とりぶみ
実験小説の書評&実践
【小説】トリストラムに恋をして   (2014/08/10)
 『トリストラム・シャンディ』にインスパイアされた長編小説。長いです。原稿用紙300枚ほどあります。
 第27章~第35章には、当ブログ随一の人気記事(=ゴキブリホイホイ)「先生にほめられる良い読書感想文の書き方&例文は使用盗用コピペ自由です」を丸々含みます。2010年作。





 But this is neither here nor there ─ why do I mention it ? ─ Ask my pen, ─ it governs me, ─ I govern not it.
──Laurence Sterne『Tristram Shandy』VolumeⅥ.ChapterⅥ

 「シャンデー」は如何、單に主人公なきのみならず、又結構なし、無始無終なり、尾か頭か心元なき事海鼠の如し、彼自ら公言すらく、われ何の爲に之を書するか、須らく之を吾等に問へ、われ筆を使ふにあらず、筆われを使ふなりと、瑣談小話筆に任せて描出し來れども、層々相依り、前後相屬するの外、一毫の伏線なく照應なし
──夏目漱石『トリストラム、シヤンデー』

 此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき事海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。
──夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』上編自序

 That of all the several ways of beginning a book which are now in practice throughout the known world, I am confident my own way of doing it is the best ── I'm sure it is the most religious ── for I begin with writing the first sentence ── and trusting to Almighty God for the second.
──Laurence Sterne『Tristram Shandy』VolumeⅧ.ChapterⅡ

 トリストラム、シヤンデーと云ふ書物のなかに、此書物ほど神の御覺召に叶ふた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力で綴る。あとは只管に神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見當がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。縱つて責任は著者にはないさうだ。余が散步も亦此流儀を汲んだ、無責任の散步である。只神を賴まぬ丈が一層の無責任である。スターンは自分の責任を免れると同時に之を在天の神に嫁した。引き受けて呉れる神を持たぬ余は遂に之を泥溝の中に棄てた。
──夏目漱石『草枕』十一



第一章
 どんなすばらしい体験も日ごとに色あせるのが普通です。自分は今、おそらく人生で最も面白い時期を生きている最中です。しかし筆の力に頼らなくては人間の特性上忘れてしまうでしょう。現に、十数年前の少女時代の記憶は徐々に、しかし確実に薄れつつあります。それはあまりにも悲しい。だから書きます、自分の自叙伝を。
 執筆に当たり、その雛形として参考にするのは『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』。小説という文学ジャンルが生まれたばかりの十八世紀にイギリスで書かれた自伝体の書物です。
 世に名高い奇書で、まず、父母が主人公トリストラムを「しこむ」場面(!)から始まります。主人公が生まれてないまま始まる小説など、そうめったにあるものではありません。しかも、ただ生まれていないばかりでなく、その後しばらく読み進めてもなかなか生まれてきません。脱線した話ばかり読まされます。全九巻の小説ですが、三巻になるまで生まれないのです。
 おかしな小説です。が、わたしにとってこの本は、人生やこの世界におけるすべての答えを包含する、生きる指針となっている座右の書。わたしもこの本にならって自分がこれまで生きて来た十七年間を書き留めておこうと思い、こうして筆を執った次第です。



第二章
 『トリストラム・シャンディ』にならうならば、やはり「しこむ」場面から始めなければいけないのでしょうが、わたしはこれでも嫁入り前の女なので、やめておきます。
 代わりに、わたしの父と母がどうやって出会ったのか、親戚から聞いた話を綴っていこうと思います。
 わたしの父・八郎と、母・和美は、職場結婚で結ばれました。その職場のことは追い追い書いていくと思いますのでここでは割愛して、交際を始めたきっかけをお話ししましょう。
 交際を始めたきっかけ。これは世にも珍妙です。第二章という早い段階から白日の元にさらしてしまうのはちょっともったいない気がします。それに、ふたりの職場の様子と絡めてお伝えした方がよろしいかと思いますので、これもやはり後回しとします。
 とりあえずここでは、交際を始めてから、ゴールイン、つまり人生の墓場にたどりつくまでの簡単な歴史的記述を書いておく事にしましょう。
 やっと船出です。ジャーナリズムの筆の赴くままに。アーメン。
 八郎と和美が交際を始めたのは一九八八年の夏。結婚したのは年をまたいで一九八九年の節分です。交際期間、約半年。わぁ、スピード結婚ですね~。
 わたしが生まれたのは彼らが結婚した年の十一月五日です。──ヒトの妊娠期間は一般に十月十日とつきとおかと言われています。わたしの誕生日から逆算して考えると、わたしが「しこまれた」のはおおよそ十二月末ということになるでしょうか。──あれあれ、ちょっと計算が合わなくなりますね。
 できちゃった結婚の件数は九十年代から急激に増えたそうですが、わたしの父と母は時代に一歩だけ先んじていたと言えるでしょう。



第三章
 これはわたしの自伝ですから、委細漏らさず、誕生から現在まで、あわよくば誕生前から将来の展望、理想の臨終までを活写したいと思っています。──誕生前、つまりわたしの二親のなれそめからおいおい始めていきたいのですけど、とっておきのエピソードに指定してしまったのでまだ書けません。「とっておき」は物語が盛り上がったころを見はからってババーンと出すのが普通であって、物語の冒頭に持ってくるものではありません。物語の冒頭でハイライトを迎えるのは物語の理論に反する行為です。ルール違反です。ねえ、愛しの魁斗くん、手紙だって最初は「前略」とか「拝啓」って書くでしょう。いきなり「さて」から入らないでしょう。「草々」やら「敬具」やらが先立つ手紙は、物事の道理を知らない無知の所作です。いきなり「別れよう」から書くラブレターはありません。「Dear」から始まって「愛してるよ」で終わるのが正しいラブレターです。
 わたしの自伝はまだまだ始まったばかりで、到底「とっておき」を出すようなタイミングではありませんから、それまで時間を潰さなければいけません。ある程度お茶を濁してから──要するに文章量を水増ししてから──機が熟してから──読者が油断し始めてから繰り出すことにしましょう。
 そこで水増しですが、どういう素材を水として用いるか。──古往今来の作家が愛用した薄め液は風景の描写や些細な出来事の紹介です。これはいい手です。うまいこと読者をだませおおせます。水割りになっているとは露知らず、原液のままだと思って味わってくれます。
 でも、わたしはこの手を使えません。なぜって、良心に苛まれるからじゃありません。読者への道義から使わないのではなく、まだ、使えないのです。なぜって、わたしの暮らしぶり、学校での生活や日常を書いてしまうと、時系列が狂ってしまいます。わたしはこの自伝ではまだ生まれていないのですから。そればかりではなく、父母が会っていないのですから。まだ生まれていない人物に高校生活を送らせるほど愚な作品はありません。一度死んだ人物がひょっこり生き返るような失策と異なりませんから。ねえ魁斗くん、戦国時代にいきなり現代の自衛隊が出てきたら笑っちゃうよねぇ?
 わたしの「水」は、安酒をさらにまずくする薄汚れたゴマカシではなく、清浄な水、自分自身から湧き出す水を使おうと思います。この水を染み出させれば、作品の潤滑は自然と良くなるのです。
 ちなみにこの章でしつこく魁斗くん魁斗くんと書いてきたのは、わたしの彼氏のことです。カイトくん。昨日別れました。この事件はある意味わたしの人生におけるハイライトです。思わず「とっておき」を書いてしまいましたが、これだっていずれ語るべき時がくれば詳しく書くつもりです。



第四章
 この章では、わたしの書く文章についての何かしらの意見を陳述していこうと思います。水増しの目的と、作品の下地を固める便法とが合致した、一挙両得の好判断です。
 わたしの書く文章は老成しているとよく言われます。とても女子高校生の書く文章とは思えないと言われる事もあります。自分としては、正確な文章を心がけているだけであって、決して衒学を念頭に置いて書いているわけではないのです。わたしの文体がこんなにもお年寄りじみてしまったのは、やはり幼い年齢から『トリストラム・シャンディ』に親しんだ結果でしょう。
 本当は、一般的に女子高生の文体として認知されている、いかにも頭の悪そうなギャル言葉だって使えるのですが──ためしに使ってみよっか~? そりゃわたしだって友だちと話してる時とかー、ついつられてー、こういうしゃべりかたするときあるけど~、書きことばじゃとてもじゃないけどマジかんべんっつうの。なんかチョー違和感。マジ女子高生全員がこんな文章ばっか書いてると思ったら大まちがいなんだから☆ そんなわけでー、文章書くときはー、ただしい日本語を使おうと思ってー、書いてるってわけー。
 古くから活字に親しんだゆえにこういう文体が固まったとも言えますが、もうひとつ大きな理由に、父がわたしを男の子として育てようと希望したという特殊な事情もあります。
 父には小児性愛の傾向があり、母と交わっている最中でさえその心中には「生まれてくる我が子と仲良くしよう」という禁断の欲望が渦巻いていました。わたしが生まれてくる前からわたしを手込めにしようと決めていたのです。母は単なる「水」の捌け口でしかありませんでした。
 その後、生まれたわたしの性別を知った父は──いや、今書かずとも父の数々の異常性についてはいずれ段々と明らかになっていくでしょう。次の章ではその片鱗をわずかばかりご覧に入れて見せます。



第五章
 わたしの父・八郎は、一九六〇年(昭和三十五年)三月一日午前一時頃出荷、東京産です。この年、一九六〇年は閏年でした。もう数時間早く娑婆に出れば、珍しい二月二十九日生まれの称号を得る事が出来たわけです。タッチの差で間に合いませんでした。
 これを父は大変くやしがり、自分の母親に──つまりわたしの祖母にですが、誕生日が来るたび愚痴をこぼしていたそうです。いわく、「どうしてもう少し早く生んでくれなかったの。」いわく、「医者がのんびり食事を採っていたから手術の開始が遅くなったんだ。」挙げ句の果てには「おれは知ってるぞ。愚鈍な看護婦ばかり揃えてやがったんだ。」もう、言いたい放題です。
 父がこのような癇癪を起こした時の、祖母の慰めはいつでも同じでした。二月三十日うまれと思えばいいじゃないか。二月三十日うまれと思えば。そうだよ八郎、おまえは三月一日うまれじゃない。二月三十日うまれなんだよ。──優しく、そして世間の手垢のついた知識を持ち合わせない祖母は、自分の息子をグレゴリオ歴から消し去ろうとしました。
 父が数字に対して偏執的な執着を見せるのは誕生の日付が強く影響しているように思います。自他共に認めるその数奇な趣味は、お金のかからない、されどお金が必要な、世にも稀なコレクションです。
 一九八四年に新紙幣が発行されました。それまで千円札の肖像を務めていた伊藤博文は引退し、夏目漱石にバトンタッチ。これを機に父の常軌を逸した蒐集が始まったのです。
 新紙幣と関連性のある新しい趣味──おそらくほとんどの方が「お札集め」乃至「貯金」と推察されると思います。しかしそれでは「世にも稀なコレクション」ではありません。切手集め・コイン集めと大差の無い、ありふれたコレクションです。
 父だってふところさえ温かければそういう趣味に熱中したかったでしょうが、いかんせん当時の父は商学部(一浪一留しました)を卒業したばかりの新社会人。お金は〝使う〟ものであって〝貯める〟余裕なんかありませんでした。
 父が集めた物、それは、千円札──の、ナンバーでした。そうです。紙幣の表側左上に印字されているあれです。「アルファベット二字+六ケタの数字+アルファベット一字」で構成されているあの通し番号です。あれを集めたのでした。
 どう集めるか。その方法ですが、これはあまりにバカバカしいので父の名誉のためにも書きたくないくらいなのですが、もったいぶるほど珍しい方法でもありませんし、未練なくここに暴露してしまいますと、書き留めた、これです。給料日や、両替、お釣りなど、千円札を手にするたびに父はそのナンバーを書き留めました。お金を貯めるわけではなく、お金のナンバーをメモに取ったのです。メモに取ったお金はもう用済みで、これは何に使おうが本人の随意です。本能の赴くままに衝動買いしようが、必要に迫られて公共料金を払おうが、税金を納めようが、折り鶴を折ろうが、はたまた貯金しようが、物を言わせようが、メモ帳代わりに使おうが、いえ、これは法律違反ですが、汚したり破いたり燃やしたりしない限りどういう用途に使用しても構いません。
 なんという地味で退屈で無駄な趣味でしょう。薄給による貧乏性と、数字に対する異常なこだわりとの、その双方の要求がもたらした奇癖と評するしかありません。
 通常その趣味は自宅にて執行されました。財布を開き、一枚一枚おごそかに千円札だけを机の上に並べ、印字されたナンバーを専用のノートにていねいに書き写していくのです。ノートの表紙は革張りで、ペンを動かす手は写経をする僧侶のような慎重さ。完全に酔狂です。
 外出先で手に入れたばかりの千円札をすぐに手放さざるを得なくなった時はどうしたのか、ですって? その場合は、手帳に走り書きをしておいて、帰宅してから浄書したのです。
 なお、五千円札や一万円札は対象外でした。手に入る機会が少なかったからだと、父は後年わたしに語っています。
 この珍妙極まりない趣味は二〇〇四年に夏目漱石が千円札役を降板するまで続けられ、それまでに書き留められたナンバーの総数、なんと四二〇〇〇。総額にして四千二百万円。わざわざ両替を繰り返したりしたために成し遂げた数でした。
 それだけの金額を、実際に財産として保有してくれていたらありがたかったのですが。現実にはノートを埋めるだけの単なる記号です。ビッシリ並べられたそれを見ると、家族としては名状しがたい虚無感に襲われるのですが、趣味に没頭する当人は喜色満面だから手に負えません。自分の誕生日と同じ数字の配列を見つけては喜んだりしています。



第六章
 食材をまるごと客の目の前に放り出すコックにはついぞお目に掛かった経験がありません。食材本来の味を楽しんでもらうために必要最低限の調理にとどめるコックはテレビで見た事がありますが。客にフォークもナイフも持たせず皿の上にデンと生肉を載せて運んでくるようなのはもはやコックではありません。生きたままのスッポンをさあ食えと言って出されても歯が立ちません(歯でなければ立つかも知れませんが)。大きな食材を未加工のままテーブルに差し出されてもわたしには食べられません。小さく刻んである方が食べやすいのです。
 なぜ料理の話が出たかというと、第五章が予定よりも長引いてしまったからです。書く方は興に乗っているのでいくらでも書けますが、読む方はたまったもんじゃありません。他人の父親の話を長々とされて誰が喜ぶでしょう。しかも本筋とは関係のない水増し部分ですから。あのような珍味を、ろくに切りもせず、ダラダラと食わせられて誰が愉しむでしょうか。お詫び申し上げます。
(ただ、謝ったそばからお気の毒なのですが、父の話はまだまだ続きます。もう二・三章分を父で水増しします。そこを我慢して読み通してもらったら、今度は母の話になお二章ほど裂きます。そこも耐え抜いていただいたら、おまちどおさま、祖母の話を二章ほど。それらがすっかり完了した後で、父と母のなれそめや結婚式、わたしの誕生などを書いていこうと思っています。計画通りに事が運べば良いのですが、なにぶん筆の動くに任せていますのでどう転ぶかは作者のわたしにも予測できません。)
 料理の味──言い換えれば作品の出来の善し悪しは、正直どんどん不明瞭になっているだろうなぁ、と、思っています。ここで言う「思っています」というのは、「何となくそうなんじゃないかなぁ」という根拠のない予想であって、事態がどれほど悪化しているのかを把握しているわけではありません。コックのわたしは何一つ味見をせず、読み返しや推敲・添削をせず、そばにある食材を片っ端から手当たり次第に鍋の中に放り込んでいるからです。味がお気に召さなければ無理に読み進めていただく義務はございません。
 ただし、フランス料理のフルコースを注文した時に、前菜をひとくち食べて後続料理に見切りをつけるのは嫌味な料理評論家だけです。優しい紳士淑女たちは、多少まずくても席を立たないものです。また、レストランの食事に慣れていなくてよく味がわからない方々は、とりあえず黙って座っておき、出された物体を残さず平らげるのが経済的です。



第七章
 話に首尾一貫性の無い文章というのは一般的には悪文とされます。作品内の時期時間がちょいちょい過去現在未来に飛び、文体も統一されず、語り手の水準も混線している。こんなのはダメです。こんな物はブンガクではないっ!
 と、これは国語の得意な人たちの意見です。わたしの高校の国語教師・野辺山先生も同意見です。わたしのような小娘に比べて数等倍お書き物がお上手なあのお先生方は、ゴチャゴチャした文章・ふざけた文章・幼稚な文章を軽蔑します。わたしもこの自伝の第三章ではその世間的良心に追従する立場に寝転がりましたが撤回させていただきます。
 さきほど、確かほんの数分前の事だったと記憶しますが、「もう二・三章分を父で水増しします」と宣言しました。これはどうです。父の事などどこにも書かれておらず、ご覧のありさまです。ですが、これを「無茶苦茶」と言ってしまってはいけません。作者の年齢を考慮して「若気の至り」などと温かく見守ってもいけません。「女だから」なんて、もってのほか。この進行は、実に理に適っており、無茶苦茶でも若気の至りでも女だからでもありません。わたしの手習いとなっている『トリストラム・シャンディ』を一読していただければ脱線こそが書物の醍醐味だという事を存分に理解していただけるかと思います。直線的な進行は真のシャンディ精神に反するのです。
 わたしはこの聖なる書物を幼少から何度も何度も──そうですね、わたしの経験人数よりも多い回数です。それほど繰り返し読んできました。その流れがしみついているのです。ですから、文章のつながりが破綻しているようならば、それはわたしの責任ではなく、わたしの文章力の不足でもなく、処女っぽい狼娘が「全小説中最高傑作」と讃えたこの聖なる書物のおかげなのです。わたしは全ての批判糾弾をわたしのバイブルに丸投げする事と致します。
 でも、いくら奔放に伸び伸びとお転婆をやらかそうと、死んだ人が蘇ったりするような論理矛盾は犯さないつもりです。
 『トリストラム・シャンディ』の主要登場人物のヨリック牧師は早々と第一巻で非業の死を遂げますが、なぜかその後も大活躍しています。一見するとヨリックが生き返ったようにも思えますが、しかしこれは彼の最期をあらかじめ先回りして語っただけであり、時間的な矛盾はないのです。
 わたしの自伝もこういう現象が起こる可能性があると、今の内に公言しておきます。たとえば祖母の死を早い時期に書いたりもするでしょうが、彼女はその後もわたしの良き相談相手として登場してもらうつもりです。もちろん霊魂としてではなく、生身の老婆として。



第七章その二
 やはり父の話ではないのです、この章も。ただ、この調子で書き進めていくと「もう二・三章分を父で水増しします」という約束を反故にする恐れがありますので、この章はひとつの章として認めない事にしました。そこで、「第七章その二」というわけです。
 普段のわたしはわりかしキッチリと文章を構築するタイプです。学校で課される読書感想文や修学旅行の作文などは判で押したような紋切り型です。優等生優等生している、さっぱり読む価値の無い模範的文章の剥製です。
 それでも、教師からの評判は良いのです。なぜって、いわゆる「よく書けているから」です。あ、文章が上手という意味ではありませんよ。ここで言う「よく書けている」とは、すなわち、「よくもまあここまでありきたりの陳腐な表現ばかりで、個性を殺して新しい表現に挑まず、きみってホント従順なよいこちゃんだね、よくぞ常識から逸脱せずに書けている」と、いうわけです。
 学校は保守的な社会ですから、国語の教科においても「1+1=2」です。「2+2=5」であってはならないし、「1+1=田んぼの田」というやつも×です。ペケマークです。オッペケペー。
 それに比べ、この自伝は我ながら実に自由に書いています。規則のしがらみから解放されて、思いっ切り自分を表現する快感。筆が走る走る、わたしの制止を振り切って暴走します。おかげさまでちっとも話が先に進みません。
 読者の興味を持続させるには、ある一定の流れを提示するのが文学の方程式です。いいかげん本流に戻らないと読者が怒って帰ってしまいます。休憩していた父・八郎をそろそろ表舞台に呼び戻す事に致しましょう。



第八章
 早いものでもう八章です。父の「八郎」という名前の由来をお話しするのにピッタリな章ですね。
 さて。八郎という名前からして、八男坊だと思う人が多いようですが、それは早合点というものです。父は三人兄弟の末っ子として生まれました。
 太平洋戦争時、アメリカが大日本帝国を徹底的に研究していた事はよく知られています。軍隊の戦力を分析したり、諜報活動によって軍事作戦を事前に突き止めるばかりでなく、その文化や生活様式までも調べ上げられました。特に有名なのは日本人の思想「恥の文化」を論じた『菊と刀(原題:The Chrysanthemum and the Sword)』という研究書です。この本は、というかこの本と同じ題名の本はわたしの父も持っていますが、それはまた別の機会に。
 ええと。何の話でしたっけ。ああ、そうそう、アメリカが日本の文化を徹底的に研究した話ですね。父所蔵の『菊と刀』の事で頭の中がいっぱいになってしまい、つい忘れそうになりました。
 アメリカによる日本人研究の触手は、戦争とは無縁の些末な部分にまで届いていました。当時の日本人が長男から順に「一郎」「二郎」「三郎」「四郎」「五郎」もしくは「一」だの「裕二郎」だの「源三」だの「傳四」だの「五郎八」だの「伸六」だのと、数字で名付けられている事も知っていました。ですから、敵方の部隊に田村三子男兵長という人がいれば、「こいつはねずみ年うまれの三男坊だな」とバレていたという事です。
 そのように日本理解の深いアメリカ軍、かの有名な連合艦隊司令長官・山本五十六の名を見た時は青ざめたそうです。「五十六番目の子供!? オー、イソロクのファザーはなんてグレートなんだ!」と。
 わたしが何を申し上げたいかと言いますと、父・八郎を名前だけで八男坊だと決めつけるのはアメリカ軍にも劣らぬ早計というもの、という事です。それでもなお頑固に「八郎という名前で三男坊なのはおかしい」と主張する人にはこうお訊ねしたい。宮本武蔵と決闘をした吉岡兄弟、清十郎と伝七郎は十男と七男ですか。そのまた弟・又七郎も七男で伝七郎と双子ですか。ご納得いただけましたね。我が父八郎は、三男なのです。
 けれどひとつだけ大きな謎があります。長男が一男、次男が次郎であるのに、父だけがなぜ斯くも突飛な飛び級をしたのか。残念ながらそれは定かではありません。もしかしたら伯父・次郎と父・八郎の間には五人の伯父がかつて挟まっていたのかも知れません。



第九章
 父の仕事の話をしましょう。父は高校卒業後、一年間の浪人生活を経て、都内の三流私立大学の商学部に入学しました。(その大学生活の様子も筆にのぼしたいのは山々ですが、これ以上時代を逆行していくと際限がありませんし、調子に乗ると父母未生以前にも話題が及びそうですし、成れの果ては先祖の起源にまで遡る歴史書になってしまいそうです。これはわたしの自伝なのですから、ちょうど良いあたりで打ち切りましょう。ここでは「決して華やかなキャンパスライフではなかった」と書くに留めて置きます。)三年生の進級試験に落第して一年留年したのち、一九八四年に卒業、北海道での卒業旅行を済ませたのち、ある企業に入社しました。──ここから先は不明確かつ甚だ怪しい話なので憶測や推論で話を進める事をお許し下さい。
 その企業は白い粉を製造・販売する会社でした。この白い粉は数種類あり、それぞれに用途が違っていたようです。白い粉の正体は何か。麻薬? そりゃ、犯罪でしょう。覚醒剤? 合法だった時代もありますが、一九八四年ではやはり違法です。塩? いいえ、その頃塩はまだ日本たばこ産業の専売だったはずです。父が詳しい話をしてくれないので頓とわかりませんがおそらく何かの薬品だったのではないかとわたしは睨んでいます。
 そんな謎の企業に勤めた父は、入社して四年後に京都に左遷されてしまいました。その理由も不明ですが、何らかの責任を被らされたと見る説が有力です。
 そうして流れ落ちた先の京都支社で、現在の妻である和美、つまりわたしの母と出会ったのです。




第九章
 父の仕事の話をしましょう。父は高校卒業後、都内の私立大学の商学部に入学しました。決して華やかなキャンパスライフではなかったそうですが、一九八四年に無事卒業、ごく一般的な商社に就職しました。それから四年して京都に栄転し、現在の妻である和美、つまりわたしの母と出会ったそうです。
 ここでスムースに母へと話頭を転じましょう。
 父より二歳年上だった母は、身長は平均より大幅に低かったものの、ボン・キュッ・ボンのナイスバディーでした。そうですね、ボディは小柄なのにパーツはデカイ、と写生しておけばその姿を想像する一助となりましょうか。「出る所が出ている」という記述も母の容姿を端的かつ的確に表現しています。
 ──出る所が出ている。そう言えば聞こえは良いですよね。女性にとってはそれが理想の体型ですし、斯く言うわたしだってメリハリのあるラインを保とうと日々努力しています。自分のスタイルを気にしない人がいるとすれば、それは負け惜しみか、自分に愛想を尽かしているか、女性としての努力を放棄しているか、どれかだと思います。本心から洗濯板に安んじている若い女性なんているのでしょうか。男性のみなさんだって、彼女や奥さんの胸やおしりは大きい方が嬉しいはずです。中には小さい胸の方が好きな方もいるかも知れませんが、どうせ少数派に違いありません。出る所が出ている身体は、美学の黄金律にも適う洗練なのです。
 だけど、何が何でも出れば良いという物ではありません。私は母の姿を評して「ボディは小柄なのにパーツはデカイ」と書きました。この「パーツ」とは、胸とおしりに限定されるものではありません。母は、顔のパーツもでかいのです。
 口、そして唇。このパーツのサイズについては各人で意見が異なるでしょうから、わたしの母のそれについて書く以外、深い話は割愛します。わたしの母の口。それは心持ち左右に長く、唇はじゃっかん厚めでした。しかし決してぶかっこうなほどの大きさではなく、ぼってりとした肉感的な口元です。
 目は小さいよりも大きい方が良しとされています。大きく澄んだ瞳は美人の筆頭条件に数えられますし、目の印象が強くなる二重まぶたは手放しに歓迎されるものです。人間が他者を見る時に最も注目する場所は顔であり、その顔の中でも最も強く印象に残る部位が目なのです。美容整形で人気があるのは脂肪吸引と二重まぶた手術です。マスカラやアイシャドーなどの化粧品……の話については一家言ありますのでここには書き切れません。とにかく、目は大きい方がよろしい。母はパッチリとした、実に麗しい目をしていました。これは母にとって、また、わたしにとっても祝すべき幸運でした。わたしの目は母ほど綺麗な目ではありませんが、母から二重まぶたを受け継いでいるのです。一重まぶたのDNAと二重まぶたのDNAとでは、(メンデルの報告ではないので精度は保証できませんが)どうも後者の方が優性遺伝子らしく、父の切れ長の一重まぶたが遺伝しなくて本当に良かったと、毎朝鏡に向かうごとに安堵しています。



第十章
〈じゃあ、きみのお母さんはとても美人だったんだね?〉
 いいえ。何が何でも出れば良いという物ではありません。鼻です。鼻までもが大きかったのです、わたしの母は。
 団子っ鼻、というレベルではありませんね。手塚治虫の漫画に登場するお茶の水博士ほどではありませんが、まずもってアンパンマンほどの鼻と断じて無理はなかろうかと思います。
〈いやいや待ちなさい。普通の人間にあんな鼻がくっついてたまるのものか〉
 だからこそ、滑稽なのです。美しい目・豊満な肉体をしていながら、美人とは申せない理由はそれです。完全に調和をぶち壊しているのです。肉親の話だから謙遜しているわけではありません。本当にひどいものです。
 『吾輩は猫である』に登場する美学者・迷亭先生がこう論じています。
「是から鼻と顏の權衡に一言論及したいと思ひます。他に關係なく單獨に鼻論をやりますと、かの御母堂抔はどこへ出しても耻づかしからぬ鼻――鞍馬山で展覽會があつても恐らく一等賞だらうと思はれる位な鼻を所有して入らせられますが、悲しいかなあれは眼、口、其他の諸先生と何等の相談もなく出來上つた鼻であります。ジユリアス、シーザーの鼻は大したものに相違御座いません。然しシーザーの鼻を鋏でちよん切つて、當家の猫の顏へ安置したらどんな者で御座いませうか。喩へにも猫の額と云ふ位な地面へ、英雄の鼻柱が突兀として聳えたら、碁盤の上へ奈良の大佛を据え付けた樣なもので、少しく比例を失するの極、其美的價値を落す事だらうと思ひます。」
 わたしの母の鼻は正しくこの評言がしっくり来る鼻です。
〈けれどもきみ、それは作り話の中の鼻だろ。現実の世界にそんな大層な鼻のあるはずがない〉
 目を丸くして、まだ信用しない、そのほうけづら。自分の知識経験からは説明不可能な物が目の前に現出した時、それをにわかには受け入れがたい心情はわたしにも理解できます。しかし母の鼻はこうして立派に現前していますし、この鼻が母の大きな身体的特徴であり、しかのみならず母の精神性をも代表する特色なので、是非とも受けて入れていただく他ありません。
 『猫』の迷亭先生が「其後鼻に就て又研究をしたが、此頃トリストラム、シャンデーの中に鼻論があるのを發見した。金田の鼻抔もスターンに見せたら善い材料になつたらうに殘念な事だ」と述べている通り、我が『トリストラム・シャンディ』にも鼻に関するあれこれが第三巻から第四巻にかけて大々的に語られています。大きな鼻を持った人物の伝説は古今東西に多く伝承されているのです。
 次の章は「鼻の章」と定め、それらの伝説の一端を紹介し、こういう異な鼻もあるものなのだという事実を懐疑的な人たちに納得してもらいましょう。



第十一章
 まず、鼻と言って邦人の頭に真っ先に思い浮かぶのは芥川龍之介の『鼻』です。お読みになった経験は? 鼻がまるで萎縮した××のように顔の真ん中に垂れ下がったお坊さんの話です。これなどは母の鼻を軽く凌駕する長さと太さです。
 このお坊さん、芥川独自の造型のようにも思えますが、実は『今昔物語』巻二十八や『宇治拾遺物語』巻二にも記述されている実在の僧、禅智内供です。実在した人物なのです。
 これだけでも母の鼻の現実性は充分に証明できたと思いますが、資料に乏しいという責めを避けるため、以下ズラズラと列挙しておきます。反・母鼻派各位はそれぞれ調べるなり確かめるなりしてみて下さい。
 『源氏物語』光源氏が驚く末摘花の象鼻。パスカルが「もう少し低ければ歴史は変わっていただろう」と評したクレオパトラの鼻。修験道の山伏姿の妖怪・天狗の鼻。オランダの古典学者エラスムス『平俗対話集』の、「出世の原因は鼻の大きさ」と主張するパンファガスとそれに同意するコクレス。フランスの喜劇役者ブリュスカンビーユの序詞の題材にされた大きな鼻。ブーシェ『夜の会議集』のいささか猥褻な鼻。ドイツの偉大な学者、ハーフェン・スラウケンベルギウスのラテン語から成る大著、その第二巻第十編第九話に収録されたディエゴの偉大な鼻に関する物語。高潔な詩人剣士シラノ・ド・ベルジュラックの大鼻。ニコライ・ゴーゴリ『鼻』に描かれた役人コワリョーフの勝手に動き回る鼻。カルロ・コロディ『ピノキオ』のウソをつくと伸びる鼻。ロックバンド「ザ・フー」のギタリスト〝鼻がデカい人はアレもデカい〟ピート・タウンゼント。ハラルト・シュテュンプケが論文に著した、ハイアイアイ群島棲息の鼻行類。異国の占い師が口々に「悪人づらだ」「悪魔の鼻だ」と断ずるダウンタウン松本人志の鷲鼻。──これくらいでよろしいでしょうか。気がお済みで?〔もう充分だ〕
 いやはや、母の容姿に関する章は簡単に済ませるつもりでしたのに、飛んだ道草を食ってしまった物です。



第十二章
 鼻の話題が出た所で再び父に関する叙述に取って返します。いいえ、父と母の共同作業と言った方がよろしいでしょうか。
 父は性格に難がありますが、顔は整っていますし、手足もすらりと長く、容姿は端麗そのものです。わたしの家に遊びに来る友人たちは、決まって「パパがカッコよくてうらやましーっ☆」と、きみたちはそれしか言葉を知らないのかと心配になるほど口を合わせます。これは肉親の話だから大袈裟に自慢しているわけではなく、自分の父親という事を差し引いて考えてみても確かにハンサムだとは思います。少し前に「一重まぶたが遺伝しなくて本当に良かった」と書きましたが、父の目は決してドンヨリとした腐った魚のような目ではなく、切れ長で鋭い、男気に溢れた侍のような目をしています(目つきが悪いとも言えますが)。口はキリリと引き締まり、鼻もほどほどの隆起で安定しています。鼻の穴の形も細長く上品で、おっぴろげられた母のトンネルとは品格に著しい差があります。父は外見だけなら均整の取れた二枚目であり、そのゆえに「ボディは小柄なのにパーツはデカイ」母とは釣り合いが取れていません。
 申し分の無い男ぶりの父ですが、しかしその鼻はやはりちょっと特殊です。父は母に対して「brown nose」なのです。
〔茶色い鼻? きみはさっき、おやじさんの鼻は普通だって言ってたぜ〕
 いいえ。額面通りなら茶色い鼻という意味ですが、英語の慣用句で、ゴマスリ野郎、という意味です。
 「kiss 誰々 ass」という、あまり美しくない英語はご存じですか。(あまり書きたくないな……。でも、どうせ傷物だし、今更かまととぶらなくても別にイッカ。)「誰々のおしりにキスをしろ」という意味で、「kiss her ass」ならば「女王様の臀部に接吻しなさい」ですし、「Kiss my ass, baby!」ならば「俺のケツにキスをしろ、ベイベー!」となるわけです。
 このような屈辱的な行為を強要するのは、敵に対しては挑発行為であり、手下に対しては服従の意志確認となります。
 わたしの家庭におけるこのセリフの担当俳優は母であり、父の配役は母の臣下でした。

第一幕

 場面
  わたしの家庭。その寝室

 登場人物
  母…女王
  父…臣下

 母 Kiss my ass。
 父 御意。

 母のおしりにディープなキ(あ~これ書かなきゃよかったぁ。無計画に筆を進めるのって、やっぱり危険……)スをした父は鼻が茶色くなった、というわけです。何かがついて、茶色く。まさに「尻に敷かれている」というわけです。



第十四章
 高層ホテルには十三階が存在しません。たとえ二十階建てのホテルであってもエレベーターの操作盤に「13」の文字はなく、「12」の次には「14」のボタンが据えられています。下から数えて十三番目に相当するフロアは「十三階」とは呼ばれず「十四階」と銘打たれるのです。
 十三は不吉な数字と認識されています。でも、どうしてなのでしょうか。──あ、番条くん。いいところに来た。
 〔何。また何か書いてんのか〕
 これからクイズを出します。問題。十三という数字が不吉だと言われているのはなぜでしょう。
 〔「四(死)」たす「九(苦)」の和だから。〕はずれです。
 〔ホラー映画『十三日の金曜日』が起源!〕え。それって、ホッケーのマスクを被った怪人が殺戮を繰り広げるアレですか。ブーッ。不正解。
 〔じゃあ、イエス・キリストの命日が十三日。〕ちがいます。
 本当の由来は、ダ・ヴィンチの名画でもおなじみ「最後の晩餐」です。イエスと十二使徒が一堂に会したその人数「十三」が不吉とされるのです。このため欧米では、ホームパーティーなどで出席者の人数が十三になってしまった場合、無理にでももうひとり招いたりして人数を合わせるそうです。〔飲み会で割り勘の頭数に呼ばれるドーデモイーやつと同じだな。〕そうかなぁ。
 さらに話が脇道に逸れますが、「十三」とは逆に、「七」は縁起の良い数字とされます。あの、幸運の七、いわゆるラッキー7というやつです。番条くん、こちらの由来はわかる?
 〔「七つの大罪」「七日目は安息日」など、キリスト教で象徴的に使われる数字だから。〕当たってません。
 〔七福神の人数。〕残念。
 〔スロットマシーンで「7」が三つ並ぶと大当たり。〕お、近いかも。
 〔煙草の銘柄「マイルドセヴン」「セヴンスター」から。〕あー遠くなった。
 〔煙草の銘柄「ラッキーストライク」から。〕だから違うって。七どこにも無いじゃない。──番条くん、ありがとね。もういいよ。助かりました。
 〔ちぇっ。〕
 正解は、野球のラッキーセヴンが語源だそうです。そうです。あの、雄々しい形状をしたジェット風船を阪神タイガース応援団が飛ばす七回の攻撃の事です。ちょっと意外ですよね。アメリカメジャーリーグでニューヨーク・ヤンキースが連日連夜七回に猛攻を繰り広げていた事を「ラッキー7」と報道した事に由来するそうです。眉唾物。
 いささか説明が長引きましたが、この自伝の第十三章が抜けていたのは、以上の理由により十三という数字を忌み嫌ったためなのですよ。奇妙な感覚に襲われた方。落丁でもケアレスミスでもありませんからご安心下さい。



第十五章
 たとえば、わたしの文章に(もしくはわたし自身に)好意的な人なら、物語の流れをぶったぎるように数字に関する蘊蓄が挿入されても、「父親の異常な性質がこの子にも遺伝している事を暗示する一章だ」と、前向きに解釈してくれるかも知れません。
 また一方、わたしの文章を(もしくはこういった文章形態を)好まない人にとっては、文学的な営為のない説明文が退屈で仕方がなかったかも知れません。知識をひけらかす嫌味な一章に思えたかも知れません。
 わたしはその双方に弁解をさせていただきますが、あの章は完全に単なる思い付きです。「あ、十三章だ。飛ばそう。その理由で一章つぶそう。」これが真相です。筆に任せてエイヤッと書きつけたまでで、他に何の意図する所もありません。あの雑学にせよ、信頼できる資料を側に延べて書き写したのではなく、わたしの記憶から取り出してきたので曖昧な物です。信憑性についてはちょっとばかり首をひねらざるを得ません。
 お忘れなきようお願いしたいのは、この作品は第一にわたしの自伝であるという事、です。わたしという人間を広く知っていただくための記録なのです。ご都合主義的に事件が発展する作り話ではないのです。二十世紀の小説家たち、愉しげな人・外気に当たると死ぬ人・処女っぽい狼娘──彼らの用いた手法「意識の流れ」を応用しているのだ、と、深読みの分析をしてくれた方が正解です。
 文章の端々からわたしという人間の性格・主義・特質・匂いなどを嗅ぎ取っていただければ本望ですし、どうぞわたしの文章を光線に見立ててあなたの頭の中に投影し、光と光が交わる一点に半透明の虚像を結び、模糊とした部分はあなたの力強い想像力で補ってわたしという人物の像を構築していってみて下さい。そうすればわたしという人間への理解の下地が段々と固まり、後続の文章の咀嚼が楽になると共に、理解の下地の上に精神の華麗な楼閣も築けましょうから。──些細な断片をモザイク状に享受していく事こそがこの作品を楽しむ一番の秘訣だと、作者のわたしは堅く信じています。



第十六章
 いくら本筋からの脱線を許容しているとは言っても、それがあらゆる方向に拡散していくのは食い止めねばなりません。ルール無用の悪ふざけが講じればまさしく「なんでもアリ」になってしまいます。作品の末尾に「わたくしはこういう作品を読んで育ちました」とさえ書いておけば、古人の作品を丸々一冊分引用しても自分の作品として認められる事になってしまいます。マルセル・デュシャンじゃあるまいし。
 それから、遺漏なく自伝を完成させようにも、己の筆の及ぶ範囲を限っておかなければ際限がありません。どういう事か具体的に説明しますと、「自分の肉親の事、自分と関わり合った人間の事を、どこまで書くか?」という事です。わたしの生まれた病院は近所の産婦人科ですが、ここの従業員の素性を余す事無く書くべきか? もしくは、初めて上京した時に新宿駅ですれ違った人々、そのひとりひとりの氏名性別年齢およびその年譜を調べられる限り記録しておくべきか? ──徹底的に詳しく自分の半生を活写したいと企んでも、あまり丁寧ではヨハネの福音書第二十一章第二十五節のような事態になってしまいます。どれだけ膨大な自伝になってしまうのでしょうか。
 この問題はわたしを悩ませ、自伝の進行を停滞させました。おかげさまで水増しという目的は順調に達成できているのですが、『トリストラム・シャンディ』にも劣るとも勝らない混乱が生じてしまいました。各章の唯一のつながりといえば、〝書いているのが同一人物〟という事くらいです。これでもし、何の関連性もない赤の他人の文章が割り込んできたら、この作品はすっかり破綻します。自由に伸び伸びと書くのがこの自伝の主意ですが、最低限の不文律を破れば作品の底に横たわる生命は死に絶えてしまいます。越えてはならない一線を越えてしまったら語り手は読者から信用されなくなり、その先を読んでもらえなくなるのです。──子どもにはなるべく好きなように行動させたいですが、あまり放任主義で育てるのも考え物です。
 さて、作品の進行具合ですが、なんといまだにわたしは生まれていません。正直、早く生まれたいです。だが悲しいかな、まだ両親が出会う場面にすら到着していないのですから先が思いやられます。
 大好きな祖母については、彼女の少女時代からの生涯を逐一みなさまの耳にお届けしようと入念に準備していましたが、作品の停滞という非常事態を鑑み、また、「それだとおまえの伝記じゃなくておまえのばあさんの伝記じゃないか」という批判に晒される可能性もありますので、「祖母の話を二章ほど」という計画は泣く泣く諦めて、他の方策を練る事にします。ごめんねおばあちゃん。



第十七章























































第十八章
 第十七章はあぶり出しても何も出て来やしません。また、印刷ミスでもないのです。あの白紙の中に、わたしの祖母(母方)の人生を走馬燈のように駆け巡らせるよう、各自で作業を行なって下さい。長々とわたしの筆から講義を受けるよりは幾分かマシでしょう。
 良い機会ですから、白紙のページに関するわたしの意見をここに開陳させて下さい。
 白紙のページは『トリストラム・シャンディ』が発明した最大の技法である、と、わたしは評価しています。なぜならあのページは、本に携わるあらゆる人を幸せにする利点があるからです。──もっとも、白紙が何十ページも続いたらノートブックと一緒なのでありがたさは減じますが(稀少だから価値が生ずるのです。松茸と同じです)。
 まず、何と言っても最大の恩恵を蒙るのは書き手です。何も書かなくて良いのですから。これほど楽に原稿を上梓する方法は他にありません。
 読み手だって喜びます。文字を読まなくて済みますし、何だか珍しい物を拝めて得をした気分になります。また、メモ帳代わりにもなるので電話機のそばに置いておくと重宝します。
 喜ぶのは書き手と読み手ばかりではありません。印刷屋も喜びます。インクの節約になるからです。──『トリストラム・シャンディ』では黒塗りのページの方が有名ですが、あれはインク代がバカになりませんから白紙ページに軍配を揚げます。
 白紙のページに顔をしかめるのは雑誌の編集者くらい──ですが、これとて原稿料を一枚いくらで計算しているから苦い顔をするのであって、「白紙ページの分は原稿料いらないよ」と一言しておけば瞬く間に顔をほころばせます。彼らにしたって、白紙であろうと黒塗りだろうと、紙面が埋まれば御の字なのですから。
 また、白い部分を読者が想像力で補う事によって無限に近いバリエーションの文章が展開されますし、「ああ、詳しくは書いていないけど、これこれこういう事なんだなぁ」という深い余韻も残ります。『源氏物語』五十四帖の中の、名前のみで実体の無い巻である「雲隠」の巻もこのタイプです。
 そんなわけで、第十七章は楽しんでいただけましたか? ──水増し作業が功を奏したために水位もほどほどに上がり、良い塩梅に潮時になってきましたので、そろそろ父と母のなれそめの場面へと筆を移しましょうか。〔わーい〕



第十九章
 読者おまちかね──か、どうかはわかりませんが、わたし自身はおまちかね、父と母のなれそめの場面です(何せ、父と母が出会ってくれなければわたしは生まれる事が出来ないのですから)。この章では便宜上、父を「八郎」、母を「和美」と表記します。孔子様ごめんなさい、決して両親を敬っていないわけではないのです。便宜上です、便宜上。
 八郎のbrown noseの話は既にしました(しなきゃ良かったと思っていますが。しかし一度書いた物は消せません。『トリストラム・シャンディ』第七巻第二十六章にもそう書いてあります)。あの鼻から痛ましいほどお察しが着くように、亭主関白なんて夢のまた夢、完全無欠なる嚊天下で我が家の生活は営まれています。(かかあという漢字、うちの和美にピッタリですね。)
 ふたりの出会いも、やはり一方的に和美が主導権を握っていました。「ごく一般的な商社」に八郎よりも八年早く入社し、経理部のOLとしてバリバリ働いていた和美三十歳は、東京から赴任してきた八郎のルックスにさっそく目をつけました。十年以上中年の上司とばかり顔を合わせてきた和美の目には、八郎の世間ずれしていない初々しさが新鮮に写りました。
「なにあの子。あの甘いマスク。オドオドしていて可愛いし、ちょっとアータ、食べちゃいたい。」
 そのころからパーツがでかく、いや、これは今は関係ない──そのころから積極的だった和美の瞳は、獲物を狙う猛禽類のようにたちまち爛々と燃え上がったそうです。しかしやんぬるかな八郎赴任の歓迎式は朝礼の一部として簡単に終了。アタックは後日に譲るしかありませんでした。
 その後日も容易には訪れませんでした。この商社は、総務部・人事部・経理部・除草部(注:ここは特殊な仕事を請け負う部署だったそうです)・企画部・営業部は同じビル内に居を構えていましたが、資材部だけは支社ビルからやや隔たった倉庫で会社活動を行なっていました。「ごく一般的な商社」にとっては隔離された収容所のような部署でした。八郎はそこに配属されてしまったのです。
 和美は八郎との接触を試みるためさまざまな作戦を練りました。まず実行に移したのは、伝票間違いを口実に資材部を直接訪れる戦術でした。この戦術は上司からすぐに潰されました。資材部には行くなと言うのです。些細な伝票間違いくらいで事を大袈裟にするなと言うのです。
 次に和美は資材部の出入口前で待ち伏せを敢行しました。しかし待ち伏せをする時は怖い目に遭う事が度々でしたので……、ほら、始まりましたよ、「どこの間者だコラァ」「ちがいます!」「て、てめぇ、なんやその生意気な鼻は!」「ちがいます、ちがいます!」「このアマ、どっから入りやがった!」「うち、経理の羽鳥です!」「なんだ、うちの社員か。あんまりここらへんをうろちょろするんじゃねえぞ。」「すんません、すんません。八郎くんを待ってるだけです」けれど、こういう事情ですから、よほど気持ちがしっかりしている日しか実行出来ませんでした。
 そのうえ、八郎は内気なのか、いや、実際内気なのですが、やっと出会えたと思ってもそそくさと帰ってしまうため、あいさつを交わすのがやっとでした。
 引き留めればいいじゃないか。読者諸賢の中にはそう提案する人もいるかも知れません。しかし、八郎は何かに怯えている様子でまさに脱兎のごとく去って行くため、和美が大声で待ってと呼び掛けても足を止めず、まともに会話に持ち込める状態ではなかったのです。
 その後も住所を調べ上げて手紙を出したり贈り物を届けたり実際に押し掛けたり留守中に家宅侵入してみたり色々な手を尽くした和美でしたが、しまいには面倒臭くなってきたので強硬手段に出る事にしました。良いタイミングです。作者としてもさすがに書くのが面倒臭くなってきていたので助かります。読者も同じ気持ちでしょう。さあみなさんで好機を捉えた和美の機転に拍手を送りましょう。パチパチパチパチ。〔いいゾォーっ、かーずみーっ〕
 ──作者としては「ここで章を改めても良いかな」なんて思ったりもするのですが、このエピソードは一塊りにまとめて置いた方が後で読み返したくなった時に便宜でしょうからこのまま続けます。
(本書第七十章より引用)「八郎と和美の出会い、もう一度読みたいな……。あれは確か……そうだ、第十九章だったな。」
 ほら。実際に役に立っているではありませんか。少しばかり冗長になっても一つの章にエピソードをまとめたわたしの判断は正しかったのです。
 これがもし、十九章・二十章・二十一章にまたいでいたらどうなりますか。第七十章を「八郎と和美の出会い、もう一度読みたいな……。あれは確か……そうだ、第十九章から第二十一章のあたりだったな。」書き直す必要が生じるではないですか。考えただけでゾッとします。
 新しい章を頻繁に設けると、バカでも頑張れるという利点があります。──失礼。長い文章を読むのが苦手な人でも、「もう少し我慢して読み続ければ章の切れ目にたどり着く!」ゴールが目の前に見えているからこそラストスパートに踏み切れますし、最期っ屁で加速する事も可能なのです。
 しかしこの章では諸事情により少々長い距離を走ってもらいますから、まだまだ文章が続いている事にゲッソリせず、息切れしないよう根性を見せてもらいたい物です。もう少しだよ。もう少しでゴールだよ。
 この「もう少しだよ」は、そうですね、喩えるなら校内マラソン大会でしんがりを務める子(まだ全行程の半分にも届いていないのにすでに霊魂が口から小出しに躍り出ていて先の思いやられる子)に対して伴走の先生が言う気休め「もう少しだよ、もう少しだよ」と同じ励ましであり、本当は全然もう少しじゃないのです。ここからが正念場なのです。しかし。しかしですよ。それを事前に知らせてしまうと栄えあるアンカー君の忍耐の糸はぷっつん、それをきっかけに胃の緊張も緩んでエクトプラズムを電柱の陰に吐露してしまう畏れがありますから黙っておくのが得策という物でしょう。先に進みます。もう少しだよ。
 自分の胸のうちを相手に伝える方法はたくさんあります。耳元に口を近づけて愛してる・好きだよ・アイラヴユー・我愛爾などの甘い言葉をささやいたり、ラヴレターもしくは恋文あるいは艶書と定義される手紙に想いを綴ったり、摩天楼の夜景が美しく見渡せる高層高級フレンチレストランに連れて行ったり、おしゃれなバーのカウンターに連れて行って相手の名前のついたカクテルを注文したり、お金を貢いだり、ごはんをおごったり、家まで送ったり、指輪や宝石や薔薇の花や不動産などの高価な品をプレゼントしたり、タジマハール廟を建てたり、伝説の木の下に呼び出して愛を告げたり、恋敵に決闘を挑んでみたり、ヘイ彼女ちょっとそこでお茶しな~いとナンパしてみたり、可愛い可愛いと相手をひたすら誉めてみたり、その服いいねーいいよーうんとってもピッタリだすっごく似合ってるよーとてもじゃないが顔を誉められない時は何か他に賛美出来る部分を探してみたり、すっごく上手だったわって相手の労をねぎらったり、そんなテクどこで覚えたの、おっとこれは逆効果、そこまでしてくれるんだねと相手の労をねぎらったり、キスしてもいい? だったり、いいよっだったり、一生離さないよだったり、しあわせにしてねだったり、ねえもう一回~ねだったり、夜の波止場で係留杭に足を乗せてすっかりマドロス気分のまま「毎朝味噌汁を作ってくれ」と業務委託をしたり、募る恋心を吐露するために勇気を出して相手の実家に電話をしてみました頼むーお父さんは出ないでくれー、だったり、その後お父さん娘さんをぼくに下さいと土下座してみたり、今の女房と別れてみたり、今の旦那に三行半を渡したり、ぼくきみの子どもまでしっかり面倒みるよだったり、たかしくんもすっかりあたしになついてるみたいよだったり、たくさんあります。その中でも、和美の思い切ったアタック方法は古今東西にも類例がないのではないかと思います。少なくともわたしはこの事例しか知りませんし、ヘンリー・フォード以前には思い付く事すら出来ない告白法だったろうと考えられるのです。
 定刻となり業務終了。資材課の敷地内から脱走するように帰途に着く八郎。
 そこへ、会社の軽自動車に乗った和美がドーン。
 これです。これ。何が起きたかわからなかった人、いますか。交通事故ですよ、交通事故。愛しい相手をはねてきっかけを作る、魅惑の交通事故アタックですよ。(時効)
「八郎くん、だいじょうぶ!?」
 運転席から飛び出す和美。八郎はコンクリートの地面にしこたま頭を打ち付けて脳震盪を起こしていました。
「いけないっ。すぐに病院に運ばなきゃっ。」
 和美は小柄な身体で八郎を車の助手席に乗せ、大急ぎでその場を発進しました。
 ──この告白法には、少なくとも三つの問題点がありました。
 ひとつ。和美がニュートン力学に暗かった事。質量かける速さ二乗という、運動エネルギーの法則を知らなかったのです。自動車が八郎に追突した時の進入速度は、運転手の和美にとっては徐行速度の時速二十キロでした。これ、問題ないように思えますか。思えますか。ありますよ。問題ありますよ。無知は怖いですよ。たとえどんな乗り物に乗っていようと、和美は時速二十キロきっかりで突進するつもりだったんですから。軽自動車で良かった。これがもし、ダンプカーやタンクローリーだったら八郎は鳥部野の煙となっていた事でしょう。
 ふたつ。会社に無許可で軽自動車を借り出し、なおかつ翌日まで返却しなかった事。(これはあまり問題になりませんでした。)
 みっつ。八郎が搬送された先は病院ではなく、和美のアパートだった事。
 ──それは、一九八八年のある暑い夏の事でした。



第二十章
 ようやく第二部のハイライトを書き終える事が出来ました。これにより、第二部のクライマックス「わたし誕生」に向けてストーリーが動き出しました。
「おめでとう。よく書けてるよ。」
 あ、紹介します。従兄の次朗さんです。母方の伯父・半蔵さんの次男です。父方の伯父・次郎さんと名前が似ていてまぎらわしいです。
「確かにまぎらわしいね。──俺の事を書く時は『従兄の』って肩書きをつけてよ。」
 わかりました。今回の自伝を草するに当たっては、従兄の次朗さんに多大なるお力添えをいただきました。この場を借りてお礼を申し上げておきます。
「いえいえ。礼を言うなら親父に言ってよ。八郎叔父さんや和美叔母さんの裏話をベラベラ教えてくれたのは俺の親父なんだから。」
 そうですけど、、、でも、従兄の次朗さんが色々とアドヴァイスをしてくれたおかげでだいぶ話が進みましたよ。
「肝心の主人公である君が生まれてない──本当の所を言えば、ストーリーは始まってすらいないんだよね(笑)。」
 も~、まぁたイジワル言ってぇ。
「ははは。ごめんごめん。みっちゃんはかわいいなぁ。」
 でも、父母の出会い・一九八八年夏の場面から、急にこの二〇〇六年の場面に移行したら、読者は混乱しませんかね。
「だいじょうぶだいじょうぶ。大丈夫だって。そんなヤワな読者だったらここまで読み進めてないって。」
 それってとても不安なんですけど。裏を返せば、わたしの文章は、知識教養の高い人にしか読まれてないって事でしょうか。
「それか、頭のおかしいヤツか。どっちか。」
 わたしの個人的な希望としては、ごく普通の方々に読んでもらいたいのですが。
「あー無理無理。あきらめた方がいいよ。」
 なんですって! わたしの筆の監視役に、従兄の次朗さんを抜擢したのに! 一般的価値観から大きく逸脱しないように、文章が奇抜になりすぎないように、プロデューサー役として読ませてたのに! ──自分の文章を親戚に読ませるって、すっごくはずかしいんだからっ!
「ごめんごめん。でも、面白いと思うよ。」
 あなたは「頭のおかしいヤツ」だからでしょっ! 消えて! この章おしまい!



献辞
 わたしの筆が、あまりに元気よく縦横無尽に紙の上を滑り回るから、わたしの力だけじゃ歯止めが利かなくなっちゃって。それで、文章が滑って転倒するのを防ぐため、従兄の次朗さんに見張ってもらっていたのに。暴走するのを抑制するため、バランスを保つため、審査してもらっていたのに。それなのに、あんな面白がり方をしていたなんて! 顔から火が出るくらいはずかしい!
 ついでだから、従兄の次朗さんの事もここに書いておこう。従兄の次朗さんは、母和美の兄半蔵さんの次男。現在二十三歳。わたしの家系に関するさまざまな情報(わたしの父母の結婚式も克明に覚えてくれています。それはまたのちほど)を吹き込んでくれる悪い青年であり、わたしの初恋の人でもあります。
 この従兄の次朗さんも文章を書くのが好きで、文章道におけるわたしの師匠でした。途中までは。
 と、書くのはこういう理由です。従兄の次朗さんは書くのが好きでした。しかし読むのが嫌いでした。そのためか、従兄の次朗さんの書く文章は邪道そのものでした。
 決して誇張表現ではありません。彼の書いた奇抜な小説などを一読してもらうと、邪道という意味が真にご理解いただけるかと思います。擬音だけでショートショートを書いたり、会話文を楽譜のように並べてみたり、文豪の名文を不細工に継ぎ接ぎして一編に仕立てたり(もっともこれはウィリアム・バロウズが『裸のランチ』ですでに試みていますが)、やりたい放題です。まったく文学を冒涜しています。本人は「既成の表現を打ち破りたい」とか何とか言っていますが、先人が錬磨研鑽して来た方法論を好きなように侮辱するのはわたしには許せません。
 とはいえ、この従兄の影響をかなり受けてきましたし(彼の文章は今のわたしの肌には合いませんが)、わたしは従兄の次朗さん本人が好きです。(昔はloveでしたが今はlikeかな。)
 影響を受けたと言えば、この人たちも忘れてはいけません。まだまだ会うのは先の事ですが(なにせわたしはまだ生まれていませんから)、今のうちに感謝の意を表しておきます。
・わたしの祖母。
・伯父の次郎さん。(ま、まぎらわしい……)
・西村加奈ちゃん。
・大王路胡蝶ちゃん。
・番条竜人くん。
・笹池薬麻呂さん。
 本当は作品の冒頭に掲げるべきでしたでしょうが、以上を本書の献辞とし、各人に捧げる事にします。──型破りの献辞、というか、『トリストラム・シャンディ』の書式に則った献辞です。



注釈
 ひとつの章を書き上げるたんびに、従兄の次朗さんから逐一批評をいただいています。この『献辞』については「いいねー。実に中途半端な位置だ。無茶苦茶だ」と手を打って喜び、さらに、「どうせなら注釈もここに書いちゃいなよ」と勧めます。「ここだけの話だけど──あ、これ書かないでね。ここだけの話だから。──実はね。俺、きみの書いた数々の固有名詞、ほとんど知らなかったんだ。だから注釈を書いてくれると助かる」だそうです。
 だからこんな異常な場所に注釈コーナーを設けます。「本来ならば注釈の類は巻末に配されるべきなんだけどね、」従兄の次朗さん曰わく、「それが作品の狭間に埋められるっていうのは既成概念からの逸脱として評価できるよ」と。「しかも俺との対話式って事にすれば形式としても前代未聞だよ。」ですって。
 ではまず、扉裏。英語文の日本語訳を、朱牟田夏夫さんの名訳でお楽しみ下さい。第六巻の方から。「がこれは本題とは関係のないこと──なぜこんなことを書きつける気になったのか──それは私のペンに聞いて下さい──ペンが私を支配するので──私がペンを支配しているわけではありませんから。」次に、第八巻の方。「既知の世界のあらゆる地域を通じて現今用いられている、一巻の書物を書きはじめる際の数多くの方法の中で、私は私自身のやり方こそ最上なのだと確信しています──同時に最も宗教的なやり方であることも、疑いをいれません──私はまず最初の一文を書きます──そしてそれにつづく第二の文章は、全能の神におまかせするのです。」
 第一章。この章は『トリストラム・シャンディ』の奇抜さについて語られています。なお、小説の誕生は一説には一七四〇年代。
「『ジョウゼフ・アンドルーズ』とか『トム・ジョウンズ』とかでしょ。」
 そうです。件の『トリストラム・シャンディ』は一七六〇年代に刊行されました。
「そんなに変な本なの? 全九巻の小説で、三巻になるまで主人公が生まれないってのは確かにかなり異常だけど。」
 やっと生まれたと思ってもまた脱線、語り手のシャンディー氏は成人ですが、自伝の中で語られるシャンディーはさっぱり成長しません。脱線に次ぐ脱線で本筋はことごとく無視されます。時には作者が登場し、突然ヴァイオリンを弾き始めたり、ひどいのになると「ちょっと一休みの余裕を得た」からといって第三巻の真ん中で「作者自序」を書き始めたり、やりたい放題です。そのほか、黒塗りのページはあるわ、白紙のページはあるわ、はたまた極彩色のページがあるわ、欠落している章があるわ、作品の経過を曲線で示した図が挿入されるわ、小説の形式を破壊しつくしています。小説、生まれたばかりのジャンルなのに。
「じゃあ、ここから注釈っぽくしていこうね。矢継ぎ早に質問して行くから淡々と答えていってくれや。」
 はい。何でも質問どうぞ。
「突然ヴァイオリンを弾き始めたりって、どこ?」
 第五巻第十五章参照。
「黒塗りのページはどこ?」
 第一巻第二章参照。
「白紙のページは?」
 第六巻第三十八章、第九巻第十八・十九章参照。
「極彩色のページは?」
 第三巻第三十六章参照。
「欠落している章って?」
 第四巻第二十四章参照。
「作品の経過を曲線で示した図は?」
 第六巻第四十章参照。
「ありがとう。ホント、変な小説だね。」
 その他、ラテン語と英語が左右に並ぶ対訳のページもあります。
「第八章の『菊と刀』の著者名と刊行年を教えてけろ。」
 ルース・ベネディクト作。一九四六年刊。次朗さん、興味があるの?
「いや、別に。そんなことより、第九章、ボン・キュッ・ボンってなあに? ねえなあに?」
 バストとヒップが大きくウエストが引き締まっている形容です。
「同じく第九章、メンデルって誰?」
 一八二二生一八八四没。エンドウマメの交配実験で有名な修道僧です。
「第十章のアンパンマンって何?」
 さすがに同時代人としてそれはわかるでしょう。やなせたかし作。
「同十章、是から鼻と顏の權衡に……」
 『吾輩は猫である』第三章参照。
「同、其後鼻に就て又研究をしたが……」
 『吾輩は猫である』第四章参照。──受け答えするのなんかすごく疲れる。こんなの、注釈じゃないよ。問答だよ。
「そうかも知れない。」
 それに、あえてここに注釈を設ける意味はあるの? 確かに奇抜かも知れないけど。
「奇抜……というか、まともな神経を持っている人だったら誰もやらないよね。読者にとって親切じゃないし、作品の生命にとってもあまりよろしくないという事が明白だからね。」
 こんな埋もれた位置の注釈じゃあ気軽に参照できないし、不便だし。それに、作品自体はまだまだ序章。これからもっとたくさん注解を必要とする部分が……。
「第三十六章のチバラギって何?」
 ほら来た。それってまだ先の章じゃない。
「だから、チバラギって何?」
 千葉と茨城。茨城は正確には『いばらき』ですが、『いばらぎ』と誤認されています。……今みたくこれからもっとたくさん注解を必要とする部分が出てくると思うから、今の今から注釈を設けるなんて無意味だよ。ねえ?
「ワハハハハやっと気づいたか。」
 もぉーっ! ひとの作品だからどうにでもなれと思って、メタメタになるよう仕向けたんだねっ。
「安心して。もうメタメタだよ。」
 次朗兄さんキラーイ。



奥付
 注釈と同様に奥付も本の終わり近くに掲載するのが世の慣わしですけど、それって本の「奥」ではなく、本の「外面」近くに付けられているという事ですよね。看板に偽りあり。そんな偽り奥付に比べてここならまさしく奥まっていますし、奥付に最適な場所なのではないかと。いかがでしょうか。

      題名  トリストラムに恋をして
      著者名 非公開
      発行者 未定
      印刷所 未定

      二〇〇六年七月三十一日 起筆
      二〇〇六年九月三十一日 擱筆予定

【今回の試みでわたしが得た教訓】
 奥付は本を上梓してから申し訳に載せるべきで、執筆の真っ最中に書くべきではありませんでした。



第二十一章
 あ。終わったみたいです。従兄と無駄話をしたり、献辞・注釈・奥付を書いているうちに。
 何が終わったか。決まっています。第十九章の続きです。被害者の意識が朦朧としている間に収容先で滞りなく済まされた愛の治療、つまり、父八郎と母和美の初めての媾合。──これほど書きたくない事はありません。
 誰だって両親のヰタ・セクスアリスを想像するのは苦痛ではないでしょうか。若かりしころの彼らを知っているのならまだしも、目の前で生活しているのは老醜の体躯。そんなおじさんおばさんが、しかも肉親が、しかもしかも自分の素(もと)が、愛の褥で懇ろにしている場面など考えるだけで吐き気を催します。中には積極的に熟年愛への妄想に耽る性癖の人もいるかも知れませんが、わたしゃ御免です。
 だけど緻密精細を信条とする自伝ですので是非とも記録しておかなければいけません。嫌悪感と義務感の拮抗。いやだなあ。──これまでは描写すべき場面の隅々に想像力の翼を伸ばしていましたが、ここでは大幅に業務を縮小して営業する事をお許し下さい。
 頑張って書いてみます。
 和美は職場から徒歩二十分ほどの浄土寺地区にアパートを借りて一人暮らしをしていました。──本来は母についての章で報告すべき事項でしたが、良い機会なのでここに書いておきます──和美は生粋の京女です。実家は右京区御室でしたが、左京区吉田の「ごく一般的な商社」に就職が決まったのでこの地に大きな尻を据えたのです。(ちなみに東京者の八郎は社宅の独身寮に入居していました。が、これはどうでも良い話です。看過すべき情報です。だけど神の導くままについでながら書き留めておきました。)
 グッタリする八郎をエッチラオッチラどうにか自室に運び込んでベッドに寝かせた和美は、八郎のダメージが予想外に深刻なのを大変気にしました。打ち所が悪かったらしく、かすかに痙攣しているわ白目を剥くわで、昏睡状態に近い状態でした。危険!
 その時の、和美の心配の仕方。
「たったの二十キロしか出さなかったのに。東京の人はやっぱりキャシャね。あんまり弱っちい人は考え物だなぁ。」
 これが、和美の胸中に浮かんだ心配事。八郎の身を案じているのではなく、八郎が恋人の資格に欠けているのを気にしています。
 和美がニュートン力学に暗かった事はやはり大問題でした。時速二十キロなら人は隕石でも受け止められると思い込んでいます。
 八郎の体調を考慮せずに和美が行為をおっぱじめたのは勿怪の幸いでした。その後の検査で判明した事ですが、この時の八郎はごく軽度の脳内出血を起こしていました。──たかが少量されど脳内出血。そのまま放置していたらもしかしたら脳障害や死につながったかも知れません。おーこわ。──お医者さんの話によると、血が大挙して他の場所に移ったのが自然の止血につながったそうです。
 半死半生で横たわる八郎。お構いなしの和美はその上にまたがりました。この勇ましいマウントポジションは、のちに夫婦となる男女の、女が男を尻に敷き始めた最初です。それは小さな一歩だったかも知れませんが、当家にとっては大きな一歩。チキュウは黒かった、のです。
 下半身は完全に盛りながらも和美の頭は案外冷静でした。もしも八郎がそのまま昇天した場合を考え、つまり自分が後ろの家となってしまう場合を慮り、彼がいつ昇天しても良いように後ろに招いたのです。(わかって下さい、この妙なる表現。)
 ──父母の初めての行為……というか、母の暴行について書くのは、以上が限界です。
 それは暑い夏の夕方でした。

第二十二章
「ねえ、気がついた?」
 和美が八郎に話しかけます。
「ここは……。」
「わたしのうちだよ。」
 黙ったまま和美を見つめる八郎。目をそらす和美。彼女の視線の先にあるのは、照れか、はたまた罪悪感か。
 羞じらう乙女(一九七〇年代当時)を八郎はまじまじと見つめ、やがて、さも不思議そうに問いかけました。「きみは誰。」
「え。」和美は愕然としました。「もしかして。」もしかして。「まさか。」そのまさか。「ひょっとしたら。」しつこいよ。記憶喪失だよ。「記憶喪失!」
 ああ深刻なるかな脳へのダメージ。八郎は和美の顔を覚えていなかったのです。一度見たら決して忘れられない鼻の大きなその女は、堰を切ったように泣きじゃくりました。
「わーん!」
 ──というのは泣き声としてあまりに陳腐ですし、どちらかと言えば犬の擬音ですし、和美の号泣はそんなかわいい感じではありませんでした。その音を正確に字で表現するならば、「グェーィ#」ですかね。──突然「グェーイ#」と書かれても読者は困惑するだろうと思い、「わーん!」から導入しました。
 正体不明の女が奇っ怪に鳴き(≠泣き)始めたので八郎は茫然と見守っていました。退社後急に意識が途切れ、気づけば知らない部屋で寝かされていた。目の前には謎の鼻デカ女。まるで夢を見ているような心境です。
 少しずつ落ち着きを取り戻した鼻デカ女は、それでも時折は嗚咽を漏らしながら、八郎の記憶を呼び戻そうと質問を始めました。
「あなたの名前は?」
「××八郎。」
「あ。名前はわかるんだ。じゃあ、生年月日は?」
「一九六〇年の……三月一日だけど。」
「今ちょっとつっかえたね。でも、ちゃんと言えました。」
「なんで俺の誕生日を知ってるの。」
「(無視して)あなたの務めてる会社は?」
「『ごく一般的な商社』だけど。」
「すごーい。全然しっかりしてるじゃない。ホントに記憶喪失なの?」
「いや……。記憶にないのはきみだけだけど。」
 八郎は和美の顔を知りませんでした。〔ワハハハハハ〕
「……。」
{あたしは八郎くんをこんなにも知っているのに! 八郎くんはあたしの事を知らないだなんて!}
 自尊心に火傷を負った和美は自分の氏名を告げ、会社の同僚である事を説明しました。そうして、何者かによって八郎がひき逃げされた事、その場面にたまたま居合わせた自分が介抱した事を順次教えていきました。
{病院に連れて行くか、もしくは救急車を呼んでくれればよかったのに。}
 八郎はそう思いましたが、恩人の、しかも同じ会社の先輩社員の気分を害しちゃいけないので黙っていました。
「八郎くん、のど乾いてない?」「いえ。」「コーヒーがいい?」「お構いなく。」「それとも紅茶?」「結構です。」「日本茶がいいかな。」「いや、その……。」「やっぱ冷たい飲み物がいいよね。」「……。」「コーラと麦茶、どっちがいい?」「……。」「あ、ビールもいいかな。ふたりで夜通し呑もっかぁ。」
 八郎はようやく身体に自由が戻ってきたので早々に辞去しようとしました。
「だいじょうぶ? もう起きあがれるの? 泊まっていってもいいんだよ?」
「いえ。大丈夫です。羽鳥さん、お世話になりました。」
 もう名前を覚えてくれたんだ──それを聞いてニッコリ微笑んだ和美は、玄関先まで八郎を送り出しました。
{あれ、案外あっさり帰してくれるんだな。さっきの様子じゃ、もっとしつこく引き留めるかと思ってたけど。}
〔それは違うよ八郎くん。きみを野に放っても、「マーキングが済んでいるから、呼べば戻ってくる」と和美さんは考えているのです。マーキングっていうのは犬が電柱にオシッコをひっかけたりして縄張りを確保するアレです。きみはすでに和美さんの所有物となってしまったのですよ。もう逃げられないのですよ。〕(八郎の兄・一男さんの談)
 〝ニッコリ〟から〝ニタリ〟へ、「でも、たいした事なくてよかった」不気味な笑顔になった和美は、「また来てね」別れのあいさつに代えて「いつでも遊びに来てね」演説をぶちました。「だってわたしたち」ふたりの交際が「同じ会社の仲間だし」繁くなっていくのは「それに八郎くんひどく取り乱してて」この脅迫以降です。「あたしを襲ったんだから……」顔を赤らめる和美、「責任取ってよねっ」青い顔の八郎、「じゃあ、また会社でね。」希望と絶望の見事なコントラスト。
 命からがら社宅に帰ってきた八郎は、「とりあえず頭を落ち着かせよう……」シャワーを浴びようと服を脱ぎました。
 どうも下腹部が猛烈に臭うような気がしました。



第二十三章
 父・八郎と、母・和美。ふたりの交際が繁くなっていくのは「八郎くんひどく取り乱しててあたしを襲ったんだから……責任取ってよねっ」の脅迫以降です。
 和美を襲った記憶は八郎にはありませんでしたが、誠に残念な事に、〝襲わなかった記憶〟もありませんでした。なにしろ会社を出た直後に人事不省、和美のアパートで意識を取り戻すまでの一切の記憶が飛んでいるのです。
 シャワーを浴び、入念に局部の穢れをこそぎ落とし、バスタオル一丁のいでたちでベッドの上に腰を下ろし、左右の腕の間に頭を抱え込み(困難な問題に悩み苦しむのに最適なポーズでしたし、頭の鈍痛を慰謝する効果もありました)、顔の中心にシワを寄せて、そうして考えるのは、{自分が和美のような女を進んで抱くはずはない}という経験論に基づいた判断と、{いや、しかし。普段おとなしい人物が、酒に酔って前後不覚に陥り、大それた犯罪行為をしでかしてしまった→しかも本人は自分の行動を全く覚えていなかった……そんなニュースは珍しくない。俺もその口ではないか}という懐疑主義に準拠した判断でした。
 判断の天秤は「ヤッた」「ヤッてない」の分銅のせめぎ合いでゆらゆらと揺れ動きました。どちらも、重かった。──正解は「ヤられた」なのですが。
 {もしかして…}あっちに荷担{だけど…}こっちに荷担{いや…}カタン{でも…}カタン{しかし…}カタンカタン{だが…}天秤はどっちつかずに上下運動を繰り返しました(フロイト主義者の先生方、余計な詮索などはせずここは黙って)。やがてそのバランスはガクリと崩れ、「ヤッた」の方に傾きました。さほど親しくもない女性から、いざ「責任取ってよねっ」なんて台詞をいじらしく言われてしまった日には、否定しようと思っても否定し切れるものではありません。
{冗談めかした調子でもなかったし、やはりあの人の言った事は本当だったのだろう。}
 こうして八郎は和美の言葉を鵜呑みにしました。信じてしまいました。女の魔性に対して免疫が無く、まんまとだまされてしまったあたりは同情の余地もありません。もちろん、だます方が悪いのですが、簡単にだまされる方にも非はあります。そんな事では到底この世知辛い世を渡っては行けません。甘いぞ、我が父。
 それからの八郎は、傍で見るのも気の毒なほどに落ち込み、和美の従順な下僕と化しました。呼ばれれば駆けつける恋奴隷に堕ちたのです。
 ここから先は和美の主導でデートの繰り返しとなるのですが、そんな物は誰も読みたくありませんし、こっちだって書きたくありません。ですから、あの「運命の夜」が訪れるまでは、ふたりの交際に関する描写は割愛する事にします。
 さあ、脱線です。



第二十四章
 父母の話も一段落した事ですし、次は何を書こうかな。
〔出産の場面でいいんじゃないかな。いいかげん、そろそろ生まれなよ。〕
 よし、わたしの前世について書きましょう。
〔そこまで時間を逆行する必要はあるのか。ダラダラ無駄に紙数を費やして。もしかして、生まれたくないんじゃないのか。〕
 次朗さんちょっと静かにしてて。
〔なんだよ~、いけずぅ~。〕
 次朗さんが割り込んでくるとどうも文章がゴチャゴチャしてくるなぁ。ちょっと手直ししよう。

 父母の話も一段落した事ですし、次は何を書こうかな。よし、わたしの前世について書きましょう。次朗さんちょっと静かにしてて。
 占い師の先生によると、わたしの前世はアーサー王時代のお姫様だったそうです。いやん(笑)。それも、とっても可愛い。とっても高貴な。各国のカッコイイ王子様からめちゃめちゃモテたそうです。いやーん(笑)。その美貌や風格が、現在のわたしにも少なからず受け継がれているそうです。いやんいやん(笑)。
〔占いって、都合のいい事ばっかり言うからね。〕
 黙っててって言ったでしょ! やり直し!

 父母の話も一段落した事ですし、次は何を書こうかな。よし、わたしの前世について書きましょう。次朗さんちょっと静かにしてて。てか黙れ。
 占い師の先生によると、わたしの前世はアーサー王時代のお姫様だったそうです。
〔アーサー王時代がどういう時代だったか記憶あるのかよ?〕
 黙ってろって言っただろ!
〔ていうかよー、占いについての章を設けてくれよ。そこで徹底的に討論しようぜ。〕
 わかったから。この章ではもうしゃべらないで。
〔へいへい。〕

 父母の話も一段落した事ですし、次は何を書こうかな。よし、わたしの前世について書きましょう。〔この章、なんだか『トリストラム・シャンディ』第八巻『ボヘミア王とその七つの城の話』にソックリだね。〕次朗さんちょっと静かにしてて。てか死ね。
 占い師の先生によると、わたしの前世はアーサー王時代のお姫様だったそうです。いやん(笑)。それも、とっても可愛い。とっても高貴な。各国のカッコイイ王子様からめちゃめちゃモテたそうです。いやーん(笑)。その美貌や風格が、現在のわたしにも少なからず受け継がれているそうです。いやんいやん(笑)。
 これって絶対当たってると思います。普段のわたしは占いなんて非科学的な物は信じないんだけど、この先生は占いの的中率が確率論の範疇を大きく逸脱して高いし、信用してもいいと思うのです。その先生は雑誌にも何度も取り上げられている(お店にスクラップが貼ってある)し、開運をもたらしてくれる事で芸能人にも評判なんですよ。わたしが最近失恋した事をズバリと言い当てたし、まやかしの占いとは一線を画す本物の予言なのです。まさに神がかり。
 自分がお姫様の生まれ変わりである事には、占いだけでなく、科学的な根拠もあります。だって記憶があるもん。古代・中世ヨーロッパの騎士の服装、見た気がするもん。こう、鎖頭巾をかぶっているんですよね? この知識こそが何よりの証拠だと思うのです。



第二十五章
 芥川龍之介の『河童』には河童の出産シーンが描かれています。それによると、いよいよ分娩という間際には父親が腹の中の子に向かって「生まれてきたいかどうか」を尋ねるそうです。河童の赤ちゃんって、お母さんのお腹の中にいる時から意識があるらしいです。そうして胎内に収まったまま父の問いに答えるのですから驚きです。ぼんやりとした意識だけではなく、ある程度の知能をも備えているのです。
 そしてもし、腹の中の子が誕生を拒否すれば、堕胎処理が施されます。誕生を拒む理由は境遇への悲嘆だったり厭世観であったりぼんやりとした不安だったりするようです。ますます驚きですよね。
 でも、驚いてはいけません。〔え~っ!?「驚きですよね」って同意を求めた次の瞬間に否定?〕河童ごときがこれほどの高等生物ならば、人間様が自分の前世を覚えていたって不思議ではありません。ほら、チベットのダライ・ラマが良い例ですよ。現在は十四世ですが、あの地位はルイ十四世のような単なる血族の世襲制ではなく、魂の世襲制なのです。
 ダライ・ラマが入寂するとチベット政府によってただちに後継のダライ・ラマが捜索されるのは有名な話です。預言などを基にして地域を特定し、その地域からめぼしい嬰児に試験を行ない、前世の記憶とピタリ、みごと御本人と証明されれば新最高指導者に即位決定。このような仕組みです。
 当代の十四世と先代の十三世は赤の他人だけれど、中身は同一人物なのです。そればかりか、十五世紀に入滅した初代ダライ・ラマとも歴代のダライ・ラマとも同一人物なのです。脈々と続く魂の輪廻なのです。人間様が自分の前世を覚えていたって不思議ではないのです。
 「でも、ぼくたちわたしたちには前世の記憶なんかないよ」って人。覚えてないだけなのです。本当は知ってたんだけど、何かの弾みで忘れてしまっただけなのです。人は一晩のうちに必ず何度か夢を見ますが、起きるとその大部分を忘却しているのと同じ事情です。
 まあ、生まれ変わる前の記憶を後生大事に抱えたまま誕生するのは常人には困難な抜群の記憶力と言えるでしょうが、少なくとも胎児時代の記憶があっても何ら不思議はありません。誰だって母胎の中での十ヶ月を経験しているわけですし。
 気づいたら三歳だったって、そんな馬鹿な。老人は初めから老人であると勘違いしているのと同様です。なんぼ老人だってあの姿のまま世の中に忽然と現れたわけではありません。ちゃんと胎児時代を経てこの世にデビューしているわけです。気づいたら三歳だったというのは、三歳以前の記憶を失ってしまっただけです。
 大部分の人間が物心付く以前の思い出を意識の彼方に捨ててしまいますが、中には自分の誕生の風景を克明に覚えている人もいます。「暗くて長いトンネルを抜けたら非常にまぶしかったので泣いた。」これは質の悪い冗談ではなく本当の話です。「目の大きな宇宙人が見下ろしていた。」これもウソではありません。眼鏡をかけたお医者さんです。
 わたしはどうだったかと言うと、分娩時の不愉快な記憶はもちろん、妊娠七ヶ月あたりから意識がありました。河童の胎児ですら会話をしているんですから、人間様がそれを凌駕しても不自然ではないと思います。
 また、芥川はこうも書いています。
「かう云ふ返事をする位ですから、河童の子供は生れるが早いか、勿論歩いたりしやべつたりするのです。何でもチヤツクの話では出産後二十六日目に神の有無に就いて講演をした子供もあつたとか云ふことです。」
 これなんかも驚きですけど、やっぱり驚いてはいけません。『トリストラム・シャンディ』第六巻第二章によれば、十六世紀の言語学者リプシウスは生まれた当日に何か作品を拵えたそうです。やっぱり河童より人間の方が知的水準が高いのです。
 それから、同じく『河童』にはこう書かれています。「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(尤もあなたがたはその外に遺傳をお數へなさるでせう。)」
 これが『侏儒の言葉』の「運命」では、「遺傳、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟この三者である」と変奏されています。
 わたしは、この「遺伝・境遇・偶然」に、「前世」を加えたい。わたしの前世は占い師の先生のおっしゃる通りやっぱりお姫様だったのです。そうでなければわたしの十七年間の運行は説明がつきません。




第二十六章
 唐突ですが、第二十四章と第二十五章はなかった事にしましょう。熱っぽくたくさん書いたので消しませんけども。なるべくなら地上から抹殺したい恥の記録です。
 あのですね。今、わたし、非常に怒っているんですけどね。あのですね。前世なんてね、存在しませんよ。人は死んだらそれっきりです。生まれ変わったりしません。天国も地獄もありません。天国がないって想像して、と、ジョン・レノンも歌っています。そんな物をね、この科学万能主義の時代に信じている人はですね、わたしから言わせてもらえば××××ですよ。
 今日、加奈ちゃんを連れてあの占い師の店を訪れたんです。──あ、今日っていうのは二〇〇六年現在の今日の事ね。
「先生、この子わたしの友だちなんだけど、占って下さい。」
 そうしたら。そのインチキ占い師、神妙な顔付きで加奈ちゃんにありがたいありえないご託宣を授けたんです。
「あなたの前世はアーサー王時代のお姫様です。」
 ──まあ、ひどいものです。でも、まあ、これだけなら許せますよ。これくらいなら、まあ。ショックじゃなかったと言えば嘘になりますが、まあ、失望のレベルで済んだんだと思います。わたしを激怒させたのは……
「ちなみにそっちのあなた。あなたの前世は××××です。」
 たった数日前に占ったばかりなのに、わたしの事を忘れていやがった。



第二十七章
 周辺の景色を楽しもうと思って本筋から途中下車してみましたが、特に興をそそる見ものもなく、無駄足を踏みました。文学的滋味に乏しい雑学をひけらかすだけの脱線になってしまいました。番条くんからも「若い割にはあれこれ知っているでしょ、わたしってすごいでしょ、という嫌味な香りがする」と指摘されてしまいました(くすん……)。
 ペダンティックのきらいがあった事は反省します(ペダンティックという言葉からして既にペダンティックですが)。このような不遜な態度をわたしは責められるべきです。が、いちおう弁解しますと、『トリストラム・シャンディ』のスタイルに則っているからこその衒いです。自分の知りうる限りの全方位的知識を総動員し、厖大な情報量によって作品の厚みを増す(もしくは、厚く見せかける)工作は、文学の世界では古くから悪用されてきた常套手段です。
 正直に告白します。わたしが年齢不相応の話題を引っぱってくるのは作品の水増しが目的です(両親の交際に関する叙述をしたくないので)。小難しい語を弄ぶのは、「若い割にはあれこれ知っているでしょ、わたしってすごいでしょ」という、自分をよく見せようとする浅ましい動機から出発したものです(歪んだウーマン・リヴです)。──番条くんの指摘はまさに正しかった。番条くん以外の読者も、(番条くんと同等もしくはそれ以上の知的水準にある諸賢は)わたしの浅薄な目論見をとっくのとうにお見通しだったのではないでしょうか。
 決して責任逃れをするわけではありませんが、特権的な知識を振り回して得々とするこの馬鹿馬鹿しい習慣は、何もわたしだけに限った事ではありません。文学作品を論じた論文なんかは、過去の論文からの引用引用引用引用、「この問題に関して誰々先生はこう書いている」「この部分については何々いう本に何とか彼んとか書いてある」、オリジナルな新説を発表する記述は極力少量に抑えて一編と成すのが通常です。自分自身の中から生まれた、公にするのに真に価値ある思想だけを書いていると「独善的である」「他説との比較に乏しい」と批判されるからです。ひどい時には「誰々先生の本をちゃんと読んだのか」「読んでから出直して来い」「勉強不足」で済まされます。その「独善的である」論文がいかに斬新で革新的な学説であったとしても、いかに実り多い成果を学界にもたらす物であっても、黙殺されるか、あるいは闇の奥底へと投擲されます。
 文学の世界にはそういう伝統的な風習があるようです。なるべくたくさんの出典を明記する事にこそ意義があるようです。黴の臭いのする有価物の中から剽窃できそうな字句を発掘する事こそが良い論文の第一条件であるかのようです。──わたしが『河童』や『侏儒の言葉』を引用したのも同じ事情です。夏休みの宿題に出される読書感想文、本のあらすじだけで原稿用紙三枚を埋める小学生は極めて模範的であり、文学博士の素質アリ、です。
 図らずも文学論文への批判になってしまいましたが、良識的批評家を扱き下ろす『トリストラム・シャンディ』と同質の精神を発揮していますし、わたしが図ったわけではなく神様の覚し召しによる物です。すなわち、神様が「書け」とおっしゃったから素直に従ったまでで、個人的な感情は一切含まれていません。
 ……神様に責任を負わせるのは実に便利な口実ですね。だからこそ中世スペインの宗教裁判でも大いに活用されたのでしょう。無実の人を神の名の許に残酷な拷問で虐殺しても、「いいよ」簡単に許してくれるなんて、ああなんと神様は偉大で寛大なのでしょう。ありがとうございます。
 さて。せっかく本筋から脱線したのですからもうちょっと途中下車ぶらり旅を満喫しようではありませんか。通勤快速に乗って職場に向かってるわけではありません。急ぐ旅程ではないのです。ですからここで、先生にほめられる良い読書感想文の書き方を講義します。Wowie Zowie! 若年層を読者に取り込もうという姑息な権謀術数です。それでは、子ども向けに芝居を打った口調でしばらく失礼します。
 もうすぐ夏休みも終わり! みんな、夏休みの宿題は済んだかな? あら、だぁれ??古い新聞を引っぱり出して、今さら天気を調べてる人! 絵日記のための偽装工作かしら。がんばって!
 でもさ。絵日記もめんどうだけど、夏休みの宿題の何がイヤって、何と言っても、読書感想文だよね。読書感想文って、夏休みが始まった直後に書くにしろ、夏休みが終わる直前に書くにしろ、決まって月末に書くもんだよね。月末の棚卸しに忙殺される小売店と同じだね。え、「棚卸し」の意味がわからない、って? だいじょうぶ。きっと君は将来、宇宙飛行士なんかにはならず、イヤでも棚卸しをするようになるから。きっとだよ、その顔なら。
 さて、じゃあこれからお姉さんが上手な読書感想文の書き方を教えるぞ。小学校低学年・小学校高学年・中学校・高等学校の四つのレベルに分けて、それぞれコツを伝授するね。しかもなんと、大奮発、典型的な読書感想文をババンと掲載! どうしても文章を書けないお友だちや、書く時間がないお友だち・余命がないお友だちのための救済策だよ。遠慮せずどんどん書き写してね。(※然るべき著作権料(金貳仟円也)を支払うのを忘れずに!)



第二十八章──小学校低学年
 あらすじを、かいておけば、ダイジョウブ。ただし、このあらすじは、
「どんなおはなしなのか」
 の、せつめいのためではありません。せんせいは、さくひんのないようを、インターネットで、チェックしているので、あらすじくらい、しっています。
「わたしは、はなしのながれを、りかいしました」
 とか、
「ちゃんとよみました」
 という、ほうこくとしての、あらすじです。
 あらすじは、インターネットで、しらべましょう。ただし、インターネットに、かかれていることを、そのまま、うつしてはいけません。かんじは、ひらがなに、なおしましょう。むずかしいことばは、おとうさんに、いみをきき、かんたんなことばに、なおしておきましょう。
 パソコンから、ちょくせついんさつしたら、だめです。ズルがバレます。えんぴつで、げんこうようしに、かきましょう。

【ひとつ上をめざすなら……】
 あなたがたは、あどけなさを、たいせつにしましょう。おとなのおんなのひとが、いろけや、なみだをぶきにするのとおなじで、あなたがたの、さいだいのぶきは、むじゃきさ(あほっぽさ)です。よごれていないフリをしましょう。かかれていることにたいして、いちいち、しんせんなおどろきを、あらわしましょう。
 おとなに、
「そんなこともしらないの?」
 と、おもわれるほど、ほめてもらえます。むち(ものをしらない、といういみ)であればあるほど、かわいいと思ってもらえるからです。でも、あんまりあほっぽいのはだめだよ。あほすぎると、
「ようちえんから、やりなおしてこい」
 と言われてしまいます。

【字数稼ぎの実践的手法】
 あなたがたは、
「カギカッコをつかうときは、かいぎょうしてよい」
と、ならったはずです。ありえないくらい、めぐまれています。それは、むずかしいことばで、特権(とっけん)というやつです。
 なので、あらすじをかくときは、キャラクターがしゃべっているところを、たくさん、しょうかいしましょう。とっけんを、おもうぞんぶん、りようしましょう。

【保護者の方へお願い】
 お子様が作文コンクールなどに入選しますと、「ボク/ワタシって才能ある!」と勘違いします。勘違いしたまま作家なんぞ目指しますと、不幸にも身を崩す事がございます。充分に注意しましょう。普通の子は、あらすじが書けるだけで充分です。



第二十九章──小学校高学年
 低学年で身に付けたテクニックを、そのまま、のびのびと、のばそう。やはりあらすじを書こう。
 だけど、きみたちは、もう、低学年ではない。からだも大人っぽく成長してきている。だから、「会話文のたびに改行する」という、例のテクニックを使いまくるのは、そろそろやめよう。その代わり、低学年時代には書かなかった、「自分の意見」というものを少しだけ書いておこう。
 具体的には、主人公のことをほめまくろう。「○○するところがえらいと思った」を連発しよう。(例:ひよどりごえのさか落としをするところがえらいと思った。/松の前でお宮をけり飛ばすところがえらいと思った。/死体をしずめるバイトはこわくて自分にはできないから、ぼうでつつくのはえらいと思った。/など)
 それでも、改行なしで、原稿用紙三枚も書くのは、じごくのくるしみだ。いやだ。そんな時は、ひとつではなく、いくつかの作品を取り上げよう。たとえば三作品の感想を書けば、一作品一枚で済む。これは便利。しかも「たくさん読んでえらいね」とほめられるぞ。



第三十章──中学校
 提出先によって対策が異なる。対策を間違えると悲惨。要注意。

【提出先が国語教師】
 彼らは卑屈なプライドを持っている。現代の小説に不満を抱き、存命している作家を軽蔑し、最新のベストセラーを憎悪している。
 彼らは名作が好きだ。死んだ作家が好きだ。だが、あまりにも昔の作品は苦手だ。なぜなら読めないからだ。ヤツらは古文が嫌いだ。大正昭和くらいが良いあんばいだぞ。
 世界の名作も一通り(文学ガイドで読んだから)内容は知っている。だけど、『不思議の国のアリス』と『ガリヴァー旅行記』は避けておけ。ヤツらはこの作品を小学生向けだと思っている。バカにされるぞ。

【国語科を受け持つクラス担任が提出先】
 これは厄介だ。相当にデリケートだ。取り扱い注意だ。賢いと嫉まれるし、愚かしいと蔑まれる。絶妙のバランス感覚が要求される。
 たとえおまえが天才だとしても、決してそれを見せつけるな。能ある鷹は爪を隠す。隠せ。彼らが挫折した作品を読破するのは避けろ。長大なロシア文学『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などは絶対ダメ。感想文がどうであろうと、読み切ったというだけで嫉妬される。
 逆に、歯ごたえのないフ抜けた感想文も嫌われる。小学生式の、あらすじに終始した感想文は鼻で笑われてしまう。
 クラス担任に嫌われるのは、立場的に結構キツい。学級崩壊を起こせるだけの政治力がおまえに備わっていれば問題はないが、そうでなければ、クラスで一番権力があるのは担任教員なのだ。たかが読書感想文、されど読書感想文。読書感想文ごときをきっかけにして陰湿なイジメの発生するのが現代日本だ。
 では、どうすれば良いか? 刺激的なのをいっちょかましてやれ。第三十六章に「読書感想文サンプル・中学生用」があるから、丸々コピーしろ。
 少年よチェゲバラになれ。



第三十一章──高等学校
 読書感想文は夏休みの宿題の定番である。が、高校生になると、学校によっては読書感想文を書かされないこともある。そうだったらラッキーだ。(中学生のみんな。高校選びは、偏差値や校風ではなく、読書感想文の有無で決めよう)
 残念ながらラッキーでなかった場合は素直に読書感想文を書かなくてはならない。しかも必要枚数が五枚だったり十枚だったりする。三枚でもつらかったのに、十枚て。書けるか。アホ。しかも課題図書が『黒い雨』だったりする。読めるか。ボケ。

【課題図書を出された場合】
 読むのが面倒なので「生徒の自主性を尊重せず、大人の価値観を押し付けるのは教育上好ましくないと思う。今回の課題図書には断固反対です。ですから感想文は提出しません。」と書いておけばオッケー。三行半で済むので楽。
(※ポイント:逆に教師から三行半を突き付けられることもあるが、その時はその時だ)

【読む作品を自分で選べる場合①】
 徳田秋声の『我が青春の日月』のあらすじと感想を書いておけば良い。高校程度の教師じゃ、徳田秋声の名前は知っていても、決して作品を読んじゃいない。ヤツらの秋声に関する認識は「自然主義の作家で、代表作は『黴』」だけだ。
 さて、その『我が青春の日月』のあらすじだが、一言で言えばそんな作品、ない。徳田秋声は『我が青春の日月』なんて作品書いちゃいない。だからストーリーは貴様の好きなようにでっちあげられるぞ。貴様の日記でも書いておけ。
 もしも真面目な教師から「ちょいとキミ、徳田秋声にこんな作品があるのか?」と問い詰められたら、「生前には刊行されなかった作品で、一般にはあまり知られていません」と答えておけ。教師は体面を気にするからそれ以上とやかく訊ねて来ることはない。

【読む作品を自分で選べる場合②】
 貴様ももう高校生なんだから、ちっとは自分の力で何かを成し遂げたくもなるだろう。ならばやってやれ、存分に。以下に示す三つのポイントにだけ気をつければどうとでもなる。
 ①あまり難しい漢字を使いすぎると生意気だと思われる。
 ②その教師の神経を逆撫でにするようなネタは御法度。夫との不仲に悩んでいる女性教員に対して離婚問題を取り扱った作品の感想文を提出してはならない。敬虔な回教徒相手に『悪魔の詩』賛美の感想文を叩き付けてはならない。
 ③太宰治には細心の注意が要される。教師によって好き嫌いが別れるぞ。そいつが太宰信者だったら、「自分も死にたくなった」を軸に書けばオッケー。そいつが反太宰派だったら「命ってとっても大事」を中心に据えて書けばオーライ。



第三十二章──読書感想文サンプル・小学生低学年用

『エジソン』をよんで
 わたしは、『エジソン』をよみました。
 とても、かんどうしました。
 なぜなら、エジソンは、とてもえらいから
です。
 そして、エジソンが、
「てんさいとは、九十九パーセントのど力と、
一パーセントのさいのうである」
 と、いうところが、とても、かんどうした
からです。
 なぜなら、エジソンは、とてもど力したか
ら、えらいとおもいました。
 エジソンは、小がっこうに、あんまり、い
きませんでした。まるで、クラスメートの、
○○ちゃんみたいです。ひょっとして、がっ
こうにきたとしても、どうせ、きょうしつで
じゅぎょうをうけず、ほけんしつに、いくの
でしょう。
 だから、○○ちゃんも、しょうらいは、エ
ジソンのように、なるかも知れない。
 なぜなら、
「てんさいとは、九十九パーセントのど力と、
一パーセントのさいのうである」
 だから、○○ちゃんと、なかよくしたほう
が、いいとおもう。もしかしたら、ばけるか
もしれないから。
 エジソンは、でんきゅうをはつめいしまし
た。
 それは、いまでも、わたしたちのくらしに、
やくだっています。日本のたけがつかわれま
した。
 それからエジソンは、き車をつくりました。
すごいとおもいます。
 それからエジソンは、レコードをつくりま
した。これはいま、つかわれてないので、あ
まりすごくありません。
 それからエジソンは、石ゆポンプと、フロ
ッピーディスクをつくりました。これは、け
っこう、すごいとおもいます。
 エジソンは、こんなにすごいのです。わた
しは、てんさいだとおもいます。きっと、て
んさいです。わたしは。
 そんなエジソンですが、
「てんさいとは、九十九パーセントのど力と、
一パーセントのさいのうである」
 ので、もともとは、あんまり、さいのうは
なかったのかなあ、と、わたしは、おもいま
す。
 わたしは
「ほんとうかなあ」
 と、思いますが、
「エジソンだって、あんなだったんだから、
○○ちゃんだって、いつか」
 と、思いました。
 だから、○○ちゃんは、もっとがっこうに、
きたほうが、いいとおもう。なかよくできる
かどうかはわからないけど、そうです。



第三十三章──読書感想文サンプル・小学生高学年用
 わたしは、この夏、四さつも、本を、かった。
 それだけで、自分で自分をほめて、あげたい。

『くもの糸』 茶川りゅうえ助
「あらすじ」
 かんだたというわるい人が、しんで、地ごくでがんばってるんだけど、生きてるときにくもをたすけたとかで、ごく楽にいるおしゃかさまがゆるしてあげます。そして、おしゃかさまが、くもの糸を、ちの池にたらすんでした。そして、かんだたというわるい人は、くもの糸をのぼって、ごくらくに行こうとするんだけど、じゅうりょうオーバーで、糸がキレました。ムキーって。
「感想」
 くもをつぶさないくらいで、ごく楽に行けるのなら、これからくもを大事にしようと思った。なんなら百匹くらいかおうと思った。

『走れメロス』 大さい治
「あらすじ」
 メロスっていう、エロスじゃない人が、王さまとケンカして、やばいんだけど、妹のけっこんしきどーたらのために、親友をたんぽにして走ってどっか行きます。たんぽはたんぽんじゃないです。しゃっ金のほしょうみたいなものです。人ぢち。
 それで、日ぼつまでにもどってこなければ、親友はころされてゃうのでメロスは走ります。走るメロス。
 それで、マラソンのしすぎでかったるくなったり、着ている服がぼろぼろになったりしたりして、親友のことをうら切ろうとかふと思っちゃったりなんかするんだけど、がんばってもどります。メロス。
 その友じょうにかんどうして王さまはメロスをゆるしました。
 めでたしめでたし。
「感想」
 はだかで走ったら速そうだからボクも今度の体育のじゅぎょうそうしようと思った。あと、こんなすばらしい作品を書く大さいさんはとてもさわやかな人なんだろうなぁと思った。

『ロミオとジュリエット』 シェークスピヤ
「あらすじ」
 英語なので読んでない
「感想」
 日本に来たら日本語をしゃべれと思った。

『ばつとつみ』 ドストエフスキ
「あらすじ」
 長いので読んでない
「感想」
 長いので読んでない



第三十四章──読書感想文サンプル・中学生用

童話『ウサギとカメ』を読んで
 これは、ウサギとカメが、競走をする話です。
 ウサギのほうがずっと足が速いので大差がつきます。
 ウサギはゴール直前で油断をして寝てしまいます。
 一方のカメは、足がとても遅いのですが、休むことなく走り続け、寝ているウサギを追い抜き、みごと先にゴールします。
 この話の教訓は、単純に考えると、「努力の大切さ」です。
 しかし、私は中学生なので、そのような子どもらしい読解がゆるされる年令ではありません。ここは、ぜひとも、フロイト主義的な批評手段で、応用精神分析をおこなうべきです。
 まず、ウサギが何を表すかですが、これは、英語ではバニーと言うところから、バニーガールのことを指すと思われます。
 また、ウサギの好物はニンジンです。当然のことでありますが、ニンジンは男根の象徴です。
 バニーであり、相当の好き者ということであれば、これは当然、プレイボーイ誌をかざるプレイガールのことであると、おのずから答えはあきらかです。しかも、ここでのウサギは、寝ている。性的なニュアンスがにおいます。
 次に、カメが何であるかですが、これはもちろん、男性器の亀頭です。
 ウサギが寝ているあいだに、カメがゴールするというのは、つまり、カメの絶頂、イコール、性的オルガスムの象徴に、他なりません。
 ニンジンは馬の好物でもあります。しかし馬は、「種馬」「ウマナミ」という言葉からもわかる通り、男のことです。馬がニンジンを好むというのは、これは男色の暗喩ということになります。この童話には、馬は登場しませんから、この競走はやはり、一組の男女の行為であると、推測することができるのです。
 女のウサギ・男のカメによる競走。女は初めだけ責めてあとはのんびりと寝ている。男がせっせと励む。マイペースな男は女に黙って行ってしまう。とても象徴的です。
 また、彼らの営みを観ていたギャラリーの歓声は、作品中ではそれぞれ、
「あの男、根性がすごい」
「あの女性、感情、婦人らしい」
なのですが、これは、
「あの男根、性がすごい」
「あの女、性感、情婦人らしい」
と読み間違えることも可能です。
 以上のことから、この童話は、プレイガールの征服、もしくは夢魔的痴漢の犯行、その勝利の軌跡を寓話的に描いた作品と言えましょう。



第三十五章──読書感想文サンプル・高校生用
(四百字詰め原稿用紙五枚分)

走れメロス(笑)のポテンシャルについて
 みなさんは太宰治?とかいう人の『走れメロス?』って本、読んだことありますか。ボクはあります。すげーだろ。夏休みの宿題でムリヤリ読まされたんだ、クソッタレー。
 どんな話か知らない人のためにちょっとあらすじを申し上げます。メロスっていう無鉄砲一本気なヤツが暴虐な王様に刃向かってめでたく「おめーは死刑だよー」ってな宣言をされちゃうんだけどそこは江戸っ子、「別にいいよ。覚悟は出来てるよ」なんて二つ返事で命献上を承諾。が、承諾したと思ったそばから「妹の結婚式を挙げるから三日猶予プリーズ」命乞い。これに対して王様「おめー死刑と決まってる人間を釈放して帰ってくっかよ」当然拒否。「帰ってくるよアホ! もし俺が戻ってこなければこの親友を代わりに殺せ。俺は必ず戻ってくる! 帰ってくるから、そン時このタマくれてやらぁ!」こうして親友のセリヌンティウスを人質にしてメロスは故郷へ帰ります。
 そういう話なのです。なのだそうです。
 ちなみに登場人物それぞれのモデルは以下の通り。
・メロス→ 太宰本人(熱海の料理屋で豪遊、ツケの金額がエライことに!)
・セリヌンティウス→ 太宰の友人・壇一雄(なんとなく、太宰に捕まった)
・王様→ 料理屋の主人(太宰さん早く金払ってよ!)
 メロスは天ぷら屋で所持金を考えずに遊びまくってしまい、料理屋の主人から大目玉を食らいます。「菊池寛に金を借りてくる」と言い残し、セリヌンティウスを人質にして東京へ帰りました。ちなみに作品と現実は多少食い違っており、太宰メロスは待てど暮らせど帰って来ませんでした。セリヌンティウスと王様が東京まで探しに行くと、メロス、井伏鱒二の家で将棋を指していました。素敵な信頼関係ですね。
 太宰メロスは見事に親友を裏切ったわけですが作中のメロスは裏切りたい衝動に駆られたりヘトヘトになったり様々な困難に出会いますが走り抜き、アッパレ戻ってくるわけです。その、感動のラストシーン。これを紹介します。原文を朗読するので聴いて下さい。見る者の涙を誘わずには置かない感動スペクタル。お涙ちょうだいもイイトコの友情物語。
 ぜひお読め、お読め、おー嫁サンーバー。
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ(笑)。何一つ考えていない(笑)。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った(笑)。
「待て(笑)。その人を殺してはならぬ(笑)。メロスが帰って来た(笑)。約束のとおり、いま、帰って来た(笑)。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもり(笑)であったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり(笑)、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない(笑)。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく(笑)。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、「私だ、刑吏!(笑) 殺されるのは、私だ(笑)。メロスだ(笑)。彼を人質にした私は、ここにいる!(笑)」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた(笑)。群衆は、どよめいた。あっぱれ(笑)。ゆるせ(笑)、と口々にわめいた(笑)。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである(泣)。
「セリヌンティウス(笑)。」メロスは眼に涙を浮べて言った(笑)。「私を殴れ(笑)。ちから一ぱいに頬を殴れ(笑)。私は、途中で一度、悪い夢を見た(笑)。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁(笑)する資格さえ無いのだ。殴れ(笑)。」
 セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く(笑)メロスの右頬を殴った(笑)。殴ってから優しくほほえみ、「メロス、私を殴れ(笑)。同じくらい音高く私の頬を殴れ(笑)。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った(笑)。生れて、はじめて君を疑った(笑)。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁(笑)できない(笑)。」
 メロスは腕にうなりをつけて(笑)セリヌンティウスの頬を殴った(笑)。
「ありがとう、友よ(笑)。」
二人同時に言い、ひしと抱き合い(笑)、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた(笑)(笑)(笑)。
 どうです。言わば、マルセル・デュシャン『LHOOQ』 の文章版です。権威なんて、チョロッとヒゲを足すだけでバカバカしく豹変します。太宰とボクらの間に横たわる差なんて、ヒゲです、ヒゲ。(誤解)
 ナポレオンの名言「荘厳から滑稽は一歩でしかない」を実感して下さい。というマジメな教訓をもってこの朗読劇を締めさせていただきます。バイナラ。



第三十六章
 と、本筋とは毫も関係のない駄文で十章ほど思うさま時間稼ぎをしていたら、おやまあ作者の思惑通り自伝の中の時間が順調に経過しているではありませんか。夏に交際を開始した八郎と和美でしたが、時は流れ、数週間後に迫ったクリスマスについて相談していますよ。場所は和美のアパート、ベッドの上の布団の中です。いつもの事ながら、和美が八郎を誘ったのです。
 この積極性。八郎を圧倒し牽引するこの行動力。京女がみんな控えめでおしとやかだと思うのは世間の偏見です。中にはうちの母のような女性もいます。思慮分別なく物事を一般的なイメージに当てはめて考えるのは良くありません。──全ての京都人がどすえおます口調を使うと思ったら大間違いですよ。あのはんなりした喋り方は、(年配の方は別として、)舞妓さんや旅館の女将による職業上のリップサービスです。
 京女は物腰が柔らかいはずだ? 内助の功に務めない出しゃばりは京都の女ではない?だから、おまえの母親は京都の気風から逸脱したあばずれだ、ですって? へぇ。その論法で行けば、沖縄人は全員泳ぎが達者で、九州男児はあまねく実直で女に弱く、高知の人は三食うどんを食べていて、広島カープファンにあらずば広島市民にあらず、大阪人は誰もがお笑い好きで乱暴者、名古屋人はみんな車のキーをチャラチャラ言わせながら「エビフリャー」を注文し、東京人は総員ロボット人間、横浜の人間は例外なく洗練されていて、チバラギの若者はことごとく暴走族に所属、津軽の人は上京してもズーズー弁しか喋れず、北海道の全住民はスキーが大スキー、なのですね。へぇ。イタリア人は陽気で、ドイツ人は頑固で、フランス人は絶倫で、イギリス人は変人、と。これがもし、冷静沈着なイタリア人だったり、豪放磊落なドイツ人だったり、肌の黒いフランス人だったり、平々凡々なイギリス人だったりしたら、その方は非国民なのですか。へぇ。勉強になりまーす。
 あ。あなたが変な異説を唱えたから話の流れが完全に逸れてしまいましたよ。まったくもう。自分の主義主張が絶対正しいと決めつけて、他人を型に押し込もうとする……。もしやあなた、アメリカ人ですね?



第三十七章
 下から上に向かってビヨ~ンと伸びていく一本の筋に、ステレオタイプな県民観が右の方から茶々を入れたので、物語が左側によれてしまいました。ああ、『トリストラム・シャンディ』第六巻第四十章に掲げられている「作品の経過を示した曲線」も、諸方から横槍を入れられたためにあれほどまでにねじ曲がったのでしょうね。妨害工作ほど卑劣でいやらしい行為もありません。
 そこをなんとか踏ん張って軌道修正。<わたしという人間を形作る二大要素=卵と種>を持ち寄る事となる男女が、数週間後に迫ったクリスマスについて、和美の布団の中で相談しています。営みを終えたあとのピロートークです。
 和美は正直ブスですが、以前お伝えした通り個々のパーツがデカく、養豚場に出荷しても遜色無い豊満なヒップとバストでしたし、ポルノ雑誌のモデル募集に楽々合格できる女性的な肉付きをしていましたし、刺身にして高級料亭の皿に並べても恥ずかしくないプリンプリンの肌をしていましたから、鼻さえ見なければ八郎も悪い気はしなかったのではないか、そう思えます。
 けれどこの八郎のげんなり顔。この不満の原因は彼の特殊な性癖から来ています。その特殊な性癖は二種類ありますが、まず、以前に軽く触れた通り彼は小児性愛者です。であるからして和美の成熟した女体に魅力を感じていないのです。もっと骨張ってゴツゴツした未成熟な体付きが好みなのです。我が父親ながらとんでもない変態性欲の持ち主です。
 さらに、もう一つの性癖、こちらは致命的なのですが、彼は男色家でした。なんと。なんとまあ。これではげんなり顔になるのも当然です。いくら素晴らしい女性と同衾しても満足できようはずがありません。
 一般的な男性から見れば(鼻を除けば)充分に抱き甲斐のある和美でしたが、八郎にとっては小児・男性、いずれの条件も満たしていないただの肉塊でした。
 それでもなお彼らが交際を続けていたのは、八郎自身が消極的なのと、和美が人を車ではねるほど積極的なのに起因します。こうなってくるとまるで八郎は政略結婚で敵方に送り込まれたお姫様と同様で、好きでもない異性に服従し、奴隷的な生活にも忍従しなければならない……心が軟禁されているようなものです。そう、彼の基本的人権は「責任取ってよねっ」の鉄球に足枷をされ、鼻の塔の中に幽閉されているのです。
 塔の中の一室に膝を抱えて蹲っている八郎の自我でしたが、しかし決して自由をあきらめていた訳ではありません。毛の高いゴワゴワした敷布に粘っこく絡み取られながらも、二つの窓から覗くすがすがしい青空と、その下に広がっているであろう平野に想いを馳せていました。確かに鼻の塔からの脱出は困難で、脱出しようとすれば凄まじい吸引力でズズーッと連れ戻されます。しかしどうにかして塔の主である魔女を出し抜けば自在に外の世界を飛び回れる日がきっと来るはずだ。八郎はそう信じて別れの切り出し方を色々と考えました。
「仕事を辞めて東京に帰る。だから別れよう。」ああ、ダメです。絶対実家までついてきます。
「俺は病気持ちだ。だから別れよう。」それはむしろ和美の方かも知れません。
「他に好きな人ができた。だから別れよう。」いや、これは言わない方が良いでしょう。どういう結果が訪れるか、想像するだけでもゾッとします。(八郎の本能もその危険性を直感したらしく、この言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、それを振り落とすように頭を左右に降りました。)
 他にも様々な対策案を練ってみましたが、どうも小細工を鏤めた嘘は和美には通じそうにありません。単刀直入に「君の事が嫌いだ」「君とはうまくやっていけそうにない」「実は俺、ホモなんだ」くらい言えたら何かしら進展がありそうですが、それらの言葉を和美に伝えるのは気の弱い八郎には到底無理でした。しかし、こちらから別れ話を持ち出さなければ、あちら様は一生解放してくれそうにありません。
 言うぞ、言うぞ、今日こそは言うぞ、今日こそは言うぞ。……明日こそは言うぞ。言うぞ、言うぞ、今日こそは言うぞ、言うぞ。……明日こそは言うぞ。──この繰り返しに煩悶としたまま日々は無情に過ぎ、いよいよクリスマスまであと数週間なのです。
 あれ。話が全然進展していない。元に戻ってしまいました。
 ともあれ、クリスマスまでに別れ話を切り出さなければ大変な事になりそうだ、婚約をさせられた日にはもはや逃げられない、と、八郎は強く自覚していました。そんなわけで、横で和美が嬉しそうにあーでもないこーでもないとクリスマスの予定を提案するのを、彼は気乗りせずに聞き流していました。その視線は天井の蛍光灯の間接照明に据えられ、その表情は脱獄を企てる囚人のように堅く緊張していました。果たして我が父・八郎は、我が母・和美から逃げられるのでしょうか。
 まあ、逃げられないのですが。(彼に逃げられてはわたしが生まれませんから。)



第三十八章
「ねぇ。ちょっと。聴いてるの?」
「なんだようるせぇなぁ。聴いてるよ。」
「クリスマス、どうする?」
「ああ? クリスマスだぁ? まだまだ先の話じゃねぇか。」
「え~っ。そんなことないよぉ。町は十一月の初めからクリスマスムードに染まるしさぁ。ね~え~。」
「それにしたって早いよ。それまでつきあってるかどうかも解らないし……。」
「えっ。何それ。ひどくない。別れるって事?」
「いや、違うよ。もしもの話だよ。」
「違わない。他に好きな人がいるんでしょ。」
「いないよ。」
「ウソ。好きな人がいるんだ。」
「いやいやいないって。いないってば。」
「いるんだ。」
「信じろって。おまえだけだって。俺が好きなのはおまえだけだって。」
「ホントに?」
「本当だよ。」
「ホントにホント?」
「ああ。愛してるよ。」
「もう……。バカ……。」
「ごめん……。」
「だきしめて。」
「……。」
「……ありがと。」
「……。」
「このままクリスマスまで離さないで。」
「離さないよ。ずっと離さない。」
「約束だよ?」
「約束だ。」
「わたし、大好きな人と一緒にクリスマスを過ごすのが夢だったんだ。」
「うん。」
「ステキなクリスマスにしようね。」
「ああ。まだまだ先だけどな(笑)」
「えへ。」
「でも、あっという間かも知れないな。好きな人といると時間の流れるのが早くなるから。」
「そうだよ。半年なんてあっという間だよ。」
 書いていて、不覚にも涙がこぼれ落ちました。
 今年(二〇〇六年)の六月初め、わたしは喫茶店で魁斗くんとこんな話をしたのです。幸せでした。あの頃は毎日が輝いていました。まさかこの時点ではあと二月足らずで破局を迎えるとは思いもしませんでした。あんなに愛し合っていたのに。七月三十日の日曜日。忘れられない日です。



第三十九章
 父と母の会話を書こうとしていたのに、ついつい自分の思い出話を書いてしまいました。改めてどうぞ。
「ねぇ。ちょっと。聴いてるの?」
「うん。聴いてるよ。{なんだようるせぇなぁ}」
「クリスマス、どうするー?」
「どうしようかね。{ああ? クリスマスだぁ? それまでには絶対別れてやる!}」
「とりあえず、」
{どうやって別れ話を切り出そう。}
「仕事が終わったら、」
{「仕事を辞めて東京に帰る。だから別れよう。」}
「他の社員に見つからないように待ち合わせして、」
{ダメだよなぁ。実家までついてきそうだもんなぁ。}
「河原町あたりの綺麗なレストランでー、」
{なにか後腐れのない言い方はないか。}
「フランス料理を食べてー、」
{「俺は病気持ちだ。だから別れよう。」}
「特別な日だから、ちょっと奮発しちゃおうね!」
{ダメだよなぁ……。信じてもらえないだろうし、「それでも好き」とか言いそうだし、}
「それでー、」
{最悪の場合、「あたしのが伝染ったの?」とか言いそうだしなぁ。}
「ねぇ。聴いてる?」
「うーん。{他には……}」
「あんまり乗り気じゃないみたいだね。」
「うーん。{「他に好きな人ができた。だから別れよう。」}」
「えっ。何それ。ひどくない。」
「いや、ごめん。ごめん、ちがうんだ。ちがうんだよ。{ダメだダメだ危ない危ない!}」
「何よおおげさに首を振っちゃって。何か考え事でもしてた?」
「え、いや、まあ、その。俺もさ、どうしようかなって考えてるんだよ。{どう言おうか。}」
「誰か別の女の子のこと考えてたんじゃないの。」
「いや、違うよ。そんなわけないじゃん。{なんかヤバいな。}」
「違わない。他に好きな人がいるんでしょ。」
「いないよ。{うわー。}」
「ウソ。好きな人がいるんだ。」
「いやいやいないって。いないってば。{好きな人はいないよ。}」
「いるんだ。」
「信じてよ。{誰も好きじゃない。}」
「ホントに?」
「本当だよ。{おまえも好きじゃない。}」
「ホントにホント?」
「うん。{俺は全ての人間が嫌いなんだ。}」
「心配させやがって、このバカ野郎。」
「ごめんなさい……。{みんな嫌いだ。}」
「でね、」
「はいはい。{もっと直接的に意思表明をした方がいいのかな。}」
「ごはんを食べ終わったらー、」
{「君の事が嫌いだ」とか、}
「鴨川沿いをドライブしてー、」
{「君とはうまくやっていけそうにない」とか、}
「それから……」
{「実は俺、}
「ホテル行こっかぁ。」
{ホモなんだ」}
「な~んちゃって! キャハッ☆」
{なーんて言えればなぁ。}
「ちょっと大胆だったかなぁ?」
{俺がもう少し大胆になれればなぁ。}
「……おいっ!」
「えっ。えっ。{我ながら情けない、この気の弱さ!}」
「またボーッとしてる。」
「いや、聴いてるよ。ちょっと驚いたんだ。{でも、男は言うべき時には言わなきゃ。}」
「そうなのー? 今更ホテルに外泊するくらいで驚く~?」
{そうだ。言わなきゃ!}
「ハチ公かーわいい♪」
{取り返しの付かない事態に陥る前に、言わなきゃ!}
「照~れちゃってー。」
{言わなきゃ。「別れてくれ」って、言わなきゃ。}
「あたしたち、こんなに深い仲になってるのに。」
{言うぞ、}
「じゃあ、ホテルの予約はあたしがしておくね。」
{言うぞ、}
「楽しみにしててね。」
{今日こそは言うぞ、}
「今日は泊まってく?」
{今日こそは言うぞ。}
「ね~え?」
{言うぞ。}
「泊まってくんでしょー?」
「あ。はい。{……}」
「やーん。ハチ公あたしに首ったけ~。」
{……明日こそは言うぞ。}



第四十章
 翌日もその翌日も八郎は結局「別れよう」が言えず、日々は不穏に過ぎ去りました。──結局そのままクリスマス・イヴを迎えてしまうのですが、突然「クリスマスになりました」と書くと読者は面食らうでしょうね。なぜって、この自伝の進行は極めて遅鈍です。ゆるゆるとした速度で展開しています。そこへ持って来ていきなり数週間分の月日をすっ飛ばしたらなんぼなんでも不自然です。今まで綿々と一九八八年の出来事を書いていたのに、新しい章になった途端「そして二〇〇〇年」と書いてあったらどう感じますか。十二年の時間的空白をどう説明しますか。これがもし小説なら「それから、数年後」でも別に良いのでしょうが、それは小説が〝作り話〟であるから許されるのであって、伝記のような記録文学には不向きな表現であるのは明白です。必ずや読者は「おい、その間に何があった」と問うに決まっています。たとえば、昨日一九八八年の新聞を読んでいたはずなのに、今日届いた新聞が二〇〇〇年付けだったらみなさんはどう思うでしょう。はてな俺は浦島かしらんと思ってしまっても不思議ではありませんし、あらあらもしかしてわたし記憶喪失もしくは意識不明だったのかななどと自分の正気を疑うのではありませんか。まさかタイムマシンに乗りやしないし。──であるからして、それまでの慣例的な時間形態を破壊するような急激な場面展開は避けるべきです。章を改めたからと言って断りもなく新局面に読者を拉致したらいけません。読者は面食らいます。
 だけど、時には叙述を省略するのも必要です。これはわかってほしい。クリスマスまでの数週間の出来事を余さず書くとなると大いなる弊害が生ずるからです。試しに、ごく簡便に和美の或る一日を書いてみましょうか。
「和美はいつも通り七時に目覚め、顔を洗い、朝食を採り、歯を磨き、トイレに入り、ナプキンを直し、化粧をし、いつも通り八時半に会社へ出勤した。いつも通りに午前の業務を済ませ、昼食を採り、いつも通りに午後の業務を済ませ、六時に退勤し、買い物をし、帰宅し、夕食を作り、テレビを観て、お風呂に入り、テレビを観て、八郎に電話をし、十一時半に就寝した。」
 参考までに、その翌日の行動も書いておきましょうか。
「和美はいつも通り七時に目覚め、顔を洗い、トイレに入り、朝食を採り、歯を磨き、化粧をし、いつも通り八時半に会社へ出勤した。いつも通りに午前の業務を済ませ、昼食を採り、いつも通りに午後の業務を済ませ、六時に退勤し、買い物をし、帰宅し、テレビを観て、夕食を作り、テレビを観て、八郎に電話をし、お風呂に入り、テレビを観て、十一時半に就寝した。」
 こんな物を数週間分も読まされるのは勘弁です。ちっとも面白くありません。省略の必要性がご理解いただけたでしょうか。書くべき素材は取捨選択しなければなりません。──ここが悩み所です。伝記には不条理な時間の空白を差し挟んではいけませんが、さりとて筆に及ばすに足らぬ日常の風景を並べるのも考え物。省略すると不自然、省略しなければ退屈。相反する二つの難題。両方を解決するために何か良い方法はないものでしょうか。
 そこで恒例の水増しです。作中の彼らには彼らのつまらない生活を消化してもらうとして、作品の表面は本筋から外れた脱線で塗り潰しておきましょう。こうすれば不自然も退屈もクリアーする事ができ、作品の生命を損なう事がありません。
 さて肝心の脱線の内容ですが、これは何でも良いというわけではなく(何でも良いとしたらわたしは制服のネクタイに関する私論をぶち上げるでしょう。しかし制服のネクタイは本筋の現在とは全く関連性がなく、ここに書くべきではありません)、ここはやはりクリスマスに関する文章が無難でしょう。だけどそれにしたってセント・ニコラウスがサンタ・クロースの由来だとか、世界で最初に靴下に入ったプレゼントは金貨だとか、サンタの服が赤いのはコカコーラの陰謀だとか、そんな蘊蓄はやめておきましょう。他の誰かが既に書いている事ですし、頭で作った文章は読む人の心に訴えません。ゲーテも述べています、心の中から出てきた言葉でないと人の心を感動させる事は出来ないと。ですからわたしはこれから──
 あ。クドクドと書いていたのが幸いして、作中の八郎と和美はいつの間にかクリスマス・イヴを迎えたようです。あー良かった。これって不自然じゃありませんよね。わたしが時間稼ぎをしていたその裏舞台で彼らは平凡な数週間を成就してくれた、と。うんうん不自然じゃない。良かった良かった。これでようやく運命の夜について筆を伸ばせますよ。



第四十一章
 一九八八年十二月二十四日。わたしにとってこの日がどれほど重要か。──わたしの誕生日は一九八九年十一月五日ですが、このクリスマス・イヴは「わたし出現記念日」と称しても何ら差し支えはないくらい、わたしという存在にとっては大切な日なのです。
 第一、わたしは父ほど誕生日に拘りを持っていません。「誕生日」と言えば聞こえは良いですが、どちらかと言えばあれは母にとっての「出産日」です。妊婦が産みの苦しみを耐えて新たな生命をひり出した思い出の一日であり、いわば入学試験の合格発表日みたいな物です。
 誕生日以前にわたしがこの世に存在していなかったかというと決してそんなわけはなく、まだ娑婆にこそ出てはいませんでしたが歴として母の胎内に存在していたわけです。子宮から飛び出したのが偶々十一月五日だったというだけの話で、大層に「誕生日」なんて言われると自分の胎児時代を否定されるようで心外です。わたしという存在は十一月五日以前にすでに存在したのです。何の前ぶれもなく十一月五日に降誕したわけではありません。ですから、わたしは自分の誕生日に格別の想いはありません。出産予定日よりも二三日遅かったですし。
 それよりも感慨深いのは一九八八年のクリスマス・イヴなのです。この日こそが、わたしという存在が世に現れ始めた最初なのですから。二親の愛が(あったかどうかと問われればあまり無かったのですが)結晶したその日。誕生日なんていうあやふやな物よりも確実で重要な日。後背位や対面座位によって高まり騎乗位に結実した交配の日。──わたしの歴史はここから始まると言っても過言ではありません。
 「過言ではありません」という事は、要するに「言い過ぎではない」「言い切ってしまってもそれほど差し支えない」「むしろ断言しても良い」という事です。ですから、(今までは父母本位の記述でしたが)そろそろわたしを中心に据えて自伝を書き進めて行ってもよろしかろうかと思います。大友克洋『AKIRA』全六巻で、第二巻になってやっと登場するアキラの如く、満を持しての登場です。
 あ、誤解を防ぐために断っておきますが、満を持しての登場と言っても「わたし」はまだヒトの形を成していません。ヒト並みの運動能力や思考能力はありません。この十二月二十四日に遺伝子レベルで存在し始めているだけであり、五体満足な人間として作中を動き回ったり、父母の言動を観察するために自由奔放な働きをしたり、父母に対して意見や感想を提示したりするわけにはいきません。なにせまだ、わたしは「わたし」に統一されていませんでした。やがて一つに結ばれて「わたし」となる〝人体中で最も小さい細胞〟と〝人体中で最も大きい細胞〟は、ご対面の時を今か今かと待ち望みながら別々の場所に控えていました。一方は父の中に。他方は母の中に。ボールの中の住人とチューブの中の住人。──便宜上「セイ子ちゃん」「ランちゃん」と名付けておきましょう(父母の青春時代のアイドルみたいでとっても可愛い)。わたしの起源、それは、東ドイツ・西ドイツがドイツへと統一されたように、セイ子ちゃん&ランちゃんによる奇跡のコラボレーションから始まるのです。
 セイ子ちゃんランちゃん共に「わたし」のもとでしたが、その境遇は著しく違いました。
 八郎の遺伝子を受け継いだセイ子ちゃんは厳しい競争社会の中に生まれました。彼女の生まれたボールの中には一億二千万の仲間たちがひしめいていました。彼らは皆一様に似た姿形をしており、行動様式もそっくりでしたが、それでもやはり様々な個性があり、他を出し抜こうとする腹黒い者がいたり、己の身一つを信じて独立独歩する者がいたり、盲目的に多数に迎合する者がいたり、好機を虎視眈々と窺う狡猾な者がいたり、と、人間社会の縮図とも言えるありさまでした。そんな苛酷な環境の中で、綺麗で優しくて賢いセイ子ちゃんは、けなげに生活していました。えらいですね。
 和美のDNAを預かったランちゃんは温室育ち。何のわずらいも無い世界に生まれました。彼女の生まれたチューブの中には彼女以外の誰もおらず、気兼ねも苦労もありませんでしたが、ちょっとさみしかったのは事実。大奥のような深閨で日がな一日を過ごし、白馬に乗った王子様が訪れるのを夢見つつぬくぬくと暮らしていました。しかし、そんな可愛くて感受性豊かで鼻もそれほど大きくないランちゃんも一つだけ悲しい宿命を背負っていて、それは美人薄命だという事。セイ子ちゃんに比べると随分と寿命が短かったのです。(仮にランちゃんの寿命が一世紀だとするとセイ子ちゃんの寿命は三世紀になる計算です。)(え。何ですか。どこかおかしかったですか。)(何ですって。「三世紀も生きる者はいない」とおっしゃいますか。)(そうですね。長寿と名高いあの『大鏡』の語り手たちでさえ二百歳弱ですからね。)(だけどアダムやノアは一千歳近くまで生きましたよ? セイ子ちゃんが三世紀生きても不思議ではないでしょう。)(ああ。アダムやノアは、神様の血を濃く引いていたから長生きだったのですか。そう言われては立つ瀬がないなぁ。)(じゃあ、あの人。サン・ジェルマン伯爵。あの人なんかは不老不死でしょう。死にましたが。)(まあ、さすがに納得いただけましたよね。)(もう。いい加減にして下さいよ。インドの哲人・仙人たちだって自称数百歳ですから、三世紀生きたってちっとも不思議ではないのです。)(あー、もう。そうですよ。あーそうですよ。そう。三世紀っていうのはちょっと言い過ぎましたよ。実際には三日ですよ、三日。)(……うるさいなぁ)(……ブツブツ)
 さて、セイ子ちゃんとランちゃんを読者に紹介している間に作品内の時間は滞りなく進行し、「ごく一般的な商社」は終業時刻を迎えました。ランちゃんを蔵した和美はすぐさま会社の門前へと移動し、セイ子ちゃんを蓄えた八郎を待ちました。今日はあきらかに化粧が濃い。
「ごめん。待った?」
 やや遅れて登場した八郎は心なしかあまり元気が無く、これから和美が恋の罠を仕掛けるであろう事を薄々察知していながらも逃げ場がなく絶望しているといった趣です。
「待ったよ。バカ。」和美には遠慮がありません。「早く行こ。」
 肩を並べて歩き始めたふたりはおしゃべりをしながら鴨川方面へと西進します。──おしゃべりの内容はここからはよく聞き取れません。ここからは。つまり、二〇〇六年現在からは。
 二〇〇六年からの傍受が困難ならば、じゃあ、一九八八年当時に生きるセイ子ちゃんとランちゃんに諜報させればいいじゃないか。と、そういう助言をする人もあるかも知れません。なるほど尤もなアイディアです。歩行のため交互に前方へと投げ出される二本の足かける二、その付け根部分中央に君臨する彼らですから、八郎と和美の会話は頭上から筒抜けだった事でしょう。セイ子ちゃんに至ってはほとんど八郎の身体から突出しているような土地に居を定めていたので風景の描写もあるいは可能だったかも知れません。しかし如何せん彼らには感覚器官が備わっていませんでした。せっかくの才知溢れる助言ではありましたが斯くの如き理由から採用は見送らせていただきます。あらかじめご了承下さい。
 そうこう書いている内に、連れ立ったアベックは川端一条バス停に到着しました。ランちゃんそしてセイ子ちゃんとその仲間たちは和美八郎それぞれの脚部の上に安定しました。
 バスが来るまでしばらく時間があります。恋人たちは奔放な会話を楽しんで時間を忘れる所でしょうが、わたしたちはどうやって閑暇を潰しましょうか。そうですね、ちょうどバス停の前に女学園がありますので、わたしの学校生活の話でもしてみましょうか。あ、これはまだ書かない方が? そうですよね。確かにそうです。この自伝は編年体の形式を採っていますから未来の事象を筆に上らすのは反則ですよね。ですね。でも、じゃあ、どうしよう。母の実家の東に大将軍小学校という壮烈な名前の小学校がありますが、その話でもしますか。
 あら、そうこう書いている内にバスが来ましたよ。
 ここまで歩調を合わせて頑張ってきた両者でしたが、この時はランちゃんが先にバスに乗り込みました──「乗り込みました」という自動詞はおかしいか──ランちゃんの世話を一手に引き受けている女性がランちゃんをセイ子ちゃんよりも早くバスの中へと引き入れました。続いてセイ子ちゃんとその仲間たち──仲間たちという語も適切ではないか──あとに続くのはセイ子ちゃんとライバルたちです。
 セイ子ちゃんとランちゃん、バスに乗るのは初めてでした。だってセイ子ちゃんは昨日製造されたばかりですし、ランちゃんなんかさっきこの世に生まれたばかりですから。見るもの聞くもの全てが新鮮(彼らに感覚器官があれば)、全てが初体験でした。
 世のお父さんお母さん並びに世のお父さん候補お母さん候補に是非ともお願いしておきたいのですが、体液交換の際には入念な注意をpayして下さい。娯楽享受への代価として注意を支払って下さい。我がトリストラム・シャンディ氏も、最中に母が場違いな質問で父の気を逸らしたから自己の運命が狂ったのだと嘆いています。
 医学の進歩によって胎教の重要性が世間一般に認識されて来たのは実に喜ばしい風潮ですが、それ以前の、セイ子ちゃんとランちゃんのお見合いの演出にも力を注いで欲しいものです。いや、さらに遡る事それ以前、若い人たち(=ここではセイ子ちゃんとランちゃん)が見合いの場に赴くまでの教育にも心を砕いて欲しいものです。
 と申しますのも、バスですよ、バス。誰そ彼の刻とて車内は大変に混雑していたのですが、これがいけませんでした。押すな押すなのおしくら饅頭、かてて加えて道路も渋滞、信号の度に前後に揺すれる車体。生まれてこの方これほどの動揺に襲われた経験はなく、セイ子ちゃんランちゃんは目を白黒させ(目があればの話ですが)、乗り物酔いで吐き気を催しました(これは事実だったようです。吐けませんが)。
 その影響でしょうか──いや、その影響です。京都では府内全域をバスが走っていて、バス路線の充実だけなら東の京都にもおさおさ劣らないと自負しているのですが、わたしゃこの便利な交通機関が生理的に苦手で。生理的にというのはア・プリオリ(先天的)な性質であり、本人の努力工夫程度ではどうにも解消できません。これはまさしく胎教以前にも無茶は禁物である事の証左に他ならないのです。
 かつて味わった事の無い責め苦に(主にセイ子ちゃんが)精神的外傷を立派に完成させた頃、バスはようやく三条に到着しました。
 本日のデートプランは、フレンチレストラン「Subtle」でちょっと奮発した晩餐を供し、その後おしゃれなシティーホテル「Woffell」に雪崩れ込むという流れ。当初はその間に車でのドライブが予定されていましたが、お酒を嗜むために断念したようです。プランはすべて和美の手中でした。ドライブで気持ちを高めるより軽い酩酊状態にした方が得策と考えたようです。
 ──和美は数日前に、この自伝でいえば第四十二章の辺りにて、女性向けファッション週刊誌『Ambrosia』を購いました。五十六ページから五十九ページに掛けて「意中のあの人を落としちゃえ!? クリスマス大作戦!」という特集が組まれており、和美はこれを熱心に精読しました。曰わく……「男性は少し酔っていたほうがいいよ。ベロンベロンに泥酔していたらダメだけど、ホロ酔いかげんがベスト。どうしてかってゆーと、興奮してケモノのようにせまってくるし(イヤン☆)感覚がにぶくなるから気持ちよさがおさえられて長く持続するし、一石二鳥なんだよ~。/多少やわらかくなっちゃうのがこの裏技の弱点だけど、でも、入ったのにすぐ出るっていう、ヒヤカシ客みたいなサイアクの結果を回避するには、この方法が一番いーよ☆」だそうです。この戦術で事を優位に進めようとしたからこそ、和美は八郎にアルコールを摂取させようとしたのです。
 また、同じ特集内には、女性のための便法も書いてありました。曰わく……「女性はおふろに入ったほうがいいよ。もちろん、好きな人に対するエチケット、っていう意味もあるし、くさいと思われたらショックだから身を清めるの当たり前、っていう意味もあるけど、それだけじゃないんだ。/入浴した直後はカラダがあったまるよね。カラダがあったまると、当然だけど熱をおびて、とてもイイ具合になるんだ。それに、アセも出る。え、アセはニオっちゃうんじゃない~? とアセっちゃう、そこのオチャメさん。メッ。ちょっとオッチョコチョイだぞっ。アセばむのは悪いことじゃないよ。アセはかわいてからクサくなるものだからダイジョーブご安心めされ。アセばむのはイイことなんだ。だって実はアレもアセの一種だから、お風呂に入ってアセをかいたあとはぬるっとしてとても具合がよくなるんだよ☆/だから、シャワーはカレシより後に浴びよう。ホテルでほてるのはすぐ目の前!!」だそうです。ダジャレで終わっている所が何とも八十年代の女性週刊誌らしくて素晴らしいですね。
 そんな奸計を八郎は露知らず、和美に従って冬の河原町を繁華街に向かって歩きました。
「寒いね」
「うん」
「手、握って」
「……」
「ハチ公の手、あったかぁい」
 両者の間にそんな会話が交わされたかどうかは時間旅行でもしない限り確認するのは不可能ですが、地の文ばかり読まされていては疲れるでしょうし、読者サービスとして、 〝交わされたであろう〟会話文をご用意させていただきました。
 ──まだ足りませんか。しょうがありませんね。じゃあ、もう少し会話させましょう。
「つきあいはじめてからもう四ヶ月になるね」
「そうだね」
「大好きだよ」
「ああ。俺もさ」
ハチ公が何者かの車によって轢き逃げされた有事の際にはどうなる事かと随分心配したけどこうして今日まで五体満足で元気に過ごす事が出来たのはあたしと大日如来と阿弥陀如来と菩薩様とお釈迦様と阿弥陀様がさっ加護のおかげです」「そうだね」
「あの時は本当にあせったわ。だってたかだか二十キロ程度の体当たりで昏倒するんですもの。あなたがあれほど虚弱だとは思わなかったわ」
「そうだね」
 残念。でっちあげた会話文というのは艶のない嘘くさい作り物となるもんです。適当に添削しておきましょう。
「ハチ公が何者かの車によって轢き逃げされた有事の際にはどうなる事かと随分心配したけどこうして今日まで五体満足で元気に過ごす事が出来たのはあたしと大日如来と阿弥陀如来と菩薩様とお釈迦様と阿弥陀様がなさった加護のおかげです」
「そうだね」
あの時は本当にあせったわ。だってたかだか二十キロ程度の体当たで昏倒するんですもの。あなたあれほど虚弱だは思わなかったわ」「そうだね」
 八郎・和美・セイ子ちゃん・ランちゃんの四者はフレンチレストラン「Subtle」に到着しました。八郎が重いドアを引くと「いらっしゃいませ」ボーイが深々とおじぎをし「どうぞこちらへ」予約していた席に案内してくれました。
 クリスマスですから店内は予約客でいっぱいでした。が、各テーブルが余裕を持った距離を保って配置されているので混雑している感じはなく、ゆったりとした雰囲気に落ち着いていました。
 店の隅にはグランドピアノが据えられており、髪をコテコテのオールバックに塗り固めたタキシード姿のピアニストがWaltz for Debbyを演奏している最中でした。時折どこからかフォークやナイフを使う音がアクセントとして添えられます。
 控えめな照明の中を、ボーイの後に続いて奥へと進むセイ子ちゃんとランちゃんとその持ち主たち。このような格調高いお店に和美は慣れていましたが、八郎は行くとしたらファーストフード店かせいぜいファミリーレストランくらい、あきらかに緊張しています。が、その緊張を顔には出さず、さも馴染みの店でございと言わんばかりの態度でのっしのっしと闊歩して行きます。うぶな人のあからさまな虚栄心って端から見ると非常に微笑ましい。
 セイ子ちゃんとランちゃんは壁際の席に通されました。テーブルは半坪ほどの面積、清潔なテーブルクロスが掛けられており、中央には薔薇の花を生けた花瓶が置かれています。整然と並べられたフラットウェアを前に、八郎と和美は向かい合って背もたれの長いイスに座りました。バスに酔ったセイ子ちゃん・ランちゃんは、二人の男女が座る事によってようやくのこと安住の地に落ち着きました。
 ここで店の様子を描写しておきましょう。
* * * * * * * * * * * * * * * *
 と思いましたが、なかなか難しい物です。どこまで描写の筆を伸ばしていいものやら。店内を隈無く活写するとすれば、これはもう、万単位の文字数が必要でしょう。たとえば、店の簡単な間取りを表すだけでも、文章でやろうとすると一苦労です。これが文章じゃなければ、妹尾河童式のスケッチを描いたり、なんならレストランのオーナーから間取り図を借りてきて貼ればイッチョアガリです。文章は不便な物です。
 わたしの高校の国語教師・野辺山先生は「文章に表現できない物はない」と生徒に触れ回っていますが、あんな物は日本語に対する妄信に他なりません。ああいうデタラメを学校という場所で吹聴しないでほしい。知識の無い人々に対して教理を押し付けるカルト教祖と同じ事で、洗脳にも劣らない重大な反社会的行為だと思います。「文章に表現できない物はない。緻密な油絵ですら文章によって表現できる。──もしその絵画の情報量が八万語だとすれば、八万語の文章によって完璧に模写できる。」バカかと思います。どうやってピカソの前衛美術を文章で完璧に表現するというのでしょう。出来るわけがない。やるとすれば、「絵画の左上隅を原点Oとし、鉛直方向をy軸、水平方向をx軸とする。y=1マイクロメートル・x=1マイクロメートルの時の色彩は、CMY値50・104・36である。/y=1マイクロメートル・x=2マイクロメートルの時の色彩は、CMY値50・104・36である。y=1マイクロメートル・x=2マイクロメートルの時の色彩は、CMY値50・103・36である」とでも書いていくのでしょうか。バカらしい。こういう輩は、そのうち、「それだけでは完全に絵画を再構成できない」とか言い出し、ミリ・マイクロから次第にエスカレートしてナノ・ピコ・フェムト・アト・ゼプト・ヨクトのミクロ世界を顕微鏡で覗き込むようになり、終いには「む。この部分は粉絵の具と卵黄から成るテンペラを使っているな」などと成分を分析するようになるのでしょう。──先生。わたしは到底ついていけそうにありませんので先生方だけで勝手にどうぞ。
 本自伝の第十六章で「遺漏なく自伝を完成させようにも、己の筆の及ぶ範囲を限っておかなければ際限がありません」とお断りをしてありました。よって、店内の描写はこれにて控えさせていただきます。「百聞は一見にしかず」という俗諺は本当で、わたしの拙い筆がひょろひょろと綴った文章などを読むより、実際に京都河原町のフレンチレストラン「Subtle」に足を運ぶ事をお勧めします。見れば一発で店内の様子が理解できます。──八郎と和美はその十六番テーブルに腰を下ろしました。
 客人の着席を確認したボーイ、左小脇に抱えた二冊のメニューを、まず、和美に。続いて八郎に。右手で恭しく差し出します。──メニューを渡す順序がレディーファーストだったのは、ボーイに英国紳士的態度が宿っていたのか、はたまた両者の力関係を察知して気を使ったのか、どちらだったかはボーイ本人に聞いてみない事には解りません。みなさんはどちらだったと思いますか。そりゃ確かに、八郎は金魚のフンのように和美の後にくっついて歩いてましたし、席に着いてからもあからさまに窮屈そうな堅い表情でした。しかしだからと言って英国紳士
 どうでも良い事なので話を先に進めましょう。メニューを受け取り、何気なくひらいてみた八郎は目を剥きました。{こ、こ。これは……!}表には出さないよう必死にこらえていますが、あきらかに動揺しています。{この、日本で。ししししかもこここ古都・きょきょ、京都で。由緒正しき、伝統ある、日本の中の日本、この京都で、ふ、フランス語のメニューを渡すとは!}メニューはフランス語のみで書かれていました。八郎は英語は読めますが、フランス語はメルシーボクーくらいしか知りません。{漫画やテレビでこんなシチュエーションを見かけた事はあるが、よもや自分が同じ目に遭うとは……。}漫画ならば、ここでおでこからほっぺたに掛けて冷や汗を一筋垂らすのが順当な所。{だからこんな気取ったレストランなんかイヤだったんだ。どこの高名なフランス人シェフ先生だか知らないが、日本に来たら、日本語しゃべれ!}出ました。日本に来たら日本語しゃべれ攻撃。国際交流を棚上げにする便利かつ無責任な論法です。
 和美も苦しそうな表情です。いつもの彼女ならば涼しい顔をして「読めないんだけど。日本に来たら日本語しゃべれ」くらい平然と言ってのける所ですが、時も時クリスマス・イヴの夜。不作法不遜な態度でロマンチックな雰囲気を壊したくはありません。なるべく、貴く、上品に、ゴージャスな食事を楽しみたい物です。
 まごまごするカップルの様子を見て取ってボーイがニッコリ微笑んで何か言いかけます。ああ、なんと察しが良い。客人が恥をかかぬよう助け船を出すつもりなのでしょう。やはり、このボーイ、先ほどレディーファーストでメニューを差し出したのは英国紳士的態度
「お決まりになりましたらお呼び下さい。」
 あら。迷える男女を置き去りにして悠々と去って行こうとします。英国紳士的態度もへったくれもありませんでした。考えてみたらこれ以上ないくらいの日本人顔です。英国紳士的態度など望むべくもありません。
 このままでは異国の地に放り出されて手も足も出なくなります。「ちょっと待って」すんでの所で同国人を呼び止めた和美は、意を決して「おすすめは?」と訊ねました。
 するとボーイは、「当店の料理長・松田シェフが腕によりをかけたクリスマス・スペシャルコースが今晩の一押しでございます」と言いました。
 松田シェフ。
 松田。
 もろに日本人です。
「じゃあ、それで。」
 和美は一も二も無くクリスマス・スペシャルコースを注文しました。
「私もそれで。」
 八郎も和美に倣います。
「かしこまりました。」
 ボーイは厳かに胸を反らせ、さらさらと注文を書き留めます。ホッと安堵する八郎と和美。
「お飲物はいかがなされますか。」
 再度メニューを指し示すボーイ。サッと青ざめる八郎と和美。一難去ってまた一難、またもや異国語との格闘を強いられてしまいました。──もっとも、格闘とは書いたものの、どんなに頑張ったってちっとも読めないわけですから、真っ当な勝負になるはずもなく、無念の不戦敗です。
 絶体絶命のさなか、偶然にも「Bonjour nouveau」という文字が八郎の目に着きました。{これはいわゆるボジョレー・ヌーヴォーというヤツではないか。これを頼んでおけば間違いはないのではないか。}そう考えた八郎、「ボジョレー・ヌーヴォーを」と注文。これにて戦況は好転……と、思いきや。好転しなかったのです。
 この言葉を聞いたボーイは、さも申し訳なさそうに、「申し訳ございません。当店ではボージョレ・ヌーヴォは取り扱っておりません……」と返答しました。その時の、目をかっぴらいた八郎の気の毒な事ったら。{えっ。じゃあこのBonjour nouveauっていうのは何なの。ねえ何なの!?}八郎くん、あのね、(かわいそうに……)それはね、ニセモノなんです。
 結局この危機は和美が適当な値段のワインを指差して「じゃあこれをボトルで」と告げた事で乗り切りましたが、二人に取っては飛んだ災難でした。一体、松田という料理人は何を考えているのでしょうか。
 ここは日本です。日本で日本語を使うのは当たり前です。来日中の外国人だって極力日本語を使うよう努力すべきなのです。フランス人シェフだろうと何だろうと、(フランス人向けのお店ならいざ知らず)日本人を相手に商売をするなら日本人にとって便宜なよう取りはからうべきです。逆も然り。日本人が他国で働く場合は、その土地その土地の言語を曲がりなりにも習得するべきです。──さきほど、わたしは「日本に来たら日本語しゃべれ」を無責任な論法と評しましたが、日本人向けのレストランに日本語のメニューを置くのは店として当然の義務です。よしんば本場のシェフが「ぜひとも母国語でメニュー書きたいヨー」と主張したとしても、それにしたって日本語を併記するのは客に対する最低限のマナーです。
 それを、日本人の料理人がわざわざフランス語の献立表を用意するとは。一体、松田という料理人は何を考えているのでしょうか。
 フランス語に暗い事をボーイに白状せず隠し通した八郎と和美の虚栄心は、確かにブザマだったかも知れません。文学的な材料として高品質の人材だったかも知れません。しかし、しかしです。それでもわたしは、松田シェフを糾弾したい。──いえ、父母の名誉を奪回するためではありませんよ。──だってまだ、八郎と和美はわたしの父母ではありませんから。父母候補なだけですから。わたしの産みの親となる男女の最有力候補ってだけですから。
 肉親への同情・敵討ちの情を抜きにして、わたしは松田シェフを糾弾したい。
 明治時代に、英語を日本国の公用語にしようと提言した人がいました。初代文部大臣の森有礼です。いいですか。日本語を廃止して、日本国民に英語を話したり書いたりさせようとしたんですよ。いくら欧米列強の文化が当時の日本文明を圧倒していたからといって、長く培われてきた自国語を棄てよとは、いかなる料簡でしょうか。自分が英語に堪能だからと言って教育の無い層にまでこれを強いようとするのは愚の骨頂です。その行く末がどうなるかは、アメリカにそそのかされて英語を採用してしまったフィリピンを見れば明々白々です。
 ──しかしまあ、森大臣がこのような突飛な英語国語化論を唱えたのはあくまで国のためを思ってですし、もしかしたら英語になったらなったで存外うまく国が廻ったかも知れません。「フィリピンを見れば明々白々」などと断言するのは止しましょう。何事も、フタを開けてみなければどう転ぶか分からない物ですから(絶対に失敗すると目に見えていた二千円札は別ですが)。
 森大臣の暴論は大目に見てやる事もできますが、しかし、松田シェフの書いたフランス語メニューは断じて許す事が出来ません。「ミーはおフランスの言葉が読めるんざます」という、赤塚不二夫『おそ松くん』に出て来る出っ歯の井矢見相応の嫌味です。ここは日本です。日本の中心地、京都です。そこへ持って来てフランス語のメニューを堂々と開陳し、それで読めない客に恥を掻かせるというのは許せません。特権階級意識から来るそのアホさ加減には失笑を禁じえません。
 セイ子ちゃん・ランちゃん、何とか言っておやり。
「料理長を呼べ!」
「松田! 出て来い!」
「いかがなさいました」
「おまえが松田か」
「さようでございます」
「なんだこれは。このメニューは。読めんじゃないか」
「はぁ」
「きさま何だその腑抜けた日本人づらは。その顔でよくもまあフランス語なんてひねくり回せたものだな。恥を知れ」
「鏡見ろ」
「お待ち下さい。そのような事をあなたがた文字通りの単細胞に言われる筋合いはございません」
「日本人なのに、どうして日本語を使わない。ただカッコつけたいだけだろ」
「カッコつけたいという心理は確かにございますが、ただそれだけではございません」
「英語だったらまだ良かった物を。義務教育で習ってるからね」
「あたしの主は英語でも読めないけどね!」
「あたしたちの主が困ってるんだよ。見なよこの重苦しい雰囲気」
「きさまが読めないフランス語のメニューなんか用意するからすっかりショゲているんだぞ」
「これでもし、この気まずさが影響して、あたしとランちゃんが出会いの儀式を執り行えなかったら、どう責任を取ってくれるつもりだ」
「なんとか言ったらどうだ」
「戦後、日本を占領したGHQは、教育改革として漢字の撤廃を勧告いたしました」
「やに唐突だな」
「GHQ。Go home quicklyか」
「セイ子ちゃん。そりゃ吉田茂の吐いたセリフじゃないか。あたかも自分の機知のように扱うのはよしなよ」
「別に、自分の手柄のように振る舞った覚えはないよ」
「だってなんだか得意げな顔じゃない」
「そんな事ないって」
「あのぉ。お話を続けても?」
「あ、どうぞ」
「漢字のゴチャゴチャした造型がアメリカ人の目には呪術的な文様・悪魔の字として映じたのでございましょう。漢字が日本人の精神を狂わせ、戦争へと向かわせたのだと分析いたしました」
「暴走族のラクガキを見る限りではその分析もあながち間違っていないようだけどね」
「そこで、ひらがなカタカナもしくはローマ字だけを使うように提案されました」
「バカバカしいね。そんなの無理に決まってるじゃん。同音異義語はどうするんだよ」
「アハハハ。笑っちゃうねっ」
「いいえ。真剣に議論されたのでございます」
「マジで!」
「恐ろしい話だね。もしその提案が可決されていたら、今ごろ日本語は滅亡していたって事なんだから」
「その通りでございます。その、日本語が処刑されるか否かという瀬戸際に、志賀直哉は、雄々しく立ち上がって自説を公にしました。題して『国語問題』でございます」
「出た。小説の神様」
「イヨッ。待ってました」
「志賀直哉の意見。それは、これから音読する通りでございます」
「志賀直哉先生、日本語の伝統を守るためにガツンと一発かまして下さい」
「言ったれ言ったれ」
「では、読みます──日本は思い切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、そのまま、国語に採用してはどうかと考えている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思う」
「……」
「本当に志賀直哉がそう言ったの?」
「本当です」
「ウソつけ。松田が捏造したんだろ」
「いいえ。志賀直哉の意見です」
「ああっ」
「頭が痛い」
「ウソだウソだウソだ~」
「ウソではございません。厳しい現実でございます」
「あのさ、それはその、ちょっとしたジョークだったんじゃないかな」
「そうだそうだ。氏一流の諧謔だろ」
「いいえ。真面目な提言でございます」
「ああっ」
「頭が痛い」
「でもさ、それは一時的な気の動転から変な事を言っちゃったまでで、心底そう思ってたわけじゃないんでしょ?」
「そうだよ。きっとそうだ。アメリカにおもねるためにゴマをすったんでしょ? その後、意見を撤回する発言とかはしてないの?」
「志賀直哉は十年後にこう書いていらっしゃいます」
「ほら見ろ!」
「やっぱり書いてた!」
「読みます──今の日本語の欠点は実にひどい、二百年後三百年後のことを考えると、自分の言った通りにしておいた方がずっとよかった、今となってはもう駄目だが、あのどさくさの最中になぜ決断しなかったか、文学のためばかりじゃないんだ、あれを、単なる思いつきで出した意見のように取られるのは困る……」
「ガビーン」
「あのどさくさの最中に……か」
「本気じゃないか」
「先生、本気じゃないか」
「その通りでございます。本気も本気、超本気でございます」
「単なる思い付きじゃなかったのか……」
「何を根拠にフランス語がいいなんて言い出したんでしょうね、この文豪は」
「実は、その理由を前述の『国語問題』で説明しています」
「先に言ってよぉ」
「読みます──外国語に不案内な私はフランス語採用を自信をもっていうほど、具体的に分かっているわけではないが──」「えっ。具体的に分かっているわけではない?」「──フランス語を想ったのは、フランスは文化の進んだ国であり、小説を読んで見ても何か日本人と通ずるものがあると思われるし──」「ちょっと待て『何か日本人と通ずるものがあると思われるし』ってどういう意「──フランスの詩には和歌俳句等の境地と共通するものがあると云われているし──」「ちょっと待てって。明らかにおかしいだ「──文人逹によってある時、整理された言葉だともいうし、そういう意味で、フランス語が一番よさそうな気がするのである」「よ……!」「よさそうな気がする……!」
「なんて浅薄なんだ」
「小説の神様なんて肩書きを与えたの誰なの」
「あなたがたはまだ生まれてきてないからわからないでしょうが、志賀直哉が小説の神様であるというのは、日本国民全員の総意です」
「ウソだっ」
「ウソに決まってる」
「いいえ、厳しい現実です。神様の決定には逆らえません。ですから、日本語なんて廃して、フランス語にした方が良かったのでございます」
「そうか。それがおまえのフランス語メニューを書いた理由か」
「その通りでございます。フランス語こそが、日本人にとって真に良さそうな気がするのでございます。字づらで見ると難しそうに思えますが、実際にフランス人と話してみたりしますと、声の抑揚などは日本語に近いのに驚かされるものですよ」
「なるほど。そこまで言われたら引き下がるしかないよ」
「そうだね。志賀直哉がそう言ってるんじゃ仕方ないね」
「しょうがないしょうがない」
 ──と、このような会話をセイ子ちゃんランちゃんと松田シェフが実際に交わしたかというと絶対に交わしていないのですが、あの志賀直哉がそう言っているんじゃ仕方ありませんね。フランス語メニューの件はこれ以降は不問に処しましょう。
 しかし、このようにお客を蔑ろにする店は往々にして潰れるものです。少し前に「店内の描写はしない。実際に店に足を運んでその目で見ろ」という旨の文を書きましたが、フレンチレストラン「Subtle」は二〇〇六年現在とっくに閉店していたのに今さらながら思い当たりました。やはり、店内の描写に労を傾ける必要があるようです。──完全に物語の埒外へと放擲された八郎と和美が退屈そうにしていますので、彼らの様子も交えた二元中継でお送りしましょう。
 店の隅にグランドピアノがあり、ピアニストがジャズナンバーを演奏しているのは前に申し上げました。今はWhen The Saints Go Marching Inを弾いています。
 八郎は気まずそうに視線をテーブルの上に伏せています。
 店の広さは、実地に計測は出来ませんので目測でご容赦いただきますと、およその見当で百坪ほどでしょうか。
 和美は沈黙を打破すべく他愛の無いおしゃべりをしましたが(おしゃべりの内容をここに詳しく書いても良いのですが、これ以上この第四十三章が長引くのも考え物ですし、割愛します)彼女自身どうにも気分が優れません。
 天井も高く、随所にギリシア風の太い柱や草花を植えた花壇などが場を占めているものの、かなり広大な空間です。
 アルコールでも入れば気が安らぐはずなので、早くワインが運ばれてくるといいですね。
 テーブル数は、これは数えられます、ひいふうみい……ちょうど二十テーブルです。
 けれどまあ、どうしてどうして、ちょっとした動揺にもろいカップルです。
 テーブルはどれもこれも似たような物ですが、中には大人数のための大きなテーブルや、一人用と思しき小さなテーブルもあります。
 メニューが読めなかったくらいで人はこれほど落ち込むものなのでしょうか。
 テーブルの配置は……これは難しい。
 さきほどの失策をくよくよ気にせず、逆に話のタネにして笑い飛ばしたりすれば良さそうなものですが。
 店の設計図でも広げて見せるのが最善策なのでしょうが、文章以外の表現は文学においては邪道と見なされるものですし、設計図なんか所持しているはずがありませんので遺憾ながらお見せできません。
 やはり、クリスマス・イヴという特別な日が彼らを無口にさせるのでしょうか。
 だいたい、国語の野辺山先生のように、文章の力を狂信している人々は、ちょっと規則から外れただけでガーガー騒ぎ立ててうるさいものです。
 魔法の時間が流れる日、それがクリスマス・イヴです。
 スタンダールは登場人物の位置関係をスケッチに表し、スケッチ中の記号を基に本文を書きました。
 恋人たちの駆け引きは本当に微妙なバランスの上に成り立ち、ほんの些細な動きですら二人の関係を一気に崩壊させるに足る力を有してしまいます。
 野辺山先生のような人たちは、こういったスケッチを「文学ではない」として、作品から排除してしまいます。
 ですから、行動を起こすのは慎重の上にも慎重でなければいけません。
 そのスケッチを印刷しなければ本文が何を語っているのか理解できなくなるにも関わらず、です。
 ちょっとした失言でも相手を怒らせて帰らせてしまう事も有り得ます。
 スケッチや写真を載せるのがここでは最も効果的であるのですが、そういう人々からの批判を避けるため、やむなく文章だけで押し通していきましょう。
 すばらしい夜が後に控えているのはお互いに理解していながらも、その甘美なご褒美まで忍耐できずに散会してしまうのは、実はクリスマス・イヴにはよくある事です。
 店内の約九割が青年壮年の男女で、残りが老年夫婦や親子などです。
 ほとんどのカップルが目的地まで漕ぎ着けますが、なにせクリスマス・イヴに顔を合わせるカップルの数というのは尋常ではありませんから、中には途中で破綻してしまう男女もあるのです。
 思い思いにフォークを使い、談笑しています。
 まさしく手に汗握る真剣勝負の体。
 その談笑の声は、ひとつひとつがはっきりと分離した音声として店内を巡るのではなく、すべて入り混じって模糊とした環境音となり、各々の会話が邪魔されないような周波数に変化するようでした。
 果たして八郎と和美の会話が弾む時は来るのでしょうか。
 ふぅ、こういう描写でご理解いただけましたでしょうか。
 そして、どのような感触を懐に抱いて店を出る事になるのでしょうか。
 おそらく、わたしの意図している店内の情景と、読者各人の頭の中に描かれている店内の情景とは、全く異なった物となっている事でしょう。
 それは、これから追い追い明らかになっていく事柄です。
 ──なんだか要領を得ない。二元中継の試みは見事に失敗です。
 二元中継の試みもそうですが、店内の写生もすこぶるまずい物になってしまったのは慚愧の至りです。わたしの手際の悪さから、仮に読者が百人いるとしたら、百の脳に一軒ずつ、のべ百通りのSubtleが建設されてしまった事でしょう。もしあなたが実際にSubtleの内装を見る機会が有れば、想像していたSubtleの様子との懸け隔たりにきっと驚くと思います。
 ちょっと試験をしてみますよ。問題。八郎と和美は壁際に座っていますが、その壁の装飾は如何なる物でしょうか。お答え下さい。
〔ああ、そこの部分は想像もしなかったよ〕
〔鹿の頭部が突き出してるんじゃないか〕
〔えーと、西洋絵画?〕
〔レース生地の布が掛かっている〕
〔ヒイラギの葉〕
〔サンタのイラスト〕
〔フランス語のポエムか何かが書かれてるんじゃないかな〕
〔そうだなぁ、トイレはこちらの表示?〕
 みんな不正解です。正解は「使われてない金色の燭台が設置されてた」でした。(そこのあなた。あなたは当たりましたか?)
 この試験によっても分かる通り、わたしの想定した世界は読者の頭の中で勝手次第に変換されてしまいます。──いいえ。読者を責めるわけではありません。──かと言って、自分の文章力の無さを必要以上に嘆くわけでもありません。──作者はああ書いたつもりでも読者によってはこう解釈したりそう誤読したりするのは仕方の無い現象ですし、文学が宿命的に背負った弱点と評せましょう。
 わたしは小学生の頃(たしか両親の結婚記念日でしたが)、Subtleに連れて行ってもらった事があります。ですから、まるで見てきたかのように店内の様子を思い描けます(実際見てきたのですし)。あれこれと空想にふける必要がなく、記憶を引き出してありのまま書けば結構なのです。
 このように書く方は気楽ですが、読者は大変ですよね。ヘタな文章からなけなしの情報を読みとって、懸命に物語内の世界を想像しなければならない。ご苦労様です。その努力は賞賛に値します。既に廃業しているSubtleですが、読者それぞれの胸の中に、思い思いの形で再建され改築され大切な記憶として保存されていけば、松田シェフも浮かばれるという物ではないでしょうか。
 さて。奔放に脱線している内にワインボトルが八郎と和美の元に運ばれて来ました。ソムリエぶったボーイによって銘柄不明の赤ワインがワイングラスに半分ほど注がれます。
 和美はグラスをテーブルクロスの上でキザったらしく揺すり、大きな鼻で匂いを嗅ぎました。
「いい香り」
 とりあえずいい香りとは言ってみたものの、そのワインの出身地がどこかも知らずどのような由縁があるのか年齢は何歳なのか素性も知れず、発語はそれ以上続きません。
 「そうだね」といい加減に相槌を打った八郎もそのあと適切な語を継ぐ事が出来ず、苦し紛れに乾杯の音頭を促すのがやっとでした。
「乾杯」
 グラスの縁と縁とを軽く触れさせます。かちりと涼しい音。グッと一息に葡萄の絞り汁をあおる無遠慮な八郎と、紫色の液体を舐めるように口に含んで舌の上で転がす和美の対比が鮮やかです。非常に調和していません。
 和美は先方に頻りにワインを勧めました。週刊誌『Ambrosia』で学んだ知識を実践に移した側面ももちろんありますが、それより何より陽気な雰囲気を醸成したかったからです。今や「意中のあの人」が「興奮してケモノのようにせまってくる」のを期待するよりも、冷え切った場を暖めるのが優先事項でした。もはや、アレを「長く持続」させる工夫など考えている状況ではありません。その初手まで到達できるかも危ういのですから。
 八郎も(いつもの隷属的従順ではなく)積極的な協力体制を敷きました。和美の意図を感じ取ってか、はたまた自分も和美と同じ考えだったのか。勧められるがままに酌を受け、ガブガブ飲み干しました。注がれては干し、干しては注がれ……ボトルを水平に画す線がどんどん下降していきます。
「君も飲みなよ」
「いただくわ」
 八郎だけを酔わせてどうにかしてしまう算段でしたが、こうなって来るといつまでも悠長に構えては居られません。酔わねば。酔わねば酔わねば。
 しかしそれでも重苦しい雰囲気は打破されませんでした。会話がどうにも弾みません。常ならば無口な八郎を和美が先導する形で対話は進行していくのですが、何やら見えざる力が働き、和美の弁舌も滑らかではありません。八郎は平生以上に押し黙ってしまっています。八郎の様子がいつもよりも沈んでいるので和美は気易く話しかけられませんし、和美の様子が日頃よりおとなしいので八郎も口を開けにくくなります。相互に気まずさのみを交換し合い、ふたりの間に漂うムードは悪い方へ悪い方へと緊張していきました。
 みなさんよろしいですか。彼らの気まずさの大元の原因、それはあのフランス語のメニューなのですよ。あの程度の小事でどうしてここまで関係がギクシャクしたのでしょう。
 その問いに対する答えは、「どうしてと言われても、ギクシャクしたんだからしょうがない。」
 ……これでは余りに味気ない。この〝つまらない理由による〟恋の危機は、人間心理の機微に触れた素材ですから、もう少し詳しく分析していく資格が充分にあるでしょう。わたしの後学のためになるかも知れないし、現代文学に寄与する可能性のある研究素材ですから、もう少し煎じ詰めて取り扱っていきましょう。
 その時二人のすぐそばに居た──というか、二人の中に居た、セイ子ちゃんとランちゃん。あなたがたの意見をお聞かせ下さい。
うーん。煮え切らないよね~以下の会話は作者による虚構です
「なんでだろ」
「普段はあんなに主従関係がしっかりしてるのに」
「女王様とその下僕という対比が実に明確だよね」
「あたしが思うに、女王様の方がちょっとかしこまりすぎだと思う」
「あら。そうかしら」
「そうじゃない。妙にしおらしくなっちゃって。いつもより乙に構えてるし」
「あ、そうかも。こっちとしては、静かで大助かり」
「化粧だって気合いが入ってるし」
「ちょっとケバいね」
「そっちはどう。下僕の方は。傍目には普段と同じだけど、内面的な部分でどこか普段と違ったりしない?」
「どうもおびえてる感じがする」
「やっぱりね」
「普段の日だってある程度の不快感を伴って女王様に接しているけど、今夜はそれが一層ひどいみたい」
「このあとじっくり一晩かけて食われる事を薄々勘付いてるってわけね」
「うーん。それもあるだろうけど、女王様の態度も影響してるかも」
「どういうこと?」
「さっきランちゃんが言ってたように、今宵の女王様、いつもと様子が違うじゃない?」
「三十女にも似合わぬ処女めいた羞じらいがあるよね。いつもはもっと傍若無人な振る舞い、さながら暴君ネロの母・アグリッピーナのようだから」
「それは言い過ぎじゃないかな……。あなた、女王様の分身でしょ?」
「女王様の遺伝子を受け継いでるからこそ歯に衣着せぬ性分なのよ」
「なあるほど。納得」
「そんな感心してないで先をお話しよ。女王様の態度が下僕の心にどう影響してるの」
「そうそう、それそれ。あまり女王様が慎ましいんで、どうも下僕は気味悪がっているみたい」
「ああ。何か裏があるんじゃないかと疑ってるわけだ」
「そう。警戒してるの」
「餌食になる事を?」
「いいえ、食い物になる事ばかりを懸念しているんじゃない。おしとやかな女王様になんてついぞお目に掛かった事がないから戸惑っているみたいよ」
「彼女だって女だもの。そりゃクリスマス・イヴくらいは乙女らしくしたいよ」
「そこが下僕にとっては理解不能な点でさ」
「女心がわかってないな~」
〔くだらない。昨日生まれたばかりのセイ子ちゃんと、さっき生まれたばかりのランちゃんがこんな会話するかよ。〕
 作者の心情を作者の前身たる両名に仮託しているまでで、細胞が実地にしゃべっているわけでは当然ありません。修辞法のひとつ、擬人法ですよ。魔法の指輪を向けられて喋り出す宝石だってあるくらいですから、文学のテクニックとしては充分に許される範囲内だと思います。
〔だけどこれ、ノンフィクションの自伝だろ。じゃあ、そういう小手先の技巧はまずいんじゃないか。〕
 なるほど。一理ありますね。しからば失敬して「以下の会話は作者による虚構です」という断り書きを入れておきましょう。──あれあれ。行間が詰まっていて、断り書きを挿入する余白が無い。困ったな。
 苦肉の策ですが、「うーん。煮え切らないよね~」の上にルビを振る事で対処しましょう。以、下、の、会、話、は、作、者、に、よ、る、虚、構、で、す。と。これでよし。
 以上の通りセイ子ちゃんとランちゃんが問題を提示してくれました。どうやら和美に似つかわしくないおとなしさが気まずさの原因であるようです。
 普段は八郎を犬扱いしている和美でも、忍び寄る聖夜の夜気に当てられたと見えて、バスの車中で八郎の袖に接触しているあたりから徐々に「好きな人の前では可愛らしくありたい」と願う女の本能が首をもたげ始めていたようです。その殊勝さがフランス語メニュー事件で無理に外部へ剥き出され、よそよそしさが一挙に浮き彫りとなってしまった次第です。
 女性の読者なら容易に同意してもらえる物と期待しますが、女心は複雑で、単純に出来上がった男たちにはなかなか理解できないものです。世の中に何が複雑といって幾何学模様と女心ほど入り組んだ物はそうそうあるもんじゃなし、逆に何が単純といって球体と男の思考回路ほど簡便粗末に出来上がっている物もありません。
〔幾何学模様なんかより宇宙全体の方がよっぽど複雑だぜ。それに、球体はこの世で最上の美を備えた物体だ。異議あり異議ありー〕
 あー、うるさいうるさい外野がうるさい。とにかく、世の男の人は女心を解しません(人の文章の些細な傷に茶々を入れて混ぜ返す従兄の次朗さんのように)。男の人なんて普段は威張っていても案外幼いものですし、恋の心理にかけては女性の方が数段うわて。ちょっとは女心をわかっているつもりの伊達男でも得意になって上皮を撫でているに過ぎず、深い場所まで潜ってはいないものです。マリアナ海溝については存在すら知らず水際でパチャパチャ遊んで「俺は海の事なら何でも知ってるぜ」と喜んでいるようなものです。──奥手の八郎は尚更で、和美の豹変の心的理由など思い付くはずもなく、ただうろたえるばかりでした。
 二人を囲繞する沈黙の膜を破るきっかけとなるか、やがて料理が運ばれてきました。ボーイは出来る限り気取った態度で皿を並べ、お盆を小脇に抱えて口上を述べ始めます。「こちらは前菜の、鱈の頭と羊の腸のマリネでございます。」鱈の頭というのが見当たりませんが、確かに羊の腸相応の気味の悪い紐状の肉がレタスの中にうずくまっています。「羊の腸は、かの有名なベネディック将校が、『人間の身体から魂を引き抜く』と讃えた食材でございます。」八郎と和美は、かの有名な将校とやらが何者なのか知りませんでしたので黙っていました。レストラン側のこうした気取りが彼らの口を重くしていったのは疑いようがありません。「ごゆっくりお楽しみ下さい。」ボーイはマニュアル通りの口上を済ませると早々に去って行きました。
 八郎は気が進まぬまま、最左翼に置かれたフォークを左手に、最右翼に置かれたナイフを右手に、それぞれ持ちました。そしてボンヤリとこんな事を考えました。{豆を畑の肉、牡蠣を海のミルクと称するから、鱈の頭と羊の腸のマリネも何かの比喩かも知れない。}彼の推察は確かに尤もであり、レタスの中でグッタリしている太いミミズのような食材が本当に羊の腸なのかどうかは定かではありませんでした。{しかし。それにしたってあんまりなネーミングだ。もんじゃ焼きに対して繁華街早朝の電信柱と名付けるような物だ。}なかなか食指が伸びません。一方の和美はこう考えていました。{これ、何かな。ホントに羊の腸のはずはないよね、}ここまでは八郎と同じ常識的判断でしたが、その先が{羊の腸じゃないとするとミミズかな。}八郎と和美の口は言葉を出すのをためらって重くなりましたが、また、食べ物を入れるのにも食傷してさらに重みを増しました。
 八郎は恐る恐る羊の腸という名を冠した肉を口に運んでみます。その様子を見た和美も意を決して続きます。かつて食べた記憶の無い味ですが、たいしてうまくありません。むしろまずいかも知れない。八郎は相手に悟られない程度に首を傾げました。和美は心の中でうねらうねら這い擦り回るミミズの幻想と格闘しながら肉を飲み下しました。──二人は何も言わず、黙々と皿の上のマリネを平らげていきました。無理に喋ろうとすれば相手の気分を害する食事の場にふさわしくないゲテモノ言葉を吐いてしまいそうでしたし、正直においしくないと言ってしまえば相手は必ず同意するに相違なく、そうなるとおいしくないが徐々に発展してマズイマズイの大唱和、まずいかも知れないという疑念が一挙に顕在化、閉口に拍車が掛かってしまいます。ここは心情吐露を我慢して、料理と一緒に本音を飲み下して、さも旨そうに食べる事で乗り切ってしまうのが良さそうです。
 さてここで、読者諸氏にお願いです。第六章をもう一度読み直して下さい。──その際、文中の「第五章」を「第四十三章」に置き換え、そして、カッコ内の文章を読まずに飛ばすよう、重ねてお願いを申し上げます。
 ──はい。お願いした通り、第六章に戻ってもらえましたか。一度お見せした文章なので復習は容易だったと思います。もしかしたらもう一度くらい読んでいただくかも知れないので、しおりを挟んでおくか、しおりがなければ当該ページに指を突っ込んでおく事をお勧めします。
 みなさんが第六章に立ち返っている間に、八郎と和美はなんとか鱈の頭と羊の腸のマリネを片づけました。ここに至ってようやく八郎が「あまり俺の口には合わなかったな」と本心を明かしました。「俺の口には」と限定したのは、もしかしたら和美の舌は悦んでいたかも知れないので、それへの配慮からです。もちろん和美だっておいしくないと感じていたので、我が意を得たりとばかり「ミミズみたいだったね」と忌憚の無い所を言ってのけました。ミミズの事など少しも考えていなかった八郎は、先ほど胃の腑に収めた羊の腸と、どかした石の下でニョロニョロ狼狽するミミズとを並べて想像し、その形状が一致していた事を認め、ウウと小さく呻きました。
 どうしても会話が弾まない場合の改善策の一つに、愚痴をこぼし合ったり、共通の敵を設定して悪口を言い合う手があります。──愚痴、悪口。これは話題としてはあまり愉快な素材ではありません。二進も三進も行かなくなった時に、無音よりはいくらかマシだと考えて、苦肉の策として弄する最終手段です。八郎と和美も、どうにかこうにか会話の糸口を掴もうと、「なんたらいう将校の味覚を疑う」だの、鱈の頭と羊の腸のマリネの悪口を続けようとしました。一旦は。
 しかし、やはりすぐに黙ってしまいました。前菜をケチョンケチョンに貶し続けていると後続のコース料理にも尾を引く恐れがあったからです。このままの論調で押して行くと、前菜の悪口がやがてレストラン批判へと発展し、何を出されても美味しく賞味する事のできない状態にまで悪化しそうだったからです。経験豊富な大人の男女である彼らはその辺りの機微を鋭く感じ取り、沈黙こそがこの場に最も適した得策であると決断したのでした。
 店内の空気を醸成するBGMは陽気なジングル・ベルに変わりました。セイ子ちゃんとその仲間たちは軽快に踊り、ランちゃんは朗らかに歌います。クリスマス・イヴという特別な時間に身を浸したお客たちは魔法のムードに包まれて幸せいっぱい。軽やかなピアノの音の粒子がレストランの空間を明るく眩しく染め上げていきます。
 しかし、このテーブルは。このテーブルの石牢のような重苦しさは。誰もが笑顔の結婚披露宴の席でただ一組だけ離婚話をしているようなこの深刻さは。店内の幸福との悲惨なまでに明瞭な対比。ああ我が父を泣き母を嘆く。遊園地の片隅に設けられた墓場のようなそのテーブルの陰気さを、わたしは哀れむ!
 しばらくしてスープが運ばれてきました。あのマリネを運んできた張本人のボーイは、気を使っているのか、それともよっぽど無神経なのか、二人の間に張り巡らされた触れれば切れる蜘蛛の巣のような緊張感に全く無頓着です。「こちらはアゴアザミのスープでございます。ドイツの山岳地帯に群生する薊の一種を香ばしく炙ってから煮詰めたエキスでございます、」ここで説明を切り上げて引っ込んでくれればいいのに「作家の筒井康隆氏も舌を巻いた逸品にございます」余計な情報を付与せずには置かない。だから能書きはいいんだってば。将校がどうしただの作家がこうしただの鱈の頭には通じない事を吹聴するからこの哀れなカップルが萎縮するんじゃないか!〔まアまア。落ち着きなよ〕(は。いけない。わたしったら。思わず取り乱してしまいましたごめんなさい。)
 ベネディック将校についての知識は持ち合わせなかった八郎でしたが、筒井康隆については辛うじて知っていました。{どうする。話題として振るか}刹那の瞬間にそういう企画が八郎の脳内で持ち上がりましたが{いや、やめておこう}すぐさま否定されました。{時をかける少女しか知らないもんな}
 一方の和美は最早ボーイを無視し始めており、ボーイがまだ喋っている間にスプーンを手にしました。透明なスープを上品にすくい、静かに唇へと運び、音を立てずに啜りました。これでマリネの失策を挽回するほどに味が良ければ二人の緊張も幾らかほぐれるのでしょうが。逆に、マリネの後釜を真面目に務めて羊の腸同等のまずさに徹しているとすると、二人の気持ちは絶望的に悪くなるでしょう。果たして。
(※メモ:ネタが続く限り、余暇を見つけては文章を継ぎ足していくこと)



第四十二章
 異常な長さの第四十一章でしたがここで一旦区切りをつけます。
 なぜレストランの場面があのように長々と続いたのでしょう。それは、早く濡れ場を読みたくてワクワクしている読者への嫌がらせです。ガルシア・マルケスが『百年の孤独』の中に批評家が滑って転ぶバナナを罠として仕掛けたように、容易には目的地に到達させまいとする障壁──桃太郎電鉄で言えばさしずめうんちカードです。
 本来の予定ならばシティーホテル「Woffell」にチェックインするまでを描写してから章を改める予定でしたが、計画変更です。読者をウンザリさせるつもりが、作者の方が音を上げました。
〔だからって、あれはないよ。読む気が失せるよ。〕
 あら、従兄の次朗さん。お久しぶり。
〔俺は読書苦手なんだからさ、もうちょっと考えてくれよ。挫折しかけたよ。なんでまたこのタイミングでこんな長々しい章を設けたんだ? これが最終章だったら「ここで読むのを止めたら今までの頑張りが水泡に帰す!」ってなMOTTAINAI気分が起きて義務感から仕方なく読破できるのに。本当に大変だったぞ、折れそうになる心を必死に立て直すのは……。〕
 ピタゴラ装置だって、ナンバー四十一の「ピタゴラ装置41番の歌」が最も時間の掛かる装置ですから。四十一章を長くするのは必然です。
〔ピタゴラ装置は関係ないだろう。読者の読む気を削ぐ嫌がらせを悪意剥き出しでわざわざ仕掛けるってのは物語作者として最低の態度だよ。〕
 それはプルーストに言って下さい。『失われた時を求めて』はもっと読みやすく組み立て直せって。それに、わたしは物語作者じゃないですし。
〔文学の破壊ばかり考えてないでもっと読者に媚びろよ。〕
 それこそ次朗さんに言われたくないですね。奇矯な小説ばっかり書いて。むしろわたしのセリフです。文学の破壊ばかり考えてないでもっと読者に媚びろよ。
〔うん。〕
 すっごい素直! 
〔「新しい章を頻繁に設けると、(中略)長い文章を読むのが苦手な人でも、(中略)ゴールが目の前に見えているからこそラストスパート(中略)可能なのです。」──『トリストラムに恋をして』第十九章から引用。みっちゃん、こんな発言してたじゃん。だからよろしく頼むよ。あんな冗長な章はもう懲り懲り。今後は短めの章立てでお願いします。〕
 しょうがないなぁ。



第四十三章
 第四十一章を読むのを頑張ってもらったので



第四十四章
 しばらく短い断章を続けて



第四十五章
 一休みしてもらうのも



第四十六章
 読者サービスのうち



第四十七章
 で



第四十八章
 す



第四十九章
 。



第五十章
 この



第五十一章
 うん



第五十二章
 こや



第五十三章
 ろう!



第五十四章
「〔「新しい章を頻繁に設けると、(中略)長い文章を読むのが苦手な人でも、(中略)ゴールが目の前に見えているからこそラストスパート(中略)可能なのです。」──『トリストラムに恋をして』第十九章から引用。」──『トリストラムに恋をして』第四十二章から引用。
 というわけで読者の声を代表した次朗さんの涙のリクエストに応え、短い章立てを怒濤のように繰り広げてみました。さあ、どうですか。僅かの間に十一章も読むと、何だか一気に作品を消化したような気がしませんか。たくさん読書をこなして頭が良くなったような気がしませんか。気のせいです。それは単なる錯覚です。勘違いしないで下さい。
 さて、悪夢の第四十一章から数えること十三章。その間に八郎と和美の食事は佳境を迎えています。十三章を重ねても二人の間では悪夢は続いていました。料理は口に合わず、雰囲気は最悪。空気はドンヨリと濁り、このレストランで現地解散も有り得るほどのクリスマス・イヴです。二人は黙々としてフォークとナイフを使います。もはや会話も無くなりました。
 鼻につかないよう食事を口に運ぶ和美。手慣れたもので、感嘆すべき器用な芸です。魚料理にも肉料理にも見事な手際でかぶりつきます。ただ、その匠の職人技はデザートの時間に冴えを失い鈍りました。油断したか不可抗力か、ケーキのクリームが鼻に付着してしまったのです。──しかしこれこそが、重苦しいムードを打破する契機となりました。一体何が歴史を動かすのか、時間軸を行ったり来たりできない人類には見当も付かない物です。和美の鼻にクリームがついたという些細な出来事は、一九八八年時点では取るに足らないオッチョコチョイでしたが、二〇〇六年現在から回顧すると重大且つ重要な事件でしたので、筆を及ぼすのは感慨深い物があります。このきっかけが無ければ、寿命三日のセイ子ちゃんと余命一日のランちゃんは邂逅することなくご逝去あそばし、つまり、わたしは生まれなかったのですから。
 和美の鼻先についたクリームをを何気なく手で取ってやる八郎。驚天動地大山鳴動、八郎は霹靂はたたがみに打たれたように心をビクリとらせました。その触り心地の良さと言ったら!今までは見るのも厭わしく素手で触れるなど以ての外でしたが。欠点が急に愛しくなった瞬間です。ターニングポイント。その時歴史が動いた。元より和美の目や体付きは魅力的であるのですから、八郎はこの鼻の持ち主を申し分のない伴侶と錯覚してしまいました。(アルコールの影響もあったかも知れません。だとすると、和美の作戦はまんまと成功を収めたわけです)
 居ても立っても居られなくなった八郎、力強い衝動に突き動かされるように、大胆にも自分からキスを敢行しました。これまでの二人の関係からは考えられなかった行動です。そしてそれは、口づけと言うより鼻づけと言った方が妥当な接吻でした。江戸時代に「口口」と称された行為よりも、オーストラリア原住民アボリジニーの、鼻と鼻をくっつけるあいさつに近かったのです。
 店内の客悉皆は彼らの行動に気付きません。なぜなら熱情に燃え上がっている最中の恋人達にとって世界は自分たちだけの物であり、周囲の事など気にも掛からず見えもしない。背景と化してしまいます。店内二十組四十名様の恋人達はそれぞれに独自の亜空間を形成していて、二十の世界がそれぞれ独立して存在しているようなものであり、食器を落として割るなどして注意を惹くのならば格別、そうでなければ簡単には破る事の出来ない愛の領域が他を寄せ付けない防禦壁を張り巡らしていたからです。そんなわけで八郎と和美は人目を気にすることもなく思う存分お互いの唇を貪り鼻を擦り合わせました。和美から八郎への一方通行の愛が、片側交互通行の相思相愛へと変じた瞬間です。
 八郎と和美は、どのような困難があろうと、一つになる運命でした。──これだけでは説明不足、オカルトめいた運命論になってしまいますので言い添えますと──一九八九年の八郎と和美は二〇〇六年の今日から見て、必ずや一つになる運命でした。
 当たり前です。現にこうして婚姻関係を結んでいます。これでもし、破局御破算となったら未来が変じてしまいます。彼に逃げられてはわたしが生まれません。一九八九年の八郎と和美そしてわたしは、二〇〇六年に向かって、定められた道筋を正しく進みます。(もちろん多少の脱線はしますが)急に気が変わって離婚したり、どちらか片方がコロッと亡くなったり、そういう意外な展開は一切ありません。況や若きわたしが現在の十七歳のわたしに至るまでの間にポックリ御陀仏するをや。そんな事はありませんので安心して読み進めて下さい。この自伝は人生という一本道のシナリオの上を過去から現在に向かって折り目正しく進みます。御都合主義的な作り話と一線を画するのは当然です。



最終章
 作り物の作品ならばきっちりと完結するのでしょうが、唐突に臨終を迎えることもある──それが人生です。この作品は人間の一生そのものです!(生まれなかったけど)



第五十五章
 万が一、この自伝を脱稿する前にわたしが亡くなった場合のことを考えて、最終章を書いておきました。いつ大団円を迎えるとも知れぬ『ゴルゴ13』、実は最終回の原稿はとうに書き上げられていて、さいとう・たかを氏の事務所金庫に厳重に保管されているという噂があります。それと同じ方式です。人間、いつ死ぬか解ったものではありませんので。若いから確実に安泰健やかな毎日というのはあまりにも甘い認識であって、不慮の事故で明日にでも夭折するかも知れない。交通事故で頭を強く打って搬送先の病院で死亡確認。工事現場のクレーンから落下してきた鉄骨の下敷きになって即死。通り魔に背後から刺されて出血多量で失血死。はたまた今まさにこの瞬間大地震が起きて圧死するかも知れない。命を落としてしまう可能性は行住坐臥ゼロパーセントではないのです。
 急にこんな考えが頭を擡げたのは、八郎の興奮が原因でたくさんの尊い命が奪われた惨劇を思い出してのことです。セイ子ちゃんの同胞の多くが異常な温暖化の犠牲になりました。思いを致すだけで涙が出てきそうです。
 ちなみにセイ子ちゃんの同胞とは精子の小人ホマンキュラスのことで、『トリストラム・シャンディ』第一巻第二章によれば「精子の小人もわれわれを創ったのと同じ御手で創られます。──われわれと同じ自然の順序を経て生み出され──動く能力もわれわれと同じように賦与されています。──精子の小人もわれわれと同じように、皮膚、毛髪、脂肪、肉、静脈、動脈、靱帯、神経、軟骨、骨、骨髄、脳、腺、生殖器、体液、関節、等をそなえ、──同程度の活動力をもった生き物であり、──また、言葉のあらゆる意味において、親愛なイギリスの大法官閣下に劣らず、正真正銘のわれわれの同胞なのです」とのこと。
 まあ、あいつら同胞が犬死にしてくれたおかげでわたしが生まれて来られたんですが。



第五十六章
 セイ子ちゃんの製造工場とランちゃんの乱行居城はお会計を済ませてレストランを出ました。入店前と退店前とではまるで改築されたかのような有り様で、今や手に手を携え、時折熱烈な唇と唇または鼻と鼻あるいは唇と鼻もしくは鼻と唇の離合を繰り返しながら京の街を伴って行きます。温かい店内から急に厳しい冷え込みの外へ出たのもここではプラス要素として働き、二人の距離を否が応でも縮めます。
 かつてこの城に感じたことのない激情で工場は熱を帯び、室内の温度を急激に上昇させました。これにはセイ子ちゃんもセイ子ちゃんの仲間たち一億二千万匹も大慌て。なぜなら彼らは極端に熱さに弱く、体温と同等かそれ以上の高熱の環境下では、簡単に死んでしまうからです。
〔嘘だろ。体温で死ぬんだったら一匹たりとて無事に済まないじゃん。だって人体内で製造されるんだから……。〕
 嘘ではありません。セイ子ちゃんたちが待機している詰め所の場所を考えれば納得のいく話です。詰め所であるボールは工場の壁の外にぶら下がっていますね。これは工場の熱にやられないためなのです。本当ですよ。
 しかし、いくら別棟で控えているからと言って、工場本体のまるで臨界状態のような体液の沸騰は、セイ子ちゃんたちにはかなり堪えました。虚弱な連中はバタバタと死んでいきました。ランちゃんとお見合いできるのはある程度耐久力のある丈夫な連中──この時点でもう、レースはおっぱじまったのです。ランちゃんの居城に闖入できる資格を有するのはちょっとやそっとの苦労艱難には挫けない体力自慢たち。うだるような暑さにセイ子ちゃんもややグッタリしましたが、もちろんここで脱落などしません。こうしてより強い遺伝子を残していくための選別がもう行なわれているのですね。季節が冬だったのは幸いでした。外の気温が低くなかったらひょっとしたらセイ子ちゃんたちは全滅していたかも知れません。それほどまでに工場は高熱を発し始めていたのです。
 一方、上へ下への大騒ぎを繰り広げている一億二千万に比べ、居城の中のランちゃんはあっぱれ泰然自若たる物です。湿気の多い閨で欠伸を噛み殺しながらウトウトと微睡んでいます。その居城自体は工場と似たような狂態を演じていますが、城主たるランちゃんは平生通りに振る舞っていて取り乱す気配がありません。さすがです。
 居城はその壁面を朱に染め、少量の涎を天守閣から垂らし、ウットリとしています。アルコールの影響でしょうか。いえ、工場の動物的エネルギーに些かの戸惑いをしながらも、それに牝としての喜びを味わっているためかも知れません。普段は静かで従順な工場が煙突から水蒸気を噴き出さんばかりの大混乱を生じ、獣的情熱で狂ったように迫り寄り、この肉体を求めて来るのですから。



第五十七章
 わたしは如何にして肉親を容赦なく観察する冷徹な眼を養ったか。
(編集者の方、お手数ですがここに一万六千字ほどの論文を探してきて挿入して置いて下さい)



第五十八章
 なんぼ京都だって年がら年中純和風で通しているわけではありません。クリスマスシーズンともなれば街全体がイルミネーションで彩られます。寺社仏閣まで青白の電灯で飾られるとは言いませんが、街路樹はライトアップされ、大通りに面した店には電飾が煌めきます。着物下駄扇子骨董茶葉団子を扱う店ならいざ知らず、尋常現代日本の店舗ではキリスト教のお祭に乗っかります。
 京都にはクリスマスは来ない──外国人ばかりでなく、日本人であっても勘違いしている人はいるのではないでしょうか。たとえば千葉とか、東京の手前側だか向こう側だかよく判らないような県に住む人たちの認識と言えば、何せ年末に京都で催されるのはクリスマスではなく蔵済ますで、その内容と言えばアサンタクローカミ率いる赤色ウシたちが吉良少年の屋敷に煙突から入るイベントだ、そんな風に思っているんじゃないでしょうか。
〔赤穂浪士の討ち入りって、江戸で起きた事件だけどな〕
 そ、そんなことは知っています! とっとと先に進みます。進め進め、セイ子ちゃんを蔵した工場の八郎とランちゃんを宿した居城和美!
 八郎は和美の肩に手を回し、和美は八郎の腰に手を回し、通行人とすれ違うのも構わずに時折キスを交わしながら、聖夜の河原町を西へ進みました。ああクリスマス・イヴ。魔法の時間が流れる日。幼児はハシャギ、学生は浮かれ、勤め人は酔い、恋人たちは寄り添い、家族連れは語らい、誰もが幸せそうな顔をイルミネーションの光で輝かせて歩くその中を不機嫌そうに歩く独り身の男。すばらしい景色です。冬の寒さにも皆が皆温かそうな顔をしている中を暗く重く沈んだ表情でトボトボ孤独に家路を急ぐ女。すばらしい。
 往来は電光で満たされ、ケーキ屋の前ではトナカイの格好をした男性が呼び込みをし、同じくサンタクロースの装いの女性が販売をする。店の中ばかりでなく店の外も買い物客で賑わっている。和菓子屋は少し暇そう。丁度食事を終えレストランから出てくる不倫と思しき中年アベック。スーパーでロウソクを買い求めているおばさん。慣れないおもちゃ屋さんに少し仏頂面で、メモを片手に品探しを頑張っているお父さん。ぬいぐるみをラッピングしてもらうお母さん。あくせく働く肉屋の店員。近くの公園では陶器市がテントを畳んでいる最中。それぞれどこへ向かうのか、道路には自動車の列。バスやタクシーの乗客たち各々にも各々のクリスマス・イヴのストーリーがあって……。二十五日を目前に控えた素敵な時間。そんな十二月の河原町を、八郎と和美は西へ西へと進みます。そしていよいよシティーホテル「Woffell」へのチェックイン。アツアツの二人は密着したままフロントへ。この時期の京都は観光客が少なく、フロントのホテルマンもこの地元民カップルが房事目的でチェックインするのを先刻承知です。
「予約していた羽鳥ですが……。」
「羽鳥さまですね。五十七号室へどうぞ。」
〔へぇ、さすが京都。ホテルの癖に五十七号室なんていう、なんだか精神病棟みたいな和風の部屋番号があるんだなぁ。〕
 いいえ。章の番号に合わせてでっち上げただけであって、実際は302号室とかだったのではないかと思います。
 ベルボーイに案内された五十七号室は標準的な洋室のホテル。玄関入ってすぐ右手にバスルーム左手にトイレ、洗面所、奥に進むとダイニングとベッド。二人は堅く抱擁を交わし、今までよりも一層激しくキスをしました。歯がカチカチ当たるほどお互いの唇を貪り合い、舌を絡めました。ランちゃんはお見合いの瞬間が近づいたのでお色直しをし、セイ子ちゃんはいよいよ本式に始まる競泳選手権に向けてストレッチで体をほぐしました。
 発情し切った男女が二人っきりになれる場所に入室しました。さあ、こうなったらあとは一本道の近未来しかありませんね、いよいよ体液の交換会です。
 八郎はクローゼットを開け、コートを衣紋掛けに掛け、靴下を脱ぎ始めました。和美は脱ぐのももどかしいとばかりに服をその場に脱ぎ捨てます。八郎は熱病に浮かされたような状態でパンツを下ろし、和美のブラジャーを取ってあげました。二人とも素っ裸になりました。神聖なる儀式の前に、身を浄めるためのシャワーを浴びてもらいましょう。



第五十九章
 シャワーを浴びてもらっている間手持ち無沙汰ですので、京都在住でない読者のためにちょっと季節ごとの混雑状況でも話しておきましょう。観光に来る際の参考にして下さい。
 冬。既に書いたようにヒマです。観光事業が大きな収入源である当地にとって少し厳しい季節です。ですから、市が率先して企画旅行を誘致します。いくつかの寺に協力を仰ぎ、「この仏像は今しか公開しません!」「観音様百二十年ぶりのお目見え☆」みたいな企画をするのです。地元民のわたしから見ると、この季節は意外にも女性が一人旅をしていたりします。ただ、女性の一人旅っていうのは「失恋傷心旅行で自殺するつもりじゃ……」と思われる傾向にあって、ホテルは兎も角老舗の旅館などは宿泊拒否したりしますのでご注意を。
 春。家族連れなどが多くてどこも忙しそうです。三月は桜の季節ですし、四月五月は修学旅行シーズン。千客万来万々歳。どんどんお金を落としていって下さい。
 夏。ヒマです。夏休みもヒマ。大学生みたいのがチョボチョボ来るくらい。夏はやはり海なのでは、と推測されます。あと、京都の夏はすごく暑いです、盆地なので湿気が籠もって。ヒートアイランド現象に苦しむ東京よりも暑いんじゃないでしょうか。わたしは去年沖縄旅行に行きましたが、沖縄は京都より全然快適でした。気温は当然沖縄の方が高いのですが不快感が全然ちがいます。
 秋。大混み。どこも紅葉が素晴らしい。混むだけの価値があります。個人的にお勧めの紅葉スポットは……と、言っているうちにバスルームで水を使っている音が止まりました。今は観光案内よりも現場中継の方が優先されるべき急務。ホテルの室内に注目しましょう。
 禊ぎを済ませた八郎と和美は互いの肉体をバスタオルで拭いながらベッドへ雪崩れ込みました。
 八郎が和美の目をじっと見つめながら聖夜を言祝ぎます、「メリークリスマス」と。八郎も和美の目にじっと見つめられながら聖夜を寿がれます、少し照れ臭そうに「メリー、クリスマス……。」と。わたしの父となる、八郎。わたしの母となる、和美。二人はお互いに見つめ合ったまま、唇と唇をゆっくり重ね合わせ……



ここまでのあらすじ
 「ようやく核心に突入しそうだウヒヒヒヒ。やっとこさ読みたい物が読める!」と思っている方々のために、ここらへんでこの自叙伝を振り返るというのも乙なのではないでしょうか。そんなわけで急遽ここまでのあらすじを設けました。
 まず作品の冒頭に『トリストラム・シャンディ』の原文と夏目漱石の文章が引用されます。大仰な文学作品ってのは先行テクストから警句金言の類を引いてきたりするのでそれに習いました。──映画『ベン・ハー』の序曲の長さ、ご存知ですか。わたしは映画本編まで辿り着くことなくあの序曲だけで挫折しました。仰々しい感じを出そうとして壮大な幕開けにしたのでしょうが、同時に、わたしのようなヘボ鑑賞者を追っ払う効果も発揮しています。そういうわけでスターンと漱石の文章も魔除けみたいなもんです。
 それでは次に、ざっと各章の概要を列挙していきましょう。おざなりに済ますのは別に回顧する価値の無い内容だからです。まだ主役のわたしが誕生すらしていませんし、大して為になる情報もありません。芸術としての滋味も無い。読者諸賢にはここまでで原稿用紙二百五十枚弱の長文を読んで来て戴きましたが、、実は全くの骨折り損でした。知ってましたか。知ってましたね。
 では、僭越ながら一気呵成に。第一章、自叙伝を拵える意気込みと『トリストラム・シャンディ』への賛辞。第二章、父母の交際から結婚までの簡単な歴史的記述。第三章、「とっておき」は取っておくべきで、それまでは水増しで時間稼ぎをする宣言。第四章、わたしの書く文章が老成している由縁。第五章、父の来歴。第六章、料理について。第七章、文脈の破綻を『トリストラム・シャンディ』のせいにする。第七章その二、本当はまともな文章も書けることを言い訳。第八章、父八郎の名前の由来。第九章、父の仕事の話。第九章、父の仕事の話と母の容姿。第十章、母の鼻。第十一章、鼻の章。第十二章、父の容姿と王宮の戯曲。第十四章、第十三章が抜けた理由。第十五章、意識の流れ。第十六章、最低限の不文律。第十七章、  。第十八章、白紙ページの効能。第十九章、父と母のなれそめ。──この第十九章は序盤のハイライトとも言える内容です。「八郎と和美の出会い、もう一度読みたいな……。あれは確か……」と思ったらこの章に立ち返って下さい。第二十章、従兄の次朗さんの批評。そしてここで、実に常軌を逸した位置ではありますが、献辞・注釈・奥付が挿入されます。第二十一章、第十九章の続き。第二十二章、第二十一章の続き。第二十三章、第二十二章の続き。この辺はそれぞれ「八郎を自室に運び込んで乱暴する和美。」「意識を取り戻す八郎。」「八郎の下僕化。」と言った風な内容。第二十四章、わたしの前世。第二十五章、前世の記憶。第二十六章、第二十四章と第二十五章取り消し。第二十七章、文学論文への批判。ここからしばらく──第二十八章から第三十五章までは、読書感想文のコツやらサンプルが載っています。この自伝で最も無茶苦茶な展開ではないでしょうか。わたしの人生に全く関係ありません。自分でもなぜここにそんな物を挿入したのか、意味不明すぎて少し驚いているくらいです。大変新鮮な気持ち。第三十六章、和美の積極性。第三十七章、八郎の消極性。第三十八章、わたしと魁斗くんの聖夜計画。第三十九章、和美と八郎の聖夜計画。第四十章、クリスマス・イヴまでの経過。第四十一章、運命の夜。この章は群を抜いて長々しい章でして、原稿用紙で優に六十枚を超える文量(※二〇〇六年七月三十日現在。適宜更新予定)の内に様々な事件が発展するのですが、詳しい梗概は面倒くさいので省略します。第四十二章、従兄の次朗さんとの会話。第四十三章から五十三章、第四十一章を読むのを頑張ってもらったのでしばらく短い断章を続けて一休みしてもらうのも読者サービスのうちです。このうんこやろう! 第五十四章、八郎と和美が瞬間的であれ相思相愛になったきっかけ。ここで、献辞・注釈・奥付もそうでしたが、正気を疑う場所に最終章がお目見えします。第五十五章、最終章を書いた原因。第五十六章、熱に弱いセイ子ちゃん。第五十七章、如何にして肉親を容赦なく観察する冷徹な眼を養ったかを自己分析した私論、原稿用紙換算四十枚。第五十八章、京都の街の様子。第五十九章、四季別京都の混雑識別。ここまでのあらすじ、ここまでのあらすじです。



これからのあらすじ
 お待ちかね、春情にさかった八郎と和美が組んず解れつ情炎を燃やします。セイ子ちゃんがランちゃんと出会います。現代の読者が文学に求める物はセックス&ヴァイオレンスだと聞きましたので、暴力的な描写もします。妊娠が発覚して八郎と和美は結婚をします。八郎が浮気します。一九八九年十一月五日にわたしが誕生します。それ以降──病院に親戚が見舞いに来たりわたしがすくすくと成長していく様子は第三部で詳述する予定です。



第六十章
 和美が八郎の上になって肉食獣のようにかぶりついていきます。和美は八郎のアレが大好物でした。アレが何かって? アレとは、バナナ…ではなく、キュウリ…ではなく、ナス…ではなく、ニンジン…ではなく、大根…ではなく、苦瓜…ではなく、アイスキャンディー…ではなく、ロリポップ…ではなく、ソフトクリーム…ではなく、きりたんぽ…ではなく、つくね…ではなく、ウインナー…ではなく、ホットドッグ…ではなく、フランクフルト…ではなく、牛肉の心臓…ではなく、頭を伸ばす亀…ではなく、毒牙で噛みつく蛇…ではなく、コックコックと首を上下させるニワトリ…ではなく、変幻自在にうねる象の鼻…ではなく、背中を這い回る毛虫…ではなく、土の中を潜るミミズ…ではなく、蜂がお尻から出して人を刺す針…ではなく、髭の生えた龍…ではなく、幻の珍獣ツチノコ…ではなく、控え目にくっついている足…ではなく、腫れ上がった指…ではなく、下にくっついている舌…ではなく、海のギャングのウツボ…ではなく、ぼってりとしたナマコ…ではなく、アワビを切り刻む包丁…ではなく、斬る刀…ではなく、断ち割る剣…ではなく、刺すナイフ…ではなく、突く槍…ではなく、殴る警棒…ではなく、叩く棍棒…ではなく、打つ角材…ではなく、ピュッピュ飛ぶ水鉄砲…ではなく、放たれる矢…ではなく、撃つピストル…ではなく、一掃するマシンガン…ではなく、発射するバズーカ…ではなく、照射されるレーザービーム…ではなく、爆発するダイナマイト…ではなく、落とす爆弾…ではなく、突進する魚雷…ではなく、飛んでいくミサイル…ではなく、母なる宇宙に向けて打ち上げられるロケット…ではなく、夜間飛行に離陸するジャンボジェット…ではなく、空に咲く花火…ではなく、ローセカンドサードトップオーバートップへと徐々に高まるシフトレバー…ではなく、夜の交通整備にぶん回される真っ赤なコーンライトや、三角コーン…ではなく、闇を拓く懐中電灯…ではなく、血気の走る電信柱…ではなく、感度良好のアンテナ…ではなく、バイブレーター機能のある携帯電話…ではなく、コンセントに差し込まれるプラグ…ではなく、カーッと熱を出すランプ…ではなく、先端に火の点いた松明…ではなく、白い煙を吐き出すタバコ…ではなく、吸えば液体が出てくるストロー…ではなく、勢い良く水を噴くホース…ではなく、畑に水を撒くじょうろ…ではなく、ネコが目を背けるペットボトル…ではなく、乳酸菌飲料の入ったビン…ではなく、口に含むと歯磨き粉の出る歯ブラシ…ではなく、ピュッと点す目薬…ではなく、薬液を注ぎ込む注射器…ではなく、タプタプした薬を湛えた試験管…ではなく、黒板に白い放物線を描くチョーク…ではなく、すべすべした白い紙の表面を撫でる、先っぽの黒い鉛筆…ではなく、沼の深さを測る定規…ではなく、マグロを一本釣りする釣り竿…ではなく、ねじ穴にねじ込むドライバー…ではなく、貞淑の氷を砕くアイスピック…ではなく、筋骨逞しい大工が板に穴をこじ開けるキリ…ではなく、枝を突き出した大木…ではなく、巨大な石柱ではなく、真っ赤な東京タワー…ではなく、文化人の反対を押し切っておっ立ったエッフェル塔…ではなく、風向き次第でどちらへも靡く旗…ではなく、尻軽がスタンプラリーで集めるハンコ…ではなく、伸び縮みするチューブ…ではなく、管楽器奏者が吹く笛…ではなく、管の中に唾液の溜まるラッパ…ではなく、歌手が口を近づけるマイク…ではなく、天に掲げて掻きむしるギター…ではなく、頭の大きなこけし…ではなく、ホームランを量産するバット…ではなく、ホールインワンを決めるゴルフクラブ…ではなく、ポケットに落とすために球を撞くビリヤードのキュー…ではなく、Bullめがけて投げ込むダーツ…ではなく、次の走者に手渡すバトン…ではなく、妙に堅いスティック…ではなく、下肢を支えるステッキ…ではなく、黒光りする革靴…ではなく、差す時が濡れる時の傘…ではなく、錠にピタリと合う鍵…ではありません。アレはアレです。



第六十一章
 誰だって両親のヰタ・セクスアリスを想像するのは苦痛ではないでしょうか。若かりしころの彼らを知っているのならまだしも、目の前で生活しているのは老醜の体躯。そんなおじさんおばさんが、しかも肉親が、しかもしかも自分の素が、愛の褥で懇ろにしている場面など考えるだけで吐き気を催します。中には積極的に熟年愛への妄想に耽る性癖の人もいるかも知れませんが、わたしゃ御免です。
 以上、第二十一章からの丸写しでした。
 ここでちょっとアンケートです。丸写しだったことに気付いた人は居ますか。一人くらいは居るかも知れない。でも大多数の読者は「どこかで読んだような気もするなぁ」程度の違和感を識閾下で感じただけで、ほとんど気付かなかったのではありませんか。どうです。そうですか。結構。既に書いた文章を新しい章でリサイクルしてもお咎めを受けずに済みそうなので今後もちょくちょく再利用していこうと思います。
 それでは、本筋に戻ります。
 誰だって両親のヰタ・セクスアリスを想像するのは苦痛ではないでしょうか。若かりしころの彼らを知っているのならまだしも、目の前で生活しているのは老醜の体躯。そんなおじさんおばさんが、しかも肉親が、しかもしかも自分の素が、愛の褥で懇ろにしている場面など考えるだけで吐き気を催します。中には積極的に熟年愛への妄想に耽る性癖の人もいるかも知れませんが、わたしゃ御免です。ですから次の章では、わたしが魁斗くんと励んだ時の気持ちを思い出して書くことで誤魔化そうと思います。



第六十×章
 わたしは××くんと××な××××を××した。それは、本当に××な×のする××××××。彼の熱い×はナメクジのように××り、わたしの×や×××の上を××××り、××の奥まで××してくる。××を××××××と××られてくすぐったい。
 「××××・××××」という×××映画がある。××の×に×××がある女の話。彼女の気持ちがわたしにはよくわかる。××××を××るための×に、××××以外の、××××のを、××××なんて。なんて×××××ことだろう。なんて×××××だろう。
「××。××よおまえの××の××」
 ××くんは×を×し、いつくしむような優しい×でわたしを××めた。わたしは彼の×に×を×し、うっとりとその優しい×を××げた。×をとろとろに××されて、×も××げに×××と××ける。ふたりの×と×には、×を×××っていたなごりが、その××を残念がるような××が、×××のように××が×を×けた。
 わたしはもう、××くんを××たくて××たくてたまらない××に×××れた。
「わたしも、×××よ……。おいしい×××、××させて……」
 わたしは×××の上に彼を×××らせ、×××の××××を××した。モゾモゾと、×××の中から×××を×××そうとした。もう×××くなってるのが、××でわかる。
「すっごく×い……」
 ×が×××しちゃいそうなくらい、×いの。×××、×××と××ってるのがわかる。××を××たみたいな、とても××られないような、××の××。わたしの××××に××と××××いてくる。ああん……早く××××いたい。
 ××くんも×××ない様子で、×××を×××ごと一気に××した。××になる、彼の×××。その××に、わたしの×××が×××××ていた。×××の×が××に××たような、××い×××××な×××。×××にくっつくように××した×××。
 わたしは××くんの×××××をぢっと見つめた。×××××もわたしをぢっと見つめてきた。××を××××××××あげると、××のような××がますます×くなっていく。××××んだ。××××から、××して×××く×っていくんだ。
 もう、たまんない
「×××」
「あっ」
 小さな×××イ×を×げる××くん。やだ、わたし、×の×の××な××、××に×れちゃった……。
 引き続き、×を×で優しく××してあげながら、わたしは××に××をした。×××みたいな×が、××××にフィットする。××××と××××を××るよりも××する。まるで、×と×みたいに、×る×と××××られる×がピッタリ××感じ。つるつるした××が、×に×××いい。
 そのまま×××××××ってあげる。×××とした×××は、××の××。わたしのやらかい×××にビクビクと××してる。なんか×てきた。××××。×な×。こんなの、ほんとは××××だめだよね。だって××××する×から×てきてるんだもん。それを××××うに××××ゃうんだから、わたしってばすっごい×××……。
 わたし、今、どんな×××な×をしてるんだろう。だって××××お××××を×に×××るし、それで××××ってる! ××くんに××されないかな……。×××いで、彼の××を×××った。そしたら、彼も、××××さに×を×××ていた。×××ないぞっ☆ お互いに、こんな××は×の×には××られないと思う。こんな×、××に見られたら××××くって×××ゃう。お母さん、娘のこんな×を×たら、どう××かな……? そう××と、×い×してるみたいで、ますます××して来ちゃった。×××に×××が××してきて、×を×××て×××ない×になってる感じ。××くんは、そんなわたしの××な××を××××うに見つめている。すっごく××××い……。
 でも、だって、××××んだもん。この×××××××××んだもん。わたしは××深くまで××えた。××××に×××っと××る×の×の×××。×の×で×××い×が×ってる。×××××××してやると、×××はますます×く×く×くなって、×の×を×××る。わたしの×××で××××××になった×××は、×を×られたように××××。
「××××。××××よぉ……」
 ×きた×××××を×××××××ながら、わたしは×の××んだ×で××くんを×た。彼も××そうな×でわたしの×××××を××っている。××××いんだね。わたしも××××よ。
 ××くんの××はわたしの×××に×××ていた。あんまり××××からついつい×××が××されちゃう。わたしってば××××みたい。もしくは×××。大人の女とは思えない××××は、わたし自身にも××だった。わたしって、こんなに××××だったんだぁ……。
 もう、×××××を××しちゃうくらいに××××す。××××××××、××な×を××ながら、×を××させる。×が××らないように×の×まで。××ることならこのまま×××××××たいくらい。
「×××。×××。クプ、クプ。×××、×××、×××、×××」
 ×を×すと、××××っと×を×く。ああ、なんて××××だろ。もう、××××なっちゃいそう……。



第六十三章
 伏せ字だらけで失敬しました。まるで戦時中の検閲済み文書もしくは戦後の墨塗り教科書みたい。「伏せ字だらけでほとんど読めない文章って刺激的でないかい」という小賢しい動機からああしました。本当は恥ずかしかったってのもあるんですけど。何か、自分の事となると書きにくい物ですね。私小説書ける人ってやっぱり凄い。田山花袋先生、略して田ま袋先生、リスペクトしちゃいます。
 さて件の八郎と和美ですが、わたしがバッテンだらけの体験談をシコシコと書いている間に本番前のウォーミングアップを一通りこなしてくれました。あまり微に入り細を穿っては書きたくない、ABCで言えばBに該当するアノ行為。これによって二人は意馬心猿を制しがたく発情しきって準備完了。八郎が自分の意志で動くという画期的な方法が採られた点から考えれば二人の初めての共同作業と言えます。さあ、ケーキ入刀です。



第六十四章
 エッチラオッチラ。(×64)
 Hooray!(×3)



第六十五章
 ランちゃんの居城から分泌される液はちょっと酸っぱいのですが、これは酸性だからです。BNSラジオの深夜番組でも「精の子は酸に弱い。強酸のおまんじゅうは弱い精の子を入り口で駆逐する働きがあります。しかし、コーラで洗えば大丈夫というのは幻想に過ぎないぞ」と放送していましたが、ここでもまた、ちょっとした入学試験があるわけです。誰にでも門戸が開放されているのではありません。少しでも強靭な遺伝子がランちゃんとの結婚に当選する確率を高めるための、処刑を兼ねた選考会です。工場の熱暴走が書類審査だったとするとこの硫酸風呂は筆記試験だと言えましょう。
 第一次オーディションをパスしたセイ子ちゃんの仲間たちも、約半数がこの第二次オーディションで次々に脱落していきました。一億二千万もいた競争相手が一気に半数近くまで削られました。厳しい採用テストです。
 セイ子ちゃんたちは皆一様に押し黙ったままランちゃんの芳香を頼りに暗黒の海を遡上していきます。熱く滾る酸性の波が次々に同胞を殺していきます。死屍累々、精虫の骸がそこら中の水面に浮かぶ険しい競泳大会です。
 セイ子ちゃんは先頭集団に遅れること六百五十秒にして運命の分かれ道へ差し掛かりました。ここでは行く先が二股に別れていて、右左どちらの隧道ずいどうを選ぶかによって天国行きか地獄行きかが決まります。
 先頭集団がまごついています。ランちゃんはたった一人。双子ではありません。右の道左の道両方に君臨しているのではなく、右か左どちらか片方にしか鎮座ましましていません。どんなに泳ぎ達者でもどんなに知恵者でも、ここで選択を誤れば目指すお相手には会えないのです。ランちゃんは一番奥地に引き籠もっていますので体力は片道分しか持ちません。「こっちには居なかったから、あっちだ。戻ろう」なんて気易く逆走は出来ません。一発勝負。行き着く先はお相手の待つ王宮か、はたまたハズレの空き部屋か。運も実力の内ということですね。
 勇猛果敢なのが左へ先陣を切ったというのでそれ続けとばかり多くの者どもが吶喊の声を上げながら左へ流れていきます。しかし、右へ頭を向ける連中も少なからず存在します。 セイ子ちゃんは分岐路に留まり少し思案しました。
「もし大方の予想通りランちゃんが左で待っていたとしても、あの数の猛者たちと雌雄を決するのはリスクが高すぎる。せっかくランちゃんに会えても最終試練で敗退する可能性は大だ。それなら、こっちに賭けよう。」
 イチかバチか右を選びました。そして読者の皆様お察しの通り、右側が正しかったのです。
 工場出発時には一国の人口ほどもウヨウヨしていた同胞たちでしたが、今ではもう、小さな集落の人口ほどしか辺りには泳いでいません。それも、厳しい環境や極度の疲労から、間を置かずどんどん死んでいきます。あちこちで景気良く臨終を迎えていきます。精も根も尽き果てたといった感じで野垂れ死んでいきます。
 すっかり少なくなった同胞たちと、セイ子ちゃんはヘトヘトになりながら約束の地を目指しました。その目指す先には──神々しいまでの美を備えた巨大な球体・ランちゃんが待ち構えていました。ついに最終テスト・面接試験を迎えたのです。
 既に百匹ほどが最後の死力を振り絞り、ランちゃんを覆っている透明な固い膜を溶かし始めています。ランちゃんは音無き声で受験者に語りかけます。
「ようこそ、はるばるあたしの元へ。ここまで辿り着けた方々は、みんなとっても立派。でも、残念ながら、あたしと契りを結ぶ事ができるのはたった一人。ただ一人のみ。さあ、あたしと結合するのはどなたかしら?」
 セイ子ちゃんも大急ぎで外壁壊しに加わります。この地に至るまでの道中で負ったダメージで死ぬほどクタクタでしたが、今が先途とばかり固い殻をガリガリと削ります。
 ライバルたちのほとんどが懸命に膜を掘り進んでいますが、中にはその様子を静観している者もいて面接会場は一種異様な雰囲気に包まれています。ランちゃんの中心部へ掘り進むレースには参加せず周囲でたゆたっている連中、こやつらは油断がなりません。せっかくの最後の大勝負にどうしてやる気のない態度をしているかというと、これは単なる応援団などではなく、いざ膜が破れるその瞬間まで体力を温存して置いて、あと一掘りという瞬間にごっつぁんゴールを決めようとしているのです。たとえばある者が「ハァハァ、だいぶ掘ったな。おかげでここの壁はかなり薄くなってきたぞ。やった! もう少しだ!最後のラストスパートのためにちょっとだけ手を休めよう……」疲れて動きが鈍くなったと見るや否や、油断に乗じてその工事現場を奪おうと狙っている不届き者です。
 セイ子ちゃんはそういう駆け引きは眼中に置かず一心不乱に掘り進みました。この頭が、ランちゃんの深奥に届くまで、指の骨を砕き、痛みに歯を食いしばり、血ヘドを吐きながら、強固な城壁を掘り続けました。
 何か、柔らかい物が触れた気がした。と、同時に、ランちゃんを覆っていた透明な膜は「ピシッ」と音がして全体が不透明となり、一遍にダイヤモンドのように堅くなりました。誰かが、ランちゃんと結合したのです。こうなると他の連中はもう一歩も掘り進められません。敗北を認めて失意のうちに衰弱死するのを待つばかりです。
 そう。我らがセイ子ちゃん、というかわたしのセイ子ちゃんが、このレースの勝者となったのです。長く険しい地獄を抜け、厳しく危ない煉獄を通過し、此岸に至る切符を手にしたのです。おめでとう、セイ子ちゃん! おめでとう、あたし! 一件落着、めでたしめでた……あれ? セイ子ちゃん、膜の外で、嘆きの壁にもたれかかるようにして絶望してる。ん?
 すみません。こいつがセイ子ちゃんだと思ってずっとカメラを回していたのですが、どうやらその隣のが本物だったようです。ずっと間違えたまま描写してました。取り返しの付かないミスです。
 しかしこう考えると、やはり生命の誕生っていうのは奇跡ですね。生まれてきただけで、その人は偉い。今こうして生きているわたしだって現今考え得る限り最高の状態で世にデビューしたわたしです。多少の熱や酸にはめげず、遠泳にへこたれぬ持久力もあり、卓越した決断力と強運もある、倍率一億二千万倍という天文学的数字の試験に合格した超エリートのセイ子ちゃんが礎となったわたしです。
 この瞬間──セイ子ちゃんとランちゃんが合体したこの瞬間こそが、この世にわたしという存在の生成された初めでした。ここまでは二親の叙述に甘んじて来ましたが、ここからは主人公のわたしが幅を利かせられるということです。さあ、わたしの時代です。



第六章
 本来ここには「第六十六章」が来るはずです。然るにどうです。第と章の間の数字は六です。第六章です。しかしこれは脱字ではありません。第五章と第七章──そう、第四十一章でお願いしたのでしおりか指が挟んであると思いますが、あの第六章をこの第六章と差し替えて戴きたいのです。
〔そういう作業を読者に強いるのはお門違いだよ。物語作者が推敲の段階で行なうべきだ。〕
 それはプルーストに言って下さい。『失われた時を求めて』はもっと読みやすく組み立て直せって。それに、わたしは物語作者じゃないですし。そりゃわたしだってこの第六章を第五章とあの第六章の間に挿入するのが最善策だとは思うのですが、そうなってくると元あった第六章を第七章と改めねばならず、順次後続の章番号を書き直さねばなりません。それは面倒くさいのでどうかご協力願います。──だって第七章が第八章になり、第八章が第九章になり、第九章が第十章になり、第九章その二が第十章その二になり、第十章が第十一章になり、第十一章が第十二章になり、第十二章が第十四章になり、第十四章が第十五章になり、第十五章が第十六章になり……そう、大変な労力を費やさねばならないことは想像に難くないでしょう。そんなのは真っ平御免です。それでもやれば出来ないことはなさそうですが、やりません。その理由は面倒くさいからです。それから、いわゆる「意識の流れ」として思うままに描出してきた自伝の妙味を人工的な整合によって味気なくしてしまうのは惜しいからです。そら、例えばミュージシャンが自身のコンサート音源に「ここちょっと演奏失敗したから編集でゴマかそう」とばかりオーヴァーダビングを施しておきながら、いざアルバム発売の際には「この新作は混じりっけ無し純度百パーセントのライヴ録音でござい」と喧伝するようなものですよ。
 さて。第五章の続きとして、料理の話なんかよりも打ってつけの素材が出来しゅったいしたのでここに真の第六章として記しておきます。
 わたしはロレンス・スターンを好むのに負けず劣らず夏目漱石も愛読しています。特に『トリストラム・シャンディ』と同じく尾か頭か心元なき事海鼠の樣な文章である『吾輩は猫である』は座右の書です。──紙幣としては新渡戸稲造や福沢諭吉の方が好きですが。──わたしとは正反対に、父は紙幣のナンバーを記録するという奇癖のために、夏目漱石の印刷された千円札を最も寵愛しましたけど、その実「漱」の字すら書けません。
 美学者の迷亭先生は疾うの昔に物故した正岡子規と無線電信で肝胆相照らしていたそうですが、数日前わたしは夏目先生とチャットをしました。チャットというのはインターネット上でリアルタイムのおしゃべりが出来るシステムです。そのログをここに公開しようと思います。
【わたし】どうも!
【漱石】やあよく来られたね。
【わたし】ちょっと死んでみました。
【漱石】まアお上がり。
【わたし】お邪魔します。……思ったより殺風景な場所なんですね、白玉楼って。
【漱石】で、何の用だい。
【わたし】実はまあ、先生の講演録を読みましてね、それについて二三お訊きしたき事ぞありけるに……。
【漱石】どの講演かね。
【わたし】ええと、『文藝の哲學的基礎』ってやつですね。
【漱石】それは又だいぶ苔むした物を読んだな。
【わたし】へへ……。
【漱石】誉めちゃいない。
【わたし】その講演録にですね、こう書いてあったんです。「人間としてもつとも廣く且つ高き理想を有した人で始めて他を感化する事が出來るのでありますから、文藝は單なる技術ではありません。人格のない作家の作物は、卑近なる理想、若しくは、理想なき内容を與ふるのみだからして、感化力を及ぼす力も極めて薄弱であります。」と。憶えてらっしゃいますか。
【漱石】もう憶えちゃいないよ。しかし今でもそう思うさ。
【わたし】やはり人格・品性がなければ、立派な作品は書けないのでしょうか。
【漱石】書けないだろう。
【わたし】わたしはこう見えてなかなか人格がありませんが、立派な作品が書けますでしょうか。
【漱石】書けないだろう。
【わたし】人格の方面から修行した方が宜しいのでしょうか。
【漱石】いや、それも無駄だろう。
【わたし】どうして。
【漱石】どうしてもこうしても、まず君には人格が無いのだが、それは君の手落ちではなく、君の魂が、人格の宿るべからざる心の器をしているからだ。修養が足らんからではない。君の場合は幾ら禅を組んでみたって放心してただ座ってるだけになる。馬に念仏を説くようなものだ。有り難い功徳を折角注いでも注いだ傍から流れ出てしまう。
【わたし】じゃあ、ダメですか。どうしたってダメですか。
【漱石】お気の毒だが駄目さね。
【わたし】わたしはそんなに人格を欠いておりますでしょうか。
【漱石】車夫相応だあね。
【わたし】自分ではなかなかの淑女だと思っておりますが。
【漱石】さっき君の方で人格がないと白状してたじゃあないか。
【わたし】あれは謙遜です。本当は三国一の傾国だと思ってます。
【漱石】冗談を言って、からかっちゃいけない。痘痕面の僕が言うのも難だが、君、相当器量がないぜ。
【わたし】外見の話じゃありません。品性の話です。外見だって中の上です。
【漱石】君が淑女なら監獄は貴族の吹き溜まりだあね。君が中の上なら山出しの醜女も東京に浮き名を流せるさ。
【わたし】何をおっしゃいますか。礼を失するにも程がありまする! 先生といえども容赦しませんよこの野郎!
【漱石】わかった、わかった。
【わたし】わたしは夏目先生を尊敬しておるのです。もっと可愛がってあげて下さいよ。
【漱石】尊敬するのはそっちの勝手だ。可愛がる義理は無い。
【わたし】先生は、伊藤博文と福沢諭吉、どっちが偉いと思いますか。
【漱石】やに唐突だな。どっちもどっちだが、福翁だろう。
【わたし】なぜですか。
【漱石】なぜって、文章を残したもの。
【わたし】同じ事を言いますね。
【漱石】同じた何だ。
【わたし】と申しますのも、どっかの誰かも同じような事を主張していたのです。博文より諭吉の方が偉い。なぜなら文章を書いたからだ。って。
【漱石】妥当な所だろう。伊藤侯が偉いったって、フワフワする地位に安んじて一時的に嬉しがっていたに過ぎない。文章は名文なら作者が死んでも不朽だもの。
【わたし】ヘン、文学の、何がそんなに偉いんですか?
【漱石】どういう料簡だ急に威張り腐って。
【わたし】文学の、何がそんなに、偉いんですかっ!
【漱石】無闇に偉ぶってはいない。強いて言うなら、その創造性と、文化貢献だ。
【わたし】創造性? 豆腐屋だって充分創造的ですぜ。文化貢献? 橋を架けたり道を敷いてる政治家の方がよっぽど文化貢献をしてますよ。文学以上に。
【漱石】選良ぶって私腹を肥やしてるだけだ。大した事はしちゃいない。岩崎も同じ事だ。
【わたし】書斎に籠もってばかりで、現場を見ずに、なぜそう断言できるのですか。それで真実が見えますか? 事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!
【漱石】ふむ。なかなかいいな、その啖呵。
【わたし】今考えつきました。オリジナルフレーズです。見直しましたか。
【漱石】ちったあ見直してあげよう。
【わたし】青島ぁぁぁぁ! どうです。
【漱石】いや、今度のは意味わかんない。チンタオがどうしたって?
【わたし】そんな事はどうでもいいのです。ところで、先生はどれだけ偉いんですか。政治家や事業家をバカにしくさってますけど、作家がどれだけ偉いっつうんですか。
【漱石】失敬な女だ。
【わたし】作家が世の中で一番偉いんですか。作家になれなければ人にあらずですか。
【漱石】別に作家だからって偉くはない。ただ、俺は作家が天職だったのである。好きな仕事で渡世出来れば幸せな事に違いないだろう。
【わたし】文豪より社長の方が人生を謳歌してます。起業して、好きな事をして、売文稼業よりもお金を儲けています。作家なんか、人生を犠牲にして「芸術は人命よりも寿命が長い」と盲信している詰まらぬ存在です。悲惨です。
【漱石】盲信しているのは君だろう。悲惨なのは君の方だ。
【わたし】実はそうなんですよぉ。だから困っちゃう。どうすればいいですかね。
【漱石】失敬。眠いので落ちます。
【わたし】え。ちょっと。おい。
【漱石】(会話から退席しました)
【わたし】おーーーーーーーーーーい!!
 一方的にチャットを打ち切られたわたしは以下のような電子メールをしたためて霊界に矢文を飛ばしました。
「前略。話の腰を折るように忽然と姿を消してしまうのは人格に悖る不人情だと存じます。
 先生は文学は世の人間を感化するとおっしゃっていましたが、その結果が第二次世界大戦なのでしょうか。金権主義批判を布教啓蒙した成果が二十世紀の高度経済成長ですか。
 金に物言わす実業家連をあれほどまでに毛嫌いしていたのに、先生自体が紙幣になって彼らの手先となっている。皮肉なもんです。
 最後に。先生のフィギュアを入手しました。ダンディーでカッコイイです。草々。」
 返事は来ませんでした。 



第六十七章
 数字にこだわる八郎の娘であるという証明に、ここいらで数字ばかりの章を設けても良いのではないかと思います。文学の歴史から言っても前代未聞の試みというか、失敗するのが目に見えているので誰もやらなかった実験です。具体的にどうするかと言うと「41268ヨイフロハ10」形式の語呂合わせです。具体的には日本語の四十六音を数字に置き換えます。
 あ い う え お → 1 1 1 8 0
 か き く け こ → 6 9 9 3 5
 さ し す せ そ → 3 4 3 0 4
 た ち つ て と → 2 7 2 10 10
 な に ぬ ね の → 7 2 9 7 9
 は ひ ふ へ ほ → 8 1 2 6 8
 ま み む め も → 0 3 6 5 7
 や   ゆ   よ → 8   2   4
 ら り る れ ろ → 5 6 0 0 6
 わ   を   ん → 1   3   9
〔なんでそう読むのか想像もつかない数字がいくつかあるんだけど。〕
 確かに。解説が必要かも知れませんね。ある仮名文字がある数字に置き換えられるのは、どのような法則からなのか。以下にざっと書き出します。
あ→アン(仏)
い→いち(漢)
う→ウノ、ウーノ(スペイン、伊)
え→エイト(英)
お→英語のO(オー)に似ているから
か→待合い符丁6
き→きゅう(漢)
く→く(日)
け→げた(寿司屋)3
こ→ご(漢)
さ→さん(漢)
し→し(漢)
す→スリー(英)
せ→ゼロ(英)
そ→大工の符丁「そ」4
た→ふたつの「た」2
ち→チー(中)
つ→ツー(英)
て→テン(英)
と→とお(日)
な→なな(日)
に→に(漢)
ぬ→ヌフ(仏)
ね→待合い符丁7
の→ノイン(独)
は→はち(漢)
ひ→ひとつ(日)
ふ→ふたつ(日)
へ→いろはにほへと、6番目
ほ→ボーセミ(露)8
ま→記号の○(丸)に似ているから
み→みっつ(日)
む→むっつ(日)
め→めのじ(寿司屋)5
も→漢字の七に似ているから
や→やっつ(日)
ユ→数字の2に似ているから
よ→よっつ(日)
ら→数字の5に似ているから
り→リュー(中)6
る→待合い符丁0
れ→れい(漢)
ろ→ろく(漢)
わ→ワン(英)
ヲ→数字の3に似ているから
ん→漢字の九に似ているから



第六十八章
 1534゙3、6110038゙、2゙14゙412゙。22゙4、591534゙8、
「10゙970874796」
 9、025192510゙816009。09018、3919971413、192ー721010゙、782941010910゙、1534゙951、4210103。
「0248、874976゙03、6614042」
 106、
「7891043042」
 1011、8159104109、1534゙10゙3。
 1534゙8、192ー721010゙、456゙0441。22゙4、192ー72102、66010105103、4900、12410813009。694゙8、156゙72、7040441。63゙6415108゙8、0101392、13399、692975108゙2、70410090441。
 8゚45965、749021932425、2゙510゙3。3゙06゙8゙003。891゚210゙、3゙9514142、690441。

【110218353゙375……】
 1726゙28、110゙3733、2102240441。0107909791106゙、1638、732゙32゙9230910074゙10゙、1726゙29、312゙192゙98、64゙893(1828゚3)10゙3。45゙01017126340441。6601010510221410、1717、49097010゙693、15040441。
 01072、
「497510745719?」
 10、07000810゙、851075803。67(7934571、101113)10゙108゙10810゙、6011100721075806510゙3。10゙7、19061828゚1982゙52゙4。1839゙010、
「4178965、867041051」
 101001040103。

【4゙31609゙94゙2091094281】
 1726゙28、
「69゙62532611098、619゙4141041」
10、752283゙10゙3。16871951、59゙0010103。408、63゙6415108゙10゙、10239(10239)10118210゙3。
 7910゙、1534゙3691098、98592ー6゙486゙2101010563、2939、4416140441。102393、0714゙92゙9、64140441。



第六十九章
 何のことやらさっぱり判らない数字の羅列となりましたが、己の無謀なるチャレンジに別段の悔いはありません。あれだけ数字がズラズラ並んでいたら誰だって何となく面食らうではありませんか。読者を少しでも驚かせられればそれでわたしの欲望は充分に満足させられるのです。
 さて、第六十九章ですが、この章に特別な趣向は何もありません。ほのかな期待を抱いていた向きにはそのご要望にお応えできず心苦しい限りです。
 先に進みます。



第七十章
 セイ子ちゃんとランちゃんの合体によってこの世に存在し始めたわたしでしたが、もちろんまだ人間としての形には生成されず、単細胞生物としてのスタートです。グロテスクな姿からアメーバや魚類の過程を経て徐々に人間らしい姿へと成長していきます。生物が歩んできた数億年に及ぶ進化の歴史を、十ヶ月の間に駆け足で成し遂げます。この十ヶ月が非常に密度の濃い十ヶ月となることは当然の理です。
 ここで論説をぶちます。「一年間とは生きて来た時間の何パーセントか」を主眼に据え、「加速する時間」について独自に考察してみます。
 一歳にとって、一年間は全生涯の百パーセントです。超貴重です。百歳にとって、一年間は全生涯の一パーセントです。屁みたいなもんです。
 一年間は、誰にとっても八千七百六十時間です。宇宙的時間は公平です。しかし、各人が感じる時間の重さは異なります。一歳にとって一年間は人生の全て。むちゃくちゃ長い時間です。対して、百歳にとって一年間なんてあっちゅー間。軽い時間です。
 そんな〝一年間〟を数値に直してみました。計算式は「百÷年齢」です。これで、「一年間は、今まで歩んできた人生の何パーセントか」が弾き出されます。当然、一歳にとっての一年間は「百パーセント」です。百歳にとっては「一パーセント」になり、二十歳にとっては「五パーセント」となります。
 わたしたちには一歳の記憶が無いのが普通ですが、赤ん坊の身体の成長ぶりを見れば、彼らの一年間はいかに重要かがよくわかります。子どもの頃は一年間が長く感じたものです。いや、一分一秒が常に濃厚な時間でした。
 わたしは今、十七歳。一年間が全生涯に占める割合は五.八八パーセントです。対して現在四十八歳の我が母の一年は二.〇八パーセント。わたしは母に比べて二・八二倍も凝縮された時間の中に居ます。母が一年間歩くすきに、二年十ヶ月走っている。
 しかし、小学校の頃、年の重さが二ケタだった頃に比べたら軽くてたまらない。わたしは九歳の時より二倍早い時間の中に生活しています。言い換えれば九歳が一年間活動する間にその半分しか動けない……。宇宙の時間の流れは共有しているのに、九歳と十七歳の体験する時間には大きな物量差があります。
 また、こんな考えも出来ます。寿命を五十歳とすると、わたしの余命は残り何年でしょうか。──あ、母にもうすぐお迎えが来るって意味ではありませんよ。計算しやすいという理由で「人間五十年」を選んだだけですから、他意はありません。
 十七歳における一年間の重さを五.八八とし、寿命を五十歳とする。この前提条件で余命を計算するには次のような手続きを踏みます。
 一、十八歳から五十歳までの「百÷年齢」を全て求める。(大変です)
 二、算出された数値それぞれを全て足す。
 三、二の計算結果を、十七歳の「百÷年齢」五.八八で割る。
 こうすれば余命が算出されます。果たして、あと何年、生きられるのでしょうか。
 5.55+5.26+5.00+4.76+4.54+4.34+4.16+4.00+3.84+3.70+3.57+3.44
+3.33+3.22+3.12+3.03+2.94+2.85+2.77+2.70+2.63+2.56+2.50+2.43
+2.38+2.32+2.27+2.22+2.17+2.12+2.08+2.04+2.00=105.84
 105.84÷5.88=18
 五十歳までに残された時間が「三十三年ある」と考えるのは大間違いであります。十七歳にとっての「一年」を尺度にすると、五十歳まで、十八年しかありません。そう、十八年しかないのです。
 楽しい時は時間が流れるのが早く、苦しい時は時間が流れるのが遅いのは常識です。それに、物心の着く時期がいつであったかによっても時間の感じ方は異なって来るでしょう。でも、それでもこの議論は有意義なものだと思います。「まだ時間は残されている」という怠慢を戒められるからです。主観的な時間はどんどん加速しているのです。
 全生涯に比して「一年間」はどれくらいの割合を占めるのか。それは齢を重ねるごとに少ない割合となっていく──つまり軽くなっていく。誕生前の十ヶ月が誕生後のどの十ヶ月よりも重い意味を持つのは明々白々皓々たる事実です。ですから、伯父の次郎さんのように「一九八八年十二月二十四日の夜から一九八九年十一月五日の未明までおまえは母親のお腹の中で未分化の状態で、人間の形も成していなかったな」などと軽蔑しないでもらいたいものです。無為徒食の十ヶ月を過ごしていたのでは決してないのです。
 わたしの記憶は母の妊娠七ヶ月あたりから始まります。ですから、セイ子ちゃんとランちゃんが邂逅した瞬間──自分史において最も重大事件であるこの黎明を覚えてはいません。それどころかその後およそ二百十日間にも及ぶ長い日月の思い出が剥落しています。物語の主導権は最早完全にわたしに移譲したのですから、父母中心ではなくわたし本位の記述に終始一貫したい所です。しかしどうにもこうにも覚えていないのですから仕方がありません。憾みの残る所ではありますが、外界で大風の吹き荒んだこの二百十日間を叙するには、やはりもう少し八郎と和美のことを書いていかねばならぬようです。
 うーん、胎児時代を本格的に書き始める前に、ここらで八郎と和美の出会い、もう一度読みたいな……。あれは確か……そうだ、第十九章だったな。
第七十一章
 明日



草稿その一
 八郎の浮気。 
・母には決して言えないことだが、和美の妊娠→八郎、性欲を持て余した。
・身内の恥を天下一般に向けて公にするのは甚だ苦痛ではありますが、田山花袋先生大好き愛してる、自然主義に則って綴る自伝ですので窮屈な想いを無理に押して忍従します。嘘偽りの無い所を克明にしていかなければならないでしょう。
・お相手は同僚の嫁さんの弟の嫁さんの妹
・浮気。女に対する男の征服欲は、ビールに渇する如し。最初の一口目、そのうまさに歓喜するためには、汗水垂らす労働も厭わない。しかし二口目からは──一口目のような感動はない。ただ惰性だ。最初から最後まで、一口目のような風味喉ごしのビールがあれば、人は喜んでビールジョッキばかりを干すだろう。しかし事実はそうではない。そのようなビールは未だない。だから人は焼酎も飲むし、ワインも飲むし、日本酒も飲むし、カクテルも飲むのです。八郎の浮気もすぐに終わりました。



草稿その二
 キリスト・ブッダの劇的誕生。それは後世の肉付け。
 九郎判官・沖田総司・三杉くん。体が弱い天才少年たち。
 人が一生のうちに成せる事はわずか。ほとんどの人が何も成せぬまま死ぬ。ニュートンはリンゴの落ちるのを見た。ワシントンはサクラの枝を折った。わたしは自伝を書いた。(人生を書くための伝記だが、伝記を書くための人生)



草稿その三
 五円玉を釘で壁に打ち付ける話をしましょう。
 わたしの友達は、お釣りとしてもらった五円玉を、その都度自室の白壁に釘で打ち付けていました。壁一面を五円玉で埋め尽くす計画ですが、左上から順番に打ち付けているので、右下はまだ埋まっていません。一枚一枚丁寧に打ち付けてあるのでコインの向きは一定です。整然としています。しかしそのために、微妙にずれているコインが目立ってしまう。裏表や向きなどがバラバラならば何もおかしくなかったでしょうが、全体としての統一感が災いして一点の穢れとなっているのです。コインとコインとはほぼ隙間無く並べられているため今さら一枚だけ直すのは大変な手間。しかも釘で打ってあるため取り返しは付きません。
 なぜこの挿話を紹介したか。それは、何か縁起が良さそうだったからです。わたしにとって、この作品にとって、そして、この書を手に取る人にとって。この本を手にすることで金運アップ! となれば、読者のみなさんのためになりますし、それが評判を取って本が売れればわたしもラッキーです。



解説
 以上が、おそらく二〇〇六年の夏に書かれたのであろう、みっちゃんの自叙伝『トリストラムに恋をして』第二部の、発見できた文章の全てです。みっちゃんのご冥福を慎んでお祈りします。

二〇一〇年 羽鳥次朗



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