とりぶみ
実験小説の書評&実践
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    大塚晩霜
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【小説】我が庭にたまに遊びに来し猫の他家に入るを見少し嫉妬す   (2014/10/06)
原稿用紙100枚。
ちょこざいなギミックなど使わず、いわゆる「普通の小説」を目指しました。
読む価値はありませんが「ボクは元気だよ!」という生存報告として更新します。



 どんなすばらしい体験も日ごとに色あせるのが普通である。私は恋をした。私の人生の一区画を強烈に支配した恋を。しかし筆の力に頼らなくては人間の特性上忘れてしまうだろう。それはあまりにも悲しい。だから書く。私は私の魂の振幅を、文章に残す。
 事の発端は九月上旬の金曜日。仕事が終わり、予定通り、職場の同僚たちと飲みに行くことになった。外はまだ明るかった。会社から男女二十人ほどで連れ立って日本橋三越の屋上のビアガーデンに向けて移動した。
 夏は盛りを過ぎ、徐々にその力を弱めていた。熔けた太陽が半日かけて顔から背中を撫でるそのたびごとに、秋の気配が地平線の向こう側から遠慮しがちに近付いて来ていた。昼日中の日射しはまだまだ痛いが夕方の空気はまろやかな感触になってきていた。
 ビアガーデンまでの道中は仲の良い高梨と並んで歩いた。道すがら私の脳が認識する音は私と高梨の会話だけだった。霧が遠景をぼかすように、都市特有のざわめき、都会の低声は会話を吸収する。前後を歩く同僚たちの会話は聞き取れず、つまり、私と高梨の会話も他の同僚たちには聞き取れない。「木は森に隠せ。人は街に隠せ。秘密の話は雑踏で語れ」の言葉通り、私は高梨と安全に内緒話をした。話題はやはり、女についてだった。
「今日は他部署の娘も来てるけど、誰か狙ってんの?」
「ああ、そうだな。そりゃそうだ。いつだってチャンスはうかがってるよ」
「相変わらずだな。高梨くんの彼女は本当に偉いと思うよ」
「えらいか? 変わった女だとは思うけど」
「偉いっつうか、ほんと、変わってるよね。『浮気してもいい』ってのは相当おかしいよ。頭イッちゃってるね。あきらめてんのかね」
「いやあ、あきらめてるっていうか、理解してくれてるんだよね、俺の浮気性。だから、俺も隠さず言うしね、『今日は誰それとヤッてきた』とか」
「その関係がなあ。すごいよなあ。信じらんないというか。『誰々とヤッてきた』っつって、彼女、何て言うの」
「別に何も。『ふーん』って。さすがにあんまり面白くはなさそうだけど、興味も無さそうな感じ。知らない人でも深く追求してこないし」
「知らない人でも。っていうと」
「俺が『誰々とヤッてきた』って言った時にさ、それが彼女の知らない人だとするじゃん。普通はまあ、『その人どんな人?』とか『何歳?』とか『かわいいの?』とか、根掘り葉掘りたずねてきそうなもんじゃん。でも、たずねてこないの。あいつ。まあ、こっちとしては助かるよ」
「ってことは、彼女が知ってる人──彼女の知り合いとかともHしたりすんの?」
「そうね。彼女の友達とか。彼女を通じて知り合ったり。ああ、あと、彼女の妹とBまで行ったこともあるな」
「すげーな!」
「ちょっと、彼女がいない時おじゃましたときに、ね」
「じゃあもう彼女のおふくろさんともしちゃえば?」
「ははは。そうだなあ。まあ、機会があればね」
「いや~、クズいね。クズい。最高! 最高のクズ!」
「ははは」
 こう書けば高梨は最低の男として映るだろう。女の敵、と。確かに彼は並外れたプレイボーイだった。会うたびに連れている女が違うと言われ、二股三股も当たり前。チャンスがあればすぐに女を口説き、そして口説き落とす。現在正式に付き合っている恋人は、高梨の浮気性は治るものではないとあきらめており、「本命の自分を一番に立ててくれれば良い」と割り切っているようだった。しかし友達としては最高の男で、私は高梨が大好きだった。
「斉藤くんはどう。どうよ最近」
「ん~、何もないね。今日は誰かお持ち帰りできたらいいなー」
「じゃあお互い頑張ろうぜ」
「おう、そうだな」
 私は半年前に失恋して以来これといった浮いた話もなく、高梨の奔放ぶりはうらやましいかぎりだった。今日は企画部や経理部の娘も来ている。私だって少しは頑張らねば。贅沢は言わない。「ブスは三日で慣れる。美人は三日で飽きる」という通り、結局は性格だと思う。性格さえ良ければ、ずっと一緒に、歩んでいける。だから、多少のブスでも、チャンスさえあればアタックしようと思った。
 エレベーターで屋上に到着、人数分の料金を一括で払う。チケットをビールジョッキに交換し、取り皿に思い思いの料理を積み上げて予約席に座った。俺の周りには気心の知れた営業部の連中。高梨と鈴木が境界線となって隣が企画部の面々、その向こうが経理部。まずは各部署ごとに固まったが、酒が進めば席替えは自由に行なわれるはずだ。
 幹事のあいさつと音頭に合わせてジョッキを掲げる。「乾杯!」グラスの鈍い音。
 飲み会において「境界線」は重要な場所であり、境界線を接する選手同士が打ち解けるかどうかで、二つのグループが解け合うか合わないかが決まる。飲み会慣れしている高梨と鈴木はそれを熟知していて、営業の連中にはあえて背を向け、企画の山下と木内を巻き込んで田所課長の噂話。
「……ってなわけでさ、すげー変なのよ、うちの課長」
「あとさ、なんだっけな、なんかの話の中で君らんとこの部長が『お目こぼし』って言葉を使ったらしいのね、何度か。例のアレで禎雄商事に謝罪に行った帰りか何かかな。そしたらうちの課長がさ、『部長。その、ボシというのは、星ですか。空に輝く。それとも干すことですか』って真顔で聞いたらしいんだよね」
「どういうこと? ……あ、そういうことか! 馬鹿じゃねーの!」「馬鹿だよ馬鹿馬鹿!」「がははははは」
 高梨鈴木両名の積極的なアプローチのお陰で営業と企画の境界線は消えたも同然となり、私たちは急速に盃を重ねていく。乾杯から三十分、徐々に営業と企画の座は乱れ一体化していく。私も企画のテーブルに分け入り、取っ掛かりは無難に「今朝電車で見たババアのメイク」などから探りを入れ、然るべきのちに得意先の悪口大会などを主催するに至った。
 一方で企画と経理の境界線は見事に真っ二つになっている。経理は経理だけで内輪話をしている。仲間外れになっているようで傍目から見ると少し可哀想な景色。私たちとしても経理部とはあまり接触もなく、伝票を切ってもらうときに時たま顔を出すくらいだった。事務員の女の子ともろくに話したことはなく、「まあまあ可愛い娘もいるな」程度の認識しかなかった。
 そこに、城野かほこちゃんは座っていた。やや物憂げな表情でカンパリオレンジのグラスをこねくっていた。「毎日顔を合わせる連中と弾まねえ会話をするのにいいかげん飽き始めた頃合いか?」私たちは動いた。おかわりを取りに席を立った男たちの席にめざとく滑り込み、経理部のイスを奪った。かほこちゃんの正面を鈴木が、両隣を高梨と私が占め、彼女を完全に包囲した。留守の間に自陣を征服された男たちは空席を求めて仕方なく営業と企画の領土にそれぞれ散る。滞留していた風の入れ換え。泥のように乾きつつあった席次の攪拌。飲み会マスターが目指すのは(自分たちだけではなく)会席した者の全てが心地よく酔っ払う宴。
 かほこちゃんは地味な印象の娘だった。ただ、肌の美しさが人目を惹いた。クリームチーズのような肌をしていた。きめの細かい美しい乳色の皮膚だった。「色の白いは七難隠す」とはよく言ったもので、顔が白いだけで清楚な美が際立つ。──決してかほこちゃんをブスと言うわけではないが。絶世の美女でもない。夜の色に沈む濃紺のワイシャツの上で、顔だけが白色光に浮かび上がっていた。
 私たちに特別な下心などはなく、ただ単に彼女を楽しませたくて接近した。独り酒の女性をその退屈から救おうとする善意からの接触だった。正直に言えばあわよくば一発ヤレたらいいなあくらいは心の底で思っていたかも知れないがそういうそぶりは少しも表に出さなかった。高梨でさえも露骨なアプローチを避けた。誰も言葉には出さなかったが男たちは暗黙のうちに感じ取っていた。彼女の処女性を。だから、下世話な話は遠慮したのだ。
 私たちはまず簡単な自己紹介を済ませてから男三人でかほこちゃんをちやほやした。
「城野かほこちゃん。かほこって珍しい名前だね。どんな字を書くの」
「ひらがなです」
「へえ。かほこちゃんって呼んでいい?」
「いいですよ」
「かほこちゃん、経理部の仕事って、どう」
「うーん。ようやく慣れ始めてきたってところで。まだまだですね」
「楽しくないの」
「楽しい、ってとこまでは行ってないかなあ」
「そうかい。大変だな」「じゃあかほこちゃんにとって何が楽しいの。普段は何してるの。趣味は」
「普段は、買い物とか。あと犬の散歩とか」
「俺も犬好きだよ」「俺も」「俺も俺も。俺も犬だあい好き!」「嘘つけおまえ猫派だろ」「嘘じゃねえよワンちゃん大好きだよ」
「わたし猫も好きですよ」
「あ。だよね。猫かわいいよね。そうなの俺猫派なの」「どんな犬? 名前は?」
「シェパードです。名前はジェフです」
「ってことは一軒家?」「一人暮らしじゃないんだね」「トホホ」
「ふふ」
 かほこちゃんは私たちと話すのが楽しそうだった。誕生日・好きな食べ物・最寄りの駅など、自分のことを聞かれるのが嬉しそうだった。猫の目が下弦の月に変わる。両手で捧げ持ったグラスを時々思い出したように口に運ぶ。高梨が冗談を言うと吹き出しそうになって右手で口を押さえる。ピーチフィズのような唇。
 その後は経理部の他の女の子とも話をした。やや不満げな様子だった彼女らも私たちが相手をしてくれるようになってあきらかに嬉しそうだった。手放しの歓迎。すぐに打ち解けた。かほこちゃんも巻き込んで。元来、私たちは何も彼女らをないがしろにしようとしてかほこちゃんをひいきにしたわけではない。一座のうちで一際温度の低い場所を温めようとしただけ。温度差を均すつもりで集中的にかほこちゃんに構ったのだった。
 その後は女子連が入れかわり立ちかわり一口サイズのケーキやタルトなどのスイーツ群を取ってきて、席はごちゃまぜ。営業企画経理渾然一体となって制限時間いっぱいまで盛り上がった。
 夜が更ける。棚引く一片の雲を透かして月が灯る。都会では地上が騒がしすぎて星は見えない。晴れているのに曇っているような都心の夜空。しかし最高の夜空だった。しんみりとした余韻を残して愉しい宴が終わる。二次会は各自で勝手に企画することにしてとりあえず散会した。帰りがけ、三越の入口の両脇を固めるライオンの像に鈴木と経理の土屋がまたがった。私たちはそれを見て笑い、ケータイで撮影した。
 かほこちゃんは私たちと連絡先を交換し合った。私と、鈴木と、高梨と。
 翌週の水曜日、私は高梨と退社した。すると、会社の前で経理部の女子社員三名と一緒になった。中村・矢部・かほこちゃん。
「今上がり? 俺たちも。今日も暑いね。今から飲みに行かない? 行きましょうそうしましょう」
 高梨が有無を言わさず突発的な飲み会の開催を決めた。相手方の今夜の予定も確かめず、やや強引なお誘いだ。女たちは少しためらっているようだったが、私も高梨に同調して押しまくる。
「こういうのは勢いが大事だよ。ね。行こう行こう、そうと決まればさっそく移動移動」
 私と高梨は早くも歩き始めていた。女たちは「どうする?」とささやき合いながらも、満更でもない風な苦笑をぶら下げながらついてきた。
 陽はとっくに暮れ、飲屋街は文字通りの紅灯の巷。煌々と光る看板から看板へと、蛾のようにさまよいながら、どの店に腰を据えようか物色する。おしゃれなバーなども数軒あったがあえて敬遠し、突発的におっぱじまった会相応に気軽な感じの居酒屋チェーン店に狙いを定めて暖簾をくぐった。女たちは一人も離脱することなく私たちの後に従った。
 周りから壁で仕切られた、ゆったりとした六人テーブルに案内された。男二女三で向かい合って席に着く。複数名がお互いしっかりと会話をするには、距離的にも音響的にもちょうど良い空間だ。
 ビアガーデンや大人数の飲み会では、お互いの声が聞こえにくく、どうしても至近距離の相手としか話さなくなる。それはもちろん、環境のせい(野外だったり広かったり)もあるし、酒が進むことで加熱していく連鎖反応にも原因がある。すなわち、酔っ払うと耳が遠くなる、耳の遠くなった酔っ払いたちは大声で話し出す、こちらも負けじと声を大きくせざるを得なくなる──。この悪循環によって会場は九十デシベルの騒音のるつぼとなり、ライブ会場で耳打ちをし合うような酒の席となる。しかし今現在のような少人数制の飲み会ならばそのような弊害もない。私は三~六人くらいの飲み会が好きだ。話の合わない奴から逃れるため便所に立つふりをするというテクニックは使えないが、同年代の男女が集まって話が弾まない法もない。それに、何と言っても高梨が同席しているのだ。盛り上がらないはずがない。
 お通しと各自の一杯目が運ばれてきた。乾杯。高梨の仕切りもあり、燃料を一口入れただけでこの舟は早くもエンジンが掛かり始める。無難にうまい物の話題を取っ掛かりに、変わった飲み屋の話で場を温める。監獄レストランやジョジョ・バーやコヨーテ・アグリー風のバーについて。そして、徐々に、五人の乗った舟は恋愛方面へと舵を切る。
「高梨くんってモテるよね」
「え~そんなことないよー」
「何その棒読みー」
「色々とお噂は聞いておりますぞ!」
「どんな?」
「ブレイゼズの受付嬢を口説き落としたとか、ボイラン商会の接待の時に相手方の社員をお持ち帰りしたとか……」
「あー。そんなこともあったかなあ。でも昔の話だよ」
「いやいやごく最近っしょ!」「両方とも先月の話じゃん!」「彼女、いるんでしょ?」
「いると思う?」
「当然いるでしょ。いなきゃおかしいでしょその風貌で」
「その風貌って? 俺ってかっこいい?」
「うーん……。うん」「そうね。カッコイイ方だとは思うね」「まあそうだよね」「かほこもそう思う?」「え」
「どう?」
「……」「この子シャイだから」
「いやあ、うれしいなあ。じゃあ俺が『今晩つきあって』って言ったら一緒にいてくれるのかよ」
「だって彼女いるんでしょー」
「んー、どうでしょー」
「何それ長嶋のマネ? クオリティー低くて逆にウケるんだけどー」
「長嶋監督って、サイン二種類しか出さなかったらしいよ。こう、バントの構えをしたら『バント』で、スイングをしたら『ホームラン』。この二種類」
「ははははは」「ウケるー」
 高梨による長嶋伝説がしばらく続いた。その間に中村がごく自然な動きで高梨の横に移動した。酔ったのか酔ったふりなのか、目を眠ってその頭を高梨の肩に預けた。誘惑する態度があからさますぎて私と矢部は苦笑し、かほこちゃんは見て見ぬふりをした。高梨は慣れたもので、中村の肩に手を回してもはやまるで恋人同士のよう。その中村がはっきりした口調で言う。
「斉藤くんは? 彼女いないの」
「いないよ」
「ふーん」
「おいおいそれだけかよ。何そのさも当然みたいな流れ。それじゃかわいそすぎるだろ俺」
「あははごめんごめん」「この、かほこはどう? かほこも彼氏いないよー」「もらってやってよ。よろしくお願い申し上げます」
「いやいや。俺はよくってもかほこちゃんがさ」
「どうかほこ。斉藤くん」「え」
「どうかな?」
 彼女は何も答えなかったが、恥ずかしそうにニターッと笑った。それから真っ直ぐ私を見つめた。
「お。何、脈あり?」「いいじゃんいいじゃん。斉藤くんおすすめだよー」「確かにこいつはいい奴だよ。俺が保証する」
「いやいやいや」
「でもまあそろそろかほこちゃんの恋愛トークも聴きたいな」
「いいですよ」
 大人しそうな子なのでこの手の話題は警戒するかと思ったが、少しアルコールも入っているせいか、彼女は想像以上に自分の話を開帳した。
「わたし、まだ男の人とつきあったことないんです」
「嘘マジで?」「何もったいない」「嘘でしょ?」
「本当です。すごく奥手で……」
「この子ほんとに奥手でさ。二十三年間、男の影、なし」
「マジかよもったいない」「かほこちゃんくらい可愛い娘に彼氏がいないっていうのは日本社会にとっての損失だよ。打撃だよ痛手だよ。世の男たちは何してんだよ。どうなってんだよ」「世の中まちがってるぜ。間違いだらけだぜ。ホントにもー」「でもデートとかそれくらいはしたことあるんでしょ?」
「いいえ。したことないです」
「何でなん。それは何か宗教で禁じられてるとか? かほこちゃんレベルだったら引く手あまただったでしょー」「絶対モテたよ」
「ほんとにないんです。全然モテないです」
「もしかしてぶっちゃけキスもしたことない?」
「……ないです」
「男の人と手をつないだことは?」
「それもないです」
「うえー嘘でしょ。オクラホマミキサーとかやらなかった?」
「何ですかそれ」
「フォークダンスの。キャンプファイヤーとか体育の授業とかで踊るやつ。そん時手ぇつないだでしょ」
「あー。その時わたし女子と組んでましたから」
「いやさ、かほこちゃんがドブスだったらわかるよ? でも可愛いじゃん。何でそんなラヴにうとい人生を送って来ちゃったわけ」
「わたしブスですよ」
「いやそんなことねえよ」「男の人嫌いなの? レズだとか、男が苦手とか、そんな感じ?」
「ううん。そんなことないです」
「じゃあ恋愛に興味がなかったのか」
「興味はー、ありましたよ。恋はしたいです。今まで良い出会いがなかったんです。高校も大学も共学じゃなかったし」
「女子校。そうかー。じゃあ仕方ないかもね」「でもさ、バイトとかしなかったの。バイト先でいい人と出会わなかった?」
「なかったですねー。可哀想ですねー」
「カワイソーデスネー、って。他人事だなオイ」「じゃあ恋愛には興味あるのね?」
「はいあります。ありまくりです」
「これからいい出会いあるといいね」
「もう、いい出会いあったかもよ?」「ほら」中村は私の方をあごでしゃくった。
「にしし」彼女はまた、ニターッと笑った。
「何その笑い方。可愛いな」「ホントだな。反則級の可愛さだよ」「もはや犯罪だね。逮捕する」
「にしし」おだてられ慣れていない彼女は恥ずかしそうにうつむいたがそれでも当然のことながらうれしそうだった。
 確かに恋愛において出会いきっかけタイミングは大切だ。恋愛の始まりは、歯車と歯車の組み合わせに似ている。長らく別々の人生を歩んできた、一見すると全く無関係に見える歯車Aと歯車B。試しに組み合わせてみるとぴったり。ゴトリと重い音を立てて回り出す。こうなるともう止まらない。がっちりと噛み合った歯車は急激に高速回転を開始する。全く無関係だった二つの歯車が、完璧な一対の機械となって廻る廻る廻る。情熱的で性急な恋愛の始まりはまさしくこれだ。
「あんたもさ、二十三にもなってデートすらしたことないってのはちとまずいから、高梨くんか斉藤くんとデート行ってきなよ。あ、高梨くんはちょっとアレだから斉藤くんとさ」
「なんだよちょっとアレって」
「だってヤるだけヤって捨てるでしょあんた」
「んなことないよ。なあ?」「いや有り得る」「おいおいここで裏切る?」「へへ」
「ほらかほこー。斉藤くんにお願いしなよー」
「まあ、機会があったらちょっと食事ぐらい行ってみたいね」
「はい。お願いしますー」
「良かったじゃんかほこー」「おめでとー」
「まだ付き合うって決まったわけじゃねーし。ねえ」「そうですよねえ」「まずは友達からだよね」「ですね」
 飲み放題がラストオーダーとなり、最後の一杯を干して私たちは席を立った。中村は高梨の腕に手を回してもたれかかったままである。高梨が誰にも悟られないよう私にウインクをする。これは、今晩、ヤる。
「じゃあ俺は中村を送ってくから。また飲もうね」
 私と矢部とかほこちゃんを残し、新しく出来上がったカップルは駅とは逆方向に消えていった。私たちは苦笑いしながらそれを見守り、駅へと向かった。駅に着いたら、それぞれ別々の電車に乗った。
 その晩私は夢を見た。高梨がかほこちゃんにタバコを教える夢を。かほこちゃんは唇の先で白い棒に優しく接吻した。タバコの先が赤くなった。唇からタバコを離し、残りの力で口中の煙を肺に落とし込んだ。アンニュイな瞳。そして、口からモクモクと濃い煙を吐き出した。私はそれを見て大変悲しくなった。
 私はかほこちゃんと定期的にメールをするようになった。あまり頻繁にメールを送ると迷惑かなと思って、少しずつ。ただ、一通一通をとても丁寧に作成した。肉筆のラブレターと同じように、一字一句をゆるがせにせず。返事が来るのが待ち遠しかった。そして会社ですれ違った際には、今までのような軽いあいさつ「おつかれさまです」だけではなく、ちょっと立ち話もするようになった。いつの間にか私は彼女に心惹かれ始めていた。その気持ちはまだまだ淡い物で、小さな火種だった。
 しかし、目を離した天ぷら鍋が炎上し、その舌先がカーテンを舐め、あっという間に家を一軒貪り尽くすように、恋の狂おしい炎が天まで焦がすほど燃え上がるには、長い時間はさして必要なかった。いつしか私は用もないのに経理部の周辺を徘徊するようになった。そして心の中でつぶやいた。
「君も僕と同じ気持ちならいいのに。君も僕と同じ気持ちなら。ふたりまだ、お互いを充分に知らない。少し話はしたけれど、全然足りない。もっと親しく話したいけれど──この気持ちが僕だけの感情だったら? それが怖くて、勇気が出せない。躊躇してしまう。
 君も僕と同じ気持ちならいいのに。君も僕と同じなら。それを知るすべは、まだない。もし君が僕のことをなんとも思ってないとしたら。この気持ちが僕だけの感情だったら?僕は打ちのめされ、絶望するだろう。そうなることを恐れて、僕はまだ聞けずにいる。期待してしまうから裏切られてしまうんだ。望みを抱かなければ、失望することもない。
 脈ありと思っていたのにその後そっけなくされて意気消沈した苦い思い出がよみがえる。あの時のあの娘の思わせぶりな態度は自分の思い過ごしで勘違いだった。あの娘は本当は僕のことなど眼中になく、時折見せてくれる最高の笑顔は誰にでも向けられる営業用の粗品同様だったのだ。好かれていたのではなく遊ばれていたのだ。
 かほこちゃん、君もそうなのか。あの娘と同じなのか。それと知らずに僕の心をもてあそんだあの娘と。僕を浮き足立たせ、引き寄せ、手の届く所まで手を伸ばそうとした途端に奈落へと突き落としたあの女と。そうではないと願いたい。ああ、君も僕と同じ気持ちならいいのに。今日は君と会えるかな、って、いつも思ってる」
 夏も終わりに臨みつつあり、秋の気配がいよいよ間近に迫ってきた。濃い柿色の夕焼けを背景に五重塔のシルエットが焦げる映像が、東京にいてもふと頭をよぎる季節になった。今シーズンのビアガーデンが終了する間際、私たちはまた二十人ほどで三越に来た。飲み会の立ち上がり、私は常通り鈴木や高梨と席を等しうした。高梨が奔放な恋愛論をぶち上げた。それを聴きながらも私の視線は知らず知らずかほこちゃんの居る方向をふらついた。
「男女の理想の形はセフレだと思うんだよね。俺は」
「いきなり極論だなオイ」「女子には聞かせられないサイテーな発言だね」
「いや聞かせてもいいよ。『深くつきあう気はありません』って線引きにもなるし。『それでもいいから抱いてください』ってなれば儲けもんだし。付き合うってなるとさ、重いじゃん。色々と。デートはしなきゃならないわ、食事はおごったりしなきゃならないわ、いや、おごるくらいはいいんだけどさ、店を選んだりおっくうじゃん」
「まあそうだけどね」「わかるけど」
「こまめにメールしなきゃならねーし、『あたしのこと好き?』『ああ好きだよ』って馬鹿みたいな会話しなきゃなんねーし、相手に合わせて演技するのもそれなりに体力消耗するもんだよ」
「それはわかるわー。あと誕生日プレゼント選ぶのとかかったるいよな。デートも特別な場所にしなきゃならねえから選ぶの悩むし、気の進まねえ下調べに時間取られるのも嫌だし、あとあれだよ、『つきあって何ヶ月記念!』みたいなやつ」
「あーわかるわかる」
「で、こっちが忘れてるとすげー怒るのな。『今日何の日だっけ?』『ん? 九月一九日だからクイックの日?』『ホントにわからない?』『燃えるゴミの日?』『ぶっ殺す!』みたいな。いちいち覚えてねっつの!」
「何の変哲もない日を数日前から気にしなきゃならないのは苦痛だよなー」
「で、なんか気の利いたプレゼントとか用意してさ。花束とか」
「何鈴木。花束なんかあげたことあんの」
「あるよ。すげー喜ぶよ。花ってのは俺たちが思ってる以上に女子たち喜ぶもんよ」
「いやー無いわ。マメだねー」
「花束すげー利くよ。効果覿面。試してみろって」
「いや必要ないわ」「俺は試すよ。花束ね。勉強になりやーす」
「しっかし高梨くんはさ、本当に人を好きになったりすることはないの」
「いやあるけどさ。でもそんなに長続きするもんじゃないだろ、男のキモチなんて。おんなじ女何度か抱きゃ飽きるし。いつまでもフレッシュなキモチを保つなんて俺にはできないよ」
「どんな恋もいつかは冷める、ってか。確かに」「でも、その恋が本物の愛に昇華すれば、一生物の恋愛ができるんと違う?」
「それが人として理想なんだろうけどね。俺には無理だな」
「結婚とかしないのかよ。将来的に」
「どうかなあ。まあ今は全くその気はないね。加トちゃんみたいにさ、年の差婚とかはアリだと思うけどね。いくつになってもああやって異性への興味を失わないっていうのはカッコイイよ。でも今はまだ若いしそんな重苦しいものよりセフレみたいな仲が楽でいいやね。結局はヤりたいからメスに媚びるわけだからオスは。究極のところ」
「肉体関係……」「オー、イェー」
「中村ともちょいちょいヤッたけどさ。あいつだってなかなかの手だれで。俺に彼女がいるってのは知ってて、身体だけの関係って割り切ってくれてんのよね。ああいうヤツが一番面倒くさくなくていいよ。あれで、やれ愛してるだの、やれ彼女にしろだの言われてみ?今の彼女との兼ね合いも面倒くせえし、同じ会社でさ、気まずいぜー」
「君みたいなのがモテるのって納得いかないよね」
「でもまあ確かに理想の関係性かもね。遺伝子的にオスはそう出来てるわけだし。たくさんの子種を色んな女にばらまくために、一人の女だけで完結せず、次へ次へと向かうわけじゃん。同じ女じゃ飽きるように脳がそうなってるわけでしょ。たとえば原始人がさ、自分の奥さんが妊娠してさ、出産するまで指くわえてたら子孫の数は増えてかないわけじゃん。だから他の女にも行くわけじゃん」
「過去の愛が忘れられなければ、新しい恋はできない。恋愛をしなければ子孫を残せない。子孫が繁栄しなければ種は滅びてしまう。だから……」
「昔の偉い人の夜這いとかもこのシステムだよね」
「女ってのは、じりじりと牛歩戦術でさ、携帯アドレス聞いたり、デートしたり、徐々に仲良くなって、少しずつベンチの距離を詰めて、やっとキスまでこぎつけて、そんでどっかで服を脱がせて、指を入れるまでが楽しいんであってさ。一度そこまでたどり着いたらもうあとは最後まで行くのは確実なんだから、俺はそこで冷めるよね。『ああ終わった』って。次の女を探そう、どっかに誰かいないかな、って。女抱いてる最中でもね。だから、一人の女に本当の愛情が持続するのは指を入れるまでだね。指を入れるまでが楽しい」
「指を入れるまでが楽しい。名言いただきました」「一生涯にたった一人の女性だけを愛すってのはそりゃ人としては立派かも知れないけど、動物的にはちょっとちがうよね」
「世之介じゃねえけど征服した山の数は男としての一種のステータスだよ。男として生まれてきたからにはそれなりの場数を踏みたいよね」
「俺はでも、高梨くんや鈴木くんみたいには成れないなあ。そんなに手広く複数の女に手を出せないよ。それこそ面倒だもん。俺は彼女が出来たら彼女一筋になる」
「えらいねー斉藤くんは」「えらい。いやこれは茶化すわけじゃなくて。それこそ理想的ではあるよね」
 私たちが女性にはあまり聞かせられない話に淫猥な花を咲かせていると、前回同様席の入れ替えが激しくなり始めた。高梨の隣に中村が座った。私たちは話題を打ち切った。
 かほこちゃんも今日はだいぶ気持ちよく酔っているようだった。企画の木内が大型の水鉄砲を持ってきていたが、彼女はその水鉄砲を奪い取り、笑いながら木内と山下に噴射していた。席を離れ逃げまどう二人を嬉しそうに追いかけた。それをうらやましそうに見ていた学生グループのうちの何人かが、みずから「かけてください!」と自殺志願をした。彼女はえいえいと言いながら学生たちに弱々しい水の銃弾を浴びせた。周りにいる誰もが笑った。
 そして、彼女は最後に、銃口をまっすぐ上空に向け、引き金をガチャガチャと引いた。降り注ぐ散弾を頭から浴び、髪の毛を濡らし、服を湿らせた。スコールに見舞われた小学生のようにはしゃいだ。
 その光景に誰しも心を奪われた。普段はかほこちゃんをまるで気に留めない連中までもが押し黙ったまま見惚れた。私も油断をし、完全に魂を引き抜かれた。彼女の姿態を尋常ではない熱視線でもって凝視していた。犯罪者の目だったかも知れない。知らぬ間に演じていた狂態をはっと自覚したとき、私は周囲を確認した。恥ずかしさで脇の下が熱くなった。
 むらむらと沸き上がる独占欲、その場に居合わせた男性全員に芽生えたことだろう。「手に入れたい」とまでは思わなくても、「誰にも渡したくない」という気持ちが。他の奴らには渡したくない、と。それほどまでに、彼女は輝いていた。決してずば抜けた美人ではないのに、あの時あの瞬間、彼女は都内で最も美しい魅力を放っていた。
 矢部がすんませんすんませんと頭を下げながらかほこちゃんを連れ戻した。木内が学生の一人にもう一つの水鉄砲を渡し、周囲の迷惑にならない程度に撃ち合いを始めた。会場全体が笑いに包まれた。その馬鹿げたドンパチを肴にして大人たちは楽しい酒を飲んだ。係の人たちは少々困り顔だったが、夏の終わりに花を添える出し物として静観した。和やかな暑気払い。夏が終わる。
 私たちは学生グループを巻き込んで集合写真を撮った。私はさりげなくかほこちゃんの隣に立った。愛想の良い係二人が数台のカメラを引き受けて数回ずつシャッターを切った。最後の数枚、私は酔いに任せて彼女の肩に手を回して写真に収まった。彼女は身をこわばらせることもなく我が左腕を受け入れた。私たちは学生グループと抱き合ったり握手したりして別れた。
 週末、私は自室に寝転がり、焼き増ししてもらった写真を見つめた。夜の闇を背景にした、人物だけが不自然な色彩で浮かび上がった写真。私と、学生の連中と、かほこちゃん。
 水鉄砲を夜空に向けて撃つあの光景が、スローモーション再生で思い出される。あの瞬間から、私は完全に恋の病に罹患したと言って良い。恋は病だ。本物の恋心は一種の真正なる精神病だ。熱くたぎるような神経のたかぶり。何か思考しようとしてもかほこちゃんの顔がちらついて邪魔をする。ここにいるはずのないその存在が周囲の空気に満ちる。世界はかほこちゃんで飽和する。何も手につかない季節。頭からその幻影を振り払おうとしても世界にかほこちゃんが偏在しているのだから逃れようもなく。
 ストーカーの気持ちが、今なら、わかる。相手の都合お構いなしに追いかけ回すあの無神経さが。たとえ相手がプライベートの時間を欲しても、付け回してしまうあの狂気が。恋した相手で世界が埋め尽くされているなら、その世界をもがき回るしかない。だって、居るんだもの。朝起きても、一人で食事していても、電車に乗っていても、風呂に入っていても、半透明の彼女がそこに居るんだもの。視界の片隅あるいは全面に浮かんでいるんだもの。芥川の右目の中で廻転していた歯車のように。恋の閃輝暗点。
 ここまで熱狂的な恋をしたことはかつてない。十代の頃に女の子を好きになった感覚とはちがう。あんな清い、本能から発せられる素直な肉欲の発表ではない。本物の恋情は、病気だ。
 会いたい。しかし私は我慢した。迷惑かも知れないから。この強い気持ちは私だけのものかも知れないから。相手は煙たがっているかも知れないから。だから我慢する。しかし会いたい気持ちは募る。あふれそうになる。
 私は自分の気持ちを偽り、こういう「言い訳」を心の中で捏造したりした。
「好きで好きでしょうがない。だが告白はしない。『臆病だから』ではない。比べてしまうからだ。あまりにも好きだが、あいつに比べたら格段に劣る。付き合ったとしてもすぐ嫌になってしまうだろう。記憶の中の過去の恋人と、現在意中のかほこちゃん。天秤にかけたら圧倒的に過去の恋人の方に傾くだろう……」
 また、こうも考えた。
「好きで好きで、可愛くて可愛くて、しかたがない。いちゃいちゃしたい。キスだってしたい。──なのにエッチはする気が起きない。なぜだろう。本当に好きではないんじゃないか。この感情は愛ではないのでは。『可愛い』とは思うものの、その肉をむさぼりたい欲求に駆られないのは、ひとえに『女』としてではなく『ペット』のような存在として認識しているからなのではあるまいか。たとえ相手が裸であったとしても交わりたいとは思わず、ただギュッと抱きしめて頭をなでてあげればそれで自分は満足できるような……。愛玩動物としての?」
 結局、言い訳でしかなかった。想いが決壊しそうになったとき、初めて意思を表明した。仕事にも身が入らなくなった火曜日の昼休み、限界寸前で相手にメールをした。二人きりで飲みに行こうと誘った。我慢できない。今すぐ会いたい。今夜。
 メールの文面はこうだ。
「おつかれさまです。まだまだ暑いですね。こんな日はビールがうまい! 今日、仕事が終わったら二人で軽く飲みに行きませんか?」
 考えに考え抜いた末の簡潔なメール。言葉を錬磨して錬磨して、究極まで研ぎ澄ませた点において、このメールは私にとって一編の詩だった。相手を警戒させないように、抑え切れない想いを無理無体に抑え、沸騰する熱情を何気ない態度の下に隠蔽した文言。
 私は祈った。仕事そっちのけで相手の返信を待った。胸の鼓動が止まらない。破裂しそう。喉の底から重いハンマーのリズムが飛び出してくる。心臓マヒが心配されるほどの緊張。死ぬのは困るから気持ちを落ち着かせようとする。脳と胸の折衝。頭が心を説得しようとする。しかし心は頭に従わない。不随筋。長く苦しい時間。耐え抜く。
 終業時刻近くになって、やっと彼女からメールが届いた。返事は「ごめんなさい」だった。私の緊張は一気に解け、頭のてっぺんからシューシュー音を立てて元気が抜けていくのがわかった。絵文字入りの「今日は用事があるんです。でも飲みに行きたいです。また今度誘ってくださいね!」という社交辞令。おかげで、荒れ狂う心臓は破裂する前に鎮まったが、代わりに凍えるほどの孤独感が私の総身を覆った。心臓は助かったが、今度は脳味噌がやられてしまうのではないかと思った。発狂してしまうのではないかと思った。聞いた話だが、とある青年は失恋のショックがあまりに大きかったために一晩で総白髪になったという。本当の話だと思う。誠の恋は、げに苦しきものかな。地獄を見るなら天国なんか望まない。恋なんかしたくない。一生独りでいい。
 翌日も懲りずにメールをした。前日同様の待たされる苦しみの果てに届いた返事はまたしてもごめんなさいだ。先約が入っているとのこと。脈が無いわけではないのにタイミングが合わない。運命の残酷さよ。心がめきめきと音を立てて折れそうになる。私は平静を装って席を立ち、トイレの個室に入り、両腕で自分の身体を抱きしめ、声を殺して身悶えした。泣きはしなかった。だが泣きたかった。
 一通り落ち込んだあと、冷静になって我が状況を考えた。単独で狂態を演じる己の道化ぶりを。風が吹いたわけでもないのにくるくる踊り回る哀れな枯れ葉のような自分を。
 誘いをかけても断られるというのはどういうことなのか。タイミングが合わない? 本当に用事があったのかも知れないが、もし脈があるなら向こうから誘い直してくるはずではないか。これはやはり遠回しの拒絶なのだろう。かつて「いつか食事でも」と熱のこもった視線をやり取りし、肩に手を回した仲であっても、二度とそんな隙は見せまいとする透明な意思表示なのだ。暗合で書かれた「立入禁止」の札だ。
 愛は動物に仕込まれた基本原則。人間は動物である。愛に動かない人間は人間として問題がある。──だから今の自分はとても人間らしいし、そして動物らしい。生き物らしい生き物だ。──逆に言えば、愛から遠ざかるということは、煩悩を捨て去るということ。凡人を超越した精神性を獲得するということ。動物から最も離れた高貴な存在になるということ。──神? いや。動物的な臭いのしない、機械的な物体になるということ。この恋が報われぬのなら自分は物体になりたい。
 かほこちゃんをあきらめていっそ他の女と付き合いたくなった。その行為には当てつけの意味も含まれる。私を捨てたことを悔やんでいただく。罪悪感を擦り込むための。完全無罪の女に傷を負わせようとする試み(ただ私のタイミングが悪いだけでかほこちゃん本人は全く悪くないのに)。彼女で満ちた世界から逃避するための手段でもある。新しい相手を探すことは、現在の土地からの逃走だ。頑張ってあきらめるよ。あきらめれば、「会いたい」って気持ちも薄らいでいくだろうから。
 その晩、私は夢を見た。夢の中での私は不遜で傲慢な武者だった。難攻不落の城を攻めている。幅一町もある水堀と高さ五反の石垣に守られた鉄壁の城塞。姫路城よりも美しく堅牢。容易には侵入できない。
 当初、私は交渉による無血開城を目指した。しかし、いとも簡単にはねのけられた。腰を低くして「ぜひ貴君と同盟関係を結びたい。まずは入城許可を戴くところから始めたい」と申し送り、濠の外で返事を待った。だが、城主は無視を決め込んだようだった。「出直せ」とも何とも言わず、ただきらびやかな白壁を日輪の光線で光らせていた。おとなしく何日も待っていたが、待ち損だった。それは大変な屈辱だった。
 その城が好きだった。征服したかった。その思惑が直接相手に悟られるのは忍びなかったので婉曲の策略を用いた。「城をくれ」と直接的に進言せず、「城に近付く権利を与えてくれ」と懇願した。それはつまり、結果的には城を手に入れたいという顕示なのだが、君主は全く意に介さなかったようだった。
 遠回しすぎてこちらの胸中が伝わらなかったのか、はたまた武人としてみすぼらしかったからなのか、城門は開く気配が見えなかった。居ても立ってもいられなくなった。金糸に彩られた鎧で着飾って一の橋を渡ったこともある。巨大な鍬形兜を頂いて一の門を叩いたこともある。盟友にたのんで伝令を送ったこともあるし、矢文を放ったこともある。しかし、どんなに益荒男ぶりを上げようと、策を練ろうと、城は開け放たれなかった。
「おまえが好きだったのに……。もっと仲良くしたかったんだ。入城したかったんだ。城内の金襖を滑らせ、屏風に描かれた古雅な水墨画を拝みたかったんだ。茶室で名器を愛でたかったんだ。それなのに、男として扱ってくれなかったな。思い知らせてやる」
 無血開城は無理だという諦念にそそのかされた。我慢できなくなった。内なる衝動は発火寸前で、今にもてつはうのように爆発しそうだった。
「決めた。城壁を血に染めてやる。軍事力に物を言わせて本丸に攻め込んでやる。俺を軽んじたことを後悔させてやる」
 私は夜襲を仕掛けた。グッスリと眠っている城にそっと近付き、布団をはぎ、身ぐるみをひっぺがした。敵の罵る声も耳に入れず、脇差しを天守閣にぶっ刺した。一瞬で果てた。
 目が覚めて、思った。やっぱり自分は性欲に支配されているのではないか。頭の中でいくら綺麗事を捏ね上げても詰まるところリビドーに振り回されている。良いことなのか悪いことなのか判断は出来兼ねた。ただ、不本意ではあった。私はかほこちゃんと、心と心の交流をしたいと願っている。
 人は歳を取るに連れて恋をする身体の部位が変わるという。男なら下から上へ、女なら上から下へ移ろっていくという。すなわち、若年の男は股間が、壮年の男は心が、中年の男は頭が、それぞれパートナーを求める。それに対し、二十歳の娘は頭で、三十路の女は心で、四十路の熟女は股間で、それぞれ恋を欲する。というのだ。私は男としての二番目の段階に差し掛かったばかりであり、中年以降は未体験なのでこの俗説が本当かどうかはよくわからない。だが、三十歳になる前に駆け込むように結婚をする人が多いのは、案外この「歳を取るに連れて恋をする身体の部位が変わる」というのが原因なのかも知れない。年齢の区切りなんか別に関係が無くて──三十路の男の心と、壮年の女の心が、お互いを求め合った結果なのではないかとも思える。私は彼女とそういう関係を結びたい。ただHがしたい、ではなく。
 安寧なる数日間のあと、彼女の方からメールを送ってきた。いつもは私の方からアプローチをしていたのに。珍しく絵文字を含まぬその内容はこうだ。
「明日、会えませんか?? いっしょにお茶でもどうでしょう。ちょっとお話したいことがあるんです。お忙しかったら、すみません」
 これは一体。
 私は忍者が反復横飛びをするような指さばきで返事を作成した。「もちろんOKですよ。かほこちゃんから誘ってくれるなんて嬉しいなあ。楽しみにしてます」
 しばらくして返信があった。「良かったです。私も楽しみです。じゃあ、仕事が終わったらメールください」
 逆転満塁ホームラン。大事件はいつだって唐突に。私は左の拳を握った。薬指にくちづけをし、握り拳を天に向けて力強く突き上げた。自室の天井に暗雲が垂れ込め、暗雲の一部がハート型に抜け、その切れ目から束となった陽光が斜に差した。わざわざ曇らせてからビームを投げかけるという手の込んだ演出で、運命は私を温かく照らした。
 翌日は仕事にも身が入った。辺り一面に祝福の光が満ちていた。する事なす事すべてが楽しくてしょうがなかった。階段は一段飛ばしで駆け上がったし、弁当は二人前食べた。どんなに活発に動いても後から後から元気がもりもり沸き、心身は疲れという概念を完璧に忘却した。自らの精神状態がハイパーモードに突入していることを自覚しながら、大満足のうち瞬く間に終業を迎えた。バッチリ定刻通り。恋はすばらしい。人生に彩りを与え、人間を輝かせる。高梨がにやりと笑って「何かいいことでもあったか」と問うので「あった!」とだけ答えた。彼は意味ありげに目を細めて親指を立てた。
 私はただちにメールをした。彼女の返事は「ちょっと残業です。駅前で待っててください」とのことだった。私は同僚に悟られぬ程度に小躍りしながら会社を出た。駅前でタバコを吸いながら三十分待った。三十分後、小走りに近寄ってくる彼女が見えた。ほとばしる嬉しさが顔に滲み出そうになるのを必死に隠した。彼女は息を切らし、とぎれとぎれで私に詫びた。
「ごめんなさい。遅れちゃって。わたしから誘ったのに」
「いいよいいよ。気にしないで。じゃあ、さっそく行きましょうか。お茶ってことは飲み屋じゃなくて喫茶店でいいのかな」
「はい。お願い、します」
 会社の同僚が来そうにもない路地を選び、適当な喫茶店に入った。彼女は呼吸が乱れるほど急いで来た。水分を補給させ、喉を湿らせてから喋らせるのが良いと思った。飲み物が来るまでは特に会話を交わさなかった。
 ホットコーヒーとアイスミルクティーが運ばれてきた。
「ああ、おいし」
「ずいぶんとまあ急いで来てくれたみたいで。そんなにダッシュしてくれなくても良かったのに」
「だって。だって待たせちゃ悪いと思って」
「逃げやしないよ。かほこちゃんとの待ち合わせだったらいつまでだって待つよ」
「ホントですか」
「ホントホント」
「斉藤さんって、優しいですよね」
「そうかなあ」邪悪なほほえみが浮上するのを押さえ込んで、懸命な演技でとぼけた。「で、話って、何?」
「それは……」彼女は言いにくそうだった。話の進め方が性急過ぎたことに気付いた。私は「優しい」と言われて舞い上がっていた。反省した。
「おっと。まだ早かったかな。単刀直入すぎたね。かほこちゃんのタイミングでいいよ、好きなタイミングで話して」
「いえ。話します」言いよどんだ。話しますと宣言しておきながら話さないし、あきらかに緊張しているようだった。あからさまに深呼吸をした。音がするほど深々とため息をついた。私は一切口をはさまず彼女の次の言葉を待った。期待で胸が高鳴った。
 まさか、かほこちゃんから愛を告白してくれるとは。
 俺からしようと思ってたのに。そうだったんだ、俺たち両想いだったんだね。なんだーそっかー。俺もかほこちゃんのこと、少し気になりはじめててさ。まあ、ちょっとね。いやウソかなり。だから飲みに行こうってメールもしたわけだし。ホント、なんていうのかな、すごい魅力的なんだよね。うれしいなあ。でも俺から告白すべきだったよね。男から告白するってのが礼儀だよねごめんね。本当にうれしいよ。かほこ、愛してるよ。なんてね。頑張れかほこちゃん。はずかしいだろうけど、俺だって同じ気持ちなんだから、頑張って言ってごらん。ほら。ほら。ほらほら。
 彼女は、テーブルクロスの花柄を苦しそうに凝視しながら、言った。「実は、わたし、好きな人が出来て……」そして上目づかいで私をちょっと見て、また目を伏せた。美しいまつげの先が光っている。泣いているようではないが、瞳がうるんでいる。私は両ひじをテーブルに突き、手の平を合わせ、唇の前に固定した。生徒が自力で答えを導き出すのを我慢強く待つ教師のように、私はただ、彼女の次の言葉を待ち受けた。何か言いたくなるのをすんでの所で辛抱した。
「好きなんです、」意を決した彼女は目をこちらに向けた。恋の光を宿したその瞳は喫茶店の灯を反射して綺麗だった。「高梨さんが」
 空気が凍る。時間が氷結する。なんだって?
 そのときの私の気持ちをどう表したらいいのだろう。喫茶店の天井が空に落下した。壁が地球ごと宇宙に崩落した。テーブル周辺の床だけが円形に取り残される。私たちは深海に沈む。無数の魑魅魍魎が海中を漂ってきて、けたたましく笑い始める。中には遠慮なく指差して笑うのもいる。背中を水子の霊が恨めしげにそして親しげになぞっていく。私は脇の下から血を流す。腹のあたりが火のついたように熱くなり、それは徐々に首の方に迫り上がってくる。舌が硬直する。私の番だ。何かを話さなければならない。泥酔した帰りの車内で吐き気を必死にこらえるように、やっとのことで地獄の呵責を飲み下した。そして何とか舌の上で人語をこしらえた。
「そうか。高梨くんね。高梨くんが好きなのね。いい男だもんね」
「はい……」
 先を続けるには少し時間が要った。彼女はまたうつむいている。数分前の私は何を期待していたのだろう。恥にまみれた側頭葉が爆ぜそうになる。ほんの少し昔の私が、赤の他人のように思えた。憎むべき敵のように思えた。おまえは何てことをしでかしてくれたんだ? おまえの甘い考えのおかげで私は、幸福の絶頂から絶望のどん底に突き落とされた。その急激なアップダウンが内臓にどれだけ負担となったかおまえにわかるか。わかるまい。おまえは「このまま行けば、雲の上にある楽園へ一直線です」と思い込んでいた。実際はこれだ。バブル崩壊。ファック・ユー。死ね死ね死ね死ね。おまえなんて死んでしまえ。おまえは現在の私と未来の無数の私を、転落死させた。
 私は私を罵倒しながら私に謝った。かほこちゃんどころではなかった。四散しそうな自我を引き止めるのに懸命だった。アルファ・ケンタウリの彼方に吹き飛んで行きそうなアイデンティティーを必死の想いで地上につなぎ止めた。
 ダークブルーの海の底に沈んだテーブルは石棺の中に封じ込められる。軽く百年くらいは経っただろう。ようやく私は私の破片を集め終わり、石像と化したかほこちゃんに次の言葉を継いだ。高梨との恋路を邪魔して自分の方になびかせようという邪念は毛頭なく、ただ真っ当に、こう忠言した。
「だけどさ。あいつには彼女がいるよ」
「知っています」
「じゃあどうして?」
「自分の気持ち、おさえれなくて。どうしようもないんです。」ちょっと私の方を向いた。途端に涙が一粒こぼれた。「どうすればいいんでしょうか。」また下を向き、目を閉じた。それを機にぽろぽろと落涙した。すすり上げ始めた。深海に喫茶店の柱や壁が轟音と共に立ち上がり、天井が元通り頭上に収まる。周囲の客や店員が戻ってくる。何人かがこちらを見ている。何てこった、俺が泣かせたみたいになっちまった。泣きたいのはこっちも同じだよ。
 それから私は、親身な態度で彼女の相談に乗った。私の思考回路は、恋によってオーバーヒートしていた部分が一時的に冷却され、目の前の「女性」をなだめる演算に掛かりきりになった。
 かほこちゃんはずいぶんお熱で、完全に恋の病にイカレていた。私のように。四六時中高梨のことを考え、何をやっても上の空らしい。「こんな気持ちは初めてなんです」人生で初めて経験する心の熱病に戸惑っていた。重症だった。そして、あきらめるということを知らなかった。高梨のランクと自分の美的価値の釣り合いも計算しなかった。「あいつはやめた方がいいよ」という私の忠告に少しも耳を貸さず、好きで好きでどうしようもない心の内を私に吐露するばかりだった。
 私は高梨のことが大好きだ。女を大切にしないその性格も含めて、最高の男だと思っている。だけど、かほこちゃんのように純真な、男を知らない乙女が最初に出会う相手としてはふさわしくない。きっとズタボロに傷つけられる。これが中村のような女だったら「高梨の目の前で服を脱げばいい」と助言してとっとと帰宅するんだけど。
 私のことを好きになってくれなくてもいい。だけど高梨だけはやめてくれ。君が嘆き悲しむのを見たくないんだ。私は善意からそう思った。
 本意ではなかったが、私は高梨の私生活を暴露した。乱れた女関係を、洗いざらいとまではいかないけど、くわしく話した。彼がどれだけ糞野郎なのか、わかってほしくて。それであきらめてもらいたくて。彼女は黙って耳を傾けた。
 高梨性豪伝説のエピソードとエピソードの間に「ね。だからやめた方がいいよ」という再三の警告を差しはさんだが、彼女は一向に折れる気配がなかった。もはや生理的なレベルでの「好き」なのだろう。ちょっとやそっとの風評被害では高梨への切ない想いが薄まることはなさそうだった。
 どうしようもない。他に仕方がない。これ以上こじらせる前に思い切って告白することを勧めた。フラれたらそれでスッキリするかも知れないし、当たって砕けろだ、よ。
 彼女は、高梨に気持ちを伝えることを、おびえを含みながらも決意した。
 店に入って一時間。二杯目の飲み物もなくなった。私たちは席を立ち、駅まで連れ立った。
「今日は本当にありがとうございました。やっぱり斉藤さんはいい人ですね」
 所詮、いい人どまり。私はかほこちゃんが無事にフラれることを強く強く願った。
 その後しばらく彼女とは連絡すら取らなかった。同じ企業の社員だが、ビルの構造上、用事がなければ会社で遭う機会も訪れない。おかげで彼女の幻影は視界から消えた。私はしばらくは抜け殻のようになっていたが、段々と元気を取り戻した。三日後には通常通りの生活が送れるようになった。
 完全に忘れることは不可能だった。ややもすると脳裏にあの純白の笑顔が去来した。それでも、熱に浮かされた発病時よりは断然マシだった。自分の物にはならないという事実が、私にあきらめをもたらしてくれた。病苦から解放され、前向きになり、かほこちゃん以外の女に正常な性欲を感じるまでに恢復した。
 一方で、高梨とはこんな会話を交わした。それまでお互いにかほこちゃんのことを話したりはしなかったが、あの喫茶店での会合から五日め、初めて彼女のことが話題に上った。
「最近いいことあった?」
「いや特に。高梨くんは?」
「俺はそうだなあ。かほこちゃんっているじゃん。あの娘にコクられたよ。おととい」
 ついに来たか、と思った。熟れたトマトの潰れる映像。「それで?」
「いや断ったよ」
「どうして。いつものように食っちゃえば良かったじゃん」震えそうになる声を必死に矯正した。少し言葉がうわずった。高梨は私の挙動不審には気付かなかった。かほこちゃんを拒絶した理由を述べた。それは、ただ断るよりも残酷だった。
「いや、だってさあ。あの娘、男とつきあったことないって言ってたじゃん。じゃあ多分処女じゃん。面倒くさいんだよね。俺も今まで処女とは何人かとヤッたけど、いちいち痛がるし、だからって優しく相手にするのはかったるいし、それで本格的に好きになられても困るんだよね。重いんだよ、処女は」
「なるほどね。わかる気がする。重いよね」私は心にもない事を口にしながら、かほこちゃんが無事振られたのを密かに祝った。私の心の中のガッツポーズは、当然高梨には見えなかった。そこで会話は事切れた。
 私は、自分にもまだチャンスがあるのではないか、と思い直した。急にかほこちゃんへの想いが鎌首をもたげた。すぐにでもメールをしたくなった。が、こらえた。ここでがっついては、せっかくのチャンスも不意になると考えたのだ。下腹部から突き上げてくる衝動に上から蓋をして、彼女の出方をひたすら見守った。待った。頭で冷静になろうとしても、ゆっくりと心の温度は上昇していったが。
 その一週間後、熱病が再発する寸前で、彼女から待望のメールが届いた。
「また突然ですみません。明日、会ってください。もう、斉藤さんしか頼れる人がいないんです。斉藤さんにしか、話せません。バカなおんなと思うでしょうけど、一生のお願いがあるんです」
 私は、自分でも意外に思うほどの冷淡さでその文面を読み終えた。こちらの明日の都合を考えない、切羽詰まった口調。何となく、察しが付いていた。高梨を説得する気は私にはなかった。それでも、彼女のことがまだ好きだったから、会ってやることにした。
 翌日、個室居酒屋に私たちは腰を落ち着けた。彼女の目は腫れぼったかった。すでに涙は涸れているようだったが、振られてから何日も経つというのに、この分厚く爛れたまぶた。尋常ではない。相当泣き散らかしたに違いない。
「すみません。何度も呼び出しちゃって」
「いやいいよ。今日はどうしたの」
 彼女は石化したように黙った。これか。高梨の言っていた「処女は重い」の意味が今度はよく理解できた。私は少しうんざりした。が、これで私にお鉢が回ってくるかも知れないという、ほのかな期待を捨て去ってしまうわけでもなかった。
 私たちはお互いに黙ったままでそれぞれの酒をあおった。
 今度はアルコールの効果か、前回のように百年もの時は過ぎず、彼女のフリーズは解除された。ただ、ずっと下を向いたままだ。腫れた目を見られたくないのか何なのか、私の目を決して見ようとしない。
「わたし、高梨さんに告白したんです」
「そりゃあ……。がんばったね。がんばった」
「でも……でも……」
「でも?」
「……」
「……」
「……」
「ん?」
「……」
「ダメだった?」
「……はい」
「そうか。それは……。どう言葉を掛けていいかわからないけど……。残念だったね」
「でも」
「でも?」
「どうしても。どうしてもあきらめれなくて」
「そっか」
 ここに耳かきでもあれば私は耳掃除をしたい気持ちだった。なんで私はここに居るのだろう。人の良すぎるのにも程があるんじゃないのか。あわよくばおこぼれが自分に流れてくるかも知れないという淡い希望を持ったのが馬鹿馬鹿しくなった。かほこちゃんの心は、今でも高梨の元にあり、粘りつく鎖で支配されている。
 彼女はお代わりの酒を注文した。私は三杯目のビールに取りかかっていた。
「だから。斉藤さんにお願いがあるんです」
「お願いって?」私は小指を右耳に突っ込んでグリグリ回した。
「わたしと……」またしばらく黙る。
「わたしと?」私は小指の先を少し確認して、ふっと息を吹きかけた。
「わたしと。何て言えばいいんだろ……」
「わたしと?」タバコの箱に手を伸ばした。
「わたしと。その。えっと。わたしと!」
「わたしと?」タバコを一本取り出して火を点けた。
「して欲しいんです……」
「ん?」タバコの煙を吸った。静かに吐いた。
「して欲しいんです。わたしと」
「何を?」タバコを灰皿にトントン打ちつける。そしてまたくわえる。
「つまり……」
「つまり?」タバコの煙を吸う。
「Hなことを。です……」
 思考停止。その後、少し芝居掛かってもいる、咳き込み。溺れた人が地上に引き上げられたときのように思うさまゲホゲホと喉から空気を出し入れした。「どういうこと??」こう言うのが精一杯だった。
 アルコールの影響か、はじらいからか、彼女の顔はほのかに桃色に染まった。いずれにせよ、顔に血が満ちた効果で舌は幾分か滑らかになる。「そういう、あの、経験っていうんでしょうか、そういうのがないコ、高梨さん、ダメ、なんだそうです」
「うーん。そっか。あいつも多少はマジメってことかね」
「いえ。あ。マジメじゃない、って言うわけじゃないですけど、そういうのじゃなくて。ただ純粋に、わたしみたいなコ、ダメなんだそうです」
「わたしみたいなコって」セクハラになるかも知れないと思いつつも、話の流れ上、私はそう聞かざるを得なかった。「かほこちゃん、Hしたことないってこと?」
「はい……」クリームチーズのような肌が気の毒なほど真っ赤になった。
「で、俺のとこに来て、なんで? 俺とHしたいっていうのがちょっと。どうして?」
「わたしがその。経験すれば、高梨さん、ちょっと考えてくれる、って……」
 つまりこうだ。かほこちゃんをすげなく袖にした際、高梨はきっと「他の誰か──俺以外の男に抱かれてこいよ。そしたら考えてやるよ」とでも言ったのだろう。そこで彼女は私のところに来た。彼女は私に、抱かれに来た。好きな男に抱いてもらうために、好きでもない男のところへ。最低の高梨への恋心を捨てられず、高梨の理不尽な要求を飲むために、私のところへ。
 恋は盲目。だけどこれはやりすぎじゃないか。彼女はそれでいいのだろうか。好きでもない男に、初めてを捧げて。狂っているとしか思えない。恋は精神病。この娘は、もはや正気ではない。
 彼女が不憫になった。抱きしめてやりたくなった。可哀想だと思った。──私は彼女を、ただの発作的な恋情からではなく、真情から愛おしく感じていた。私はどんな顔をして彼女に接すれば良いというのだろう。
 何億年もの昔に神から植え付けられた欲望。その欲望に忠実であれば私はかほこちゃんと一発ヤリたい。それは否定できない。しかし、彼女の心は高梨に奉じられているのだ。私は彼女を抱くべきなのか。そりゃあ、愛する娘が簡単に身体を提供してくれるなら棚から牡丹餅だ。しかし、それで本当に良いのか?
「少し考えさせてほしい」三杯目のビールを、無くならないよう大事に飲みながら、私は考えた。このビールを飲み干す、イコール答えを出さねばならない。四杯目を頼まず店を出るか、四杯目を頼むか。前者ならば、ホテルへ連れ立つことになる。後者ならば、もはや本日中の十全な勃起は望めないだろうから、このまま店に居座ることとなる。アルコールを断つか、さらに補給するか。私は中身がウィスキーであるかのようにジョッキをチビチビと舐めた。ビールの残量が砂時計の役割を果たす。
 ビールしか頼んでいないのに、頭の先から腿の辺りまでが火事になった。脳は空爆された市街地さながらに燃え上がった。心臓はパンクするのではないかといぶかしくなるほど胸骨を叩く。陰茎は美しい桜色のかほこちゃんの方向目がけて八分立ちする。頭と心と性器の三者会談。四十三十二十のせめぎ合い、未来の私現在の私過去の私の相剋。
 頭は、理性を働かせる。高梨はどう思う、俺が先にヤッちゃったら。あいつは友達だ。穴兄弟になるのなんて嫌だ。気まずくなって、今の友情・関係性が壊れるのは嫌だ。彼女は俺に抱かれて救われるのか。傷つけることになるんじゃないのか。抱いてと言われたから抱くなんて、お手軽すぎる。きっとあとあと面倒なことになる……。
 心は、愛を信じる。こんなことは良くないよ。俺は純粋な方法で彼女と一緒になることを願う。ちゃんと説得して、しっかり告白して、高梨へ向けられた想いを俺の方へと引き寄せよう。だが、肉体関係から始まる愛もあって然るべきではないか。一度俺の味を覚えさせれば、俺になびくのではないか。その上で説得すれば……。
 性器は、本能に従う。神から与えられた本能に従おうぜ。自然そのまま、欲望に忠実に。ヤレる時にヤラないでどうする。最近ご無沙汰だろうよ。誰でもいいから誰かとヤリたくてしょうがなかっただろうよ。しかも相手は大好きなかほこちゃんで、あっちから抱いてくれってお願いしてるんだぜ。このチャンスを不意にするヤツは男じゃない……。
 結局、若さが勝った。心を味方に引き入れた性器が、頭を打ち負かした。私はジョッキを飲み干し、テーブルに置いた。タバコの火をもみ消した。
「出ようか」
 私は伝票を手に取り、席を立った。緊張しながら席を立つ彼女を背後に感じながら、レジへ向かった。私たちは店を出た。
 本当にこれで良いのかどうか、葛藤は収まらなかったが、二本の足は第三の足に引きずられるがままに前後した。済し崩し的に山手線に乗り、「本当にいいの?」「はい。無理なお願いしちゃってすみません。わたしなんか、いやでしょう?」「いや、いやじゃないよ」「ほんとですか」「ほんとです」程度の会話を小声でやり取りし、五反田で降りた。ろくに吟味もせず駅前のホテルのうちの一つを選んだ。彼女はラブホテルに入るのは当然初めてだったのだろう、その様子を他人に見られるのを極度に恐れていた。私と目を合わせるのも恐れていた。ロビーで部屋を選ぶときも、全く目を上げなかった。エレベーター内でも、そこが水中であるかのように息をひそめていて、私も何も言えなかった。
 部屋に入った。手すらつながず、キスもせず。
「どうする? 先にシャワー浴びる?」
 後悔しているのか落ち着かないのか、彼女はソファーとクローゼットの間を小刻みに往復した。私が頭と心と性器に議論をさせたように、彼女もシステムエラーによるCPU暴走と必死に戦っているのだろう。
「じゃあ、俺が先に入るね」
 この段階では、一緒にお風呂に入るという選択肢は有り得なかったが、俺は浴槽に湯を溜めた。そしてかほこちゃんの目の前で服を脱いだ。彼女は防空壕に引っ込むようにソファーに沈み込み、恥ずかしそうに自分の膝頭を睨んだ。私は何も気にすることなくパンツまで脱ぎ捨てて裸になった。お風呂場に裸足を踏み入れた。私たちは何も会話をしなかった。
 股間を念入りに洗い、バスタオルを腰に巻き、ベッドルームに戻った。彼女はまだ同じ体勢だった。
「どうぞ。あいたよ」
「はい」
 彼女はいかにも元気なさげに洗面所に消えた。私は布団の中に入り、テレビを点けた。ほどなくしてシャワーの音が聞こえ始めた。そして聞こえなくなった。
「斉藤さんすみません」
「ん?」
「電気……消してくれますか」
 私は室内灯を完全に消した。宇宙開闢以来の暗闇となった。その中を彼女が手探りで近付いてくるのがわかった。私のペニスはアルコールの影響を物ともせず、凶悪に硬くなった。彼女が布団のすそをめくる。しずしずと私の隣に入ってきた。皮膚に直接触れずとも彼女の体温を感じた。
 私は見えない天井を見つめたままそっと彼女の手を握った。彼女の手は最初びくっと驚いたが、私の手の握らせるままにした。しかし握り返してくることはなかった。
 そのまま、一分間ほどは同じ状態が保たれた。私の怒張は臨界点に達していた。彼女の方を向き、顔を近づけようとした。
「キスは……いやです」
 彼女がベッドの向こうに話しかけた。そのときの私のガッカリ感は、交通事故に遭ったマラソン走者と同じくらいの度合いだっただろう。この女は本当に、本命の男への叩き台として私を見ている。彼女にとって私は高みに至るための踏み台でしかない。彼女のつれなさは私の自尊心を激しく踏みにじった。
 私は仕方なく、彼女の胸に手を伸ばした。彼女は無言で拒んだ。私の怒張は呆れたように少し収縮した。
「なんで? こういう風にするのが普通だよ?」
「わかってます……。わかってますけど、でも……」
 本当にわかっておるのか。私はちょっといらついた。
「でもさ、こうしなきゃHできないんだよ。俺に任せて」
「……」
 私は私の発言が妙に爺臭い物に感じ、みずから恥じ入った。それでも、触らざるを得なかった。私は彼女の柔らかな乳房の上に手を置いた。そっと。指は動かさず。
 やがて手の平に彼女の体温がじんわりと伝わった。彼女の乳房にも私の手の熱が伝わった。お互いの接地面が同じ温度になったとき、私は初めて指を動かした。そこにある肉を優しく揉んだ。精密機械を扱うような慎重さで乳首をつまんだ。その行為を、彼女は呼吸を止めて必死に耐えているようだった。麻酔無しで開胸手術を受ける患者のようだった。むなしくなった。
 私は彼女の胸に覆いかぶさり、唇で乳首を捜し当て、そして吸った。彼女の反応は同じだった。まったく気持ち良くなさそうだった。右乳左乳を交互に責めたが、うんともすんとも言わない。むなしくなった。
 乳房を揉む力を次第に強めながら、私の手は徐々に下降し、おなかを撫で、茂みに行き当たった。冒険家の足取りで森の中の泉を求めた。泉は涸れていた。少しも濡れていなかった。二つの山を責めた無意味を呪いながら、私は柔らかな大隠唇を愛撫した。クリトリスを丹念に捏ねた。しかし水は一向に湧かない。仕方なく、自分の唾を潤滑油にして乾いた油田を掘り始めた。しかしさっぱり濡れてこない。ぬめり気が無いので指が引っ掛かり、奥まで入らない。いくら好きではない男に抱かれるからといって、ここまで準備が整わないとはどういうことなのか。気が付けば私のペニスは冬のように萎れている。私は油田開発に携わっていないもう片方の手で自分を上下に刺激した。
 前戯を開始してから五分後、彼女の頬が微かな光を反射しているのがわかった。
「ごめん。痛い?」
「いえ。痛くないです」
「気持ち良くないかな?」
「斉藤さんの優しさ、すごく伝わってきて、うれしいです」
「気持ち良くは?」
「うーん……」
 私はもう、乱暴に挿入してもいいのではないかと思った。とっととマーキングだけ済ませて──そう、この山を征服したという事実だけを打ち立てて、すぐに下山しようかと思った。私は多めの唾を指になすり、それを彼女の秘部にこすりつけ、即席のローションとした。
「そろそろ入れてもいい?」
「はい」
 女の準備はさっぱり整っていなかったが、私は構うものかとペニスをしごき上げた。犯す・犯す・犯す。
「ちょっと電気点けるよ?」
「え……」
 彼女の困惑には一切頓着せず、私はランプを点け、コンドームを探した。パッケージからゴムを引きずり出し、手際よくペニスに装着した。その間、彼女は夜具に顔をうずめていた。
「じゃあ、入れるよ」
「電気、消して下さい」
 私は心の中で舌打ちをしながら消灯し、彼女の身体にのしかかった。指で秘部を探しながら、「ここだ」という場所に亀頭を誘導し終わった。
「いい?」
「お願いします」
 まっとうな恋愛における会話ではない。お願いします。
 私はペニスをかほこちゃんの秘部に押し当てた。
 入らなかった。
 彼女の秘部が充分に濡れていなかったのと、私のペニスが充分な硬さを失っていたからだ。一度萎えてしまったペニスは、アルコールのせいもあるのだろうが、なかなか回復しなかった。しかもお互いに気持ちが入っていない。私は何度か試みた。必死に。しかしペニスが復活することはなかった。
「だめだね。入らないね」
「……」
「ごめん」
 私は彼女から身体を離し、仰向けとなった。泣きたい気持ちだった。
 二人の男女は、ラブホテルのベッドの中で、手もつながず、真っ暗闇の天井ばかり見つめていた。時間が来たので服を着てホテルを出た。駅に着くまで何も話さなかった。
 五反田駅の改札の前、人の流れから逸れた淵で、私たちは立ち止まった。
「今日はごめんね」
「わたしこそ……。すみません。こんな女、抱けませんよね」
「いやいやいや!」私は狼狽し、言いわけをした。「酒が入ってたから、さ。酒が入ってなければなぁ。アルコールが入ると、男の人のアソコって、勃たなくなるの。だからさ、また、機会があれば」
「はい。無理言ってすみませんでした」
 もやもやした感情のままだった。このまま別れたら、私はかほこちゃんと二度と心の交流をはかれないと思った。私は発作的に彼女の両肩をつかんだ。そして、言った。
「好きだ」
「え」
「本当に」
「えっ」
「抱いてくれと言われたから心動いたんじゃない。まして、こんな結果になったから取りつくろって言うんじゃない。好きだったんだ。前からずっと」
「え。え。えっ」
「好きだよ」
「……」
「つきあってほしい」
「どうしていいか。わたし、どうすれば……」
 私は相手の心を動かすつもりで告白した。優しくされたり、助けられたり、良くされたり。そして、愛されたり。異性から好意を受けたとき、こちらも相手に好意的になったりする。知らないうちにその人を好きになってしまうことがある。これはごく自然なこと。この人はあたしの味方だ、この人といっしょにいたい、この人が好き。こういう感情の動きはごく自然な成り行きだ。相手が狂っていたり、自分がよほどの偏屈者でないかぎり、人は愛を与えられれば、愛を与えてくれた相手に心をひらく。その愛が自分にとって有用であればあるほど、相手に心を寄せる。偉大な愛は、与えつつも痩せず、放すとも離れず、流し込みながらも引き寄せる。愛の告白は、そっぽを向いている相手のベクトルをこちら側に引き寄せる磁力がある。
「わたし、どうすればいいの。どうすればいいか……わからないよぉ」
 私はかほこちゃんの返事を待たず、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 かほこちゃんの手が私の襟を小さくつかんだ。
 顔を離すと、大きく見開かれた目がそこにあった。美しくは、なかった。首を吊った人の目だった。
「俺とつきあってくれ」
 かほこちゃんは恐慌におちいった。私は相手の心を動かすつもりで告白した。それはもちろん、高梨への愛を私の元へと誘導するのが第一義だった。が、もしこの告白が失敗に終わったとしても、彼女のこの困惑ぶりを見るだけでも相当救われる気がする。告白するまでは、誰知るとも無しに私一人だけが苦しんでいた。今告白したことによって、自分のこの黒い苦しみを外部に放射すると共に、相手を悩ませることにも成功したから。自分一人だけが悶々と苦しんでいるのは馬鹿げている。仮にこの愛が破れるとしても、刺し違える覚悟だ。自分一人では死なん。同じ種類の苦痛を味わわせてやる。同程度の規模の苦しみを与えられぬまでも。私の恋心はどす黒く変色し始めていた。
「考えさせて下さい……」
 それだけの言葉を、汚された唇から絞り出すと、彼女はぺこりと頭を下げた。
「待ってるよ。絶対、君を、幸せにする」
 きっと異性から告白された経験などないのだろう、うれしそうに恥ずかしそうに、大きな混乱をきたしながら、彼女はなごりおしそうに振り返りながら、改札の中へと消えた。
 私はその晩、こんな夢を見た。紫色のマントを羽織った、ピンク色の帽子の男が、霧の這う川の上に浮游している。男は高梨のようでもあり、別の男のようでもある。男は誰かに向けてしゃべっている。私に向けてなのか、もしくはひとりごとなのか、こんなことを。
「バカなメスほどヤりやすい。頭のカラッポなあいつら、口車に乗せればソーセージをクンクンおねだりするぜ。まるでモルモット、スキニーギニアピッグのような女ども。俺はそんなバカなメスどもを愛す。やつらのお口をアイスバーで愛すのさ。
 でも、俺よりバカな女はいない。残念ながら、俺はとんでもねえ大馬鹿野郎さ。バカなメスほどヤりやすい──そりゃ確かだろう。でも、そりゃ自分より頭の悪い女を指すのである。だから、俺はどんなバカ女とも寝られない。いとさみし。
 だから、ブタといたす。養豚場から一匹、いやいや一人、盗み出し、風呂でキレイに洗ってあげりゃあ、リッパなメスブタの出来上がりだ。おまえはなんてカワイイやつなんだ。おまえのその愚かしい所が、俺を極度に興奮させる。ひっぱたかれてもブヒブヒ言うだけ、ツメでひっかいたり警察に訴えたりもしない。ああブタ、おまえはなんて下品でスケベでいやらしい、コケティッシュな女なんだ。
 そのあとは、食う。食わせてくれた感謝の気持ちをこめて、丸焼きにして食うのだ。もちろん、ホワイトソースのしたたる所も洗って食う。俺にとっては、一番美味な場所だぜ」
 紫色のマントを羽織ったピンク色の帽子の男は、川の中からブタを一匹捕まえて、片手で吊り上げた。ブタは短い手足をバタバタ動かしたが、やがて、網の上で炙ったクリームチーズのように溶けて消えて無くなった。男はどろりとした液体を片腕にまみれさせ、こちらの方に人差し指を突き出しながら、大口を開けて高笑いした。そこで夢は覚めた。
 意識が明確になってきてから、ベッドの中で、昨日の出来事を反芻した。かほこちゃんの気持ちを考えた。きっと悩んでいるはずだ。私の気持ちを受け入れるべきか跳ね返すべきか思いあぐねているはずだ。ここまで来たら後には引けない。揺れ動く彼女の天秤を人工的に動かすしかない。私は押した。押して押して押しまくることに決めた。必殺の殺し文句を刻みつけたメールを送った。これでグッと来ないはずはないと思った。
 返信は来た。しかし私の愛に対する返事は保留した。その理由はざっと以下の通りだった。
「斉藤さんはとても優しいし、お付き合いをしたらきっと幸せになれると思う。でも、どうしても、高梨さんのことが忘れられない。こんな中途半端な気持ちで斉藤さんと付き合うのは失礼だし、自分に妥協して甘えるのも納得がいかない。わたしも斉藤さんのように頑張ってみる。努力してみる。それでダメなら、斉藤さんを受け入れる」
 あからさまな補欠あつかいだったが、私はそれでも良かった。彼女と、肉体のみの関係ではなく、魂と魂の交流が出来るのなら、二番手で良かった。私は承諾した。
 その後、連絡が途絶えた。あまりにも音沙汰が無いので我慢できずメールで近況を報告した。「今日はカラオケに行ったよ。かほこちゃんはどんな音楽を聴くの? 今度一緒にカラオケ行こうよ」など、他愛もない話題を。
 一日以上経ってから返事が来た。内容は淡泊に過ぎるものだった。冷酷とも言えるほど簡素な文面だった。少しでも私のことを好きなら、携帯電話のキーを押すのももどかしいばかりの早さで返信し、私の書き連ねた近況に対していちいち好反応を示すのではないか。なのにこの心のこもっていない返事は何だ。殺意を覚えるほどに、軽くあつかわれた。そして結局、私の愛に対しては一言もない。こちらの熱い想いを暑苦しがってか、返答を避けている。私の告白は、極めてどうでもいい、できればなかったことにしたい歴史なのか。私はメールを控えた。彼女からの接触をひたすら待った。
 しかし数日経っても彼女からの接触はなかった。メールでの返事が手間なら実地に会えば良いし、会うなら会うで日時指定のメールくらいくれても良さそうだが何も連絡を寄越さない。酷薄な彼女を私は憎悪し始めた。
 そんな折り、ある日の飲み会で、高梨が、芋焼酎くさい息を吐きながら、言った。
「そういや俺、かほこちゃんと寝たぜ」
「えっ。だって」私の顔から一気に血の気が失せた。モノクロの戦闘機が原始的な爆弾を投下する映像。かほこちゃんが醜く顔を歪めて泣き叫ぶ映像。気分が悪くなった。吐きそうだった。
 高梨は言う。「だって? だって俺には彼女がいるじゃん、って?」
「いやそうじゃなくて」信じられなかった。信じたくなかった。「処女は面倒くさいからヤリたくないって、言ってなかった?」嘘だと言ってくれ! かほこちゃんと寝たなんて、嘘だと!
「言った言った」高梨は氷を口に含み、モゴモゴさせながら続ける。「かほこちゃん、処女捨てたんよ。鈴木にお願いして」
  。
 そのあとの記憶が、あまり、ない。人を殺さなかったのは良かった。暴れたりもしていないはずだ。ただ、外部からは見えなかっただろうが、私の内部では活火山が噴火しマグマを垂れ流した。一晩にして滅んだポンペイのように精神が荒廃した。
 背景としての男だったのだ、私は。決して付き合えない高梨と比べても、それでもなお、私とは付き合えない、と。何より私を傷つけたのはそれだ。ふられたのがつらいのではない、高梨や鈴木に嫉妬するのでもない、ただ、私という存在が軽んじられたのがつらいのだ。私はあの子にとって何者でもなかった。誰も私のことを必要とはしてくれない。誰も私を愛さない。私という人物を肯定してくれる異性はどこにもいない。その事実が私を容赦なく痛めつける。絶望へと叩き落とす。耐えきれない孤独感。ズタズタに引き裂かれる自尊心。彼女にとって私はどうでも良い男だった。友達以上恋人未満だと思っていた。実際、ベッドを共にした。異常なまでの身体の接触。だが向こうは何とも思って居やしなかった。どうでもいい存在。想いを打ち明けられても対応に困るだけの「知り合い」で──まさか熱を上げているとは夢にも思わなかった、本気になられても困る、と言うか勘違いしないで欲しい──早々に今までの関係を破棄したくなる「その他大勢」の男。
 まともな精神状態に戻る頃には、私は自室に寝転がり、焼き増ししてもらった写真をぼんやりと見ていた。夜の闇を背景にした、人物だけが不自然な色彩で浮かび上がった写真。私と、学生の連中と、かほこちゃん。かほこちゃんの顔。かほこちゃんの顔! あまりに憎くて、私は切り抜いた。彼女の顔の部分だけを。粉微塵に切り裂いて、ライターで火を点けた。時が経って後悔するとも知らず。
 それからは彼女と顔を合わせることはほとんどなかった。お互いに避けたのかも知れない。高梨鈴木とは以前と変わらぬ親しい交流をした。私と彼女の間で起きた事件・軋轢について、彼らは何も知識を持たない。
 やがて彼女に寿退社の噂が立ち、そして実際退職した。相手はわからない。高梨も鈴木も独身のままだった。謂われの無い中傷だったかも知れないが、給湯室での噂話によれば、父親のわからない赤ん坊を妊娠したということであった。
 それから三年後の晩夏。高梨との友情は変わらなかった。鈴木は転職した。かほこちゃんのことを思い出すことは無くなった。私は電車内で吊革に掴まっていた。車内には早朝だというのに喧噪が漂っていた。携帯電話でしゃべるマナー違反の声・乗客同士のおしゃべり・車内アナウンス。その中で、聞き覚えのある声が私の耳に入った。
 ふと振り返ると、三人の若者が楽しそうにバカ笑いをしている。様子からして朝帰りのようだ。私から見て左端は男、中央と右に陣取るのは女である。
 私は急いで視線を元に戻した。胸の鼓動が激しく高鳴った。真ん中の女、それはかほこちゃんだった。こんな所で再会するとは思いもしなかった。
 男は誰だかわからない。チャラチャラしたナンパ男。私はギュッと目をつぶった。見たくない光景だった。その、かほこちゃんの姿……。
 雨が降り始めた。車窓は大粒の水滴で濡れ、ガラスは曇り始めた。窓は鏡のように光り、車内の景色を映し出す。
 私は見たくなかった。が、見た。否が応でも見えたが、そういう受動的な姿勢ではなく、見たいという好奇心から、彼女を見た。窓ガラスに映る三人を、じっと。
 三人は楽しそうに話している。同じ方向、つまりは私の立っている場所に向かって座りながら。その、かほこちゃんの姿……。私はやり場のない悲しみが胸を衝くのを感じた。
 濃いアイシャドウにケバいばかりのチーク、つやつやと光るパールピンクのルージュ、妖艶なメイクを施したかほこちゃんがそこには居た。黒いカーディガンはみぞおちのあたりまではだけ、胸の谷間があらわになっている。服を「着ている」と言うより「羽織っている」と言った方が正確である。まるで娼婦のようなかっこうだ。
 私の記憶の中、その中で優しく微笑むかほこちゃんとは、あまりにもイメージのかけ離れた現在のかほこちゃん。私には彼女の淫らな容貌が嘘のように思えた。一種の冗談、もしくは何かの罰ゲームとしか思えなかった。私の淡い思い出に登場する彼女は、万事ひかえめでキュートな女の子だった。だが、濡れた車窓の中で淫靡に笑う、セクシーで性悪そうな女こそが現実のかほこちゃんなのだ。
 何かの崩れる感触──理想? 美化された過去?──が私を責めた。
 雨は強まった。電車は目的駅に近くなった。私は不愉快な気持ちを持て余しながら、なぜか泣きたい衝動に襲われながら、本当はそんな光景を見たくはないはずなのに、変わり果てた彼女を見つめた。曇ったガラス窓の中で、変わり果てたかほこちゃん。まるで、禁断の腐臭を撒き散らす毒イチゴのような、大人びた暗黒の魅力がそこにはあった。黒く腐った果物は甘臭い香を放つ。
 と、ガラスの中で、私の視線と彼女の視線がぶつかった。ギョッとして、私はすぐに目をそらした。が、後ろ髪を引かれるような未練があるのだろう、視界の片隅でやはり彼女を見守った。
 彼女は何か、おおげさに口を動かしている。私は視線を彼女に戻した。彼女は私をじっと見つめ、一音一音クチパクをしている。私にメッセージを送っている。それは……。
「サ・イ・ト・ウ・ク・ン……。サ・イ・ト・ウ・ク・ン……」
 私は驚いて目を見張った。車窓に映る私の驚きの表情を見て、彼女はニッコリと笑った。
 電車は会社の最寄り駅に停車した。私は顔を伏せ、彼女の方を少しも見ることなく、逃走するように電車を降りた。やるせない気持ちが私の心を塞ぎ、下まぶたに湿気が結露した。傘も差さず、叩くような降雨にさらされながら、私は職場へと急いだ。
 ──その晩。私はまた、あの写真を見た。穴のあいた写真。誰だかさっぱりわからない学生連中が居並ぶ中、顔のないかほこちゃんのことだけを私は覚えている。顔のある人間を知らず、顔のない人間を知っている。皮肉なものだ。
 元通りにならないと知っていながら、私は写真を拡大コピーしてみた。どうしてそんな馬鹿げたことをしたのだろう。奇跡が起きて、彼女の笑顔がそこにはまるとでも? 結果、観光地にあるまぬけな顔出しパネルのようになった。永遠に埋まらない、穴。都内で最も美しい魅力を放っていたこのときのかほこちゃんの顔は、二度と戻ってこない。
 電車で会ったかほこちゃんと、私が好きになったかほこちゃん。現在の彼女と過去の彼女はあまりにもイメージがかけ離れている。だから私は、私が好きだったかほこちゃんを脳内で再現しようと努力する。
 目を閉じてかほこちゃんの顔を思い浮かべる。彼女の顔はぼんやりとしていて輪郭がはっきりとしない。記憶の中の彼女は半透明。まるで水で薄められたかのように色彩が柔らかくなっている。たしか、大きな目だったよね。いつも表面が濡れていて、瞳の黒が光っていた。こんな目だっけ? それとも、もう少し細長いレンズ型だったっけ。よくわからない。あんなに長いあいだ覗き込んだのに。
 閉じた目を開けるとそこは自分の部屋。かほこちゃんの姿は消える。ため息が腹から漏れる。以前は何をするにも半透明の姿を浮かび上がらせていた君が、今はもう、私の視界に現れてくれない。
 部屋の照明を消す。壁も天井も電灯もベッドも本棚も机もテレビも何も見えなくなる。雑念を取り払う。かほこちゃんの姿を思い出すことだけに専念する。視野にあるのは彼女の姿だけ。心の中で彼女の名前を繰り返す。何度も呪文のように繰り返す。記憶。ビアガーデン。居酒屋。五反田。彼女と過ごした日々。忘れられない。決して忘れられない。その、確固とした記憶。確固とした記憶を頼りに、彼女の姿を想起する。暗闇の中にぽうっと浮かび上がる彼女の青白い半身像。彼女は笑っている。ゆらゆらと揺れてピントが定まらない。笑っているのはわかる。彼女の笑顔を想像しているのだから、想像上の彼女は笑っているに決まっている。だけど表情が読めない。どうして。底知れぬ心の海底から、なにか、じりじりと胸を焼くような焦りが、おそろしい勢いで浮上してくる、そんな予感がする。不吉な予感。それは恐怖に近い、不穏な感情。ハッと気付く。彼女の半身像がゴボゴボと音を立てて闇に引きずり込まれていく。
 待ってくれ。行かないでくれ。何かの間違いなんだ。もう少し待ってくれ。かほこちゃん。暗闇の中で彼女の名を呼ぶ。何度も。何度も。より一層ぼやける彼女の姿。もはや誰だかわからないくらいあやふやだ。まぎれもなくかほこちゃんなのに。目の前に漂う女の顔は絶対かほこちゃんの顔であるはずなのに。色と形が溶けていく。
 慌てふためいておべんちゃらを使う。彼女の容姿にはっきりとした形を取り戻すため、ほめながら思い出しながら描写していく。
 目鼻立ちがとても整っていたよね。スッと伸びた鼻筋。あれくらい均整の取れた鼻は、彼女と最後に会って以来、一度もお目に掛かっていない。どんな鼻だったっけ? そう、そういう鼻だった。そうだっけ? そういう鼻だったっけ。そうか。そうだよね。それにその唇。最高の唇だった。最高だった。その唇。その唇。その唇? どの? どの唇? 思い出せない。忘れられないキスをした唇を。色も形も艶も感触も、何も思い出せやしない。あんな、すばらしい唇を! きれいすぎたから、記憶に残っていないのか。もっと面白い目鼻口をしていれば。換言すればブサイクなパーツをしていれば。それならば憶えていたというのか。いいや、それでもやっぱり憶えていなかったはずだ。均整が取れていたから記憶に残りにくかった? そんなのは言いわけだ!
 もう、認めるしかない。あれほど愛した彼女の姿を、この脳は、忘れ始めている。何という恐ろしいことだろう。たった三年しか経っていないというのに。
 鮮烈な記憶はいつまでも美しさを損なわずその姿を保つと信じて疑わなかった。しかし、残るのは数字だけだった。彼女の誕生日は十一月一日。確実に覚えているのはこれだけ。数値化できない甘い記憶は時の流れと共に次第に劣化し、色褪せていく。あれほど鮮明だった掛け替えのない記憶が古ぼけていく。ひさしぶりにひらいたアルバムの、写真を貼り付けているセロテープが茶色く変色していたように、古びていく。ただ厳然として残っているのは数字のみ。
「過去の愛が忘れられなければ、新しい恋は出来ない。恋愛をしなければ子孫を残せない。子孫が繁栄しなければ種は滅びてしまう。だから……」
 だから、防衛本能が働いて、古い恋愛の記憶は徐々に削除されていく、とでもいうのか。甘い昔に束縛されないよう、すべて無かったことにされるとでもいうのか。それって、悲しすぎる。切なすぎる……。
 どんなすばらしい体験も日ごとに色あせるのが普通である。そして悲しい記憶も。私は私の魂の振幅を、文章に残すことにした。そして今、それを成し、満身の哀しみと共に、そっと筆を擱く。
(了)




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