とりぶみ
実験小説の書評&実践
【書評】筒井康隆『虚人たち』   (2014/11/30)
虚人たち (中公文庫)虚人たち (中公文庫)
(1998/02)
筒井 康隆

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 前回は筒井康隆『残像に口紅を』を取り上げました。その第1章で、評論家・津田が、主人公の作家・佐治にこう語ります。
「『小説を批評する小説』という意味で君がメタフィクションということばを使ったのが、ぼくの知る限りじゃ、君がエッセイの直後に長篇を書いて、さらにその長篇について君が自分で解説していたNHKの『テレビコラム』でのことだったわけさ。だから君は汎虚構論よりも先に、虚構内存在、つまり自分が小説の中の登場人物だということを意識している人物としての虚構内存在というものに思い至ったんじゃないかい」
 作家・佐治勝夫のモデルは筒井康隆本人です。この、【エッセイの直後に書かれた長篇小説】こそが、取りも直さず今回書評する『虚人たち』です。
「えー。また筒井康隆ぁ?早く南米文学を書評してよー」
 うるせえ。我が家の蔵書は筒井康隆作品が一番多いんだよ。100冊くらいある。一作家一作品にしたかったけど、100冊あったら4作品くらい書評してもいいじゃない。許してよ。


 筒井康隆は齢80に迫る今も現役、役者業もこなす化物作家です。初期のころはショートショート(掌編)やスラップスティック(ドタバタ)を得意とするSF作家でした。代表作は短編の『時をかける少女』ですが、これは何度も映画化されているので有名なだけで、最も優れた作品というわけではありません。
 1970年代から純文学に接近をし、数々の実験的な作品を発表しました。そして1980年代は世界的に見ても最高レベルのポストモダニズム作家でした。ポストモダニズムの意味については訊かないでください、よく知りません。
 日本語が世界の標準語だったら──もしくは、筒井康隆が英語圏の作家だったら、きっとノーベル文学賞にノミネートされていたに違いありません。いや、言いすぎかも知れません。しかし凄かったのです。英語への翻訳が容易であれば、ハルキ・ムラカミと同じくらいの知名度を獲得していたことでしょう。
 世界と戦えるほど実り豊かな前衛作品を量産した80年代、その皮切りとなったのが『虚人たち』です。

 私の書評は形式的な面にばかり筆が及び、内容については最後にチョチョイと申し訳程度に載せる、そんなスタイルでやっております。構造主義ではなく単なるクセです。構造主義の意味についてはおうちの人に聞いてください、よく知りません。
 そんな大塚晩霜の書評ではございますが、今回は珍しく内容から触れさせていただきます。まず、この小説は物語としては失敗で、面白くありません。普通一般の読者は読まない方が身のためです。主人公の妻と娘がほぼ同時に全く無関係のグループによって誘拐されるのですが、その経過はさほどドキドキしませんし、結末もカタルシスはありません。筒井康隆は、実験的な自作について口癖のように「失敗していることを度外視すれば成功」という言い回しをするのですが、『虚人たち』も物語としては失敗作と言えます。
「じゃあ読む必要ないね。エロ動画探しに行こーっと」
 ちょ、ちょっと待ってください!せめてこの書評ぐらいは最後まで読んでいってください!
『虚人たち』は筒井作品の極北ともいえる逸品であり、クリエイティブな仕事をしている人や、クリエイティブな仕事に就こうと思っている人にとって得るところの多い作品です(余談ですがわたくし最近まったくクリエイティブでないため、今回の書評のために『虚人たち』を再読したところ、読むのが苦痛でしょうがのうございました)。
 さて、ではどの辺りに価値があるのか。まずは作品の成立過程を見ていきましょう。
 筒井康隆は大変な読書家でもあり、いち早く南米文学(ラテンアメリカ文学)を読み始めた日本人の一人です。ラテンアメリカ文学と言えばマジックリアリズム、マジックリアリズムと言えばラテンアメリカ文学。マジックリアリズムは──詳しい資料に当たらず出まかせで書きますが、フランスのシュルレアリスムに対抗する形で勃興した小説ジャンルで、1960年代に隆盛しました。方々で「小説は死んだ」と言われていた時代に、それまでは世界文学の表舞台に立つことがなかった中南米という地域から、斬新な名作が数多く生み出されました。筒井康隆も多大な刺激を受けました。朝日新聞に連載された書評『漂流 本から本へ』の第57回「夢や虚構が現実に勝つ」(コルタサル『遊戯の終り』)で、こう書いています。
「こうした作品に刺激を受け、ぼくは『野性時代』誌に『虚構と現実』というエッセイを連載し、のち、それを作品化した『虚人たち』という作品を『海』に連載することになる。当時の『海』の編集長は故・塙嘉彦であり、彼は大江健三郎の示唆を受けてぼくに原稿を依頼してきたのだった。」
 名プロデューサーである素晴らしい編集者・塙嘉彦の助言を受け、筒井氏はSFから純文学の領域に進出しました。塙さんの思い出については、文庫本にして10ページ超のエッセイ「知の産業──ある編集者」に詳しく綴られています(『着想の技術』の「楽しき哉地獄」に所収)。ちょっと引用しましょう。
「ぼくはこの時まだ『虚人たち』をどこへも発表する気はなく、とにかく海のものとも山のものともわからないので、書きおろしの形で書いてみようと思っているだけだったから、その時塙さんに構想を話したのも、ただ自信をつける為に誰かの支持が欲しいというだけの理由からだった。まともに話せば一笑に付されそうな馬鹿げた内容で、内容は馬鹿げている癖に説明するとなると2、30分はかかりそうなややこしい構想を、ぼくはだらだらと喋りはじめたのだが、5分ぐらい喋ったところで突然塙さんが身をのけぞらせた。どこへ書く気かというのである。まだそのような段階ではない、と、ぼくは言ったのだが、塙さんは『海』に連載するよう、すすめてくれた。(中略)こうして『虚人たち』の三カ月毎という変則的な連載が始まった。」
 塙さんが相当の読み巧者だったからこそ、『虚人たち』の構想に進取性を見て取ったのでしょう。普通なら「はあ。それは滅茶苦茶ですね。小説としては成り立ちませんね」と言っておしまいだと思います。こんな滅茶苦茶な小説をよく連載させてくれたな、と、他人事ながら思います。

 じゃあどれくらい滅茶苦茶なのか。本をパラパラとめくってみてすぐに気づくのは、ぎっしり詰まった活字です。改行は会話文だけで、句点(。)はあるけど読点(、)が無い。かと思えば白紙のページが大分ある。これは小説内での「時間」に関する実験を行なっているため、かように読みづらい文章となっているのです。
「ふむふむ。時間が滅茶苦茶なのね。『虚人たち』は時間に関する実験小説なのね」
 いいえちょっと違います。「時間」だけでなく、「人物」「事件」「風景」「場所」「性格」も実験をしています。それぞれ短編いくつかに分けて試みるべき実験の一つ一つを、すべて一本の長編にぶち込んでしまったのが滅茶苦茶なのです。
 本人が述べている通り、『虚構と現実』というエッセイが『虚人たち』の礎となっています。このエッセイを読了してから小説と取っ組み合うか、もしくは並行して読むのが得策です。なにせ滅茶苦茶な小説なので事前知識無しに読み始めると困惑すること請け合いです。
 さてその実験の内容ですが、どのようなおぞましい冒険がされているのでしょう。順番に見ていきましょうね。

 まず「時間」。『虚構と現実』でこのような疑問を提示しています。
「時間の均質性・恒常性を表現した小説がないのはむしろ不思議だと考えることができる。(略)同じ章の中でも時間はストーリー展開に関係のある出来ごとだけを追って断続的にしか流れない。ここで実作者としては日常に多い無為な時間もしくは食事、排泄といった行為をなぜ作中人物は現実の人間同様くり返すことがないのかという初歩的な問題に立ち返ってみたいのである。読む速度との時間的一致は無理としても、今までの小説が省略してきた時間の中に小説の美学を発見することは不可能だろうか。」
 で、どんな風に書いたかと申しますと。筒井康隆がNHKの「テレビコラム」に出演して語った内容を以下引用。
「原稿用紙1枚が1分という計算で、時間の恒常性を表現しようとしました。したがってこの小説は4時間半ほどの出来ごとを省略なしに書いたといえます。主人公が気を失っている時間は、白紙になっているわけです。」
 これはジェイムズ・ジョイスが『ユリシーズ』ですでに行なった手法ですが、『虚人たち』でも援用されています。『ユリシーズ』同様、排泄の場面も省略されることなく。余談ですが「主人公が気を失っている時間は、白紙になっている」部分は実に10ページほどにも及ぶ長いもので、当時は一部の読者から「印刷ミスではないか」と苦情が入ったそうです。馬鹿ですね。

──「人物」「事件」「風景」「場所」「性格」についても今の調子で説明していこうと思っていましたが、あまり長くなるのと、『着想の技術』所収の『虚構と現実』を読めば書いてあるので省略することにします。ただし『着想の技術』を手に取る予定の無い方のために極簡便にかいつまんで説明しておきます。
 「人物」。従来の小説の登場人物は、たとえ作者が創造した架空の存在であっても、あたかも実在する人物のように取り扱われてきました。しかし『虚人たち』の登場人物は自らが虚構内存在であることを自覚しており、自分のいる世界が小説であると認識しています。──これは今では手垢のついたメタフィクションの手法に堕しましたが、『虚人たち』以前にはあまり例のない手法でした(※ただし、小説というジャンルに限る。前衛的な舞台演劇ではさほど珍しくない手法)。これは現実世界における「自分こそが自分の人生の主人公」という万人の意識を作中人物に投影したもので、作中人物たちは「自分こそがこの小説の主人公」と信じています。
 「事件」。現実世界では確率論的に絶対に起こらない、別々の大事件が一人の主人公にふりかかります。これにより、小説は現実世界から乖離し、より虚構性を強化します。リアリズム小説の全盛期には、小説中のほんの些細な偶然も「ご都合主義」「現実味がない」「ありえない」と批判されましたが、あえてその真逆を行く実験。1979年当時おおいに世間を騒がせた梅川事件(銀行強盗が立てこもって人質を監禁したり殺害した)が、小説を脅かすほどの虚構性を帯びていたため、現実が模倣し得ない虚構を作り上げようと試みたのです。
 「風景」。従来の小説における風景描写は、主人公の心理や運命と緊密な関係にありました。もしくは事件や会話の間隙を埋める埋め草としての描写でした。『虚人たち』では、やはり虚構性が強調され、風景が話しかけてきたりします。たとえばこんな一文。「左側の畠の彼方で小さく点在していた町の灯火が次第に近づいてくる。急速に接近しながら灯火が合図しあう。来た来た来た来た来た。来るぞ来るぞ来るぞ来るぞ来るぞ。呑みこめ呑みこめ呑みこめ呑みこめ呑みこめ。」それから、小説冒頭の有名な一文。「座敷は八畳の間で床の間がある。山水画の掛軸は汚れている。それがどんな山水画かよくわからないのは汚れているせいかもしれないがそもそも汚れていなくてさえよくわからない山水画だったのかもしれないし山水画という字が書かれているだけという可能性さえある。」
 「場所」。みなさんは「パースペクティヴ」やら「焦点化」やらいう言葉をご存知ですか。知りませんよね。ぼくは知りません。そういう議論になると面倒くさいので端折って書きますが、小説の描写はたいてい作中人物の目を通して行なわれるか、あらゆる領域に踏み込むことのできるいわゆる「神の視点」でなされます。『虚人たち』では主人公に神の視点を与えるという暴挙を強行。誘拐されたので当然この場にいないはずの妻や娘と自宅で団欒をしますし、誘拐事件を追う真っ最中だというのに事件収束後の会社で上司と会話をします。滅茶苦茶ですね。
 「性格」。従来の小説では登場人物は首尾一貫した性格を持っています。しかし『虚人たち』の、たとえば主人公の息子はコロコロ性格が変わり、荒っぽい口調だと思ったら次のシークエンスでは英語の教科書のような喋り方をします。自分が虚構内人物であるということを自覚しているから、台本のような口調で虚構性を誇張したりするのです。

 それではまとめ。
『虚人たち』のような小説は「メタフィクション」と呼ばれるのが一般的ですが、そのほかにも「アンチ・ロマン(反小説)」とか「小説を批判する小説」などと評されます。従来の小説の約束事をことごとく破り、20世紀以前には存在しなかった読み味を読者に与えてくれます。現実から遥か遠くへ逸脱した世界がもたらす不気味さ。ホラー小説とは全く異なる恐ろしさを味わわせてくれます。
 こういう風に書けば「形式だけでなく、読み物としても面白そうだなあ」と思うかも知れません。しかし初めの方で申し上げた通りあまり面白くありません。理由はいくつか挙げられますが、まず「事件」があまり奇抜ではない。もちろん現実世界では起こり得ない事件を題材としているので退屈ではないですが、SF時代の筒井作品はもっと異常な舞台設定の作品ばかりで、たとえば誘拐と強盗が同時に起こる傑作中篇『ウィークエンド・シャッフル』という前例があります。誘拐が同時に起こる程度ではちょっとおとなしく感じられます。
 まだまだあります。「風景描写」のくどさです。SFから純文学への過渡期、筒井康隆は短編「寝る方法」「冷水シャワーを浴びる方法」「歩くとき」でハイパーリアリズムの綿密描写に挑戦していますが、これは短編だから許される描写であって、長々と続けられると読者は辟易します。短編であったって、書く方は楽しくても、読む方はたまったものじゃありません。
 まだあります。「人物」に関する実験も失敗です。『虚人たち』の主人公である木村は、別の虚構の主人公である男(名前はないですが仮にAとしておきます)の車に乗せてもらいます。二つの虚構の、刹那的錯綜。一見面白い結果を生みそうですが、実際Aはいなくても良かった通行人Aにしか過ぎず、この試みは特に文学的意味を生じていません。
 とどめに、「時間」に関する二つの実験を一つの長編に詰め込んだために統一性を欠いています。先の説明ではあえて書きませんでしたが、「現在の意識を持ったままでの過去への遡行」という実験も行なっています。これのせいで、せっかく原稿用紙1枚で1分という縛りを設けて推移した作品時間が破綻します。──筒井康隆は長篇執筆の作法として、後半に「ダレ場」を用意します。こりゃ何かと言いますと、大団円の前にわざと物語の進行を停滞させて面白くない時間帯を作り、物語佳境の昂揚感や読後のカタルシスを増幅させるという、プロらしい手法です。この技術は『虚人たち』にも使われており、そのダレ場は主人公が時間を移動する辺りですが、作品に対する興味を削がれること甚だしいので無くても良かったとしみじみ思います。

 過去の文豪たちがこういった実験に手を染めなかったのは、思いつかなかったのではなく、「書いても作品として面白くならない」と知っていたからに他なりません。あえてそれをやってのけたところに『虚人たち』の価値はあり、そしてまた、失敗の要因でもあったと思います。
いつになく厳しい論調で書評をしてきましたが、私はこの作品が大好きです。「失敗していることを度外視すれば成功」であり、『虚人たち』は世界文学史の末席を汚す唯一無二の畸形。ポストモダニズム傑作群の一角を担ってしかるべき重要作です。
──あと、妻を誘拐した犯人の名前が「大塚」であることも妙に親近感の湧く一因となっているかも知れませんなっていません。おしまい。



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