手日報』号外をユニオン会は一枚一銭で売り歩き、集まった二十円を足尾鉱毒事件の被害者に送った。──義捐金を遭難事件の遺族ではなく無関係の事件被害者に送ったのは少し謎だが、足尾鉱毒事件に対して「何かしてあげたい」と思っていたところへ折良く八甲田山遭難事件が発生したのであり、号外を売るのは資金調達の手段でしかなかった。義憤に駆られた思春期の若者が取った行動なので許してあげてほしい。


(六)退学、上京
 一九〇二年(十六歳)、石川は人生の大きな転機を迎える。まず、三月十四日から二十二日まで学年試験が実施されたが、さっぱり勉強していなかった石川はカンニングをした。国語と英語だけは自力で解いたが、その他の教科は、隣席の小沢恒一に頼み込み、解答用紙を写させてもらった。その手口は実に巧妙だったようで、試験時には発覚しなかった。成績は平均六十六点で学年百十九人中八十二番。小沢もあまり成績の良い方ではない。
 石川が五年級に進学する一方で、石川の想い人・堀合節子は私立盛岡女学校をしっかり卒業した。
 新学期、カンニングが発覚した。石川と小沢の解答が、間違えた部分も含め、ほぼ一緒だったからである。カンニングに協力した小沢は不問、石川は譴責処分を受けた。在学保証人の米内謙次郎(葛原対月の娘婿)が学校に呼び出され、石川と一緒に厳重注意をされた。呼び出しがよっぽど癪に障ったのか、米内は「おまえの面倒はもう見きれない。一緒に住んでる人に面倒を見てもらえ」と保証人を放棄、田村叶(石川の姉の夫)に石川の責任を押し付けた。
「憐れみかまたは露悪か、/ギョエテの言う。/『陽が輝けば塵も輝く。』」
「いつの日か雲は去るらむ光差す/いつかはいつか/今日も雨なり」
「コイントス/表が出たらあきらめる/裏が出たならあきらめるなり」
「馬鹿馬鹿馬鹿!/泣きじゃくる娘が黙る予の胸を叩きぬ。/胸に響きぬ。」
「日の終わり/打ちひしがれて眠るとき/宙に残れりチェシャ猫の笑み」
 五月、石川は学校を平気で遅刻するようになり、サボることもしょっちゅうになった。まっとうに登校したとしても授業中は教科書に漫画を挟んで読み耽った。給食だけが楽しみだった。彼は青春を浪費した。余命は十年を切った。
「腹減った/めしだめしだぜめしだめし/しめしめめしだめしだめしめし」
「牛乳の早飲み競争/閉会を迎えて/混みし便所の個室」
「ひもじさにふと腹が鳴り/ひもじさに下腹部が立つ/ひもじきお八つ」
「ランドセル底にしまいし非常食/給食のパン/カビがびっしり」
「校庭に犬迷い込み/窓人垣/スタア扱いまるでモンロー」
「表面のカビを落として犬にやる/帰宅後襲う/罪悪感が」
「ワンワワンワオンワンワン/グルルガル/バウバウアーフキャンキャンキャイン」
 この春、石川は年甲斐もなく児童公園でよく遊んだ。ベーブ・ルースの来日に伴ってブームとなった野球に興じ、友達から「名投手」と謳われた。もっとも、この頃のピッチャーは下手投げのみが許され変化球は禁止、なるべくバッターが打ち返しやすい球を投げるのが良いとされた。また、夜の公園では堀合節子と逢瀬を重ねた。
「ひさしぶりに公園に来て/友に会い/堅く手握り口疾くちどに語る」
「公園の隅のベンチに/二度ばかり見かけし男/このごろ見えず」
「花供え悲しき顔で/手を合わす/友の没せし公衆便所」
「わが少女ぶらんこに乗りひもすがら動きてあれや捉えがたかり」
「看板のペンキが剥げて/『てつぼう』が『てつはう』と化し/蒙古襲来」
「宗之が金属バットを/すぶりして/『台風来たら打ち返してやる!』」
「庭の土/甲子園のと偽りて瓶に詰め込み/叔父に奉納」
「公園で禁じられたる/キャッチボオル/ないしょでやらむ我と言葉で」
「公園のとある木陰の捨椅子に/思いあまりて/身をば寄せたる」
 五月末、級友の菊池宗之と急速に親交を深める。
「宗之のお父さんが帰宅して/妻の罵声が/響き渡りぬ」
「学校へ行かむと/家を出た所/菊池の父が正座してあり」
「菊池んち/独特のにおい立ち籠めき/菊池の兄の部屋の屑籠」
「ぶらぶらと息子を猫に見せつけき/菊池の兄貴/引き掛かれ南無」
 六月、石川の無頼ぶりはますます高じた。ほとんど登校せず盛り場に向かった。タバコの味を覚えた。遊ぶ金欲しさに、あれこれ口実を設け、保護者である姉夫婦に銭をもらった。「参考書を買う」「給食費を払う」「学生扶助会の会費」「ユニオン会の会費」「白羊会の会費」「足尾鉱毒事件への寄付」「不治の病に冒された友達の手術代が必要」「病院に手術台が必要」「不治の病に冒された友達が浄水器を買う」石川の口のうまさに姉夫婦は見事に騙された。石川が嘘をついているのには全く気付かなかった。石川没後、研究家から取材を受けた際に初めて知って驚いたという。──人から金をせびる技術と才能は成人してからも大いに役立つこととなる。
「緩やかにたばこの煙/天井にうづをまけるを/眺めてありき」
「『秋休み、昔はなかるべし』/父の言う。/いと哀れなり、戦争世代は!」
「しめらえる煙草を吸えば/おおよその/わが思うことも軽くしめれり」
「少年の感じやすさに/突き刺さる/ラブホの窓の笑顔一閃」
「活動に行きし帰りの/橋の上/早鐘を打つ胸も止まらじ」
 石川は一人で活動写真(無声映画)を見に行ったり、友達とゲームセンターに入り浸ったりした。六月二十二日、菊池と一緒にゲームセンターで遊んでいた際には地元の高校生からカツアゲをされている。素直に金品を差し出したが、高校生が去ると、菊池の手前、空威張りをした。六月二十五日には他の中学グループと衝突をし、殴り合いの一歩手前まで行く。
「ヤンキーにカツアゲされて殴られて/もっとと頼む/Mの宗之」
「ガン飛ばす取るに足らざる糞虫が我にほざきぬ『おまえどこ中?』」
「殴らむというに/殴れとつめよせし/昔の我のいとおしきかな」
「『いいよいいよ/今回だけは許したる』/返事待たずに立ち去るか君」
 七月に期末試験が行なわれたが、石川は懲りずに不正行為を働く。中国の科挙にヒントを得て、あらかじめ数学の公式を下着に書き込んだ。級友の狐崎嘉助きつねざきかすけとの共謀によるこの作戦はすぐに発見され、石川は担任の田島道蔵からこっぴどく叱られた。保証人の田村叶が学校に呼び出された。職員会議で二度目の譴責処分が決まり、処分発表は夏休み明け二学期の初めと定められた。知らせを受けた姉の田村サダは石川の膝にしがみついて泣き崩れた。
「何となく自分をえらい人のように/思いていたりき。/子供なりしかな。」
「神童の/誉れの高き男の子/いつしかただの人やなりぬれ」
「天才にあらずや!/我の人生は/掛け替えのなきものにあらざり!」
「特別と思いし我の人生が/変哲なきと知りし/十七」
 夏休み期間中は渋民村に帰省した。田村叶から既に連絡を受けていた両親は、石川の堕落を大変悲しんだ。声で殺すつもりかと疑われるほど激しく叱りつけた。居心地の悪さから石川は家にあまり落ち着かず、昼間は公園で漫画を読んだり昼寝を貪って過ごし、夜はしばしば友達と外食をした。文学仲間十名と集合写真を撮ったりもした。撮影料金は大井先生に払わせた。
 八月二十二日、渋民村に変質者が出没した。石川は久しぶりに笑った。
「ざわ…ざわ…と/騒がしかりし群盲の視線を集める/鋭角な顎」
「いかめしきカイゼル髭の軍人の/自宅で一人/女装せしかな」
「我が村に女装が趣味の男居て/下着ドロあると/まず疑われ」
  夏休み明けの九月二日、譴責処分が全校に掲示され、石川と狐崎は晒し者となった。狐崎は特待生停止。級友たちは石川の蛮勇を誉め讃えたが、当人の思いは千々に乱れた。姉夫婦からも父母からも激しく叱責された。非行少年の彼も、延々と続く拷問のようなお小言にさすがに参ってしまい、自分の学校生活を初めて反省した。石川は居たたまれなくなり、「家事上の都合」というあからさまに嘘の理由で以て逃げ去るように退学願を提出した。もし自主的に退学をしなくても出席不足・成績不良で卒業は出来なかった。一学期の授業三百十一時間のうち実に二百七時間を欠席し、成績不成立が四科目(修身・作文・代数・図画)、百点満点中四十点に達しなかった不合格が四科目(英語訳解・英文法・歴史・動物)だった。では何が合格だったのか。国語・漢文・英語作文会話・地文・幾何・植物・体操の七教科である。
「支配からの卒業をかつて歌いける、/尾崎が/妙に沁みる今日の日!」
「世わたりの拙きことを/ひそかにも/誇りとしたる我にやはあらぬ」
 学校生活の終焉を迎えた石川は、その記念にか、盛岡市内の下の橋写真館で肖像写真を撮影する。ふてぶてしく腕組みをしている姿でなかなか男前である。
 ──少し脱線して、石川一の写った写真について述べておこう。一番よく知られている写真は『明星』第百号に載せるために金田一と一緒に撮影された七三分けで、石川一は生涯にあの一枚しか写真を撮っていないように思われがちだが、実は三十枚以上のフレームに収まっている。そのうちの十五枚は今でも現存している。中でも高野桃村とのツーショットは二人とも役者のようにハンサムで一見の価値がある。(余談だが、石川と高野桃村は軽い同性愛関係にあったのではないかという説がある。)
「男とうまれて男と交り/負けており/かるがゆえにや秋が身に沁む」
「偉大なる井原西鶴/その著書で/鶏姦の際は油を使え」
「病院にそれぞれ並ぶホモ軍人/タチ泌尿器科/ネコ肛門科」
 新学期が始まっても、石川は学校へは行かなかった。盛岡市内の姉夫婦の家には戻らず、渋民村の実家で鬱々と日々を過ごした。終わらない夏休みだった。ゲームセンターで時間を潰したり、読書をしたり、金田一に借りて以来愛読していた『明星』に短歌を投稿したりして過ごした。二親からはねちねちと小言を聞かされた。その度に石川は不機嫌になったが強く反発は出来なかった。将来への展望は何もなかった。後年の随筆にこう記している。
「ちゃんと勉強していれば良かったとつくづく思った。いや、ちゃんととまでは言わずとも、居眠りしていてもよいから、授業に出ているべきであった。けだし我が人生に於ける最初の失策しくじりである……」
「腕みて/このごろ思う/大いなる敵目の前に躍り出でよと」
「パイソンのアニメのごとく落葉を身投げと思う秋の黄昏」
「真剣になりて竹もて犬を撃つ/小児の顔を/よしと思えり」
「愛犬の耳斬りてみぬ/あわれこれも/物に倦みたる心にかあらむ」
 学校生活は終わる。しかし石川の青春が終わりを告げたわけではない。彼には夢があった。文学で身を立てるという、夢が。
 十月一日、石川の精神に転機が訪れる。憧れの『明星』に、ついに短歌が採用されたのだ。署名は「石川白蘋」で題は「詩燈」。
「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらいここに野にさけぶ秋」
 たった一首ではあったが、夢を大きく前進させる起爆剤となった。これによって石川は、文学好きの中学生から、本物の歌人へと華麗なる転身を遂げたのである。少なくとも本人はそう思っていた。
 十月二十七日、職員会議で石川の退学願が承認され、盛岡中学校から正式に除籍されると、彼は上京を決意した。穀潰しとして家でゴロゴロするのに嫌気が差した。両親と相談をした。両親は手の平を返したように優しくなった。長男の突然にして剣呑な決断を心配し、このまま家に居てもいいんだよ、そう引き留めた。しかし石川の決意は揺らがなかった。
 石川は自分の可能性を信じていた。自分には才能があり、このまま田舎で燻る男ではない、と。東京で一旗揚げ、故郷に錦を飾るのだ、と。田舎の音楽好きが都会に出てプロのミュージシャンを目指すのと同様である。石川は歌人として大成する理想の自分を思い描いた。夢に向かって邁進する彼は即行動を起こす。若さに突き動かされた衝動は留まることを知らず、すぐに東京へ発つ準備を整えた。スーツケースに着替え数着と洗面用具、筆記用具や辞書類、お気に入りの書籍や漫画などを詰めた。当座の資金を親に要求した。内訳は交通費五円・滞在費二十円・遊行費十五円・雑費三十円。「七十円程度では飯も食えやしない」と思うかも知れないが、明治と現代とでは物価が異なるので心配しないでほしい。
 十月三十日、朝九時。寂しそうに玄関先で立ち尽くす両親と妹に別れを告げ、好摩こうま駅から盛岡駅へ。直ちに東京を目指すのではなく、その前に仲間たちと惜別の情を分かち合おうと思ったのだ。姉夫婦の家にスーツケースを置かせてもらい、岡山儀七の家を訪ねた。岡山は石川の一念発起に大層驚いた。二人は下の橋写真館で記念写真を撮った。新学期の学校の様子などを話した。「石川の不在が淋しい」という岡山の言葉に石川は内心で満足した。
 夜にはユニオン会のメンバーをそれぞれ訪ない、伊東圭一郎の家でお別れ会を開いた。その辺りは『秋韷笛語しゅうらくてきご(白蘋日録)』と題された日記に詳しい。
「我が発程の急なるに皆驚く。夜。阿部小野小沢三兄と共に加賀野に伊東兄を訪い別宴を張る。青春の望みに憧るる者は幸いなる哉。万ずの勇と力皆これより生ず。」
 何を言っているかよく判らないかも知れないが、とにかく阿部修一郎・小野弘吉・小沢恒一と共に伊東家に大挙し、ユニオン会の最後の会合、別れの宴席を設えたのである。「夢を目指すのは素晴らしい。あらゆる勇気と力が湧いてくる」とも言っている。ようである。彼ら五人はしんみりと思い出話をし、石川の門出が順風満帆であるよう激励した。
 翌日の再会を約して石川は友と別れ、大井蒼梧の居宅に向かった。世話になった礼を述べた。若者に理解のある大井は気の毒そうな色を眉根に浮かべ、石川の勇気ある自立を賞賛した。そして、読み終わって不要となった『透谷全集』を餞別として与えた。ブックオフに売ろうと思っていたが、目の前の青年に譲った方が得策と判断したのである。
「『うそつきの石川は/結婚詐欺師どう?』/進路指導で先生の言う。」
「うっとりと/本の挿絵に眺め入り、/煙草の煙吹きかけてみる。」
 姉夫婦の家で一夜を過ごし、十月三十一日、午前中に訪ねてきた堀合節子を迎え入れた。
「午前。湧くなる我血汐もかくては遂に溢れなん。別れなればの涙にわが恋しの君訪れ玉いぬ。(略)東都の春の楽の音に共に目さめむもここ六ケ月のうち。ああさらば胸の轟きしずめて蘋の身の、世の大波に暫らくはひとり南せんか。/さは云えど胸掩う愁いの聖なるぞ哀しや。うす紫にわが好む装いしてあたたかき涙にくれ玉う恋の心のたたずまい。女神夕に星をうらむもかくやと許り、うつつなの境いを辿る情を、男なればの我身辛くも涙を噛みぬ。(略)タイムは飛ぶが如くすぎて。涙!!! 涙!!! 涙!!! かえらせ玉いぬ。/故友阿部春雨氏の遺稿をわが君に托して保存することとしたり。」
 何を言っているのかさっぱり判らないかも知れないが、彼女は石川好みの服装でめかし込んで来てくれたわけである。『爾伎多麻』の同人紹介欄で明らかなように、石川は薄紫色が好きだった。二人は言葉少なにゆっくりじゃれ合い、何度もキスを交わした。石川は彼女に「わかれなりとうす紫の袖そめて万代われに望みかけし人」という歌を贈った。亡友の形見を、縁もゆかりも無い彼女に預けた。あっと言う間に午餐の時間となり、姉の食卓で彼女をお相伴に与せるのを遠慮し、帰らせた。
「幼時からヤンチャ盛りの/世之介に/差をつけられき我の青春」
「身をひけば頭をもてく手をひけば体をもて来おかしき君かな」
「せっちゃんの性的な意味の鞭毛が優しく撫でき我の心を」
「咳くしゃみ欠伸ため息しゃっくりが君の物なら全部吸いたし」
「来世では是非とも体験してみたし至高の愉悦蜻蛉の交尾」
 午後、岩手公園よの字橋側の高橋写真館で、ユニオン会のメンバーと記念写真を撮った。短歌同人と夕方まで談話をした。
「五時行李を整え俥を走せて海沼の伯母や姉等にわかれ停車場に至れば見送りの友人すでにあり。/薄くらき掲灯の下人目をさけ語なくして柱により妹たか子の君の手をとりつつ車中のわれを見つめ玉う面影!!! ああ如何にあたたかきみ胸ぞ。たとえ吾を送るに千人の友ありとするも何れかよくこの恋の君の一目送の語なくしてかたる紅涙にしく者あらんや。」
 ユニオン会のメンバーを含めた友人「一千名」が石川を見送った(※来場者数は石川の発表による。おそらく比喩表現であり、正確な数字は不明)。石川は上野行きの夜行列車に乗った。堀合節子は末妹と手をつなぎ、盛岡駅のホームにひっそりたたずんでいた。石川を取り囲む荒っぽい友人たちの万歳三唱を遠巻きに眺めていた。涙を溜めたその眼は真っ赤であった。五時五十五分、列車は出発した。石川は車中で日記を書き始めた。叙述は十月三十日から始まるが、起稿したのは十月三十一日だった。電車の中で日の出を拝んだ。
「夜行列車/フロントガラスにびっしりと/潰れし虫がへばりつきたり」
「柔らかきパンに/アリめらたかりたり/あたかもダリの画題のごとし」
「我常に思う世界の開発の第一日の曙の色」


(七)四ヶ月間の東京生活
 翌日、十一月一日、午前十時に上野に着いた。東京─盛岡間は新幹線で二時間半。然るに石川の旅は十六時間も掛かった。日記を書くのに手間取ったのだろう。
 三年ぶりの東京。辺りはすっかり変わっていた。石川は首都の巨大さに圧倒され、人間の多さに驚き呆れ、洗練された町並に魅了された。
 雨が降っていた。駅でタクシーを拾い、小石川に向かった。盛岡中学校の二つ上の先輩で白羊会の同人、細越省一の下宿に転がり込むためである。アポ無しだったので細越はびっくりした。石川の退学すら知らなかった。しかし石川を歓迎した。
 二人は長く長く語り合った。退学に至った消息、上京の意気込み、細越の早稲田大学生活、そして文学談義。奇しくも細越の手元には『明星』の新刊が届いていた。細越は夏村の号で五首、石川は白蘋の号で二首採用されていた。興奮した二人は夜遅くまで眠らなかった。
 十一月二日。この日も雨だった。『明星』掲載に奮起し、二人は秋の歌を作ろうとした。気が散って一首も作れなかった。だが幸せな時間だった。昼頃、細越の弟・毅夫がやって来た。さっき盛岡で石川を見送ったばかりである。借りたレコードを返し忘れていたのに気付き、律儀にもわざわざ届けに来たのである。感激した石川はもちろん感激し、「ああ吾友よ。親しむべきは其あたたかき胸のうちたる哉。我は謝す。!」と、感嘆符の付け所を誤るほどに感激した。
「アルゼンチン音響派の/アルバムの妙に沁み入る/秋の夜更けに」
 毅夫は昼飯を済ますと盛岡に帰った。午後、雨が上がったので石川と細越兄は小日向台を散歩した。この辺りは木々の少い高台で眺望がひらけていた。細越は「秋の季節に最も適している」と嘆賞した。確かに眺めは抜群だった。石川は自分が東京に居ることをつくづく実感した。
「今わが俯観する大都よ。汝は果たして如何なる活動をなしつつあるか。何ぞただ魔の如きのみならむや。吾はこの後心とめて汝の内面を窺わんか。」
 いつまでも細越の狭い下宿に厄介になるわけにもいかないので、その夜、二人で賃貸物件を探した。細越の下宿から百メートルほど離れた茅葺き屋根の一軒家が「入居者募集」の貼り紙を掲げていた。音羽から今宮神社の境内を通り抜けて、小日向台に登る八幡坂を、左に曲がって登り切る寸前の崖の上だった。小石川区小日向台町三丁目九三番地、大館光おおだてみつ宅。枳殻からたちの生垣に囲まれ、南と西にクヌギの木が立っていた。さっそく契約をし、入居した。石川に与えられた部屋は床の間つきの七畳。窓からの眺めは最高だった。西には目白台の森、南には下町の屋根の群れが見えた。金に不自由の無い石川はさっそく家具を購入する。細越に伴われて大塚家具店で机や本棚などを求めた。
 その晩、石川は実家への手紙を書いた。書き終えてふと、猛烈に淋しくなった。友も居ず、家族も居ない。東京生活への期待と不安がその胸に交互に去来した。まだ十六歳である。無理もない。
「『疲れり』と言葉に出して如何になる/言葉は飲みて/ただただ眠れ」
「秋の夜/明日はきっと最高の一日になる/そう信じたり」
「『終わらざる夜はあらず』と/人は言う/しかし終わらぬ眠りこそある」
「落ち込めば/ジェロオムのごとく舟遊びしたいが/予には友がいなくて」
 十一月三日、天長節。午前中に石川は身の回り品や食べ物を買い求め、ハガキを十九枚書く。その中の一枚は与謝野鉄幹への上京報告。
 午後、本郷に住む岩動孝久いするぎたかひさに会う。岩動は盛岡中学の先輩で、雅号「露子ろし」。東京外国語学校フランス語科に在籍していた。後年の石川が、日本語に不自由なフランス人を装ったのは、この岩動の影響だったと言われている(※いわゆる一九一〇年の「ポーラン・ガーニュ期」)。
 二人は大いに語り合いながら、その足で本郷六丁目二十八番地月村方に下宿している野村長一を訪ねた。野村も盛岡中学校の先輩で白羊会の同人。雅号・筆名は「胡堂こどう」「菫舟きんしゅう」「右近」「あらえびす」を使い分けた。代表作は『銭形平次捕物帖』、有名な警部・銭形幸一に着想を得た時代小説。彼の下宿は彼の通う東大赤門の正面に位置していた。この時野村は不在だった。石川は岩動と別れ、独り不忍池から上野公園に上り、帝室博物館第五号館(竹の台陳列館)で日本美術展覧会を鑑賞した。その時の印象を日記に残しているが、彼の短歌観に通ずるものがあり、興味深いので引用する。
「陳套なる画題を撰んで活気なき描写をなすは日本画界の通弊也。こ度の展覧会にて注意すべきは洋画の描写方を日本画に応用したる作の二三あること也その中にて弁慶の図など少しく可なり。」
 中学一年の時から図画が不得意だった男が、一端の批評を加えている。曰わく、旧弊な日本画は時代遅れであり、西洋の技法を取り入れた進取的な作品のみが見所がある、と。
 夜には在京の友人たち(原達・金子定一・野村長一・山崎廉平)に上京報告のハガキを書いた。慣れない東京で生活して行くには石川一人の力では心許なく、先輩や友人の助けが不可欠であった。それゆえ、頼みの綱の人脈に自分の東京進出を報せまくる必要があったのである。ちなみに「原達」とは「はらとおる」(雅号「抱琴ほうきん」)のことであり、原という名字の集団ではない。念のため。
 そして、「出京以来漸く少しく心落ち付きたれば杜陵とりょうなるせつ子の君へ手紙かきぬ。迸しる涙のわりなき秋や、嘗而賜いし歌の手巾にて溢るるを抑えつつ記しぬ。あわれ恋しの君わがこの文を読まば君もや温かき涙にくれ玉うらむ。」堀合節子に手紙を書き、「二時就寝。涙!!!」また泣いている。彼はプライドが人一倍高かったが、一人になるとよく泣いた。「涙!!!」という表現はこれで四度目。たいした感激屋であり、泣き虫なまいき石川啄木である。
 十一月四日。午前中はユニオン会の阿部・小野・小沢・伊東それぞれに長い手紙を書く。する事もないので暇潰しに歌を詠んでいると与謝野鉄幹からの手紙が届いた。昨日の午前に書いた手紙の返事がもう届く。誠に明治期の郵便制度は優秀であった。鉄幹の書簡には妻の晶子が出産したことが記されていた。
「誰が見ても/われをなつかしくなるごとき/長き手紙を書きたきゆうべ
「ヒッヒッフウヒッヒッフウフウヒッヒッフウ/稽古しており/ラマアズ法を」
「厄払い/パセリとセージ・ローズマリー・タイムを千切り/妖精を逐う」
 午後、石川はぶらぶらと散歩をした。一旦音羽に下り、目白通りの坂を上り、天主公教会の前を通過して牛込女子大学の周辺まで足を伸ばした。下宿に戻ると、四時ごろ、野村長一が訪れてきた。二人は大いに語り合った。しかしそれは細越省一や岩動孝久と旧交を温め合ったような愉快な語らいではなかった。野村は石川の軽率な行動を懸念し、深刻な口調で忠告を与えた。石川の日記を引用しよう。
「友は云う。君は才に走りて真率の風を欠くと。又曰く着実の修養を要すと。何はともあれ、吾はその友情に感謝す」
 野村の意見は至極真っ当である。野村には人を見る目がある。これほど石川にとって耳の痛い言葉はあるまい。「何はともあれ、吾はその友情に感謝す」というのが笑える。何はともあれ。納得がいっていない。野村のせっかくの忠言を口うるさいお節介と捉えている。これでは石川の人生に反省の機会が訪れようはずがない。
「うぬ惚るる友に/合槌うちていぬ/施与ほどこしをするごとき心に」
 何はともあれ、石川と野村は夕食のコンビニ弁当を一緒に食べ、翌日は学校探しをすることで合意に至る。常識人野村による「中学校くらいは卒業しておけ」という心遣いである。野村は二十一時に帰った。
 十一月五日、石川は乗り気ではなかったが、約束通り野村と二人で神田近辺の中学校を片っ端から訪ね歩いた。五年生に編入できないかどうか交渉に当たった。しかし、どこも生徒数がいっぱいで受け入れられないと断られた。──ことになっている。が、石川には知る由もなかったけれど、生徒数に余裕のある学校は存在した。成績表も携えぬ、どこの馬の骨とも知れない石川を門前払いしただけである。その口実が「生徒数がいっぱい」だっただけである。仕方がないので、斎藤秀三郎の正則英語学校で入学案内や願書だけをもらった。古本屋の多い猿楽町を通り、野村の下宿で即席めんをすすりながら雑談をし、夕方五時に石川は自分の巣に戻った。夕食後、細越と夕闇の中を散歩した。夜は『校友に与うるの書、落風秋語』なる随筆を起稿し、即中絶。
「紅葉に染まる山々おしゃれして町行く人の美しきシャツ」
「ある門に老人一人/夕涼み/朝もあそこに座りてありき」
「灼熱の湯をそぞろなる方形に/ポリフォニックな/秋の黄昏」
「ぶふと笛鳴らしてはしる自動車のあとに立ちたる秋の塵かな」
「起てよ友/風の夕の百合折れぬ/かくてぞ秋は京に入りぬる」
「袖かみて/四年なる血ぞ/あたたかき南に北に秋は似たるよ」
「穏やかなる秋晴れの日も僅かなり冬将軍の治世到来」
「鍋奉行焼肉奉行冬将軍/勘定奉行に/お任せあーれー」
 十一月六日、朝、おどけし歌を詠んだ近眼の小林と、原達からハガキが届く。正午、写真が二枚郵送されてくる。一枚目は「太古の遺民」(意味不明)を自称する猪川浩から送られてきた物で、石川の卒業が絶望的となった夏休みに文学仲間十一人で撮った写真。二枚目はユニオン会の小沢恒一からで、十月三十一にユニオン会五人で撮った写真。そして夜には岡山儀七から細かいハガキが届く。岡山とはツーショット写真を撮っているが、写真は郵送してくれなかった。
 十一月七日、朝、鉄幹に手紙を書いて投函した。その後、前々日に石川の留守を襲った金子定一を、今度は石川が訪れた。金子定一は盛岡中の一つ下の後輩。雅号は「香寧児かねこ」もしくは「香音児かねこ」で、筆名金子香寧児。漫画家の藤子不二雄に影響された筆名だが、現代で言えば「まえだまえだ」や『HUNTER×HUNTER』に近いセンスである(他の雅号として、夏目漱石をパクった「磧鼠そせき」)。石川と同じ年度に経済上の理由から盛岡中を中退し、一足先に上京していた。
蘇峯そほうの書を我に薦めし友早く/校を退きぬ/まずしさのため」
 この日の石川の日記はとても面白いので、少し長くなるが引用する。
「オオ繁華なる都府よ、人の多くはこの実相の活動に眩惑せられて成心なき一ヶの形骸となり了る。吾はこの憐むべき幾多の友を見たり。/(中略)人は東京に行けば堕落すと云う。(中略)ああ東京は遊ぶにも都合のよき所勉むるにも都合のよき所なり。(中略)かの年若き人の憤然と都に入りて自己の立身の道を立てんとするやよし、然れどもその多く志をえずして老いゆく年を死の床に近かしむる者は実にこの一貫せる都府根本の精神を看過してみだりに実相の活動に身を投じ塵烟の猛火にまかれ(中略)遂に自己の存在をすら忘却するに至れば也。ああ吾友の多くはかくてその一生の路を破壊し了れり、我は街頭に立って現に幾多のかかる髑髏を見たり。」
 金子のことを書いている。金子は神田錦町三丁目の日本力行会りきこうかい(苦学生のための救済事業を行なっていた慈善団体)神田寮に寄宿し、昼はアルバイト、夜は成城中学校の夜間部に通っていた。それを悪し様に「成心なき一ヶの形骸」「憐むべき幾多の友」「ああ吾友の多くはかくてその一生の路を破壊し了れり」と書いている。完全に他人事であり、自分がそうなるとは少しも信じていない。石川は自分で自分の未来を嘲笑したのである。一方の金子は陸軍士官学校への入学を目指していたが、のちにその努力は実って本懐を遂げ、最終的には陸軍少将にまで登り詰めた。石川の自主退学とは訳が違う。
 この日、石川は金子と一緒に上野公園で「紫玉会油絵展覧会」を鑑賞。日記に感想を記している。
「数百枚のうち大方は玉置照信氏一人の作にして吾らの心を満足せしむること少きは残念なりき。数多のうち四枚の裸体画は下谷警察の厳諭によりて取りはずせる由誠に日本は滑稽なりと思いぬ。」
 ここでも旧弊な日本画に対して憤慨しているが、単にヌード絵が見られなかったのを恨んでいるようにも思える。
 帰りがけ絵はがきを買い求め、時間を持て余す夜間、岡山儀七・小林茂雄・猪川浩・瀬川深に消息をしたためる。そのうち岡山に宛てた絵はがきは、絵の下に石川の自作詩「アキ」が縦書きで、絵の左にテニスンの英詩「AUTUMN」が横書きで配置されていて非常に美しいものである。英語は丁寧な筆記体で綴られている。
 ここで石川の書く文字について一言を付す。一部の日記を除き、彼の字はとても綺麗に綴られており、大変読みやすい。──文豪の文章は、書簡・日記はもちろん、どんな些細な覚え書きでも全集に収められる。石川は自らを未来の文豪に擬していたから、「手書きのハガキも後世に残る」という意識が働いていたのかも知れない。
 十一月八日、午後、宮永佐吉が突然訪ねてきた。宮永は盛岡中の入学試験で百二十八人中一番だった男(石川は十番)。石川より半年お先にドロップアウトした彼はすっかり無頼漢に変貌しており、石川はちょっと怯えた。「我は常にくりかえす、曰く京は学ぶにも遊ぶにも都合のよき処也と。」学校の成績が良かったからと言ってその後大成するとは限らない絶好の見本である。その後宮永は活動写真の説明士になったり、大っぴらに言えないような職業を転々とした。
 このとき石川は初めて阿片を体験した。宮永の「芸術的な感興を惹起できる魔法の薬」という売り文句に誘われて、何の疑いもなくそれを吸引した。頭がぼんやりするだけだった。
「共同の薬屋開き/儲けむという友なりき/詐欺せしという」
「そのむかし秀才の名の高かりし/友牢にあり/秋のかぜ吹く」
 宮永が帰ったあと、渋民の田鎖徹からメールが来て、ユニオン会の阿部修一郎が肋膜炎で入院したことを知る。激しく同情した石川は、一晩かけて長い長い手紙を書いた。あまりに長いので引用は控えるが、短編小説ばりの起伏に富んだ力作である(名文であるかどうかは別として)。それに加え、堀合節子からも手紙が届いた。この日の日記に「せつ子君の美しきみ玉章」と書いていて、「きみ玉章」って何だろうと思うが、「美しき、み玉章」であり、「玉章」にわざわざ「御」をつける辺り、石川が恋愛対象を過度に崇拝していることが窺える。
 十一月九日、午後一時、細越に連れられ牛込区神楽町二丁目二十二番地の城北倶楽部で催された東京新詩社の会議に参加した。与謝野鉄幹を筆頭に出席者は既に揃っており、石川たちを含めて総勢十四名。岩野泡鳴と高村光太郎も参加していた。議題は、同人の間で回覧雑誌を編集する・『明星』の体裁を来年一月から変える・文芸拡張のため各地を遊説する・新年大会・新派歌集について・などなど。会議は大いに盛り上がり、午後七時に解散した。石川はその時の感激を「我は今日の集会に人々の進取の気盛んなるに大によろこぶ、その社員遊説の挙の如き以て徹すべし。ああ吾も亦この後少しく振るう処あらんか」と記している。石川は新詩社の構成員たちの人となりにも感心したが、ただ平塚柴袖という男だけは気に食わなかった。取り分け「デコ」と呼ばれたのが腹立たしかった。
「うつくしきかたきのなかに一人いし若きがほどの誇りを思う」
「五七五七七五七五七七五七五七七五七五」
「火の如き顔して歌う幾人いくたりに酔泣すなる子も交りいぬ」
「どん百姓/世紀を二つ跨ぎ来て/ようやくその血垢抜けしかな」
 帰り道、神楽坂の歓楽街を細越ほか一名と散策した。石川は帰ってから手紙をたくさん書こうと思っていたが、疲労がどっと襲ってきたので、早めに就寝した。
「あたらしき心もとめて/名も知らぬ/街など今日もさまよいて来ぬ」
「秋葉原神保町にお茶の水/斯くも見事な/同業街よ」
「寂寞として東京の夜の更けし頃ああかの話声何を語るぞ」
「目薬のこぼれて頬に流れ落ち顎に滴を集める幼児」
「蜂がいて/殺虫剤の代替に/ヘアスプレーしゅー固まり落ちぬ」
 十一月十日、朝、昨夜書こうと思っていた手紙を書き始めたがすぐに飽きてしまい、ベランダに出て町の景色を眺めながら、漫然と物思いにふけった。午後から与謝野鉄幹・与謝野晶子を訪れることになっていた。下宿で昼食を食べ終え、すぐに出掛けた。ポン女の前を通過し、目白駅から電車に乗って渋谷へ。牧場や田畑のそばを通り、曲がり角の多い坂を上り、東京新詩社に到着。豊多摩郡渋谷村字渋谷三八二番地に建っていたこの建物は、名前からすると立派なビルディングのように思えるが、実際には与謝野夫妻の簡素な住宅である。応対に出たのは晶子で、そのあと鉄幹が登場。昨日の会議について話し始め、次第に「文学で食おうとするのはゲスいよね。詩はもっとロマンチックなものだからね。で、和歌もそうだけど、そろそろ新しい詩を作らなきゃダメだよね」という文学談義に移った。そして鉄幹は「苦労して初めて詩人としての値打ちが出るでござる。石川君の短歌はちょっとはっちゃけ過ぎ。話題にさえなれば一発屋でもいいってのはちょっとアレだよ」みたいなことを言った。その他、薄田泣菫を誉めたりした。
 後年、鉄幹はこのときの石川の印象を「豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に楓爽とした風采の少年であった。妻は今日でも『森鵬外先生と啄木さんの額の広く秀麗であることが其人の明敏を象徴している』と云って讃めるのである」と記している。やはりおでこが気になったようだ。
 一方の石川は鉄幹のことを「機敏にして強き活動力を有せる」「世間の言う陰口(鉄幹は晶子に比べて無能)は誤解に過ぎない」「もっとブレイクしていいのに。ブレイクしないわけがない」と評し、弁護している。晶子に関しては「凡人の近づけない気品がある。女は性格が大事だ。晶子さんをブスと言うヤツは俺の友達じゃない。俺は性格重視だぜ」と、やはり弁護している。
 こうして石川と与謝野夫妻の歴史的な会談は終わった。夕方四時、石川は来た道をたどって下宿に帰った。下宿に着く頃には月が出ていた。下宿には岡山儀七からの手紙が届いていて、中には兼ねてからのお楽しみだったツーショット写真が同封されていた。岡山の手紙の文言は、報われない人生に対する愚痴だった。
「想いのせて想いに胸の魂ひめて世の海こぐか詩歌の小舟」
「立ち出でてかえり見たりし人の世の高きさとしの渋谷の入日」
「天が下に人の知らざる天才の雌伏するべし羅須地人とか」
「将来の夢を普通の人生と書きし高木は身の程を知る」
 十一月十一日、朝、郵便為替が届いた。「東京での生活費の足しに」と、次姉トラの夫・山本千三郎が北海道から送ってくれたものだった。石川はもちろん生活費の足しになどしない。午後、金子定一と一緒に郵便局で現金に引き替え、神保町で古本屋を訪ね歩いた。英語の書籍をたくさん購入した。取り分け、詩集を(チャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』、バイロンの詩集、テニスンの詩集、英詩の断片集、『おくのほそ道』の英訳など)。前日に鉄幹から「今後の詩人はよろしく新体詩上の新開拓をなさざるべからず(そろそろ新しい詩を作らなきゃ駄目だよね)」と言われたのを自分なりに解釈し、得意の英語から新機軸を探り出そうと思ったのだ。北海道からの為替は生活費の足しにはならなかったが、このときの石川が自分への投資に使用したのは興味深い。立身出世に燃えていたのだ。ただしこの日の夜、余った金で野村長一とビヤホールに行っている(日本初のビヤホールは前年のオープン)。
「物言わぬ臓器が喋りぬ/久々に/『安西先生、酒飲みたいです』」
 以後、石川の東京生活は英語研究に費やされる。日記に「外国人より英語習い居る」とほざく石川の勉強熱はすさまじいもので、あんなにマメに書いていた手紙や短歌もあまり書かなくなってしまったくらいだった。図書館にもよく通った。
「横文字を書ける男と思われて/洋語にあらず/羅馬字の和語」
「図書館に永久収蔵されし書よ/そして永久/借られざる書も」
「行儀よく背中を並べ/ご主人の指の再訪/夢見る君ら」
「日本語の/一人称の豊かさよ/俺僕私予我我輩」
 十一月十八日には実家から布団や靴下やリンゴが届いた。母親からの仕送りである。親のすねをかじる上京した若者。よくある話だ。
 事実、石川は生活に困窮し始めていた。お金は洋書を買うのにほとんど使ってしまい、充分に飯を食わなくなった。英語以外の蔵書は売り払った。飯を食わないので健康が著しく衰えた。
「日傾き/水商売の人々が起きる時刻に/寝る調教師」
「鳥が好き/空を飛べるし可愛いし歌がうまいし/カロリー低い」
「お昼時行列できるラーメン屋/並んでも食う?/配給のようなり。」
 糊口を凌ぐために、イプセンの戯曲『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』を、『死せる人』と題して翻訳し始めた。その稿料でお金を稼ごうとしたのだ(原典はノルウェー語であり、石川が企てたのは英訳からの重訳)。翻訳家を目指したのは、一時しのぎの片手間仕事という意識からだった。詩や短歌を生活の手段に選ばなかったのは、鉄幹の「文芸の士はその文や詩をうりて食するはいさぎよき事に非ず、由来詩は理想界の事也直ちに現実界の材領たるべからず(文学で食おうとするのはゲスいよね。詩はもっとロマンチックなものだからね)」という言葉に影響されてのことだった。
 翻訳への没頭と反比例で、日記は徐々に簡素化していった。十一月三十日と十二月一日には長い叙述(ホームシックによる、東京への恨み節と、故郷への思慕の念)が復活するが、その後は「十二月二日。午前恋しき君への文かき了えて投函す。田村の姉方より杜陵の端書きたる、転居せる趣しるしたり。」「十二月三日。イプセン集ひもとく。午後一人散歩す。」「十二月十九日。夜。日記の筆を断つことここに十六日、その間殆んど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり。」で日記自体が終わってしまう。
 そして、日記の放置と同時に、翻訳作業も一段落した。石川によるイプセンの翻訳は、結局、完成しなかった。結構な枚数を書いたのだが、書き終えた分を客観的な目で読んでみたとき、その出来映えに満足できなかったためである。自分の文章が糞に思えた。それはたとえば(十一月十八日に読んだ)森鴎外訳の『即興詩人』と比べてのことだったが、石川は愕然とした。自分が精魂込めて打ち込んだ、今まで得意げに書いてきた物は何だったんだ、と。読めたものじゃない、と。傾注した努力が水泡に帰したことによる、徒労感・無力感・虚脱感・喪失感。石川は深い挫折感を味わった。──鴎外と自分を比べてしまったのがそもそもの失策である。まだ石川は若く未熟だったのであり、すでに四十歳となっていた大家と競るべきではなかった。たとえ糞みたいな文章でも、やり遂げて出版社に持ち込むべきだった。石川は阿片に手を伸ばした。阿片は当時まだ安価で入手できたが、酩酊感を誘うと同時に空腹感も慰めてくれたので、石川は食費を削って阿片の購入代金に回した。
 都会での成功を夢見て、田舎から何の計画も立てずひょっこり出てきた若者の、そのロマンチックな夢が、儚くも決定的に破れた瞬間であった。
「地に下りて秋の霜ふむ/蝶や身や/かくて寒さのたえ難き世や」
「日が暮れて/灯油ラムプに火を灯す/密やかなりし愉しみに耽る」
「真白なるラムプの笠に/手をあてて/寒き夜にする物思いかな」
 石川の生活はますます逼迫した。下宿代はおろかその日の糧にも事欠く有り様だった。こうなってくると短歌だ翻訳だとは言っていられなくなる。生存のためにお金を稼ぐ必要があった。年末を迎え、やっと就活をした。
 十二月二十八日、雑誌『文芸界』の編集員になるため、日本橋の金港堂を訪れた。金子定一のつてで、その友人の紀藤方策ほうさくに紹介状を書いてもらった。編集長の佐々醒雪さっさせいさつに面接してもらおうとしたが、「忙しい」の一点張りで会ってすらもらえなかった。
 佐々が石川をつっぱねた理由は、遡ること半年前、石川が佐々を馬鹿にしたためだと言われている。石川は『岩手日報』に投稿した文芸時評の中で「『文芸界』は材料豊富な代り、雑駁ざっぱくそしりを免れない」「主筆醒雪さても胆の小さい人」と佐々を酷評し、佐々はそれに対して腹を立てていたそうだ。意外なところで因果は応報するものである。
「かなしきは/喉のかわきをこらえつつ/夜寒の夜具にちぢこまる時」
「何もかもうまくいかなく/布団つ/明日世界が終わればいいのに」
「真夜中にふと目がさめて、/わけもなく泣きたくなりて、/蒲団をかぶれる。」
 大晦日が押し迫っていた。東京の友人たちはそのほとんどが正月帰りで帰郷していた。親に自分の窮状を知られたくなかったので実家とは音信不通になっていた。石川が頼れるのは苦学生の金子定一だけだった。石川は泣きついた。つい最近「かの年若き人の憤然と都に入りて自己の立身の道を立てんとするやよし、然れどもその多く志をえずして老いゆく年を死の床に近かしむる」と軽蔑した金子に。日本力行会の神田寮、金子の部屋で年を越した。石川は栄養不良による衰弱で高熱を発していた。
「『死んじまえ』/呪詛を唱える人間に/明るき未来ほほえむはずもなし」
「健康を害して初めて目がひらく/何もなき日が/宝物なりと」
 その後、石川は家賃滞納により小石川の下宿を追い出された。延滞料は三十円にも及んだ。三十円というとうまい棒三本分だからすぐに払えそうなものだが、前申したとおり明治と現代とでは物価が異なる。当時の価値に換算したら家賃三ヶ月分である。洋書を買い込んでいる場合ではなかった。阿片を買っている場合ではなかった。
 下宿を追い出されてからしばらくは親戚筋を回って一宿一飯に与っていたが、いつまでも食客のような生活をすることは出来ず、石川はド・クインシーよろしく神田の町を放浪した。体調を崩した。最終的には安下宿に転がり込んだ。この頃の消息については石川自身の文章に詳しい。
「神田錦町のとある通りに、二階建の、入口の格子戸だけが真新しい、薄穢うすぎたない安下宿があった。入口に掲げた止宿人の人名札は大抵裏返しになっていて、名前の出てるのは四枚か五枚――その数少い止宿人の中に、京橋辺の或鉱業会社の分析課に勤める佐山某という人がいた。
 小石川の先の下宿を着のみ着のまま逐出おいだされた私は、東京へ出て三月とも経たぬ頃ではあり、年端も行かぬ身空で経験も無ければ智慧ちえもなし、行処にふさがってしまって、二三日市中を彷徨うろつき巡った揚句に、真壁六郎という同年輩の少年と共に、その人の室に二十日ばかりも置いて貰った事がある。(略)何処か人のいない処へ行って、思いきり泣いて泣いて、泣き通して見たい様にも思ったが、立てば矢張寒いので、私はじっとして膝頭を抱いていた。そしてひる頃になると、前日あたりに着ていた木綿の紋付を質に入れて得た金の残額で、真壁と二人、一町許りしかない一膳飯屋へ行った。」
 はなから家賃は踏み倒すつもりだった(家賃をちゃんと支払わない石川のこの傾向は、単に世間知らずの若気の至りではなく、立派に成人してからもなお続く)。そしてついには安下宿も出なければならなくなった。栄養失調はますます深刻化し、冬の寒さにも打ちのめされた。借金ばかりがかさんでいった。石川は病気を六つ抱え(風邪・脚気・鳥目・結膜炎・壊血病・虫歯)、須田町の宿屋でろくに動くことも出来ずに喘いでいた。
「我のため他人の服を脱がしたし/男なら着て/女なら抱く」
「寒々と/打ち震えたる薄着せし我に/どなたか服を与えよ」
「冬場には/一家に一台あると良し/高熱を出す瀕死清盛」
「ふるさとの父の咳する度に斯く/ 咳の出づるや/病めばはかなし」
 とうとう実家に手紙を出した。助けてくれと。病気のことを綿々と綴った長い手紙を。
 石川は敗れた。故郷に錦を飾るつもりで挑んだ東京に、こてんぱんに。上京直後こそ同郷人たちと親しく交わったりして希望に溢れていたが、中学編入に失敗、翻訳業に失敗、就職に失敗。石川は完全に敗北した。わずか四ヶ月の滞在。得た収入、ゼロ。
 二月二十六日、父一禎が郷里から石川を迎えに来た。石川は東京の友人たちに直接別れを告げることもせず、精神的にも肉体的にもズタボロの状態で上野駅から汽車に乗った。
 野村長一に宛てた葉書が現存している。
「前略急に風雲変りて本日立つ事になりました後から手紙差上ます。白ヒン」(「白ヒン」は石川の雅号「白蘋」)
 石川の字とは思えない、汚く乱雑な字で書かれていた。
──石川一の人と文学①、了。



【石川の技巧】
 石川の後半生を語る前に、彼の前半生の文学的収穫について一言しよう。
 石川は天才詩人であると共に、短歌形式の破壊者でもあった。その傾向は晩年の歌集『悲しき玩具』に顕著だが、啄木と号す以前にもその兆候は窺える。
 まず、石川以前には散文でしか使われていなかった口語を用いた。文語を散りばめていた旧来の短歌に比べ、(浅酌低唱の感も否めないものの)歌の内容が格段にわかりやすくなった。
 それから、同じく散文でしか使われていなかった句読点・感嘆符・疑問符・カギカッコ・ダッシュを導入し、表現の幅を広げた。
 そして、有名な三行分かち書き。通常一行書きの短歌を三行に分けることで、物語性を付与した。それに伴い、五七五七七のリズムからの脱却にも成功した。詩句を途中で改行することにより、音節の呪縛から逃れた。
 石川は短歌におけるシンコペーションとでも呼ぶべき操作に意欲的だった。その中でも、一九〇一年、尋常中学校四年(十五歳)の時に作った短歌に関しては、「技巧をこらした歌としては啄木の最高傑作である」と評する研究者もいる。
「蚊だ自衛/端午の節句/寿司食べた/下手なタマゴに/生死賭けるな」(※便宜上、詩句と詩句の間にスラッシュを入れた)
 この歌は生前は発表されず全集にも未収録だったため長く軽んじて来られたが、東京教育大学文学部の金堂富幾准教授がその真価を発見・指摘して以来、今では研究者から非常な注目を集めている。冒頭の三文字「蚊だ自」を末尾に移動させると、全く違う意味の短歌になるのである。
「衛端午の/節句寿司食/べた下手な/タマゴに生死/賭けるな蚊だ自」
 つまり、「英単語の『セックス』した/ベタベタな卵に/精子かける中出し」となる。
 五七五七七に拘泥しないこの態度は『悲しき玩具』で一層進む。たとえば「古新聞!/おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、/二三行なれど。」という歌は、六八六八八という異常な音節を有している。これは音節を無視して適当に詠んだ歌ではなく、元々「二三行なれど、/自分の歌の事を賞めて書いてある/古新聞かな。」(五七六八八)という、ギリギリ許容範囲内の字余りだった歌を意図的に改作したものである。
 それでは、短歌同様ますます無茶が高じていく石川の後半生を見てみよう。(→後編に続く)



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