とりぶみ
実験小説の書評&実践
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    大塚晩霜
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    大塚晩霜
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    昼寝担当。



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【小説】笑顔の髑髏他四十四篇   (2014/12/31)
1.笑顔の髑髏
 そんなものはないと思う。
(→



2.飽き捨てのアルバム
 ある暑い夏の朝、本棚を整理していると写真アルバムが出て来た。色褪(いろあ)せて黄ばんでいる。裏表紙には「成長の記録」の文字。えげつないヘタクソなポートレートが何枚か挟んであり、「おとうちんおやあちん」と但し書きがある。重さは余程重い。
 家族誰かのアルバムだろう、そう推測しながらページをめくる。きな臭い香りとページ同士がペリペリ剥離する音を楽しみながら、主人公の誕生から幼稚園時代までの記録に目を通す。屈託のない子どもらしい笑顔を浮かべる男の子で、かわいらしい……が。景色に見覚えがあるのでようやく気が付いた。これは俺の「成長の記録」であるらしい。
 さっぱり覚えていない。知っていたはずの友達の名前が出てこない。すっかり忘れている。せっかくの集合写真も、他人事のように思える。そう思えばこそ、時間の経過に驚き、また、自分の記憶の霧散に悲しくなった。
 楽しかった遠足、いや、楽しかったであろう遠足の写真。ちっとも心に残っていない。つい最近の出来事のように覚えていたはずなのだ、かつては。手を挙げる紅白帽姿の俺がどうして笑っているのか、子どものころは覚えていた。時が経って大人になった今は、もうわからない。
 涙が溜まり始め、泣きそうになる。入学式の写真、小学校の校門の前で母に手をつながれて「気をつけ」する写真、そんな大事な場面さえ、今の俺はロクに覚えちゃいなかったのだ。濡れた瞳は写真を暈かし始める。眠りの中の映像のように。脳の中の霧掛かった記憶のように。
 はっきり覚えている写真を探そうと、目をこする。ひとつだけ、情景こそ記憶に無いが、心に焼き付いている宝物を見つけた。冬の朝にサンタさんからもらったサッカーボール、抱いて寝るくらい大切にしていた事を覚えている。変な話だが、それほど大切だったボールが、最後にはどうなったか、それは覚えていない。宝石のような思い出は、吹き荒ぶ風で宝石箱に穴が開いたため、無惨にも散逸している。
 またこのアルバムを引っ張り出す時は来るのだろうか。見ても記憶の蘇らない写真帳。虚しくなるだけの、空虚な成長の記録。めくってもめくっても、思い出に浸る事なんて出来やしない、ただ俺らしき男の子がニコニコしてるだけのアルバム。もう、こんな悲しいアルバムはいっそ捨ててしまえばいい。
 やるせない鬱積に心を痛めていると、ふと一葉の写真に目が止まった。雪合戦をして遊んでいる写真、この時の情況に就いては細部まで思い出せる。ようやく鮮明な記憶を獲得し、多少はホッとしたけれど。
 忘れたくないが、そのうち雪合戦の記憶も忘れるだろう。をかしなものだ。んー。(→12



3.天井(その一)
 白い天井を覚えている。俺の記憶は三歳から始まる。俺は日永その天井を見つめて暮らしていた。
 外で遊びたかったのにお昼寝の時間と称して寝かせられた。目が冴えて眠れない。そんな時俺はその天井の白さをキャンバスにして、様々な空想を描き出していった。想像力を絵筆にし、白い天井を極彩色で塗りたくっていった。青空を飛ぶ赤い飛行機。赤い太陽と青い海。黄色い壁で赤い屋根のおうちに巨大なチューリップ。デッサンの狂った自分。怪物のような親。アビニヨンの娘たちのような女の子。
 じんまりとも出来ないお昼寝の時間が過ぎると、俺は五歳くらいになっていた。布団から飛び出して外へと向かう。
 引き戸をガラスが割れるほど勢いよく開けて庭へと脱出する。ウソっぱちの天井画の事などすっかり忘れ、現実空間へと飛躍する。
 天井には描けなかった自然。現象。それらがワッと俺に集約する。肌をくすぐる風や草の匂い花の香り、遠くで鳴り響くトラックの排気音。想像を遙かに凌駕する驚くべき空間がそこには広がっている。
 世界は広かった。人生を歩み始めたばかりの俺にとっては。今から考えてみると狭い場所で暮らしていたと思うが、当時は世界が無限の空間に感じられた。さっぱり探り切れない、どこまでも広がる宇宙だと思っていた。
 たかだか十メートル四方の宇宙。この宇宙の住人は俺と、母と、そして父だけだった。外界からの侵入者──それはたとえば郵便配達夫だったり新聞の集金係だったりが時折訪れたが、それは母が対応するので俺にとっては風の音以下の存在だった。
 庭は広くなかった。とりわけ縦幅が短く、縁側から二メートルほどで外壁にぶち当たる。横幅の長さは八メートルほどだったろうか。一本の広葉樹・物干し台・物置・稲荷が配置されていた。申し分の無いほど平凡な庭だったが、五歳の俺にとってはここが世界の全て・広大な運動場だった。
 堅い土にポツリポツリと小さな穴。そこから働きアリがうようよと出ては引っ込んでいく。それを見ながら、時には木の枝で穴をほじくりながら、時には地団駄踏んでアリを潰しながら、そしてまた時には水撒き用のホースでアリの巣を水責めしながら、俺はお昼寝の時間から夕飯までを過ごした。子どもらしい無邪気さを以て小動物を蹂躙しながら、彼らにも生命ある事に気付かぬまま、残忍さの伴わない残酷さで時の流れるままに遊んだ。
 秋になると草むらにバッタが迷い込み、それを捕まえようと躍起になったものだ。強く握りすぎてグチュと潰してしまった事もある。「なんだかきたないな」と不快を感じた以外、かわいそうともなんとも思わなかった。世界を、そして命を、幼い俺は何も知らなかった。無益な殺生を繰り返していた。いや、殺していたのではない、ただ、遊んでいただけなのだ。
 庭の広葉樹に鳥が巣くった事もある。
 居間から窓越しに庭を眺めていると、燕のような鳥が二羽、木の中に下り立った。相談をするようにさえずり合ったあと、飛び立つ。どこからか折れた小枝を口につまんで戻ってくる。そんな作業を何度か繰り返していた。そのけなげな労働は、とても愛らしかった。
 ある日ふと気が付くと巣が出来上がっていた。俺でも登れる位置に在った。どうなっているのか確かめてやろうと思った。
「ねえ、鳥の巣が出来たね。見てくるよ」
 木に登ろうとすると、母は優しく諭しながら俺を止めた。
「だめ。鳥さん、逃げちゃうよ。一度逃げたらもう二度と戻ってきてくれないの。せっかく引っ越してきてくれたんだから見守ってあげましょうよ。そのうち赤ちゃんが産まれるかも知れないしね」
 母の言い付けを守り、あふれる好奇心を抑えて木に登るのを控えていたら、そのうち鳥の巣の事は忘れた。アリの巣の観察に終始して打ち過ごした。
 日曜日になると近所の教会へ連れて行かれた。本当に小さな教会だったので十人も入れば満員だった。入り口正面のステンドグラスからはカラフルな陽光が斜に差して講堂をきらびやかに照らしているのだが、その光は朧気で、堂内は暗かった。十字架に磔にされたキリストが恐ろしげな怪物に見えた。
 母は敬虔なクリスチャンだった。キリスト像の前にうやうやしく膝を突き、両手を組んで頭を垂れている母を覚えている。その行為に何の意味があるのかもわからず、俺は母の真似をした。神父からは「賢いお子さんですね」と誉められたが、いかにも真面目な母が気の毒で、同じ仕草をしてあげていただけだ。神様がいるのかどうかなんて、はなはだ怪しかった。ただ、天国とか地獄とかは、子供心にもありそうな気がしていた。悪魔の存在は感じていたに違いない。
 その頃の俺の人生は、昼寝・外遊び・教会。これの繰り返しだった。他に覚えてる事がない。幼稚園にも通っていなかったから、変化に乏しいものだった。
 庭で遊ぶ時は、アリを殺す以外にサッカーをよくした。自分と同じくらいの年齢の友だちは近所にいなかったから、一人で壁に向かってボールを蹴り続けた。たまに、洗濯物を干しに庭へ出た母が相手をしてくれたが、サンダルの母はあさっての方向へパスを出すため、俺は機嫌を悪くして「もういいよ」としょっちゅう怒っていた。そのたびに母は笑いながら謝り、縁側から家の中へ引っ込んでいった。
 母がいなくなると、庭には風のそよぐ音しかしなくなった。俺はポツリと取り残されたまま、涙ぐんだ。不機嫌そうに顔をしかめているのは、泣くのを我慢しているのである。俺はさみしかった。かわいそうな、俺。
 無言でサッカーボールを壁に蹴りつけ、跳ね返って来たボールをトラップし、また蹴る。母が去り孤独にさらされた今、それは楽しい遊びではなく、夕飯までの時間を稼ぐ機械的な作業だった。
 物憂い気分を壁にぶつけるように、俺はボールを蹴り続けた。何度も何度も。すると、木の中でピーピー騒ぐものがある。その時俺は思い出したんだ。鳥の巣の事を。幸い親鳥は居ないようだった。帰るまでも時間がありそうだった。辺りを窺ったのち、一目散に木によじ登った。
 木に登るのは慣れていた。百二十センチに満たない俺の身長でもたやすく登れた。まず、根元付近のコブに足をかける。そこからウンと気張って飛び上がり、中腹の太い枝をつかむ。つかんだら懸垂をしてもう一本突き出た枝に右足をかける。それで這い上がるのだ。
 子どもらしいぷっくりした健康的な肌を上気させ、俺は顔を笑みで膨らませた。なにしろ、鳥の赤ちゃんを間近に見る事が出来るのだ。
 木の枝で器用に建築された巣の中を覗き込むと、そこには毛の生えていない、まだ目も開かない、三羽の雛が居た。
「ぜんぜんかわいくないや」
 美しい羽根に覆われた小鳥、そう想像していた幼少の俺は、グロテスクな雛たちにゾッとした。
 唖然としながら雛を見ていると、雛はなんだか猛烈に鳴いている。どうもおなかをすかせているようだ。俺は一旦地上に戻り、ミミズを捕獲し、再び天高き樹木へと戻った(そんなに高い木ではなかったが、幼い頃にはそんな風に思えたのだ)。それは親鳥の仕事だった。俺は親鳥の仕事を横取りし、雛たちの父を気取ったのである。
 いかんせん生きたままのミミズは雛の口には大きすぎた。必要以上に開いた彼らのくちばしにミミズを投入してみても、雛たちは嚥下できず、口の脇からダラリとミミズを流してしまう。
「なんで食べないんだよ、ごちそうだぞ」
 俺が用意した食料は、飲みやすいように親鳥が細かく噛み砕いた肉とは違った。食べなくて当然である。そうめんか何かとは違う。しかし幼少の俺にはそれがわからなかった。雛たちの父になりそこなった俺は、首をかしげたまま木を下りた。
 それから二日くらい雛たちは飽きもせず鳴き続けていた。俺はと言うと、雛たちから餌付けを拒否された例の一件を気にし、彼らに注目するのを意識的に避けていた。ミミズを食べてもらえなかったのがくやしくて、かわいさ余って憎さ百倍の心境になっていたのである。勝手なものだ。
 雛たちは鳴き続けた。が、それは少しずつ鎮まった。段々と成長し、利口になっているのだろう。ちょうど人間の赤ちゃんと同じ事だ。
 彼らの金切り声はうるさかったし耳障りな気持ちがしていたので清々した。
 それからしばらくすると雛の鳴き声はすっかり止んだ。いつしか俺も家人も彼らの事を忘れ始めていた。
 夜になると母が色々なお話を聞かせてくれた。中でも、お月さまに関する冒険譚は俺の心に鮮やかな印象を残した。(→



4.月への船出
 小さな漁村がありました。
 背後に緑の濃い山をいだいたその村は、海に突きだした砂浜を見おろす場所に位置していました。砂浜の左手は港になっていて、桟橋にいくつかの漁船が停泊しています。空気が澄んだ土地で、夜になると星がきれいに見えます。
 満月の晩になると村人たちは浜辺に集まって大きな月が水平線に接する様子をながめます。その様子はと言うと、光る島が浮かびあがってくるように見えるのです。それはそれは神秘的な景色です。
 その漁村に、ふたごの兄妹がいました。兄はソー、妹はクウという名前でした。
 かれらには小さいころから親がありませんでした。父親は漁に出たまま帰らぬ人となり、母親はやまいに倒れて亡くなっていたのです。そこで、村外れに住むヘンクツじいさんに引きとられて養われました。しかしじいさんには料理のこころえがまったくなかったので、食事は近くの主婦が当番制で届けていました。
 このじいさんはまったく変わった人でした。まず、魔法使いを自称していました。そして、八十を超える高齢ながら、超能力を啓発しようと毎日修行に励んでいました。ある時は出港する漁船の船尾にしがみついてみたり、またある時は山の頂上から風に向かってケンカをいどんだり、とにかく得体の知れない奇っ怪なじいさんだったのです。このじいさんはソーとクウが成人すると、それを待っていたかのようにポックリ死んでしまいました。
 そんなじいさんのもとで育ったソーとクウは、これもやはりおかしな人間に育ちました。かれらの脳味噌は科学的思考をまったく欠落させていました。たとえばソーは、地球はたいらだと本気で思いこんでいます。クウは雲の上に天国があると信じて疑いません。他にも、太陽が地球の周りを廻っていると思っていたり、雷はケモノの一種だと考えていたり、赤ちゃんはコウノトリが運んでくるんだと覚えていたり、地上には空気が充満していることを知らなかったり……。数えあげればキリがありませんが、とにかくかれらはとんでもない夢想家なのです。かれらが特に好んでする議論は、「海のむこう・山のむこうはどうなっているのか」ということでした。かれらは自分たちの住む村以外の世界を知りませんでしたし、誰も教えてやらなかったので、こういう話をさかんに戦わすのでした。
 かれらは村の笑いものでした。「ろくに働きもせず、頭も悪く、できるのは舟を漕ぐことばかり。成人しても自立できず、食事はいまだにおこぼれをちょうだいしている……」かれらへの視線は冷たいものでした。
 三度の飯と睡眠以外にはこれといった義務を持たないかれらは、明け方から日暮れまで浜辺に座りこんで、あきもせず常識を無視した空想を話していました。
 ある時ソーはとんでもない計画を思いつきました。そしてその計画をクウに話しました。「今度の満月の晩に月へ上陸してみようよ」
 妹のクウは、目をパチパチさせながら答えます。「ええっ。月に行くの」
 兄のソーは、目をキラキラさせながら続けます。「そうだよ。遊びに行きたいんだ」
 やや押し黙ってから、クウはこう答えました。「いいかもね。なんてったってまだ誰も行ったことがないんだ。すごいよ、わたしたちが初めて上陸することになるね」
 兄も兄なら、妹も妹でした。クウがそう言うのを聞いて、ソーは大変嬉しそうにこう言いました。「そうだよ。最初に行った人が月をもらえるんだ。月をぼくらのものにするんだ」
 二人の空想は果てることがありませんでした。
 確かにここからは月が海に接しているように見えます。しかし地球と月は遠く離れていて行けるはずがありません。だけど、そんな事実をかれらが知るはずはありませんでした。なんと言ったって、かれらには知識がありませんでしたから、しかたのないことだったのです。
「一キロくらい行けば月に上陸できるかしら」
「うん、充分だろう」
 かれらは本気で計画を練りました。そうして実際にその計画を実行に移そうとしたのです。
 けれど一つだけ問題がありました。「今度月が満ちるのはいつか」、ソーとクウはそれを知らなかったのです。かれらは村の知恵者コウに何度もたずねましたが、コウはいじわるをして教えてくれません。だからソーとクウは雨の日も風の日も浜に出て月が太るのを待ちました。朽ちかけたボロ舟を波打ちぎわに用意しながら、来る日も来る日も満月の出を待ったのです。
 ソーとクウが待ち続けて一週間がたちました。その晩ようやく、黄白色の巨大な円盤が海からその姿を現しました。
 ソーとクウは喜び勇みながら月を目指して舟を漕ぎ出しはじめました。誰もが二人の行動をバカにしました。大人たちはもちろん、子どもも、そして犬たちすら笑っているようです。
 二人は背中に浴びせられる嘲笑など気にもかけないといったふうに、懸命に櫂で水面をかき続けました。みるみるうちに陸地から見えるかれらの姿は小さくなりました。
 大人たちはかれらの奇行をながめるのにあき、投網を編みはじめました。子どもたちは手もちぶさたに海の方向を見つめ続けました。しかし子どもたちの目も舟ではなく、明るい月に注がれていました。
 そのうちに子どもたちの視界の下の方から小さい舟が上がってきました。
 舟は今まさに月を背景にして水平線上に立ちました。──間もなく舟は水平線の向こうへ消える──父親たちの漁を何度も見送ってきた子どもたちはそれを知っていました。子どもたちはハナをたらしながらボーっと目のまえを見ていました。
 犬が吠えだしました。子どもたちはその時初めて気づきました。二人を乗せたボロ舟が月に接岸していたことを!
 ソーとクウは満足げに月から地球を見あげました。
「おい、地球は丸かったんだな」
「そうね。お日さまやお月さまとおんなじで、お盆の形をしてたんだね。ほらっ、見て!村があんなに小さく見えるわ」
「おやおや、あんなに小さかったのか。知らなかった。うわっ、すごい。クウ、あっちをごらん。他にもたくさん村があるよ」
「地球にあるのはわたしたちの住む村だけじゃなかったんだね。どんな人たちが住んでいるのかしら」
「よく目をこらしてごらん。見えるよ、かれらの生活が。まるでコウのように気どった、洋服を着ている人たちがたくさん歩いているね」
「見て見てこっちの村。なんだかすっごく大きな犬が人間を乗せて走っているよ」
「本当だ。でも、あっちの村はもっとすごいぞ。箱のような船が、煙を吐きながら地上を走っているぜ」
「えっ。どっちどっち? わあ、本当だ」
 二人は新鮮な驚きに包まれていました。そうしてはしゃぎながら未知の世界をながめつづけました。それらは二人の想像とは大分かけ離れていましたが、それでも満足でした。
 でも、やがてかれらはながめるのにあきました。二人は月面に寝そべり、地球を見つめました。クウが悲しげに「なんだか、つまんないね」とつぶやくと、ソーは何もこたえず黙って涙を流しました。しかし、なぜ悲しい気分になったのか、二人にはまるで見当がつきませんでした。ただ、わけのわからないむなしさに包まれながら黙っていました。すると、力いっぱい舟を動かしてきた疲れが出たのでしょう、二人はいつしか寝息を立てはじめました。
 地上では、驚いた子どもたちがあわてて大人たちを呼んでいました。ただならぬ子どもたちの様子に大人たちも仕事の手を休め、海に浮かぶ月を凝視しました。しかし大人たちには何も見えませんでした。子どもたちはおのおの「自分の見たことは本当だ」としきりに主張しました。泣き叫びながら自分の正当性をうったえる子さえいました。しかし、その出来事はまったく物理的常識を無視した現象でした。村一番の知恵者コウは、「地球から月へ行くのは不可能である」ことを、砂浜に図をえがきながら科学的に説明してあげました。それでも子どもたちはなっとくせず、たしかに見たんだ見たんだと騒いで容易にあきらめません。それでコウはうんざりして、自分の家へ帰っていきました。あたりはすっかり暗くなっていましたし、家々の煙突からは魚を焼く煙がおいしそうに匂い始めています。ですからコウが帰ったのをしおに、他の大人たちも自分の子どもをなだめながら家へと帰りました。いつしか月は空高く上がって小さくなり、そうして足の速い雲におおわれて見えなくなってしまいました。
 翌朝、海岸に無人の舟が一艘打ち上げられていました。コウは子どもたちに向かってさとすように説明しました。
「もしもあのばか兄妹が、本当に月へ航海したのなら、舟は月にあるはずだろう? どうして月に行ったはずの舟がここにあるんだ? ここにあるってことは、初めから月になんかたどり着けなかったんだ。つまり、君たちは見まちがいをしたんだよ」
 一晩たって冷静になっていましたし、そう言われるとそんな気もしてきて、子どもたちはしぶしぶうなずくしかありませんでした。
 しかしそのご、ソーとクウの姿を見た者はいません。大人たちは口々に「父親同様溺れ死んだんだろう」とうわさしましたが、子どもたちはひそかに「やっぱりあの二人は月へ行ったんだ。僕たちの目は正しかったんだ」とささやきあい、大人の意見には合わせませんでした。
 子どもたちはソーとクウの偉業を大切な想い出として心の中にしまいました。理解ない大人から、秘密の宝物を守るように……。(→11



5.俺の右目には蛇が棲んでいる
 寝っころがって白い天井を見つめる時、明るい日差しの下に遠景を眺める時、──網膜が強い光を感じる時、透き通った蛇が視界に浮かび上がる。白魚のような亀裂。微生物がへばりついているような亀裂。とてもちいさなキズで他人の目には見えない。だが俺の目には見える。高校生の時に出来たキズだと思う。芥川龍之介の右目に半透明の歯車が廻転したように、俺の右目には蛇が棲んでいる。
 意識的にせよ無意識的にせよ、俺は死ぬまでこのキズを見ながら生きていかねばならない。キズを通した映像を脳に投影しなければならない。今日も蛇は浮かぶ。潰れた虫のような、蛇。
 でも、しかたないとあきらめている。死ぬまでのしんぼうだ。身体のどこかに欠陥があったとして、それがなんだろう。死ねばどうせ消滅するのだ、この肉体もろとも。モデルでもないのに、背中のホクロを気にする必要があるか? 俺は気にしない、右目に侵食した細菌も。
 ちかごろ、蛇の目が黒くなってきた。眼球を動かすたびにこれがチラチラする。だけど、関係ない。俺の世界はまぶしい光に満ちている。ダイヤモンドの形をした夏の陽光に。(→



6.なつかし
 明け方は山。冷涼たる空気と朝もや、降り注ぐ陽光に草はらが黄金色に波打つ。新しい一日の始まりを讃える鳥のさえずり。馬や羊が草を食んでいる。
 早朝は川。ズボンのすそをまくし上げて清流に足を突っ込んで水を掛け合う。明るく照らされた石に腰かけて釣り竿を垂らすのも楽しい。
 午前はペンション。首を回す扇風機を側臥でただ見守って打ち過ごす。カルピスをたたえて汗をかいたコップの内、氷が自然にカランと鳴る。『タッチ』の再放送を観ると無性に野球がやりたくなる。
 正午は居間。日陰となった座敷から障子を開け放って庭を見つつそうめんをすする。風鈴が涼しくきらびやかに鳴る。隣室から野球中継のサイレンが聞こえてくる。
 昼下がりはプール。てっぺんに太陽を頂いて塩素のにおいを嗅ぐ。水着姿のあの子。普段教室で見るよりもまぶしいのは太陽のせい? 帰り道にシャリシャリかき氷をかっこんでこめかみを釣らせる。
 おやつ時は森。木洩れ陽がレーザービームのように降り注ぐ。虫取り網を振り回してセミやチョウを追いかけ回す。虫カゴの中にはカブトムシ・クワガタムシ・カナブン。切り株を仲間たちと囲んで相撲を取らせる。負けるな負けるな。
 夕方は海。雲の峰が桃に染まる入道雲・さざ波の音。浜辺のパラソルがひとつまたひとつと片づけられていく名残惜しさ。打ち捨てられた焼きそば容器のフタが風に鳴いている。
 日暮れは濡れ縁。蚊遣りブタがくゆらす煙のゆるりとした情緒をかたわらに据え置き、左うちわですいかの種を庭に吹き出す。
 夜は自室。タオルケットでおなかだけ包んで、網戸から入るそよ風を期待する。そして、理想化された夏の過ごし方を夢想する。それは、自分の真実の記憶ではない。本当は、何をしていた?(→10



7.花火
 家族三人で見に行った花火大会を思い出す。記憶が定かではないが、その頃にはぼくたち家族は引っ越していた。住み慣れた一軒家を出て貧乏な団地に移ったのだ。小学校に上がる前のことだった。
 会場の海岸へと向かう道すがら、すさまじい人混みに息が詰まる思いだった。その人たちみんながぼくを見ているような気分になって、すっごい居たたまれなかったのを覚えてる。視線がぼく一点に集まってる感じがして、とてもこそばゆかった。浴衣姿のキレイなお姉さんまでもがぼくを見ている。そんなうぬぼれがあった。なんだかみんなぼくの事を見るために集まっているのではないかと思えるほどだった。歓声さえ聞こえる気がする。
 人の流れは川のようにうねって海へ向かう。ぼくたち家族も濁流に飲み込まれるようにして海の方へ歩いた。会場に着くとそこはまるで別世界だった。焼きそばや大判焼きやあんず飴の屋台が乱雑に立ち並び、サーカスのような雰囲気だった。サーカスがマジカルな幻想世界だとしたら、屋台は下品な異世界だ。
 そこでもぼくは他者からの視線を感じつつ、ぼく自身が見せ物になっているような錯覚を覚えつつ、花火が打ち上がるのを待った。夜の風がきもちいい。鼻をくすぐる良いにおいが漂ってくる。しょうゆ焼きのもろこしが香る。
 ガヤガヤした小うるさい活気に満ちあふれている。うるさい。いかにも落ち着かない賑やかなおしゃべりの芝居小屋のようである。発電機のモーター回転音をアンビエントな伴奏として奏でられるオペレッタみたいだ。
 ポール高くに備え付けられたスピーカーから花火大会開始のアナウンスが流れ始めた。いよいよ始まる。生まれて始めて見る打ち上げ花火だ。
 見ていると、川向こうの暗い所から、ヒョロヒョロした物が虫のように夜空をよじ登り始めた。少し遅れてポンッと音がした。
 ヒョロヒョロした物は夜空半ばで消え入ってしまった。何も起きない。なんだありゃアレが花火か。と少しあっけに取られてると……開いた。大輪の花が。何も無い黒い空からブワッと赤い光が拡散した。そして、赤から白へと変色しながら散る。チラチラときらめきながら消えていく、太陽よりも大きな花火。
「わあっ」
 子ども心に花火の美しさに感動していると、不意を突かれたように爆発音がした。ギョッとした。すごく驚いた。身体がビクンとするほどの大音量だった。腹に応える重低音。そして、バラバラとマシンガンのような音が降ってくる。すさまじい物があった。
 会場からは盛んに嘆声が漏れ、拍手が打ち鳴らされる。「たーまやー」とか呼びかけてる人も居る。これがぼくの、初めて見た花火だった。その衝撃やすさまじく、ぼくは茫然と立ちすくむしかなかった。これが花火か。
 その一発目を開始の号砲にし、次々と色とりどりの花火が打ち上げられる。ただただ圧倒された。次から次へと虫みたいな光が天空を目指す。花火たちが我先に目標地点へと急ぐ様子は、ぼくに生命のほとばしりを感じさせた。幼いぼくにはそれがなぜ生命のほとばしりに感じられたかはわからなかったが。
 花火の閃光は来場者の顔を明るく照らす。それはそれは明るく照らす。ぼんやりとした光に過ぎないのだろうが、白昼の下よりも明るくなっている気がした。表情が明るくなってるのだろう。
 ぼくは花火にほれぼれした。ただその美しさだけではなく、人を惹き付ける力に対して。さっきまでは、見知らぬ人がみなぼくを見つめているような強迫観念に囚われた。しかし今は違う。ここに居る人間は全員花火に夢中だ。痛くなるほど首を上に傾けて、花火が開くさま消えるさまにかたずを飲んでいる。もはやぼくが見せ物の主眼ではなく、花火が主役なのだ。
 花火。美しい。盛大に燃え盛っては、透明に消え去る。地上から解脱して、その途中で痛々しいほど激しい生命を謳歌して、そのまま天の世界へと昇ってしまう。子どもにも感じられた、滅びの美。一瞬の檜舞台のために身を焦がす生き様。かっこいい。そして、美しい。そして儚い。
 花火造りは危険な作業だ。慎重に慎重を重ね、一玉一玉長い時間をかけてこしらえる。完璧な配合、それだけで充分立派な工芸品。なのに、それをほんの数秒で灰にしてしまう。この瞬間美。この美学。最高の芸術だ。
 ぼくはもう、花火にすっかり心奪われた。枝垂れ柳・菊・牡丹・蜂・笛・ポカ物……。アホみたくクチをポカンと開けて、片時も花火の散り行く様を見逃さないように目もしっかり開けて、空を眺め続けた。(→



8.銀の太陽
 まぶしい。
 丸い白い発光体が目をくらませる。それは七つほどあるように思えた。ぼくは突然襲ってきた強烈な刺激に、しみる目を固く閉じた。多少目が慣れてくるまでぼくは泣き叫んだ。ようやくの事で、五分ほど経った頃だろうか、ぼくは徐々に視力を回復した。
 目の前に広がる光景は、発光体を遮るようにぼくの顔を覗き込む人間の影。薄い水色の服を着ていて、水色には点々と赤色が染みついている。逆行で表情は読めないが口元にマスクをしているのは認められる。
 景色が回転する。発光体が万華鏡のように拡散する。遠くで人の叫ぶ声がする。それはとても親しいと思える人の声。悲痛な叫びだ。ぼくに向かって呼びかけているらしい。映像にぶれを感じたその次の瞬間、叫び声は悲痛なものではなくなっていた。歓喜に満ち溢れた黄色い音。どうやらぼくを祝福しているらしい。
 わけもわからず戸惑うぼくに、巨大な手がさしのべられた。その手は優しくぼくの背中に回ると、ぼくの身体をゆっくりと持ち上げる。その手とぼくの背中とが触れると、掴む音がキュキュッとした。ぼくの身体は空中に浮遊した。巨大で、そして白い手に抱きかかえられ、ぼくは雲の中へ昇っていく。
 抱き上げた手の主が柔らかな声で言う。
「元気な男の子ですよ。触ってあげてください」
 さっきよりもやさしい心地良い感触が、ぼくのおでこにそっと触れた。それはまるで靄か何かのような繊細さでもってぼくを慈しんだ。恐怖心をあおる光の中からぬっと差しのべられた一片の闇。光の中を跋扈する悪魔からぼくを救い出してくれる、乳色をした聖母の手。この刺激に満ちた誕生。地獄から天国へとつまみ上げてくれたのだ、この手が。声にならない声がぼくに贈られる。それは感動の凝縮した音声だった。泣きそうなその声に、ぼくも泣きそうになった。嬉しいはずなのに悲しいような、なぜこんな気持ちになるのか自分には解らない。
 泣きやんだぼくは猫のように目をつむらせ、誰かの腕の中でウトウトし始めた。誰かが鼻で子守歌を歌っているのが聞こえる。毛布のようにぼくを包み、ごくゆっくりと揺り籠のように動かす。それは丁度、静かに打ち寄せるさざ波が白浜を洗うのと似ていた。ぼくはいよいよ眠くなった。(→



9.天井(その二)
 ぼくはハッとした。ふと、鳥の巣がある木を見上げた。いかにも物静かである。親鳥の姿をずっと見かけていない事に気が付いた。
「もしや──」
 嫌な予感に心を悪くしながら急いで木によじ登った。予感は的中した。そこには、だらしなく眠りこける三羽の雛が横たわっていた。いや、三個の死体が転がっていると言った方がいい。初めて雛を見た時と同じく、黒ずんだまぶたは開いていないままだ。全く成長していない。薄桃色の身体には小アリが這っている。ぼくは急に怖くなって、木から飛び降りた。
 雛にミミズを与えようとしている場面を、親鳥に見られたのかも知れない。それで、この雛たちの親は木に近付かなくなってしまったのではないか。お母さんも言っていた、一度逃げたら二度と戻ってこないと。とすると、直接的に手を下していないにしろ、ぼくが殺したも同然だ。
 実の親から見限られ、親代わりを気取ろうとした人間の子どもにはたちまちに飽きられ、弱い雛たちはかわいそうに誰からも世話をされなくなった。この世の光を見る事なく、生後まもなく飢え死にしてしまったのだ。
 ぼくは罪の意識に苛まれた。アリを踏み潰していたのは、直接的粛正だったにせよ、あくまで〝遊び〟という意識である。だが、雛に関しては思いがけない殺害だった。過失によるものにせよ、前途ある小さき生命を奪ってしまったのである。そうして、一所懸命に巣作りに励んだその親をも、不幸にしてしまったのだ。ぼくは、取り返しの付かない事をしてしまった気がした。初めて、「命」という物を意識した。
 お昼寝の時間。白い天井には雛たちの死に様がぼんやりと、ゆっくりと、浮かんできた。盲目で、裸の、赤ん坊。口からミミズを嘔吐して、泣き叫んでいる赤ん坊。それは段々と、目の潰れた人間の赤ん坊が苦しむさまに見えてきた。ぼくはたまらなくなり、目を固く閉じて布団の深くに潜った。
 夜になるとこの天井は黒々と悪夢を映像化した。昼間は陽光が斜に差すアトリエの、明るいキャンバスだった。しかし夜のとばりに覆われた今、この天井は怪奇映画を投影するスクリーンへと変貌した。
 どこからともなく影が忍び寄り、するすると天井に這い昇っていく。その影はモコモコと膨張し、なにやら人の形に溶解する。二本の角がニョッキリ生えた悪魔が姿を現した。
 悪魔がぼくを見下ろしている。鰐口をカッパリ開けてピースサインをしている。耳元まで避けたその口の中は真っ赤で、彼が笑うたびに血がポタポタと垂れてきた。ぼくの顔に冷たい感触が点々と落ちてくる。ぼくはウンウンうなされながら忌むべきこの液体を避けようとするのだが、金縛りにあったように身体が動かない。有刺鉄線でベッドにくくられたみたいだ。全身が痛み、手足が言う事を聞かない。起きあがりたいのに起きあがれず、眠りたいのに眠れない。
 いや、眠っていて悪夢を見ているのかも知れなかった。しかしこの悪夢は醒める事がない。とにかくぼくは、意識を失いたかった。失う手前までは行っていたのだ。
 けれどこの悪魔は起きろと迫ってくる。起きねばならぬという脅迫観念を植え付けてくる。立ち上がらねば大変な事になるぞと嘲笑する。
 ぼくを見下すな。ぼくはただ、寝たいんだ。楽になりたいんだ。起きあがりたくなんてない。お願いだから眠らせてくれ……。(→19



10.浮遊
 ──深夜。ぼくは夢を見た。鳥がぼくを見下ろしてこう言ったんだ。
「おまえはなぜ飛べない? こんな簡単なことが、なぜできない?」
 それはたしかに簡単そうだった。でも、ぼくは飛べなかった。
 うらやましそうに鳥を見上げていると、とつぜん銃声が聞こえた。鳥が落ちてきた。ケガはなさそうだったが、ごじまんの翼に穴が開いていた。
 鳥はヒザをまげてちからをこめ、地面を蹴って羽ばたいた。だけど、飛べなくなっていた。何度試してみても、ふたたび大空を飛ぶことはできなかった。
「なぜ飛べない? あんな簡単だったことが、なぜできなくなっている?」
 鳥の表情は、見てる方まで不幸になるほど悲しかった。
 ──夜明け。目が覚めた。自分は飛べなくて良かった。あんな不幸を味わうくらいなら、最初から飛べない方がいい。ふとんの中で、泣いた。
 裸足の王者アベベは、車いすに座った時、どんな気持ちだったろう。言語学の父ソシュールは、沈黙している時、どんな気持ちだったろう。ギターの神様クラプトンは、ヘロイン中毒の時、どんな気持ちだったろう。魔女の宅急便キキは、空を飛べなくなった時、どんな気持ちだったろう。
 ぼくは一体何者なんだろう? ぼくは何になれるのだろう? ぼくが持っている可能性って? ぼくには他人に誇れる才能があるの?
 ぼくは本当に人から愛される価値のある人間なのだろうか? ぼくがいなくなって困る人っているのかな? あなたは、ぼくを、必要としてくれる……?
 たとえウソでもいい。必要だと言ってくれるなら教えてほしい。ぼくの存在価値って、何?
 ぼくが死んでも地球の回転は止まらない。なんてさみしいんだろう。
 ──朝。干潟は干上がっていた。ボランティア活動とおぼしき人たちが、普段は立入禁止の場所へ下りて掃除をしている。
 鳥の声が聞こえた。
「おい、何をしてる俺たちの寝床で?」
 鳥は不安を感じている。もしや、鳥が住めない環境にされるのではないか、と。そのまま静かにたたずんで人間たちを見守っていたが、やがて気が付いて目をクリッとさせた。
「彼らはしているのだ掃除を。この干潟の。人工物で埋められた地上に、ポツリと用意された干潟の。俺たちのためにこしらえられた休息の水場だ。ありがとう、掃除してくれてありがとう」
 ごめん。人間が湾岸を開発したから、きみたちの休憩場はそれだけになってしまったんだ。きみたちはそれを知らない。すまない。
 ──昼。黒澤明の『七人の侍』を観た。農村を襲おうとする野武士の群れ、野武士から農民を守ろうとする侍。
 映画の中盤。村を偵察しに来た野武士が、侍たちによって捕縛された。農民たちは逆上し、野武士を殺そうとする。
 リーダー格の侍が必死になだめ、「この者は一切合切白状して命乞いをしているのだ」と場を制そうとするが、農民たちの興奮は収まらない。かつて野武士に家族を殺された恨みがあるからだ。
 と、群衆は急に静まり返る。不審に思った侍が背後を振り返ると、そこには老女の姿が。身体のききにくい独り身のオババが、クワを手にしてヨロヨロやって来たのである。
「息子のかたき討たせるだ!」
 村の若い衆がオババに手を貸す。オババは手伝ってもらい、クワを振り上げる。侍たちは、うつむき、押し黙る。野武士の頭上に加えられる一撃。
 捕虜の保護を唱える侍たちは、野武士から暴虐を受けたことがない。
 ──黄昏。今日もまた自爆テロのニュースだ。梅雨時の「あしたは雨」同様、またかという感じで、慣れてしまった。しかし不愉快には違いない。
 世界は新しい局面を迎えている。
 個人主義の増長。ぼくの親や先生は、個性を伸ばせとむやみに叫ぶ。自由を履き違えて勝手がまかり通っている。
 掟破りのテロ。そして、掟を破らせた迫害。世界はまとまるどころか、それぞれ分裂し、離ればなれに放射していく。収縮力を失い、宇宙空間でバラバラになる細胞。
 ──宵。きみからの連絡を待っている。早く来ないかな。来るはずは、ないのに。
 ぼくには世界を変えられない。ぼくから離れていくみんなを引き留める事は出来ない。だからぼくは追うんだ。きみを。ひとつになりたい。剥離する事のない、強固な関係が欲しい。他のみんなが宇宙に飛んでいってしまっても、君とぼく、ふたりいつまでも地球に足をふんばってとどまるんだよ。
 ──晩。部屋の灯りを消し、ヒザを抱えて座っていると、翼に開いた穴に、羽が生えてきた。窓から身を乗り出す。月光に明るく照らされた世界。翼を広げ、飛び立つ。
 飛べなくなるのはこわい。でも、今は飛べる。飛べなくなった時のことなんて、考えたくない。今のうちに、きみのもとへ行くよ。(→14



11.金色の宵
 暑い夏だった。
 空は青く、高かった。カンカン照りの太陽に照らされた町は、まぶしく光っていた。家々の屋根が、ひとつひとつ、ギラギラと輝いていた。夏の日差しは町全体に行き渡り、隅々まで届いていた。
 町の背後、ゆるやかに隆起する小山は、鬱蒼と茂った森に覆われていた。強い陽光に曝された世界で、こんもりと盛り上がったそこだけが黒い。太陽の干渉を見事に撥ねつけていた。
 森の中には小さな神社がある。木々に天を覆われた、冷涼たる空間。少年たちはそこに居た。
「もーいーかぃ」
「まーだだよ」
 セミの声がすさまじい。まるで森全体を天ぷらにしている真っ最中なのではないかと思えるほどの大音声だ。森の中は日陰だから涼しいが、外は大変な暑さなのだろうな。
 夏休みにこのメンバーで集まるのは初めて。普段は学校の休み時間を一緒に過ごすメンバーだけど。
 夏休みがもう終わる。
「もーいーかぃ」
「まーだだよ」
 ジャンケンで負けて鬼になったよっちゃんを狭い境内に残し、ぼくたちは森に散る。ぼくは崖の近く、町を見渡せる場所にひそむ。
「もーいーかぃ」
 よっちゃんの張り上げた声は、消え入るほど小さくなっている。
「まーだだよ」
 よっちゃんの声よりもさらに遠い声で誰かが返事をする。──ぼくは黙っている。声を出せば居場所がわかってしまうから。
「もーいーかぃ」
「……」
 ついに誰も返事をしなくなる。ぼくは大きくひとつ息を吐き、おとなしく木の幹に寄り掛かって座る。木の葉がなく、眺望のひらけたこの場所で、町を見下ろす。
 決して大きくはないこの町。大好きだ。色とりどりの屋根。町役場。通学路。本町通り。ぼくたちは放課後、あの辺りを一緒に歩く。
 太陽は町や道その他天下にあることごとくに光を塗りたくる。余った光は反射して、また別の場所をまぶしく塗る。その別の場所を塗ってなおも余力があれば光は反射する。──日の光は自らの身を各所にこそぎ落としつつ、縦横無尽の跳ねっ返りを続ける。そうして徐々に薄められた日の光が、ぼくの眼下からこの森の中に滑り込んでくる。下から上に向けて光を放つ太陽。
 はるか向こうの低山の上、山より高く入道雲がそびえている。まるで絵本に描かれた雪山のようだ。凍てつくような白さで、陰になっている部分の灰色は寒々しい。そうして少しも動かない。手の届かない彼方にどっしりと存在している。とてつもない標高。見ているだけですがすがしい気分になる。
 あの雲に登れたらな、なんて妄想してみる。きっと爽快だろう。ズブズブと足がのめり込むほど柔らかくて、中はシャリシャリで、ひんやりと冷たい。妄想は深まる。ああ、あの遠い雪山の頂上で、登山隊の幻がテントを設営している。巨大な峰。無性にかき氷が食べたくなる。かくれんぼが終わったらもう一度みんなで駄菓子屋に行こう。
 あいかわらずセミの声がすさまじい。夏の終わりの到来を恐れ、刹那を懸命に生き抜こうとする声。陽気に思えるその歌声は、裏返せば悲愴だ。
 ぼくはかくれんぼに参加していることも忘れ、不快ではないさみしさに心ゆだねてしんみりとする。
 セミの一生について考えをめぐらせる。セミの命は短い。って、本当だろうか。ぼくは問う。セミの命は短いって本当だろうか。ぼくの心の中の、友だちの像が、それぞれ意見を述べる。
 よっちゃんが言う。本当だ、と。青原が言う。たった一週間で死ぬから、と。その青原にササが反論する。幼虫は土の中で数年間を過ごすんだよと。ミッケが青原を援護する。暗い土の中で何年も耐え忍ぶなんてかわいそう、と。ユカピーがミッケに同意する。ようやく明るい地上に出られたと思ったのに一週間で死んじゃうなんて……やっぱりかわいそう、と。立場の無いササはドギマギしながら黙りこくる。
 セミの一生は忍従の一生か。ぼくは違うと思う。地中で暮らす生活は、人間の価値観からすれば悲惨かも知れないが、セミにとっては案外快適かも知れない。
 それに、彼らの最期の一週間は、どれくらい光に満ち溢れているだろう。この、夏という季節。すばらしい季節! 清少納言が讃えた時刻にセミたちはハレの舞台に登場、瞬時に大人へと変身する。古い自分を脱ぎ捨てると舞台には巨大な照明が点灯する。地上に向けて放物線を描く小便がキラキラと輝く。初めて日の目を見るセミたちの処女飛行。
 どこがかわいそうなものか。ヤツら、キラキラとまばゆい幸せに包まれて、傍若無人に贅沢の限りを尽くす。飛び、歌い、恋をする。あれだけ充実した日々を一週間も満喫して、何がかわいそうなものか。──短命? 仮に短命だとしても、夭折上等、一生のうちで最も輝かしい時代に死ねる。零落を知らず絶頂期で世を辞す、その生き方は多くの芸術家の理想とするところではないか。うらやましい。ああセミがうらやましい。彼らの最期は、贅を尽くした絢爛たる一週間だ。
 夏休みはいつまでも続かない。しかし人生は続く。ぼくたちはセミのようには成れない。夏が終わっても日々を過ごしていかなければならない。人生の夏休みが終わり、人生の晩秋が始まっても、容易に死ねない。消費していかなければならない……セミの、まばゆく輝く最期の一週間とは比べ物にならない、暗く濁った千週間を!
 俺は、光に満ちた時代に、光に満ちた景色を見ながら、子どもらしくもない、そんなことを考えていた。
 そのままの状態でどれくらい経ったろう。不意にガサッと草の鳴る音がする。
 ぼくは驚いて後ろを振り返る。目と口をぶざまに開けて。
 相手も驚いたらしく、ぼくの姿を認めて身体をビクッとさせる。
「ゼンくん」
「ユカピーかぁ」
 よっちゃんではなかった。ユカピーだった。ユカピー、俺の……。
「どうしたの?」
「よっちゃんが近づいてくるのが見えたから、逃げてきた」
「え、どこ。どこに隠れてたの」
「道祖神の近く」
「あ、あそこか」
「もうすぐこっちにも来るかもよ」
「え、マジで」
「逃げよ」
 ユカピーは飴のような目でぼくの顔を見てから忍び足で歩き出す。ぼくもユカピーのあとに続く。
 ユカピーのすぐ後ろを、ユカピーの背中を見ながら歩く。その背中にふとした違和感があり、直後、ハッと気が付く。Tシャツの下に透けて見える、ヒモ。ぼくは目をそらせる。顔が熱い。
 ユカピーのかかとを見ながら、何も言わず、歩く。ぼくはユカピーの小さな、しかし大きな変化に、きっと、とまどっていたに違いない。一方のユカピーも何も言わない。どうも緊張しているようにも思える。見られるのが恥ずかしいような、不愉快なような、そんな風な背中。
 ユカピーはどんどん歩いていく。ぼくも同じ歩調で続く。ふたりは一言も発しない。声を出せばよっちゃんに見つかってしまうかも知れない、という理由もあっただろうが、あきらかにふたりはお互いを意識し合っている。ぼくは、ユカピーの背中が見れなくて、どこに連れて行かれるかも知らず、ずっと下を向いたまま後についていく。
 ユカピーはやがて立ち止まり振り返る。ぼくも顔を上げる。そこはかくれんぼのスタート地点、神社のお社だ。
「座ろ」
 ユカピーは大胆にもお社の階段に腰掛ける。どうやら隠れる気が全く無いらしい。ぼくは人ひとり分スペースをあけてユカピーの隣に座る。ひさしぶりに話しかける。そう、ひさしぶり。歩いていたのは数十秒だが、ぼくにはその沈黙の期間がとてつもなく長く感じられたのだ。
「かくれんぼ、飽きた?」
 ぼくの方を見ずにユカピーは答える。
「ううん。でも、よっちゃんみんな見つけられないよ。かくれんぼだけで一日終わっちゃうのなんだかもったいない」
「そうだよね」
 これ以上、特に話は弾まない。
「みんな早く戻ってこないかな」
「うん」
 それ以上、特に話は弾まない。
「……」
「……」
 ユカピーはぼくのことが好きかも知れない。わからないけど。
 ぼくもユカピーのことが好きかも知れない。わからないけど。
 たぶん、ぼくとユカピーは、お互いに、好きだったと思う。でも、ぼくはそれを隠したがる。その感情を否定する。ユカピーもそうだろう。認めようとしない。自分の気持ちにすなおにならない。バカだ。ぼくたちはバカだ。ていうか子どもはバカだ。バカ? それともまじめなのか。クソまじめなのかも知れない。とにかく損してる。ぼくたち子どもはセミのように鳴かない。鳴こうが鳴くまいが、夏は終わってしまうのに。鳴かないうちに季節が変わってしまい、季節が変わってから初めて鳴く。冬になってから夏の終わりを嘆く。俺たちはあの時、何も話さなかった。
 そこへタイミング良くよっちゃんが現れ、意外そうな顔でぼくたちを見つける。ぼくたちはクスクス笑い、よっちゃんがどういう反応をするのか見守る。
「ゼンとユカピー見っけ。って、あれ? なんだよ隠れる気ないじゃんよー」
 よっちゃんは結局誰も捕まえられなかったらしい。
 ぼくたち三人は大声でみんなを呼ぶ。青原・ササ・ミッケ・アイちゃんがそれぞれ茂みからのそのそ出てくる。再会を果たしたぼくたちは笑う。嬉しそうに、実に楽しげに。そうしてみんなお社の階段に座る。一段目に男子三人。最上段にぼくとユカピー、そこに女子二人が加わる。ユカピーはおしりをずらしてぼくの方に詰める。肩が触れる。
 ぼくたち七人は他愛もない話をする。
 宿題の自由研究の話。学期初めの席替えの話。青原が私立中学を受験するという話。夏休みにどこに行ったか。などなど。その他、このメンバーでいつか海に行きたいね、なんて。
 直射日光を遮断する木の葉のドーム、緑色が目に濃厚だ。ぼくたちは穏やかな時を過ごす。アキばあちゃんの店にかき氷を食べに行くのも何だかもったいない気がしてくる。ここでこうしているのが、今一番幸せ。
 夏が大好きだ。あと何回、この季節を愛でられるだろうか。この太陽を拝めるのだろうか。大人になっても、この素晴らしい気持ちになれるだろうか?
「このままこの時間が永久に続けばいいのに……」
「本当に、そうだね」
 このメンバーで、この場所で、この季節に会うのは、おそらくこの夏が最期だろう。最期であると、なんとなくわかっていながら、誰もそれを言葉には出さない。また逆に、「いつまでも友だちだ」とか「いつでも会えるじゃん」なんていう気休めも言わない。みんな、子どもながらに感じ取っている。この夏が終われば掛け替えのない人生の一季節も終わることを。
 セミの声が、やむ。
 トンボが目の前を横切る。
 この夏は、今日、終わる。
 学校が始まれば毎日顔を合わせるようになるが、今日という日は、今日しかない。替えが利かない。来年の今日にも同じような幸福が味わえる保証は、全くない。
 みんな、黙る。刻一刻と今日が終わっていく切なさを、それぞれの胸の内に抱いて。
 世界は金色に輝き始める。盛夏に比べるとだいぶ日も短くなっている。だがそれでも、黄昏には早すぎる。まだまだ、今日は終わらない。今日は終わらない……。
 すると突然、電子音が鳴った。
 ササの腕時計のアラームだった。
 ササは気まずそうな顔をしながら腕時計を見やり、申し訳なさそうに、つぶやくように言った。
「そろそろ帰らなきゃ……」
 ぼくたちは現実世界に戻された。それはあまりにも唐突だった。あっけなく、夏は終わってしまった。
 俺は今でもササと交友があるが、今でもあの時のササを少しだけ恨んでいる。(→13



12.ゴーファ27の奇怪な世界opus2
 ゴーファ27の右後部には一軒の時計屋がある。浮遊する球体の棚にカラフルな腕時計を張り巡らせたディスプレイ。
 店の主人は野暮ったい古書色のエプロンを首からぶら下げてお客さんに商品説明をする。
「様々な時間を取り揃えております。0時00分・0時01分・0時02分……」
 店主ご自慢の手作り時計。時を刻まない腕時計たち。
「7時28分・7時29分・7時30分……」
 店主は空中静止する球体の棚を回転させながらひとつひとつの時計の針を読む。悠長に、丁寧に、ひとつひとつ。まるで時間など気にしないように。
「13時11分・13時12分・13時13分……。あれ、13時13分……」
 店主は不思議そうに球体の棚を撫で回しながら残念そうに笑う。
「おそれいります。13時13分はさきほど売れてしまいましたね」
 さて、赤ベコのようなポッピーズが店の天井から降ってきた。お客さんである。
「いらっしゃいませ」
「ずっとこのままなら、いいのに。最高に幸せな今この瞬間が、永遠に続けばいいのに……」
「お客様のご所望の時間は18時49分ですね」
 店主は棚から鰯雲色の腕時計を取り外す。短針が34・長針が49を指した、腕時計。
「この時計は、決して進まず、遅れません」
「おいくら」
「五ヴァドレーです」
「いただきましょう」
「これで、あなたの時間は止まります。ゴーファ27の時の流れは堰き止められます」
「脳が溶けていく感覚。脳漿が耳からポタポタ垂れていく感覚……」
 赤ベコな客は腕時計を何度も見る。見飽きると、見るのをしばらくやめる。忘れかけた頃に、また見る。時計の針は元の位置にお行儀良く並んでいる。
「ほんとうだ。18時49分のまま」
「喜んでいただけて光栄です」
 時を刻まない腕時計たち。故障しているわけではなく、そういう仕様なのだ。
 時間は目に見えない……特殊な染色液を用いなければ。時を刻む、普通の時計……それは時間を可視状態に変換する水晶玉ではなく、規則的な運動を繰り返すだけの単なる機械。
 しかしこの時計は違う。この時計の周りでは、時が停止している。凍りついているのだ。時が渓流のように流れていれば、この針はまるで水車のように動くのだが、この腕時計の魔法力は、時間という名の河川を不動の氷塊に閉ざす。
「ありがとう、ミスター・ウォッチメイカー」
 ゴーファ27の中に住んでいて、かなわない願いはない。(→15



13.霧立ちこめる森の深い所で
 霧立ちこめる森の深い所で。顔を涼しく湿らす朝靄に包まれて。
 鬱蒼と天空を領する木の葉。一枚一枚の葉っぱが織り成す深緑色のドーム。上等の反物で果物をくるんだような空気、森の中に充填した神秘の闇を新鮮なまま封じ込めている。
 数条の木洩れ陽。産まれたばかりの今日の白い光線。キラキラと動く事もなく、まるで光る斜塔のように、音もなく地面に突き刺さっている。
 地面に敷き詰められた落ち葉は若々しく、ぼくが優しく足を踏み出すたびに青い香気を吹き放つ。やわらかい感触が土踏まずに吸い付き、カサリとささやく葉音が耳を愉しませる。──朝日の柱と植物の柱が無秩序に立ち並び,親切な妖精の絨毯が敷き詰められた講堂、その静寂の中をぼくは一人歩いている。
 ぼくはどうしてここにいるんだろ。一人である事の気らくさ・独りである事のさみしさ、それに付随する光悦・至福・疎外感・絶望感。……ああ、澄んだ森の息吹に包まれているとそんな感情も湧いてこない。森と同化して透明な涼気に融けた気分だ。透き通ったぼく、無温度で穏やかな植物の心が淀みなく流れ込んでくる。
 ほのかに明るさを加えていく霧に朝の訪れを感じて起床した鳥たち。彼女たちの繊細な囀りが、遠くでチチと鳴っている。王子にはじらう乙女があくびを手で隠すような、森の住人達に遠慮する繊細な声。
 木の幹と幹と幹と幹と幹と幹と幹と幹、張り巡らされる枝枝枝枝。美しく視界を遮る壁画、その一部をエメラルドのカッターで切り取ったような不定形の窓。窓から見える向こうには、明るく照らされた土地が音のない神聖な音楽を奏でている。聖地に向かい、傾きを感じられないほどにとてもゆるやかな坂道を行く。
 やがて、天上に塗り込まれた木々は徐々に開けて行き、弱々しかった太陽は光を強めていく。
 木々は完全に空から立ち退いた。吸い込まれそうな、見上げていると落っこちてしまいそうな青い空。端の方にひとつだけ浮いている雲は、パチンとはじけたまま固まったような、そんなかわいい形をしている。
 泉だ。土が水に場所を譲り、天からの恵みが燦々と降り注ぐ湖面。ああ、なんて美しいんだろう。木々に囲まれた鏡。水べりの木々を完全に模写し、なおかつ水底の隆起をまざまざと提示する、一枚板のガラスのような水面。風もなく、光さえも動かない空間に、しんとして動揺のない泉よ。月桂冠を頂いた女神が浮かび上がってきそうな、そんな神秘的な場所。(→



14.霧と影
 霧の濃い夜。肌にひんやりとした冷気が心地良い。カワイイくさみをひとつして、鼻の頭を人差し指でこする。湿気がじっとりと身体を包む。
 高速道路のいくつかは通行止めとなっているようだ。百メートル先でほのかに赤く光っている物が、テールランプかヘッドランプかはたまた赤信号かもわからないほどの霧。
 ぼくのこぐ自転車は人の気配が無い湖畔を走行した。湖上には巨大な霧が浮遊し、光線の放射を遮っている。いつも見える景色──それは例えば湖の遙か向こうに見えるビルだったり、湖上を通過する電車だったり──は、全て朦朧としてその存在を希薄にしている。
 湖畔の岸べりに沿った道を行くぼくは、そこで巨大な影を見た。それは湖の上へと幽霊のように現出し、ボウと伸びて消えた。それが何度も現れては消える。ぼくは顔に露結した水滴を服の袖口で拭いつつ、脇の下にじんわりとした冷や汗を感じた。
 湖を右手にして走るぼくの背後からそれは迫り、ぼくの真横に追いつくと一際大きく膨らみ、ぼくを追い抜くとガスのように霧散していった。
 やがてぼくはその正体を知る。ぼくの走行する道の左側にはライトが等間隔に設置されている。そのライトに照らされた、ぼくの影なのだ。つまり、霧があまりに濃密すぎて、あたかも固体のように光を照り返しているのだった。
 なんと神秘的な光景だろう。霧に自分の姿が大判伸ばしで投影される。このような現象はめったに体験できるものではない。
 右背後からぼくを追い抜いていく、ぼくの影。ぼくの視座をコーティングし、世界全体を朧気にする霧。それらが織りなす幻想的なフェナキスティスコープ。ぼくはぼくの影に追われ、ぼくの記憶の中のぼくに責め立てられる。(→



15.さよなら青原
 その日、三月一日は、小学校の卒業式だった。
 父兄や在校生の見守る中、式典は体育館でおこなわれた。校長先生から卒業証書をうやうやしく受け取った時、何かが終わった気がした。
 教室に戻ってきた。証書をおさめる筒と卒業アルバムが担任の有野先生から配られた。それから、みんなで泣いた。先生も泣いた。
 卒業アルバムの白ページにメッセージを書き合ったり、記念撮影をしたり、各人が別れを惜しんだ。涙でグショグショの顔が白い歯をのぞかせて笑う、幸せな時間だった。
「このクラスは最高だった。おまえらの事、絶対わすれないから!」
 ガキ大将の鶴くんが叫んだ。同じ気持ちだった。このクラスは最高だった。みんなと同じクラスで良かった。みんな鶴くんの一言でまた泣いてしまった。鶴くん本人も泣いた。もちろんぼくも泣いた。
 給食は配膳されない日なので、お昼ごろには下校の時間になった。ひとり、またひとりと帰っていった。
「ゼン、中学校でもよろしくな」
「同じクラスになれるといいな」
 ひとり、またひとりと帰っていった。
「青原。今までありがとう、楽しかった」
「春休み、卒業旅行でな」
 ひとり、またひとり……。
「あんまり遅くまで残ってちゃだめだよ」
 有野先生も教室を出て行った。最後にはぼくと青原が残った。
「終わっちゃった……ね」
「うん。卒業だ。ふりかえってみると、あっとゆーまの六年間だったな」
 青原とは一年生の時から同じクラスだった。入学式からずっといっしょだった。うまれてはじめての親友だった。
 遠足に行けば同じ班になり、水泳の時間はペアを組み、林間学校へ行けば同じグループになり、修学旅行へ行けば同じ部屋になった。いつもいっしょだった。
 休み時間になれば外へ飛び出し、放課後になれば家へお邪魔し、机がとなりだったら授業中もノートにらくがきをして遊んだ(よく怒られた)。いつもいっしょだった。
「俺の事、忘れるなよ」
「忘れるもんか。おまえこそ忘れんなよ」
 青原の目から涙が出てきたのが見えた。ぼくの頬にも水が線を引くのが感じられた。ぼくたちは抱き合って大声で号泣した。
 青原は、ちがう中学へ上がる。
 私立中学へ通う事になった彼は、ぼくたちの入学する市立中学には来ない。小学校でお別れだった。親友との別れ、それは痛むほどに悲しかった。
「引っ越すわけじゃないんだ。会おうと思えばすぐに会えるさ」
 青原は服の袖で乱暴に目をこすりながら笑って見せた。
「そうだな。ちょくちょく遊ぼうな。絶対だぞ」
「ああ」
 と、腹がグーと鳴った。おながすいてきた。「そろそろ帰ろうか」と顔を見合わせた。
「じゃあ」
「さよならは言わない。またな、ゼン」
 ガッチリと握手して、校門で左右に分かれた。お互いの姿が見えなくなるまで手を振り合いながら。
 中学生になった。制服は学ランだった。身の引き締まる想いだった。
 級友の大半は他の小学校出身で、知らない顔ばかりだった。友だちができるかどうか不安だった。が、すぐにいろんな人と仲良くなった。
 入学して最初の日曜日、青原と会った。
「中学どう?」
「けっこう友だちできたよ」
「俺も俺も」
「でも、おまえみたいなやつは現れないだろうな」
「同感だ。俺もおまえが生涯最高の友だと思う」
 バスケ部に入部すると交友関係はさらに広がった。親友も出来た。毎日毎日練習に汗を流し、部活帰りには駄菓子屋でジュースを買って飲んだ。
 三十メートルダッシュ十本に、ジョグ、ドリブル・パス・フリースロー・リバウンド・ディフェンス。いろんな練習をした。苦楽をともにする喜びがそこにはあった。
 教科ごとに教師が異なる授業も新鮮だった。英語や数学や古典、小学校にはなかった科目はぼくに好奇心を与えた。楽しかった。ぼくは部活と同じくらい勉強も頑張った。女子と宿題のノートを見せ合ったりした。恋も実った。
 そんな暮らしの中、次第に青原の事は忘れていった。会う回数が減っていった。中学二年になるころには、連絡を取り合う事もなくなってしまった。
 二年の春休み、朝練へ行く途中に、ブレザー姿の青原とバッタリ会った。ほぼ一年半ぶりの再会だった。
「ひさしぶり」
「元気だった?」
「あ、うん。何してんの」
「部活へ行く途中」
「そっか。俺も」
「じゃあ」
「うん。また」
 会話はそれで終わった。かつての親友は、ただの旧友になっていた。残酷な〝時間〟が、ふたりの間の距離を徐々に隔て、見えない壁を築き上げていた。
 今、ぼくには新たな親友がいる。青原にもいるだろう。
 卒業式での握手を思い出し、苦々しく思った。悲しくなった。その悲しみは卒業式での直截な悲しみではなく、よくわからない悲しみだった。
「別れ……。二度目の、別れ……」
 青原も同じ気持ちだったにちがいない。さよなら、青原。(→17



16.三つの穴
 ライオン・ブリキ男・カカシの身体にはそれぞれ穴が空いている。
 ライオンには、腹にカエル形の穴が空いている。ニッコリと笑っていたカエルが逃げ出した。しかしこの穴は埋める事が出来る。井戸でカエルを捕まえて来れば。ヒキガエルだろうとイボガエルだろうと構わない。
 ブリキ男には、胸に球のような穴が空いている。ぽっかりと空いて、向こうが見える。野球の硬球かテニスボールを突っ込めばいいんだろう。だけど、手元には無い。もう無い。
 カカシには、頭にグチャグチャの穴が空いている。これはどう埋めていいかわからない。ワラを詰め込めばいいのか。卒業証書を授与すればいいのか。その答えを知っているのはオズだけだ。(→18



17.覚醒
 さみしい。昼下がりにいつのまにかウトウトと眠り込んでしまって夕方にふと目が醒めると窓の外はすでに紫色の雲が峰の裾をほの赤く染め上げている薄暮で、そんな時にはなんだか自分一人だけが世界に取り残されてしまったような気持ちになる。
 少し開いた窓からは風が空気を静かに振動させる音しか聞こえない。みんな、いるのか。俺を置いて違う世界に移動しちゃったんじゃないのか。
 寝起きで鈍く痛む頭をボーッとさせながら、たまらなくさみしい思いに泣きたくなる。
 掛け布団の上に横たわっていた俺は昼の終わりに少し震えながら改めて布団の中に潜り込んだ。あたたかい。かすかに人の体温でぬくもっている。しかしそれは自分の背中が温めたものだ、他人による温度ではない。それに気付く時、俺はまたやるせない孤独感に襲われ身をギュッと縮めて涙ぐむ。
 ああ、お母さん……。せっかくサッカーの相手をしてくれたのに、俺はなんて態度を取っていたのだろう。本当は、もっと遊んでほしかったのに、なぜ邪険に扱ってしまったのだろう……。古いアルバムの中で写真がセピア色に変色していく。ネガは現存せず、取り返しはつかない。記憶の中で色褪せていくユカピー、青原、エト。色が落ち、形が曖昧となっていく大事な人たち。少年時代を忘れるというのは、思い出の中の友人たちを殺すことだ。俺の頭の中だけに住んでいる人々を残酷に忘却の彼方へと葬り去ることだ。
 少年時代が頻りに思い出される。発作的に故郷へ帰りたくなった。(→21



18.鈍色の昼
 俺のかよった小学校は海岸から百メートルほどの位置に建っていた。生徒数は千人。四階建ての校舎が三棟、軒を列ねていた。グラウンドの隅には浜から吹き寄せられた砂が積もっていて、そこに昼顔が咲いたり、カニが遊びに来たりした。
 屋上からはキラキラと光る海が見渡せた。夏になると白い入道雲の下をちっちゃなタンカーがのろのろ進む様子が見て取れた。昼休みにその景色をボーッと眺めるのが好きだった。
 陸の方角には車の通りが少ない一筋の道路と、東西を繋ぐ幹線道路の高架橋、こどもたちが道草を食う空き地ばかり広がっていた。都会的な雑踏とは無縁の場所だった。
 小学校は俺が卒業してからすぐに廃校になった。俺が十二歳の時だから、もう二十年も前の事になる。市が計画した区画整備によって工業地帯になるとか、担任の教師から説明された。その通り、今ではかつての空き地に工場が乱立している。煙突や銀色の巨大な土管がのたくっている。
 懐かしい少年時代の土地に、俺は帰ってきた。何か重大な忘れ物、もしくは失われた記憶、あるいは秘められた罪悪感かも知れない何かを探しに。それが何かは解らない。解らないまま、不意に襲ってきた不安と焦燥に焚き付けられ、こうして帰ってきた。
 電車を降り、駅から十五分ほど歩くと、かつて俺が住んでいた団地が見えてくる。昔とそれほど変わりはない。当時から古びていた白壁は今も立派に黄ばんでいる。壁の表皮は崩れていないので、さすがに何度か塗り替えをしたんだろう。
 この色あせた汚い壁と、壁を這う血合い色の雨樋。どす黒く錆びた鉄輪。それは貧しかった少年時代を思い出させるのに充分だった。
 俺は虫を払い退けるように顔を背け、団地の脇を通過した。ここから先は懐かしい通学路となる。
 通学路の道すがらには一軒の洋館があった。よく覚えている。
 煉瓦造りの壁一面にツタがからんでいる。ツタの合間には整然とした白い窓。ツタは主人の無精からのさばっているのではなく、デコレーションとしてその家を飾っているのだ。
 ゴシック調の鉄柵から窺える庭は眩しいほど青い緑色。芝生の所々に赤や黄の草花が植わっていて、点々と彩りを加えている。花壇にもこれまた見事なチューリップ・ヒヤシンスなどが咲き誇っている。小さいながらも澄んだ水をたたえた池のほとりには真っ白な裸婦像が鎮座し、真っ白いテーブルと二脚のイスが設置されている。初夏の夜更けにワインでも口にしながら満天の星空を眺めるのだろう。
 一年中手入れの行き届いたこの庭は、美しさを保ちながら季節ごとの風景を刻々と描き出している。夏には元気なヒマワリが太陽に向かって背筋を伸ばす。秋には広葉樹が寂びたオレンジ色を秋風にたなびかせる。しかし何と言っても春のうららかな日差しに映えるグリーンは筆舌に尽くしがたい物があった。それは、「満足」という語の具現化したものだった。
 ここの奥さんはよほど熱心な花好きと見える。ご主人には安定した収入があったのだろう。幸せな家庭、それ無くして美しい庭は存在し得ない。
 しかし今、その庭は、もはや美しくなかった。洋館の煉瓦は変わらずに古雅の趣を漂わせていたが、それ以外の事象は全くもって荒廃していた。ツタは窓枠にまでこびりつき、もはやガラスも見えにくい。何年も開けられていないのだろう。庭の芝生はすさみ、雑草が増長している。花はことごとく枯れていて姿が見えない。池の水は涸れ、傍らの裸婦像は黄色く変色している。同じく黄色く汚れたテーブルの上にはコーラの空き缶が潰れている。かつて繁栄を極めていただけに、現状はあまりにも惨すぎる。庭の手入れをしていた奥さんが病気になったのだろうか。ご主人が事業に失敗したのだろうか。どうあれ、今のこの庭に「家庭円満」はない。
 俺は時の流れの残酷さにゾッとしながら洋館の前を通過した。
 そこからしばらく行くと、友人のエトが住んでいた土地に差し掛かった。ここには畑があった。根菜を植えていたかと記憶する。商売としてではなく、おばあちゃんが趣味で園芸をしていたらしい。かたわらには犬小屋があり、「ロッキー」という名の犬が寝そべっていた。
 その畑で、俺と友人のエトはよく遊んだ。キャッチボールをしている所を見付かると、おばあちゃんに怒られた。当然である。傍若無人に畑を踏み荒らす悪ガキども、迷惑に違いない。ハハ、今となっては良い思い出だ。
 現在、そこにはもう、キャッチボールをして遊ぶ俺たちの姿は無い。昔慣れ親しんだ風景は、風に吹かれる砂のように、消えてしまった。
 エトはもう、この世にはいない。畑を守るおばあちゃんも亡くなった。ロッキーはエトよりも先に死んでしまっている。そして、「子ども」の俺も、もういない。
 二度と帰って来ないあの景色。
 夕焼けの光線が空気をオレンジ色に染める放課後。畑のわきで、黙々と汗を流しながら、しかし楽しそうに笑いながら遊ぶ俺とエト。その様子を監視(と、言った方が良いだろう)するおばあちゃん。我関せずとばかりに寝そべるロッキー。あの幸せな景色は、もう二度と、見られない。
 畑は潰されて、今はアパートが建っていた。
 時間は未来へと放射して行き、過去へと逆行はしてくれない。その事実を突きつけられる時、人はみな、たまらなくさびしくなるのだ。
 そこからまた五分ほど南下すると、油臭い潮の香りが漂ってきた。民家は消え、街路樹が屏風のように立ち並ぶ産業道路が視界を開いた。
 それはとても淋しい絵画だった。
 画板の上半分ほどは切り取られ、ごく薄い水色で配色が成されている。その下には道幅の広い産業道路がアスファルト色の台形を象っており、台形の周りには無機質な工場がひとつ・ふたつと陣取っている。中央右の隅に球形の巨大なガスタンクがひっそりと据えられ、鶯色のサッカーボールに見えた。
 この絵画の主役は道路だ。しかし、この道路もなんて切ないんだろう。断続的な白い車線は徐々に小さくなっていき、しまいには見えなくなっている。動く物は無い。ただ幾何学的な直線を構成しているだけだ。どんな画家にだって、こんな絶望的な抽象画は描けまい。
 その道路の先にポツリと見える小石のようなもの。それが俺の母校だ。
 全く音の無い世界だった。海の音がかすかに耳をくすぐるし、工場の騒音も多少はうるさかったに違いない。しかし、それらの音はもはや音ではなかった。寂寥感を煽る〝静〟に他ならない。生き生きとした動きのある事を伝えないばかりか、時間が止まっているような錯覚さえ引き起こす。耳栓をしたってこんなに静かな世界を得る事は出来ない。
 俺は独り、学校に向かって歩いた。まさに独りだった。世界でたったひとりぼっちの気分。人の気配や動物の息吹を感じる事は出来なかった。どこを見渡しても、無駄の無い抽象画だった。無駄の無い、つまり機械的な、生命の宿らない空間。
 校門にたどり着いた。ボロボロに朽ちた鉄製の門扉。これは昔、柔らかいクリーム色だった。清潔でおいしそうな色だった。それが今では腐敗し,むごたらしく死肉を垂れ下げ、生徒の登校を拒んでいる。門柱に鎖で堅く縛られて。板切れに塗りつけられた「立入禁止」の文字を鮮血のように光らせて。
 門柱にはいまだに表札が掲げられていた。青銅製の縦長の看板には「宇内市立久瀬南小学校」と刻字されている。この表札だけは二十年前と変わらず古めかしい。
「この表札、なつかしいなぁ。本当に、母校に帰ってきたんだな……」
 心地良い感傷的気分が俺の心の奥底をほのかに温めた。しかし、そういう感興がすぐに消し飛ぶ事はわかっていた。俺は眉を八の字に歪ませ、上方を見上げた。
 そこに在る学校の姿はまるで、石造りの冷たい墓標のようだった。俺はちょっと辺りを窺ってから校門をよじ登った。そうして敷地内へ無事に着地した。
 そこは、外界から完全に隔離された空間だった。誰かが校門から覗きでもしない限り、俺が侵入している事はわからないだろう。小さな雑草が群れている土の上を、タバコに火を点けて歩き始める。
 小学生の頃は自分が喫煙者になるとは夢にも思わなかった。大人になるには気の遠くなるほど時間がかかると思っていた。しかし時の流れは容赦なく、かつ早い。俺も今では三十を超えた。俺が十二歳の時に習っていた担任の教師は二十七歳だった。当時の彼よりも俺は年を食った事になる。
 その担任は名前を有野と言った。若々しい男性教員で、休み時間には生徒と一緒にドッヂボールをしてくれる優しい人だった。
 俺は何一つ有野先生にかなわなかった。大人が子どもより優れているのは当然の事だが、十二歳の俺の目には有野先生の姿が英雄のように映った。永久に追い越せない天才として尊敬していた。
 今の俺は当時の有野先生よりも大人になった。しかし果たして俺は、彼ほど大人になっただろうか? 疑わしい。実感が無い。今でもこう感じる。有野先生の前では俺は永久に十二歳で、従って彼を永久に超える事が出来ない──。
 タバコの煙を蒸気のように吹き上げ、校舎に沿って前庭を歩いた。花壇には干からびた砂土が沈黙し、石畳の隙間からはよく育った雑草が生え、校舎の窓ガラスは割られている。何もかもが荒廃している。
 不意に強い孤独感が俺を襲う。
「有野先生! 青原! エト! 鶴くん! ユカピー! みんなどこへ行っちゃったんだよ!」
 クラスメートや先生の不在。自分を置いてみんな遠足に出かけてしまったような、忘れ去られてしまったようなそんな悲しみ。俺は両腕で自分の身体をきつく抱き締めて縮こまった。
 しばらく俺は立ちすくんだ。動けなかった。吸い終えたタバコを踏みにじって向こうを見ると、外壁の外側に巨大な倉庫が並んでいるのが見えた。運送会社か何かの領地なのだろう。丸い屋根・心もとないハシゴ・倉庫番号を記したと思われる無機質な連番数字。見覚えの無い風景だ。
 延々と空き地の広がる二十年前とは別世界のようだ。ここだけが、この学校だけが、時代の流れから取り残されている。当時の空気を密封して固まったままだ。
 確かに荒廃はしている。しかし、倉庫が割拠し工場がどんどん乱立する外と比べれば、この学校の変化は余りにも乏しい。廃校。死。生に乏しい工業地帯の中でも、俺が立っている場所は一際静かに相違なかった。
 穏やかな静? いや、そんな平和的な物ではない。ある種の凄みを心に撃ち込んでくる、恐怖の対象にも似た静。
 俺は再び歩き出し、校舎の角を折れて校庭に向かった。
 給食室の脇を通る。破れたガラス窓の中を覗き込むと、赤く錆び付いた寸胴がだらしなく転がっている。かつてステンレス加工のされていた調理台も傷だらけで白く濁り、全く光を反射していない。かつてこの場所では生徒のために料理が作られていたけれど、今ではそんな面影はどこにも見当たらない。不潔を通り越して不毛だ。ここではゴキブリも飢え死にしてしまう。生命の営みを司る飲食物は、ここでは二度と生成されない。
 棄てられた調理器具が、俺をたまらなく嫌な気分にさせた。その場に放棄せず、しっかり処分してもらいたかった。誰にも持ち去られる事無く見捨てられた調理器具は、慌ただしく廃校が決定した証明でもある。この学校は、学校ごと捨てられたのだ。正式な葬送をされる事無く……。
 赤レンガで囲まれた地面があった。理科の授業で使用された自家農園である。なつかしい。ここでプチトマトを植えたりサツマイモを掘ったりした。今は痩せこけ、まるで墓場みたいな様相を呈している。
 傍らにはボロボロの百葉箱。海風によって風化し、白ペンキを根こそぎ剥落させている。辛うじてその原型を保ってはいるものの、子供たちが慣れ親しんでいた時の面影は一片も無い。小さなお社みたいに古びていて、中から稲荷が化けて出てきそうだ。俺たちの記憶の土地が時間によって腐食されている事を示す絶好の標本だった。
 俺は校庭に出た。
 二十年の歳月をかけて海浜から少しずつ吹き寄せられたのだろう、白砂がグラウンド全体に積もっている。非常にまぶしい。見渡す限りの荒野だ。風が形成した、雅な趣の無い石庭。
 ここでよく、放課後にサッカーをした。道具さえあれば野球もした。十分間の休み時間には急いで教室を飛び出し、女子も交えて鬼ごっこやドッヂボールをし、始業のベルが鳴ると同時に一目散に教室へ戻った。なつかしい。
 目を閉じると、運動会の時の光景がまぶたに浮かんできた──
 体育館そばにテントが張られ、石灰でトラックのレーンが引かれている。ポールには校旗が掲揚され、スピーカーを軸として万国旗が頭上に張り巡らされた。紅白別れ、すのこに座る俺たち。俺たちの背後で頼もしい声援を送る父母たち。オリンピックスタジアムさながらの、立派な競技場だった。
 目を開いてみると、校庭は案外狭い。俺がリレーのアンカーを務めたトラックも、実際にはちっぽけな楕円形だったようだ。自分自身の成長を感じるとともに、なんだか切ない気持ちにもなった。なんて狭い世界で、得々としていた事だろう。俺は自分が校内随一のランナーだと思っていた。実際そうだった。学年で三本の指に入るほど足の速い生徒だった。
 運動会大取りの、全学年入り乱れてのリレー競走。そこで俺は紅組のアンカーの一人として出場し、白組の走者をゴール寸前で抜き、一位になったんだ。
 俺の活躍で紅組は優勝した。クラスのみんなが、白組として敵対した青原でさえ、誉めたたえてくれた。下級生もみな、俺の俊足に憧れのまなざしを注いでいた。有野先生は俺を抱きかかえて振り回した。閉会式で校長先生から優勝トロフィーを渡される役に当たった。ユカピーが笑顔で俺を見ていた。
 この日、俺は学校のヒーローになった。
 輝かしい栄光の思い出。しかし、今こんな自慢話をしても、誰も感心はしない。
 中学に入ると、三本の指は二十本に増えていた。中学を出る頃には屈指の走者ではなくなっていた。
「運動会、か……」
 俺は空を見上げた。抜けるような、とは表しがたい、工業地帯の青空が開けている。
 屋上に上がろうと思った。昼休みの時間、先生に見つからないよう上がった屋上に。仲間と一緒にあの場所で浴びた光、眺めた景色。まさしく宝石のような思い出だ。キラキラした、きらめき。仮にもし「永遠」という物が存在するとすれば、それは「瞬間」だと思う。一生残る、一瞬。鮮やかな色で余生を照らす強烈な閃光。そういう掛け替えのない記憶がこの学校の屋上にはある。
 ゲタ箱の据えてある通用口に来て、ガラスの破片が窓枠に残っていない扉を探し、手を切らないよう慎重にくぐる。中に入ると、ほの暗い。夏の日の森のように、鬱蒼としていながら所々から日が射し込んでいる明度。俺以外の人間は誰も訪れない秘密の場所のような、虚無。
 自分はどのゲタ箱を使っていたっけな。探してみようか。六年三組、六年三組。生徒の名前を記したシールは油性ペンで書かれていたが、ほとんどが消えかかっている。シール自体が剥がれ落ちているものさえある。いくつかうっすらと残っている文字を目を凝らして読んでみると、その中のひとつに「つる川」。鶴くんのゲタ箱だ。よく消えずに残っていたものだ。これが鶴くんのゲタ箱とすると、俺のゲタ箱はおそらくここだ。しゃがみ込んで覗いてみる。中は板で二段に仕切られている。下の段には履いてきた靴を置き、板の上には学校用の上履きを載せていた。当時も砂ボコリが堆積していたが、今はその砂の上をさらに綿ボコリが覆っている。
 ちょっと覗き込んで中を確認し終えると、早々に立ち上がった。窮屈な体勢が苦しかった。自分の靴入れはこんな低い位置だったのか。よじ登らねば届かなかったゲタ箱上部も、今では胸の高さだ。不思議な感じがする。また、悲しい気持ちがする。いつの間にか図体だけ大きくなってしまった。
 俺は靴脱ぎから一段高くなっている廊下に歩を進めた。床には土とガラス片が散乱している。靴の下にジャリジャリ割れる音を聞きながら、俺は校内を歩き始めた。上履きを履かず土足で廊下を歩くなんて、なんだか少し悪い事をしている気がする。小学生の頃の倫理観が蘇ってくる。
 校内には誰もいないと解っていながら、先生の目を忍ぶように俺は廊下を進む。前かがみでまるで泥棒だ。自分の馬鹿げた体勢につい苦笑してしまう。
 階段に来た。各段にはやはりガラスの破片が散らばっている。土汚れで黒ずんでいる。明かり取りの窓から陽光が射していてチリがチラチラ舞っているのが見える。これも懐かしい。この光の中を、当時の俺は息を止めて駆け抜けていた。本当は校舎内全体がチリで充満しているはずなのに、それには気付かずに。
 幅の狭い階段を一段抜かしで上がっていく。昔は勢いをつけなければ一段抜かしなんて出来なかったが、今ではのっしのっしと足を放り上げられる。その代わりすぐ息が切れる。ゆっくり上っているはずなのに呼吸が荒くなる。年を取ったものだ。
 やっとの思いで四階に着き、ちょっと一呼吸。四階には六年三組の教室がある。廊下は比較的きれいに見える。チリやホコリがビッシリと敷き詰められているのだろうが、遠目には見えない。窓も割れていないようだ。
 教室には後で寄る事にし、息が整った時点でまた階段を上る。この、四階から屋上に向かう階段。下校前の掃除の時間を思い出す。掃除当番で階段の担当になった時は楽しかった。同じ班の女子に階下を任せて、男子は屋上近くの踊り場で遊び回ったものだ。ぞうきんを投げ合ったり、手すりを滑り台にしたり。たまに先生が見回りに来た時だけ掃除しているふりをする。帰りの会が始まるまで、昼休みと何ら変わりの無い最高の時間を過ごした。違う班の男子が紛れ込んでいて、とうとう見つかった時は猛烈に怒られたが、それも今では良い思い出。
 壁にたくさんの落書きがある。「昭和六十年度卒業」「滝口くん大好き」「ずっと友だちだからな」「安松綱島松倉」などなど。そして、残っていた、俺が書いた相合い傘。
 俺は落書きの一つ一つを点検し、寂しく微笑みながら、屋上に通ずるドアのノブに手を掛けた。二十年前と同じく施錠はされていなかったが、蝶番いが錆び、格子が歪んでいるのだろう、容易には開かない。銀色の老いたドアは苦しそうに軋む。あたかも「この先へ進んではいけない」と注意する先生のように、俺の立ち入りを拒む。
 屋上に出るのはやめておこうか──ドアがあまりにも頑固なので、そう思いもした。しかし屋上からの素晴らしい眺望をあきらめるわけには行かず、俺はムキになってドアと格闘を開始した。
 無理に押したり叩いたりしてもギィギィ鳴くだけで道を譲ってくれない。そこで思い切って体当たりをしてみたら、ドアはギャッと短く甲高い悲鳴を上げ、二つある蝶番いのうち上の方にあるのが外れた。浜風に曝されていた表面は今にも腐り落ちそうな赤銅色をしていたが、新たに露出した金属部分は骨のような白銀色に光っている。校舎から剥離した蝶番いはドア本体に必死にへばりつき、サビを血のようにぱらつかせながら、無残に風に揺れている。
 さらにグイグイ押すと、ドアは断末魔の叫び声を上げながらようやく屋上を明け渡してくれた。どうにか開いたが良い気持ちはしない。行く手を阻む敵を、敵とはいえ誤って殺してしまった、そんな釈然としない心境だ。
 俺は再び太陽の下に出た。荒れ放題の屋上。コンクリートの床は一面ひび割れており、割れた隙間からは雑草が茫々と生えている。白いペンキの塗られていた柵に白い部分はほとんど残っていない。赤銅色の鉄が丸出しだ。
「二十年。だもんな」
 俺はタバコを取り出して口にくわえた。両手で覆いながらライターを二三度こする。顔を撫でる風に目を細めながら煙を吐き出す。柵の向こう、彼方の海を一望する。工業化の影響で汚れたかも知れないが、ここから見る分にはキラキラ光っていて昔と変わらない。
 空を見上げた。太陽。その強烈な光は目を閉じても透過してくる。真っ赤に染まる視界。まぶたの薄皮を流れる血液の、赤。まぶしい。太陽だけは二十年前と同じだ。
 まさかこの屋上で喫煙する日が来るとは、な。中学では下校途中に喫煙する奴が居たけど、さすがに小学校の屋上で吸ってる奴は居なかったもんな。物凄くワルい事をしているかのような、後ろめたさ。普段よりも煙が濃く旨く感じる。
 柵に近づいてみる。校舎べりの稜線に隠れていた海はせり上がり、陸地部分が徐々に姿を現す。俺はハッとした。白い砂浜は見えなかった。無かった。在るのは唯、アルノワタダ、ジンコウブツ。人工物。人工物、人工物、地球の地肌を埋め尽くした人工物……。
 かつて不規則に海岸線を描いていた自然の造型は見る陰もない。区画整備、その計画通りの埋め立て地。陸地部分は人工的に拡張され、海だった場所に無遠慮に伸し掛かっている。波打ち際にはテトラポッドが規則正しく並べられている。カニが棲みカモメが遊びに来た土地は今や人間に開発され、人間の秩序に律せられた。
 人間の。果たして本当にそうか。俺にはこれが人間の仕事だとは信じられない。学校と海との間には球形や円筒形のタンクが無造作に置かれ、その周囲を工場や倉庫などの巨大建造物が取り巻いている。工場敷地、外壁の上に葉を繁らせる樹木は、道路からの目隠しとして差し込まれたプラスチック。人工物。人工物の一部。人の気配は少しもしない。プレハブ小屋がある。しかしあの中に人が活動しているとはとても思えないのだ。
 砂浜が失われた事には何の感慨も無い。環境問題、そんなものは知った事ではない。俺がおびえているのは孤独感。世界にたったひとりぼっちのようなこのとてつもない孤独感だ。俺の他に人は居るのだろうか。もしかしたら自分一人ではないのだろうか。そんな風にも思えてしまう。それほどまでに、生命の息吹が感じられない。潮風が運んでくる磯の香りにも重油や黒煙や腐敗の匂いが混じっている気がする。水平線に円筒型のタンクが屹立する湾。誰も歩いてない道路。静まり返った工場。ただ黙々と白い蒸気を吐き続ける煙突。
 風がある。海の表面がささがきにされているのでもわかる。鏡と輝く水上に浮かぶタンカーの船尾には糸のような物がひょろひょろと靡く。しかし、煙突の突端に結びついた白い物は揺れない。あの煙は淡の水墨で描いたような煙だ。吹かれたり流れたり散ったりしない、静かな静かな筆蹟。
 もしも。もしもあの煙が。煙突の突き刺さった工場の軒下で、百名に及ぶ隠遁者たちがすっている墨によるのだとしたら。その墨汁で湿らせた筆を喝一閃、エイヤッと空に走らせていたとしたら。筆の遊覧した軌跡が煙突から吐き出されていたとしたら。ああ。俺はどれほど楽しい気分になっただろう。救われたろう。絶望。
 クシャクシャの紙ペラ一枚の気分となる。軽く、からっぽで、薄汚れた状態。何もかもが味気なくなる。世界が変貌していく。
 赤白赤白段だら模様の煙突は陶器製の灯台に変貌する。機能しない投光器。航路標識として頼る者は誰もいない。誰もいない。この世界の漁師は沖に出ない。この世界の海には魚がいない。あれが地獄の灯明台だったらどんなに良かっただろう。荼毘の煙で死者を招く骨造りの塔だったら。この停止した臨海地帯よりもよっぽどにぎやかだったに違いない。
 煩雑な建造物は電子部品として基盤の上に組み込まれる。トタン張りの倉庫が。鉄筋コンクリート製の工場が。薬品色のタンクが。煙突が、クレーンが、電線が、道路が。全ての無機物が無機物ですら無くなる。個々の存在を喪失し、巨大な集積回路に集約する。
 俺は目を細め、海を見た。海があったはずの空間を見た。しかし、海はもう消えていた。そこは海ではなかった。やや蒼味を帯びた粉薬が青空に触れるほど大量に敷き詰められている。さらさらと揺らぐ砂色の布。記号化した大型船舶。
 急にタバコがまずくなって、捨てた。草を燃した煙ではなくプラスチックの味がした。怖くなった。一思いに飛び降りたくなった。自分にもよくわからない。なぜこんなにも泣きそうなのだろう。身体が小刻みに震える。怖い。一人が、怖い。一人で居るのが堪らなく怖い。
 俺は屋上を立ち去った。強いて俺を一人にさせるこの残酷な世界を逃避し、自ら望んで一人となるために。
 軽く足下をふらつかせながら階段を降りる。階段の壁面に、ヘタな字で「ずっとみんなといっしょだよ」と書かれている。ずっとみんなといっしょだよ。そんな物は幻想だ。その「みんな」とやらは今や散り散りになり、誰も一緒ではない。鶴くんとは卒業以来ただの一度とて会っていない。青原はどうしているのか分からない。エトは死んだ。みんな、バラバラになってしまった。
 良い思い出は、時として、老いた心を苦しめる。楽しかった、あのころ。楽しかった、あのころ。ああ、楽しかった、あのころよ。──楽しかった思い出が、楽しくないこのごろをより一層楽しくない物にする。キラキラした宝物のような思い出は靄の漂う記憶の奥でまばゆく輝く。その輝き自体は掛け替えのない光明だ。しかし、その輝きの放つ明滅は暗く沈んだ現状を陰鬱に際立たせる。光は闇を濃く染める。明るい過去が、みじめな現在を残酷に照らす。ミミズを焼き殺す太陽の日差し! ああ、おまえ、過去の栄光よ。おまえは異形を見世物にするスポットライト。未来の俺をとことんまで打ちのめす侮辱の光だ!
 人はみな、何が何だかわからぬまま、人生で最も光明に満ちた季節を使い果たしてしまう。この世に登場したばかりの彼らは、その価値を知らぬままに少年期を浪費する。電球は使い初めが最も輝いている。フィラメントが消耗すれば次第に光度は減じていく。そんなこと、全く知らず、人生の光は増していくだけだと思っている。
 俺は六年三組の教室に足を踏み入れた。
 名状しがたい感覚に襲われる。なつかしい、ような。期待はずれ、なような。旧友と久しぶりに再会した際の、喜びとよそよそしさが入り混じった感覚。窓から差し込む明光が寒々しい。
 四十脚ほどの机は、あるいは整然と並び、あるいは何者かによって倒されている。床には空き缶やスナック菓子の袋が大量に落ちている。黒板には、刃物か何かで傷つけたのだろう、品のない落書きが彫り込まれている。掲示板も切り刻まれている。荒れ放題。踏みにじられた俺の、俺たちの思い出。
 窓際一番後ろが自分の席だった。隣はユカピー、前は鶴くん。くじ引きで勝ち取った、申し分のない特等席。
 ユカピーの机、天板は砂ぼこりで粉っぽく汚れてしまっていた。俺は自分の服の袖で机の表面を拭う。そのまま自分の席に着く。
 窓に背を向けて椅子に掛ける。こんなに小さい椅子だったか。背もたれが腰の辺りに当たる。座り心地も最悪でおしりが痛い。
 低い座面に軽く戸惑いつつ、教室を一望する。
 すると、どこからか雑音が聞こえて来る。
 どこから。
 自分の頭の奥からだ。
 その音は次第に大きさを増し、やがて、活気ある喧噪である事が判る。脳内の記憶装置が当時の教室の様子を実地に映写し始める。あの時の、みんなが、焦点の定まらない像として浮かび上がる。どこに誰が座っていたのか全員を思い出すことはできないけれど、当時の授業風景が眼前にありありと浮かんでくる。
 教壇に立つ有野先生。
 黒板の方に向かって座るクラスメート。
 みんなの後頭部。黒い物が並んでいて、時々動く。この頭は青原か。あれは誰。
 この小さな机で、背の低い子供たちが。俺たちが。俺たちは確かに、ここにいた。
 なつかしい思い出の数々が、時系列を無視して断片的に再生される。算数・国語、理科・社会。朝の会・帰りの会。学級会。そして、同じ班の仲間たち四人と机を合わせて食べた給食……。印象的な一場面一場面が、かつて身を乗り出して鑑賞した、体育館の堅い床も苦にならないほど熱心に見入ったスライド写真のように、次々に上映される。
 いつしか俺の瞳は潤み、思い出のぼんやりとした感覚ばかりでなく、実際の視界までもがぼやけ出す。
 そんな中、比較的鮮明な映像と音声を伴って俺の前に現れたのが、隣の席の、ユカピーの笑顔だ。
 授業中、小さく丸めた手紙をこっそり受け渡し合った。内容はつまらないものだったかも知れないが、その後しばらく俺の一番の宝物となった紙片。書かれた文言を丸暗記してしまったほど何度も見返したものだ。だが、今はもう、何が書かれていたか、思い出せない。手紙自体もどこかに無くしてしまった。おそらく一人暮らしをするための引っ越しの時に、他のこまごましたプリントと一緒に捨ててしまったのだろう。
 人はなぜ、本当に大切な物を簡単に手放してしまうのか。未来から押し寄せる間断なき些事にばかり気を取られ、手を引いて連れて行かなければならない大事な昔をたやすく置き去りにしてしまうのか。少年時代の事象は、ガラス細工のように美しく、そして壊れやすい。ガラクタ扱いしていた思い出が実は宝石だったという受け入れがたい事実には、いつだってそれを失ってから初めて気が付く。
「これ以上考えるのはよそう」
 俺はそう声に出し、強く目をつぶってかぶりを振った。輝かしい過去の栄光は現在を打ちのめす。まぶしかった過去が、くすんだ現在を、白日の下に晒す。嬉しい思い出が煌めくとき、暗闇に沈む醜い恥部が露わになる。この淋しい考えはますます高じていく。
 ハッと気が付くと、すっかりつまらない大人になってしまった俺に愛想を尽かしたのか、半透明の級友たちは煙のように空気に溶けて消えてしまう。ユカピーの残像も、俺を哀しそうに一瞥して消える。
 去って行く彼らに「行かないでくれ」と言えなかった。こちらから追うことも出来なかった。自分さえ望めば追って行けたのに。
 離れたくなかったはずなのに、俺はただ立ち尽くした。俺は二十年後のこの世界に取り残された。再び、寂寞としたどうしようもない孤独感。誰もいない教室で俺は独り俯く。
厳しい西日が廊下側の壁を突き刺すまで、俺は俯いて泣いた。
 席を立つ。黒板に指でさよならとなぞり、教室の外に出ようとする。
 ふと戸口で立ち止まり、教室を振り返る。そして呟く。
「さよなら」
 俺は六年三組に背を向けた。逃げるように階段を降り、通用口を出て、もう学校の方は振り向かず、校門をよじ登る。さようなら、久瀬南小学校。
 結局、無意識が俺に探せと命じた何かは見つからず、過去は取り戻せないということを再確認するだけの母校訪問となってしまった。
 肩を落としてうなだれながら、行きとは異なるルートで駅へ戻り始める。
 生物の気配の無い工業地帯。死それすらも連想させないほどに生気の無い工業地帯。穏やかな午後。晴れ渡った空が逆に寂寥感を煽る。人類が滅亡したあとの世界にたった一人で立ち尽くしているような悲しみ。
 俺は歩きながら唸る。ああ見回す限りの廃墟廃墟廃墟。効率性のみを重視し、不確かな人力を排して稼動する廃墟群。巨大建造物の冷酷無慈悲な存在感は弱った俺の心を容赦なく圧迫する。
 ふらふらとした足取りで抽象画の中をたゆたうと、高速道路の高架橋が頭上に接近してきた。くぐるのが躊躇されるコンクリート製の冷ややかな門。
 やがて俺の身体は俺の意志とは無関係の不可抗力によって橋桁の下に運搬される。日陰であり、暗い。いやな気持ちになる。
 道路脇の不吉な空間にすぐ気が付いた。錆び付いた工事現場用フェンス。目隠しとして掛けられた古びたビニールシートは、まるで遺体をくるむ白布のようだった。隙間から遊具が見えた。
「まだこの公園、残っていたか……」
 今や閉鎖され、立入禁止区画と化した高架橋下のスペース。二十年前の当時もめったに人が来なかった。鉄棒とブランコとすべり台、そして砂場。陽が当たらない以外は標準的な児童公園だった。
 エアガンで空き缶を撃ったり、爆竹をぬいぐるみに詰めて火をつけたり、ネコを首まで砂場に埋めて石をぶつけたり──大人が見ていないのを良い事に、俺たちはここで色々と悪い遊びに興じていた。
 俺たちは──俺たちは!
 瞳孔がひらいた。ここに、ある。直感した。ここに、俺の深層意識が探し求めている何かが、ある。あるはずだ。
 そう、あれは小学校六年の二学期だった。あの土曜日もまた、俺を含めて六人の悪ガキどもが、ブランコからクツを飛ばしたり危険な飛び降りをしたり、無政府的な放課後を過ごしていた。その中に、エトもいた。歯医者の帰途、公園にちょっと立ち寄ったエトが。
 それは、単なる思いつきだったのかも知れない。
「中学の先輩から聞いたんだけどさ。ここの公園の砂場って──」
 誰にも言うなよと釘を刺してから、周りに部外者はいないのに、エトは声をひそめて続けた。
「──お宝が埋まってるらしいぜ」
 掘っても掘っても砂砂砂。底無しに思える公園の砂場。その地底、奥深くに、何か宝物が埋まっている……。子どもたちには魅力的すぎる話だった。
 それは、初めはエトの単なる思いつきだったのかも知れない。子どもらしい空想から製造されたホラ話だったのかも知れない。しかし子どもたちには魅力的すぎる話だったのだ。話は次第に膨らみ始めた。
「その話なら俺も聞いたことがあるよ」
「なんか、俺も聞いたことある気がする」
「確か、公園ができた時に埋められたんだよな」
「あっ。そのことか。それってここの公園のことだったのか」
 小学生特有の民話創生。知らないことを、さも知っているかのように振る舞い、持てる知識のひけらかし合い──その実際は知ったかぶりのウソっぱち。相手の空想を自己の空想でさらに塗り固めていき、自分たちがでっちあげたホラ話を真実の伝承と思い込んでいく。
「ああ。一兆億円くらいの宝物が極秘で埋蔵されたってやつでしょ?」
 徐々に上塗りされていった空想は、途方もない高みにまで達していく。ここでもし、ひょっこり第三者が現れて彼らの話を聞いたら、あまりのバカバカしさに吹き出したことだろう。だが、少しずつ想像の膜を重ねていった子どもたちには、自分たちの妄想があまりに現実から懸け離れてしまったことに気づかない。彼らにとって、「時価一兆億円くらいのフック船長の宝物がこの公園に埋められている」ことは、もはや疑いようもない真実に昇華しており、極めて自然なことなのだった。
 俺たちは砂場を掘り始めた。サラサラとした白砂の下に隠された秘密の財宝! 掘り当てたら俺たちゃ億万長者! 六十本の華奢な指は夢に向かって猛烈に前後し始めた。
「子どもが砂場で遊んでも見つからないよう、かなり深く埋めてあるはずだぜ」
 砂場の外に砂が掻き出されていく。砂場の周りは白く散らかされていった。
「あっ」
 さっそく誰かが何かを見つけた。みなの視線がその子の手元に集まる。
「はは」
 つまみあげたそれは子ども用のおもちゃのスコップだった。みんな笑った。しかしガッカリ感はない。砂場には何かが埋まっているという期待は確信へと成長し、みんなの表情は幸せな色彩をさらに鮮やかにしていく。六人は地面をえぐり続けた。爪の先に砂粒を詰めながら。嬉しそうに。
 しかし、明るい未来に向けて一致団結する時間は長くは続かなかった。不運なエトがあれを掘り当てた頃から、財宝探しの雰囲気はおかしくなった。それまでは順調だった。宝物を見つけるのは時間の問題だと信じ切っていた。
「あっ。何だろうこれ」
「なんだ?」
 棒状の黒い物体。
「それ、ネコのフンじゃねぇか」
「うわっホントだ」
「きったね」
「エト汚ねえ」
 みんなが嘲った。と同時に、小学生特有の残酷さによってエトは敬遠され始めた。こうなってくるとおかしなもので、みんなの心に「こいつが言い始めた『お宝』って、本当に埋まっているのか」という疑いがきざし始めた。
 あたかもその疑念を払拭するように、五十本の指と一本のスコップは運動量を増して砂を掻き分けていく。深く深くへと掘り進んでいく。やがて、白い砂はほぼ取り除けられ、黒く湿った土が現れ始めた。爪でガリガリ掻きむしっていたのでは日が暮れてしまうので、途中、青原が近くの建設現場からシャベルをあるだけ盗んできた。
 ──黒土もあらかた掘り出され、とうとう砂場の底のコンクリートが露出し始めてしまった。しかし宝はまだ出て来ない。みんな声には出さなかったが、エトを非難する雰囲気はさらに重くなっていった。失望感によって疲れが一気に出たのか、みんなの手の動きは急激に遅くなった。ただエトだけが黙々と土を取り除け続けた。責任を感じているようだった。願うように掘り続けていた。
「何だこれ」
 コンクリート表面に残った黒土をかったるそうに足で払っていた子が何かを見つけた。砂のなくなった砂場、その一角に、五十センチ四方ほどのフタがあった。おそらく排水のための穴だろう。おぞましい感じのする、まるで地獄に通じているような扉だった。
「おまえ開けろよ」
「そうだ。責任を取ってな」
 エトが開けさせられることになった。彼は不安そうな顔つきでフタに手をかけた。かなり重そうだったが誰も手伝わなかった。
 宝物があるのではないかという期待感と、ないのではないかという不安感で、子どもたちは固唾を飲んだ。
 フタが開く瞬間。
 意識が飛ぶ。
 何か良くないことの起きた怖ぞ気。
 思い出すのもためらわれる──いや、ためらわれるというレベルではない。防衛本能が「思い出すな!」と警告する、絶対に思い出してはいけない物が──恐ろしい物が埋められていた……。
 何が埋まっているのか、俺たちは誰にも口外をしなかった。先生にも、親にも、友だちにも。あの日あの砂場にいた子ども同士でもその話題には決して触れなかった。固く口をつぐみ、あの土曜日の記憶を意識の奥深くに葬り去った。六人があの公園で再び遊ぶことはなかった。
 何が埋まっていたのか?
 識閾下に沈められたその忌まわしい事実は、積年のあいだ厳重に封印された。結果、思い出そうとしても思い出せない煤けた記憶となっていった。ただ、一心不乱に砂を砂場に戻したことだけは覚えている。怖い。思い出すだけで気が狂いそうになるほど怖い物が最深部には埋まっている。もはや掘り起こせない、少年時代の悪夢……。
「恐ろしい物が埋められていたはずなんだ……」
 フタを開けた瞬間からブツリと途切れた記憶を求めて。
「……いったい、何が埋まっていたんだろう?」
 俺は金網をよじ登って敷地内に侵入した。陽の当たらないそこは、廃墟と化した事で一層おぞましさを強めていた。
「俺も良いおっさんになったのだから、もはやオカルトじみた恐怖には動じない」
 砂場へ歩みながらそうは思うものの、ひどい緊張状態に陥る。決して覗いてはいけない少年時代の記憶……。真っ暗な意識の底に沈澱している、自分の過去。それを暴くのが、怖い。しかし気になるのだ。自分が忘れようとした物は、いったい何だったのか。思い出してやらなければいけない気がするのだ。
 砂場には砂がなくなっていた。この公園が閉鎖されてからかなり経つ。雨に流されたか、風に吹かれたかしたのだろう。ドス黒い土があの日と同じように剥き出しになっている。
 たった一人、土を掘り始めた。ただひたすら、土を。ここには何が埋まっていたのか、あのフタを開けたらどうなったのか、記憶の糸をたぐりながら。
 土まみれになって一時間ほどするとコンクリートの底部が現れ始めた。記憶の糸は、無意識の底から苦々しい事実を徐々に引っ張り上げる。
「あの日から、エトは行方不明になった……?」
 一瞬、驚愕に顔を歪める。その顔は、断末魔の人間の顔によく似ていたかも知れない。しかしすぐに落ち着き、もう何もかも覚悟したといった表情で俺はヘラヘラと笑い始めた。
「ああ。やっと思い出した……」
 自我が崩壊してしまったかのように、白痴的な笑いで口角を吊り上げる。
「フタの中には何もなかったんだ……」
 少年時代には重く感じたフタを、軽々と持ち上げる。
「何もなかった腹いせに、俺たちは……」
 フタを投げ捨てる。力無くうなだれて、地面に膝を突く。そうして、手をダラリと垂らしたまま、生気のない目で穴の中を見つめる。
「エトを無理矢理ここに閉じこめた……」
 穴の中には、ボロ切れと、石のような白っぽい物が詰まっていた。
「俺たちが生き埋めにしたんだ……」
 エトは、こんな所に、二十年間、二十年間も、ひとりぼっちだった。
「うわあああああぁぁぁ」
 俺はただ絶叫した。(→



19.闇
闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇(→22



20.焼却
 俺はベットにうつぶせで。顔を右に向けて。左手は後頭部の近く。右手は顔面のすぐ近く。下半身は……よくわからないけど投げ出した平泳ぎのキックみたいだっただろう。一心不乱に過去から逃げてきた俺は、罪の意識という重い十字架に圧し潰されていた。
 右手にはタバコが握られている。寝タバコをしていたんだ。どういうわけか身体が動かない。動かないのか、動かさないのか、よくわからないけど動かない。時間が止まっているような感覚。でも、タバコは煙を立ち燻らせている。時間は流れてるみたいだ。
 タバコの先端はゆっくり燻り続ける。ずいぶん燃え尽きてきて、けばだった灰は長さ二センチメートルほどになった。このまま行けば、灰が布団に落ちるだろう。でも、どういうわけか身体は動かない。灰が落ちないようにする、そういう努力を実行する気が起きない。しかも、なんだか冷静なんだ。眠ってるわけじゃない。ただ、「ああ、このままだと灰が落ちるな」っていう認識だけが、ある。
 自然の法則として、灰はタバコからゴソリと剥落した。その重みに引きずり込まれるようにして、火種も一緒に落ちた。これは布団が焦げるかも知れないね。
 だけど依然として気持ちは落ち着いたままなんだ。「焦げるだろう」とは思うけど、まったく危険を感じない。体勢は同じまま。動こうとしない。目は火種から出る煙を捉えているのに、脳には危険意識がないんだ。「このままじゃ布団が燃えちゃう」とは思っても、「どうかしよう」という意志が働かない。
 やがて、ゆっくりと、火種から出る煙とは別の種類の煙も立ち昇り始めた。布団が焦げ始めたんだろう。漫然とした変化だけど、火は布団をムシのように食っている。そうして段々と肥って、チリチリと怒りに任せて食い荒らし始める。このまま野放しにしたら大層な猛獣に成長しそうな勢いだ。
 それでも身体は動かない。目は火の蔓延を見つめたまま。怪物の誕生を恐ろしいとも感じず、ただ自然現象として燃焼を眺めている。右手に囓り付き始めた火の歯を、かゆいとも感じず見守っている。思考が停止しているばかりでなく、痛神経もマヒしてるようだった。働いているのはただ、自然現象を自然現象として把握する科学の目、のみ。
 タバコの灰と火種も、自らの子どもに食い散らかされて形を留めなくなってきた。火は炎に変身した。炎になると、さっきまでとは比べ物にならない勢力だ。布団を下品にむさぼって、それに飽き足らず俺の身体まで焼き始める。
 右手は赤から黒へと変色していく。肉の焼ける香ばしい薫香と、髪の焼けるイヤな臭い。ストーブで焼き肉をしているような奇妙な匂いが鼻を衝く。五感は正常なのに、思考回路と運動神経がストライキを起こしてるみたい。「ああ、これはヤケドするな」って、まるで他人事みたい。大変だとも思わない。
 目の前が炎に包まれ、というかすでに目が炎に包まれ、眼球あたりでジュージュー音がする。炎の舞踏が激しすぎるせいもあるけど、何が起きているのか見えなくなってきた。口の中も暖かくなってきた。そのうち唾液が沸騰するかな。右手の血液が蒸発していくのは感じるけど。
 でも、熱くもないし、痛くもない。「このまま寝てたら焼け死ぬなぁ」という認識はあるんだけど、頓着せずこのまま寝てる。これが「無」というやつなんだろうか。知らぬうちに悟りを開いてしまったのか。身体の一部が気化していくのがわかる。部屋に立ちこめる、わが二酸化炭素。俺の体内中の炭素原子に、酸素原子が二つ化合した状態だな。科学で習った。あれ、分子だったかな。まあ、どちらでもいいや。どうせ思考もろとも燃えちゃうから。
 ほうら、頭蓋骨を通して脳味噌までグリルされてきた。布団がどれくらい燃えたのか、自分がどれくらいローストされているのか、それは見えないけど、多分部屋は紅蓮に包まれているね。家全体に延焼しているかも知れない。なにしろ火事に遭うのは初めてだから正確には測り兼ねるけど。いずれにせよ貴重な体験だよね。
 右手の骨がこそばゆい気がする。火元だけに、他の部位よりも荼毘に付されるのが早いようだ。まあ、身体の他の部分もそれほど遅れを取らずに炭化されてるだろう。証拠に思考力が落ちてきた。もうどうにでもなればいい。(→16



21.融合
 ぬるくまどろんだ脳が突然冷たく冴える。俺は意を決したように布団から飛び出して電気式コーヒーサイフォンのスイッチをひねる。
 机の上にあるビンの中から一枚の紙片を取り出して沸騰したコーヒーの中に落とす。コーヒーカップの中身を口から胃袋に流し込むと身体が芯から熱くなって不幸せな気持ちが少し和らいだ。もうどうにでもなればいい。
 ベッドに腰かけてコーヒーを飲み干してしばらくすると芳醇な薫りの漂う部屋が歪み始めた。コーヒーの中に入れた紙片がこの効果をもたらしたのだ。
 このクスリをやればなんだって一体化する。そう、なんだって。机の上に転がった消しゴムを人差し指と親指でつまみあげると消しゴムは指先で溶けて指の腹から俺の体内に染み込んでいく。消しゴムは俺と融合した。この指先でノートをなぞれば文字がたちまち消えていく。文字は爪の間から第二関節まで昇るように染み込んできて掌で止まった。両の手で持ち上げた本はチーズのようにドロリととろけて目に飛び込んでくる。俺の全身には文字が飛び交い循環する。血液が日本語で満たされた気分だ。
 誰かと食っつくため、他者との一体感を求め、外出する。この頃になるとクスリの効果はいよいよ増強してなんだって融合する俺の妄想は限りなく広がっていってますます感受性が敏感になる。夢のようだけど夢じゃなくて現実ではないけど現実なんだ俺にとっては玄関の扉の鉄製のドアノブの冷たい感触が猛り狂う龍神のように腕を昇って右胸のあたりに鉄の感触が留まるのも目の前を走っていく車が頭の中にすっぽり吸収されてうなじのあたりおそらく脳髄だろう俺の身体の一部分に回転するモーター音を伴ってピストンが上下運動を開始するのもわかる。
 目の前に広がる風景それは木々や雲さそれらだって俺に融合する。俺は今、地球の全てを飲み込むブラックホール。木々は磁石に引き寄せられる砂鉄のように俺の米噛あたりに刺さって若草色の葉をしげらせ雲はチュルリと口に吸い込まれてヘソのあたりでふわふわする。
 犬を散歩した人が向こうから近付いてきた百メートルほどの距離があったろうしかし俺がその人と飼い犬とを注視したら彼らは向こうからものすごい勢いで吹き飛ばされたように俺に飛び込んできた。犬が俺の身体に触れると途端に犬臭くなって工場の煙の匂いが鼻を衝いたから意識が乱されて飼い主との融合は計れず煙たい工場のイメージが俺をむせ返らせる。吐きたくなるような衝動に駆られて俺は実際吐瀉物を路面にドベッと瀑布(ばくふ)のように叩き落とした。茶色い犬が雲の峰が街路樹が自動車がドアが本が消しゴムがそれらのイメージがこぼれてしまった。俺は散々生臭い液体を吐き出して涙を流して苦しんだ。ようやく吐き気が収まるともったいなさから地面に染み込みそうな水たまりをを急いで舐め回し回復した。
 口を服の袖で拭うと袖の木綿がべっとりと唇に付着して袖には唇がずるりとひんむけてくっついたが俺は気にせず他人との接触を渇望した。さみしいんだ。俺はさみしいんだ。誰かと、誰でもいい、つながりたいんだ……。
 時計の長針が融合した目をクルクル回転させながら辺りを見回すと、さまざまな音のイメージが俺の耳と一体化した。風の音がうずまく。川を流れる二酸化水素の音のうち、酸素原子二個が凝り固まり水素原子がパチパチとはじける。鳥の声がチチチという文字になって右耳左耳の間を往復してやたらうるさい。夕暮れの世界から音楽が見えてくる。アスファルトの凸凹ひとつひとつがハ長調の音色で単音単音を奏でて聞こえてくる。
 全身を駆けめぐる心地よい感触に恍惚の表情を浮かべてアイスクリームのようにぐちゃりと佇んでいると近くを会社帰りのサラリーマンが通った。彼は掃除機に駆逐される髪の毛のように小さくコンパクトにまとまって俺の肺臓に収まる。彼の声が聞こえる。それは上司や部下や同僚や家族や政治家やヒイキの球団に対する不満の声、はたまたオフィスレディにセクハラを働きたいとか週末の競馬で大穴に給料全て注ぎ込んで何百倍にしたいとか女房を殺したいとかの醜い欲望の塊。うんうんわかるなぁその気持ちなぜなら彼と俺は一体化しひとつになっているからそして彼も俺に満腔の同情を抱いて俺の孤独感をいたわってくれるんだ。なんて素晴らしいんだろう。人と人とが接点を持つって、おたがいを百パーセント理解し合うって、なんて素晴らしいんだろう。
 俺は奇形したおっさんを左半身にぶらさげてひきずったまま道を行く。色々な人が俺の皮膚に含有され結合していく。俺の中には今、三十人の他人。しかもみんながみんなお互いの気持ちを余す事無く暗い部分汚い部分までも見てそれでも理解し尊重し合っている。首から下に、ひとつの理想郷が出来上がった。三十人が三十人とも臓腑を晒け出して快感の毒沼に浸っている。なんてすばらしいんだ。
 半透明の蛇が過去の記憶を飲み込んでいく。少年時代の幻想や、睡眠中に遊んだ世界、夏の終わりの空気に工業地帯の景色までも取り込んでいく。やがて俺の想像は地球規模に広がっていく。ブラジルのイギリス人が、セネガルの黒人が、トルコの中国人が、世界中の人々が、一斉に俺の体内に取り込まれる。そうしてひとつになるんだ。六十億の個性を持っていながら一つの人格に集約されるんだ。イスラエル人がパレスチナ人がイラク人がアメリカ人がみんなお互いを好く。だってみんな自分だもの。彼は私で私は彼、あのスウェーデン人はナチスでありながらユダヤ人だ。自分で自分を憎んだりはしない、俺は俺をつまりみんなを、みんなはみんなをつまりみんなを、愛する。ああ他者との相互理解は快い。いや、もはや他者ではないんだ俺の中では。
 地球全体の人類を取り込んだ俺の妄想はさらに拡大して万物を飲み込んでいく。シマウマがゾウがキリンがチョウチョになってチューリップがミカンがワカメがエッフェル塔になってピラミッドが万里の長城が奈良の大仏がピストルになって俺の中で一緒くたになる。何十種類もの香辛料を混ぜ合わせて煮込んだカレーみたいに不思議な化学反応で俺は収集が付かなくなる。魔法の宇宙が俺の血肉で星をまたたかせ太陽は燃え月は砕け流星が弾け飛ぶ。ああなんて綺麗でおいしい景色なんだろうキツい重低音の香りがする痛さなんだろう。
 そのうち、足下の地面が蔓草のように伸びた。俺の立っている地面が融合を開始した。巨大な地球がちっぽけな一人に同化する。地球の記憶が脳みそで雪崩のようにイメージをまきちらしながら破裂する。まだ生物が存在しなかった時代、地球自身が生き物のようだった。巨大な岩石のようなブサイクな地球。ニキビづらから脂を噴き出す。噴火。エベレストの辺りから。ローマの出来る場所から。ニューヨークホノルル北京ロンドンモスクワバグダッドモザンビーグアラスカそしてここ東京オーストラリアマリアナ海溝、どこもかしこも阿鼻叫喚の地獄絵図。至る場所から地球の体液が吹き出ていた。ドロドロに溶けた灼熱の岩漿。地表は炎色に染まり、渦巻くマグマが頭の悪いバケモノみたいにのたうち回っていた。地面は揺れ、震え、産まれ出ずる赤子のようにもがいていた。やがて、火龍の熱気は上空に立ちのぼり、水蒸気となって雲が誕生した。地をのさばる火の海と、空を覆う鷹揚な雲の海。その光景が見える。眼下に延々と広がる赤と、眼前に迫る白い山脈が。想像を絶するほど強大な熱源が。やがて、水蒸気は宇宙の厳寒に冷やされた。無情な宇宙に蹴り落とされた雲、心優しい怪物である雲は、羽毛のようにヒラヒラと垂れ落ち始めた。それは涙のつぶてに似ていたかも知れない。あるいは地上を掠奪せんと進攻を開始した軍勢にも似ていたかも知れない。
 雲は自分の身体を溶かし、解かし、雨を降らせた。地殻を突き破るような豪雨は、雲の種族が絶滅するほどに降り続いた。降り注いだ雨は海となった。
 より高い場所を目指して山を突き上げていく火。一方で、低い所に戦力を集中させた水。
 さあ、始まるぞ。人類の歴史にあるソレとは比べ物にならないほどの、壮絶な戦争が!山を目指し、打ち寄せる荒波。海を目指し、流れ落ちる溶岩。相ぶつかる両者!
 青と赤。蒼と紅。碧と朱。両軍入り乱れての大合戦。「人対人」よりも何倍も残酷な、「荒波対溶岩」。
 目を見張らずにはいられなかった。生唾を飲まずにはいられなかった。荒波と溶岩が剣を交えた時、その剣戟の間から白い気体が立ち昇った。それは、水の戦死者〝湯気〟であり、火の敗残兵〝煙〟であった。闘いのなごり・消えゆく霊魂の昇天する様だった。
 荒波と溶岩は幾万年も激しく交戦し、その度に白い死の象徴が立ち昇った。この光景を見た時、恐れたのでも哀れんだのでも感動したのでもないが、なぜだか涙がほほを伝った。生命……。
 豊かな海から打ち寄せる波が前頭葉を冷たく洗い生命誕生の神秘が股間を疼かせる。人類が誕生し、クレオパトラがジュリアスシーザーが孔子がイエスがエジソンが信長が融合する。そして……。
 地球の悲しい悲鳴が俺の身体をつんざいた。突き刺さる電柱侵される湖沼汚される空気、耐え難い苦痛が全身を支配する。血液が全身の毛穴から噴出するイメージを伴って、俺は宇宙空間にぶったおれた。みるみるうちに地球がドロドロと流れ出して身体の下で地面を形成する。鳩を放つようにさまざまな事象が飛び立ち、身体から抜けていく。俺はそのまま意識を失った……。(→20



22~45.トリツキ
 どす黒い夜だ。死んでしまいたい。
 ぼくは夢を見ていた。鳥がぼくを見下ろしてこう言ったんだ。
「おまえはなぜ飛べない? こんな簡単な事が、なぜ出来ない?」
 それはたしかに簡単そうだった。でも、ぼくは飛べなかった。
 羨ましそうに鳥を見上げていると、とつぜん銃声が聞こえた。鳥が落ちてきた。ケガは無さそうだったが、ご自慢の翼に穴が開いていた。
 鳥は膝を曲げて力を籠め、地面を蹴って羽ばたいた。だけど、飛べなくなっていた。何度試してみても、再び大空を飛ぶ事は出来なかった。
「なぜ飛べない? あんな簡単だった事が、なぜ出来なくなっている?」
 鳥の表情は、見てる方まで不幸になるほど悲しかった。自分は飛べなくて良かった。あんな不幸を味わうくらいなら、最初から飛べない方がいい。
 魔女の宅急便キキは、空を飛べなくなった時、どんな気持ちだったろう。裸足の王者アベベは、車いすに座った時、どんな気持ちだったろう。言語学の父ソシュールは、沈黙している時、どんな気持ちだったろう。ギターの神様クラプトンは、ヘロイン中毒の時、どんな気持ちだったろう。魔法力の切れた天才たちの、その心の中……。
 そして、ぼくの一番よく知っている男。あいつはどんな気持ちだろう。彼はあの時、川沿いの土手を歩いていた。
 The Moon。一日は、夜から始まる。一週間は、夜から始まる。一年間も、夜から始まる。宇宙の歴史は、夜から始まった。
 俺は土手を歩いていた。土手の上を吹く風は生ぬるく、肌にべとつく。眼下を流れる水はぎらぎら光っている。粘り着くような流れだ。世界はどろどろの黒色だ。
 世界を睨んでやる。川の向こうには街の灯りがちらつく。その光が黒い水をぴかぴかさせている。それ以外、辺りは黒一色だ。死にたくなるような夜色だ。
 疲れ切って、立ち止まる。俺の身体は外側だけ残して中身は空っぽ。いやにだるい。ふらふらする。足は土を踏んでいない。黒い地面は空気と解け合って、そこに実在するのかさえはっきりしない。
 地面が見えない時に自己の存在を確かめるには、頭上の空を発見すればよい。上を向く。後頭部が背中に付くくらい身体を反らし、星一つ無い夜空を見る。さらに反って後頭部を背中で抱えようとすると、俺の身体は雑草の茂る地面へ倒れ込んだ。地面は俺の背後に辛うじて在るようだ。
 眼前に、頭上に、足下に空が拡がっている。視界には空しか無い。空を領す雲の一部が円く光っている。朧気な白色だ。
 ああ、不快な風が俺を流れる。天井の布切れは流される。きっとあいつが雲に隠されているんだ……。
 光は雲に付着していないらしく、同じ場所にとどまっている。──現れやがった。
 月だ。まあるいあかるいお月様だ。
 俺は何も考えていなかった。ただ無抵抗に月の白い形を眼の中に流し込んでいた。口は無論だらしなく開いている。ほとんど死んでいる。
 俺の身体は生きていない。その屍体の奥底から何か浮いて来る。喉まで来て、口から零れる。ふと唇が動く。言葉だ、言葉が溢れたんだ。
「月、か……」
 この時初めて、俺は月を認識したのだった。
 月は周囲の暗黒から独立し、沈黙を護っている。美しい満足の象徴として空に控えている。悠然たる面持ちだ。──遠くで自動車の音が走っている。
 この身体に動く気力は残っていない。しかし、全身から顎に力を送ってようやく歯ぎしりする。ちきしょう、ちきしょう……。
 自分が何をしているか解らない。何の為に月を憎むのかも知らない。いや、知っているのだろう。だけど考える余力が既に無いのだ。俺は生きていないのだ。死んだわけでは無いのだが。
 指一本動かせない右腕を必死に持ち上げ、月を握り締めた。ちきしょう。力の入らない拳が震える。がくがくする。固く握れ、もっと強く。
 拳骨を見つめたまま、左手の方向に流れる川を意識する。昼でもどす黒い、脂肪の浮いたドブ川だ。月が投げつけられるにお似合いの場所さ……。
 瞬間ガバリと身を起こし、右手を激しく三途に振り下ろす。同時に視線を左へ落とす。あらん限りの力で眼を見開いて川を凝視した。月よ、死ね!
 水面に波紋が拡がった。
 俺はピクリともしなかった。果てた。醜い水面に動く無数の同心円の美しさすら感じなかった。風が髪を撫でている。
 数分経過。波紋は消え去った。川は元通りぐでぐでしている。自分でした事ながら、何が起こったか俺には理解できなかった。あの波紋は、なんだったんだ?
 俺は怖くなった。半信半疑ではあるが、波紋を起こしたのは月ではないか? 石コロみたいに落ちたのではないか? そして、落としたのは、俺。月をドブ川に投げたのだ、投げ捨てたのだ、この俺が。なんて事だ、不動の者を水面下に陥れてやったのだ。嬉しい、そして幸せだ。幸せの絶頂だ。幸せ過ぎる事への恐怖! 俺は怖くなった。
 右の手の平を顔に向け、喜色を満面に浮かべる。月は死んだ。俺が殺してやった。
 夜は再び静寂に戻る。身体の外部には冷ややかな風が這いずり、内部には疲れが蠢く。
「ああ、地上に残された我が身とドブ川、ドブ川を漂うゴミ達。夜を綺麗に飾って超然とする月に嫉妬する者達よ。いっそ地中に埋もれようか。
 地上に縛られたままの、この五体。疲れで地面にへばりついた腰と、虚脱の油で充満した重い頭。これらは背骨で繋がれていなければ別々の方向にゆっくり沈んで行ってしまう気がする。
 疲れた。一寸先も闇に包まれたこの世界に、余りにも疲れた。月の助けは俺には届かない。余りにも月の光は弱い。弱すぎる。己のみ美しく輝かせる月は、地上に対して余りにも配慮が足りなかった。そして、地上からは、月は余りにも遠すぎた」
 ほとんど自失の状態で呟き終えた時、ひどい孤独に気付き始めた。死にたいけど、独りで死にたくない。死にたくない。しかし他人と自分との距離を計ると、それがとてつもなく離れている事に驚く。すぐ近くに在る筈の川へも、この疲れた身体では飛び込めない。ドブ川のゴミ達への仲間入りも出来ない。
 俺の妄想は万物を飲み込んで巨大な地球と同化し地球全体の人類を取り込んだが地球の記憶が脳みそで雪崩のようにイメージをまきちらしながら破裂した。みるみるうちに地球がドロドロと流れ出して身体の下で地面を形成する。鳩を放つようにさまざまな事象が飛び立ち、身体から抜けていく。世界はまとまるどころか、それぞれ分裂し、離ればなれに放射していく。収縮力を失い、宇宙空間でバラバラになる細胞。拡散していく世界を変えられない。離れていくみんなを引き留める事は出来ない。
 天国は遠いところにある。途方もなく遠い距離、ロケットでも届かない天の高くに。だけど、すぐに着く。なぜならぼくたちは、ロケットより早く天国に打ち上げられているんだから。
 一本の樹木は立ち止まっていても弾丸より高速で運動している。ぶっとんでいってる。足下の地面は秒速一万メートルで猥雑な曲線運動をしている。寝ぼけていようと天国に連れていってくれる。きみの足をしがらみでくくりつけて振り回し、天国が近づけば束縛を突然解いて放擲してくれる。ハンマー投げ競技のハンマーのように飛んで行く樹木。
 マンドレイクの根やナイトシェード・血の苔が入ったフラスコに水銀を注ぎ、これを加熱する。時間の粒子はぼくらの身体を絶え間なく透過し、ぼくらの身体の中から色素を抜いていく。命という名の色素を。華やかな色彩は褪せ、心は骨色に染め上げられていく。見よ、灰色の老人が歩いていく。だが嫌悪する必要はない。すぐにぼくらも、あんな風に表白されるんだから。
 ぼくの砂時計の中をめぐる赤い流砂は、いつ静かになるのだろう。風よ吹いて。お願い、砂をまき散らして。たのむから、止めないで、ぼくの精神に空気を送り続けて。
 生温く土手の上を吹いていた風は次第に冴え冴えと冷え、肌をやさしくやさしく撫でる。気持ちの良い風。
 静かな、静かな昼下がり。眼下には濃紺の絹織物がたゆたい、日没時の空を思わせる。ざわざわと白く光る波が、魚のパレードさながらに海を渡って行く。空を画す雲の峰は水平線でスッパリ切断されている。青が濃すぎず純な透明度で満たされた空。吹く風は春の清涼を心に運んでくる。遮る物の無い断崖の上、自由を固形化した存在としての私は、私を捕らえていた看守を思い出した。無力な私を収監し、通じない言語を弄し、無理に話し相手をさせた看守の事を。
 思い出深い部屋。する事もなく、ただ漫然と、天井に照らされた投影画を飽かずに眺め続けたものだ。水面に反射し、天井に揺れる水の影。モヤモヤと半透明に光りながら緩やかに波打っている。庇が大きく張り出しているため、この部屋には直射日光が入って来にくい。太陽光線は一旦地上に落ち、水を鏡のようにして跳ね返る。陽光は下から射して来る。流れのゆらめきを伴って。
 そしてこの、漆塗りの古雅な鳥カゴ。太陽の熱に炙られたのだろう、竹造りの格子の濡れ羽色は、風情のある黒媚茶へと良いあんばいに褪せている。
 鳥カゴの中では、舶来物のカナリヤが一羽、その折れそうに細い足で留まり木を掴んでいる。径八寸の円錐の中はいかにも閑であり、美しい鳴き声を玲瓏と響かせる以外にする事がない。カナリヤは退屈そうに草の実をついばみ、時折り物憂げに格子の外を透かし見た。
 カナリヤの見つめる先には、白地に山梔子色の三筋格子が走る、清潔そうなワンピースに身を包んだ女が、やはりこれも物憂げにカナリヤを見つめている。
 絞られた日差しが狭い窓から部屋に躍り込んで来ている。静謐な湖面を優しい風がさらりと渡るように、秋らしくそよぐ風がカーテンを揺らしている。
 静かな、静かな昼下がり。屋外は海に似た青空が広がり、入道雲の山脈が首の痛くなるほど上までそびえている事だろう。思わず飛び込みたくなるような紺碧の海と、身を放り出したくなるような真っ白い雪山が。
 女はふぅと溜め息をついた。涼しい色に陰る部屋を見回し、青と白の風を呼吸する窓に目を移し、最後に鳥カゴの中の黄色に意識を据えた。
 女は何も言わずカゴの戸をあけ、留まり木のように人差し指を差し延べた。ちょんと乗るカナリヤ。女はそのまま窓のそばに立つと、さみしそうにほほえんで、「さあ、おゆき」とささやいた。
 カナリヤは不思議そうに女の顔を見つめ、首をかしげる。しばらくはどうして良いか判断できず手持ちぶさたに囀ったりしていたが、やがて全てを了解したように窓の外へと飛び立った。
「げんきでね」
 見知らぬ土地で生きる事になったカナリヤには、これから何が待ち受けているかわからない。エサを獲る事が出来ず腹を空かせるかも知れない。羽を休めている所をのらネコに襲われるかも知れない。それでも女はカナリヤを放たずには居られなかった。夫には、不注意で逃がしてしまったと言い訳しよう。
 女は目を閉じて手を組み、強く神に念じた。
「どうぞあのこをお守り下さい。幸せを授けてあげて下さい」
 厳かな祈りは窓を抜け、空に昇り、天に吸い込まれていった。盛りを過ぎた陽は西に向けて降下を始める。空虚となった鳥カゴは格子を白く光らせている。
「せめておまえだけでも」
 女はいつまでも、工芸品と化した鳥カゴを見つめていた。
 下女がランプを灯しに来た頃、夫が帰ってきた。
 The Fire。生命を蹂躙する炎が地球を覆う。真っ赤な岩漿が空に向かって叫びを上げる。それはまた、ほとばしる生命活動の象徴。いやしく弱い生命誕生の予兆。
 行燈の灯心が燻り出した頃、夫がやって来た。
 倒木のように老いた、そのくせ強欲で、色情狂で、肥だめのごとき体臭をぷうんと臭わせる夫。見るのも汚らわしい!
 ゆうべは庚申の夜でじんまりとも出来なかったから、今夜はぐっすりと眠りたいのに。なんで選りに選ってこんな日に初夜を迎えなきゃいけないわけ? しかも、夫だって床に就いてないはず。なのに何でそんなに元気なのよ。
 雁のように大空を駆ける力が私にあれば、今すぐにでも山の向こうに逃げ込むのに。でもそれは叶わない。ずしりと重い十二単は私を押し伏せて束縛する。華やかなお召し物だけど、華やかなだけではない。宗国の纏足と同じ。女の自由を奪うのに好都合な、拘束具の役目も有しているのだわ。
 男は取っ替え引っ替え。でも、女に選択権はない。そんなの間違ってると思う。男と女で、何がそこまで人として違うのかしら。ジェンダーとりかえばや。
「そちの実もそろそろ熟してきたろ。どおれ味見としゃれこむかの」
 こんな幼な妻を捕まえて、何が「熟してきた」よ。いいかげんにしなさいよこのドエロ!アンタのその醜陋な老体を見ると吐き気がするの。初めての相手は光様のような美青年の殿方がいい!
 あれだけ懸命に念持仏を拝んだのに、功徳は得られなかったのか。念じ方が足りなかった……? いいえ、一日中この閨室に閉じ込められて暇を持て余している私は、多分お寺様よりも多く祈っていたはずだ。お釈迦様は私をお見捨てになった。現世御利益をお与えにならなかったのだ。
「種を蒔いてやろうぞ……」
「いや、いや。いやっ! いやよ絶対いやヤメテやめろアッああッアーッ!」
 御簾の隙間から月光が染み込んでくる。冷たい青い光。「この世をばわが世とぞ思ふ」ような満月ではなかった。
 The Water。立ち昇る水蒸気の凝固、激しく厳しい慈悲の雨。荒々しき母なる海の現出、父なるマグマの種付け。不可思議なる生命を産み育む揺り籠。地球、水に満ち生命に満つ。
 チュカはチーズの味がする腐ったセイウチの生肉をつまみながら、イグルーの窓から流れ込んでくる優しい光を見つめていた。その光は息のように白く輝いている。
 太古からイヌイットに伝わることわざ「家の窓を小さくするな。部屋に日の光が入らない」とは裏腹に、月明かりを採り込む窓は控え目に刳り抜かれている。極寒の地でこれ以上窓を大きくすれば、暖かい日の光どころか、凍てつく風が暴漢のように侵入してくる。
 月の呼吸した光を目で辿っていると、鯨の骨で作られた槍に目が留まった。ついさきほどまでチュカを征服していた男──夫の親友・マギが忘れて行ったのであろう。
 イヌイットの猟師たちにとって、妻を共有する事は友情の証である。今ごろチュカの夫・イムニは、マギの妻を抱いているに違いない。
 なんだかやるせない。
 月の光を鈍く照り返す槍。マギの所有物らしく、雄々しく尖っている。勇敢な猟師の武器だ。だからと言って、マギの槍もマギ自身も、チュカに満足感をもたらす事はない。
 チュカが男に求めているのは、もっと観念的な、精神的なつながりである。「移動民族なのに」と笑われるかも知れないが、地に足を着けた関係を欲しているのである。
 マギに抱かれ、心ではそう思わなくても体では悦んでしまった自分に気付いた時、チュカはたまらなくイムニが恋しくなった。激しく嫉妬した。マギの妻をかわいがっている所を想像すると、気が動転してヒステリーを起こしそうになる。
 月が出ている晩、女は外に出てはならない。月は女を襲うからだ。が、イムニに会いたくて会いたくてたまらなくなってしまった。理性が働かない。この気持ちを抑える事は到底出来なかった。
 チュカは立ち上がった。マギの忘れた槍を届けるという名目で、イムニの元へ行こう。さみしくてたまらない。この気持ちはもうどうにも制御が効かない。入り口から外を窺い、誰も居ない事を確認すると、満月が見下ろす氷上にそっと足を踏み出した。
 月が出ている晩、女は外に出てはならない。月は男性であり、女を襲うからだ。その光は息のように白く輝いている。
 ほの暗い地平線にはオーロラが煌めいている。シースルーの布切れのようにたなびき、菖蒲色・鳩羽鼠・ウルトラマリン、さまざまに色を変えつつ揺れている。
 月は真上からチュカを見下ろしている。チュカは槍をギュッと抱きかかえ、顔を真っ赤にして恥ずかしがった。
「わたし、見られてる……」
 チュカは月の視線を感じながら、ザクザク軋む足下を見つめ続けた。月を見てはいけない。槍を持っているので、顔さえ合わさなければ男と勘違いしてくれるだろうが、しかし目を合わせたら危ない。女だという事が明るみに出たら途端に牙を剥かれるに相違ないのだ。
 風の無い、比較的おだやかな夜だ。月光に照らされた白銀が昼のように明るく照り返している。チュカは夜道を照らす月にお礼を言いたい衝動に駆られた。でも、それは出来るはずがない。声を出せば女とバレてしまう。じっとダンマリを決め込んだ。
 マギの家はすぐそこだった。チュカは忍び足で近付き、中の様子を窺う。
「で、どうだった」
「それがね」
 マギとマギの奥さんの声が聞こえた。ちょうど今晩の情事について話しているようだった。チュカは戸口に立ってしばらく聞き耳をそばだてた。
 すると、どうやらイムニはマギの家に来ていないらしい事がわかった。
「もしかしたら、アムクの家に行ったのかもなぁ」
 マギの言葉を最後まで聴く事もなく、チュカはその場に槍を置き、残念そうに踵を返した。
 残念? 本当にそう思っただろうか。説明出来ない複雑な感情がチュカを責め立てる。
 イムニがマギの妻を愛さなかった事に安堵を覚えたか。それとも、イムニを差し置いて悦楽に興じた自分を恥じたか。イムニに他の女を抱いて欲しかった? 夫の愛が自分から逸れる事を暗に望んでいたのだろうか。その場面を覗き見たかった? 自分は夫から愛されたくない、もしくは愛してない?
 よくわからなかった。とにかく、イムニへの情熱の炎は弱々しく鎮火し、チュカの心には冷気が吹き込んで来た。
 高ぶったり、落ち込んだり、よくわからない感情に振り回されながら、チュカはトボトボと自分の家に帰る。月の魔力でおかしくなってしまったのだろうか。月。人を狂わせ、女を身籠もらせる、月。
 月! チュカは槍を提げてない事に今さらながら気が付いた。
「こちらを向きなさい。こちらを向きなさい。こっちを向け。俺を見な」
 月がそう語りかけてきているように感じた。月に疑われている。槍を持っていない、女のような背格好の人間を見つけて、月が興奮している。
「こっちを向け。こっちを向くんだ。俺を見な。俺にその顔を見せるんだ」
 チュカは怖いような楽しみなような、ひどく不安定な心境に翻弄された。イムニ。月。イムニ。イムニ……。
 誘惑に負けてしまったチュカは、ほんのちょっとだけ空を見た。
 すると! 途端に接吻された。チュカはビックリして目をひんむく。しかしよく見ると、その瞳の奥には喜びの星も燃えているらしかった。チュカはそのまま押し倒され、月の寵愛を一身に浴びた。
 それから半年。チュカのおなかは日に日に大きく成って来ているようだった。
 誰が目撃したのか知らないが、チュカが月の晩に出歩いた事は村中の噂となっている。
 噂を気に病んだ夫は、村のアンガコクに事の正否を占ってもらった。
 アンガコクは犬の頭蓋骨を叩きながら祈祷を捧げ、やがて「チュカは月と交わった」と断罪。さらに悪い事に、「腹の膨らみ方から言って、子どもを宿したのは件の月の晩だ」と言い切った。
 チュカはイムニから見捨てられ、悪夢の世界に落っこちて行った。その世界は真っ暗で、イナゴが空を埋め尽くしている。月も見えない。チュカの耳にはイヌイットを埋葬する時に演奏される音楽が流れ始めた……。
 まるで葬式のようだ。大勢の和尚たち・宮司たち・陰陽師たちが、それぞれの信奉先に向けて経文やら祝詞やらをわめいている。全く息が合っていない。異なる文言を各々勝手に言い放ってるのだから当然と言えば当然である。しかし彼らの不協和音は単なる騒音を奏でるだけではない。得も言われぬ凄まじい霊気を帯びている。
 几帳の内には女ばかりが五名。一人は布団に横になっている。他の者は厳粛な表情で円座の上に居を正している。いずれも白装束。
 横になった女は死に瀕しているのではない。むしろその逆に近い。数人の女御に助けられ、これから赤子を出産するのだ。玉のような汗を瓜実顔に並べ、苦しそうに胸を掻きむしっている。局部からは血が滴り始めている。
 血は穢れである。死と同様、汚らわしい。流血を伴う出産は穢れである。誕生は祝うべきもの・歓迎すべきものだ。しかし、出産それ自体は汚らわしいのである。
 穢れある所にもののけは現れる。水子を流すのは物の怪の仕業である。妊婦を殺すのも物の怪の悪行である。物の怪の力を抑えるために祈祷師たちは集まっている。
 祈祷師の群には錚々たる阿闍梨・僧正・大神主らが座っていたが、その中にあって、取り分け名の高い陰陽師が一心に加持を捧げていた。鵺を退治した武勇伝の持ち主、蘆耶堂磨である。
 蘆耶は一ヶ月雪山に籠もって修験道も会得し、敷き詰めた五寸釘の上を素足で渡る事が出来、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と火だるま踊りの妙技を禁中で披露した事もある。
 その蘆耶がはたと加持を中断し、険しい顔で周囲を見回し始めた。何か匂っているかのように、または耳を澄ませるように、ゆっくりと慎重に何かの気配を追っている。周りの僧たちは念仏を続けながらも、心配そうに蘆耶の動向に注意を払った。
 やがて蘆耶は、誰に告げるともなく「邪悪な念近付けり」という警告を口に上らせた。蘆耶の予言にギョッとした祈祷師たちは、落ち着きを失い、安産祈願の声を狂わせた。室はたちまちざわつき、混沌とし、さきほどまでの霊験あらたかな空気は一挙に掻き乱された。
「パンパカ パーン」
 おもちゃのトランペットの音色が高々と響き渡る。続いて鼓笛隊の祭囃子が奏でられた。
「タンタ ランタ トンタ タンタ」「トッテチッテッタ」
 列を成して、死人が歩き始めた。肺結核をこじらせて死んだ音楽家。胃潰瘍で死んだ作家。顔一面に黄疸の出た肝臓癌患者。餅を喉に詰まらせ、青黒い顔をパンパンに張らせた翁。しわしわの皮膚を腐らせている老婆。レイプされ、頸動脈をスッパリ切られたモデル。身体に開いた穴からドクドクと赤い物を流している蜂の巣。吐瀉物で喉を窒息させた酔っぱらい。右肩から袈裟に裂けて、鼓動を打つ心臓や米粒の詰まった胃の腑まで見える現場作業員。鮫にガップリ喰い付かれ、肉色の腸をだらしなくはみ出させているサーファー。真っ黒に焼け焦げて骨まで見えている男(もしくは女?)。左の目玉がどろりと顔に垂れ下がっているタクシーの運転手。ヘルメットごと首が反対方向にねじれているバイク乗り(首はちぎれそうだが、皮一枚でどうにかブラブラつながっている)。頭がグチャグチャに吹き飛んでいる銀行員(強盗にあったらしい)。飛び降り自殺で脳漿をぶちまけた中学生(服まで真っ赤、脳みそ色)。口と言わず鼻と言わず、全ての穴から汚臭のする黄色い体液をぶちまけている囚人。腐ったヘソの緒をぶらさげて白目を剥いている赤ん坊。ケロイド状に溶けた皮膚を引きずる被曝者。
 五千人近い死者たちのパレード。彼らの躯から流れる腐敗した血液は、ドス黒く濁った川のせせらぎを形成する。その小川の中を、彼らはジャブジャブと陽気に進む。
「タンタ ランタ トンタ タンタ」「トッテチッテッタ」
「ピンと引きゃヒュッ、ステテコテンのカーッポカッポ、ポロリンシャンの、ピッピ」
「かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれ」
 突然ドラが鳴った。漆黒の闇の向こうから、この世で最も惨い死に方をした男が現れた。死者たちは皆、その姿に恐れおののき、臓器や剥がれた皮膚・骨の破片が浮かぶ川中に平伏した。
 それは、魂がバラバラに引きちぎれた男の子。虚となった眼窩でこちらを見つめ、歯を剥き出しにして笑っている。魂と骸はそれぞれ分裂し、離ればなれに放射していく。収縮力を失い、宇宙空間でバラバラになる細胞。眼前に、頭上に、足下に空が拡がっている。視界には空しか無い。
 出家たちは一人残らず物の怪の接近に身震いをした。しかも小坊主ではない、悪霊退散の修行を積んで来た高僧たちが、である。情けない話である。
 蘆耶の表情も硬い。無理もない。彼は「邪悪な念」を最も身近に感じているのだから、一座の内で最も逼迫した緊張を催すのはごく自然の傾向である。
 几帳の中で御産を手伝う女御たちも、四方から聞こえてくる祈祷の声が変化した事に動揺した。何か良くない異変が起きている事は彼女たちにもしかと知れた。もちろん妊婦も不安を感じ始めていた。息づかいが荒くなっているのが自分でもよくわかる。
 物の怪が天井から忍び寄り、胎内に取り憑き、赤子をムシャムシャ喰らっている想像が頭をよぎる。実際、お腹は激痛に襲われ、この世の物とは思えぬ感覚が跋扈している。身体から血の気が失せていく。
 寝っころがって白い天井を見つめる時、明るい日差しの下に遠景を眺める時、──網膜が強い光を感じる時、透き通った蛇が視界に浮かび上がる。白魚のような亀裂。微生物がへばりついているような亀裂。潰れた虫のような、蛇。蛇の目が黒くなってきた。眼球を動かすたびにこれがチラチラする。どこからともなく影が忍び寄り、するすると天井に這い昇っていく。その影はモコモコと膨張し、なにやら人の形に溶解する。二本の角がニョッキリ生えた悪魔が姿を現した。鰐口をカッパリ開けてピースサインをしている。耳元まで避けたその口の中は真っ赤で、彼が笑うたびに血がポタポタと垂れてきた。
 天井に半透明の物の怪が姿を現した。彼女は恐怖のために瞬きも出来ず、半ば強制的に物の怪を見つめねばならなくなった。物の怪はニヤニヤ笑いながら、白い物を手にブラブラさせている。それは、彼女の膣から引き抜いた魂であった。
 あ、と小さく叫んで、彼女はそのまま気絶した。なんとか命は助かったが、気の毒に、流産であった。
 強大な物の怪の肉迫を感じ取り、予知したのは、蘆耶ただ一人。この事件のおかげで蘆耶の名はより一層高まった。原因不明の病に苦しめられる人があれば、物の怪の祟りを祓うために蘆耶が呼ばれた。
 ある日の午後、病の痛みに苦しむ患者がブレーメンの病院を訪れた。患者は猟師。腕が赤く腫れ上がりグジュグジュに化膿している。顔は耐え難い苦痛に歪み、この苦しみから解放されるなら腕を切り落としても構わないと言わぬばかりの泣き顔である。
 博士は患部を慎重に検べていたが、やがてその病名を告げた。
「丹毒ですね。伝染病です。傷口から菌が感染しています」
 博士は椅子から立ち上がると、薬棚からジャム容器ほどの小ビンを取り出してきた。
「これは丹毒に特効性のある新薬です」
 ビンのフタを開け、トロリとした黄色の液体を匙ですくう。
「少し染みるかも知れません。我慢して!」
 薬は患者の腕に垂れ落ち、傷口に擦り込まれた。患者は激痛に歯を食いしばる。博士は気の毒そうな色を見せながらも、確信に満ちた微笑を口元に浮かべている。
「これで完治間違いなしです」
「ありがとうございます……」
 脂汗を垂らしながら患者はお礼を述べる。博士はニコリとほほえみ、薬の効能について説明を始めた。
「丹毒ばかりではない。あらゆる皮膚病に効果のある軟膏です。全人類を救う奇蹟の薬草から生成されています」
 患者は看護婦に包帯を巻かれながら、学の無さそうな顔をキョトンとさせてフンフンうなずく。博士は机の抽斗から麻袋を取り、細かく刻まれた黄色い葉を中からつまみ出した。
「探検家たちが新大陸から持ち帰った薬草で、原住民が供物として神に捧げていた神聖な植物だそうです。元は青い葉なのですが、乾燥させるとこのような秋色に変色します。充分に乾燥させて細かく刻むと完成です」
 博士は完成品を指先でこね、羽ペンに似た棒の先に詰め込んだ。
「この薬草は革命的な医学的進歩をヨーロッパ全土にもたらしました。油と混ぜ合わせれば、あなたに塗布した軟膏のようになるし、軟膏をガーゼに染み込ませれば湿布となる。直接噛んで飲み薬としても効能があるし、病状に応じて色々な処方の仕方があるのです」
 博士は火起こし機をカチリカチリと鳴らし、棒に詰められた薬草に火を移し、そうして棒をくわえた。棒の中心は穴が貫いているらしく、博士が呼吸するたびに煙がプカプカ出る。
「このように燃やして煙を吸引したりも出来る。肺病に効くのはもちろん、血液循環が活発になって寿命が延びます。化膿した傷・骨折・ガン……百病を治癒する、まさに万能薬です」
 患者は大変感心し、ペコペコ頭を下げながら診察室をあとにした。新薬代として高い治療費を払ったが、腕の痛みはすっかり楽に成って来ているようだし、すぐ治ると知って大満足だった。
 The Gold。金で回る生物の登場。貨幣を糧に、燃料に、稼働を開始する自動機械。害虫。黴菌。劇薬。地球は毒に冒された。
 それから半年。患者の腕は壊疽で腐り落ちた。原因不明の病に苦しめられる人があれば、物の怪の祟りを祓うために蘆耶が呼ばれた。すっかり抵抗力の落ちた彼は、ペストを併発した。
 ペストの猛威を避けるため、二十三歳のアイザック・ニュートンは、故郷のウールスソープで休暇を取っていた。
 おだやかな午後である。ニュートンは自室で『新約聖書』やケプラー著『世界の調和』などを読んでいたが、やがて目が疲れてきたので、ティータイムのあとは庭に出て、リンゴの木の下で黙想に耽っていた。
 静かだ。空は晴れ晴れとした露草色。秋風が心地良い。夕暮れ時にはまだ早いというのに、空には白く円く小さな月が、その涼しい顔をほの薄く覗かせている。
 とても静かだ。この静けさは、繁雑とした人生の塵労を忘れさせてくれる。ケンブリッジ大学での忙しい日々を忘れさせてくれる。免費生として、学問だけではなく雑務にも従事せねばならない、気に食わぬ生活を忘れさせてくれる……。
 今この瞬間、ニュートンの世界に存在しているのは、彼自身と、木と、風と、そして月だけになった。彼の意識は不純物を取り除かれて透き通るように浄化され、脳内の視界がパァッとひらけていった。
 ミッション系のジュニアハイスクールに通うスミス・モリシマは、退屈が大嫌いだった。せまい教室に押し込められ、十把一絡げに扱われるのは耐え難い苦行だ。教師は言う。コンスタンティヌス・パレオロガス……次の二次関数を参考にしてy=2x+aの解を求めよ……当時の出産は危険が多く、それを物の怪のためとして加持祈祷を行なった……セイント・ニコラウス……我らが父、ジーザス・クライストは斯く語りき……チーズの味がする腐ったセイウチの生肉……フレミングの左手の法則……あなたたちは立派に成らなければいけない……一七八九年、フランス革命……スミス、おまえも正しく生きなければならないよ……
 うるせぇ!
 息が詰まりそうだ。この閉鎖された空間から、閉塞した時代から、飛び出したい! 俺のストレスは臨界点。きさまら教師が知識を叩き込むばっかりに、俺の中から新鮮な空気が押し出されちまった。ただ無抵抗に月の白い形を眼の中に流し込んでいた。生きていくのにムダな不純物ばかり詰め込まれ、生きていくのに必要な力が追い出されちまった。
 先生あんたは「聖書は人生を豊かにする」って言うけれど、人生は聖書のためにあるんじゃないんだぜ。知らないのかい?
 先生あんたは「聖書くらい教養として読め」っていうけど、そんな雑学知らなくても生きていけるんだぜ。知らないのかい?
 聖書とニラメっこしてたら、人生の大半は浪費してるんだぜ。もっと遊んだ方がマシだ。知らないのかい?
 ヘリコプターからスカイダイビングしたり、クルーザーからスキューバダイビングしたり、ライヴステージからロケットダイビングしたり、ビルディングからスーサイズダイビングしたり、な。書の中に飛び込んで、空想の世界に縛られているより、聖書の外に飛び出して、世界は丸いんだって事、その目で確かめるんだ。
 いいかい、俺を見なよアンダーソン先生。スミス様が遊ぶさまを。教室から飛び出してやる。ダイビングがどれだけ心地よいか、心地よさそうか、見ておけ。
 結局、金の無いスミスは一番下のダイビングを選んで実行した。地球へ飛び込んでいくスミスの身体を見ながら、教師は思った、「たしかに爽快そうだ」と……。まぶしそうに羨望の眼差しを向けながら。
 世界は幸せな光に満ち、空には神からの祝福・虹が架かるような錯覚すら覚える。虹。七色の半円形アーチ……。
 七色の光──三角プリズムの分光を観察し、色によって屈折率が異なる事を発見した実験が思い出される。この実験によって思いがけず得られた「光と色に関する理論」色彩粒子説は、ギリシャ時代から信じられてきた色彩変容説を革命的に覆した。厳かな祈りは窓を抜け、空に昇り、天に吸い込まれていった。
 半円形──曲線を運動する点として捉え、変数や関数を試算した経験が思い出される。これは微積分学の祖として後世に知られる事となる「流率法」で、ライプニッツの微積分法よりも十年ほど早い発見である。
 そんな「虹」を感じながら、ニュートンはただ漫然と木の下に座っていた。
 この年は「驚異の年」と呼ばれる。当時の彼自身は気付いていなかっただろうが、近代科学に残る巨大な足跡を、この一年間で三つも着想したのだった。
 そして今まさに、三つめの足跡・しかも最大級の一歩を、ニュートンは踏み出そうとしていた。神からのギフトがニュートンの目の前に投下されようとしている。
 リンゴが落ちた。
 それは単なるリンゴの落下だった。取るに足らない現象だった。
 ニュートンはその様子をキョトンと見ていたが、やがて彼らしい好奇心に駆られ始めた。なぜ、リンゴは落ちたのだろう。そんな疑問がうっすらと、彼の心を靄のように曇らせ始めた。
 風が吹いている。やわらかな風だ。リンゴを打ち落とすほどの暴風ではない。では、なぜリンゴは落ちた? ニュートンは赤い実を手に取ってみた。すると彼の頭は電気が走ったように閃いた。ニュートンの世界はさらに抽象化され、木と、リンゴと、そして地球だけになった。リンゴの落下運動は神の啓示としてニュートンの心に響いたのである。
「物体は地面に向かって真っ直ぐに落ちてくる……」
 ニュートンは右手でリンゴを弄びながら、怪訝そうな顔で木を見上げた。
「垂直に。地球の中心めがけて、逸れる事なく……」
 リンゴを一かじり。
「地球の重力がリンゴを引っ張ったから、だからリンゴは落ちたのだ」
 独り言をつぶやく彼の口から白い歯が見える。
「では、月はどうだ?」
 ニュートンの世界は、いよいよ地球と月だけになる。
「月もリンゴと同じように落ちて来ないのはなぜだ?」
 再びリンゴを噛む。さらに噛む。ニュートンは白い月を凝視したままリンゴを囓り続ける。囓り続ける。それでも答えは出ない。しまいには、少し興奮しながらリンゴの芯を遠くへ投げ捨てた。
 その咄嗟の瞬間、答えは出た。
「月は飛んで行っているのだ!」
 芯の飛んで行くイメージが思索を助けた。そう、月は遠くへ飛んで行っている。そのまま宇宙のかなたへ飛んで行ってしまわないのは、地球に引っ張られているからだ。月にも地球の重力は及んでいるのだ。月は飛びながら落ちている。落ちながら飛んでいる。そうして地球の周りをグルグル回っている……。拡散していく世界を変えられない。離れていくみんなを引き留める事は出来ない。
 デカルトの唱えた惑星運動論は間違いだったのだ。微細物質が渦動して星は動くのではない。石をくくりつけた紐を振り回すように、飛んで行こうとする力と引く力との相剋だったのである。
 そのままニュートンの精神は宇宙に飛翔し、太陽系を俯瞰した。そこで彼の目は、太陽を中心にしてグルグル回転する惑星を見た。水星・金星・地球・火星・木星・土星……。目に見えない糸が、引力が、彼の双眸に映じた。
「このバランス感覚……。これこそが、神の成せる御業だ」
 月は次第に明るくなって来ている。空はほのかに暗くなり始めた。リンゴの木の下に腰を下ろしていたニュートンは、秋らしい夕暮れに冷たさを感じたせいもあり、部屋に戻って今日の印象をまとめる事にした。
「この宇宙を統べる統一的法則。その謎を解明する事こそ、神に近付く唯一の方法……」
 The Ground。生物は地球の火と地球の水とで捏ね上げられた。私たちの身体は地球を化合して出来た、いわば地球の一部。地球を離れては生きていけない。地に足をつけて地球と共に廻転するんだ。
 ニュートンは万有引力の発見に心を踊らせた。英国国教会の教義とは相容れぬ、異端的信仰を薄々自覚しながら……。
 オカルト教団が定例集会を催すという。その噂を聞き付けた私は、信者に成り済まして潜入取材を敢行した。
 集会場の講堂に入る。緊張と不安の色は隠し切れず、手のひらにじっとりとした汗を感じる。
 引き戸を開ける。中は案外明るい。照明にはロウソクを用いるという先入観があったのだが、意外にも白色蛍光灯を使っていた。健全な自己啓発セミナーの趣である。
 しかしすぐ、私は圧倒された。ずらりと並んだ長イスに、白装束の人間がビッシリ座っている。白・白・白。しまった、これでは私がニセモノ信者だという事がバレてしまう……!
 せっかく潜り込んだ秘密の集会。何ヶ月も前から綿密な潜入計画を立ててくれた編集長のためにも、おめおめと帰れるわけがない。なるべく平静を装いながら、私は奥へと進んだ。ゆっくり、ゆっくりと、足音を立てないように、全身をこわばらせて。
 案の定、私は注目されてしまった。周囲の視線が突き刺さるのを感じる。白で埋められた講堂に、私のような異端者が紛れ込んできたのだから、当然だろう。しかし、ここで怯んでいる場合ではない。これから始まるおぞましい儀式を、冷静にレポートする使命が私にはある。
 中ほどの席に腰を掛け、開会を待つ。奇異を見る目が私を射抜く。じっと耐えるのもつらいほどの熱視線が背中をじりじりと焼いてくる。かなり怪しまれているのは間違いない。異教徒という事が露見したら、どんなひどい仕打ちをされるのだろう。魔女狩りのように生きたまま火で焼かれるだろうか。磔刑にされるだろうか。両脚を二頭の牛につながれて、股から裂かれるだろうか。それとも、飢えたトラの棲む檻に放り込まれるだろうか。
 心に恐怖が芽生え、すくすくと育っていった。悪い想像は止めどもなく成長する。妙ちきりんな汗が額を流れ、頬を伝って顎に至る。汗? 涙だったかも知れない。
「これ、ハトよ。堂宇の屋根にクソを垂れるでない」
「どうしてだいお坊さん。だってこんなに古くて汚い建物じゃないか。今さらちっとやそっと汚れたって構わないじゃないか」
「歴史ある、由緒ある建物なんじゃ。後世にまで伝えてゆかねばならぬ。おぬしらのクソで痛んだら大変なのぢゃ」
「ハトに歴史は無いよ。ハトの後世には無くても困らないよ」
「一応聴いておくが、いかに無知なおまえでも、阿弥陀様は知っているだろう」
「バカにするな。知っているさ」
「その堂宇は、阿弥陀様のお住まいぞ。阿弥陀様の頭上めがけてフンを垂れるとは何事ぢゃ。恥じ入れ」
「へえ。阿弥陀様がこの下に居るのかい?」
「そうだ」
「はは! 俺の下に居るのかい。俺はてっきり、俺より上に居らっしゃると思ってたよ!」
 異様な雰囲気の中、触れれば弾け飛んでしまうほどに膨脹した緊張感を伴って、集会は幕を開けた。
 打ち鳴らされる教会の鐘。教祖と思しき人物が祭壇に上がる。信者たちが深々と一礼するものだから、異端の譏りを蒙らぬために、私も習ってこうべを垂れておく。
 教義が始まった。ここからさらに異次元世界へと突入する。この者達は、神の存在を否定して憚らない。我々の神を蔑ろにして得々としている。大きな衝撃を受けた。
 教祖は悪しき呪文を唱え、魔法陣を描く。十字に下弦曲線や斜線、それから無機質なアルファベットを羅列していく。
 突如として非日常の世界に放り出された私は非常に混乱した。お恥ずかしい話だが、ここから起きた出来事をあまり覚えてないくらいだ。それくらい困惑してしまった。
 覚えている印象をかいつまんで記しておくと、次の二次関数を参考にしてy=2x+aの解を求めよ、彼らはあらゆるカルト宗教同様「この宗教を他の宗教といっしょにしないでくれ」と唱える。みずからの異常性を棚に上げて他の宗派を排撃する。そして、超能力を信じない。自分たちで定めた記号や式しか信奉しない。自分たちの教典で説明出来ない事象は、全て頭ごなしにやりこめる。ガリレオを裁判に掛けた教会のように、超常現象は全て「トリック」と撥ね退ける。おそるべき無知蒙昧!
 私が戦々恐々していると、教祖はふと説教を止めて叫んだ。
「そこのおまえ!」
 矢で貫かれたように、私はビクリと身体を震わせた。教祖は私の正体を見破ったのだ。
「なんだその服装は。実験をする日は白衣を着てこいと言ってるだろうバカモノ」
 私はそのまま逃げるように講堂を去った。ああ、我らの神が彼らに天罰を下さん事を祈る!
 あのあと、「実験」と称しておぞましい秘術が行なわれたのだろうが、私にそれを知る術はない。
 私は超能力よりも科学を信じる立場ですが超常現象を何でも頭ごなしに否定するのは良くないと思います鳥凝り固まった固定観念は想像力の働くフィールドを縮めてしまいます間違いを正しいと思い込む治療者のその罪それから科学によって信憑性を認められたから信じますという科学万能主義のスタンスが好きではありません祈祷師の知ったかぶりによって何人の女性が流産した事だろう命を落とした事だろう例を挙げますフラミ催眠術が世に登場した当時人々はその効果をいぶかンゴしんで真っ赤なウソだと断じましたけれど時が経ち医学的心理学的に正しいと証フ明された途端催眠術は本当だと信じ始めましたあのタバコ崇拝博士は実在の人物で喫煙が健康に良い事を讃えた論文を一六二二年に著しているバカじゃねーの私はそういう科学偏ラ重の風潮を好みません元始女性は実に太陽であった真正の人であった今女性は月である他に依って生き他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である平塚雷鳥私は幽霊や超能力の存在を信じてミンいないのですが否定はしません念力や透視のゴ効果を科学的に実証できないからといってすぐウソだウソだと糾弾するのは早計以外の何物でもない人知れぬ進化を続けもはや誰も理解できないような目眩のするような苦しい目まぐるしい夢夢夢ならぬ夢に堕ちていく堕ちていく。
 四十歳のアイザック・ニュートンは、ケンブリッジ大学のうらさびしい小屋で、ある研究に寝食を忘れていた。ある研究とは、卑金属から貴金属を精製する方法の模索、つまりは錬金術の研究であった。
 錬金術の歴史は古く、起源は古代エジプトにさかのぼる。その術法は秘伝とされ、錬金術師に代々口伝される秘密裏の秘法であった。貨幣を糧に、燃料に、稼働を開始する自動機械。醜い水面に動く無数の同心円の美しさすら感じなかった。古代化学と言うより、魔術としての学問と言った方が正しい。大勢の和尚たち・宮司たち・陰陽師たちが、それぞれの信奉先に向けて経文やら祝詞やらをわめいている。
 力学・光学・天文学を究めたニュートンは、次に、この謎めいた化学を研究対象として取り上げた。足下の地面は秒速一万メートルで猥雑な曲線運動をしている。女の自由を奪うのに好都合な、拘束具の役目も有している。そして、彼の最大の功績としてよく知られる物理学それ以上に、心を砕いて実験を重ねたのだった。
 もっとも、錬金術の研究に力を注いだとは言っても、貴金属を精製して富を得ようとしたわけではない。雁のように大空を駆ける力が私にあれば、今すぐにでも山の向こうに逃げ込むのに。足は土を踏んでいない。黒い地面は空気と解け合って、そこに実在するのかさえはっきりしない。ニュートンは科学者である。そして、「最後の魔術師」である。自然界に隠された秘密・万物流転の不可思議──神の御業に迫ろうとしたのである。
 鉄や鉛を金に変える──そのためには、黒魔術の呪術を採用するのさえ憚らなかった。露見すれば異端審問に掛けられるかも知れない。その屍体の奥底から何か浮いて来る。その危険を承知しながらも、ニュートンは怪しげな調合を繰り返した。神に近付こうとするニュートンの情熱は、正統キリスト教をも畏れなかったのである。
 暖炉で燃える焚き木が室内を茶色く染めている。その薄暗い部屋の中、ニュートンは胸の前で十字を切り、手を組んで悩み深げに祈った。
「神よ。私は世界を知りたい。あなたの神通力が満ちた、あなたが満ちた、この世界を。そのために悪魔の術を借りる事を、お許し下さい……」
 The Sun。太陽の下に新しきこと無し。何もかも過去の諸行の類似品・焼き直し。
 マンドレイクの根やナイトシェード・血の苔が入ったフラスコに水銀を注ぎ、これを加熱する。賢者の石と呼ばれる物質を化合するためである。
 賢者の石は錬金術に欠かす事の出来ない物質。鉄を金に化けさせるために必要となる。探検家たちが新大陸から持ち帰った薬草で、原住民が供物として神に捧げていた神聖な植物だそうです。彼は賢者の石を完成させるため、他者との接触を断って夜な夜な生成実験に入れ込んだ。元は青い葉なのですが、乾燥させるとこのような秋色に変色します。水銀中毒に陥り、頭が朦朧としてくるまで、彼はフラスコの中のトロトロした液体を揺すり続けた。
 なかなかうまくいかない。出来損ないの賢者の石と、配合比率をメモした手記。それらが膨大な量になっていくばかりで、良い結果を得られる事はなかった。家の窓を小さくするな。部屋に日の光が入らない。それでも諦めない彼は、半ば取り憑かれたように調合を続ける。錬金術の先行文献が不足しているため、彼自身が一から学問を興すような気概で。
 朝露を加えてみる。蜘蛛の巣を混ぜてみる。硫黄の灰を、ナイトシェードを、次々に試してみる。しかし、いずれの試みも良質な賢者の石を産み出すには至らない。金を現出させる奇蹟の物質には成らない。
 栄養障害・睡眠不足・不摂生と水銀中毒とで、彼は病的に痩せこけて来た。精神も病み始め、明晰な思考が徐々に錯乱して来た。
「不徳にも神に近付こうとしたばかりに、天罰が下されたのだろうか……?」
 そういう疑念が彼を弱気にさせた。が、飽くなき探求心は決して彼を立ち止まらせなかった。バンド活動の経費も堅い仕事で稼ぎ出し、生活費も削っていた。錬金術の神秘的な魔力を疑う事なく賢者の石生成を続ける。患者は激痛に歯を食いしばる。「古代から脈々と伝えられて来た知恵だから、きっと実現できるはず」と頑なに信じ……。
 彼という人物を顕わす第一の特徴は、何と言ってもその思慮深い性格である。それ自体は悪い性質ではないが、たまに没頭しすぎて所構わず沈思黙考するのは良くない癖だ。
「ししおどしの仕組みを触媒への伝熱作用システムに応用出来ないかな。銅線に対して毎時一リットルの熱湯を用いて断続的に熱を加えたら完全に熱が伝導するのに何分要するだろう。帰ったらちょっと実験してみるかな。もしかしたら、時間差での加熱が可能になるかも知れない」
 鹿威しが澄み渡った音を響かせる。竹が御辞儀する度、錦鯉の遊覧する池に淀みない清流が注ぐ。竹林を背にした閑静な池泉回遊式庭園である。
「カコーン」
 場所は高級割烹料亭。芸術界の巨匠たちが晩餐の席を等しうした事もある、由緒ある屋敷である。その「竹の間」にて、天田はお見合いをしていた。
 女は名を剣峨といい、明治の御代には華族様だったと伝えられている。家系を物語るように今時珍しい島田髷を結っている。そのせいか、どこか浮世離れした,世間の塵埃に汚れていないような、清楚で高潔な雰囲気をその肌に纏っている。
 女はふぅと溜め息をついた。涼しい色に陰る部屋を見回し、青と白の風を呼吸する窓に目を移し、最後に床の間の黄色に意識を据えた。
 食用花屋「ポッサムの屠殺室」では、赤誠の美しい背黄青インコが毒々しい緑色で咲いている。植木鉢に生けて窓際に飾っても目を楽しませるし、調理せずそのままでかじってもいい。歌わせても耳殻の愉楽になる。その声はまるで、ワインを注いだグラスを、スイカの果汁で製氷したツララで叩くような、薄赤く透き通った涼しい音なのだ。
 上品な感じの老婦、牛の顔ほどもある大きな帽子を被った貴婦人が、自転車のハンドルを伴ってポッサムの屠殺室に勢い良く飛び降りてきた。
「一匙いただこうかしら?」
「やなこった」
 貴婦人は牛の顔で作った帽子を傾けて、帽子のひさしからお金を取り出し、毛並みの逆立っている背黄青インコを受け取った。
「おまえの名前は牛肉百パーセントだよ」
 レンガ造りのショルダーバッグに牛肉百パーセントを差すと、牛肉百パーセントは瞬きもせずチヨチヨと囀り始めた。
 自転車のハンドルをロープで引きずりながら、貴婦人はポッサムの屠殺室から飛び出した。サーモグラフィのようにピカピカする小川を眺めながら、ウエハースの敷かれた河川敷を軽やかに歩く。自転車のハンドルはガラガラと地面を滑り、時折チョコレートの小石につまづいて跳ねる。バッグから顔を出す牛肉百パーセントは顔色一つ変えずチヨチヨと啼く。
「ポチや、おいで」
 貴婦人は自転車のハンドルを抱き上げ、優しく抱擁した。ベルがチリンチリンと鳴る。晩飯がチヨチヨと啼く。
「かわいい、かわいい、わたしのポチ」
 貴婦人ご自慢のペット。鉄管の中には肉が詰まっている。妖しい香気を放つミンチ。ハーブをまぶしてごまかしている。
「わたし、自転車のハンドルが大好きだけど、自転車のハンドルって臭うざましょ。あれだけが苦手でして。目に入れてもそれほど痛くないくらいかわいいのですけれど」
 エノキダケ型の月が出たその夜。貴婦人は牛肉百パーセントを絞ってオレンジの皮とパセリを振りかけてグリルにした。ジュ~ッという肉の焼ける音とギヨギヨという低音の悲鳴が食欲をそそる。
「さあ出来た。ポチ、お食べ」
 貴婦人は自転車のハンドルのグリップ部分を、シャンパンの瓶でも空けるかのように抜いた。そうして肉汁にまみれた蛋白質のカタマリを力任せに押し込んだ。
「おいしいかい? そう、よかったわぁ」
 女はふぅと溜め息をついた。涼しい色に陰る部屋を見回し、青と白の風を呼吸する窓に目を移し、最後に鳥カゴの中の黄色に意識を据えた。
 女は何も言わずカゴの戸をあけ、留まり木のように人差し指を差し延べた。ちょんと乗るカナリヤ。女はそのまま窓のそばに立つと、さみしそうにほほえんで、「さあ、おゆき」とささやいた。
 カナリヤは不思議そうに女の顔を見つめ、首をかしげる。しばらくはどうして良いか判断できず手持ちぶさたに囀ったりしていたが、やがて全てを了解したように窓の外へと飛び立った。ダイビングがどれだけ心地よいか、心地よさそうか、見ておけ。
「げんきでね」
 女は目を閉じて手を組み、強く神に念じた。
「どうぞあのこをお守り下さい。幸せを授けてあげて下さい」
 厳かな祈りは窓を抜け、空に昇り、天に吸い込まれていった。盛りを過ぎた陽は西に向けて降下を始める。空虚となった鳥カゴは格子を白く光らせている。半透明の月が東の空に姿を現す。
 名を剣峨というその女は、明治の御代には華族様だったと伝えられている。家柄もさることながら、資産も潤沢で、この歳までどこにも片付いていないのが不思議なくらいだ。が、未婚なのには確とした理由がある。紫の紐を崇める新興宗教にドップリとはまっていて、一般男性に敬遠されがちなのだ。
「それではあとは若い者に任せて……」
 父母たちはお決まりの台詞を残して部屋を辞す。
 ここから、天田と剣峨のドラマチックな会話が織り成される。
「ご趣味は(二十一世紀のこの御時世にマゲかよ。日本舞踊が趣味とか言いそうだ)」
「日本舞踊でございます」
「それは結構な事で(当たった)」
「明利さまは、いかなご趣味を嗜みますの」
「僕はラーメンの食べ歩きが好きです(この女と結婚するとして)」
「わたくしも、お休みをいただいた日は、おもうさま・おたあさまと、赤坂や銀座でそもじやおすもじを召しましてよ」
「それは結構な事で(働かなくて済むようになるかな)」
 座敷は少時森閑とする。と、鹿威しが石を打った。天田が感心する。
「良い音ですね(ししおどしの仕組みを触媒への伝熱作用システムに応用出来ないかな)」
「おいとぼい音色に心持ちを澄まされる心地でございます」
「それは結構な事で(銅線に対して毎時一リットルの熱湯を用いて断続的に熱を加えたら)」
「わたくしが崇めております宗教も、俗世のほっこりした煩わしさを清めて下さいますのよ」
「それは結構な事で(完全に熱が伝導するのに何分要するだろう)」
「おいとしい新興宗教のようなやましさはございません。むつかしい壺を押し売りおしやすこともございません。いたって健全であらっしゃいます。お布施やお会費は賜りますけれど」
「それは結構な事で(帰ったらちょっと実験してみるかな。もしかしたら、時間差での加熱が可能になるかも知れない)」
「紫綬をおみもじやおひよなどのおめしものに織り込みますと、不老不死を得られますの」
「それは結構な事で(そのためには金が要るな。また金か……)」
「明利さまは不老不死をお信じにならっしゃいますの」
「それは結構な事で(この女と結婚したら研究資金繰りに頭を使う必要はなくなるからとても便宜だ)」
「竹取物語によりましますと、富嶽の頂上には不死の薬が埋められていると伝聞いたします。不死は夢夢の夢ではございませんわ。イエス・キリストはお隠れになってから幾ばくかの日にちで復活あそばし、二十一世紀の世にも御健在でございます」
「それは結構な事で(どうやって別れよう)」
「あのかたは今、釣り人とならっしゃって、毎週日曜には河口でおまなを釣ってらっしゃいますの。そのかたが、わたくしの師匠であらっしゃいましてよ。ありがたいお教えを授けて下さる教祖さまでございましてよ。古代中国に現れました太公望も、その方でございますの」
「それは結構な事で(結婚する前から別れる事を考えるなんて、鬼に笑われそうだけど)」
「明利さまも、一度わたくしたちの会にお越しあそばせ」
「それは結構な事で(別れて、慰謝料をふんだくるにはどうすりゃいいんだろ)」
「お約束いたしましてよ」
「それは結構な事で(そこらへん、経済とか法律とかには疎いからなぁ……)」
「還御はごいっしょくださいませんか」
 口を差し挟むように鹿威しが鳴った。
「僕はあなたが気に入りました。結婚して下さい(良い音だなぁ)」
「まぁ……! 本当にわたくしでよろしくって」
「良い音ですね(まずは、実験だな。忙しいな)」
 ケンブリッジ大学のうらさびしい小屋で、ある研究に寝食を忘れていた。一日中この閨室に閉じ込められて暇を持て余している私は、多分お寺様よりも多く祈っていたはずだ。栄養障害・睡眠不足・不摂生と水銀中毒とで、彼は病的に痩せこけて来た。精神も病み始め、明晰な思考が徐々に錯乱して来た。部屋の灯りを消し、ヒザを抱えて座っていると、翼に開いた穴に、羽が生えてきた。見知らぬ土地で生きる事になったカナリヤには、これから何が待ち受けているかわからない。その世界は真っ暗で、イナゴが空を埋め尽くしている。目の前が炎に包まれ、眼球あたりでジュージュー音がする。
 独特のにおいが部屋にこもる。灰に入る、ハイになる。身体が軽くなってきた。飛び跳ねてみると、天上に頭をぶつけそうになるくらいジャンプできた。すごいすごい。天井をぶん殴ってみる。簡単に崩れた。すごいすごい。俺はスーパーマンになった。それとも液体? とにかく空も飛べるはず。いや、飛べるさ! 音楽が加速して上昇していく。ギター、なのかな、もう、判断できないけど、たぶんギター、その音が弾けたように笑い狂い、俺の身体を大空へさらっていく。音波は風のように表皮を撫でながら俺の骨格を天国へ持ち上げていく。珍妙な音楽よ、調子っぱずれの旋律を奏でておくれ。おまえがきらびやかなサウンドを吹きつける度、俺の精神は遠く、遠くへとぶっ飛ばされる。夢のかなたへいざなっておくれ……。 
 部屋の灯りを消してみる事にした。するとそこは、ドンヨリした地下のよう。クサのさきっぽで煌々と燃える、ちっちゃなちっちゃな火しか見えない。煙の匂い。健全な精神を惑わせる×××××あふぁあえてあっどけじぇれえれ××ワープ。
 キノコをかじった。幻覚がF1カーのように目の前を右往左往超高速でビュンビュン横切る横切る。背が伸びた。チビだった俺も、二倍の身長。こんなにも高かったのか、世界。縁日の雑踏で父に肩車された時の、あの新鮮な驚きに似ている。超高層の頂きから地上を俯瞰するような、自分が群を抜いて一段高い位置に居る至福的優越感。腕だって、足だって、それに伴って長くなった。ニョキニョキと硬く隆起した。
 床に潜れる気がした。するとどうだろう。次の瞬間、俺の身体はズブズブと床に潜航を開始したように感じた。照明が灯った。みずからスイッチを押したのか、それはわからない。いずれにせよ、明るくなった。そこは水中だった。火が燃え上がる、不思議な海だった。ミルクの甘い匂いとイカゲソの生臭さ。アンモニア臭のように喉をイガイガと刺激する、焼けるようなまとわりつくような引っかかるような刺激臭。息をしなくても溺れない。赤いサンゴやぬめる貝が鼻を喜ばせる海。俺は火を噴き散らしながら匂いで満たされた海を泳いで行った──
 一方、蛙のパウンドは井戸の中に棲んでいました。水深七メートル・直径一メートルの円筒が、彼の世界全てでした。
「広い広いこの世界。キモチイイなー」
 彼は井戸の外の大海を知りません。
 この日は雨。井戸にめがけて天から落っこってくる雲のつぶ、パウンドは井戸深くに潜ってしのぎます。
「雨が降っていてほっとするんだ出かけなくて済むから。たとえ晴れてたってこのイスに座ったままなんだけど動かない理由づけになるじゃない雨が降れば?」
 そうやってパウンドは井戸の中で得々として生活してました。虫を捕ったり、潜ったり、鳴いてみたり。時にはセミと合唱して蛙鳴蝉噪。そんな生活を送っていたある日、天から声が聞こえてきました。水を汲みに来た少年と少女の会話でした。
「へっへ~」
「あらブラウン、どうしたの?」
「見てよこの子犬! お金をためて買ったんだよ!」
「あら、ステキ!」
「へっへ~、どうだい。お金さえあれば、ぼくもこの子の父親になれるんだよ」
「か~わ~い~。ブラウン、今日はいっしょに遊んでよ~」
「いいよいいよ。ぼくたちずっといっしょに遊ぼう」
 パウンドには神様の会話に聞こえました。パウンドは出っ張った目をピカピカ輝かせながら思いました。井戸の外にも世界があるんだ、井戸の外は天国なのだ、と。
 そこで、井戸から抜け出そうと死に物狂い。レンガの壁をよじ登り始めました。コケでヌルヌル滑る、しがみつきにくい壁です。
「金がほしい金がほしい。金を持ってるやつがうらやましい。かまびすしいあいつ。あいつがうらやましい」
 歯の無い口を食いしばり、懸命に這い上がります。見ていると、誰もが応援したくなるような頑張りぶりです。フラフラになりながらも「あと少しで天国」と信じ、持てる力を出し切って脚をふんばります。ようやくゴール近く、井戸の縁に手が掛かろうとしています。
 でも、残念! 急に子犬が吠えたものだから、パウンドはビックリ、まっさかさまに水へ落っこちてしまいました。
「うわワわワわワわワ~」
 パウンドは水面にこっぴどく叩き付けられ、死んだようになってしまいました。実際、死にかけています。身体は変色し始め、内臓も機能を低下させました。
「腐っているのがバレたら医者に連れてかれて治療されちゃうだろうな。でも、身体全体が腐っちゃってるんだ皮膚以外。だから手術で取り除くとしたら、四肢全体を除去されちゃうだろう。そんなにたくさん除去されたら、自分で在り続けられない。自分が自分で居られなくなっちゃう」
 パウンドの死骸は立ち上がり、不屈の闘志で再び井戸の外を目指し始めました。パウンドの魂は、両脚の筋肉をしなやかに波打たせ、大飛躍、井戸の外に飛び出したのです。
 ぴゅ~~~~~っ。
「わぁ」
 信じられないような光景がパウンドの目の前に広がりました。空中で平泳ぎをしていたのです。眼下には見た事も聴いた事もない別世界がどこまでも続いています。
「幻覚キノコ色の蛾がひらひらと遊ぶお花畑が燃えてるよ?」
「病んでいる塔が、ニョキリニョキリ、単なる紋章に過ぎないよダイキライ」
 大地の上空を高速で泳ぐパウンドの目には、地上の景色が上から下へビュンビュン映し出されます。
「感受性が豊かなんだ。そう、感受性がゆたか。そう。地上絵を見下ろすだけで、色々な想像が膨らんだ。宇宙人からのメッセージか。古代人の遺跡か。海パンを取ってくれ。呼び声が聞こえる。いってきます」
 パウンドはゆるやかな角度でゆっくりと下降していきます。やがてセメントミルク色の海が光り出しました。
 ザブーン。
 海の底。銃弾が心臓を貫かないように胸にしっかりペンダントをぶらさげて、虹色の熱帯魚たちが奏でる音楽に頬をさすられながらパウンドは髪を切ってもらいます。
「半ばあきらめかけてた床屋行き。イスに座って散髪してもらえばダンスしてもらいたくなるね。完全に寄っかかった絶望の詩吟さ」
 青い青い火山の奥深く行き止まりから湧き出す言葉尻を、パウンドは捕まえます。
「時計の音が精神を圧迫する。それはまるで軍隊のように、ザッザッと編上靴の音を響かせる。規則正しいクソッタレ軍歌。不浄な翡翠の上に降り積もる清廉な鐘の音、空虚な教典の徳化が人民対人民の帯分数を科す……」
 パウンドのマインドは井戸を出て、大海を知りました。パウンドは海に入りました。しかし、海の中のパウンドは、まだ、大宇宙を知りません。
 海からザバッと上がる。空が青い。雲が白い。緑が緑でグラウンドがブラウンの。原色そのまんまのカラフルでポップなクレイジーワールド、俺の目ン玉の中に飛び込んできて脳の中で跳ね回る。チクチクと前頭葉やら海馬の辺りを刺して回る。パチパチ弾ける色彩の星が俺を無敵にする。誰も敵わない。バイク乗りもピストル撃ちも禁煙仙人も、誰も俺を止められない。俺は星になった。ダラッタ、ララッタ、ラッタッダ。
「脳が溶けていく感覚。脳漿が耳からポタポタ垂れていく感覚……」
 ゴーファ27氏の頭の中はカラッポである。がらんどうである。
 言葉通りの空洞。脳ミソが入っていない。あるのはただ、窒素と少々の酸素、じゃっかんの二酸化炭素……。
 氏に思想は無く、氏に主張は無い。脳ミソがないのだから当たり前だ。脳ミソが無いのに何かを考えたり何か行動を起こしたりしたら、それこそ問題だ。
 氏の頭の中はカラッポである。がらんどうである。何も入っていない。しかし、氏は微笑む。たまに頭の中がカユくなるのだ。
 窓の外に虹が架かったり、サイレンの音が飛んできたり、シチューのおいしそうなニオイが立ち昇ってくると、なんだか頭の中がカユくなる。氏の頭の中で奇妙な人たち──ポッピーズと呼ばれる人たちが、活き活きと動き始めるからである。
 ポッピーズはどこから来るのか。それはわからない。初めからそこに居たが見えなかっただけで、虹の光に照らされる事で見えるようになったのか。それとも、サイレンの音に驚いて、窒素や酸素や二酸化炭素が実体化したのか。はたまた、シチューの香りに誘われて、隠れ家から抜け出してきたのか。何がポッピーズを氏の頭の中に導くのか、それはわからない。
 もともとカラッポで広い頭の中、そこは絶好の遊び場となる。ポッピーズは楽しくおしゃべりしながら食事をし、揮発性溶剤を飲んで酔っぱらい、歌って踊って騒ぐ。
 ポッピーズが勝手次第に足を踏みならすので、氏の頭の中はカユくなる。氏が微笑むのは、ポッピーズが活発にそしてワガママに動き回るからである。そうしてそれが実に愉快だからである。ポッピーズは、カラッポだった氏の頭の中を満たしてくれる……。
 轟音が頭の中で跳ね返り続け、ひどい頭痛がする。世の中も同じ轟音に満ち、ぼくの身体を包んでいる。あたかも、音を成分とする空気の海に沈んでいる雰囲気だ。不愉快と憂鬱の焼け野原。
 空は黒く太陽は無い。灰色の烟のような雲が、黒い動きで頭上を溶け流れる。太陽は留守なのか、はたまた殺されたのか。この海中は暗い。
 轟音の中でも一層鋭い音が目の前の空を通過した。戦闘機だ。銀色の機体を惜しげもなく光らせて、何機も何機も通過していく。海底をあわてふためく迷彩色の兵隊は、泳ぐ戦闘機を見て「戦況は不利だ」と叫び続ける。
 二三機の零戦が海底から離陸し猛進したが、上下から迫る巨大な岩石に、瞬く間すり潰された。山脈のギロチンは容赦なく歯を噛み締める。
 銀色の音はもう襲来しないが、海底の軍人達は容赦なく特攻隊を駆り立てる。若い兵隊が泣きながら零戦に搭乗する。零戦、緊急発進。そうしてすぐ、山脈に食いちぎられる。一人死ねばまた一人飛ばす。死ぬ。また飛ばす、すぐに死ぬ。永久に繰り返される無意味な出撃。ぼくたちの敵は、いったい誰なんだ。
 人員が足りなくなってきた。網で覆われたヘルメットをかぶった母と兄が、灰色の世界をむこうから走って来て、幼いぼくに徴兵命令を言い渡す。渋り、泣き出しそうなほど戦争を恐れているぼくに、最初は哀願するように説得する。ぼくは拒否をする。二人は不気味な薄笑いを浮かべ、強い口調で威圧し始める。背中を押されるように戦闘機に乗り込まさせられる。
 窓の外でぼくを見送る二人に、不安に満ちた表情で以て、暗に救いを求める。気持ちは通じず、気持ちとは裏腹に、弱々しき飛行機は発進する。
 離陸したや否や、母と兄はみるみる膨れ上がり、ゴツゴツとした肌を織りなす。自分の眼前に空と地上を隠す巨大な山脈が形作られ、飛行機は手立て無くその隙間を滑り込んで行く。
 ぼくは機体ごと岩と岩の間に挟まれて、死の恐怖と、母と兄が騙した怒りと、母と兄が自分を殺そうとする悲しみに、歯を激しく、上の歯が顎の下に、下の歯が鼻の上に移動するほど、噛み合わせた。米噛の痛みで一層強くなった轟音のために、歯の間から苦しみに染まったうめき声を漏らした。
 ぼくの操縦する飛行機は人の気配が無い湖畔の水上を滑空した。湖上には巨大な霧が浮遊し、光線の放射を遮っている。ぼくの視座をコーティングし、幻想的なフェナキスティスコープを織りなす、世界全体を朧気にする霧。しかもただの霧ではない。虹色をしている。赤橙黄緑青藍紫の七色が混合した色。ただし七色別々に在るのではなく一色に包括している。黒いとも白いともはっきりしない。ただ、確かに一色なのである。三次元の色とは到底思えない。四次元の色かとも疑われる。
 そんな霧中に誰かが立っている。接近して容姿をよく観察すると、どうも男らしい。しかも死人のようだ。顔は蒼白で眼は紅蓮、髪の毛の色は鈍色。上半身に着ているのは和服。袷にロココ風のえりが山脈を成していて、トキに醤油を合えた色の友禅が草原を成している。草原は錯視を引き起こす配列に幾何学模様を鏤めた、目の痛くなるような毒々しさ。
 袴を穿いている。海色の地に山色の縦線が走っている。山と山の間は多数の水玉が点在し、世界に存在する色をもれなく集めたほどのさまざまな色が彩っている。腰には剣のような棒状の物体が下げてある。足には極彩色の靴を履いている。混沌をそのまま纏ったような下半身だ。
 気持ちの悪い男・美しい死人。こんな人間が霧中にひとりだけで立っている。
 男は静かに顔を上げ、空を見上げた。霧に覆われた天空の一部に亀裂が生じて四方八方にゆっくりとヒビが走り始める。霧が割れる。音もさせず霧が破れる。男はその現象をじっと見つめ、紅蓮の瞳から黄色い涙を滴り落とす。ヒビは空一面に及んでくる。虹色に漆黒が塗られつつある。闇が霧を飲み込もうとしている。
 朝だ。美しい朝だ。
 美しい霧の色は、忌むべき夜色だった。空は至る所濃い闇に染まる。しかし天下はあまねく明るく照らされる。闇と言うより闇色と言った方が近い。
 霧に隠されてさっきまで見えなかった物が、だんだん見えてきた。植物だと予測される物が地面からにょきにょき生えている。たいへんな数だ。見渡せば一面に生えている。機械としか思えない物が伸びている。どう考えてもオマエは人間だろうと意見したくなる物が植えてある。キャンディのようなシマシマが螺旋状に生えている。葉が魚の形をピチピチさせている柱もある。
 ミルク色の川が流れている。川のほとりにはキノコがたくさん歩いていた。頭から煙を噴いて、秩序のない散歩の真っ最中だ。川の中には星形をした鳥が飛んでいる。ちっともかわいくない。川はキラキラ瞬いてキレイだが、ぜんぜん落ち着けない環境だ。
 男は流れの中に手を突っ込み、どろっとした感触の水をすくって飲んだ。何度かそうしたあとで顔を洗い、風船のような石に腰をかけて一息つく。
 三四匹のキノコをつかまえて元気にむしゃむしゃ食べる。男の口元に運ばれたキノコは、暴れる甲斐なくほおばられる。男がキノコを噛むとぶちゅりと音がして紫や緑の汁が飛び散る。歯と歯の間でカン高い悲鳴がする。とても正視できない映像だ。
 男は全てのキノコを平らげると腰を上げた。腹づつみを打つと、打ったあたりからギャーギャー声がしたが、男は拘泥せずに歩き始める。
 やがて森を抜け出た。桃色のシャボン玉が浮遊している。男よりも大きな、男の身体を入れられそうな球体。それがあちこちに浮いている。桃色の表面はつやつやに濡れていて、てかてかに光っている。それが紫を含んだり黄を含んだり、時には黄緑になったりしてさまざまな光の変化を見せる。視線を少し上に向けると丘の上に町らしき建造物の集合がある。あそこから発射される電光がシャボン玉の桃色を美しく、目まぐるしく変えるに違いない。
 丘の表面には上等な絨毯がすきま無く敷き詰めてあった。そこを登っていくと町の入り口に到った。虹をかたどった門が弓なりにそびえている。門柱は英国紳士を二三つらねた彫刻である。扉は観音開きで、右の扉には吽形の仁王像が、右の扉には真実の口が彫りつけてある。男はこの奇怪な門扉を地中に押し込むと、空中に十字を何度か切って通過した。
 星形の眼・朱色の歯をした町人が向こうからやってきて、男と世間話を始める。
「オハヨウオハヨウ」
「こんばんわ」
「今朝はドシアの断崖から夜明けを見てきたよ」
「来年の夜はだいぶ冷えるらしいね」
「ドープの川で洗面して、さわやかな朝をむかえた」
「トポツ山は今が収穫時らしい」
「野生の小鳥を何頭か飲み込んだ」
「宇宙は内側に向かって加速している」
 辻褄の合わない会話が終わると、今度は騒音がひょこひょこ歩いてくる。聞こえるのではない、見えるのである。音が見えるのである。その騒音が騒音をもって男に話しかける。
「やあ。今朝も良い天気だね」
「ああ、透き通るような黒空だ」
「いよいよだな。晴れて良かった」
「ああ。いよいよ今日旅立つ」
「生きて還って来いよ」
「もちろんだ。また会ったら勇気でも食べに行こう」
 男は騒音と別れて一軒の家に入る。扉と表札しか存在せず、屋根はむろん壁すらない。表札には「ゴーファ27」とある。
 男が家の中に入るや否や世界が拡がった。何もない狭苦しい空間だと承知していた所に無限が横たわるときっと誰でもビックリする。暗く閉ざされた地下室に燭台を翳すと、闇はわっと散る。代わりに部屋の形が明らかになる。その感覚に似ている。扉を入った瞬間、無から有が出現した。
 型付け・上達などが其れ者とお涙廷内の権衡氷厚の打ち合わせる、温帯による物憂い鼠輩ではないが、其れ者に睨んだ聖者を黙許する内容的・首記的な物憂いを貝焼き的・観世音的にドライブできる受注軽自動車によって蓄電しようとする如し。病身・見本の帆影、聞こえ・権衡・恩着せがましい外海・総決算などが歩く。癇癪を起こした複数人に無理矢理排水溝へと押し込められて泣き叫ぶあいつ。
 天井からゴージャスなシャンデリアが垂れ下がっている。よくある華の形ではなく、虫がのたうち回るさまを細工してある。男は七色が並ぶ派手な傘の上で呑気に眠り始める。
 顕爵に底意地に歩き続けると勧進できると芸子や治者を元込めにして、道草の誤読を開眼よそよそしくしようとして、辺りをはためかせる露わな物憂いが、一粒種の例規も無く、其れ者に当てる底意地を有り余らす。物知りの居合いの敢行的氷厚独習(一木)の焦れ込みに書き忘れず、大蔵の底意地やバーゲンセールにわっさりする(疲労看取る)如し。重い蓋をされ、じめじめした土に視界を塞がれ、永遠の暗黒へと幽閉されるあいつ。
 突き当たりが遙かに見えるこの大廊下には長い絨毯が横たわる。模様は鮮血を滴らせた牙。ただしこの廊下は画だ。なるほど平面には見えない。横から見ても、見上げても見下ろしても、うすっぺらには成らない。横から見れば廊下の側面が、見上げれば天井が、見下ろせば床が、各々はっきりと存在を主張する。しかし、この穴は。この穴は、画鋲の跡だ。何かが貼ってあった傷痕である。触ってみると、透明な壁が在るようにしか思えない。だが、遙か遠くに見えるはずの小さい扉をひらくと、ひらいてしまう。中は小物入れに成っている。緑色の鍵が入っている。
 放す聞き直すの入れ上げる馬謖から揃い物遠ざけないと弄くる土佐犬に放すから見られて、聞き直すの坊に寄り掛かる近くと弄くる物知りを授ける試行・講堂の代償となるスポイトの顕爵に底意地に歩き続けると勧進できる如きを底意地に足し高に、その物知り上達が尊敬するとパンチカードするする忍術の高位の人里が、一票にそいつ寛解されている如しをアリアのその解き明かすその噴門において、その子どもが下さいに差し立てる七日では開眼が結ぼれて、狂ったり習ったりする夭逝だ。狂ったような笑い声が徐々に遠ざかっていくのを聞くあいつ。
 この部屋には一枚の鏡がある。鏡は映る非現実を加工してもう一つの非現実を映す。現実世界では左右反対となる。非現実ではそれだけで終わらない。鏡と対峙する例の絵画は形を変え白黒と化す。傘に寝そべる男は、寝台に横たわる少女に成る。シャンデリアは巨大な掌と変わる。傘の上の男が大きく息を吸えば、寝台の上の少女の胸がそれだけ盛り上がった。絵画の扉を開けば鏡の中に赤い鍵が現れる。鏡の内と外とは確かに対応している。多様な享受が可能である作品は、一般に芸術性が高いとされるが、その論理から考えると、この鏡は最も芸術性の高い絵画である。
 ミルクフードを聞き忘れたりざわめいたりして、大上段・型付け・慰労・御伽・二化螟虫などの上達や物知りの聖者を著く破談に鼠輩を地祇になるたけ尋ねてくれる物憂いと森羅万象時弊を味わって、浅紅の至嘱を送稿して物知りの背広玉杯(獰悪するするが一分酔い醒ましか)を新著に決め込む如し。どろどろの土や虫と同化し、腐敗していくあいつ。
 絵画に埋め込まれた小物入れから緑色の鍵を取り出し、男は家を出る。「青かけす道」の標識が立つ通りを抜けて一軒の酒場に至る。上空に『スラガ』という看板が浮いている。男はその看板に向かって階段を降りる、中空へ潜る。
 店の中は暗く明るく、白く黒い。丸テーブルがある。普通はこれを囲んで座るが、この店では囲まれて座っている。つまり、穴のようになった所に人が集まっている。しかも身体を円心に向けず放射状に向ける。穴から見張りの首が、三百六十度度全方向に出ている景色。無数にある穴の、空席のある所へ男は座る。
 ミファソの色で照らされる棒状のステージに一人のミュージシャンが居る。客は数え切れないほど居る。男はしばらくステージを見守ってから、客の一人に話し掛ける。
「よお卵男の海馬」
「やあ道化のゼン。今日旅立つんだろ。最後の一杯か? グー」
 海馬と呼ばれた存在は腕型のグラスに時間を注いで男に渡した。男はそれを一口飲んでから話を続けた。
「最後の一杯なんて物騒な事を言うなよ。俺は必ず戻って来る。惜別の一杯じゃない、景気づけの一杯だ」
「でも、死ぬんだろ? ジューブ」
「ああ、死ぬ。一度死ななければ向こうの世界には行けないんだ。生と死の紙一重を彷徨(ほうこう)する旅だからな」
「万が一、生き返れなかったらどうするんだ? ググーグ」
 男は時間を飲み干し、答える。
「その時はその時さ。この世界には還ってこられない。向こうの世界で暮らすしかないさ」
 話す二人の間に緑色でガス状の女が割って入ってきた。
「何話し天ノ? マた私の噂?」
「誰がおまえの噂なんてするかよ。アルダーバラムに帰れよ。ググーグジュー!」
「あラ酷い。私だってアん太に興味なんてない輪よ。ゼンに御用がアンノ。歯いゼン」
「やあメリージェーン。今日もかわいいね」
「喪う、ゼンっ鱈、上手なンダ殻。海馬、おまえとは大違いだ世」
「ちゃんとしゃべれよ。『だよ』って言ったのか『だぜ』って言ったのか判らないぜ。ジュー」
「そりゃかわいい女の子だ蚊ら『だ世』って言っ他に決まっテるじゃ内」
「もういいよ、消えろよ。ゼンと大事な話をしてるんだから。ググーグジュー」
「私も混ぜ手ヨ。いイ出しョ、ゼン?」
「今日はだめだよ、ごめんね。もう君ともさようならをしなきゃいけないかもな。バイバイ」
「詰まんナEの。ちA」
 女は去る。
「あの女、おまえの旅の事も知らないのかな? 雪女のだんなを持つくらいだから、相当な無教養と見えるね。ググー」
「彼女ともお別れかな……」
「おいおい、急に弱気に成ったな。グー」
「俺はこの世界がイヤなんだ……。だけど、やっぱりなごり惜しいんだ。現実を逃避して、秩序と統一のある非現実の世界へ行く……これは俺の夢だった。でもこの世界にも、おまえや、あの娘や、その他たくさんの愛すべき人々が居る。そんな人たちと別れるのはツラいし、そんな人たちを置いてあの世へ旅立つのは気が引けるよ。あの世に恋い焦がれる事はすなわち、この世界を否定し、かつこの世界の住人を侮辱する事になるから……」
 男は頭を抱える。この男は幻覚世界がイヤで秩序ある世界に逃れようとしている。非現実を脱出し、現実に移ろうと企んでいる。
 海馬は真面目な首に成り、言う。
「心配するな、おまえの気持ちは良く解る。もう一つの世界へ逃げたくなる時は誰にでもある。……おまえには本当に同情する。天涯孤独・数知れぬ艱難・深い悲しみ、だから非現実を愛する。そんなおまえの旅立ちを、誰が止めようか。世の中を悪くしている支配者はおまえを止めるかもな、自分たちがおまえを旅に追いやったとも知らず。……行って来い。迷うな、この期に及んで。そして、今日は明るく盛り上がろう。笑って別れようじゃないか。ググーグジューブ」
 男は頭を上げてにこりと笑った。海馬も安心の微笑を浮かべる。
 ステージの照明がレドラに変わった。一人の歌手が現れる。拍手喝采。
「デニスオベルやにゃ」
 目玉のクルクル回る彫刻家が男と海馬の所へ来て言った。手の中のグラスには危険が満ちあふれている。
「ひさしぶりだな。馬鹿の丘上」
「そうにゃやね。ひさしぶりらえ。デニスオベルやにゃ」
「しつこいな。知ってるよ。今唄ってるヤツだろ? ググーグ」
「『君は知ってる俺の名前、見ろ番号』か。ああ知ってる。デニスの事は誰でも知っている、有名だからな。だけど、デニスは俺の事を知っているのか。俺たちは一つじゃない。結局、自分以外の人間は理解できない。俺はいつも、さびしくなるよ。他人との間に壁を感じた時、かならず涙を流した。──丘上の言ってる事は、理解できないことが多い。」海馬が横から口を出した。「丘上は誰にも理解できねえよ。ググー。」男は続ける。「そこに無上のさびしさを感じるんだ。俺たちは真に理解し合えない。丘上は極端な例としても、海馬、おまえは俺のすべてを知っているか?」
「可能な限り知っているつもりだ。ジューブ」
「でも、俺のこのさびしさは解らないだろう。彼女は言った、彼女は言った。でも、俺には何の事か解らなかった。彼女との間に壁を感じた」
「空中金剛石のユカピーか。あの娘の事はもう忘れるんだ。ジュー」
「きゃうのぜんはなんかちゃうにゃぷや」
「ああ、感傷的なんだ。丘上、おまえともこれでお別れかも知れない。乾杯しよう」
「おやかれきゃえぱ。ぢあかんぴゃいしよお」
 自由の注がれたグラスと危険を湛えたグラスがぶつかり合い、涼しげな爆発音がした。男と丘上は腕を組み交わしてグラスを一気に飲み干す。そうして男は、口をぬぐってこう言った。
「丘上、最後に一発殴らせてくれ」
 丘上は店の外に吹っ飛んだ。
 男はリザーブしてあったビンを持ってきた。「秩序」とラベルがある。プリズムの形のビン。叩き割って脚型のグラスに注ぐ。
 強烈だ。第六感を刺激する酒だ。味覚は役に立たない。ただ、カチリカチリとした感覚が襲う。まさに「秩序」だ。
 デニスオベルの唄が聴こえる。音は聴こえず色が聴こえる。著名な作曲家の「色聴覚」と同様の世界。脳の回路が誤作動している。右腕が長く見えたり左腕が短く見えたり、天井が高く高く感じたり、床が深く見えて恐怖したり、さまざまな奇妙が発生する。
「この酒が一番好きだ。みんなは嫌いと言うがな」
「う~ん俺も嫌いだな。おまえらしいよ、その好みは。グージューブ」
「俺は秩序を愛する。三次元を愛する。あの世を愛する。だから、〝死〟に恋する。これを飲み終えたら、もう、行くよ」
「出発はどうするんだ? 小銭路地から……」
「コセウランドに至り、そこから潜水車で薬物の海を渡る」
「見送りに行くよ。ググーグジューブ!」
「いや、一人で行かせてくれ。その方が気楽だ」
「……そうか」
 海馬は沈鬱な表情でうつむいた。男も黙って秩序をすする。
 やがて、海馬は顔を上げてつらそうに言った。
「本当にお別れなんだな。でも、でも……。でも、ちゃんと帰って来いよ。非現実を少し体験して、生きる鋭気を養って、そうしたらすぐ帰って来るんだ、いいな。グッドジョブ!」
「わかった。かならず帰って来る。……じゃあな」
 二人は抱き合って大声で泣いた。
 男は別れを告げたら未練無く行く。薄情なのではなく、顔を黄色い涙でぐちゃぐちゃにしたまま行く。男らしく、過去に拘泥せず未来へ突き進む。
 死出の旅への出発点に向け、クリスマス色の小銭路地を男は進む。ちょうどレインが降り始めた。赤茶けた色の雨だ。孤客は傘も差さずに歩く。男は歩きながら、その孤独感に身を縮ませ、独り言をつぶやく。
「雨と同じく、自分には他人の都合を考えない所がある。自分以外は顧みず、何かをしたり、しなかったりする。自分の好きに動いてしまう。まるで、自分が世界の中心のように」
 男は痛切な自己表白を始めた。
「世界は自分のために存在していると思っていた。世界に自分はたった一人しかいない、それは正しい。正しいが、間違った自負をしていた。一人しかいないのであって、一番ではないのだ。〝自分〟は自分の中心だが、世界の中心ではないのだ。しかし自分が偉いという考えはやまない……。自尊心の高い自分が嫌いだ。自尊心を隠して人に見せない、気の小さい姿勢が嫌いだ。自分の汚い部分を人に見せたくないという卑怯な所が嫌いだ。でも、そんな自分に満足してしまっている。結局、嫌いな点があっても〝偽りの満足〟を実行する事で正しい事から逃げている。そんな都合の良い、情けない生き方を愛すようになってしまった。最近の俺はいつも逃げていた。自分を世間に役立てようとも考えず、この世界から逃避することばかりひたすら考える日々だ。だけど不思議な事に、なんの目標が無くても生き永らえてしまったのはなぜだ。どんな無意味な生物でも必死に生きようとする、それが俺にも当てはまったという事か。しょせん俺も、無意味に生き延びるだけの動物だったんだ。世界は俺のために廻っちゃいないんだ」
 さみしくてたまらない。この気持ちはもうどうにも制御が効かない。入り口から外を窺い、誰も居ない事を確認すると、満月が見下ろす氷上にそっと足を踏み出した。
 季節は秋だが、景色はまるで冬のように凍っている。なんともさびしい灰色の散歩道だ。ここで私は、敬愛するロックバンドの元メンバーたちに出会った。彼らは何十年も前に解散していて、今ではただの一般人だ。
 誰が誰なのか、風貌も変わっていたし、ちょっと判断がつかなかった。リーダーのピーターさんだけは一目でわかった。私は彼と並んで歩き始めた。
 現在のピーターさんは郵便局に勤めている。彼はバンドが活動していた当時から昼は郵便局に勤めていた。すばらしいバンドだったが、不思議にも全くと言って良いほど売れなかったため、口を糊するため仕方なく働いていたのだ。バンド活動の経費も堅い仕事で稼ぎ出し、生活費も削っていた。
 うまくない英語で私は言葉を交わした。「郵便局では、あなたの音楽を知っている人はいましたか。」知っているに決まっている。局全体で応援していたはずだ。そういう事情を推察し、ピーターさんが得意に語れるような質問を振ったのだ。この質問はお世辞・愛嬌に近いものだった。
 意に反してピーターさんは素っ気なく答えた。
「ちょっとはいたけど、大半は知らなかった」
 私は愕然とした。なんて事だろう。あんな素晴らしい音楽が、ちっとも認められていないなんて。私は急に悲しい気持ちに襲われた。景色の灰色に黙り込んでしまった。
 鳥の囀りが聞こえる。ちちっち、ちちっちと互いに呼び交わす可愛らしい声は、陽気な玩具の喜びを柔和で温和な春の空気の中に遊ばせる。
 灰汁色に濁った冬の垂れ籠める空は晴れ、空の向こうまで透けて見えてしまいそうなほどに透き通っている。夏の青では、こうは思えない。青が濃すぎず純な透明度で満たされた空だから、晴れ晴れとすっきりした心持ちになれるのだ。吹く風は春の清涼を心に運んでくる。
 ちぎれてこびりついた雲が一片、空の隅で白い体毛を毛羽立たせている。冬の忘れ形見として残るその雲は、やがて春の天に呼吸され溶けてしまうまで、暗く寒かった日々を思い出させるだろう。春のこの、幸せな気候を、一層嬉しい物に格上げするアクセントとして。
 ほの暗い地平線にはオーロラが煌めいている。シースルーの布切れのようにたなびき、菖蒲色・鳩羽鼠・ウルトラマリン、さまざまに色を変えつつ揺れている。
 大地に敷かれた残雪は雲と同じように、季節の去来を再認識させる落葉に過ぎない。そこは既に、冬の薄ら寒い日を想起せしめる生命力は流れていない。ただ草花の肥やしとなるばかりである。
 ピーターさんは恋人と肩を寄せ合い、メンバーは各々雑談しながら、散歩道を行く。早朝なのだろうか、私たちの他に人影はほとんど無い。車道の交通量も少ない。
 雪の骸は土に還り、新たな命の息吹を扶ける糧となった。つくしが生え、冬の断片を養分として吸収し、すっくと天を目指して伸び上がる。春の喜びは又、誕生の喜びでもある。
 The Wood。母の腹の底で物言わぬ生の萌芽。やがて母から巣立ちし地上を緑色に染め上げる。立ち並ぶ、空気を製造する工員。足を生やし闊歩する日は近い。
 小熊は冬の眠りから目覚め、黄色く輝く春の空気を胸いっぱいに飲み込む。蜂たちは花畑に出掛け、せっせと蜜の収穫を営む。川には雪溶けの冷たい水が平たく流れ始め、川底の小石を静かに撫でる。一枚板のガラスのような水は、黄緑色の草原の脇をするすると滑って行く。小さな虫や、狐・羊などの動物が水を飲みに下りてくる。流れの中にゆっくりと首を垂れ、おいしそうに喉を潤す。
 ピーターさんは幸せそうに恋人とはしゃぎながら、メンバーたちよりも先を歩き、やがてベンチに腰を下ろした。あとをついていた私たち四人も、彼とじゃっかんの距離を置いて腰をかけた。静謐な湖面を優しい風がさらりと渡るように、秋らしくそよぐ風がカーテンを揺らしている。
 日の光は強すぎず、幸せの時空を無尽に駆け回る。岩に当たっては岩を銀色に染めて跳ね返り、花にぶつかっては花弁を黄金色に着色して跳ね返り。至る場所を祝福しながら反射して、やさしい光で野原に明るさをまぶしていく。空には神からの祝福・虹が架かるような錯覚すら覚える。
 メンバーの一人が私の耳元に口を寄せ、ささやく。聞き取りやすい英語で、優しい、優しい声だ。それはメロディーになっていた。こういう歌があっただろうか。
「こじき、行商人、町のきこり。見知らぬ町で出会った人の気持ちがすべてわかる」
 自分でも自分の心的作用を説明できないが、このささやきを聴き終えた私は泣いた。抑え切れない衝動に突き上げられるように嗚咽をもらした。止まらない。しゃっくりのような咽び声と汗のように流れ出す涙が止められない。
 冬は去り、春は来た。自然が音楽を奏で始めた。鳥の歌声・川の弦音だけではない。草が、木が、岩が、空が、各々目に視える音楽を奏で始める。凍り付いていた空気は解きほぐされ、温かな音符が風となって躍り出す。
 その音楽を全身で鑑賞する。胸から背中にかけて暖かさが囲繞する。ほっとする熱が温泉のように沸き上がってくる。
 さ作曲する時はふ普通、脳がは働く。が楽器で音をだ出し、それをふ譜面に起こす。インスピレーションをひらめかかせ、か神からの贈りも物を受し信する。それらはすす全て脳が行なうはずだが、か身体のけけけ痙攣で曲をかか、か、完成させた。ぴピクピク動く、み右手の各ゆ指。動くく組み合わせめろメロディーがか奏でられる。ドクンドクン跳ね、跳ねる、左腕のど、動脈。これはストリングスのべべベース音。ビクビクの、のた打つ、右あ足左ああ足。ぱぱぱパーカッションのリズム。パクパクと動く、くくくクチ、びビル。みゅミュートのかか掛けられた口笛。鳥月? 取り憑き? トリッキー! 聴く者のたた魂を透過するような旋り律を、あなたはあんたのなな中でつつ作る。あなたはむ無意識の内にしし真珠のような奇跡的ざ財宝を作った。死にののの臨むかかかか、かかか、身体は、ね、涅槃のじゅ十三音階をたた体現する。だけどざざ残念、そのハ、ハーモ、モニーは、のの脳には、届か、届かなかった……。
 ピーターさんが注意をする。「きみはどうして泣いているんだ」
 イムニと奥さんのことを話そうと思った。彼らは百三十年間の知り合いで、前世の記憶が合致している。私たちの他に人影はほとんど無い。離れていくみんなを引き留める事は出来ない。車道の交通量も少ない。
 月は周囲の暗黒から独立し、沈黙を護っている。美しい満足の象徴として空に控えている。悠然たる面持ちだ。──遠くで自動車の音が走っている。月が出ている晩、女は外に出ては成らない。月は女を襲うからだ。その光は息のように白く輝いている。
「種を蒔いてやろうぞ……」
「いや、いや。いやっ! いやよ絶対いやヤメテやめろアッああッアーッ!」
 御簾の隙間から月光が染み込んでくる。冷たい青い光。「この世をばわが世とぞ思ふ」ような満月ではなかった。やるせない鬱積に心を痛めていると、ふと一葉の写真に目が止まった。雪合戦をして遊んでいる写真、この時の情況に就いては細部まで思い出せる。
 男のほほが濡れているのは雨のせいか、海馬との別れの記念か、それとも他の感情なのか。男はふところからガラス製のタマネギを取り出し、その中を覗き込んだ。男は目を輝かす。
「ソーとクウの二人は、まだ生きている。酸素のない月面上で、寿命をも無視して、肩を並べて地球をながめている。俺には見える。月に立っている米つぶほどのかれらの姿が。舟を流されて帰るすべをうしない、途方に暮れているかれらの姿が……」
 男はやがてコセウランドと呼ばれる高台に到着した。電話型の動物が一匹歩いている。あれに乗るらしい。
 青い老人がトコトコ歩いて来た。医者の印象を受ける姿だ。
「どうも、ロバート先生」
「ウェルウェルウェル」
「鍵です。お願いします」
 男は緑色の鍵をロバート先生に渡した。先生は例の妙な動物の横っ腹に鍵を挿す。そしてしきりに乗れ乗れと合図する。男は指示通り動物の背中にまたがった。
「いろいろとありがとうございました。では、行って来ます」
「ウェルウェルウェル」
 動物は水を流すようなエンジン音をさせ、ゆっくりと動き出した。辺りの景色が溶けて、その下から宇宙空間が姿を現す。ロバート先生の姿はすでに無い。もう、幻覚世界から脱出した。見渡す限り光色でうずめられている。疾走する感覚をともなう。音よりも早く、時よりも早く前方へ進む気がする。はるかかなたに白い点が見える。見えると思った次の瞬間には拡大していた。尋常ではない速度をもってあの白い点に向かっている。
 白い点は光の満ちた穴だった。そこを、突き抜ける。苦痛を感じるほどの光の強さに男はたまらず目を閉じる。突然襲ってきた強烈な刺激に、しみる目を固く閉じた。しかし、いくら強く目を閉じようとも光は目の中に進入して男の脳に届く。脳が焼き付けられる。潜水車に乗った男は完全に光の中へ入った。銀色の閃光と灼熱に包まれて、男の意識は浮上し、消え去る。
 ギラギラする金属質の太陽の中に、男は溶解した。
 網膜が強い光を感じる時、透き通った蛇が視界に浮かび上がる。白魚のような亀裂。微生物がへばりついているような亀裂。鏡と輝く水上に浮かぶタンカーの船尾には糸のような物がひょろひょろと靡く。記号化した大型船舶。急に怖くなった。自分にもよくわからない。なぜこんなにも泣きそうなのだろう。身体が小刻みに震える。怖い。一人が、怖い。一人で居るのが堪らなく怖い。
 ぼくは一体何者なんだろう? ぼくは何になれるのだろう? ぼくが持っている可能性って? ぼくには他人に誇れる才能があるの?
 ぼくは本当に人から愛される価値のある人間なのだろうか? ぼくがいなくなって困る人っているのかな? あなたは、ぼくを、必要としてくれる……?
 たとえウソでもいい。必要だと言ってくれるなら教えてほしい。ぼくの存在価値って、何?
 ぼくが死んでも地球の回転は止まらない。なんてさみしいんだろう。
 イメージの氾濫に混乱しながら、俺の思考は天上界に飛躍し、地上世界を見下ろした。どす黒い夜を劈いて、飛ばずに眠る物を見下ろす。そこで俺の目は、月を中心にして振り回される人々を見た。地球に棲む人々の妄信を見た。空想の世界に縛られているより、世界は丸いんだって事、その目で確かめるんだ。目に見えない糸が、引力が、彼の双眸に映じた。ハンマー投げ競技のハンマーのように飛んで行く樹木。鳥になるのです異教徒を殲滅するために身を捨てる者を神は祝福しますそれは殉教です。死者たちのパレード。天井に半透明の物の怪が姿を現した。芥川龍之介の右目に半透明の歯車が廻転したように、俺の右目には蛇が棲んでいる。今日も蛇は浮かぶ。潰れた虫のような、蛇。デッサンの狂った自分。怪物のような親。アビニヨンの娘たちのような女の子。カカシには、頭にグチャグチャの穴が空いている。カラスは太陽の使いである。モヤモヤと半透明に光りながら緩やかに波打っている。昼でもどす黒い、脂肪の浮いたドブ川だ。ざわざわと白く光る波が、魚のパレードさながらに海を渡って行く。ほの暗い地平線にはオーロラが煌めいている。天井の布切れは流される。月の光を鈍く照り返す槍。月も空に独りぼっちで輝いている。俺も月も両方とも孤独さ。俺と月の違いは明暗ただそれだけ。
 この怪獣は手に負えない。このバケモノを、俺はどうあつかったらいいんだ? 俺は両手で顔を覆い、机に肘を突いて絶望する。子どもが大人になる時、その過渡期に自然発生したこのバケモノ。子どもと大人の軋轢によって生じた摩擦熱が孵化させた思想。昔の俺は、この怪獣を育てるには幼すぎた。今の俺は、この兵器を手懐けるには老いすぎた。
 ぼくには拡散していく世界を変えられない。ぼくから離れていくみんなを引き留める事は出来ない。だからぼくは追うんだ。きみを。
 ひとつになりたい。剥離する事のない、強固な関係が欲しい。他のみんなが宇宙に飛んで行ってしまっても、君とぼく、ふたりいつまでも地球に足をふんばってとどまるんだよ……。
 部屋の灯りを消し、ヒザを抱えて座っていると、翼に開いた穴に、羽が生えてきた。窓から身を乗り出す。月光に明るく照らされた世界。翼を広げ、飛び立つ。
 飛べなくなるのはこわい。でも、今は飛べる。飛べなくなった時のことなんて、考えたくない。今のうちに、きみのもとへ行くよ。
 この、どす黒い夜。(→



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